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そのじゅういち

 家までの道程を可能な限り全力で走り続け、アパートにたどり着く頃には息も絶え絶えだった。


 アパートの前には見覚えのある車が停まっている。「ヨシくん」が来ているのか。不本意ながら大人の男がいることに少しだけ安心するいくらなんでも女子中学生の縁羽に遅れをとることはないだろう。


 階段を登り、二階へ。近隣の住人は昼間はいないか空き部屋になっているので静かだ。


「…………」


 折花の家の玄関が開いている。


 扉の開閉を邪魔するように荷物が置いてあった。


 「ヨシくん」だった荷物はうつ伏せで、背中に包丁が突き刺さっている。苦悶の表情で手を伸ばし、血溜まりに沈んでいた。折花が近づいても反応がない。既に事切れているようだった。


 身体を跨いで家に入る。カーテンが閉められているようで薄暗い。生暖かい空気。鉄のような――血の匂いが鼻をつく。


「待ってたよ、折花ちゃん」


 電気がついた。


 そこはまさに、凄惨。


 食器は砕け酒瓶は割れ空き缶は捻じれ棚は引き倒され時計は刻まれちゃぶ台は粉砕衣類は下着すらも切り裂かれ、この部屋のありとあらゆるものが破壊し破壊し尽されていた。無事なのは今点いた電灯と窓。


 ゴミ山の中心にいる縁羽。


「あんまり遅いから待ちくたびれちゃったよ」


 ブレザーは血まみれ、赤く濡れた髪が顔にべったりとくっついている。


彼女は笑っていた。いつもと変わらない笑顔だった。


「…………縁羽」


 この惨状の犯人は縁羽。それは間違いない。だからこそ、縁羽に対してどういう感情を向ければいいのかわからなかった。


「お母さんは……どこ?」


 困惑を必死に押しとどめ、その一言をようやく搾り出した。


「――ああ、そのゴミのこと」


 縁羽が指差す部屋の隅。十リットルのゴミ袋がいくつか積み上げられていた。この家の掃除は折花がやっている。だからそれが生活で出たゴミではないことはすぐにわかった。


 何よりも。


 その袋は。




 赤いゴミで満たされていた。




「――ッ!!」


「その一番上の袋。頭はそこに入れといたから。会いたかったら開けてみるといいよ」


 普段通りに縁羽は言う。折花はふらふらと近づき、言われたとおり袋を開けて……嘔吐した。


「う……うええ、ゲホッ、ゲホッ」


 閉じ込められていた濃厚な血の匂いが立ち上る。


 みじん切りにされた肉片、細切れになった臓物の上に母・笠美の頭部が乗せられていた。


 右の眼窩に包丁がぶち込まれ、耳は削ぎ落とされ、鼻はへし曲がり、歯は抜かれ、舌は切り取られていた、母の顔があった。


「これでもう折花ちゃんをいじめる“悪魔”はいないよ。折花ちゃんを苦しめる“悪魔”は消えたよ。よかったね、折花ちゃん! これからはうちで暮らすといいよ。大丈夫、両親には口を出させないから。あたしが守ってあげるよ。だから、あたしのことを見て。あたしと一緒にいて。あたしのことを愛してよ、折花ちゃん。


 愛してる。愛して。愛してる。愛して。愛してる。愛して。愛してる。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛して。愛してるよ、折花ちゃん」


 愛。苦しい。痛い。“悪魔”。愛。包丁。愛。左腕。愛。治らない。痛い。痛い。愛。お母さん。あなたは私のこと見捨てたりしないわよね? 愛。愛。暴力。痛い。“幻の痛み”苦しい。縁羽。依存。愛。痛い。憎い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い苦しい苦しい苦しい。


 くだらない。くだらない。くだらない。




「うるさい黙れ」




 振り向いて、縁羽の顔を左手で掴む。


 力を込めると、皮膚が裂け肉を断ち、頭から血が噴出した。


 折花だけが持つ、特別な能力。


 斬り付けられた腕の痛みを周囲に撒き散らす、忌むべき異能。


 “ファントムペイン”。


「あの“悪魔”は私が殺すはずだった。この力を使ってね。そのために憎しみを蓄えていたのに、全部台無しだわ。なんてことをしてくれたのかしら。それに、お母さんは関係ないじゃない。私、お母さんのこと好きだったのに。殺すなんてとんでもないわ。どうしてくれるのよ。


 あんたなんか生まれてこなければよかったのよ」


 折花が手を離すと縁羽の身体がだらりと崩れ落ちる。頭から血を流し、動かなかった。惨状を生み出した張本人が惨状の一部に加わった。


「…………」


 何の感情もなく縁羽を見下ろす。バカな子。余計なことをしなければずっと親友でいられたのに。


 返り血を浴びた髪が鬱陶しく張り付く。


「邪魔ね」


 髪を束ね、肩口のあたりで“ファントムペイン”でばっさりと切り捨てた。ロングだった髪は短くなった。


すっきりとしたところで改めて室内を見渡すと、これをきれいに掃除するのはとてもじゃないが無理なことがわかった、血の跡や匂いは元より、三人も死んだなんてことが世間に知られないわけがない。ここでの生活は諦めて出て行くしかあるまい。


「お父さんを頼ってみようかしら。確か東北の方にいると思うから……暖かい格好していかなきゃ」


 血のついた制服のまま外に出るのはよくない。ゴミ山の中から着替えを探そうとしたが、一着残らず切り裂かれていることを思い出して、この分では他に使えそうなものはないだろうと見切りをつけて外に出た。


 来る時は気付かなかったが、植え込みのところで「にゃー」が血まみれで死んでいた。縁羽がやったのだろう。


「ごめんね、巻き込んじゃって」


 穴を掘って簡単に埋葬し、「にゃー」のために冥福を祈る。


 手を合わせていると、男がやってきて隣で同じように黙祷を捧げた。


「俺はネコ好きなんでね」


 黒い男、我殿院留水。後ろには白衣の白河夜船。


「くっくっく。ちょっと見ない間に雰囲気が変わったじゃねえか。実にいいね。今のお前なら何の問題もなく仲間にできるってもんだ。で、行くあてがないなら俺のところに来ないか?」


 我殿院は黒いグローブを外し、手を差し伸べる。


「是非もないわ」


 何の感慨もなさそうに、その手を取った。


 九十九折花はこうして自らの物語を閉じた。


 そして我殿院の眷属として、新たな物語を紡いでいく。


 それは世界に対する反逆であり、世間に対する批判であり、物語に対する加速だった。




 母に依存し、“悪魔”に依存され、縁羽に依存し、依存され。


 最後に既存の関係を切り捨てた。


 九十九折花の物語はそれで結構、異存なし。

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