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そのきゅう

5 折花と縁羽




「あんた! なんか! 生まれてこなければよかったのよ!」


 殴打。暴力。虐待。


 九十九笠美にとって娘とは、ただのサンドバッグだった。


 理由は何でもよかった。折花がいつもの時間に起きなかった。折花がいつもの時間に帰ってこなかった。折花が作った料理がまずかった。うまかった。テストでいい点数をとった。きれいに掃除した。


 どんな行為だろうと暴力を振るう口実となり、論理なき選択はさらに笠美を堕落させていった。


 家にいて酒を飲まない日は減っていき、ついには常時“悪魔”が顕現する状態になってしまった。


 アルコール中毒。


 酒に依存して心身ともに堕落し墜落した笠美はそれでも、酒を止めない。殴るのを止めない。


 その理由の一端には折花の変化があった。


「何よ……何なのよ、その目は! 私をそんな目で見るな! ムカつくんだよ、お前!」


 今まで何の感情も浮かべず、なすがまま笠美を受け入れていた折花が、ある日を境に反抗的な目つきで睨みつけるようになった。


 反抗よりも、憎しみか。


 折花が反逆してくるようなことになれば更なる力によって押さえつけることができる。より厳しい折檻によって芽生え始めた反発する心を完膚なきまでに叩き潰すのも楽しいだろう。


 だが、折花は目つきこそ変わったものの、何の行動も起こさない。なすがままにされ、傷つき、倒れ伏す。


 それでも眼光だけは、鋭く。


 射抜くように。


 射殺すように。


 そんな折花の様子にある種の不快さ、不気味さ、笠美の言葉で言う「ムカつき」、本心では暗さを帯びた眼に「怯え」、「脅え」、逃げるために常にアルコールを入れるようになった。






 目覚ましがなくても決まった時間に目が覚める。以前は目覚まし時計があったのだが、朝帰りでアルコールの抜けない笠美によって破壊されてしまった。ついでのように折花も蹴られた。それから折花の体内時計は正確に起床時間を告げるようになった。おかげで遅刻の心配がない。


「別に、誇れるようなものじゃないけど」


 同世代の子の中には母親に起こしてもらう家庭もあるだろう。折花は羨ましいと思ったことはないが、自分の家ではありえない、どこか別の世界の出来事としか感じていなかった。


 折花の母では、絶対にありえない。


 折花の母、笠美は昨夜から家に帰っていない。彼氏のところに泊まっているのだろう。店の常連である「ヨシくん」は最近笠美とよく会っているようだった。何度も食事に誘い、お泊りも珍しくなくなった。折花も何度か会ったことがある。笠美よりも年上で、四十代半ばの男で、貿易業に従事しているという。かなり羽振りがよく、ごてごてとした指輪をいくつも嵌めて高級な腕時計を着用していた。もしかしたらその「ヨシくん」が父親になることも決して無視できない可能性にまでなっている。考慮の内に含めなければならない、懸念のある事態だった。正直なところ、本当の父親以外の人間を「お父さん」なんて呼びたくないと考えている。だけども自分の気持ちなんて一切顧みないで結婚する時は結婚するんだろうな。


「あー、嫌な気分」


 頭を振って憂鬱な考えを散らす。せっかく今は“悪魔”のいない朝なのだから、わざわざ暗く沈む必要はない。


「最近、お母さんに会ってないな」


 代わりに“悪魔”が現れる時間が長くなった。


 しかし、折花は対抗する力を手に入れた。


 憎しみの力、“ファントムペイン”。


二週間前にあの男に教えてもらったこの力が、今の折花を支えていた。


 いつでもあの“悪魔”を殺せる。しかしながらそのためにはまだ憎しみの力が足りない。確実に抹殺するにはもっと鍛錬が必要だと感じている。少なくとも、人間大の大きさの物を切断できるくらいの力が欲しい。


