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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(下)

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   ジャック=ブラッディ=ピエール


 ハイリア。

 彼の脱走を聞いた時、まず彼に付き従う少年少女らを思い浮かべた。

 あの子たちは、今どこにいる? 合流の適う位置にいるのか、あるいは……。


「名も無く、魔術も使えない男ですよ。しかも向こうからまたやってくる。神父も彼が英雄然と振舞うのは気に入らないのでしょう? 勝手に自滅するだけの男、お荷物一つ連れて、むしろ好都合と言うものでしょう」


 いささか的外れなことを言う坊っちゃんに、勤めて静かに言った。


「彼は敢えて逃がしたと」

「計画が多少狂ったことは認めましょう。あの場では彼が一手こちらを上回った」

「聖女の願いの成就を前に、いささか軽率ではありませんか?」

「これはアナタらしからぬ事を仰る。全ては聖女の手繰る運命に導かれているのですから、私の失態もまた、成就に繋がるものであり、困難は我々をより高みへ導く為の試練ですよ」


 それでも、思う。


「…………可能なら、彼はあの離れに繋ぎ止めておきたかったものですね」

「怖れますか、当代最強の『剣』の使い手とも言われるアナタが」

「彼個人は、おそらくまだ怖れるに値しない。新たな試練を背負うこの身であっても、敗北はありえぬ事でしょう。ただ――」


 目に焼きついているのは、あの日、槍を振り上げ叫んだ、あの姿。

 その後ろから続く、少年少女らの目。



「個人で無くなった彼は……人を背負った時の彼は、何をしでかすか計り知れない」



 不快そうに表情を歪める坊っちゃん。

 そう。個人の力量であれば、今やかつての彼を相手にしてもアナタが勝る。特殊な加護を受けるアナタは、単純な『盾』と『槍』の相性では図れない。故に私の目から見ても十分に勝ちを狙えるところにあると言える。

 けれど、集団を率いる力は、その差以上に隔絶しているのです。


 出来るのなら、安堵を与え、余裕を与え、個人のままにしておきたかった。


 しかし、まだ少数。


 あるいは、狙うべきは彼ではなく――


    ※   ※   ※


 だから囮であることに気付きながらも、そちらを仕留める事を優先した。

 突破を仕掛けるだろう場所は多少厚くしておいたとはいえ、おそらく抜かれてしまうでしょう。


 けれどここで、たった一人を切り捨てて進むのであれば、最早彼は怖くない。


 容赦はしない。

 進むのであれば囮の少年には確実な死を与える。

 助けに入るのなら……ここで無駄と知りながらやはり少年を見捨てず戻ってくるのなら、彼はここで動きを封じるべき人物だと考えましょう。聖女の降臨に際し彼の血は必要になることですし、両手と両足の指を全て切り落としてやればもう何もできないでしょう。


 さて。


 一度その姿は遠目に確認してありましたが、あの赤毛はおそらく黒色火薬で工夫された道具を使い私の半身をずたぼろにしてくれた少年でしょう。

 恨む気持ちなどはありません。えぇ。あるのはただ、聖女の降臨の力添えが出来るという喜びで、まあついでに借りを返しておくのもいいですか、などという遊び心一つ。


 しかしホルノスの王とハイリアを取り逃がした際、彼の手によって少なくない教団員が負傷し戦線を離脱している。

 魔術による交戦ではなく、ひたすら隙を狙うような罠の数々で。

 今回こちらが先に彼らを発見し、こうして陣取りつつも周辺の掃除は済ませてあります。以前ほど巧妙に罠を張ることは出来ないでしょう。ただ、普段のように魔術の反応だけを追っているのは危険。『弓』の術者が敢えて『剣』の術者に対して囮となったことは警戒に値する。


