07
公式試合、総合実技訓練の期日が翌々日に迫った連休の初日、俺は以前の約束通り、三本角の仔羊亭へやってきていた。人の少ないだろう時間を狙ってきたからか、カウンター席でのんびりやっていると女主人が話し掛けてきた。
「美味いかい?」
「あぁ、たまに食べたくなる味だ」
「あんたがそこまで言うんだったら、金持ち相手の商売でもやってみようかねぇ」
「止めておけ。食わせる以外の部分が面倒だ」
「っは、確かにね」
彼女の人柄か、まだ会って二回目にもかかわらずとても気楽に話していられる。店の雰囲気も気に入っていたから、訓練続けで疲れきった身体を休めるには良かった。
この二日は休息としたから、昨日はかなりのトレーニングをして全身が筋肉痛だ。
「ほら、ちょっと付き合いな」
言って彼女が差し出したのは琥珀色の液体。酒だ。それもかなりキツいもの。
「一応俺は学生なんだがな」
「お客も全員はけちまったんだ。昼下がりの暇な時間くらいのんびりやってていいだろ」
「おかしいな。ここに優良客が一人居る筈なんだが」
「ほら摘みだ。新作だから感想もよろしくねