82
アリエスがずっと幼い頃、塞ぎこんでいた時期があった。
幼い頃のアリエスはとても活発で、あらゆることに興味を持ち、身分や出自などになんら頓着しない、ただの優しい女の子だった。
ウィンダーベル家で飼育している馬車馬の一頭が身篭り、その出産に立ち会うことを、我が子の教育と考えオラントが認めたのもごくごく普通のことで、しかしそれが想像を超えて彼女に影響を与えたことは、大きな誤算だったろう。
子馬は、生まれながら脚に障害を抱えていた。
胎内に居た時から拙い姿勢になっていたようで、生まれたその場で立ち上がりこそすれ、長時間立っていることが出来ず座り込んでしまうのだ。
通常、馬は寝る時でも立ったままだ。座ることは出来るが、馬の身体は長時間座ることに適していない。身体が重すぎて座っていると足の血流を圧迫してしまうし、横になっていても皮膚が炎症を起こし、症状は悪化する。遠からず立ち上がれなくなり、短い生を終えるというのは誰の目にも明らかだった。
ショックを受けたアリエスの為に、大きなフラワーガーデンが作られた。
古今東西の珍しい花を集め、財を惜しまず投入したそこは、まさにこの世の楽園とも呼べるほど美しい光景をしていて、呆れると同時にこれならばと思いもした。
だが、ガーデンが作られて半月も経った頃、思いつきか何かで早朝にそこへ訪れたアリエスが見たのは、庭師が小さな花や形の整っていない花を間引いている現場だった。
朝から勉学に起き出していたハイリアがそれに気付き、駆けつけた時には、思わぬ叱責を受けた庭師が良かれと思ってアリエスに間引きの理由を説明している所だった。
より美しい花を咲かせるには、すべての花に栄養を与えていてはいけない。美しくなれる花に少しでも栄養を渡すことで、ほら、この花はこんなにも綺麗に咲き誇っているじゃありませんか。たしかにこの素朴な花を切り落としてしまうのは悲しいと私も思います。ですが、切り落とすべき花を切れなければ、あるいはこの根元に生い茂ってくる雑草を引き抜いてやらなければ、いずれ花全体が枯れてしまうこともあるのです。
決して悪意はなかったろう。至極全うで、真面目な庭師だったと思う。彼なりに幼い少女への気遣いも、拙いながらあった。
だが切り落とされ、ゴミとして麻袋へ詰められている花々や雑草を悲しげに見るアリエスへ、ハイリアは庭師に頼んで小さな植木鉢を用意させ、まだ根の生きている花を一輪植えて彼女に与えた。
とても嬉しそうに、あるいは、我が子を得た母のように、大切そうに抱き締める姿を今でもはっきり思い出せる。
子馬は奇跡的にも生存を続けていた。
まるでアリエスの願いを聞き届けるように、不恰好ながらもゆっくり駆ける姿さえ見せた。
熱心に厩舎へ通い、時折その身に触れ、食事を手ずから与えさえして、子馬の様子を見守っていた。ただ、フラワーガーデンにはあまり近付かず、自室の窓際に飾った、歪で中々大きくならない花をじっと眺めている姿をよく見かけた。
アリエスを心配するオラントの言を受けて、ハイリアはようやく熟達し始めてきた乗馬での遠乗りに彼女を誘った。
気付かれないよう遠巻きに護衛を配置して彼が向かった先は、開けた高原一杯の花畑だ。
今まで見てきた作り物の花々とはまるで違う、思い思いに、我がままに咲き誇る一面の、無数の色で自らを主張する花畑を前に、アリエスは心から喜んでくれた。
駆け出したくなるのをぐっと堪え、花畑の手前で膝をついて、一輪一輪を丁寧に眺めていく。
指先で触れ、顔を近づけて香りを愉しみ、ふっと息を吹きかけて揺れるのを見て笑う。
「おにいさま、ありがとう。わたし、ここがすき。いろんな花が、いろんなかたちで、ちからいっぱいさいているのがすき。ありがとう。おにいさま、だいすき」
アリエスは飽きもせず、ずっと花を眺めていた。