 彼はこちらの側面を大きく迂回しようとしているようで、凹凸の激しい地形を魔術も使わず踏破している。

 おかげで目視による確認が出来たのは一度きりで、正確な居場所は分からない。

 痕跡を十分に消していられるほどの余裕はないみたいですがね。


 鈴が鳴る。


 剣先にくくり付けた糸の先に、それはある。

 私は足を動かさないまま視線を落とし、鈴を取り付けた糸が、何か別の紐に触れている事に気付いた。


 おそらくはあえて泥で汚し、薄暗い森の中では目視しにくくしているんでしょう。


 いやはや、坊っちゃんに教えていただいたこの鈴が無ければ気付くことも出来ませんでしたね。


 しかし、今は魔術を使っている。

 私は一度糸を巻き上げ、懐に仕舞ってから、その罠を踏み抜いた。――軋む音を聞く。矢が放たれた。


 眼前で横薙ぎにへし折られたそれを掴み取り、光へ翳してみる。


「やはり……毒ですか」


 先端には何かの毒が塗られている。

 かすり傷一つが命取りになる、ということでしょう。

 ですがこの程度では。


「所詮は工夫。偉大なる聖女の加護に比べればさしたる事の無い力に過ぎませんね」


 今回はくると分かっていた。

 しかし、この程度なら不意であっても十分に対処が可能。

 そもそも教団の者で罠にやられたのは、『槍』や『盾』の術者か、魔術を使っていない油断のある時だけです。

 優れた『弓』の術者であればもっと早く、もっと静かに、同じことをやってのける。


 あまり時間はありませんよ?


 助けに来るなら、彼が死んでしまう前にお願いしたいものですね。


    ※   ※   ※


 進む。

 進む。

 足跡を追い、折れた枝葉を追い、木の幹にこびりついた苔の僅かな擦り跡を追う。


 彼が動き始めてから、その場所へ接近するまで十分な時間があったとはいえ、設置されていた罠の数は相当数に及んだ。

 無駄になったものがあると考えれば、よくここまで用意したものだと感心するほどで。


 惜しむらくは、それらを魔術によって実現できなかったことでしょうか。


 自らの分を示されているにも係わらず、道具に頼り、信仰を忘れ……なんとも悲しい事です。

 聖女に見限られた男に導かれ、彼もまた道を誤ろうとしている。本来であれば彼のような者を導くのが使命というものですが、これも運命でしょうか。


 余裕が無くなれば無くなるほど、設置に雑さが目立つようになってきた。

 最初は落ち葉などを散らして足跡を消していたのに、今はそれすらおざなりで罠の在り処が読めてしまう。

 ほんの僅かな時間稼ぎであると分かってきているでしょう。

 最早不意を打たれようと、設置や手口に工夫を加えようと、加護を受けた『剣』の術者に、魔術ですらない攻撃を当てることは出来ないのです。


 払う。

 掴む。

 避ける。


 視界の端に、直感に、僅かなしなりの音に、飛び出した矢が葉を貫き枝を掠めてくる音に、あるいはこれまでの設置の癖とでも言うべき並びの順番で。


 最早罠の回避など馬鹿らしくなるほど簡単に越えていく。


 油断はすまい。

 未だ仕掛け罠はあっても、あの時の火薬を使ってきてはいないのですから。

 そして彼もまた、次々と生み出される新しい考えを継承している筈。


 ――だが、姿を捉えた。


 木々の向こう、枝葉の先に赤毛の少年を見た。

 背格好も間違いなく彼だ。

 こちらの接近に気付き、距離を取ろうと逃げ出している。


 遠く、遠く、少しでも時間を掛けて、あの男を逃がすんだと懸命に。


 火の粉が舞い上がる。

 周囲を漂う赤の魔術光、炎のように揺れる奇跡の力を、瞬く間に超えていく。――足が、木の幹を踏んだ。眼下に少年の姿を捉える。


「さあ、追いかけっこは終わりましたが、まだ手は残していますか?」


 ほんの少し、間を取って周囲を確認した。

 彼は、来なかった。あるいは間に合わなかった。


 小太刀をくるりと手の中で回す。

 指先は滑らかに動いた。

 良い感触です。


 木の葉がひらりと舞い落ちた。


 赤毛の少年が振り返る。その背後に立った私に気付いているかも怪しい。浮いた衣が垂れ下がるその僅かな間、簡易ではありますが祈りを捧げる。この少年の運命が終わります、どうか最後は安らかでありますように。


