追憶の章 5
今回中々にグロめとエグめな描写があります。ご容赦を。
追憶の章
枯れ枝のように細い腕を掴んでいた。
肉は無く、一つ間違えれば折れてしまうのではないかと恐怖さえ覚えている。
震えているのは、腕を掴んでいる側の手だ。
逞しく、大の男を放り投げることさえある男の手は、やるせなさと、無力さと、これから起きる悲劇を想像して怯えている。
片目からは絶え間なく血が流れ落ちていた。衣服は血まみれ。自分のものと、誰か大勢の血に染められて、どす黒く変色した服はおぞましささえ感じさせる。見れば、片足はずたずたに引き裂かれていて、一部骨が見えるほど肉がえぐれている。紫色に変色するソコが、最早手遅れであることを物語っていた。
追従する兵の誰もが似たような状態だった。
皆立っているのが不思議なほどの負傷と血に塗れていて、誰もが壮絶な目で前を見据え、押し進んでいく。
後方の、厳重に守られた陣にあって、戦いの凄惨さを言葉でしか知らなかった者たちが青ざめて絶句している。
地理も分からない。言葉も通じない。相手の情報が何も無い。補給すらままならず略奪を繰り返した。
人道は既に踏み外した。従軍した神父や心の弱い者の中には自決した者さえ居る。荒み切った心の安定を保つため、王の方針によって、またいずれ自国となることを見越して控えられていた禁を破った。犯され死んだ女は積み上げられ、男は子どもや老人らを人質に前線へ送られた。言葉が分からずとも、態度で示せば意味は通じるものだ。そもそも長い航海の中で失った兵は多く、余裕などどこにもなかった。
王妃シルティアを救い出すべく派遣された、新大陸への軍は、出発前の半数に激減していた。
本国に宰相ダリフを残し、近衛兵団長マグナスとウィンダーベル家の当主オラントの率いる派遣軍を、王ルドルフが率いている。
ルドルフがこの地へ渡るのを、誰も止められなかった。
同時に、だからこそ兵たちは決して折れることなく目的を完遂した。
「ルドルフ! 王妃は連れ戻した! シルティアはここにいるぞ!」
正規の手順を踏もうとした兵を折れた腕で突き飛ばし、マグナスは仮設置されている王の間へ踏み入る。
話の最中だったのか、手前に居並ぶ者たちが彼らを見て道中何度も見た反応をする。マグナスは構わず集団の中を突っ切り、ルドルフの前に立った。
血まみれで、息の上がりきった男は、それでも高らかに謳いあげる。
「この地の蛮族どもから王妃を連れ戻した! 見てくれ! 離れてもう随分経つが、彼女がシルティアで間違いは無い! ルドルフっ、連れ戻したぞ!」
しかし応じる声はなかった。
誰もが息を呑み、マグナスたちを、そして何より、彼が強引に腕を掴んで引き連れてきた女の、あまりにも悲惨な姿を目にしていた。
頬はこけ、目は落ち窪み、肉という肉を失って骨と皮膚だけとなった身体。あの美しかった髪は半分以上が抜け落ち、腹部だけがふっくら膨れ上がった女が、果たしてあのシルティアであるのか、誰もが疑問を覚えずにはいられなかった。
女は、掴まれた腕に揺さぶられるまま、残った腕で何かを大切そうに抱いている。
自分とソレ以外この世に存在しないかのように、叫ぶマグナスにさえ何ら反応をしない。
「どうしたっ! この為にここまできた! この為に俺たちはどんなことでもした! あぁっ!! 声を聞けば分かる! 再会した時は確かに言ったんだ! 俺の名前を呼んでっ、こっ……! あぁ今はいい! 分かるだろうルドルフ! 彼女を抱いてやってくれ! もう大丈夫だと安心させてやってほしいんだ!」
だがマグナスは確信を持った声で再度言う。
「彼女はシルティアだ! どうしたんだ皆!? 何故誰も何も言わない!?」
「…………シルティア」
