09
遠い夢を見た。
川に漂うような感覚の中、やけに眩しい景色が眼球を焼く。
白髪のフーリア人が床の中で横たわっていた。
浅黒い肌は長い時間の中で衰えていたけれど、そんな彼女の表情を俺は覚えている。屋敷の中はひどく静かで、世話役の女以外にはまず人が出入りしない。それは、今死を迎えようとしている彼女がどれほど孤独に生きてきたかを示しているようで、目を背けたくなるほど苦しかった。
彼女、フロエ=ノル=アイラの最後。
『幻影緋弾のカウボーイ』グランドフィナーレとも呼べるトゥルーエンドのラストシーンだ。
最後の戦いでジーク=ノートンを失った彼女が、今までの罪を背負って孤独に生きてきた彼女が、幾十年という時間を掛けて辿り着いた日。
傍らで泣く女中にフロエは困った顔をする。
一言、二言と声を掛け、そして、今までの日を胸に抱いて、そっと笑って死ぬ。
ジークを失ってから一度として笑えなくなった彼女が、死に間際にこそ見せた笑顔。
それがゲームのラストシーンだった。
かつて流れだしたエンディングを前に、俺は激しく憤った。
確かに彼女は罪を犯した。その償いは必要だっただろう。だが、だからといってここまで不幸で無ければいけなかったのか。誰一人として心を開くこと無く、笑顔を失った贖罪の時の中で、ずっと苦しみ続けるほどの罪だったのか。
あるいはそうだと言う者も居るだろう。
俺もそんな人を論破できるだけの正当性を示せないかもしれない。
それでも、俺だけは彼女を赦そうと思う。
最初はただの感傷だった。
所詮はゲームの中の出来事だ。想像の中で彼女が救われる姿を思い浮かべて満足する程度のもの。
だが俺は触れてしまった。同じ世界に生き、言葉を交わし、その笑顔を見てしまった。初めて彼女を見た時の衝撃は途方も無い動揺を生んだ。冷静な思考のなにもかもが奪われ、全身全霊で彼女を見た。
もしかすると、一目惚れというものがあるとすればああいう感じなのかもしれない。
会う程に胸が苦しくなった。
また会いたいと願ってしまった。
連休の初日、三本角の仔羊亭へ行ったのは女主人との約束というより、彼女に会いたかったというのが大きい。またあの笑顔を見たくて、声を聞きたくて、それでもあからさまなタイミングで顔を出すのも恥ずかしくて随分と早い時間に出向いた。
もうこの世界は俺にとっての現実だ。
元の世界に戻りたいという欲求は、仔羊亭の料理を食べていると強く感じる。俺にだって本当の両親は居るし、妹も居る。だがハイリアとしての意識も存在して、もし俺が戻った時、ハイリアという男が消滅するかもと考えるとどうしようもなく苦しかった。
アリエスの甘えぶりは、そういう意味では随分とうれしかった。家族との触れ合いは俺の心を大いに支えてくれた。
目の前でフロエ=ノル=アイラが逝った。
エンディングだ。
光の向こうへ消えていく景色に、俺はいつまでも歯を食いしばっていた。
※ ※ ※
舞い上がる砂煙は濃く、いつまで待っても景色が晴れない。
会場はどうやら無事らしかった。そもそも小隊員の生命を保持する為に、軍から派遣された『盾』の術者が常に動静を確認している。俺の攻撃を遮ろうとした『盾』が砕けるのを幾つか見たし、おそらくはビジットのものだろう上位能力が展開されるのもどこかで感じていた。
俺の意識は虚ろだった。
心にもう熱はない。
なぜ立っているのかという疑問さえ浮かばない。
操り人形のように、ただ立っている。
目の前の砂煙が晴れないから待っている。
紋章はとうに砕けた。
魔術は当分使えそうにない。
身体も、一風吹けば倒れそうだった。
「っ――!」
風が吹いた。
目の前の砂煙が緋色の炎に焼かれて舞い上がる。
魔術じゃない。
彼の、その瞳に炎が宿っている。
割れた景色の向こう側、ジーク=ノートンが拳を振りかぶってやってきた。
徐々に大きくなる拳に俺は何も出来ず驚いていた。
まさに、最後の最後の瞬間に主人公へ敗れる敵のように、限界を越えて尚も前へ進む彼らを見て、足を止めてしまった俺たちは――――
拳による痛みはさほどなかった。
ヤツも限界を超えていた。撫でるような風が俺を押していく。
駄目だ。
心の中ではずっと叫んでいた。
駄目だ、倒れるな。
でも、身体はピクリとも動かず倒れていく。
仰け反った顔で空を見る。雲が晴れた青空で、太陽が煌々と輝いていた。この物語の主役たちを祝福するように。
ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな――!
