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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(下)
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69


   ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト


 人の目に晒されるのが怖くなった。

 私に失望する目。私を品定めする目。私に期待する目。

 それが畏敬でも、蔑視でも、もうとにかく目を見て話すのがとても怖ろしかった。


 最初はまだ耐えていられた。

 宰相への意地もあった。あの男に舐められるのだけは我慢がならない。


 なのにあの日、あの男と出会って、私は無数の人目の前で平静を保つ事が出来なくなってしまった。


 宰相は不在だった。

 前日から対フーリア人の目的で支援している国と、国境付近での重要な交渉ごとがあるとか。

 連れてきたのは、宮中伯の一人で、でっぷりと太ったその男は城の警備兵を押しのけ強引に私の部屋へやってきた。

 不敬だぞと叫んだ兵に、まだ自分にもそんな事を言う人がいるのかと思った。けど、宮中伯は構うものかと鼻で笑い、見張りを追い出してしまった。


 たった一人残された、私側と呼べる筈の教育係は詰め寄る男たちに身を竦めて下がっていった。

 どうせ、期待なんてしていない。最近では強く出る私にさえ何も言えず、いつも伺うような怯えた目を向けてくるのが不快なだけの人だったから。


 肥満男が前に出て、大仰な挨拶をする。


「おお、陛下におかれましてはご機嫌麗しく。本日は重大なお話を致したく、こうして伺わせていただきました」


 名乗った彼は早々に身を引き、一応は礼服に身を包んだ数名の貴族らしき者たちを紹介した。

 幾つもの見慣れない目に晒されて、彼らの名前をまともに聞くことさえ出来ず、私は一人勉強机の後ろで顔を俯かせていた。大きくて足元が見えなくなっているのが幸いだった。でもなければお腹を抱えているのが丸見えで、震える足を見た彼らが仮面の奥で嘲笑っていただろう。


 なぜこんなことをするんだろう。

 国を動かしているのは宰相だ。私なんかに何かを言ったところで、宰相は意に介さない。

 人質というのもおかしな話だった。フーリア人による本格的な侵攻が始まってから、表向き西側の国家間での戦争は無くなった。かつての敵国を支援し、戦線を支えさせなければ、彼らの猛進を抑えることは難しい。