その時初めて、女が怯えるように身を震わせた。
ルドルフが玉座から立ち上がり、青ざめるオラントの脇を抜け、歩み寄ってくる。
「―――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!」
それは断末魔を思わせる叫びだった。
全くの無抵抗にマグナスに腕を掴まれていた女が、歩み寄るルドルフから逃げようと泣き叫び、しかしまともに走ることも出来ず崩れ落ちる。マグナスがとっさに受け止めたが、その際に腕からこぼれたソレが、ルドルフの前に落ちた。
布で包まれた、浅黒い肌の、赤ん坊。
赤ん坊の、骸だった。
「っあ、ああ、あああっ!!!――――――――!」
言葉にならないうめき声をもらしながら、床を這い蹲って骸を抱きしめた女は、ようやく恐怖に張り付いていた表情を和らげ、胎児のように丸まって動かなくなった。
ここに至って、ようやく周囲を見る余裕を取り戻したマグナスが、荒い息を整えながら説明した。
「見つけ出したときからずっと離さなくてな。取り上げると暴れるから、そのまま連れてきた。たぶん……いや、あぁ、っくそ………………、悪い、人払いをするべき、だった、か」
「そうだな」
歩み出てきたオラントが、マグナスの肩に手をやる。
「よく王妃を連れ帰ってくれた。他の者も、本当によくやった。まずは休んでくれ。お前たちは、他の誰にも出来ないことをしてくれたよ」
「だが俺たちは……」
「言うな」
視線の先、膝を付いたルドルフがシルティアを骸ごと抱きしめる。
呟く声は誰にも聞こえない。けれどもうシルティアは彼に怯えず、あえぐように何かを漏らし、眠りに落ちた。
「二人にしてくれないか」
「……この状態で二人きりにはさせられないな、すまないが」
オラントが言う。下手をすれば二人揃って自決、などという悪夢は回避すべきだろう。
マグナスもルドルフがそこまで馬鹿なことはしないと信じているが、事態が事態だけに、警戒はすべきだろう。
結局オラントがウィンダーベル家でも信用できる者に監視を任せ、玉座の間からは人払いが成された。
王妃を取り戻し、目的は達成したというのに、陣内は静まり返り、ひっそりとすすり泣く声だけが響いていた。
※ ※ ※
月が一巡りするまで、彼らは沈黙を続けた。
元より魔術の使えない新大陸の人間たちでは、尋常な手段では彼らに対抗することが出来ない。
数え切れないほどの部族に分かれ、白髪のフロンターク人によって纏められるフーリア人らの動きは遅く、またコレを好機と見て部族間の闘争が激化した地域があるということも、この沈黙をもたらした一因にあるだろう。
この時間に、治療も一段落し、早くも義足での歩行を始めていたマグナスの元へ、オラント=フィン=ウィンダーベルがとある人物を引き合わせていた。
「初めてお目にかかります。マグナス郷」
男は、仮面のような笑みを貼り付けていた。
「彼は我々の動きに気付き、密かに同道していたさる商人だ」
紹介するオラントの表情には気に食わないとはっきり出ており、敵視すら隠さず仮面男を見ている。
話はこうだ。
大部隊を派遣、しかも王まで同道するとあっては、何か大きな商機になるのではと彼らは紛れこんでいたらしい。
そして新大陸の存在を知った。王妃奪還に荒れる陣内で密かに情報を収集した彼らは既に海図も周辺地理にも詳しくなっている。
敵となる全ての者が浅黒い肌を持っており、大所帯とあっては個人間の連携は薄れる。同じ肌の色をしていれば仲間だという、油断が招いた情報の漏洩だった。
ただ彼らはこの大航海時代と呼ばれる海洋貿易に乗り遅れた内地の商会。後ろ盾はあれど最早既存の勢力下へ食い込むことは不可能。
