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その少女は、王城の奥の奥、離れの屋敷に隣接した、小さな塔の最上階に居た。
部屋は薄暗く、漏れ入る陽光の他には、簡素な蝋燭の火が周囲を照らしているだけだ。
二層三層と積まれたクッションは寝台代わりにもなっているのか、手前に羽毛の詰め込まれた布団が投げ出されている。
周囲には本。本。本。本本本本本本。数え切れないほどの本が山と積まれて散らかっている。奥に大の字で眠れそうなくらい大きく立派な机もあるようだが、既に本のなだれに巻き込まれて片鱗しか拝めない。違和感の元が一つ。本棚が無かった。とにかく集めた本をそこらに積み上げているだけで、収納という概念が存在しないように思える。掃除したい。
部屋の主は、薄闇の中でもはっきり分かるくらい美しい金髪をしており、歳相応とでも言えばいいのか、髪を纏め上げたツインテールを青のリボンで留めている。お人形のように愛らしい、というのはよくされる表現だが、彼女の場合はお人形のようでいて、病的なほどか細い身体つきをしている。
目の下には深い隈。水色のレースがあしらわれた、どうみても寝巻きにしか思えない格好の少女が、本と蝋燭とぬいぐるみの奥で口を開く。
「ょ……ょよっ、く来た…………」
完全にどもっていた。
「………………」
パタン、と侍女が何の断りもなく扉を閉めて去っていってしまった。
護衛、なし。
確かに一本道でダムの周囲は高い城壁だから侵入者もなさそうだが、まさか二人きりにされるとは思ってもいなかった。
実は影武者で俺が彼女に害をなすかどうかを推し量っているのだと言われても納得してしまいそうだが、確かに記憶にある陛下の面影がある。
というか、
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
誰か助けろ!?
すっごい無言! すっごい沈黙! あれここで陛下がお待ちですとか言われて通されたんだけどどう見てもここ私室だよね、寝室だよね!? 通常密談だとしても応接室みたいな場所で行われるものなんだが完全に寝巻き待機してるし俺本当に陛下に呼ばれて来たんだよね? 物凄く寝不足っぽいんだけど!?
ちなみに俺は今全力で頭を下げている所なので、部屋とか陛下に関することは心の目で見た。嘘だ。あまりの状況につい頭を下げるのが遅れ、結構じっくり観察してしまった。下手をしなくても無礼だっただろう。
しかし一向に続きがこない。駆け引きとして、上下関係を知らしめるべく長時間頭を下げさせた、なんていう逸話は聞いたこともあるが、どうにも違う気がする。
そもそも俺は陛下のことをよく知らない。
ウィンダーベル家の嫡男として、稀に玉座の間で謁見したことはあったが、声を聞いたのも初めてだ。式典などでも出席は殆どないか、顔が見えないほど遠くから姿を拝めるくらいだろう。幽閉状態にある、と噂されるくらいに、高位の者でさえ謁見が中々叶わないほどだ。
ルリカ=フェルノーブル=クレインハルトという人物は、『幻影緋弾のカウボーイ』でも一切出番が無かった。地の文で二行三行、存在が描写されたのと、イベント画で本当に遠くからの姿が描かれていた程度。ビジットともそういう話はしない。お互い昔話は苦手だ。
だから全くの未知。それ自体に臆しているつもりはない。
だが彼女の協力を取り付けてこそ、俺やマグナスたちが望む未来へ繋げられる筈なんだ。第一印象は大切だ。失礼のないように、なるべく気に入られたい。いやそれも雑念か。ただ気に入られて都合よく話を聞いて貰えるだけじゃ後々拙い。なにせフーリア人側の代表となる予定のシャスティを相手どらなくてはならないのだから、傀儡同然だとしてもこちらの考えを理解くらいはしてほしい。
「ぁっ…………お、おおおもてをっ、あげ、あげ、て、くだ……さい……」
ようやく許しが出たので顔をあげる。
ふむ、心の目で見たとおり、すごい隈だ。俺が学生時代に試験やレポート提出で二日くらい徹夜した時もあそこまでひどい状態にはならなかった。
寝不足というだけではないのかもしれない。幼い頃から幽閉されてきたというから、精神的に不調を抱えていてもおかしくはない。
「っ……」
怯え、だろうか……?
