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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(下)
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68


   ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト


 父の死後、年齢を理由に私の即位は見送られ、宰相が代理としてホルノスを動かすようになった。

 元々病気がちだった父の推薦があって政治を取り仕切っていた人だから、思った以上に反発は少なくて、私から見たお城の中はそれまで通りの日々を送っていた。


 変わったのは私の状況だった。


 今まで父の態度もあってか勉強や躾には煩かったものの、空いた時間は本を読んでいられたのが、起きてから寝るまでをひたすら予定に追われるようになった。

 教育係には宰相肝入りの文官なども増え、ホルノスの現状や理由、先の見通しなんかも含めた政治感を暗唱出来るまで執拗なほど叩き込まれた。

 言っていた通り王城への出入りが増えた父親に伴われて、兄さんと会う機会が増えていなかったら、とっくの昔にお城を飛び出していたかもしれない。


 一方が騒ぎを起こしている間に逃げ出したり、こっそり夜中に庭園で会って話をしたり、甘えさせろの合図は……一度も使わなかったけど。


 幾度か婚姻の話も持ち上がった。

 けど、中央集権を進めたがっている宰相からすれば、外部の権威を取り込めばその親類との問題も増えて、権力が分散してしまうからだろう、数日もすればあっさり話は掻き消えた。最低限私が主軸となれるだけの年齢や成果を持っていなければ、宰相でも今のままの強権はきっと維持できないのだろうと思う。


 あれ以来、私と兄さんは政治とか世界とか王さまとか、面倒な話をしなくなった。

 どちらもうんざりしていたんだと思う。

 兄さんの父親は権力欲が強くて、兄さんをどうしても次の王様にしたいみたいだった。

 どうぞと思うのに、宰相はあの人を心底嫌っているようで、私の母と同じく冷たくあしらって中央の権力から遠ざけていた。

 私も私で、今まで一度だって勉強を嫌がったことはなかったのに、じわじわと厳しくなる周囲の目と声に、かえってやりたくなくなった。


「兄さんはやく王様になってよー」


 ごろんと庭園の木陰で寝転がる。

 こんな姿、教育係の釣り目女が見たら卒倒しただろう。

 だから余計にやりたくなる。ごろんごろーん。


「そう次の叱られ役を決めるみたいにはいかないんだよ」


 同じように寝転がっている兄さんのお腹に頭を乗せると、おでこを手のひらでぺちぺちとされる。

 なんだ指じゃないのかと思いつつ、その手を取って眺め、私とは違う大きくて固いのを触って確かめる。


「兄さんが王さまになったら、まず私が一日中寝ててもいい日を作るの。勉強もしなくていい、面倒な作法もしなくて食事を取れるようにして、兄さんは私の部屋にずっと居てお世話をするの。いいでしょ?」


