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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(下)
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67


   ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト


 部屋に充満した薬のにおいが苦手だった。

 その人は、作り物みたいに静止したままじっと虚空を見詰めている。

 横たわる寝台や布団にはシミ一つ無く、それがまた一層嘘っぽさに拍車をかけていた。


 お節介でお人好しの乳母が持ってきた花を鮮やかな柄の花瓶へ飾り、にこにこと笑って下がっていく。


 花は私が選んで持ってきた事になっている。

 月に一度、多ければ週に一度は、私が望んで見舞いをしていることになっている。


 私は居ない人。


 居ない人間に話しかけるような人は居ないし、居ない人は喋らない。


「ねえ」


 けれど今日、その沈黙を破る。

 乳母がしつこいものだから、一つだけ自分から投げ掛ける言葉を持ってきた。


「お父さんは、どっちを後悔してるの?」


 質問に答えはなく、ずっと無視して虚空を見詰めていた目が逃げるように向こうを向いたから、また押し黙る。

 お見舞いの時間が終わるまでの間、その目が戻ってくる事はなかった。

 薬のにおいをいっぱい嗅いだせいで、しばらくは気分が悪いままだった。


    ※   ※   ※


 気味が悪い、という声を聞いた。

 石造りのお城の中というのは音が響くから、個室を持たない下女下男の噂話はすぐ分かる。


 死んだ前王妃に代わって宛がわれた女との間に産まれた私は、父に愛されず、父の愛を貰えなかった母からも愛されず、お人好しだけど考え無しな乳母にも結局懐くことなく、空想の世界に逃避した。


 私くらいの子が一人遊びもせず、言われるまま勉学をこなすというのが大人たちは気に入らないらしい。

 時折宛がわれるお友だちも、私が一つ二つ質問を投げ掛けると途端に押し黙った。

 本だけが私の友人で、他人で、時に許されざる裏切り者となった。


「本当に本ばかり読んでいるんだな」


 ある日、男がやってきた。

 昔から何度も顔を合わせていたけれど、部屋にまでやってきた話すのは初めてだ。


「宰相」

「ダリフだ」

「ダリフ」

「お前は何を望んでいる」


 投げ掛けられた質問に、私はただ首を傾げた。

 陰の濃い男は少し苛立った様子で、言葉を重ねる。


「王に尋ねたそうだな、どちらを後悔しているのかと」


 そんなこともあったかと思い出す。

 今思い出しても痛快だった。

 居ないものとして扱ってきた子どもの一言で、あの男は逃げるように目を背けたのだ。


「どちらも後悔すべきことではない」


 浮き上がっていた心を制するように宰相の声が差し込まれる。

 責めるような口調も、鋭い目つきも、子どもを相手にした態度ではなかった。

 そして彼は、質問の内容をしっかり察しているらしい。


「人々に夢を見せたことも、卑属な新大陸の者共との敵対も、彼らを差別し奴隷とすることも、すべて一つの言葉へ繋がっている」


「フーリア人は攻めてきたのに?」


「攻撃を受けているのは我々ではなく、敵対していた国々だ。そうなるよう新大陸発見の報を売り渡し、早々に羅針盤を始めとした海路や航海術などの情報や技術を奴らへ流し、支援すらしている。奴らの存在は王国にとって有効に活用されている」