フラワーガーデンでは即座に根ごと処理されるような雑草や花も、周りの小さな草花のおかげで大きく成り切らないけれど、弟か妹か、なんて考えてしまうほど仲良く寄り添っている、どこかあたたかな雰囲気を感じる花々も、整えられた世界ばかりを見てきたアリエスには想像だに出来ない光景だったのだろう。
「これがすき。これがいいの。わたしは、こういうけしきをつくる貴ぞくになるっ。あのこも、きっとわたしがこうしてみせるっ。ねえ、おにいさまっ」
けれどその夜、子馬はぐったりと力無く横たわったまま、息絶えてしまった。
きっと大丈夫だと、眠っているだけだからと言い張って近くに居続けようとしたのを母が無理に引き剥がしてしまったのも悪かった。アリエスは自室に引き篭もって、ハイリア以外の誰とも会おうとしなくなった。
泣きじゃくる彼女になんとか食事を与えながら、ゆっくりとハイリアはアリエスへの愛情を深めていったのだと思う。
この優しい少女の目を、決して曇らせてはいけない。流れる涙は星の煌きに等しい。流星に願いを託すが如く、尚も流れ落ちる涙を止める為、叶わぬ願いを叶えよう。告げる言葉などなく、たった一人、己自身へ誓ったのだ。
そしてまず、子馬の墓を作った。
あの花畑を背にした場所に、遺体や道具は大人たちに運んでもらったけれど、二人で掘った穴に子馬を埋めて、土を掛けた。
そしてアリエスの部屋にある植木鉢から、決して気付かれないよう、どこから入り込んだのか芽を出し始めた雑草を引き抜き、廃棄した。
この花だけは枯れさせてはいけない。そう思った。
花畑には時折護衛を伴って墓参りへ行き、貴族としての勉強を続けながら、年齢的にそぐわないと理解しつつも魔術の習得を望んだ。
少しでも多く、彼女を守れる力が欲しかった。
自分の運命が決まってしまうことなどどうでも良かった。
代々ウィンダーベル家の血族が習得してきた『弓』の使い手を表すフィンの名は得られなかったが、王国では古くから高貴なる魔術と詠われる『槍』を習得したことで、義父からはロードの名を新たに与えられた。これらフィンやロードの名は、代々ウィンダーベルの本家のみに名乗ることが許されている特別な称号で、ようやくハイリアは自分が受け入れられたのだと感じることが出来た。
しかしハイリアもまた、幼さから抜け切れてはいなかった。
大貴族の令嬢が度々通う場所がある。
そこは令嬢自ら望んだ為に出来うる限り自然をそのままとし、しかし大きな何かを埋めた痕跡がある。
それは墓だと、どこかから話が漏れた。
太古より、権力者の作る墓には常に金の匂いがあった。
昔からウィンダーベル家の領地であり、実体はさほど価値が無かった為に放置されてきた場所であるにも係わらず、一度思い込んだ者たちにとって広大な花畑は、大貴族の隠し財宝を守る為のカモフラージュにしか映らなくなったのだという。
運悪く、アリエスとハイリアは、彼らが墓を暴いているその瞬間に遭遇してしまった。
通い慣れた場所故の油断もまたあった。護衛の居ない、二人だけの時間を望んだアリエスに、ハイリアも時折こっそり屋敷を抜け出すようになっていた。
すっかり腐敗し切っていた子馬の遺体が乱雑に散らばっているのを、アリエスはどう捉えただろうか。
力任せに花畑を掘り返し、無残な光景に作り変えていた男たちは、彼女の悲鳴を聞きつけた。
大外れを食らい、そして一度は見付かったと慌てた彼らが、せめて貴族の子どもから適当な小遣いでも巻き上げようとしたのは、浅はかではあったが利口だった。人質にとって身代金など、オラントの過去の所業を知るのならそうそう打てる手ではない。今なら子ども二人。名も、顔も、誤魔化しが効く。不思議なことに護衛もない。
さした苦労もなく適当に金目のものを奪って逃げるつもりだった彼らの誤算は、通常では考えられないほどの若さで魔術を習得していたハイリアの存在だ。
とはいえ相手は大人。複数人を相手に、鈍足の『槍』で、『弓』すら混じった相手に敵う筈もなかった。