「俺、王さまなのに妹の世話すんのか」


「どこだったか忘れたけど、王さまにも王さまが必要なんだって言葉があるの。私は兄さんだけの王さまになるの」


「めんどくさいな」


「もうっ――きゃっ!?」


 頭でお腹を押してやるも、急に固くなっててぶつけたこっちが驚いてしまう。

 はははと笑う兄さんに手を抓る。

「いたたたっ! おい爪立てんのは止めろよ!?」

「あたっ! そっ……ちこそ! おでこはたくの止めてよねえっ!」

 ぺちぺちおでこを叩かれて怒り心頭の私は、両手で兄さんの手を捕まえるとその指をぐっと握り、先っぽに私のおでこをぶつけてやった。


「っっっっっ~~!」

「つっ……突き指したぁぁ……!」


 こっちは爪先がおでこに刺さって予想以上に痛かった。

 血とか出てないといいけど……ただ、


「ふ……ふふ~ん。とうとう兄さんが私に甘えさせろってやってきたのねっ」

「どう考えてもお前がやっただけだろ。あと涙目になってるし」

「やっ・たっ・のっ!」

「はぁ……」


 これ以上言わせたら指先に齧りつくとこだったけど、ようやく納得した兄さんに私は身体を起こして、正座した膝の上をぽんぽんと叩く。


「なに? そこ殴ればいいの?」

「あたまのっけるのっ!」

 最近こっそり読んだ小説にあった膝枕だっ。

 親の決めた婚約者ではなく、幼い頃から慕い合っていた男女が人目を盗んでやっていたことだけど、兄妹でやってもいい筈っ。

 読んでいてとてもドキドキした場面で、ちょっと試してもみたかったことだ。


 半眼でこっちを見ていた兄さんは仕方ないかという顔をして上着を脱いだ。

 ふ、ふん、そんな顔しても兄さんが甘えさせろってやったんだからねっ。


 ばさり、と近くに敷かれた上着を叩く兄さん。


「寝転がるくらいはいいけど、そんな座り方するとお前傷作るぞ。石畳なんだ、せめてこの上乗れ」

「……………………」

 睨みつけながら兄さんの上着を踏んづけてやり、改めて正座をすると、あっさり兄さんの頭が乗ってきて驚いた。

「……っ……っ、っ…………!?」

「おい揺らすな」

 言うだけ言って目を閉じた兄さんは、大きくため息を付いて、身体の力を抜いた。

「じゃ、おやすみ」

 そのままずっと、喋らなくなってしまう。


「に、兄さん……?」


 問いかけても答えは無く、小さな寝息が聞こえてきて、考えていた次の行動に移れなくなった。

 固くなるのとは違って、でも動けなくて、困るのに胸の中がほわほわする。

 見下ろした顔は私よりはずっと年上で、でもやっぱり子どもで、なのに初めて会った時に比べてオトコノコ、という印象がある。

 前髪がふわりと広がる。


 あ、いい……風、だな。


 目を閉じて、庭園へ吹き込むやさしい風に頬を撫でさせた。


 暖かな季節に冷たい風が混じっているのは、もうじき冬になるからだ。

 ティレールの辺りは昔から分厚い雪が降る。広い丘陵地帯があるし、そこを流れる大小数十の川があるから、ここは昔から川の氾濫も多くて農耕が盛んだった。北の方で幾つも堰を作っているそうだけど、雨季になると川が氾濫したとかで守備隊が派遣される。

 雪が降れば、今ほど頻繁には王城へ来れなくなる。それを思い出して、ちょっとだけ悲しくなった。


 眠る兄さんを見る。

 勇気を出して、人差し指を上から落とす。


「やばい忘れて――たぁぁぁっっっ!?」

「~~~!!」


 手なんて軽く弾き飛ばして、覆いかぶさるようにしてた私とおでこをぶつけて二人うずくまる。

 腫れてはきていないみたいだけど、もう頭の中が揺れて目を回しそうだった。


「痛い……ばか……」


「…………いや、俺も悪かったけど……お前顔近すぎだろ……」


「忘れてた用事ってなに……、そんな飛び起きるようなことなの……?」


「あ…………………………あーーー…………うん、まあ、いろいろとな?」


「……………………………………………………兄さん?」


「あとちょっとなんだってっ!? もうちょっとで押し切れそうなんだよ!? お前も新しいお姉ちゃんとか出来たら嬉しいだろう!? あいや、別にそういうのとは違うっていうか、ちょっとお高く留まった子を見ると甘えさせてみたくなるっていうかさあ!?」


「最低…………」


「おおおっ、おおおおおういっ、お兄ちゃんの評価が下がりすぎてないか!?」


 伸ばしてきた手を叩いて逃げる。

 触らないで汚らわしい。


    ※   ※   ※


 逃げ出した後はいつも、長い長いお説教を受ける。

 酷いと鞭が出てきて、手の甲が真っ赤になるまで叩かれる。


 けど、あの時間が無いくらいなら、手の痛みや煩い教育係の小言なんてどうでもよかった。


 いつか私をこんな日々から助けてくれる兄さん。

 それだけで手の痛みなんて笑い飛ばせる。


 それに、兄さんくらいのオトコノコなら、ああして女の人を口説いて回るくらいはするだろう。

 この前読んだ本には毎晩違う女の人を部屋へ連れて行く人とかもいたし、けどっ、そういう人ほど本当に大切な人の前では素直になるというか、悩んだ姿を見せるって言うじゃない。だから私の前では情けないところもある兄さんは大丈夫。お姉さんとかは……よくわからないけど。


 気になるのは、前に聞いた兄さんの動機になっている相手。

 生真面目な馬鹿と言われていたから、きっと無口で兄さんとは正反対の女性と話すのも苦手そうな人なんだと思う。

 その内会うよと言われて教えてもらえないから、勝手に男だと思ってるけど……まさか女ってことは、ううん……。でも兄さんはお高く留まった人、が好きなんだよね。要するに立場とか性格とかで、力を抜いて振舞えない困った人の世話が大好きだと……。生真面目馬鹿っていうのも、やっぱりそういう種類なんだろう。もぅ、世話好きなんだから兄さんは。

 んー、つまり、兄さんの本命はその生真面目馬鹿さん……?