「っ――!」


 息遣いが聞こえる。

 ですが最早遅い。


 断ち切れた木の葉が互いの足もとに落ちてしまったのだから。


「神父っ!」


 振り返るのは一拍置いた私と同時、ですが矢を番える彼と振り返る動きのまま剣を振るえる私とでは攻撃の出が違う。

 彼は前へ飛び出しつつこちらを振り返るべきだった。その動作に混ぜて矢を番えることが出来れば及第点。その場で接近戦を望む『剣』を相手に振り返るなど落第もいい所。ですが仕方のない事でしょう。彼はまだ若く、己の定められた『弓』としての力を磨くことよりも小賢しい道具に頼ったのですから。確かにかつて彼が見せた火薬による攻撃は強かった。それは認めましょう。ですがそれでは見誤る。己の運命を、到達点を、見誤ればより悲惨な末路が待っている。


 振り返った彼が手にしていたモノ。

 それは弓ではなく、どこにでもありそうな、旅の友としても扱えそうな、深めの鉄鍋で、


「――――」


 その鉄鍋の表面は紙か布で覆われていた。

 中に何かが詰まっている。何か――思考する間はなく、耳が確かにいつか聞いた音を、チリチリと何かが燃えていく音を聞いて――回避をとったまま振るった小太刀は、それ故に単調で、赤毛の少年は鉄鍋で攻撃を受け止める。


 音が至近で――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


    ※   ※   ※


   エリック=ジェイフリー


 火薬の量は何度も試して調節した。

 ハイリア様に教わった通り、爆発を包むようにして一方向のみ逃げ場を作れば、その威力はただ爆ぜさせるよりずっと高くなる。ただ爆発の威力そのものは実の所そう高くない。だから、その強烈な爆ぜる力で礫を打ち出す。

 やっていることは以前神父の半身を撃ち抜いたものと同じだ。


 本来はそれ様の道具も学園へ行けば調達出来た。

 けど、同時に道具というのはいつも必要なものが全て揃っているとは限らないから、常に持ち歩いているものから作り出せないかと考え出した人がいた。


 料理用の鉄鍋と、礫にはそれこそ転がっている石を詰める。地面に叩きつけて割ってしまえば十分凶器になるし、最悪木の枝なんかを大量に詰めても結構威力が出る。火薬を詰めておく入れ物は罠をつくるより簡単で、大きな葉で包んで導火線をかませるだけでいい。後は鉄鍋の上を布で覆ってやれば礫は漏れず、相手からすると咄嗟に何を狙っているのか分からない。


 音だけはどうにもならないから、爆発の光と合わせてしばらくこっちも動きが鈍くなる。

 けど、やることだけははっきりしているから、必死になって意識を繋ぎ、一歩を…………


「接近を避けている筈の相手が容易にそれを許す。力量差があるとはいえ、一度してやられた相手に油断するほど、私は甘くありませんよ?」


 踏み出した足が、ガクンと、膝から崩れ落ちる。


「第一に、アナタは私の攻撃を受け止めるべきではなかった。咄嗟の行動でしょうが、それで鉄鍋の向きが本来の狙いから大きく逸れ、私に回避を許した。第二に、アナタ自身が爆発による衝撃を支えきれていない。爆発した直後、防御の為に伸びた腕が支えきれず鍋の口が更に逸れた。第三に、攻撃を当てようとするあまり、爆発を直視してしまっている。回避する側はそれを優先しますが、直視したアナタに比べれば随分と目が楽ですよ。まあ、音はそれなりに堪えましたし、まだ少々耳鳴りで聞こえ辛いのですが」


 這い進もうとした眼前に剣が突き立てられる。


 神父は出来の悪い教え子を相手にするように苦笑いして言う。


「どうして出てきたのですか。アナタが敵うと本気で思ったのですか? 力もない、才もない、運命に導かれてすらいない、本来であればこの世に名乗りをあげることさえ出来なかった筈の、ごくごく普通の少年が一人…………何故出てきてしまったのですか」


 うるさい……。


「教えてさしあげますよ。――アナタには何も出来ない。その力の弱さが全てを証明している。分相応に振舞っていればこんなことにはならなかったでしょうに」


 うるさい……。


「これも彼の影響でしょう。最早力無き男、生かしておくのは……アナタのように惑う者を増やすだけ」


 うるさい……、うるさいっ。


「ご安心下さい。すぐに彼も送って差し上げましょう」


 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっっっ!


 秒を数えているのに静かにしていろ!!