可能ならば、今後ホルノスがこの地を植民地とし、世に覇を唱えるにあたって、御用商人として取り立ててほしい、とそういうことだった。
一頻り長広舌を振るった男を下がらせ、オラントと二人になった後で、マグナスが言った。
「始末できるか?」
「奴は連絡役だろう。他にどれだけ入り込んでいるか分かったもんじゃない」
「だよなあ…………」
大きくため息をつき、あの時玉座の間でルドルフと話していたのがあの男だったのを思い出す。
「派手にやったんだ。情報が漏れることはダリフも言っていたが、状況が悪い」
「許可せず戻れば新大陸への航路ごと他国へ売られるな」
「なんとか出来ないのかよ、天下のウィンダーベル家だろうが」
「ああいう手合いはカビや害虫みたいなもんだ。纏まっている所を払えはしても、根絶する手はねえな」
「それにしても……ああ胸糞悪いっ!」
男が品目としてあげてきたモノが、どうにもマグナスは気に食わなかった。
「戦地から奴隷を商品として送るくらいは良くある話だ」
「言い方が気に入らねえ! 連中は珍しい肌をしているから、欲しがる人は多い筈だあ? あぁ敵になってる連中はぶち殺すさ。仲間をやられて憎いとも思うさ。けど野郎の目は、決定的に違う見方をしてやがる!」
「しかし良く調べてある。我々の地ではあまり見ない、手製の武具は美術品としても欲しがる者は多いだろう。連中、文明はまだまだのようだが、工芸品を生み出すことに関しては相当に優れている。織物奴隷としての需要も高いだろうな。男の身体能力に関して言えば、明らかにこちらの平均を上回っている。労働力としても悪くない」
「テメエは賛成だってのか」
殺意さえ込めた視線を、オラントは半眼でいなして言う。
「評価と感情的な好悪は別だ。第一、この大規模な派兵でどれだけ使ったと思う? 向こう十年分に及ぶ貯えが消し飛んだ。失った兵と、これから戻る間に減る事も考えれば、ホルノスはもうおしまいだ。お前は知らないようだが、入り込んでいたのはあの連中だけじゃない。イルベール教団とかいう頭のおかしな連中が、こちらに到着してから勝手に各地を歩き回ってる。言葉も通じない異大陸に聖女の教えを広めるんだとか、慈善活動に精を出してんだよ。他にも――」
「じゃあなんでアンタはついてきたっ。そんなことァ派兵する段階で散々言われてきたことじゃねえか! 裏でコソコソ動いてたお前が、なんでここで動いた!」
駆け引きもなにもなかった。
元々マグナスはそういうことが苦手だ。
策を弄することに忌避感さえある。
ここにダリフが居れば、きっとこんな暴挙は許さなかっただろう。
胸倉を掴んだまま、もう片側だけになった目でマグナスは、自分たちより幾分若い男の顔を見る。
髭を生やし、積んできた経験から風格が漂ってはいるが、優男と呼んで差し支えない顔つきの男は、ポツリと――
「王が欲しかった」
知識の解放者と賛美される傍ら、時に非情な手段で敵対者を皆殺しにし、胡乱な手段でホルノスを、ルドルフたちを支援し、支配してきた男。
「俺ァ好き勝手やってきたさ。気に入らない連中は皆殺しにし、やりたいことの為に民から税を吸い上げた。幸い策を弄するのは得意だったらしく、気付いたら恨み言より賞賛の声が多くなっていた。けどな、俺はとことん自分が外道だと思ってる。だが死ぬのも御免さ。くたばれと殴りかかってこられたら引きずり倒してぶち殺すのに躊躇もしねえ。大勢が俺を正義と呼ぶが、悪と呼ぶ連中も確かにいる。俺はどっちだ。あぁ、こんなの青臭い感傷だって分かってる。けど馬鹿な夢を語る王が実在すると聞いて、そいつが俺以外の誰かの手のひらで飼い馴らされるかもとなった時、動かずには居られなかった」