「んん~」


 考え事をしていたのに、教育係の用意した筆記試験をやり終えてしまった。

 もっとゆっくりやって次の休み時間まで引き延ばすつもりだったのに、これだと余った時間でまた別の勉強をしろと言われてしまう。


 日は傾いてきたけど、日没には少し早い。

 次の休憩を挟んで、もうしばらく勉強したら夕食かな。

 あんまりお腹が減ってないから、抜け出してまた庭園に行けば、兄さん、居るかな?


 示し合わせて会うことも多いけど、遠巻きにであってもそうそう私と兄さんが顔を合わせる場面はない。

 だから暇のある時に足を向けて、どちらかが来るまで身を潜めて待っていたりする。


 この前は先に来て昼寝をしていた兄さんの隣で私も一緒に昼寝をした。

 目を覚ましたら日が暮れかけていて、慌てて本来の場所に戻ったんだった。


 じっとこちらを睨むように見ていた教育係の様子を伺う。

 度重なる脱走を自分の不名誉と考えているらしい彼女は、私の動きをその兆しと見たようで、また一層目が鋭くなった。

 けれど、彼女の真っ赤な唇が何かを言うより先に、部屋の扉が開け放たれた。


「誰ですか! 今はルリカ様の勉強中で――っ!?」


 激昂して声を荒げた教育係が青ざめる。

 手元の試験用紙へ目を落としたまま、私は息苦しさを感じた。


 見なくたって分かる。


 足音も薄く、気配が近寄ってきたのを待って顔をあげた。


 目に濃い隈がある。

 ここしばらくで随分とやつれたかもしれない。

 元々ほっそりした人だったけど、今は肉が落ちて狂気じみた雰囲気まで感じる。


「…………ふんっ、ホルノスを纏めるのも大変みたいね。ご苦労様」


 用紙を放り投げると、宰相は手にとって内容を確認する。

 少しして、視線が教育係へ向き、普段高慢ちきな彼女が身を震わせて壁へ下がっていくのを、冷めた気持ちで見送った。


「全部合ってるでしょ」


 こんな程度は片手間で出来る。

 あまり面倒になっても嫌だから、教育係にはかなり手を抜いた成績を見せて余裕を持ってるのだ。

 徐々に学んで成長しているように見せかけるのも、彼女相手ならそう難しくない。


 宰相は用紙ごと机に手を叩きつけ、じろりとこちらを睨んだ。


「……そういうことか」


 何か嫌な予感がした。

 無言で背を向け、部屋を出て行こうとする宰相に、私は慌てて立ち上がった。


「待って……!」


 止まる。

 けど、続く言葉が思いつかない。


 ただこのまま行かせてはいけないと何かが叫んでる。

 待ってと言ったのに宰相は立ち止まらず、私は椅子を蹴っ飛ばすように立ち上がって、大机の角を掴み、二度も転びそうになりながら彼に追いつき、その袖を掴む。悲鳴のように名を呼ぶ教育係のことは、視線だけでこちらを振り返った宰相に意識から消し飛んだ。


 震えて、手を離しそうになる。けど行かせてはいけないと強く握りなおし、宰相の視線と向き合った。

 胸の奥を棒か何かで抑え付けられているような息苦しさがある。

 自分の動きや表情、呼吸の一つ一つさえ観察されている確信を覚えつつ、それでも言葉を吐き出すには深い呼吸が必要だった。

 無駄な言葉を挟んでいる暇はきっとない。

 だから、彼を縫い止める言葉を。


「……アナタの夢はなんで覚めないの」


 父が死んだ後も、この人だけは下らない夢を見続けてる。

 あの近衛の団長でさえ、父の死後は何か別のものを求めているように思えた。


 いい加減誰かが正さなきゃいけないのに、誰もこの人を止めない。


「私はあの人の代わりにはならない。アナタが私を使ってやり直しを考えてるならお生憎様。私は黄金なんて信じない。この世界に腐食しないものなんてない。アンタの王さまだって、結局は虐殺を指示して、下らない汚点を撒き散らしてっ、百年の恨みを買うだけ買って死んじゃったじゃないっ。もし綺麗な綺麗な金色の光なんてものを見たんだとしても、それは作り物で偽物で、見る側が勝手にそう思い込んでるだけのものだよ……」