目が合った途端に身を震わせて、陛下は視線を逸らして俯いてしまった。
しかし困った。招いたのは陛下だから、何か用件があるのだろう。話に付き合うのでも、暇つぶしでも、あるいは重大な何かであっても。上の立場にある人の話を無視して自分の話を進めるのは失礼だろう。気にしすぎとも思うが、社会人としては立場をわきまえるべきとも思う。
クッションの上に女の子座りをする陛下はじぃぃぃぃぃぃっと自分の膝が焼けんばかりに見詰めている。
すんごく濃い隈をした、美少女と呼んで差し支えない(隈が思いっきりイメージをぶっ壊しているが)女の子が寝室に呼び出して無言で自分の膝を見詰めていた場合、社会人としてはどう対処するべきだろうか。しかも相手は王さまだ。一国の王さまの自室に招かれた場合の対処は、社会人のマナーハウツー本にも書かれていなさそうで困る。しかもパジャマだ。
ちらっと、一瞬だけ目がこちらを向いた。
どうしよう。すごく困った。
「……(にこり)」
困って何も出来なかったので、次に彼女がこちらを見た瞬間に愛想笑いをした。
「っ――!?」
ひっくり返った。
「あ、へ、陛下!?」
「だだだ大丈夫でですっ!」
しかし積み上げたクッションの裏で手足がバタバタするばかりで、起き上がってくる気配はない。
なんだろう、ものすごくむずむずする。
少しして真っ直ぐ起き上がってくることが不可能だと察したのか、横倒しになり、這い蹲ってクッションの山をよじ登ってきた。
「だ、大丈夫っ」
薄暗いからはっきりしないが、すこし顔が赤くなっている。
むずむず。
「お怪我はありませんか?」
「…………はい」
めっちゃ目を逸らされました。
しかしまあ……、
「陛下。失礼を承知で申し上げますが、少し、様相を崩してもよろしいでしょうか」
出来るだけ気安く、失礼のない範囲で語調を崩して言うと、初めて彼女がはっきり俺を見た。
じっとこちらを見つめる瞳は、意外なことに不健康そうな印象とはかけ離れていた。
奥底から感じる光の強さ。先王は相当なカリスマがあったと言われているが、もしかすると彼女も、というのは高望みが過ぎるだろうか。
しばらくして、こくり、と了承を得た。
やはり、彼女はこういう堅苦しさに慣れていない。
相手に求めることもしない。
傀儡、という言葉が頭をチラつくが、侍女たちの意外な振る舞いも含めて、俺が想像しているよりもずっとフランクな関係を好むのかもしれない。他の誰かが見ていて、不敬罪だのと引っ立てられる可能性は低そうだ。いや、安直に安心するのも危険なのだが、この場ではまず陛下と打ち解けることを重視したい。
「しかし、陛下自らお呼びとは驚きました」
「……教団は宰相の協力なしに目的を達成出来ないから。宰相は……わからないけど」
すらすらと出てきた言葉に緩みかけていた意識が切り替わる。
俺は跪く姿勢から正座に足を組み替え、その間に思考を進める。
「……取引をした、ということでしょうか」
「イルベール教団はここで聖女の再臨を行おうとしている。それは、ここがかつて聖女セイラムが磔にされ、血を流した場所だから。彼女の血が、この大地には染み込んでいる。少なくとも教団はそう考えている」
話題が切り替わった途端、彼女の不安げな様子が失せている。ただこちらを意識している様子は薄く、自分の思考を垂れ流しているに近い。
いや、それよりも。
「ここに血の紋を刻む必要もあるから、教団はそうそう宰相の頼みを断れない。近衛兵団長はものの見事に利用されている」
「陛下…………その話をどこで」
彼女は、幽閉されている筈だ。
事実王城から隔離され、通常では謁見すらままならなかった。
それだけじゃない。マグナスらの蜂起を知っている? いや大規模な動きになる以上、宰相が察していてもおかしくはないのだが、血の紋とは……内容は分からずとも不穏な気配しかない言葉だ。
彼女は答えない。
いや、待っている。
同時に俺の中で繋がっていく推測がある。
彼女は、宰相が自分の望みを阻まない、と言った。
望めばそれを叶える。ありえないという否定は、事実として俺がここに居ることを考えれば、しかし、何か別の意図を持っている可能性も、
だがもし、事実であるなら。
宰相が彼女に忠義しているのであれば、最早戦うまでも無く、この国を正すことが出来るのではないか?