「アナタが進めたがってる中央集権にも、フーリア人という外圧が必要だから?」


 問えば、ダリフは眉を寄せて僅かに沈黙した。


 あぁ、と思う。

 何度も見てきた目だ。

 自分の理解を超えた相手を見た時、人は相手を不気味と感じ、遠ざけようとする。


「……気味の悪いガキだ」


「…………ぇ」


 初めてだった。真っ向から気味が悪いなどと、そんなことを言える人間がいるとは思っていなかった。


「泣くな、面倒だ」

「………………あれ?」


 なぜ、涙が滲んでくるんだろう。

 悲しみとも違う、嬉しいのでもない、この身が竦む思いはなんだ。


 ダリフは大きくため息をつくと、やはりガキかと言い残して出て行ってしまう。


 ややして、部屋から出されていた乳母が私の様子を見て血相を変えた。

 普段ぴくりとも表情を変えないから、涙を流していたのが余程驚いたのだろう。


「宰相は…………ダリフ様はとても恐ろしい方ですから……」


 恐ろしい。

 彼の姿を思い出す。

 たしかに私は恐かったのかもしれない。

 他人からあんなにも強く何かを言われたのは初めてだった。


 ただ、なぜだろう。

 彼は酷く、焦っているように見えた。


 翌日から今まで欲しいと言って止められていた希少本や焚書扱いとなった本が、密かに届けられるようになった。


    ※   ※   ※


 「残念だったね」


 寝台へしがみ付き、崩れ落ちている宰相へ声を掛ける。


 すっかり夜も更けて、来ていた人たちも去っていった中、部屋に残っているのは私と宰相と、死んだ王だけだった。


 父親が死んだというのに、何の苦しみも湧いてこなかった。愛されていなかった、居ないものとして扱われていた人が死んで思うことと言えば、これであの無駄な見舞いの時間が無くなって、読書や勉強に集中できる、という程度。あえて言うなら、あの質問以来、一度も彼を動かす事が出来なかったことは不満だった。


 死んだ父の脇に座って、じっと来訪者を見ていた。

 意外と慕われていたらしく、本気で涙を見せる者も多かったけれど、やはり嘘の表情で誤魔化している人も居た。特に父の弟という人は酷かった。元は権力争いで負けた父を追放しておきながら、ホルノスが大きくなるや我が物顔で政治の中枢へ食い込もうとしてきた人だ。派手な演技で泣き散らし、動かない死体を揺さぶり、布団を引き剥がしてすがり付こうとした。

 多かれ少なかれ、こういう場ではそれぞれの思惑が見えるものだ。

 だから折角だからとじっくり観察していた。

 こうして最後まで残ったのは、思いの他それが興味深かったことと、お人好しの乳母が父から離れたくないだろうと今日だけは夜更かしを認めてくれたからだ。どうして、今日までの日々でそんなことを思うと考えるのか、相変わらず理解できなかった。


「これでもう、ホルノスはおわる。アナタの言っていた夢も全部おしまい」


 アレにどんな魅力があったのか甚だ疑問だったけど、強いカリスマによって作られた大きな国が、王の死と共に崩壊するのは歴史の常だった。

 私も王位なんてどうでもいいと思っている。母は病床の父に代わって権勢を振るおうとして宰相から冷遇され、先ほど下手な演技をしていた父の弟と密会を繰り返している。どちらも今のホルノスを支えられる器には思えなかった。

 大陸へ引き入れたフーリア人たちの勢いは凄まじく、もうじきホルノスまで戦場になる。

 他国からの移民や敗残兵を引き入れて上手く使っているようだけど、ここで国が崩壊すればもう耐えられない。


 そう思って嫌味を言ったというのに、彼は死んだ父に夢中で、何一つ反応が返ってこなかった。


「出来もしない理想でみんなを騙して、百年の恨みを買ったの。こんな静かに死ぬ事さえフーリア人たちは許せないでしょうねっ」


 苛立ちのまま肩に手をかけて言うと、宰相は凄まじい形相でこちらを睨み、胸元を掴みあげてきた。

 頬を今も流れ落ちる涙に、見たこともない大人の泣き顔に、息苦しさを感じて目を背ける。


「…………なによ、そんなに泣く事ないでしょ……」


 いい加減、自分が恐がりなのは分かってきている。

 だから、練習したとおりに深い呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けた。


 手を離した宰相は再び父へ目を向けると、先ほどまでより少しは落ち着いた様子で、しかしずっと、その目を離そうとはしなかった。



 途端に息苦しくなって、薬のにおいが充満した部屋を出る。

 飛び出してきた私に衛兵が驚いたけど、構わず駆け出した。

 たどり着いたのは、裏庭を望む空中庭園だった。


 石造りの簡素な机と椅子、地味な草花で飾り付けられただけの、地味な庭園だ。


 体調を崩したばかりの父はいつもここで時間を過ごしていたというけれど、私はここにまであの薬のにおいが染み付いているように思えて近寄らなかった。

 飛び込んだはいいものの、思わぬ場所に顔をしかめて引き返そうとする。


「おっとわるい、君の場所だったかな?」


 庭園の端に人影があった。

 背格好からして、まだ子ども。

 年上らしいけれど、声はやや軽薄にも聞こえた。


「まあなんだ、もうしばらく貸しててくれ。ちょっといろいろ起き過ぎて、俺も少し参ってるんだよ」


 石の柵へ背を預けて星空を見上げる姿に、引き返そうとしていたのも忘れて見入った。


「……何を見てるの」


 問いかけには沈黙があった。

 けれど、居ないものとして扱われたのではなく、彼は額へ手をやり、笑おうとして失敗したみたいな吐息をつく。


「何にも見えなかったから外に出てみたんだけど、ここは景色しか見えないから、どうしようかと悩んでた」


 彼はじっとこちらを見て、


「ここは遠くまで見渡せるな。だから、色んなものが見えた気がしてきちまう。ここは高すぎる。あぁ……もっと低い場所を歩くべきなんじゃないかなって、今喋ってて思ったよ」


