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クレア=ウィンホールド
退いて行く男爵の追撃部隊を、私は高台に築かれた砦から眺めていた。
風には湿り気が混じり、汗と砂埃が肌に張り付いている。叫び続けていたせいか喉が熱く、粘ついた唾液を飲み込むのにも苦労する。
掛かる前髪を払って耳へ掛けると少しは不快さがやわらいだようにも思う。
男爵の領土内にある半ば放置されていた砦を占拠して三日、しつこく追撃を続けていた敵軍が体勢を整えるべく、ようやく大きく距離を取ったのだ。
砦の出来はお世辞にも良いとは言えなかった。標準的な守り易さを持つだけの、敵軍の進行を遅らせることが目的と言える拠点。しかし、既に半月近くも野晒しで過ごしてきた私たちにとってはこれ以上望むべくもない場所だ。
野戦ではどうあっても数の利が利く。大半の貴族らも参戦しているとはいえ、戦う力を持たない者たちの守りを考えなくてはならないのは、やはり大きな不利となっていた。
それが例え心もとない壁一枚の守りとはいえ、砦の奥で潜ませることが出来るおかげでようやく存分に力を振るうことが出来たのだ。
「クレアさん」
声に振り返ると、クリスが木の杯をこちらに差し出して立っていた。
受け取り、飲み干す。喉の奥を冷たい水が通り、腹の中に溜まった熱を冷やしてくれる。
「ありがとう。ぼろぼろだな」
「前線で戦っていた人たちに比べればまだまだ、ですよ」
「そうだな。彼らを労ってやらないと」
言いつつ、クリスの鼻先を染める砂埃を指で拭う。
目を丸くしながらも受け入れる彼女を見て、戦いに猛っていた心が少しだけ緩む。
髪色も髪の癖も名前もくりくりしているなどと皆に言われるクリスだが、なるほど目もくりっとしていて可愛らしい。
「はぁぁぁぁ……今日はクリスを抱いて寝ようかな。久しぶりに熟睡できる気がする」
もたれ掛かるように正面から小さな身体を抱きしめる。私は男性ほどではないものの、女性にしては身長があるから、小柄な彼女が時折うらやましくもなる。かわいい。
「ははは。その前にクレアさんはやることがありますよ?」
「分かっている。だがちょっとだけ可愛いを補給するんだ」
少しして、砦の第一広場へ顔を出すと、一斉に歓声があがった。
盛り上げるにしてもやりすぎだろう、父へ目を向けると背けられた。
労いの言葉は、ありきたりで、でも私らしい普通の言葉で終わった。それでいい。ただ最後に付け加えた一言は、父の仕込みを大きく超える、主に女性陣からの歓声を呼んだ。
「ここの井戸水は非常に豊富らしい。湯を沸かすことは出来ないが、水浴びの用意を進めさせている。愉しんでくれ」
ちなみに、その日は本当にクリスを抱き枕にして寝た。
戦いへ向けた考え方がある程度吹っ切れた反動か、今まで彼女の前では格好の良い先輩であろうとしていたが、どうにも我慢が出来ず甘えてしまうのが、最近の悩みだった。
「クレアさんってご実家じゃ大きなぬいぐるみとかと寝てませんでしたか?」
「んにゅう」
黙秘した。
※ ※ ※
三日の大休息を取った。
物資も今後を考えた上で許す限りの贅沢をし、心身を整えた私たちは、
「出陣する!」
砦に付設された大角笛を合図に再編を終えた各部隊が展開し、前進していく。
向かう先は平野。男爵の追撃部隊が下がっていった湿地帯を避ける迂回路だ。
この三日、彼らが仕掛けてこなかった理由は明白だ。
私たちには目的地がある。ここで留め置かれることを良しとせず、待っていれば勝手に砦から出てくるのだ。継続的な攻めを加えて休息を取らせない可能性もあったが、どうやら敵指揮官は自軍の補給や休息を優先したらしい。どの道この先に同じような機会はおそらくない。数と地の利を持つ彼らからすれば、いたずらに兵力を損耗させるより士気を回復させた上で順当な勝利を狙うのが常道だ。
まあ、包囲して消耗戦を強いるだけの数が居れば良かったのだろうが、半端な包囲は容易く突き崩されるだけだと、三日前の交戦で彼らにも知らしめた所だ。
だから、仕掛けてくる。
私たちと同じく三日の休息を得た、数に勝る彼らが、行軍でどうしても脆くなる側面を狙ってくる。