「神父」


 呼びかけに反応は薄い。

 なにか言われたと、それが分かる程度。


 計算通りだ。

 狙った通り、彼の耳を封じた。だから聞こえない。ここがどこなのか、どういう位置なのか、分かっていない。


 兎狩りをする人間が兎の逃げる先を警戒なんてしない。

 ただ、逃がさない為にどう追い込むかを考える。

 逃げられないこと。そればかり彼は考えている。

 仮に追ってこなかったのなら、それこそ囮として成功だ。


 罠への警戒心は、ここまでで随分弱まっただろう。

 対処可能と、決め付けた。

 耳が聞こえなくなったことの意味まで気付けない。

 自分に攻撃が届かないことを彼は相手の未熟故と考える。

 圧倒的に上位だから。思わぬ反撃ですら楽しむ余裕を持てるから。


 『弓』の紋章を浮かび上がらせる。

 身体が少し軽くなった。

 神父は何を今更と眺めている。多少の警戒は勿論あったのだろうと思う。けれど魔術という、明らかな攻撃の手段を前に、彼の注意は僕へ集中した。攻撃がくるのだろうと、その警戒をするだけで。


 仰向けになって放った矢が、木の上の仕掛けを発動させる。この位置、分かっていたんだ。どうぜ僕は勝てない。神父と対峙した時、地に伏しているのは僕だって、分かっていた。だからこの周辺に仕掛けを置いた。立っていた位置から倒れこむだけのここに、これだけはしっかりと編んで作った縄を用いてる。

 僕の放った矢が木の枝にくくりつけた大岩を吊り下げていた縄を断つ。落下する岩にもまた別の縄があり、それは大きく迂回する形で僕の掴んだ縄と繋がっていて、落下することで引き寄せられたそれは、僕を一気に神父から引き剥がして狙いの位置まで導いてくれる。あんまりにも乱暴な方法だけど、『弓』の魔術による加護があればなんとか意識を保ったまま着地するくらいは出来た。

 そこは凹凸の激しい地形でも小さな崖を背にする位置で、予め『槍』の力で十分な安全位置を確保してある。


 ……さん…………に…………いち…………ぜろ!!


 崖上から岩石が、大木が、木々を薙ぎ倒しながらなだれ込んでくる。


    ※   ※   ※


   ジャック=ブラッディ=ピエール


 なるほどと、ようやく自分が追いかけてきた場所を知る。


 ここは、我々が半包囲によって待ち構えた時、彼らが足踏みするように留まっていた位置から麓へ降りていった場所なのですね。

 私を引き付けるのが目的だと、時間稼ぎが関の山と、彼の力量故に決め付けてしまっていた。

 いえいえ誘導の可能性も考えてはいましたが、ハイリア……彼が現れないことで本当に悪あがきなのだと、例え現れたとしても対処出来るという考えが目を曇らせた。


 呆れるほどの物量、とにかく重量物を詰め込んで坂を転がり落としたという様子。


 抑えていた仕掛けは、おそらく火薬で吹き飛ばした。火薬本体に火を点けるだけなら、枯れ木の先端に火をつけて末端に火薬を置いておくなどで十分に時間の調整が出来る。専用の何か、道具を用いていたのなら正確に導くことは可能、だと考えうる。

 また至近距離での爆発によって耳を奪い、落下してくる激しい音を耳鳴り故の雑音と勘違いさせた。いえ、私自身あの強烈な音を耳にし、極度の興奮状態にあったことは否定できない。

 もしかするとあれらを支えていたものも、同じ間で爆発させることで隠したのかもしれない。

 相手が見せるすべてが攻撃であるという思い込み。

 耳を奪い、また光で目を眩ませる。舞い上がった煙も思っていた以上に濃く、二重に視界は塞がれた。

 火薬というのは思っていた以上に厄介なものなのでしょう。


 ふと近くにある木を仰ぐ。

 しかし崖上の木々まで薙ぎ倒されている以上、それに乗ってやり過ごすことは出来ないでしょう。踏んで逃げようにも呆れるほどの規模。これから少数での突破を仕掛けるというのに、張り切ってくれたものですね。赤毛の少年が逃げ込んだ場所へも最早間に合わない。