このまま進めば彼女はあの笑顔さえ手に入れられなくなる!
このアリエスルートでは何もかもが終わった後、救いを求めるようにジークたちと敵対し、彼の手によって人知れず死ぬ。そんな未来が待っているんだ!
例え世界中の誰もが彼女の死に喝采したとしても、俺だけはそれを認めない!
理屈なんて必要ない。正しさなど吐き捨てろ。
ただ惚れた女を幸せにしたいという、誰もが抱く感情だ!
それが例え自分へ向けられるものではかったとして、絶望と孤独の中で死んでいく未来を見過ごす理由にはならない!
肉体は原理上、脳からの電気信号を受けて筋肉を伸縮させて稼働する。
送れ! 理屈を超えた奇跡など不要だ! 積み重なった疲労が信号を弱めているというのなら、全能を以って奮い立たせろ! 俺の脳はまだ生きている。信号を発しないのは死んだ脳だけだ!
腱が切れている? 手足が麻痺して信号を受け付けない?
違う! 俺の身体は未だ構造上稼働可能な状態にある! 蓄積した疲労が動きを阻害しているだけだ! この行動は自壊を生むかもしれない。だが、そもそも生物は必要とあれば自壊を許容して動けるようになっている!
だから動け!
肉が千切れようが骨が砕けようが、今ここでコイツを倒すには必要だ!
神経が切れるような感覚があった。頭の中が焼きごてを突っ込まれたみたいで、鼻の奥が焦げ臭く感じられた。
だが次の瞬間、俺の足は地面を踏んだ。
「っ、が……ア」
腕を振り被る。
指先一つ、関節一つに至るまで強固な伝令によって稼働させる。
目はもう何も見えていなかった。
意識は飛んでいる。今俺が知覚する世界は肌で感じられるものだけだ。そして、それで十分だった。
「ア、ァァァアアアアアアアアアアアアッ!」
右腕に衝撃が奔る。
雑音じみたぶつ切りの声が聞こえた。
風を感じる。
正面だ。
更に一歩、地面を踏めた。
迫る風に対しこちらも額を叩きつける。
頭の中を揺らす衝撃と痛みは、返って俺の視界を取り戻させた。
零した墨汁のように世界が広がっていく。
緋色の火の粉が消えていく。
青い風が周囲を包んでいた。
倒れていくカウボーイハットの男を、俺は呆然と見送った。
「ハァ……ハァ……っ、ハ、ァ……ハァ……」
耳へやたらと響いてくるソレが自分の呼吸だと気付くのに、随分と時間が必要だった。
ふらつきながら、それでも倒れず俺は立っていた。
その事実を飲み込めず、仰向けに倒れたジーク=ノートンを呆然と眺めている。
「……ハァ、ハァ…………ハァ」
直後、肌を震わせるほどの大歓声がフィールドを包み込んだ。
わからない。
俺は、どうなった?
彼女は……、
彷徨う視線の先に、俺たちの勝利を示す旗が上がっていた。
「あぁ……………………………………勝った……のか」
呆然と呟き、仰向けに転がるジークを見た。
勝った。
コイツに。
「ジーク=ノートン」
喜ぶほどの体力は残っていなかった。
そして、今だから言える言葉を伝えようと思った。
「…………なん、だよ」
掠れ気味の声が聞こえてきた。
意識はすぐ戻ったらしい。
「俺は、風のように生きるお前の姿が……嫌いじゃない。だがな……お前は……風じゃない」
緋色の魔術が示しているのは、
「お前は……火だ。火は、人々を照らす……人が留まる所にこそ、火は燃えているものだ」
製作者がそれを意図したのか俺には分からない。
だが、ラストを除く三つのルートで全て、ジークは風のように生きた。それは冒険者だった彼の父親の影響だが、話の雰囲気が変わるフロエルートでは、彼は、
「お前の近くに居る者たちを、もっとよく見てみろ。お前の火に照らされた連中は、どんな顔をしている?」
そこで限界だった。
力尽きて崩れ落ちた俺は、駆け寄ってくる仲間の姿を、見た気がした。
※ ※ ※
目が覚めたのは、また夜明け前の時間だった。
以前より意識もはっきりしている。
傍らには椅子に腰掛けたメルトが居た。あんなことがあったのに、彼女はいつも通りそこに居てくれた。眠りそうになるのを必死に堪え、しかし限界を迎えつつある彼女は幾度も船を漕ぐ。
声は掛けず、寝たフリをしながらそれを眺めた。
俺が目覚めたら、この人はまた気力を振り絞って尽くしてくれるから。
揺れが本格的になった所で手を伸ばす。