膝の上へ置いた手に力が入る。
離れている仲間を想う。巻き込むしかなかった。いや、彼らなら、と力を借りるつもりで始めた。けれど、無闇に失われていいとは決して思わない。マグナスたちも、好んで同胞を手にかけたくは無い筈だ。
陛下はまだ若い。若いが、この短いやりとりを聞く限り、正しく状況を理解しているように思える。
なんと言うべきだろうか。
彼女を引き込む言葉を捜そうとして、俺は一度目を閉じ、息を吐いた。
「……少し、外へ出ませんか?」
こんな暗い所では顔もはっきり見えない。小難しい話をするにしろ、親交を深めるにしろ、場所を変えて気分を改めたい。
ところが、
「……やだ」
え?
「陛下」
「やだ」
「カーテンくらいは開けましょう」
「明るいと死ぬ」
「死にません」
「し、死ぬもん……」
がしーん、とクッションを盾にこちらを警戒してくるホルノスが国王ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト。
しまったつい突っ込みすぎた。
くそっ、イマイチ距離感が掴めないっ。
思えばこの世界で俺としての自覚を持って以来、明確に位が上の人物と話すのは初めてだ。目上であったり立場からの尊重はあっても、こちらは無礼を許す側だった。基本的にウィンダーベル家は奔放な家風だが、先王及び現国王へは格別の忠誠を示してきたという。
「陛下は、この部屋がお好きですか?」
「……わか、ら、ない」
「外はお嫌いですか?」
「…………」
ならば、と正座を崩して胡坐をかいた。
「分かりました――この口調も、崩したほうがいいですか?」
「ぁ……――――うん」
盾が下りる。
クッションの山に女の子座りをし直した国王陛下に、俺は当初より落ち着いた気持ちで向かい合った。語る口調も整えきったものではなく、力の抜けた、年下の少女と話すようなものにする。さすがに、砕けた言い方は出来ないが。
「ありがとうございます。良かった。俺も格式ばった会話より、こうして話す方が好きなんです」
「そ、そう……」
「そして、お招き頂いたというのに手土産もなく申し訳ありません。何分、あまり自由に動ける状態ではなかったもので」
「……教団に、連行され、て、いたから?」
一体、どこまでの情報を掴まれているのだろうか。
彼女の知ることは、おそらくは宰相の知ることだ。
「他の理由もありますが、そうですね、領地と連絡が取れれば、何か用意できたかとは思いますが」
「ウィンダーベル家、から、は、毎年相当量の貢物が、ある、と」
「国内では質も量も上位だと聞いています。俺と言うより、義父オラントの力ですよ」
「ウィンダーベル家の人間であることに……誇りが、ある?」
「……そう、ですね」
思考の為の返答が出た。
どう答えるべきだろうか。
通常ならこんな幼子に話したりはしない内容だ。けれど陛下は、誤魔化しの言葉は求めていないだろう。そんな上っ面の会話はやめようと、俺の方から提案したのだ。
「俺にとって、ウィンダーベル家の名を冠していることは、この身を支える足があるのと同じことです」
元は平民の子だった。特殊な立場にあって、自身の背負うモノを理解はしていたとも思う。
それがホルノスで有数の大貴族の養子となり、嫡男に指名されて生きてきた。
奔放さを是をするウィンダーベル家であっても、コレは異常な事態だ。出自の隠された、どこのだれとも知れぬガキがいきなり次期当主と宣言された。ウィンダーベル家は他国にも領地を持つ、ある意味で国という枠組みを超えたもう一つの国家だ。当主の権限を固く握る義父オラントによって纏まってはいるものの、血縁内には複雑な勢力図もある。ハイリアが嫡男であることに未だに不満を持つ者は、考えている以上に多いだろう。
……そんな中で身を立てていくのは生半可なものではなかった。現当主のお墨付きがあるとはいえ、推し量る目はどこにでもある。親類だけではなく、関係ある商人や使用人たちも、いつミスをしてくれるかと待ち構えている。決して、縮こまってしまうような男ではなかったが、自ら貴種たらんとする想いは誰よりも強かっただろう。同時に、自らを貴種と称しながら、とてもそうは見えない者たちの存在は目に付いた。
「その、足を……あなたは失った……」
じっと、視線がこちらを貫いた。
失、った?