 いやはや………………無駄な工夫を重ねたものですね。



 聖女の加護を。

 『剣』の紋章が強く、赤の魔術光を放って輝く。

 乱雑に、複雑に、濁流のごとく押し寄せる岩石、大木、さらには土砂。

 それらをこの目で確かに見て取った。

 踏み出す一歩は静かに、試練を背負うこの身ではありますが、


 激しく回転する岩を踏み、つっかえて縦回転する大木を少し屈んで避け、跳躍する前から始めていた反転で更に岩の背を蹴って前へ。

 飛び散る小石や枝は存外に危険な様子。ですが問題ないでしょう。この程度、『盾』の守りの上を歩くのに比べれば、小川の砂利を進むに等しい。ふらりと地上へ降り立ち、一息つく間さえある。跳んだ直後にその場が多い尽くされようとも、次の足場は確保できる。


 もし……もし、この手を受けたのが並の使い手であれば。

 ですがつまらない仮定。ここに来たのが私であるのだから、それこそ導きによるものでしょう。

 多少の驚きはありました。

 何かが違えば負傷に繋がったことでしょう。


 しかしそうはならない。


 聖女の導きに従う私と、拒絶した彼。

 結果などそれで分かりきっていた事。


 ただ心配だったのはハイリアという男の存在。


 彼は最後まで現れそうにないですね。

 いえ、最後などというものは、とうに過ぎ去っていたのですけど。


 そう、彼はもう――


「おや?」


 なだれ込んできた岩や木々を越えていった先、あの赤毛の少年の姿は、すでに無くなっていた。


「…………逃げられましたな」


    ※   ※   ※


   エリック=ジェイフリー


 駆け込んだ物陰でゆっくり息を整える。

 右足から血が滴っている。斬られたからだ。興奮しているからか痛みはさほどでもない。けどつま先に力をかけようとすると不意に力が抜けたようになり、立っているのも難しい。幸いにもかかとで地面を踏めば走ることは出来る。通常ならきっと出来ないだろうけど、『弓』は『剣』に次いで身動きに強い加護を受けるから、多少危なっかしくてもなんとかなった。

 傷口は足の甲の側面、具体的に何を斬られたかは分からないけど、靴を脱いで、とにかく手拭いで傷口を押さえる。

 直接圧迫止血法、とかいうらしい。


 靴は綺麗に甲の部分が切られているけれど、このまま履いていくことは出来ると思う。

 やっぱり、あの神父は僕が考えている以上に怖ろしい。斬られているのに、倒れて、今こうして目にするまでそのことを自覚するのも難しかった。ただ上手く動かないから、工夫して走っては来たけれど、どちらかといえば足を挫いてしまったのかと思ったほどに。


「すぅ…………はぁ…………」


 とにかく落ち着くこと。


 僕は出血している。

 神父が猟師みたいに僅かな痕跡から対象を追いかけてくるかどうかは、ここまでで十分測れた。きっと彼は血の跡を追ってくる。あれだけ周囲がめちゃくちゃになってたってお構いなしだ。けど、初動はかなり遅れるはず。

 だから時間はある、落ち着いていこう。


 ハイリア様はきっともう教団の包囲を抜けている。

 今日の深夜を回るまでに、どこまで逃げられるかが勝負だ。


 傷口から手拭いを離してみて、最初ほどの勢いがなくなっているのが分かると、僕はあらためてキツく縛り上げる。


 これで血はそうそう漏れ出さない。

 後は誘導するまでの間やってみせたように、痕跡を残しつつもっともっと引き剥がす。

 もうさっきみたいな仕掛けはない。罠を設置しようにも準備が足りない。あんな川の氾濫じみた罠も難なく超えてくる人を相手では、この状況にまで至った時点で設置時間に対して稼げる時間が吊り合わない。余計に相手を近づけるだけならやらないほうがいい。あれは彼が余裕を持って進んでくるから、その遊び心とも言える油断につけこんだ時間稼ぎが出来て初めて意味のあるもの。


「……ははっ」


 でも、ちょっとだけ嬉しくもある。


 別に僕一人で考えてきた方法じゃない。

 殆どが、いつかハイリア様抜きで、それこそヨハン先輩とか、一軍の人たちのように戦いに長けた人が居ない状況でもあの神父を抑え込めるようにと皆で考えてきた方法だ。倒すことは出来なかったけど、時間稼ぎとしては十分過ぎるくらい効果を出せた。