幸いにも状況が致命的に至る前に護衛が駆けつけ、賊は全て捕らわれた。
数日後、ハイリアが伏せっている間に雨が降ったことと、強烈な暑さが続いたことで、荒らされた花畑一帯が焼き払われることになった。元より腐食を始めていた子馬の死体が派手に撒き散らされていることと、数日に渡ってあの場に腰を落ち着けていた彼らの不衛生極まる痕跡が、周辺に流行り病を生むと危険視された為だ。
提案したのは、アリエスだったという。
自身を守ろうとぼろぼろに傷付いていくハイリアを見た事が無関係だったとは思わない。
そして焼け野原と化した高原に、彼女は大切にしていた歪で小さな花を植えた。
無数の草花と、生まれながら死ぬしかなかった子馬の遺体が埋まる地に根を張った花は、それらの養分を存分に吸い取り、邪魔だった歪な花を呆気なく散らせた後、新たに大きく綺麗な花を咲かせた。
「きれい、だね。とても……きれい」
まるで自分へ言い聞かせるように、彼女は繰り返していた。
そうして、ただの優しい女の子であった少女は、貴族の娘として変化していったのだ。
※ ※ ※
陛下と共に、赤毛少年と、メルトと、俺の四人でまんまとイルベール教団の手から逃れることが出来た。
道中は比較的安穏としたもので、三日も経過した頃には完全に教団の捜索範囲から外れていたんだと思う。
メルトの不調は続いていたものの、彼女の探知によってここまで見事に逃げ果せたのだから誰も文句は無かった。むしろ、生真面目すぎる彼女の身が自主的に休みを取ってくれるのであればと、普段よりずっと甘やかそうとしたくらいだ。
そして、ようやく俺たちはアリエスの率いるウィンダーベル家の一軍を発見し、接触を図った。
立場を考慮し、赤毛少年を使者にした一次接触はやはり、安易には進まなかった。
赤毛少年が持ち帰った話は、本隊へ合流する前に別の場所で一度話をしたい、というものだった。
俺は即座に応じた。
念の為、陛下を二人に預け、俺だけで。
指定された場所へ向かってやや北上し俺の足が踏んだのは、山の麓近くの小さな村……庄とでも呼ぶべき規模の場所だった。何を栽培しているのか見分けもつかないが、茶畑らしきものがなだらかな斜面に広がっている。仄かな香りは、これから望む再会への緊張を少しだけほぐしてくれた。
人払いはされている。裏付けはメルトによって取ってもらっているし、本当に今この庄に居るのは、俺とアリエスの二人だけなのだろう。
「久しいな、アリエス」
二人の再会には粗末とも言える小屋の中、アリエスは一人で待っていた。
「お兄様」
固く緊張していた表情がほころぶのを見て、俺も表情を緩めた。
「俺をまだ兄と呼んでくれるのか?」
「当然です。私にとって、アナタはお兄様なのですから」
手を差し出すと、嬉しそうに重ねてくれる。
やわらかで、傷一つない少女の手が、母へ抱かれる子のように縋り付いて来た。
「長い間、近くを離れてしまって、すまなかったな」
「いいんです。きっと、こうしてまた戻ってきてくれると信じてましたから」
「あぁ。俺も会いたかった」
手を引き寄せるまでもなく、身体ごと預けられ、俺も難なく受け止める。
残る手でやわらかな髪をそっと撫でた。
絡むことなく手指の間を抜けていく、繊細で美しい黄金の髪。
俺の手が触れる度、アリエスは嬉しそうに息を抜き、しなだれかかってくる。
あまりにも豊かな胸の膨らみがもどかしく感じるほどに、彼女は俺に甘えてきた。
俺もまた、こうしていることに至上の幸福を感じる。叶うならば永遠成れと、時よ止まれと叫びたくなる。
でもだめなんだ。
ここではまだ、止まる訳にはいかない。
まだ、フロエは救われていないから。
思った途端、アリエスが身を固くした。驚いたのも束の間、彼女はそっと一歩引くと、俺の顔を見上げてきた。
視線を交わす、その海の如き偉大さと美しさを湛えた碧眼に、ほんの僅かな悲しみが見える。