「オラント=フィン=ウィンダーベルは、あなたをウィンダーベル家から除名、嫡男の地位からも外すと宣言した」
※ ※ ※
蝋燭の火が落ちる。
慣れているのか、陛下は埋もれた大机の辺りから新しい蝋燭を取り出してくると、まだ火の着いた蝋燭から火を貰い、付け直す。
俺の近くにあったものだから、身を乗り出せば手が届きそうな距離に彼女がくる。
黙するこちらを伺う素振りがあり、肺腑に溜まった熱をそっと吐き出した。
「そう、きましたか」
「なんで……笑う?」
どうやら俺は笑みを浮かべているらしい。
嬉しい訳じゃない。楽しい訳じゃない。魔術が使えなくなった時よりも大きな喪失感がある。嘘ではないと理解していて尚も事実確認を取らなければ気がすまない思いがある。肩の荷が下りたと言うなら、きっと地に足を付けてられないくらい身が軽くなった。
義父は本気だろう。
たとえ今後何が起きようと、俺が元の地位に戻れることは無い。
強引に嫡男へ指名しておいて、勝手に除名して、また戻すなど誰が納得する?
強権で以って納得させる手もあるだろうが、きっと大きく権限を弱体化させられるだろう。
おそらく、今後俺がウィンダーベルの名を名乗ることは、二度とない。
さて、
「父上、オラントからは昔から、自分を殺して家を奪い取れと言われていました」
「けどこうなった以上は、もう」
「そうでしょうね。内部から賛同者を纏めて取り込んでもいなければ、俺はただ外部から強奪しただけとなる。目ざとい親類たちがあっさり従うとは思えません」
いずれ来る継承へ向けて取り込みは行っていたが、嫡男という大義なくしてどれだけついてきてくれるだろうか。なにより奪い取れという話は常から義父が言っていたことで、ある意味で周囲も承知していた事だ。
再指名されても、奪い取っても、ウィンダーベル家は原型を保てない。
頼りにしていた力は、もう遠い彼方に去ってしまった。
再度息をはく。
そうしなければ、次の言葉を口にできそうになかった。
「……お話を伺いましょう」
「はな、し……?」
「陛下は、最早俺が唯人であることを知っていた。それでも呼び出した、そのご用件を伺いたい」
こちらを覗き込む目の、大きな隈で覆われた目の、最奥で灯が揺らめいている。
なぜか、不思議なほどの危うさを感じたが、それは彼女が開きかけた口を一度閉じた事で消えうせた。
代わりに出てきた言葉は。
「知り、たかった」
ぺたん、とクッションにも戻らず、身を乗り出せば手が届きそうな距離で座り込む。
ここには居ない何かへ縋るように、彼女は言う。
「あな、たは……この国を、どう、したい?」
「それは、何故近衛兵団長と共に反旗を翻したのかと問われているのですか?」
「そ、そう」
「俺は、この国の間違いを正したい」
「どの、間違い?」
「フーリア人らに人権を与えず、人身を売買する行為は、我々自身が畜生にも劣る存在であると歴史に刻んでいるようなもの。続けていっていいものではありません」
「道徳の話?」
「既に起こしてしまった間違いを消すことは出来ません。ですが、間違いを正すことが出来るのだと示すことは出来ます。これが道徳と呼べるものかは分かりませんが、俺は、もう彼らを解放すべきだと考えています」
少しの間があった。
そして、
「あなたは、国が最も果たすべき能は何だと思う?」
少し、詰まる。
「……民に、健やかなるを――」
「違う」
思わぬ強い言葉に、息を詰めて陛下を見る。
足元に置かれた本の表紙を、彼女の指先が撫でた。
何度も読まれたのだろうか。ページの端の中ごろが手垢で汚れている。
「強者であること。勝者であること」
この部屋には本が溢れていた。棚に収められることもせず、乱雑に積み上げられた数はおそらく俺がこれまで読んできたよりも遥かに多い。
