78
何杯目かになる紅茶を飲み干して、俺は再び席を立った。
時頃は夜。深夜にはまだ少し遠く、寝付くには程よいと言える。
この離れは元より主である陛下に合わせて夜中でも灯りがついたままだ。
ビジットとの何かしらの溝があるせいであの小さな塔からは出てこないが、以前は時折夜食を求めて現れたというから、こんな時間に明るくしていても不審がられることはない。
「あんまり飲み過ぎるといざって時に漏らすぞ」
こちらへ視線も送らず、背中越しにビジットが言う。
「用は足してから出る。この寒さだ、身体は冷やさないほうがいいだろう」
実際に冷やさないのなら紅茶なんて飲むよりストレッチをしているべきだ。
今日、ここから逃げ出すというのなら、最悪戦闘が起きる可能性も考えて動ける身体に仕上げておくべきだろう。
ただ、どうにも落ち着かず身体をのんびり伸ばしていられなくなってきた。
「……フロエちゃん、戻ってこないね」
「あぁ……」
彼女にも脱走計画は伝えてあった。
返事は驚くほど呆気無く、分かったと告げてきた。
行くかどうかはしらないけど、などと付け加えてきたが、これは素直になれないツンデレ科に属する生物の習性のようなもので、返事は最初の一言で完結している筈だ、うん間違いない。
しかし、当日になって彼女が姿を消してしまった。
俺が陛下との謁見中に現れた教団の連中と出て行ったという話だ。
言い知れない不安は確かにある。
今は陛下という大義をマグナスの元へ送り届けることが最優先だ。
戦いに勝ち、ホルノスを教団の影響下から解放出来れば、状況は次の段階へ進められる。
だが、
「もう少し、待ちたい」
「時間の遅れは計画の狂いに繋がるぞ」
「分かっている……!」
「それでも見捨てていけないか」
揶揄のようにも聞こえる言葉に、俺は何も言い返せず黙り込んでしまう。
また少し、時間が経過して、唐突に部屋の扉がノックされた。
俺よりもビジットの方が驚いている。
ノックの主は開けて入ってくるでもなく、こちらの対応を待った。それで気付く。
素早く扉へ近寄り、開けた。
小さな足が柔らかな絨毯を踏む。
「よう、やっと出てきたな、ルリカ」
「あんまりにも遅いから来てあげただけだし。でも……久しぶり、兄さん」
言って、扉を開けたのが俺だと気付いて、
「ハイリア」
「はい、陛下」
「…………ごめん、勝手に来ちゃった」
「いえ、こちらの準備が整わず、お待たせしてしまいました。申し訳ありません」
「そ、それとっ、どう……かな?」
こちらの前へ来て、軽く両手を広げる陛下を見た。
髪型はいつも通りツインテールだが、短くしようとしたのか根元がお団子になって尻尾は肩へ触れない程度の長さだ。
服装もまたドレスのようだが、色が地味目でスカートもひらひらしていない、比較的動き易いもの。新たに脱走向けの服装なんて用意させる訳にはいかなかったし、上に外套でも羽織ればそれなりに誤魔化しは効く。
顎に手を当てて眺めていた俺は、あぁコレも一歩間違えば非礼だよな、などと考えつつ彼女の視線がビジットへ流れているのに気付く。
俺の視線に気付いたビジットは肩を竦めるだけだったが、
「とても溌剌とされていて可愛らしいですよ。そうだよな、ビジット」
「ん、あぁ、そうだな」
「なんだ、らしくないじゃないか」
いつもなら好みの女を見れば呼吸と一緒に口説き文句が出てくるくせに、とは敢えて妹の前では言うまい。兄の威厳というものについて、俺はとても理解ある人間だ。安心するがいいビジット=ハイリヤークくん。
「隈、出来てるぞ」
「ぁ……」
なるほど昔からではなかったらしい。
ここで話すようになってすぐ慣れてしまったから気にしていなかったのだが、やはり気になるのが兄心だな。こんな僅かな時間でよく見ているものだ。いや、兄ならば当然の行いか。ふふふ、ははははは。
「さっきからお前の目が鬱陶しいんだけどハイリアくん」
「安心しろ、兄妹水入らずの時間を楽しむがいいぞビジットくん」
