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「二日、後の、深夜、ここを抜け出そうと、思う」
いつも通り、と呼んで差し支えの無いくらいは訪れている陛下の寝室で、俺は彼女と向かい合っていた。
顔色の悪さは相変わらずだが、今日は寝巻きではなく部屋着のようなものを着ている。簡単に着れるドレスみたいだが、蝋燭灯りだけの薄暗い室内で見るとちょっとホラーに見えて怖い、とかは言わない方がいいだろうな。
いやだって薄暗い場所で顔色悪そうなドレス姿の女の子って不意に見たら逃げ出したくなるぞ。
「あ……いえ、それは?」
「え……?」
二人して不思議そうに首を傾げる。
いかん、別な事に気を取られてちゃんと話を聞けていなかった。
大丈夫だ言われた事は覚えている。
二日後の深夜にここを抜け出そう。
うん?
「どうして、そのようなことを?」
陛下は俺の話に乗り気ではなかった筈だ。
内心では揺れ動いていて、今日決心がついた、というのは奇妙を感じる。
「……えっと」
俺の質問に陛下はそう言って思考の間を取る。
居住まいを正すのも同じ理由だろう。
改めて、という気持ちも分かるが。
最後に彼女は小さく首を振り、くっと唇を引き結ぶ。
そうしておずおずと口を開いてようやく理由が渡された。
「イルベール教団が……私を、狙って、る」
「……なぜ宰相を頼らないのですか?」
俺の知る限り、陛下の情報源は宰相に与する諜報員たちだ。
ならば彼女の知ることは宰相も知る筈で、彼からすればホルノスを牛耳る大義名分となる陛下を手放す事は出来ない筈。
けれど彼女は首を振った。
「伝えた、けど……反応、が、ない、の」
あるいは言葉より先に護衛を手配しているからか、マグナスの蜂起でそれほどの余裕がもてないのか……いや、後者は要となる陛下を軽んじる理由にはならない。
「教団は昔から、この王城の中にも、こっそり入り込んでるみたい、だったから。私も、内密の手紙を、受け取った事が、ある」
どうやって、と考えても詮無い事か。
昔からこの国の貴族や豪商らに取り入ってきたのは知っているが、そこまでのことが出来るなら、もしかすると宰相でも守りきれない状態にまで至っているのかもしれない。
「私は、死にたく、ない」
まあ、当然といえば当然だ。
身の危険が迫った為に、ここには居られないと見切りをつけた?
納得できそうではあるが、部屋から出たがらない彼女にしては少し違和感もある。いや、死ぬと分かっていて篭り続ける方が通常の判断だとは思わないが。
「それに、危険なのはアナタも同じ」
「俺が、ですか」
「私の死を、アナタがやったこととして教団は喧伝しようとしてる」
なるほど。
家名を失ったとはいえ、元はマグナスに協力する形で俺の名前が出ている。
宰相を下した後は陛下を国の象徴にしようとしているマグナスたちにとって、俺が王城にまで潜り込んで陛下を手に掛けたとなれば、逆境にある今、致命的な事態に陥りかねない。
事実、俺はここに居るのだ。
教団の手によって引き入れられた事などいくらでも揉み消せる。
同時に一つの納得もあった。
「陛下は、お優しいのですね」
説得を試みようとする俺にただ逃げろと言っても効果は薄いかもしれない。
だから、自分を助けさせる形での脱出を促す。なるほど乗りやすい。
いい子だなぁ、なんて、歳の差もあるものだからつい頬を緩ませてしまう。
互いの関係を言えば君主と配下の元嫡男だ。あまり馬鹿なことは出来ないけれど、何度も自室に招かれ話す内に、少しずつ固さが取れてきた自分を感じる。
ただ、陛下は少しだけ気落ちした様子で、
「私は……優しくなんて、ない」
「陛下がそう思っていても、俺はそう思うことにします」
言い切ってしまえと思う。
例え違ったのだとしても、信じられることで身を正していけるということもあるのだと、俺は経験してきた。
俯いた陛下が少し赤くなっているのが分かった。
可愛らしくて頭でも撫でてみたくなるが、それは流石にやりすぎだろうか。
「とっ、とにかく……アナタがここから居なくなれば、教団は私を殺す理由がなくなる……最悪、アナタだけでも逃げ出せれば、それで」
「陛下」
「ん……ん?」
「この話をビジットにも伝えてよろしいですか?」
言葉の途中で蝋燭の火が消えてしまった。
影の向こうで小さく動く姿があり、彼女はいつかのように慣れた手付きで新しい蝋燭を取り出して火を移す。
おずおずといつものクッションまで下がった後、ようやく彼女は口を開いた。
「……兄さんは、き、きて、くれる、かな?」
「当然でしょう」
「と、当然、なんだ」