「それはお前がそう思いたがっているだけだ」


 掴んだ袖口がほんの少しだけ揺れる。


「逆だ……偽物を本物だと思い込んでいるのではない。本物の黄金をあの日誰もが見た。それは今尚色あせてなどいない。だが綺麗なものを見続けるということは、常に自分自身の穢れと向き合うことになる。耐え切れなくなった者にとって、それは偽物の穢れた黄金でなければならない……だから、本物を目にしながら、その真なる輝きを見据える事が出来ない。王は何も間違ってなどいない。現にホルノスはまだ続いている」


「どうして…………」


 どうして、そんなに苦しそうに言うのか。


「……ううん。アナタにはそれが見えてるの?」


 ほら、そうして胸に杭を打たれたような顔をするから……どうしようもなく私は苛立ってくる。

 不快で不快で仕方が無い。


 即答できるくらいの狂信者なら笑って見送れた。


 なのにこれじゃあ、まるで刑場へ向けて歩いていくみたいで、その歩みの中でどんな答えを得たって意味の無い一瞬の納得で、下らない慰めでしかないのに。


「現実は……」


 袖から手を離して、兄さんとの日々を思って両手を握る。


「確かな手ごたえがあったよ。一を足せば一が増えて、引けば消えるんだよ。複雑過ぎるけど、丁寧に一つずつ積み重ねていくことで、きっと百年先の未来を作るよ。何で掛け算してるかも分からないままの夢を見るより、ずっとちゃんと地面を踏める、目線を合わせられる」


「現実を本当に見ていたのなら、あの日我々は朽ちた都と共に死んでいた。王の示した夢があったればこそ、今ここに居る。賢しらな言葉で煙に巻くな。お前の言う現実では何人死ぬ? 百年先の未来の為にどれだけの犠牲を強いる? 否定すら許さない数字の羅列に沈黙を強いられた者たちは、未来とやらに生きる者たちの背を見送るしかないのか?」


 そんなの、どうしようもない事があったって当然じゃないっ。

 受け入れられない方が我侭で、納得できないからって滅茶苦茶にしていけば、必要も無かった苦しみが増えていくだけなのに。


 だから、諦めろって、私は言う。

 おかげで私が生まれたんだって言われても、私は自分ごと否定する。


「…………お前のそれは所詮、頭の中で綺麗に纏めているだけのものだ」


 分かってる。


「それを理解しているという考えさえ、尚甘い――」


 宰相は言うと、袖を強く振り、私の手から逃れると、今度は自分から手首を掴んできた。

 倍以上も背丈に差がある彼にそうされると、私はかかとも付けていられず、歩き始めた宰相にされるがままとなる。


 部屋を出て、見張りの兵士が驚いた顔を見せるけど、宰相の一睨みで青褪めて引き下がった。

 教育係はもう、部屋の隅で震えているだけだ。


「痛いっ……、離して!」


 本当に痛かった。

 今までキツい物言いをされることはあったけど、痛みを与えられる事なんて無かったから、思わず駄々を捏ねる様に言ってしまう。

 それが宰相の癇に障ったみたいで、


「随分と子どもじみた事を言うようになったな」


「だからなんなの……っ。皆して気持ち悪がってたくせにっ! 子どもに言い負かされるのが怖くて離れていったくせにっ!」


 好き勝手にホルノスを動かしたいなら丁度いいじゃない!

 私が馬鹿で間抜けな子どもだったら、誰だって余計な事は考えないじゃない!


 分かってるのに、宰相の考えなんて分かってるのに、あの日々の大人たちから向けられる気持ちの悪い目線やヒソヒソ話を思い出して吐き気がした。

 だから一層のめり込んだ。あいつらとは違う世界に、あいつらなんかには絶対理解できない世界に、私は居てやるんだって本を読んで、勉強して、考えて考えて考えてっ、何もかも遠ざけて行こうとしてたんじゃない!