「水入ってる。入ってるよお前っていう水が大量に。洪水かと思ったわ」
「防ぐのは得意だろう。しかし大切だからといって安易に囲い込んで閉じ込めるなよ? ありのままを愛でる胆力も必要だ」
「全ての兄がお前みたいなアホだと思うなよ」
「アホとはなんだ、今までアホとか思ってたのかキサマ」
「ふふっ」
ついいつもの調子で言い合いをしていると、口元を隠して陛下が笑った。
見られ、恥ずかしそうに顔を伏せる姿は、うむ、中々に愛らしい様である。
いやはや、ビジットとも先日の酒盛りでまた発言に遠慮がなくなってきた。
元々昔を知るだけに気安くはあったが、やはり兄という共通項がそうさせるのだろうか。
「それで、もう、出発する?」
陽気になりつつあった心が少し引き締まる。
フロエの件は俺の個人的な目的だ。陛下相手にどう説明すべきか悩んでいると、ビジットが先に返事をした。
「こいつの片思い相手が戻ってこないんだよ。もうちょっと待ってやってくれ」
「片、思い……? ……………………うん……!」
「まて勝手なことを言うな。陛下もどうしてそんな力強いんですか」
「どんな人? 年上? 年下? 可愛い人? 綺麗な人? えっと、えっと……!」
なにこの食いつき!?
女の子は恋バナ大好きだというけど、陛下も例に漏れずということか……!
「違うんです陛下、誤解です。相手にはちゃんとした相手が居ますし――」
「悲恋!!!」
「あ、はい。いえ、その……はい」
正面から言われると思ってた以上に辛いです陛下。
まあ彼女は、ジーク=ノートンに対するヒロインだし、最初からそう望んでいた訳じゃないし、別に俺。
「諦めちゃ駄目だよっ、相手が居たらねっ、決闘! 決闘を申し込むの! 勝ったら彼女を貰うぞって決闘するの! 二人の男から求愛された女、どちらも失いたくないけど、二人は女を巡って命懸けの戦いをするのっ! 最後は国と国との大戦争にまで発展して、女はもうやめてと泣き叫ぶけど、男たちはもう女のことを置き去りに、自分の中に生まれた新しい気持ちを確かめるべくお互いの名前を激しく呼び合って求め合って……!!」
なんだその古典ラブロマンスみたいな展開!?
ん、いや、なんか最後男同士の戦いなのに求め合ってって表現妙じゃないか……?
「それでっ、それでっ」
「――よーし落ち着けルリカ。会ってない間にお前の人生に何が起きたのか分かったから落ち着けえ? 今ならまだあっちのお兄さん気付いてないからな?」
「兄さん。あっ、ごめん……兄さん、兄さんの本命なのに……私……」
「落ち着け。落ち着け俺とお前」
椅子でふんずり返っていたビジットがやや急ぎつつ興奮する陛下をなだめる。
妙に鼻息を荒くしていた気もするが、余程恋バナが好きなのだろう。
俺の淹れた紅茶を飲み終え、ようやく陛下が落ち着いたかという所で、再び扉が開いた。
「そろそろ限界です。用意をお願いします」
顔に傷痕を持つ女が手早く告げ、身を引いていった。
つい、ビジットを見る。
そして奴は言った。
「お前の目的は何だ。そいつをまず考えろ」
思い浮かんだ姿とは真逆に、目の前にある二人の姿を、俺はじっと見詰めていた。
彼女にはジークが居る。
言い訳だろう。
だが未だ余裕があるのは事実で、陛下に関しては猶予が無い。
ここに閉じ込められたままでは今後の全てに手が打てない。
固執するあまり足を止めたまま押し流されるのでは、最後の最後で詰めきれなくなるだろう。
くたびれた教会で向かい合った時の姿を思い出す。
許す、とそう言ってくれた人を。
「………………彼女は、ここへ置いていく」
ジーク=ノートンならば、どう決断しただろうか。
必ず助けに来る。
かつて同じ言葉を言い残して背を向けた、もう一人の少女を思い出しつつ、俺は踏み出すことを決めた。
※ ※ ※
城内は既に物々しい雰囲気に包まれていた。