「歩いてどうするの」


「本ばっかり読んでちゃ見えないものを見に」


 笑った。

 それで、私も気付いた。


「悪い悪い。実は途中で気付いてたんだけど、どう話せばいいか考えるのも面倒になかったからさ。立場は違うけど、従兄妹同士だし、許してくれよ」

「……ビジット=ハイリヤーク」

「どうした、ルリカちゃん」

「ちゃん……」


「年下なんだから構わないだろ。俺のことは兄と呼んでいいからな」


 妙な感じだった。

 親しさで言えば、物心ついた時から一緒の乳母が一番の筈なのに、この従兄妹と話していると、これが肉親なのかという感想が湧いてくる。

 父が死に、嘘泣きをする母と、それと密会を重ねている父の弟とを見て、誰からもそんな印象は受けなかったのに。きっと、彼が本当に何気なく話しかけてきているからだろうと思った。容赦の無い言葉をぶつけてくるあの宰相とも違う、妙な、身体の奥がもぞもぞする感じ。


 ただ、まともに会うのさえ今日が始めての人に兄と言われても納得できないのも確かで、


「ビジット」

「お兄ちゃん」

「ビジット」

「お兄様」

「……ビジット」

「はぁい、ルリカのお兄さんことビジット兄さんだよ。そんなに名前を連呼されると求愛されてるみたいで困るだろ」

 結局自分は呼び捨てにしたらしい。

 従兄妹で求愛などと言われてもため息が出るだけで、そんな私に兄さんは両手を上げて肩をすくめた。


「今日みたいな事はやめとけ」


 だから不意に真剣な色を増した声に、私は自分の内心を見透かされたみたいに怯えてしまう。

 いや、見透かされてるんだ。暇つぶしに来訪者たちの反応を見て、彼らの今後の動きを占おうとしていたことに。


「……知らない」

「お前が次の王さまになりたいってんなら、そういう力も必要になるんだろ。けどな、そりゃもっともっと歳食ってから覚えりゃ良いことだよ。馬鹿で間抜けな内から頭の良いフリを覚えると、頭が良くなきゃいけなくなってから馬鹿で間抜けになれなくなる」

「なに……それ……」

 お前だってまだまだ子どもじゃない、そう思うのに、言い返す言葉が浮かばない。

 何か返さないと。

 自分の正しさを証明する言葉を。

 そう思っていたら、急に彼が息を抜いて、こちらへ歩いてきた。


 腰を落とし、目線が合うと、薄闇で見えなかった彼の表情がよくわかるようになった。


 彼は、ビジットは困ったように笑っていて、こちらの頭に手を置いて言うのだ。

「悪かった。まあ、お兄さん的には? 妹のことが心配になったんだよ。ほら、コレでも食って機嫌直してくれって」

 言って、取り出した包み紙から丸い粒を出し、口の中へ押し込んでくる。


「っ――!?」


 甘い。

 舌の上に弾けた、今まで感じた事もないほどの強烈な甘みに頬の内側が痛くなる。


「ようやくガキらしい顔になった」

 してやったりと得意気に笑うので、私はむっとして今度こそ言い返す。

「そっちだって、ガキじゃない……」

「そっちの方がずっとガキだ」

 更に言い返そうとして、すぐに熱が冷めていく。

 こんな下らない言い合いに押し切っただの押し負けただのと、こだわる方が子ど――


「あいたっ!?」


 額を指で突かれた!?


 もう訳が分からなかった。なんだこのよく分からない生き物は。最初話した時は少しくらい頭が回ると思ったのに、こんな……こんな…………。


「生意気な奴だなぁ、ルリカは」

「なっ!?」


 生意気!?