憎めもっと熟成させろ混濁させろ妥協するな確実に仕留めろ何の禍根も残さず成功させろ一切合財を切り裂け。


「……いけない、そろそろ学校に行かなきゃ」


 思考を強制的に遮断し、登校の用意を済ませて外へ出る。「にゃー」に挨拶でもと思ったが「にゃー」の姿はなかった。


 学校での生活は可もなく不可もなく。


 積極的に関わってくるのは縁羽くらいなもので、他の生徒は不必要なことでは干渉してこないでくれている。静かなのが好きな折花にとってはありがたいことだ。


 “悪魔”によってつけられた傷が目立つところにつき始めてきたので、心配した教師が声をかけてくる。


転んでぶつけただけです、と無難な答えを返すようにした。


 学校での予定を全て終了し、後は帰るだけ。縁羽に声をかける。


「今日も……いいの?」


「ええ。早く帰りましょう、縁羽」


 対抗手段を得てから縁羽との放課後の秘め事は必要がなくなった。折花が憎しみをぶつける相手は縁羽ではない。


「ねえ……折花ちゃん。最近おかしいよ」


 縁羽は鞄を持ったまま立ち止まる。


「……おかしい?」


「あれだけあたしにぶつけてくれたのに。あれだけあたしを頼ってくれてたのに。……そんなに痛そうな痣があるのに。ここのところ全然してくれないじゃん。どうして? あたしじゃ物足りないの?」


「……」


 正直に言うべきか迷う。あの男との出会いは確かに折花の内面を変えた。痛みを力に変えた。苦しみを憎しみに変えた。折花の唯一の理解者である縁羽には全てを知ってもらいたいが、・・これは持たない者には理解しがたいものだろう。何よりも、人として進化――あるいは退化――、変質してしまったことはたとえ縁羽だろうと知られたくない気持ちがある。


「……もしかして、我殿院って男と何かあったの?」


「え、縁羽?」


 どうして縁羽があの男の名前を知っているのか。そんな疑問を口にする前に縁羽はたたみかける。


「あの日……公園で見かけた次の日からだよ。折花ちゃんがあたしを求めなくなったのは。それまでは学校がある日は毎日やってくれたのに、折花ちゃんがお母さんにいじめられた次の日は必ずやってたのに、それがなくなった。痣があるってことはまだいじめられてるんだよね。じゃああの日、折花ちゃんに何かがあったってことだよ。あの男が何かをしたってことだよね?」


「縁羽、ちょっと落ち着いて」


 まだ人の多い教室、だんだんとヒートアップする縁羽の声に、クラスメイトが注目しだした。


「いや、あの男のことはどうでもいいのあんなのはただのモブでエキスコラで物語には何の干渉もない通行人Aに過ぎないの。それよりも折花ちゃんにとってあたしは何なのかっていう方が大事なの! あたしは折花ちゃんが大好き。折花ちゃんのためなら何だってできる。折花ちゃんがこのクラスの人間を皆殺しにしろっていうなら喜んで殺す。躊躇いなく殺すよ。折花ちゃんがあたしに死ねって言うなら歓喜の涙を流して首をかっきるよ。でもそんなことしたって折花ちゃんは喜ばない。折花ちゃんは望んでない。だからやらない。けれどわからないの。折花ちゃんが何を求めてるのか。折花ちゃんがあたしに何をして欲しいのかわからないの!」


 もっと声のトーンを落として欲しいと思ったが、唐突に明るい口調になった。


「ああ……そうかぁ。そうだよね、あたし、わかっちゃったよ。折花ちゃんが本当にして欲しいことが」


「何を言って……」


「うん、心配しないで。折花ちゃんは何もしなくていいの。全部ぜんぶ、あたしが引き受けたから。あたしには折花ちゃんが必要なように、折花ちゃんにもあたしが必要だってことを証明してみせるよ。さあそうと決まったら急いで行動しなきゃ。善は急げ拙速に動けさあ忙しいぞ忙しいぞ脳細胞を働かせ手足を回せ空が落ちる前に速く動いてミッションを完遂させろ。全ては折花ちゃんのために!」


 その名の如く煙のように消えた雲煙縁羽。


 彼女は笑っていた。


 壊れたような笑いではなく、あくまで自然に。何かがおかしいわけでもなく、何かを犯しそうな笑い。


 追いかけることができず、折花は立ち尽くすしかなかった。

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