そのご
3 我殿院
朝は貴重な安らぎの時間だ。
いそいそとブレザーに着替えて登校の準備を済まし、折花はひとりアパートの外にいた。
「にゃー」
折花が声をかけると、猫が生け垣の間を縫って出てきた。白い毛に黒ぶち模様のオス猫だ。もう子猫という大きさではなく、かといって老描でもない。首輪はないがどこかの家で飼われているのか、肉付きがよくきれいな毛並み。折花が手を伸ばしても逃げず、近寄ってきて頭をこすりつける。
「ふふっ。おはよ、にゃー」
『にゃー』は折花が付けた名前だ。本当の名前は知らない。
少し前からこうして『にゃー』と遊ぶことが朝の日課になっていた。だいたいいつも決まった時間に現れる。まれに来ない日があるが、そういう日は天気が良くない日が多い。
「こら、噛んじゃだめでしょ」
頭をなでて腹をなでていると『にゃー』は噛みついてきた。本気ではないと分かっているので優しく叱る。
この程度、食器を投げつけられるよりも痛くない。
この程度、酒ビンで殴られるよりも痛くない。
『にゃー』との小さな幸せの時間を楽しんでいると、アパートの前に車が停まった。ドアを開ける音で『にゃー』は去って行ってしまった。
「折花!」
血の気が引く。振り向くと母がいた。
「折花、昨日はごめんね! 痛かったでしょう?」
ああ、よかった。”悪魔”ではない。今は”お母さん”だ。
「ううん。お母さんも大変だっていうのは分かってるから」
「私もあんなことはしたくなかったのよ。でも、最近は仕事もうまく行かないし、お客とも喧嘩しちゃうし。やっぱりだめな母親よね。だからあの人に捨てられるんだわ。もう私にはあなたしかいないのよ。折花。ねえ折花。あなたは私のこと見捨てたりしないわよね?」
「大丈夫だよ。お母さんには私がいるから心配しないで」
「これから学校よね。気を付けて行ってらっしゃい。ちゃんと時間通りに帰ってくるのよ」
「うん。わかってる」
抱擁し、折花は学校へ向かった。
母・笠美はあわれな人間だ。
酒のせいで全てが台無しになり、うまく行かなくなるとまた酒をあおる。
酒を飲んだ母は“悪魔”だが、素面の時は“折花の母親”だ。折花が支えてやらなければ脆く崩れてしまう、弱い存在。
だから折花は見捨てることができなかった。
「成る程な。それがお前の心の闇ってわけか」
唐突に。
何の前触れもなく。
何の伏線もなく。
いきなり声が聞こえた。
「こっちだぜ、お嬢ちゃん」
声のする方、後ろを向く。
暗闇があった。
影が立っているのかと思った。
「黒すぎて松崎しげるかと思ったか? よく言われるぜ。俺は黒が好きでね。この黒いコートは特注なんだぜ。気に入ったモデルだったんだが黒色ってのはなくてな、無理言って作ってもらったんだ。かっこいいだろ?」
黒いハット、グローブ、ブーツと頭の先から足周りまで、全てが黒で統一されたファッションに身を包む男だった。黒以外の色といえば唯一露出している顔面くらいなものだが、目元は黒いサングラスで覆う徹底ぶりだ。
不吉だった。
「おいおい、そう身構えるな。俺はただ、お前と話しがしたいだけなんだぜ。九十九折花」
「違います。私の名前は田中彼方です」
間髪入れずに答えた。
「ははっ。逆立ちが得意そうな名前じゃねえか。折花でも彼方でもいい。名前はさして重要じゃねえんだ。お前がお前である。その一点が正しければそれでいい」
黒い男は笑った。
「何なんですか、あなた。警察呼びますよ」
「そいつは敵わんな。俺は警察とは相性が悪くてね。穏便に済ますためにまずは名乗っておこう。俺の名は我殿院留水。お前の味方だ」
いきなり現れて味方だという黒い男に怪しくない要素などなかった。踵を返し、足早に立ち去ろうとする。
「し――失礼します」
何よりも、あの男は不吉で危険な感じがある。決して関わってはならない、対岸から眺めることも許されないような忌避すべき人間だった。
「折花。もしもその治っているはずの傷の痛み(ファントムペイン)を何とかしたいと思うなら、俺の話を聞くべきだぜ」
「!」
振り向くと、そこにはもうあの男の姿はなかった。
黒い男――我殿院留水は何を知っているのだろうか。
不気味で、得体の知れない。だが、折花の知らない『何か』を知っている。
その日の授業は全く身に入らなかった。