それがあのティレール攻略戦でルドルフたちの後ろ盾となった理由だと。
「実際、王は上手くやっていたさ。ウィンダーベル家が元々持っていた人脈や資金力での支援は確かにあったが、尽く地方の領主貴族らを配下に治めていたのは、王の人徳あってこそだったと今でも思う。だから今回、王妃を無事救出出来れば可能性はあると思った。状態がどうであれ、王がかつてのまま在るのなら、たとえ破綻を目前にしたとしてもホルノスは再興出来ると思った。だが……」
この一月の間、ルドルフが人前に姿を見せたことは無い。
マグナスもオラントも、立場柄顔を合わせる機械はあったが、シルティアを慰める彼の姿に、かつてほどの望みを向けることが出来なかった。
「王は……ルドルフは駄目だ。彼が持っていた人を引き寄せる何かを、シルティアのあの惨状を見てから感じたことがない。無理もないとは、思うがな」
言い返す言葉が浮かばなかった。
近衛の長として、王への侮辱に怒りを覚える自分は居ても、その気持ちは二人の姿を思い出した途端に萎んでいった。
「……それで、あの商人か」
「…………内地では随分と非道なこともやっていたと聞く。殺しや誘拐も商品に含まれる、そんな連中だ。だが、儲けだけは確かに出す。裏切りもまずない。敵が多いからな。囲う相手には忠実だよ。軍隊に出来るのは制圧と統治と精々が収奪だ。植民地を金の稼げる場所にするのは商人の助けが要る。そのつもりで使える人間を連れてきてはいたが――」
戦いと病で死亡している。
こうなると、殺したのが彼らだと言われても信じられそうだった。
「上陸当初は相当な抵抗があったとはいえ……」
「詮無い話だ」
「アンタに頼むことは出来ないのか」
オラントはダリフでも簡単には手が出せなった。
評価の程は分からなかったが、彼ならばこの地を植民地として作り変えられるのではないか。
しかし彼は首を振った。
「まず俺がここに留まれば、本土でウィンダーベル家はのっとられる。やりそうな人間には監視をつけてあるが、新しく人員を派遣してくるまでの間でさえ持つかどうか。そしてホルノスをぎりぎりのところで支えているウチの助けが無くなればどうなるかははっきりしている。ついでに、連中が商売抜きで俺を殺しにくるだろうな。相手の規模も分からない以上、手勢でどれだけ防ぎきれるか。下手をすれば地盤作りを終えた頃に殺され、掠め取られるだけだ」
「それでもやれ、と言ったら?」
「言っただろう。ウチを乗っ取った連中がホルノスを支援するとは限らない。妥当な所で方々へ手を回してホルノスを分解し、争わせて利益を吸い出し、利権の確保に動く。容赦はないぞ」
皆、慌てていたのだろう。
危険があると知りながら、成功の病とも呼べる慣れによって慎重な判断を誤り、王妃を派遣した。十分な戦力を投じていたものの、海を越えての戦いなど経験がなかった彼らは、その恐ろしさを理解していなかった。
そして彼女が行方知れずになったと知ると、もうルドルフを止められる者は居なかった。あの宰相、ダリフですら、王の姿にか激しい動揺を見せ、駆り立てられるように、オラントですらここまでやってきた。
「もし……手があるというのなら、本格的にこの地を制圧し、全く別の国を作る事だろうか。従う気のある
者を呼び寄せていく……移民を募って…………荒唐無稽な話にもほどがあるがな」
言葉もなく黙り込むと、オラントもまたじっとマグナスを待った。
分かっている。
ルドルフがああなっている以上、今ホルノスの方針に口を出せるのはマグナスしか居ない。
ダリフの付けてくれた文官たちはいるが、彼らがするのは審議提案であって決定ではない。
国の舵取りをするには力と意思が足りない。