 それがやっぱり、誇らしい。


 ハイリア様の考えを発端に、先輩たちと、クリスティーナさんとか、皆で練り上げたものがあの化け物みたいな強さの神父を相手に効果をあげている。

 僕たちにも出来る。戦える。力が無くとも、知恵を集めて、手段を研ぎ澄まし、反復練習でその準備や手順を正確に早く行っていくだけでいい。

 反復練習なら僕にも出来る。

 不安や疲れで足を止めるようなことがあっても、皆で集まってやろうとすれば、日々の鍛錬を怠ってしまうような僕でもとりあえず始められる。そこから初めて、ただの習慣にしていく。朝起きて顔を洗うように、繰り返す時間を当然のものにすればいいんだ。

 一人ではないから。

 一緒にやってくれる人がいるから。


 後はもう逃げ切るだけでいい。

 時間は稼いだ。距離もある。教団がここで陣取っていた理由がそうであるように、あそこを越えてしまえば追跡が困難になる。王都にはまだ少し遠いけど、それなりに大きな都市があるから、十分姿を眩ませられる。僕はこのままメルトさんの指示通りに反対側へ抜けて合流すれば――


「………………………………………………………………………………………………なんで」


 身体が動かない。

 崩れ落ちた感覚もない。

 視界は急激にぼやけてきて、そのことを上手く感じ取れない。


 ずっと…………ずっとそのまま、僕は呆けていた。


 けれど不意に頬を濡らす暖かな感触と、背筋がピキピキと凍りついていくような感覚と、血の匂いを感じ取った時、ようやく理解した。



 あぁ、僕はとうの昔に斬られていたんだ。



 あの神父を相手に上手くやれているなんて考えが甘かった。

 何かの仕掛けを巡らせて、不意を打てるなんて考えが甘かった。

 僕とあの人くらいの力量差があれば、ただ突っ込んで斬る、これだけで十分なのに。

 だから僕にはいつ斬られたのかさえ分からない。


 凍えていく。

 自分の中にある大切なものが、凍えて、縮こまって、ひび割れていく。



 駄目だ。


 駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だっっっっ!


 あの人に背負わせちゃいけない! 自分が信じて、押し出した背中が、その先で呆気無く転んで、終わってしまうなんて事を、認めさせちゃいけない!


 僕はここまで来た! ただ周りについていけないって、皆と言葉を交わしもせず、態度や雰囲気に都合良く辞める理由を見出そうとしていた僕がっ! 心から頑張りたいって思って、口に出すのも怖かった目標をはっきり言い放って、やるんだって、失敗した悔しさと恥ずかしさに向き合えるようになったんだからっ!


 まだ終わってない! 僕は死んでいない! 生き残れば勝ちだ。あれだけの人を相手にして生き残れば、それだけで百万の苦難とつり合える!


 生き残る。絶対に死んだりなんてしない。血を流すなっ、患部を調べて、出血を止めて、身を隠して、ゆっくり、一つずつこなしていけばいい。死んでたまるもんか。生きて、また会うって約束したんだからっ! 



 だから、だからまだ――


    ※   ※   ※


   ジャック=ブラッディ=ピエール


 地には這い蹲ってもがいていた赤毛の少年の背に剣を突き立てた。

 引き抜けば、それでもう動かなくなる。


 空を仰いだ理由を探すのは止めにする。


 終わったのですから。

 彼はここで運命を終えた。


 教えもある、教示に照らせば、そして私自身の考えもまた、彼は憐れで愚かな迷い子であったと締めることは出来る。


 ですが今だけは、敬意を示しましょう。

 これほどまでに懸命に、誰かへ尽くし命を散らした少年を、ただ尊敬したい。  

 彼が居なければ、この挺身無くして切り抜けることは敵わなかった。


 さあ。


 彼は示した。

 未だ名も知らぬ、けれど立派に運命を果たした少年によって繋がれた未来を、貴方はどう描くのですか。


 急いでください。


 でもなければ私はこれから、貴方が背負うべき子らを、この手で散らし続けますよ。


 最後に、ふらついた身を支えるべく樹へと寄り掛かり、僅かばかりの休息を取った。

 幸いにも、見ている者は居なかったようだ。






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