 こんな物言い宰相にだってされたことがない。

 兄を名乗るこの男は楽しげな笑みを浮かべたまま、更にもう一度指を向けてくる。


「っ……人のっ、ひたいをっ、ついてこない、でっ」

「おでこって言えよ。そっちのが可愛げあるだろ」

 させるもんかと手を払い、身体を仰け反って、腕を掴もうとしたら逃げられて、つい追いかけようと飛び跳ねてしまう。

 つまり両手を挙げていて、そしたらコイツは急に逃げた手を勢いよく降ろしてきた。

「っ……!」

 思わず目を瞑って両腕でおでこを守る。すると、


「ほーれ、たかいたかーい」


 無防備になった両脇の下に手を入れられ、持ち上げられた。


 あまりの事態に開いた口が塞がらなくて、急に顔が熱くなってくる。


「え? あ……あれ、ぇ……?」

「うーん、やっぱ俺ももっと力つけた方がいいかなぁ、結構重いわ」

「っっっ~~ていや!」


 ごふぅっ、と腹への蹴り上げを受けて崩れ落ちる不届き者と共に、支えを失った私もしりもちを付いてしまう。

 お尻を打つなんて初めての事なのにっ!


 思いっきり蹴ってやったから痛みは向こうの方が大きかったようで、素早く立ち上がった私をお腹を押さえた馬鹿が見上げてくる。


「っ……やりやがったな、このおてんば姫がぁっ」


 と思ったのは間違いだった。

 様子を伺っていたこっちがじっと見た瞬間、伸びてきた腕が足首を掴んで引きずられそうになる。

 咄嗟に避けたのに、身体は後ろに傾いてしまって、馬鹿の手がかかとを掴んで軽く引っ張ってくるせいでもう立っていられなかった。


「きゃあ!?」

「っふっふーん」


 ひっくり返って、そのまま倒れてしまうと思ったのに、卑怯者はいつの間にか横に回っていて、頭の後ろを手で支えられた。

 得意気な顔に腹が立って髪を引っ張ってやろうとしたら、呆気なく頭の支えを外される。今度こそひっくり返ったかと思えば、掴まれたままだったかかと、足首を掴み挙げられて逆さに持ち上げようとする。