それに覚えていることがある。マグナスがシルティアを連れて行った、男がまさにルドルフへ提案をしていたあの場で、その文官らの幾人かが奏上する側へ回っていたことを。
「っああくそ! 俺ァなんつー間の悪いときに……」
「言っても仕方の無いことだ。王も決めかねていたから、時間が稼げたともいえる」
しかし、あのルドルフにこんな決断をしろとは、もうマグナスには出来ない。
気に食わないとは思う。だがこんな形でホルノスが終わってしまっていいのかと、悔しさを殺しきれない。あるいは時間が稼げれば、たとえばシルティアが正常に戻ってくれれば、とも思うが、あまりにも希望的過ぎた。
どうすれば。
およそ人を統べる者なら確実に考えたことのある言葉を、マグナスは幾度も想起した。
同時になるほどと思う。
今まで自分が揺るがずに居られたのは、このどうすればを背負う王が居たからだ。
ルドルフは自ら主導する事は稀で、方針などはダリフだけでなくマグナスが決定したこともある。けれど、その決定の裏には常に王がいて、彼が頷いてくれるから、今まで迷わなかったのだ。
こんな気持ちをオラントも抱えていたのだろう。
王を求める気持ちを、遠い昔に語らったこともあった。けれど本質にやっと触れたような気がして、マグナスは弱々しい笑みをオラントへ向ける。彼は、何も言わずに目を伏せていた。
「時間だ……」
呟きは決意より先にやってきた。
「今は確かに、俺たちはどうしようもない状態に陥りかけてる。だが、元通りとまでは言わないが、かつてのように戻れるだけの時間が稼げれば、ルドルフとシルティアと俺とダリフと――アンタや他の皆が居れば、かつて夢見たホルノスへ至れるはずだ。だが」
決意を口にすることは永遠に叶わなかった。
敵の襲撃を告げる警鐘が鳴り響いたからだ。
遅れてきた伝令にマグナスは手をやって遮ろうとする。しかし彼は、更なる驚きを運んできていた。
※ ※ ※
マグナスたちがたどり着いたとき、既に多くの主だった者たちが玉座の間に集まっていて、中にはあの男も混じっていた。
この場に人を集めたのはルドルフだという。意外、という思いと、やはり、という期待に心が高ぶっていた。敵の襲撃が来ているとはいえ、王の呼び掛けを無視は出来ない。一月に渡って部屋に篭っていた彼の王が立ったのだ。参じない近衛がこの世に居るだろうか。
しかしあび男までいるというのはどういうことか。またぞろ話を聞きつけて勝手に入り込んでいるのだろうか。
彼への敵意に叩き出そうとしたマグナスだったが、玉座を背に立つルドルフを見て、身体が震えた。
ルドルフは、やさしい王だった。
若い頃から変わらない、人々を魅せる、利発でやさしい王。
けれど今の彼は、ひりつくような威圧感を放ち、他者を平伏させる凄みを放っていた。
気付けば誰もが膝を付いていた。マグナスらの前で一度として笑顔の仮面を外さなかったあの男ですら、当惑を浮かべて彼を見つめている。
そんな中、ルドルフはあるモノを臣下たちの元へ放った。
いや、捨てたと言うべき所作だった。
「シルティアは殺したよ。彼女はもう生きていても辛いだけだったろうからね」
転がっているのは、彼女があれほど大切そうに抱えていた赤ん坊の骸で、それはもうすっかり朽ちて、腐臭のする肉や骨が落下の衝撃で周囲へ散らばった。運悪く近くにいた者が悲鳴を上げてひっくり返る。
誰もが固唾を呑んで見守る中、最初に動いたのはオラントだった。
「見張りは何をやっていた!」
決して凶行に及ばぬよう、人をつけていたはずだ。
だが、そのオラントが十分な信用を置いていた男は、この場の誰よりも青ざめた顔で、ルドルフに平伏していた。
「マグナス」
「はっ!」