「ビジット」


「っっっ止めてよ!? 兄さんに何かしたら許さないんだから!!」


「放置するべきではなかったな。ルドルフの足元にも及ばん俗物の子と侮り過ぎたか」


「止めて! お願い! 勉強も頑張るからっ、ちゃんとするからっ、手を出さないで……!」


 宰相の黒い噂は、お人好しの乳母が死ぬ前に聞かされたことがある。

 この国が成長していく背景で生まれた情報収集や密偵の専門部隊。当時は敵対する勢力へ向けられるものだったのが、ホルノスが大きくなってからは、主に身内へ向けても放たれていて、時に暗殺まで行うとか。


 滑稽な話だとも思った。

 無駄に誇張された、大衆向けのよくある話だとも。

 けど同時に、大きな国を、多数の国を相手に動かしていくとなったら、きっと必要だし、やれる力があるのに使わないというのはひどく滑稽だとも思った。

 宰相はこちらの大陸へ侵攻してくるフーリア人たちに羅針盤なんかの技術を流して、意図的にホルノスとは敵対していた国々を襲わせたと言っていた。

 数十万からなる戦争の被害者を考えれば、ここでたった一人殺すことの、なんて軽いことだろう。


 視線を後ろへ向けた。

 見張りの兵士は、城の守備隊だ。

 王を守るべき近衛兵団は物心ついた時からあちこちを転戦していて、正直団長でさえ私はよく分かってない。

 それに団長は、今でこそ事実が隠蔽されているけれど、今の奴隷売買やフーリア人蔑視などの、ホルノスの方向性を決めたとも言われる人物。信用できるとは思えなかった。


 どうすれば。どうすれば。

 必死になって考えても、この国を表からも裏からも牛耳る宰相をどうにかできるとは思えなかった。


 ならせめて時間稼ぎは?

 思惑に乗るよう見せかけて、時間を稼いで、兄さんと一緒に対策を練る。

 今までの密会は宰相にバレているようだけど、私と兄さんで何か手を考えれば、どうにかできるかもしれない。


「……………………少しは考えが纏まったか?」


 宰相の低く響く声に息が止まりそうになる。


 いけない。この状態で言葉を止めれば、私が別なことを考えているなんて簡単に分かるのに。

 けどすぐ慌てた様子で引き止めても、誤魔化しなのは分かりきってる。


「…………今、あなたに対抗する手段がないのは分かった」


 正直に話すしかない。


 すると宰相は心底不快そうに目を逸らすと、手を離した。


 どう、して?


 違った。不快そうどころじゃない。

 青褪めて、冷や汗を流して、彼は立っていることも出来なくなったのか、壁に寄りかかって膝をつく。

 身体の内側がずっと強張ってるみたいに呼吸が定まらなくて、胸元を掴んで歯を食いしばっていた。


 私が困惑していると、通り掛かった下女が駆け寄ってきて宰相へ寄り添った。

 顔に傷跡があって、こんな人居たのかなと思ったけど、彼女は見張りの兵へ手近な空き部屋を用意させるよう指示すると、初めてこちらに気付いたように私を見た。


 綺麗な、翡翠色の目。

 それがやんわり細められ、口元が弓なりに引かれる。


 すぐ目は逸らされたけど、印象的な目がずっと頭の中に残り続けて、気付けば見張りが戻ってきていて、宰相はすぐ近くの貴賓室へ連れて行かれた。

 訳も分からず追いかけて、誰も何も言わなかったから、私も部屋の中まで入っていくつもりだったのに、彼に肩を貸す下女が人払いをするように言って、またあの目を向けてきた。


 初めて会った筈なのに、なんでそんな目を向けられるのか分からない。


 閉じた扉の向こうで一度だけ宰相の声がぼんやり聞こえ、静かになった。


「っっ!」


 気持ち悪くて、口元を抑えて走り出す。

 途中、庭園へ向かっていることに気付いた私は、なぜか異様に恥ずかしくなって引き返した。


 部屋へ。

 誰も来ない、静かな部屋へ。

 駆け込んだのは客間か何かだったようで、私はソファへ顔を埋め、ようやく力一杯泣くことが出来た。


 私を怖れるような宰相の目。

 私を嫌悪するような下女の目。


 気持ち悪いとそっぽを向いて居ないもののように扱ってくる城の皆。


 何もかも大嫌いだった。


 なんでこんなに泣いているのかも分からず、日が暮れ始めるまでずっと、私は泣き続けていた。






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