そのじゅう
我に返り衆目に晒されていると気付いた折花は足早に教室を後にした。
昇降口で靴を履きかえる。多くの生徒の上履きが納められていて、下校したことを示している。その中には縁羽のものもあった。
思い出すのは先ほどの縁羽の様子。
「突然どうしたのかしら、あの子。構ってあげられなかったから拗ねた……ってわけじゃなさそうだし」
蜜事がなくなっただけで、他には二人の関係に変化があったわけではない。いつものように良好な関係を築けていたはずだ。それでももしかしたら、気付かないところで縁羽に迷惑をかけていたのだろうか。折花にとって縁羽は唯一にして無二の友人。友情関係の経験の薄い折花には感じ取れない不和があったのかもしれない。
折花には縁羽が必要で。
縁羽には折花が必要で。
思えば最初に接触してきたのは縁羽の方からだった。
『その傷、痛くない? よかったらあたしが治してあげよっか?』
折花が左腕を切りつけられた翌日、誰にも悟られないように包帯を巻いていたつもりだったが、体操着に着替えた時に血の滲んだ包帯を縁羽に目撃されてしまった。
『あたしが知ってるおまじないをかけてあげるよ』
花が咲いたような彼女の笑顔に、折花は思わず頷いていた。
その日の放課後、人気のないトイレの個室、縁羽に言われるがままに制服を脱いで傷跡を見せる。
『うわあ、ひどいね。きれいな肌なのにひどい傷だ。でも大丈夫だよ、あたしにまかせて』
縁羽は膝をつくとおもむろに顔を近づけ、傷口を舐めた。
飛び上がりそうになるほど驚いたが縁羽の小さな体躯からは想像できない力で押さえつけられる。
『安心して。あたしに委ねて』
赤い傷口に沿って縁羽の舌が這ってくる。ぞわぞわとした感覚が背筋を襲う。唾液が沁みて痛みが増す。
だが、縁羽の声には安らぎがあった。折花の心を包み込む、大きな母性。
折花が求めていたもの。
『終わったよ、折花ちゃん。明日にはよくなってると思うよ』
唾をつければ治るという民間療法があった気がする。胡散臭いものだったが、縁羽の言うとおり、翌朝腕を確認すると痛々しく赤い傷口がだいぶきれいになっていた。
それ以降、何かの折りに”幻の痛み”が起こったり、新たな怪我を負ったりする度に縁羽を求めるようになり、やがて苦しみを共有するための儀式を行うようになった。
互いに共鳴し、共存し、依存する。
二人の関係は互いが互いを必要とするものだった。
折花は縁羽に全てをさらけ出し、縁羽は折花の全てを受け止め肯定する。
だから、こうして縁羽が胸の内をぶちまけるなど本来絶無あり得ないことだった。それだけに縁羽が何をしようとしているのか想像もつかない。
「想像もつかないってことは――ないんじゃないのかな」
夕暮れの住宅地。西日と夜闇の境界。
影が立っていた。
「我殿院……さん」
「くっくっく。久しぶりだな、九十九折花。元気だったか?」
「ええ、お陰様で……」
突然現れた我殿院に少し警戒しつつ応え、彼の隣で佇む白衣の女に目を遣った。
「ああ、紹介が遅れたな。こいつは白河夜船。俺の腹心だ」
「どもー、我殿院さんの妻です。よろしくね、九十九ちゃん!」
「えっ」
「勝手抜かすな」
にこやかに手を振る夜船は折花よりも年上に、見えるが、それでもせいぜい二十歳前後といったところか。なのにセーラー服を着てその上に白衣を羽織る彼女も普通ではないのだろう。「おじさん」といって差し支えないような我殿院とのツーショットは親子には見えず、いかがわしい関係を匂わせるものだった。
「何か用ですか」
前回会った時は折花を仲間にするために来たと言っていた。少し警戒を強める。
「そう構えるな。お前に用があるってわけじゃない。ここで会ったのは単なる偶然だ。たまたまだよ、たまたま。何の作為もなく何の下心もなく運命も因果もないいんだ」
「そこまで言われると信用できませんよ」
「あったのは縁。会ったのは縁羽……だ」
ぴくり、と折花の眉があがる。
「縁羽がどうしたって言うんですか」
「雲煙縁羽。いい子じゃあないか。親友のために一肌脱ごうっていうんだから。こういうのを親切って言うんだな」
「それは、どういう」
親切。
親を……切る。
縁羽は折花のために行動しようとしている。では、この場合の「親」は?
「お母さん……!」
その不吉な予感に行き当たった瞬間、折花は駆けだしていた。
縁羽は母に何かしようとしている。恐らくは折花の望まない、最悪なことを。
「くっくっく。さあ、始まるぜ。事態は陰惨、事件は佳境へ。クライマックスは暗い、ってな」
我殿院の言葉は折花には聞こえなかった。