《――――――》
メルトからの念話があった。
予め伝えてあった、アリエスが率いている者たちの布陣の違和感がなんであるか、彼女が探り当ててくれたのだ。
だが今はいい。この場でアリエス以上に優先すべきことなどない。
「メルトの…………彼女は、ぁ……いえ………………」
仕草で分かったのだろう、アリエスが口にした、聞き慣れたはずの呼び名に違和感がある。
「お兄様」
名残惜しげに手を重ねたまま、また一歩、また一歩とアリエスが下がっていく。
向かい合った。
視線を交わすコレは、共に在るのではなく、並び立つのでもなく、対峙だ。
きっと、俺は初めて、アリエス=フィン=ウィンダーベルと相対した。
慣らしも、心構えも、己を加熱させていく必要もない。
共に在る時、二人は常に最高潮であり、本気なのだから。
彼女の、全身全霊の訴えが、やってきた。
心が引き裂かれていく。
「ジークとの総合実技訓練の前日、お兄様がどことも知れぬ場所で、何が原因とも分からない傷を負ってきた時、私はこのまま世界が終わってしまうんじゃないかと思ったんです。
決着がついた後も、目を覚まさず眠り続けるお兄様を見ているのが辛くて、回りがどれだけ陽気に騒いで私を気遣ってくれていても、あんな状態になってしまう場にお兄様は居るのだと思い知らされた私が、どれほど自分の愚かさを呪ったか。
あれが一年前、いえ、もう二年近くも前にお兄様が足を踏み入れた場所。そして私が望んでその後に続いてきた場所。闘争へ続く道の入り口なのだと、私はようやく理解しました。
自分で小隊を結成したことも、力を付けようと励んだことも……それは私自身の感情に基づいてはいたけど、ああなる姿を見たくないから、私がさせないと思ったから。
神父に斬られた時、お兄様が声をあげるその瞬間まで、どれだけ私は自分を責めたか。
自分を立て直すことが出来ても、ずっと、ずっと……苦しかった。
あんな状態になってまで皆を鼓舞する姿に励まされる自分を、あれから何度戒めたか分からないんです。
お兄様。
お兄様、私はアナタに戦って欲しくない。
その身が傷付くのを見たくない。苦しんでいるのなんて見たくない。
流れる血も、痛みも、苦悩も、全て私が肩代わり出来るのならどれほど安心出来るか。
そうまでして守ろうとする何かを、否定したくないのに、それはお兄様にとってとても大切なものの筈なのに、私はアナタを戦いへ駆り立てるソレが許せない。
どうして私ではないのですか?
私を、最も守り続けるものとして見てくれないのですか?
全てを投げ打って私の元に居てくれるのなら、私は私の全てをアナタへ捧げるのに……。
ずっと、ずっと嘘をついて、アナタの隣へ並ぶんだと同じものを見ようとしてきた。
なのにどんどん違っていくのが苦しくて、悔しくて、悲しくて、どうしようもないと諦めようとする自分が憎くて憎くて仕方なかった……!
お兄様。お兄様。
私の為に、戦いを止めてください。
アナタの望みを阻む言葉だと、決定的に違えていく言葉だと理解して、それでも言います。
私と共に居てほしい。争いから遠ざかり、決してだれも冒すことのできない揺り籠で、静かに暮らしていたい。
誰とも知れない婿を迎えるなんて嫌。たった一人、生涯寄り添っていく人を選ぶのなら、私はアナタがいい。
今は上手く出来ないかもしれないけど、世継ぎだってちゃんと作れるようになる。
私と居て。
私を選んで、ハ……ハイ、リア…………っ」
こぼれ落ちていく涙に、かつてそうさせまいと誓った自分が悲鳴をあげていた。
まるで己の魂さえ差し出すような姿に、身の内は嵐の如く荒れ狂っている。
今すぐその身を抱いて、応と答えたい。混ざり合っていた俺とハイリアの心が分離し、邪魔をするなと暴れているようにさえ感じられた。
ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな……っ!!