 交渉を有利にする為? でもこんな事をして支援すら取り下げられ後方からホルノスに襲われるなんてことになれば、もう国なんてあっという間に滅んでしまう。


 声が止んだ。

 何を言っていたのかまるで頭に入ってこなかった。

 けど、ゆっくり顔をあげると、最後に紹介されたらしい男の子が、じっとこちらを伺っていた。


 蛇の目だ。


「ヴィレイ=クレアラインと申します」


 簡潔に名乗った彼に、胸を圧迫されるような息苦しさを覚えた。


 今のは明らかに私が自分たちの様子を伺おうとするのを待っていた。

 名乗りが終わったのではない。終わったと思わせるためにわざと間を取って、彼は私の目を射抜いたんだ。


「陛下?」


 怖ろしくて、顔を伏せようとしたところを呼びかけられた。

 動きが止まる。


 不思議そうな顔をしたヴィレイ=クレアラインが首を傾げている。わざとだ。分かっていても、指摘なんて出来ず、あの目がじっと私の奥底を覗いてくる。


 なんとか息を整えなくちゃいけないのに、息を吸い始めると彼の目が細められ、薄っすらと口元が歪むから、上手くいかずに苦しさが増してしまう。


「っ――は、ぁ、っ!」


 まるで手も使わず首を絞められているような感覚だった。

 血の気が引いていって、もう駄目だと思った時、ようやく彼は目を離して背を向けた。


「歳も近く、陛下を楽しませる話など出来るかと思いましたが、見たところご気分が優れない様子。今日のところは帰らせていただきましょう」


 そう言うと、後ろの者たちは薄っすらと笑みを浮かべて、


「そうですな。こうして押しかけて、無理をさせてしまってはいけません」

「えぇ。折角の機会ではございますが」

「また後日、お会いできることを祈っております」

「聖女に」

「聖女に」


「はははは」

「はははは」

「はははは」

「はははは」

「はははは」


 何がおかしいのか、木の葉のざわめきにも似た笑い声が折り重なって部屋に染み渡っていく。

 一人宮中伯だけが馬鹿みたいに大きな声で笑っているけれど、背後に隠れた笑い声が余計に際立って耳に障った。


「また次の機会など頂けましたら、きっと陛下にとって興味深い話をお聞かせできるかと思います」


 再びこちらに向き直ったヴィレイが慇懃に礼をして、顔をあげつつ言う。


「ビジット」

「っ――!」


 思わず強く、彼を意識してしまった。

 背を向けている間に伏せた目は、再び蛇の目に捕らわれた。


「先の内乱の首謀者である先王の弟の子、その中で唯一助命された彼のその後についてなどいかがでしょうか」


 言うだけ言って、彼らは呆気なく去っていってしまった。

 追い出されていた兵が戻ってきて、青褪めたまま私の様子を伺う。


 うるさい。


 耳にあの薄ら笑いが張り付いて仕方が無い。

 どれだけ強く目を瞑っても、あの目が頭の中に浮かんできてしまう。

 ようやく開放されて、落ち着いて出来る筈の呼吸は一向に整ってくれない。

 私の様子に教育係や兵士が寄って来て何かを言っている。


 うるさい。


 あんな言葉、誘いなのは分かりきってるのに。

 私がみっともなく宰相に懇願し、兄さんだけはと助命させたなんて話、もうどこにでも広がってる。

 だから私の興味を引くために用意してきたんだ。


 うるさい。


 笑い声が、目が、離れてくれない。

 頭が痛い。お腹が熱くて焼けてるみたいだ。

 上手く息が吸えなくて、私を呼ぶ教育係の声がうるさくて仕方ない。


 誰かが、私の肩に触れた。


「――――――――――――――――――――――――――――――っっっっっっっ!!!!!!!」


 自分でも何を言ったかは覚えてない。

 けど守ってくれなかった彼女を、彼らを口汚く罵倒して、出て行けと手当たり次第に物を投げつけたんだ。


 ようやく閉まってくれた扉にカップを投げつけ、細かく細かく、何かが砕ける音を聞いた。


 部屋の隅で耳を押さえて、カーテンに身を隠して震えた。

 音が消えない。けど、自分以外に誰も居ないと思えばなんとか耐えられた。

 ずっと耐えた。

 耐えて、耐えて、眠りに落ちるまで。


    ※   ※   ※


 夢を見た。


 誰かに抱えあげられている夢。


 自分にもそんな時期があったのだろうかと思う。


 けど、夢はとてもぼんやりしていて、相手が誰なのかははっきりしなかった。


 ただ私は初めて安堵出来たような気がして、その人に強くしがみ付き、怖かった、怖かったと涙を流して訴え続けた。


 寝台へ寝かし付けられる。

 離れていこうとするその人の袖を掴むと、その人は随分と長い間悩んだ末、寝台の脇へ膝をつき、一度だけ頭を撫でてくれた。

 大きいけど、細くて綺麗な手だった。ぎこちなく、触れれば壊れてしまうのだと怖れているように、その手は私の髪に触れ、梳き、撫でた。


 兄さん?


 違う。


 兄さんは先だっての内乱で敗北し、今はもう継承権を放棄して市井に降りている。

 もう以前のようには会えない。


 だったら、誰?