彼女が触れている本を見れば、何年も前に異国で焚書扱いとなったものだった。ウィンダーベル家の力をもってしても手に入れることの出来なかった本で、名前も良く覚えている。作者は、処刑されたと聞くが。
「この世に過ちのない国家は存在しない。民に辛苦を与えない国家は存在しない。すべての困難を乗り越えて解決に至った国家は存在しない。理想郷とされる背景には、内か外かに、必ず闇がある。けれど強者であれば、過去の過ちを認めて尚も正義でいられる。弱者であれば、それは強者による迫害の理由となり、弱者には身を守る手段が限られる。武力か、経済か、宗教か、思想か、文化力か、技術力か、学問か、数か、あるいは弱者であることか、様々な、複雑な理由で以って《強い》という立場を守り続けることが、国が最も果たすべき能」
どれほどまともに寝ていないのだろうか。
あるいは思い悩むが故に、ああなっているのか。
「人は幸福を見つけ出す生き物である。人は自らが持つモノに価値を見出す本能を持つ。どのような環境であっても、民は幸せになれる。糞尿に塗れた貧民街でも、煌びやかな宝飾に囲まれた宮殿でも、相応の満足を見つけ出せる。ただ他者との比較だけは起きるから、差や違いへの納得を用意しておかないと自己崩壊するけど」
なら今この国で反乱が起きているのは、とも思ったが、彼女の言には狙って引き起こしたという意味の言葉もあった。
いや、違うか。
「陛下。国とはなんですか」
「ミームの媒介物」
「ミーム……?」
なにか、異様な言葉を聞いた気がする。覚えがある。けれど、解を得るより先に彼女が話を切り替えた。
「意図は分かる。そう、《強い》立場であることには、国の体制も含まれる。王による統治が弱い立場となるのなら、次代の体制へ変更していかなければいけない」
「それは」
「王政の次は民主政、と説いた人が居る。処刑されたけど」
「民が実権を握り、選挙で代表を選出する手法ですね」
頷きが返ってくる。
「かつては宗教が法だった。王は法王に従わなければ国を動かすことも出来なかった。けれど、教会の腐敗が広まると、宗教からの脱却が始まり、相対的に王たちの力が増した。そして王も、従える貴族たちと共に腐敗――大多数の民が願う統治者でなくなった時――処刑台に上るのは私たちになる。普通のこと」
未だ幼いと言える少女が、自らに迫る死を当然と言い切ることに、空恐ろしさを感じずにはいられなかった。
一体彼女は何なのだ。
幽閉されていたと聞いた。
けれど宰相は自身が集められる限りの知識を、本を、彼女に与えている。
そして彼女は、積み上げられた知恵の塔に囲まれ、こんな場所で世の理を語る。
「陛下は、国や国民の持つ善悪の基準には興味がありませんか」
「あなたは何を以って、奴隷解放を善とするの?」
「人を人として扱わない考えが善とは思えません」
「彼らを人と思っているのは、あなただけかもしれない」
「フーリア人は同じ人間です」
「姿形が似ているだけかもしれない。仮に同じ生き物だったとして、なぜ尊重しなければいけない?」
「理由が必要ですか」
「っ……ぁ」
身を震わせ怯える陛下に、しまったと思う。けれど謝罪はしない。
人を助けることに、尊重することに理由が必要だとは思えない。
生物学を諳んじてそれなりな理由を並べることはできるのかもしれない。
けれどもっと単純に、助けたいと思うこと、尊びたいと思うこと、それが当たり前の感情なのだと、俺は思いたい。
「……そう、なん、だ」
しゅんとする姿にトゲが刺さる。
あぁ分かってる。彼女は自分の価値観を語ったのではない。ただ一つの事物に対して議論をしているだけだ。俺もそれに乗った。感情的になった俺が悪い。
けれど、幼い少女に対する立場ではなかったという考えは持たないようにする。
陛下の論述は時代背景も考えればそこらの大人よりも遥かに進んでいる。
彼女もそれを望んでいな……ん?