心から、己の全てを懸けて応じたいと本当に願っているのに、俺の足は動かず、俺の目はアリエスの隣に彼女の姿を見てしまった。
決してどちらかが上かなどと考えた訳じゃない。
どちらも決して悲しませたくなんてない。
比べることなど考えすらしていない。
頭の中がぐるりと回り、次に息をつけば吐き出しそうになっている自分に気付く。
こうなることは分かっていた? アリエスは優しい子だから、きっと俺を心配して止めようとする?
俺は、
何一つ、
理解などしていなかった!!!
己を全身全霊で愛し、故に相手に背くと知りながら、魂を懸けて言葉を紡ぐ行為が、どれほどこの心を引き裂くか!
アリエス……っ。
俺は……! お前を心から愛し、為になら命を捨てることさえ惜しくは無い! 誇りの全て、魂の全て、この血も肉も、俺の持ち得る全てを投げ打ってでも、お前の為に尽くしたいと本当に思っている!
この身なら。
ハイリアという人間の全てであれば、足を止めている理由など一欠けらもないというのに!
本当に、情けないことに、俺はやっとの思いで息を吸い、言葉も無くしゃべり始めようとした自分に全身が凍えそうな想いを味わいながら、逃げるように目を瞑った。
時よ止まれよ。
この先に待つ場所へ、震えるほどの後悔に背中を引き裂かれながらも、この停止が何もかもを侮辱する行為だと分かっていても、止まってくれよと願わずには居られなかった。
進め。
進め。
進めよ!
どれだけの命を犠牲にしてきたと思ってる!
どれだけの想いを犠牲にしてきたと思ってる!
心は決まっている。決まっているんだ! そう決めてここへ来た! 前へ進むのを拒んでいるのは、俺の弱さ以外の何者でもない!
なのに俺は――
《――――――――》
不意に、心が静止した。
虚無が出来る。空洞へ、滑り込むように声は続いた。
《――ほら、ゆっくり息を吐きなよ。ゆっくり、ゆっくりでいいからさ》
メルトではない。
だがこの声を、俺はどこかで一度聞いた覚えがある。
《ホント、呆れるくらい馬鹿なんだから。ばーか。吐けたらさ、またゆっくり息を吸うんだよ。ゆっくりでいい。ちょっとづつ、進んでいけば?》
いや、一度ならず、二度、三度と、確かな言葉にならず、声にならず、耳元を掠めるように交差したことがある。
誰だ。分からない。けれど致命的な状況に陥ったその時に、この意識を繋いでくれた何かを、不意に頭の中で思い出す。
《それだけは得意だったじゃない。ちっさくちっさく積み重ねて、出来る筈もないって言われた所へ辿り付くの。アンタに出来るのなんて、最初っからそれだけだよ》
気付けば身体は、心は、落ち着きを取り戻していた。
浮かび上がった疑問も、思い出した記憶も、遠く無数の線の彼方へ消えていく。
咄嗟に理解した。
これはまだ、繋がっていない。
だから一時的な誤魔化しで、終わったその時に俺はこの言葉を忘れている。
何故。
どうして、お前が。
《じゃあね。勝手に頑張れば?》
確信は彼方へ、残響と共に消えていった。
※ ※ ※
そうして、俺は目を開ける。
目を瞑っていたのはどれくらいだっただろうか。
僅かのような気もするし、途方も無い時間をそうしていたようにも感じる。
だが、心は定まった。
「アリエス」
あれほど荒れ狂っていたのに、今は驚くほど静かだった。
アリエスは、俺の呼ぶ声で、答えを察したらしい。
けれど彼女は、決して続きを聞くことから逃げなかった。
それは俺にも出来なかったことで、だからこそ余計に彼女を尊敬し、愛し、それでも、
「俺には、どうしても助けたい人が居る。その人が、心から笑って過ごせる時を作るまで、たとえ何があろうと、戦うことを止めるつもりは無い」
きっとコレだけは何があろうと変わらない。
俺がこの世界で得た最初の、かけがえの無い想い。
「その人の……名前は……」
震えた声に、最早隠すことなく、彼女の名を告げる。
「フロエ=ノル=アイラ」
あの月の夜に、俺は想いを捧げたんだ。
偽ることは、二度とない。
次回、アリエス視点へ続く。