 静かな足音はそっと離れていって、扉が閉まった。


    ※   ※   ※


 人の声で目が覚めた。


 野太い男の声と、もう一つは宰相の声だ。


「――今回みたいなことを考えれば、やっぱり近衛をこの子の元から離すべきじゃない」


「考えが甘かったことは認める。護衛は付けていたが、それにも対処され、動きを封じられていたからな」


「あの子を付けてたんだろ? それは分かるが、裏からの手回しは結局表からの強行突破に耐えられるもんじゃない。ウチの連中なら伯を斬り捨ててでも守ったろうさ」


「連れていた他国の貴族らまで纏めてか? ふざけるな。そんな連中が居るなら居るでまた別の手に利用される」


「どっちが重要だって話だっ。この子を、ルドルフの残した子をお前はいい様にされて構わねえのかって聞いてるんだ!」


「だから――っ」


 続く言葉は、起き上がった私に驚いて、途絶えてしまった。


 私の部屋だ。

 寝室。

 多分、まだ昼ごろか、朝方で、いつもは控えている下女が居ない。


 変わりに少し離れた場所に立っている宰相と、


「よう」


 寝台のすぐ近くの椅子に腰掛ける近衛の団長が、気安い様子で手を上げてくる。

 思わず顔を背けると、彼が困ったように頭を掻くのが分かった。


 ホルノス近衛兵団団長マグナス=ハーツバース。

 片目と片足を失った後も、王国最強と言われる『騎士』(インペリアルナイト)の覚醒者。


 そして、先の内乱で王弟軍を打ち破り、兄さんの一族を尽く捕まえた人……。


 昔から滅多に顔を見せない人だっただけに、人となりは表面的にしか分かってない。

 けど最初期から父を信奉していた一人で、表向きはなかったことにされているけど、新大陸へ侵攻した際にはフーリア人虐殺や彼らの奴隷売買を指示したとも言われている。

 豪放に笑う姿や、父の死に悲しむ姿は見たけど、結局宰相のようにはなっていなかった。

 泣きもした、悲しんでもいた。けど、最後に見せた、はじめから受け入れていたような表情は今でも覚えてる。


「まいったな。おい、俺ァ子どもの相手が苦手なんだよ」


 どうすればいい、と聞く彼に、宰相は鼻で笑って、


「普通の子どもと思うな。そこらの使えない文官より遥かに頭が回る。当然、貴様よりもな」

「ははっ、そりゃ頼もしいっ」


 笑う団長の姿を盗み見る。


 夢を、見たんだと思う。

 けど、夢で感じた確かな安心感は、一体なんだったんだろうか。


 私の寝台の脇で当然のように腰掛けるこの人が、ここまで運んでくれた?


「なあ、好きな食い物あるか? 持って来てやるぞ? それとも寝起きだから飲み物か? 果物の絞り汁なんか好きな奴居るだろ、な?」


 いきなりこちらを向いたのに驚いて、また顔を背けた。


 すると、後ろから大きな手が頭に乗って、乱暴にかき回される。


「~~~っっ!?!?」


 あんまりにも大きい力だったから成す術もなくて、揺られた頭が軽くめまいを起こした。


「……おい、貴様の頑丈なだけの身体と一緒にするな。ソレは女だぞ」

「赤ん坊の頃は放り投げてやると大喜びしたんだがな」

「そんなだから早々に貴様は教育係から遠ざけられたんだ」

「ま、転戦続きで戻って来る度でっかくなってるから、それはそれで楽しいもんだったがの」


 なんだろう。


 不思議な感じがした。


「そろそろ限界だな。あんまり前線を離れちゃいらんねえ」

「そうか」


 宰相の声が、いつもより強張っていない。


 私が団長を見た時、彼はこちらから目を離して立ち上がっていた。

 ド――彼の失われた足が、棒切れの義足が硬い音を絨毯越しに立てる。


「そいじゃあ、あばよ」


 気安く言い置き、彼は部屋を出て行った。

 私は何も言えず見送り、けれど、一つだけ分かった事があった。


 彼は違う。

 大きくて硬い手も、歩く度に音のする義足も、夢で見たあの人とは違った。

 きっと勘違いなんだろう。

 どうせはっきりしないのなら、兄さんが出てきてくれれば良かったのに。


 沈黙の降りた室内に、もう一人の気配があった。


「…………身体の調子はいいのか」


 少しだけ硬くなった宰相の声。

 さっきまでの様子とは違い、胸の奥にチクリと棘が刺さった。


「わからない……」


 本当だった。


 自分がどうしてこうなっているかは分かる。

 けど今、あの時ほど気持ちの悪い状態にはなっていない。

 ただ、やっぱり誰か人の気配を感じると身が竦んでしまうようで、扉がノックされた途端に強張るのを感じた。


 私を見ていた宰相は無言で立ち上がると、綺麗な足取りで扉へ向かい、外の兵士と二つ三つ言葉を交わしたようだった。


「用件が出来た」


 戻ってきた宰相は呟くように言うと、少しだけ沈黙した。

 不思議に思って顔を向ける。

 すると、あの宰相が自ら頭を下げたのだった。


「今回の件は私の落ち度だった。二度と無い様に警備を見直すつもりだ。それと――」


 私はあまりにも意外な光景に呆然とし、顔をあげた彼をただ見上げた。


「……………………よくやった」


「……ぇ?」


「奴がうるさいから言っているだけだ。だが、他国の貴族の前で取り乱していたら、以降外交の場でも不利になる可能性があった。耐えているのは知られただろうが、よく最後まで耐え切った。…………それだけだ」