何度も聞いたのと同じ声で、全く別物のように感じる主の呼び声に、しかしマグナスは不思議な歓喜を伴って足元へ傅いた。
「君は、この地の者たちを許せるかい? シルティアにあんな苦しみを味あわせた連中を、憎いとは思わないかい?」
「当然っ。近衛として、共に歩んできた一人としてっ、奴らを許すつもりなどありません!」
「なら、殺そう」
「は………………」
「殺そう。もっともっと殺して、もっともっと酷い目に合わせてやろう。良い話があるんだ。彼らを奴隷として各地に売り払うんだ。本国の奴隷たちのように財産の保障なんてしない。使いつぶしても構わない。殺しても構わない。奴らがシルティアにしたようなことを、心から悔いて詫びたくなるような、酷い扱いをしてやろう。聞いた話だとね、通常の奴隷として運ぶにはお金が掛かりすぎるんだ。だから、物として扱うといいんだって。もう一部じゃやっていることらしいけど、船倉へ押し込めるだけ押し込んで適当な食料を与えておけば、それなりに生き残って大きな利益が出るんだそうだ。瀕死のままじゃ売れないけど、向こうで改めて太らせれば十分売り物になる。あぁ、それでさ、商品を手に入れないといけない。ちょうど来ているんだろう? 押しかけたこちらも悪かったけど、殺そうとしてきてるんだ、捕らえて売り払われるくらいは覚悟しているだろう?」
「ルドルフっ、何を言って……」
「近衛兵団長マグナス=ハーツバース。よくシルティアを救い出してくれた。彼女の苦しみをこの手で終わらせることが出来たのは君のおかげだ。もうそんな人をホルノスの民から出しちゃいけない。そう思うだろう?」
「それは――」
「君も許せない筈だ。ずっと前から、君はシルティアを愛していた。すまないとは思っていたんだ。けど、君が想いを殺して尽くしてくれていることも分かったから、誰よりも君を信じ、君の望みを叶えてやりたいと思った。本当に、心から信頼しているよ、マグナス」
これは、なんの悪夢だろうか。
心から聞きたかった言葉が、心から聞きたかった人から告げられている。
なのに、何故こんなにも身の内が荒れ狂っているのか。
数え切れないほどの刃が内側から切りつけてくる。
片目を失い、片足を失ったことなどどうでもいいと思えるほどに。
けれど同時に、どうしようもないほど心が叫んでいる。
彼の、ルドルフの言葉は嘘偽りなく、マグナスの声でもあった。
シルティアに恋をした。
おそらく初めて会った時から、想いを殺したあともずっと。
そんな彼女を貶めた者たちを許せない! 地獄のような苦しみを味あわせたい! あの浅黒い肌が、穢れの象徴にさえ見えてくる!
こうなることを分かっていたような気さえする。
シルティアを預けた後、自分がルドルフほど苦しんでいなかったのは、いずれ彼が自分の怒りごと呑み込んでくれると信じていたからかもしれない。
「ホルノスは、彼らを人とは認めない。この地を植民地とし、あの生き物を狩り尽くすまで戦いを止めるつもりは無い。ちょうど敵が来ているというから、あぁマグナス、君は酷い怪我をしているじゃないか。それじゃあこんなことは頼めないかな……」
「いや出来るっ。王の命であるならば、俺は必ず奴らを地へ這い蹲らせ、倉へ叩き込んでみせよう!」
「あぁ、君なら任せられる。オラント。オラント=フィン=ウィンダーベル」
「はっ」
「君も異論はないね」
「……それが、王の意思であるならば」
よし、とルドルフが頷き、手を広げた。
「ホルノスを、この地平の彼方まで遍く轟く黄金の国にしよう」
最初から無理だったのだ。
何の犠牲も裏もなく、栄光の時代を作り上げることなど。
だから、この地を地獄に変える。
彼らから幸福のすべてを吸い上げて、本当に守りたい者たちを守り通す。