こんな夜中でも城壁の上には見張りの兵士が複数人で陣取っていて、広さのある場所には何かの資材が集積されていたり、簡易の休憩所のようなものが出来ていた。
宰相はこの城に立て篭もっての篭城戦もあると考えているのか。
西方軍があるとはいえ、マグナスたち近衛兵団を中心とする軍勢は今や数で劣る。
油断の一つもしてくれればよかったのだが、流石に今まで便利使いしてきた宰相なら彼らの実力を把握しているということか。
幸いだったのが、幾らかの民を雑用として城内へ引き入れていたことだ。
これなら顔さえ隠していれば陛下を見られてもそうそう気付かれはしない。
不特定多数を本拠地へ招き入れるのは愚策と言えるが、男爵の反乱、西方軍による陽動は、単純な戦力以外の部分で彼らを圧迫しているのかもしれない。
きっと、相当数の従軍奴隷を吐き出しているのだろう。加えてウィンダーベル家が味方についたことで、城内に彼らを迎え入れる部屋を用意しなければいけない。自前があるとはいえ、慣れない城内での世話はここに慣れた、それも高位の者が応じるべきだ。
父は方々から軍勢をかき集めてきていると聞いた。
それは、ホルノス国内の親族だけに留まらず、国外の、ともすれば王族にも通じるような者たちが参じているということ。
彼らが城内に入っているのであれば、膨れ上がった手間はどれほどのものだろうか。
逆に言えば、俺の顔を知る人間が内部に多数居る可能性にも繋がるのだが。
結局寝返ってくれた密偵の用意した外套のフードで顔を隠し、俺たちは先導されるまま城内を進んでいった。
目的の場所は予め彼女に教え、出口までの安全確保も済んでいるという。
一つあった心配も、杞憂だったと考えていいのか。
人を避け、こちらに何か行動を起こそうとした者には侍女や一般人に扮した味方の密偵が身代わりに声を掛け、あるいは騒ぎを起こして抜けていく。
体力的に、そして引き篭もり状態だったことで心配していた陛下も、顔を隠してビジットに手を引かれている状態ならなんとか歩くくらいは出来るようだった。
隠し通路へ入ったら少し休みを取るべきかと考えていると、ちょうど目的の場所へたどり着いた。
問題はない。
予め排しているのだから当然だ。
ただやはり、心配事は消えていない。
隠し通路の入り口は、通路の奥まった場所に置いてある像の裏だ。
壺を持った老人の像。壺の底を支える親指を少し力を入れて曲げてやると、ロックが外れて次の仕掛けが動くようになる。肘、肩、腰、浮いた右足の裏、そして像の土台の側面。側面を押してやると、像と床を固定している仕掛けが外れ、レールのように動く。
あぁ、コレ、選択肢ミスると見付かってバッドエンドなんだよなぁ。
何度も失敗したから手順ははっきり覚えてる。
嫌な所はこの失敗当初はすぐ別の、直接的に城内から逃げ出したことで話が続いて、後になってバッドの原因へ繋がるという、最初やった時は物凄く落ち込んだのを覚えてる。ここから逃げれば大丈夫。失敗するとアリエスが死んじゃうからな、最悪だったわアレ。
血まみれCGを思い出しつつ滞りなく通路を開くと、奥で待機していた別の密偵が姿を見せる。
女が本人かどうかを確認し、頷く。
「私はここまでです」
「ありがとう。無事に、また会おう」
返答もなく、一歩下がった。
俺たちが入ってしまうと、余韻すら残さず作業的に仕掛けを元に戻し、通路内が真っ暗になる。
「っ……」
「だいじょうぶだ、握っててやるから」
陛下はビジットが見ている。
入る前にも確認はしたが、入り口付近は緩やかな下り坂で何かが隠れている様子はなかった。
少しして灯りが点る。密偵の女だ。
しかし、ここまでの人数がマグナスについているというのは少し不安になってくる。
寝返ったと見せかけておいて情報を流している、くらいはありそうだ。
中心となっている者が不安のある者に隠し通路へ係わらせていないことを信じるしかない。
顔を合わせた密偵の視線が、俺の背後に流れる。
「無理するな。キツいなら吐いちまえ」