 何を言われているのか、全く分からなかった。

 それくらい意外な事で、驚く私にすぐさま宰相は硬い表情になってしまう。


 急に頭に血が上ってきた。


 カッと熱くなる。


 手近にあった枕を掴んで、あろうことが投げつけ、私は叫んだ。


「で、出てって……!!」


 布団を被り、身を丸める。

 枕をぶつけられた宰相の声が布団越しに聞こえる。


「……やはり、警備の面でも人を遠ざけるのが賢明か」


 うるさいうるさいと頭の中で叫ぶ。

 聞きたくなかった。

 苦しい。

 こんなにも息苦しい。


 静かに、ひっそりと生きていける場所が欲しかった。


    ※   ※   ※


 そうして宛がわれた離れで、私は過ごすようになった。

 今まで以上に読書へのめりこみ、どうしても必要な時以外はずっと部屋に引きこもってる。


 宰相はどうしてか、彼の持つあらゆる情報を私にも知らせるようになった。

 きっと、望みどおりの王様にする為の方法なんだろう。少なくとも無知で判断力の無い人間を望んでいないのは分かる。

 彼の持つ密偵たちはそれなりに優秀で、私は部屋に居ながらホルノスや世界の動きについて多くを知ることとなった。

 それは興味深くもあったけど、同時に彼は、非道で醜くて聞くに堪えないような凄惨な事件まで私に伝えさせた。


 知ったつもりでいた世の中の動き。

 あの手この手で先王の唱えた黄金の国を求める宰相たちの、憐れなほどの空回り。

 どうにもならない現実に、ゆっくりとこの国は毒されているようだった。


 私にもどうすればいいのか分からない。


 いや、いくつかの方法は浮かぶ。

 どれも実現性に乏しくて、大きく改善されるところもあれば、変わりに大きな犠牲を必要とする場合もあった。

 同時に、フーリア人の侵攻さえ解消出来れば、今の政策……一部の分かり易い差別階級を用いた民意の統一という手段は、決して愚策とも言い切れない事を痛感した。少なくとも勢い任せに拡大してきたホルノスに今があるのは、フーリア人という外圧があればこそであり、真っ先に攻め込まれた他国への支援と、戦争による膨大な需要と捕らえた奴隷たちによる労働力は無視できるものじゃなかった。

 以前は小規模ながら定期的に勃発していた民衆の蜂起なども、目に見えて減っている。


 現在、ホルノスの肉体労働に従事する者の二割近くがフーリア人奴隷だ。

 これはあまりにも多すぎる。

 しかも鉱山奴隷などは一部で八割以上に達している所もある。

 もし彼らが鉱山内で蜂起して立てこもった場合、損害は計り知れない。

 なぜやらないのか不思議なくらいだった。

 でもそうだ。

 知らないんだ。

 あるいは目に見える戦争という形があるせいで、奴隷となったフーリア人たちまで内部からの崩壊を狙うことに思い至れないのか。

 それとも、彼らと私たちとで違う政治形態を執っているせいで、この分かり易い弱点を見抜けないでいるのか。最も怖ろしい可能性は、このまま奴隷労働力への依存度を高めていった上での一斉蜂起。けど、これは現実的とは思えない。策謀は大規模になればなるほど露見し易い。一部が時期を見誤る、または焦って独走する。そんな些細な行き違いで計画は崩れてしまうんだから。

 『剣』(ブランディッシュソード)による情報伝達は優秀ではあるけど、ホルノス一国に限っても移動には相当掛かる。

 やっぱり、詮無い想像だ。だから宰相も放置しているんだろう。今後計画されている灌漑などの国家事業にも、確保が予想される奴隷労働力が計算に入っている。もし自国の労働力だけで賄おうとすれば予算は十数倍にも跳ね上がる。それだけ彼らの値段が安いという事実には、気味の悪さを感じずにはいられなかったけど。