天へ舞い上がる『弓』の一矢。
続いて二つ目、三つ目は……来ない。
「敵の襲撃だ! 相当数居るようだが本隊であるかどうかは分からない。我々は予定通り敵を抑える味方の後方へ陣取り、包囲作戦を展開する! さあ動け動け! 一歩遅れれば味方が一人死ぬと心得ろ!」
砦で調達した笛を鳴らし、一斉に私の居た先頭集団が転進、平野部へ向けて走り出す。
燃え上がる魔術光は、全てが赤。
行軍する敵部隊を叩くなら、分断を狙うのが常道だ。初手で頭を抑えたかったのだろうが、側面に見晴らしの良い平野部がある為に離脱は容易。もし狙ってくるのなら車輪陣に移行する予定だった。
この場合の動きも考えてある。今までの敵全体の動きや、部隊それぞれが分断後にとった独自の行動など、既に分析班からの予測があがっている。
「やはり強気に出てきたな」
走りながら見る味方の背中に感じる、敵の攻勢は苛烈だ。
「だがそこの守りは最も分厚くしてある。易々とは抜けられんぞ」
魔術戦における厄介な所の一つは、敵が非展開状態にあった場合、属性が把握できないことにある。同数の敵が居ても、内訳を予測することは難しい。幾つもの構成、組み合わせに隊列を変換出来るよう、大休止の後にしっかり打ち合わせは済ませてあった。
来ると分かっている奇襲をするより、彼らはこちらの進路を見定めた上で陣を敷いて待ち構えるべきだったんだ。まあ、この辺りは優秀な仲間たちからの受け売りだが。
元より兎狩りをしに来た連中が、方針を転換した私たちに二度三度と煮え湯を飲まされている。軽く終わるはずだった仕事がとてつもない難事だと分かった時、人はため息をつかずにはいられない。
下がった士気は三日の大休止で整えたことだろう。
だからこの一戦、是が非でも彼らは勝利たる何かを成し遂げる必要がある。ここで勝てないと兵が思ってしまえば、再び立て直すことがどれほど難しいか。
あと少しで後列の者たちと合流できる、という所で、とうとう味方の壁が左右に割れた。
「はやいな……っ!」
言いつつ笑う。
時間を稼ぐに十分なだけの人員を置いていた筈だ。それを超えてくるのなら、相手を賛辞するべきだろう。
合流した。しかしまだ不十分だ。
「『剣』(ブランディッシュソード)は前へ出ろ! 敵は早いぞ! 『盾』(フォートシールド)の展開まで持たせてみせろ!」
先頭部隊と後方部隊の『剣』は、見せ掛けの包囲を演出する為だ。
中身がどうであれ、死に物狂いで突破した先を包むように敵が陣取っていては、兵は確実にひるむ。将の声も、激も、理も、伝播するには時間が掛かる。
あとはひるんで動きを鈍らせた敵が立ち直って包囲突破を果たす前に、『盾』の展開を終えてしまえばいい。
その時再び敵と交戦している部隊から矢が放たれた。
同時に分断された味方の壁が更に大きく抉り取られる。
吹き荒ぶ青の魔術光。『槍』(インパクトランス)ではない。全身を白の鎧で包んだ、男爵の持つ精鋭。
「っ!! あれは!」
たった二騎。
『騎士』(インペリアルナイト)の紋章を持つ術者の登場によって味方の防衛線は瓦解した。
「クレアさんっ、あれは!」
「あぁ……っ! 男爵の反乱軍本隊に居るはずの白騎士だ! 二騎……もう一騎いたはずだが」
そうして先行していた味方部隊が突き崩されるのを見る。
打ち砕き、姿を現したのは最後の一騎と、
「ラインコット男爵……!」
「随分と苦戦していると聞いてね。これはこれは、思わぬ粒があったものだよ、ウィンホールド家のお嬢さん」
不遜極まりない振る舞いで、『旗剣』(ライトフラッグ)の紋章を浮かべて歩み寄る姿に、味方が静かに身を引いた。隣には『騎士』の術者も居る。用意もなしに相手が出来るほど容易くないのは、一番隊の者なら誰もが身をもって知っていることだ。
加えて阻もうとする者へも下がるよう合図を出し、この間に次の一手を進めさせる。
動く味方に紛れて小さな指先を掴み、少しだけぐっと握る。
言葉は要らなかった。私たちは背中合わせに離れて、方や男爵の前へ、方や次なる動きへと紛れ走り出す。
歩み出た私に、男爵は大げさな動きで礼をした。