だから、
だから――
「ソイツァ違うんじゃないのかい、王様」
カウボーイハットの男が居た。
「どいつもこいつも呑まれやがって、それじゃあ永遠に殺し合うだけだって分からねえのかよ。許せとは言わないさ。けどな、このままじゃ決定的に間違っていくだけだぞ。お前らが慕ってた王様が本当に後戻り出来なくなってもいいのかい?」
「殺せ」
王命に即座の反応があった。
立場など関係なく、片端から魔術の紋章を浮かび上がらせ、カウボーイハットの男へ攻撃を放つ。
破壊の騒音の後、攻撃によって開いた大穴へ足を掛けた男が彼らを見下ろしていた。
「オラント。お前はコレでいいのかい?」
「今の王なら、まだホルノスには望みがある」
「……そうか」
ポツリと、
「そうか…………それじゃあ俺は、別の道を拓かなきゃな」
ここで止める手はないと彼は判断したのだろう。
探検家としては優秀だったが、戦士として見た場合の彼は、マグナスに遠く及ばない。言葉でも、オラントを説得できないのであれば、それ以上に届かせられる相手を彼は持たない。所詮は案内人。声を上げたことさえ命がけだった。
けれどやはり、止めきれない自分を悔やむ表情があり、
「最後の頼みだ。王様、恨みは持ってもいい。けれど恨みで民を導くべきじゃない。このままじゃ、俺たちの子どもの世代にまで恨みを残すことになる。それだけはやっちゃいけねえと思うんだ。新大陸を、この出会いを、歴史の汚点になんてしちゃいけない」
放たれた矢が彼の足元を崩す。それで彼は姿を晒してはいられず、気配は遠くへ去っていった。
すぐさま追撃部隊が編成されて、彼を追い始める。マグナスの指示すら必要ない。誰もが、彼を生かしておくのは危険だという焦りを感じていた。
嘆息する。
見ると、静観していたオラントが『弓』の紋章を浮かび上がらせていた。おそらく、放ったのは彼で、わざと外したのだろう。
元より新大陸への航海日誌を持っていたあの男と組み、ここまでルドルフたちを引っ張ってきたのだ。マグナスたちには与り知らぬ関係性がそこにはあったに違いない。
だが、
「殺すぞ、あの男は」
「それで死ぬ程度なら文句は無いさ」
ルドルフを見る。
いつしか彼は玉座へ深く座り込み、口元を押さえ、嗚咽するように肩を震わせていた。
それでもまだ、壊れてはいない。
ぎりぎりの所で彼は自分を保っている。
方向は違えど、ルドルフが生きているのなら、まだホルノスは続いていくはずだ。
いつか見たシルティアのように、身を小さくして堪える彼の姿に、どうしようもなく不安になる。
たった一突き。それだけで弾けてしまいそうだった。あの男をもう二度とルドルフに近寄らせる訳にはいかない。
「違う道なんざない……もう、俺たちには、これしか……」
こうして、ホルノス主導の新大陸開拓は始まった。
魔術という異能を知らなかった大陸の者たちは蹂躙され、狩り尽くされていく。
ルドルフたちが戻った後は更に過激さを増し、本土で売り叩かれる消耗品としての労働力は、停滞しかけていたホルノスを大きく勢い付かせた。
ヒース=ノートンは致命傷を負い、川へ落ち、やがてフロンターク人らと出会う。
※ ※ ※
「オラント、彼女は……」
「ウチで預かろう。もし、正気を取り戻してくれるのなら、もしかすると……」
けれど新大陸から戻ったルドルフは、現地にて感染したと思しき病で倒れることになる。
再会は二度と起きなかった。
奇跡的と言えるのは、後年病床にあった彼が、たった一人の少女を残してくれたことだろうか。
名をルリカ=フェルノーブル=クレインハルト。
少女は今、宰相ダリフの手によって幽閉され、王都のとある離れで暮らしている。