流石に危ない。そこらへ倒れて怪我でもされたら大変だ。だから俺は揺れ動く彼女を引いて、自分の胸元へ寄せた。腕の中のメルトがうっすらと目を開けて俺を見る。目が合った。そして安堵するように笑むと、一気に気力が途切れたのだろう、瞼が落ちて吐息が聞こえ始めた。
俺も何故か安堵して、彼女の黒髪を梳き、頭を撫でた。
言うべきことは幾つもある。
何よりも先に謝るべきなんだろう。
「……ありがとう」
それでも俺は、感謝の言葉を口にしたかった。
ありがとう。
俺がここへ来てからの何もかもを、君が支えてくれた。目的の見えない不可解な行動を受け入れ、常に忠実であってくれた。
気の遠くなるような反復練習や辛いばかりの基礎訓練はいつだって投げ出したいと思っていた。強い動機は確かにあったけど、彼女を助けるという目標は膨大な日常の中で埋もれてしまいそうで、不安と同時に止めてしまえればという誘惑はいつだって付き纏った。
どうせ、彼女を救った所で俺に振り向いてはくれない。
見返りを求めないことが真実の愛だというなら、俺の心はひどく汚れているんだろう。
それでも、やり通すにはなにかが必要だった。
あの日、偶然出会った君はずっと俺を見ていていくれた。
ハイリアという男に寄生して精神的な強さを得たつもりでも、やはりどこか流される俺のままで、そんな俺にとって、自分を信じて見ていてくれる人の存在はなによりも大きかった。
こんなにも素晴らしい君の主人として、負けないでいようと思えた。
ありがとう、メルト。
君のおかげで俺は勝つことが出来た。
あの戦いにおける勝因は、俺たちが磨きあげた基礎能力の高さだ。限界を超えた先を決するのはなにも才能ばかりじゃない。天性の魔術も、身体能力も、膨大な疲労によって削ぎ落とされる。むしろ、最後の最後に残るのは華々しい才能ではなく、その人間が積み重ねてきた、当たり前の努力の成果だ。
一年分の人生と、綿密に磨き上げられた基礎能力。それがあの瞬間、天才たちの持つ1%を、俺たち凡人が超えるものとなった。
俺は、そう信仰する。
越えられない才能なんてない。積み上げられた知識と弛まぬ努力は、世界の法則さえ打倒してみせた。
それが出来ない人間が多いことも分かる。
俺だってその一員だ。だから一つだけはっきりわかった。
メルトみたいに可愛くて誠実な女の子に信じられて応援されたら、男なら大抵のことは頑張れる。それに俺は、アリエスの兄でもあるんだ。これで頑張れない訳がないじゃないか。そんなちっぽけで単純で、春に萌ゆる草花のような青い感情。
ありがとう、そう思って頭を撫でていたら、反対側から別の寝息がしているのに気付いた。
アリエスだ。彼女だけじゃない。少し離れたソファにはクレア嬢とくり子が並んで眠っているし、窓際で弓の彼が胡座をかいて小さないびきを立てている。
部屋の扉は開け放たれていて、外の通路には学生服の男女が運び込まれたソファや座敷の上で転がっている。お祭り後のような惨状は、きっとビジットの仕業だ。
全く、とても他に見せられたものじゃない。
だがそんな光景を眺めていると、あの結果が自分だけで成し遂げたものじゃないのがよく分かる。戦いの変遷をあらゆる角度から検証し、対処法を考えだしてくれた研究班。日々の何気ない仕事から、訓練で疲れ果てた隊員のケアまでやってくれた雑用班。当て馬同然の反復訓練でも決して手を抜かずに付き合ってくれた二軍、三軍の者達。突拍子もない抜擢に不満を漏らしながらも、なんだかんだでくり子の世話を焼いていた一軍の者達。彼らでは届かない外の雑事をメルトと共にこなしてくれたビジットにも、やはり感謝するべきだろう。アリエスが時折顔を出し、隊員たちを激励してくれたことは士気を非常に高めたし、俺が持ち込んだ『弓』の戦術を真っ先に理解して広めてくれたのは彼女だった。
本当に、いい人たちと出会えた。
デュッセンドルフ魔術学園、学生訓練小隊、第一番隊総員での勝利だ。
これで、ジークの負傷も含めてフロエルートへ入る全ての条件が達成された。
まだまだやるべきことは多い。
その為の力を取り戻す為、陽が上りきるまで時間を、俺はまた少し眠ることにした。
第一章、完。
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