こちらが応じる義理もなかったが、時間稼ぎに令嬢としての礼を返してやる。
「会いに来るのなら、使者くらいは寄越して欲しかったな。おかげで出迎えの用意も出来ていない」
「ここはオレの領地だからね。客人を自ら迎えにいくのは領主の務めだよ」
「あぁ、躾のなっていない犬どもがしつこくて苦労していた所だ。配下の振る舞いで飼い主の格も知れると言うが、そうではないと証明してくれることを願っているよ」
「そうだね。ならまずオレの居城に案内しよう。君たちにはそこでゆっくりしてもらいたいと考えているんだ。歓迎もしよう。中央で利権を貪っていた君たちのような贅沢は約束しかねるが、この地に古くから伝わる素朴な歓迎だ。きっと気に入ってもらえると思う」
「女を誘うにしては貧相な言葉だ。なるほどそれでその歳まで独身という訳か。歓迎の質も知れたようなものだが、さてどうしたものかな」
「……女を自称するには少々、君は粗暴すぎるようだ。礼を弁えたまえ。ふっ、その身体つきで良く先のような言葉を口に出来たものだよ」
いら。
「さすが行き遅れはこだわりがキツいものだな。なるほどそれで彼女か」
「誰のことか分からないが、君ももういい年だろう。早ければ結婚し子をもうけていてもおかしくないというのに、学園では随分と遊びまわっているようだったしな」
「いつの時代を話しているんだか。あぁ、そうやってお前は若い女を娶ろうとしているんだな。しかし過去の嫁ぎ歳からしても、やはり彼女はどうかと思うよ」
「生憎と特定の誰かを迎えたことはないんだがね。ふらふらと曖昧な言葉で逃げず、はっきり口にしてもらおうか?」
「お前が今も後生大事に抱え込んで虜にしているんだろう? あの幼児体系極まりないティア=ヴィクトールを。あぁ、残念ながらあの年齢になってもあのままというのは確かに希少だ。大切にしたい気持ちも分からないでもないよ。けれどお城の奥に隠して引きこもるのはやりすぎだ」
しばらくして、ラインコット男爵が盛大にため息をついた。
伏せて見えなくなった顔を手で押さえ、次第に肩が揺れ始める。
「は――――は、ははははははははははははははははははははははははははははははは!! これはいい! なんて浅はかな女だ! なんて下らない! あぁ、一度でも再度話して引き入れようかと考えた私はたしかに愚かだったようだ! なあクレア=ウィンホールド、状況が飲み込めていないのか? 包囲など意味はないよ。三騎の『騎士』に加えて『旗剣』を持つ俺までもここに居る。通常の戦術を単体で覆すのが上位能力者だ! それが四人! たしかにそちらの貴族にも一人二人居たらしいが、戦う訓練を続けてきた者と退廃に身を腐らせていた者が同格である筈がないだろう!? なあ跪けよっ!? オレの足元に傅いて許しを請えよ!? そうでなければお前たちは明日から鎖に繋がれ冷たい石牢で過ごすことになるんだぞ? なあオイ!?」
取り出したのは白と黒の炎を絡みつかせて燃える石。
クリスから詳細は聞いている。
あれが、ラ=ヴォールの焔。
なるほど最初に見たときは気付かなかったが、あの炎は魔術光だ。
私たちの知る四つの属性に根ざしたものとはまるで違う、新大陸の魔術の結晶。
取り出した意味は分かる。
「なるほど。連れて来ていたか、ティア=ヴィクトールを」
「最後の問いかけだ。私に跪け。協力すると約束しろ」
あの日、ハイリア様が去っていった古城でのことを思い出す。
私は、託されたんだ。
彼が、私に部隊を預けると言ってくれた。
自身の望みの一端を担い、共に戦えと言ってくれた。
あの時はちゃんと分かっていなかったけれど、単に守って逃げるだけしか考えられなかったけれど、今は違う。
それに――――本当に追い詰められているのがどちらかなんて、考えるまでもないじゃないか!
腕を振り上げ、合図を出す。
予定とは違うが、やはり備えはするものだな。
「全軍! 砦に向けて撤退せよ!!」
既に包囲の外側に防衛線が敷かれてある。
砦内にも部隊を伏せてあるから、彼らの援護も受けられる。
包囲の維持が不可能になった場合に備えて予め考えておいた策だ。
戦う必要はない。
もう時間は、私たちに味方しているのだから。