「なにすんの馬鹿ぁぁああ!」

「はっはっはっは! 兄の恐ろしさを知るがいい!」

「馬鹿! あほ! すかぽんたん! 変態! レディの足掴んで持ち上げるとか何考えてるのよ馬鹿ァ!」


 尚も大笑いする姿を見て本当に腹が立った。

 従兄妹だかなんだか知らないけど、こんなことをされて黙っていられない。


 勢いをつけて蹴っ飛ばしてやろうと身を捻る、けど、


「やっぱ重いな」


「わ、きゃあ!?」

「ははは――ごふぁッ!?」


 いきなり手を離されて空振りするどころかわき腹にがっちりつま先が刺さった。

 ひっくり返った私も大変だったけど、向こうは向こうで今度こそわき腹を抑えて辛そうにうずくまっていた。


 慌てて服を調えて、息も荒くなったまま両手を腰に当ててその様子を見下ろす。

 今度は十分離れているから不意打ちされても大丈夫。

 ただ、あんまりにも痛がっているからつい近くに寄ってしゃがみ込む。


「…………ちょっと……だい、じょうぶ?」


「あ、あぁ……中々いい蹴りだった、ぜ……」


 抑えているわき腹を、上からそっと抑えてやる。


「……ごめん」


 妙な感じだった。

 こんな事、誰にも言った事がないのに、自然と言葉が出てきた。


 …………兄さんは、ごろんと後ろに腰を落として、本当に辛そうな顔で無理矢理な笑顔を作った。


 そうして何度か深呼吸すると、いくらか落ち着いた様子で、


「悪いと思ってるんだな」


「……………………うん」


「それじゃ、こっちも後一発だ」


 言われた事には怯んでしまったけど、仕方ない、となんとか頷いて見せた。


 兄さんが手を握って大きく振りかぶる。

「っ!」

 見ていられたのをそこまでで、思わず目を瞑ってしまって、襲ってくる痛みを待つ。


「………………ほら」


 いつまでも痛みがこないから、どうしたんだろうかと思っていたら、とてもやさしい声が掛かる。

 それで、つい目を開ける。

 目の前に握った手があって驚いたのも最初だけで、

「仲直りの印だ」

 くるりと返した手の中から花が出てきた。


「兄が妹殴るわけないだろ」


 青い花。内側が白くて、外に行くほど青みが増していく、綺麗な花びらだった。

 それを兄さんは私の髪に刺して、あの得意気な笑みを見せる。

 頭を撫でられる感触にまた顔が熱くなっていくから、口を尖らせて文句を言いたくなる。


「…………足引っ張ったし、持ち上げたし」


「兄妹喧嘩って俺もやったことなかったからな。ルリカが思ったよりやんちゃだったから、つい力が入ったんだよ」

「下着まで見られたし…………」

「そんなもん気にする歳かよ。色気なかったからどこか股なのかも分からなかったぞ」


 どん、と一応は手加減して身体を押す。

 こっちに寄っていた身体は素直に尻をついて、馬鹿兄さんは足を組んで胡坐を掻く。


「やさしいな」

「……仲直りはしたし」

「そか」


 笑って、けど、星空を見上げた顔からはすぐに表情が溶けていってしまった。


 それでつい、どうして自分がここに来たのかを思い出してしまう。

 泣いていた宰相、ダリフの顔を思い出す。

 大人のあんな姿を見たのは初めてで、普段ずっと陰気な表情をしているから、物凄く驚いた。

 考えているとどんどん胸が苦しくなってきて、私も兄さんと一緒に空を見上げた。


 いっぱいの星。


 ずっと見上げていると、それしか目に入ってこないから、まるで自分が星空の一部なったような気がしてくる。


 考える。


 あぁ、


「――兄さんも、何かから逃げ出してきたの……?」


「…………まあ、そうだな」


 この地上から消え去ってしまいたい。

 居場所が無くて、周りは自分を道具にしか思ってくれなくて、本当はこんな風に言い合ったり、喧嘩して、仲直りして、そんなことをしてみたいのに、私たちは国なんてものを動かす為の歯車……無ければ何一つ回らない大事な大事な道具と思われている。お城の一番目立つ場所に飾っていないといけない調度品。壊れたり、ひび割れたりしたら、いつか父のように薬くさい倉庫に入れられて、新しい調度品を生産する材料に使われる。


 極端な考え方をしてるとは思う。

 全員がそんなことを考えてはいないとも思う。

 あの部屋で泣いていた人は、本当に何故と思うくらい本気の涙を見せていた人が居た。

 父がああなっていたのは、作りたくも無かった私の前でだけで、宰相とか近衛の団長とか他の人の前では違ったのかもしれない。


 でも、作ったのならせめてこちらを見て欲しかった。


 出来が悪いでもいい、馬鹿と罵られてもいい、それも駄目ならせめて、自分の手で壊してくれればよかったのに。

 だったらアイツのせいだって、私も力一杯反抗したり、逃げ出したり、泣いたりしたかもしれないのに。


 このまま夜空に溶けてしまいたい。

 こんなに沢山の星があるんだから、きっと私の居場所だってあるんだと思う。

 数え切れないほどの星の一つになって、誰かが見上げてくれた中に私がいれば、きっと幸せになれる。


「……けどまあ、逃げらんねえよな」


 なのに兄さんは笑った。


「どうして……?」


 不思議でならなかった。

 兄さんも私と同じで、何かから逃げてきたのに。

 どうして今、そんなことが言えるんだろう。


「さっき言ったろ。ガキの内から頭いいフリするのに慣れると、馬鹿で間抜けな自分をどっかに落っことしてきちまうんだよ。俺はいいよ、元々馬鹿で間抜けだったから、ちゃんと勉強しろだの真面目にやれだの親父様に叱られてきたからな。けど、そう上手くは生きられない馬鹿が居るから、俺の考えてた退廃的で耽美な人生が狂うんだ。勘弁して欲しいよなぁ、全くよ」


 私の事、ではないのだろう。

 もし今私の手を引いて、兄さんが『逃げるぞ』なんて言ってくれたら、何もかも捨てて飛び出せるのに。


「その人が馬鹿で居られる時間を作る為に、兄さんは残るの?」


 問えば、今思いついたみたいに兄さんが笑う。


「そりゃ買い被り過ぎだなっ。俺は単純にあの生真面目馬鹿にお前馬鹿だろって言ってやるのが好きなだけだよ。あぁ……まあだから、本当にどうでも良かったけど、自分が馬鹿なことにも気付けてない大馬鹿親父の話にも乗ってやるしかないか、とか……」