「兄は妹を愛するものです。複雑な関係もあるでしょうが、ビジットは昔から陛下を気に掛けていたようですし」
「ふ、ふぅん……………………(さすが本命の人)」
なぜそこで意味ありげな目をしてくるのでしょうか陛下。
「久しぶりに会った彼との関係に不安があるのであれば、及ばずながら力になります。幸いにもすぐ近くにおりますし、今は何より教団の手から逃れる事が優先でしょう。ビジットも陛下が来ると仰られるなら共に来てくれるものと」
じっと答えを待った。
不安が大きい分、すぐに答えは出せない筈だ。
俺は二人の関係を正しくは知らない。
かつてビジットの父が先王の崩御の後に反乱を起こし、けれど失敗して処刑された際に奴だけは陛下の嘆願によって生き残ったということ。涙ながらに訴えたという話も聞いたことがある。やはりとても優しい、誰かを必死に助けたいと思える方なのだと思う。
不器用そうな印象のある彼女だが、きっとビジットならば上手く仲良くなれただろう。
そんな二人が今、微妙に距離を開けてしまっているのは俺としても悲しいものだ。
こんな事なら、ビジットともう少し昔話をしておけば良かったかと思うが、自分の経緯を言葉にして語るとなると、少し困ってしまうのも事実だった。
「…………わかった」
つい、吐息をついてしまう。
これで今夜の約束の時にビジットへ伝えれば、残る不安はフロエだけになる。
やはり彼女も出来るのであれば連れ出しておきたい。いずれ聖女の拠り代にされるのだとしても、あのヴィレイの元に一人残していくことはしたくない。
ここしばらく考え続けて、一つだけ手を見つけてもいるんだ。
何より彼女を近くに置いておけるのであれば、最悪の事態に陥った場合は俺を身代わりにすることも出来る。
思えば、ここ最近で気持ちが緩んでいた自分を改められた。
動く。
自分に何が出来るのかという問いに答えは出ないけれど、動き出さなければ出来ないという証明さえ出来ないじゃないか。
よし、と気を入れた俺は、同じく顔をあげてきた陛下を視線を合わせ、やはりまだ揺れる瞳を感じながらも、微笑みを返したのだった。
※ ※ ※
陛下の自室がある塔から戻ると、少し広間の様子がいつもと違っていた。
フロエの姿は見えない。
ビジットがある意味ではいつも通りに両手を頭の後ろで組み、対面に置かれたカップを眺めていた。
中身には手が付けられていない。
「おかえりハイちゃん」
「その呼び方は止めろ」
「じゃあ何? ジークって呼んだ方が良いのか?」
「……その呼び方も止めろ。もうジーク=ノートンという男は別に居る」
いきなりの事で驚いたが、周囲には誰も居なかった。
ビジットも悪ふざけでこんなことは言わない。確信があったのだろう。
しかし、ジーク、か。
昔話をしておけばと考えたばかりだ、ビジットから切り出したことでもあるから、もう少し話してみてもいいかもしれないな。
「そういえば、名を変えた理由を話したことはなかったな」
もっとずっと幼かった頃、ハイリアという名を得るより以前からビジットとは面識があった。
奴の父親は欲の強い人だったから、宰相たちとは全くの別口で新大陸を開拓しようとしていて、ウィンダーベル家をはじめとした初期からの後援者を失った父ヒース=ノートンはハイリヤーク家との繋がりを持つようになっていた、だったか。正直詳しいところは俺も分かっていないが、とにかくビジットとは当時からの付き合いだ。
俺も俺で大変な時期だったから空白の期間はあるものの、ハイリアと名を変えてからは先王の死に際して再会し、けれどビジットは父親の画策した反乱で失敗し継承権を放棄した上で市井に下った。
「なんだ随分ナイーブな雰囲気で。酒の時間にはまだ早いぞ?」
「早いが始めよう」
「急だな」
「少し、気が急いている」
「早い男は嫌われちゃうんだぜ?」
「気にし過ぎて機能しないよりマシだろう」
「ほう?」
ノっていったことが意外だったのか、ビジットが驚いた顔をする。
「お前にも聞きたいことがある。今日は洗いざらい吐いてもらうからな」
「やだこの人強引なんだからァ」
「気持ちの悪い声を出すな」
だからまず、と対面のカップを指差した。
口一つ付けられていない紅茶からの湯気はない。
対し、空になったビジットのカップを見ると、やはり随分前に淹れたもののように思える。
違和感があったのは、きっとカップだけじゃない。
フロエもそうだが、この屋敷内で人の気配がひどく薄く感じるのだ。
つい先ほどまで話していた陛下は別としても、侍女として振舞っていた密偵の女たちが見当たらない。
マグナスとの戦いで起きた変化ゆえか、それとも何か別のことが起き始めているのか。
返答次第では酒盛りは中止だ。
問う。
「誰が来ていた」
「ん、宰相」