 ただ一つだけ、時折フーリア人奴隷らの間で囁かれる、カラムトラという言葉には、警戒を要すると私も思う。


 宰相が彼らを利用して敵国を追い込んだように、フーリア人らも身を切るような手で切り崩しを掛けてくる可能性がある。

 彼らがただ愚かで無知な敵であれば、いくらこちらからの手引きがあったとしても、困難な海を渡っての侵攻をここまで成功させられる筈がないんだから。


 私は、時間の流れすら不確かな日々をただただ思索に費やした。

 でも私の考え事はどこにも行かない。ここに留まり、回り続けるだけのもの。


 実行されない理想は娯楽に過ぎない。


 想像の中では好きなだけ膨らませていられる。

 誰も救わない代わりに、誰も犠牲にしない。

 部屋に引きこもった私にとって、無意味な思索こそが最大の娯楽だった。

 この国の未来を想像する事、現実の事件を知って行く事、どちらも遠い場所の出来事でしかない。


 いや、本当は分かってる。

 私はこの国の王だ。

 実権はなくても、味方の一人も居なくても、変えていく努力は出来た筈だ。


 けど、あの目が、あの声が、時折頭の中に浮かんでくる。


 そういう時は布団を被って夢を思い出すようにしていた。

 誰のかも分からない、大きくて、細くて、綺麗な手で撫でられる感触を想像すると、ゆっくりと心の中が落ち着いてくる。


 そしてある日、密かに一通の封書が届けられた。

 差出人は、ヴィレイ=クレアライン。

 

 宰相の密偵で固められたこんな場所にまで、もう彼らの手が伸びてきている。


 開けるべきでないのは分かっていたのに、最後に彼の残していった言葉が蘇り、堪え切れなくなってしまった。


    ※   ※   ※


 後悔が永延と渦巻いていた。


 生まれて初めて、自分の手で人一人の命を斬り捨てた。


 フーリア人だからなどと思える筈も無い。

 命だ。たった一つの、大切な誰かを助けたいと願える誰かを、私は殺せと命じた。


 表向きは教団員として、顔を隠して私の元へ届けられた兄さんとは、たった一度言葉を交わしただけで、私はもう以前のように甘える事は出来なかった。


 殺した。殺した。殺したっ!


 私はあの時、確かに自分自身の意思によって署名をし、玉璽を押した。

 変わりに約束どおり兄さんを取り戻した。イルベール教団による根回しの成果か、宰相は離れで暮らす兄さんに手出しはしてこない。

 やっと……いつかのように甘えられる筈なのに、私の手は血で汚れてしまった。


 兄さんは、優しい声で私の名を呼んだ。

 久しぶりだな、て。ルリカ、と大切そうに。少しだけ緊張を含んだ声に、懐かしい響きに、泣き出しそうになってしまった。

 けど違う。私はそんな風に名を呼ばれていい人間じゃない。


 国を動かす為でも、誰かを守る為でもない。

 言い訳一つ許されない、我欲の為に。


 罪に駆り立てられていく私は、同時に正義の声を聞いた。


 ハイリア=ロード=ウィンダーベル。


 ホルノスの今を作り出した一人とも言われるオラント=フィン=ウィンダーベルが嫡男に指名し実子のように扱っている人。

 私の指示で命を奪われそうになったフーリア人を助ける為に、あの虐殺神父やヴィレイ=クレアラインと対峙してまで戦いを起こした、今や反イルベール教団思想の急先鋒とされる彼が、遂に私へも矛先を向けてきた。

 苛烈なフーリア人差別を推奨して、教団との関係性を強化していく私たちを、彼は間違っているのだと訴えてきた。

 かつては父の支えとなった近衛兵団の団長と共に、この罪を知らしめに来る。


 何にも出来ない私を、何もかもを出来る彼が。


 同時に気付いた。

 兄さんを取り戻す為とヴィレイは言った。

 その計画の全容までは見えないけど、きっと彼の元に兄さんは居たんだ。


 この人だ!

 この人が、あの日兄さんに蜂起を決意させたんだ!


 会えるよう取り計らいましょうかと言われた時、何の躊躇も無く頷いた。


 これで――


 その日からずっと、待ち遠しくて仕方なかった。

 だって、これで、


 









































 きっと彼は、私を殺してくれる。





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