ビジットがうずくまる陛下に寄り添い、背中をさすっている。
これは……。
開きかけた口を閉じ、俺は目配せして密偵を奥へ誘導する。
今は、任せよう。考えの足りなかった自分を戒めるのも、一方的な謝罪で許しを求めるのも、すべては後だ。
しばらくして、離れた場所で待っていた俺たちの方へ二人が歩いてきた。
時折話し声が聞こえてきたが、敢えて聞き耳は立てていなかったから内容までは分からない。
ビジットもアレで妹思いだからな、俺が居るところでは言えない様なやさしい言葉でも掛けていたんだろう。
まだ随分と体調が悪そうにみえる陛下だったが、こうして立って来てくれた以上は黙って信じるのが臣としての勤めだ。
「では、参りましょう」
俺が言うと、彼女は青褪めた表情で、しかし確かに、頷いた。
その時胸中に湧いた感情を、なんと呼べばいいんだろうか。
密偵の先導に従って、問題なく道中を行く間、俺はそのことばかりを考えてしまっていた。
彼女は数年間に渡ってあの小さな離れに引き篭もって生活していたという。
慣れない間の喋り方や表情を見ていれば分かる。初対面の俺と会話が成立していたことから重度とは言えないのだろうが、きっと大勢に囲まれることを彼女は嫌っている。一対一なら、まだなんとかなる。だが多数相手となると、例え注目を受けていなかったとしても体調を崩すほどの重圧となるのだろう。
不敬な評価ではあるが、だとすれば陛下が俺と共に脱出する決断をした時点で、聡明な彼女ならこうなることは分かっていた筈だ。それでも望んだ。望んでくれた。
原因は未だに不明ではあるものの、まだまだ年若い彼女の身を削る決断を、俺は嬉しく思っている。
ビジットの忠告は覚えている。
考えつつ、何度も言葉が過ぎった。
『人は可能性に毒されると、目を曇らせて暴走を始める。うまくいくいかないは関係ない。若さと、優秀さと、人を惹きつける魅力と、そんないろんなもんと血統が絡んだ時、人は可能性を押し付けるようになる。夢は人の背を押すが、転んだ奴の手を引いてはくれない。勢い良く躓いた分だけ怪我も大きいさ。片目と、片足を失ったりとかな』
陛下への期待は、毒と言ってしまっていいのだろうか。
夢を見るべきではないのだろうか。
答えが出る前に、俺たちは出口へ辿り着いた。
随分と長い間考え込んでしまった。
途中挟んだ休憩中も、気持ちが落ち着かず離れた場所で休んでいた。
陛下はビジットに任せていたとはいえ、少し身勝手が過ぎるな、これでは。
外で待機している者へ合図を送り、やがて隠し扉が開く。
だがここで密偵が、
「下がって! いえ、逃げてください!」
松明を前へ翳しつつ、黒塗りの短剣を構える。
月明かりが差し込んでいた。
開いた隙間からの光は密偵の肩を強く照らしていて、そこへ唐突に矢が突き刺さり、女は衝撃と共に倒れ、しかしすぐさま矢を引き抜いて捨てた。カン――石壁に当たった矢が黄色の魔術光を発して消える。
残ったのは飛び散った鮮血だ。
「っっ!」
陛下の押し殺した悲鳴が聞こえる。
「ビジット!?」
後ろは大丈夫かという確認のつもりだった。
だが、
「まあ、ここらが頃合いか」
扉が開いていく。
通路へ満ちる月明かりの中で、最後尾に立つビジットがゆっくりと刃物を取り出した。
離れの台所にあった、小型の果物ナイフ。
そんなものを今取り出して何をするつもりなのかと、俺は決定的な瞬間まで気付けなかった。
「残念だが、お前はここまでだよ、ハイリア。お前にホルノスは預けらんねえ。ルリカ、お前もだ。だからまあ、俺が次の王様ってことで、協力を取り付けたんだよ」
陛下の首元へ刃を当てて、薄ら笑いを浮かべるビジット。
そして、隠し通路の外で待ち構えていたのは、
「その通り。我らイルベール教団は彼を新たな王として支援する。ハイリア、お前は本当に、私の思い通りに踊ってくれる」
薄ら笑いを浮かべる、ヴィレイ=クレアライン。
やはり――そうか。
お前は、




