そのいち
0 幻の痛み
痛い。腕が痛い。
ごめんなさい。
もう刺さないで。血が出てます。
もう斬りつけないで。骨まで痛いです。
痛い。
苦しい。
痛い。
苦しい。
いつまでも。いつまでも。
治らないのです。
1 到着
昼下がりのスーパーマーケットに場違いな黒い男が入店した。黒い帽子に黒いサングラス、黒いコート、足元は黒の革靴。全身を黒でコーディネートした、歩く影のような男はカゴを持つ。その姿を目撃した客は奇異の目を向けるが、男は全く気にした様子もなく鮮魚コーナーを目指した。刺身のパックを手にとっては戻し、手にとっては戻してしばらく見比べていると、単調な電子音が鳴り響いた。
「もしもし」
男がコートの内側から黒い携帯電話を取り出し通話に出る。男は携帯電話の機能に疎いわけではないが、着信音はシンプルにプリセットのまま使用している。その方が渋いと思っているからだ。
「夜船。俺はもう目的の町に入ってるぞ。お前は今どこにいる?」
電話の相手は若い女だった。男の仲間である女、夜船は定時連絡のために電話をかけてきた。
「……ああ!? どこだそれ! この辺の地名じゃあねぇな。お前、乗る電車を間違えただろ。あれほど慎重に行動しやがれと言い続けたのに全く聞いてなかったな。今日中にこっちに来られるんだろうな?」
女は慌てて婉曲し脚色しオブラートを何重にも重ねて言い訳を並べる。
「つまり……予定は狂うってわけだな。なんてことしてくれやがったんだ、このアホは。今日は刺身でも食おうかと思ってたんだがな、ひとりで食うことにするぜ。……お前の分も残しておけって? そんなことできるわけないだろうが。泣いたって無駄だ。己の愚かさを噛みしめるんだな」
男は携帯電話をしまうと再び刺身の品定めに意識を戻した。
マグロの刺身とコロッケパン、ペットボトルのお茶を購入してスーパーを出た。
「とりあえず……あっちだな」
この町に来たのは初めてで土地勘がなくても長く放浪生活をしていると大抵のことは経験則で乗り越えられる。適当に目測をつけて歩き出した。
今日はある人物を仲間に引き込むためにこの町へやってきた。事前に調べた情報では目標の人物は仲間になる資質を備えているものの、まだ条件を満たしていないようだった。男はその人物に接触して“覚醒”させ、仲間にする。その計画は夜船がミスをしたせいで早くも軌道修正の必要に迫られていた。
これから今日の寝床を確保しなくてはならない。本当なら夜船とともにいつも通り、いわゆるラブホテルに宿泊するつもりだった。あの手の場所は面倒な手続きが必要ないので二人で行動するときには重宝していた。男にその気がないから行為に及んだことはなかったが、夜船は雰囲気に飲まれやすいのか度々誘ってきては足蹴にされ、それでも懲りずに迫ってくるものだから次第に黙殺するようになった。
「今日はひとりだ。変に気を張る必要がないから気楽なもんだ。ネットカフェでもあればいいんだが……なければマクドでいいか。いや、関東ではマックと呼ぶのだったか。郷に入っては郷に従えとはよく言ったもんだ。無駄な諍いを避けるにはその地の慣習に合わせるべき。その言に従おうではないか」
久々にジャンクフードを心行くまで味わうか。しかし今しがた買った刺身ばかり。この二つを組み合わせるのは些か邪道が過ぎるというもの。
男は二秒ほど逡巡した後、刺身は公園かどこかで食べてからマックへ行くという答えを出した。
「そうと決まれば腰を落ち着ける場所を探さねば。……それから、この子のことも」
一枚の写真を取り出す。雑踏の中で撮られたもので、中心に写る少女が今回のターゲットだった。学校帰りなのだろう、紺のブレザーを着用していた。幼い顔立ちは小学生といっても通用しそうだが、どこか暗い、憂いを帯びた表情だった。
写真の裏には『九十九折花』と書かれていた。
それが少女の名前だった。