ずずず、と距離が開いた。
後ろ手に何かを探し当て、クッションを身体の前にやって顔を半分隠す。
ちょうど蝋燭の明かりが揺らめいて彼女の顔を、目元を照らし、涙を浮かべていて――
「ああっ、陛下ごめんなさい!? 俺が悪かった! 今のは全面的に俺が悪かったからごめんなさいいい!」
平謝りすること十数分。落ち着いてきた彼女が今度は俺の振る舞いに興味をもったおかげで、話が少し緩い方面へと逸れた。
「結構、軽薄?」
「今事実上の土下座状態にある為否定し辛いのですが、流石にこんなことは滅多にやりません」
「やることはあるの」
「妹を怒らせた時などは、比較的」
「アリ、エス?」
「はい。お見知り置きいただき光栄です。天使のように心清らかな彼女を思い悩ませた以上、自らの沽券に固執するなど愚かしいこと。たとえどのような理由であってもこちらが悪いのです。しかしこれだけは言っておきたい。怒るアリエスは滅多に見られない。分かりますか? いつでも聖女の如く慈悲深い彼女は、俺の度重なる失態を尽く許してしまうのです。それ故に見るのが難しい。いや、意図的に怒らせたいなどと罪深いことは思いますまい。けれど一度怒ってしまったのであれば、その愛らしい様を堪能するに何の躊躇いがありましょうかっ! 勿論贖罪も謝罪も致しましょう。人類の義務です。ですが御身を拝見したいという欲求を抱いてしまうのもまた事実っ。ぷんぷん怒るアリエスをこの目に焼き付ける為ならば、俺とて更なる罪を背負いましょう……!」
「…………へ、へぇ」
「妹は優しい。政治力もある。俺がウィンダーベル家を継げなくなったとはいえ、アリエスならば上手く家を纏め上げるでしょう」
平民出身の俺とは違い、あの子はしっかりオラントの血を引いている。
今後力を掌握する為に様々な手間は増えていくだろうが、きっと滞りなくウィンダーベル家を継いでくれる筈だ。あぁ、そう思えば、除名された身としても安心できる。
「妹、好きなん、だ」
「愛しています。あぁ、兄妹愛としてです。貴族に近親婚は多いと聞きますが、そのようなつもりはありません。俺たちはプラトニックに愛し合っているのです。この世で最も純粋な愛情と言えるかもしれませんね、ははは」
ははは、プラトニック云々はこんな年下の女の子に言うべきじゃなかったよ。咄嗟に言葉を変更したが、それでもちょっと無い。
うむ。思えばアリエスと離れてどれほど経つだろうか。学園へ通っていた時にはよく一緒に寝ていたから、ここまで触れ合っていないのは実家を離れて以来初めてかもしれない。アリエス分が不足している。補充したいが彼女は今頃デュッセンドルフ辺りに居る筈だ。男爵の反乱も決着がついた頃合いだろうしな。
「で、でも、もう、妹じゃ、ない……んじゃ?」
あまりにも熱弁が過ぎたせいか、陛下がクギのようなものを刺してきたが、はて?
「アリエスは俺の妹ですよ?」
「え? えぇぇ……?」
ははは、陛下ってば何を言い出すんですか。
「血の繋がりや家名など問題ではありません。たとえこの世の終わりが来ても、アリエスは俺の妹で、俺はアリエスの兄ですよ?」
もー太陽は東から昇るんですよ。
地球は丸いんですからしっかりしてくださいよ。
全く困った人だ。
肩をすくめ、したり顔で目を向けると、陛下は俺と会って初めて、理解の出来ないものを見る目でますます距離を取っていた。
はて?
「……………………………………………………へ、変人?」
「誤解です」
ともあれ、会話の時間はまだまだ続く。