 言葉を途中で切って、こちらに目が向く。

 手招きされて、つい足が向く。

 頭を撫でられる。


 少しは慣れたけど、やっぱり顔が熱くなって顔を伏せる。そのせいで、兄さんの顔を見落とした。


「お前は王になんてなりたくないんだな」

「…………うん」

 あんな飾り物、考えただけでうんざりする。

「そっか」


 兄さんは大きく息を吸って、立ち上がった。



「あーーーーーーーーーーーっ! ちっくしょーーー! しゃーねーなーっ!」



 叫びは夜空ではなく、大地へ強く、しっかりと鳴り響いた。


 そうして庭園に一人立ったその人は、薄闇の中でこちらを見る。


 今までとは違う緊張に身が竦む。


「安心しな。大事な妹にはお兄ちゃんが優しい居場所を作ってやるよ。ついでに一人で生きようとする馬鹿を、いつか俺が出迎えてやる。そうすりゃ幾分生き易くなるってもんだろうが」


 もしかしたら、


「……兄さん」


 もしかしたらと、続く言葉も分からず考えた。


「兄さんは、この国の何が間違えてると思う……?」


「王に間違いなんて無い。歴史の汚点を作ろうが、世界をぶっ壊しちまおうが、滅ぶ最後の瞬間まで自分の後ろへ続く連中に進めと言い続けるのが王だ」


 けどな、と兄さんは続けた。


「そもそも王なんて存在が間違ってる。走りたくも無い奴の尻まで蹴っ飛ばして、進む先をみんな自分の世界に均しちまう。自分たちの小さな楽園で生きていきたいって奴はきっと居ると思うんだけどな。王っていうのは人じゃないとは言うが、俺は多分、洪水とか飢饉とか、そういう大きな災害みたいなもんだと思ってる。普通に生きたい奴らからすりゃ、とんでもなく迷惑なもんだよ。それでも欲しがる奴は居るし、そういう連中は力を持つから、大抵は抵抗できねえ。ただ言っちまえば、たとえ迷惑で邪魔な存在だろうと、俺たちはもうここに生きてるんだ……生きてるんだよ」


 生きている。そう言われて、自分が調度品のようだと思っていた私は、ちょっとだけ居心地が悪くなる。


 それは、辛い。

 モノだと思って生きるより、ずっとずっと辛い。

 私が逃げ出した所に、兄さんは向き合って、言い張った。


「しばらくは俺も親父様と城へ出入りすると思う。お前も大変だぞ? あのむっつり宰相が容赦無く理想の王さまに仕立て上げようとしやがる」

「……アイツ嫌い」

 言うと、兄さんは少し驚いたようで、

「そうか、嫌いか。そういうの無いって思ってたよ」

 なんて言うもんだから、私の中で宰相はもっともっと嫌いになった。


「よぉしっ、折角だから秘密の合図とか決めようぜっ」


 急に兄さんは楽しそうな顔になって、あれこれと試し始めた。

 助けての合図、逃げようの合図、注意を逸らしてくれの合図、この庭園で集合の合図と時間の指定とか。

 大人たちには秘密の、私と兄さんだけの合図は、なんだか他のみんなを騙しているみたいでちょっとワクワクした。


「それは?」


 耳たぶに手を当てた兄さんに質問する。

 遊び混じりだった他の合図に比べると、何気ない、気付かれにくい動きに感じた。


「構わず進め。なんか面倒ごとっぽく見えても、お互いが近くに居ると困ったり、自分だけでやりたいことってあるだろ。ほら、ルリカが便所探してるときに俺が心配して寄ってきたら困るだろ?」


 せい、と馬鹿兄さんの身体を押して転ばせる。

 された方がなんでか嬉しそうで、私はその前にしゃがみこむ。


「じゃあコレ」


 指先で兄さんのおでこを押してやる。ますます嬉しそうに笑った。


「んー、コレされたらどうすりゃいいんだ?」


「…………コレされたら、無条件で相手を甘やかす事」


「あれ、そうなると俺迂闊に出来なくならないか?」


「ふふぅんっ」


 もしまたちょっかいかけて来たら、私に甘えさせてくれって言ったも同然っ。

 あーそんなに妹のおでこを突いて甘えたいんですね兄さん、って笑ってやろう。 


 なのに、


「それじゃあ今されたことだし、ルリカをたっぷり甘やかすかぁ」

「ちょっとっ、違うってっ、今のは見本だから……っ、だから抱え込んで頭撫でるなぁぁぁぁぁぁ…………」


 今日はっきり分かった事が一つ。


 私の兄さんは、とんでもない女たらしって事!






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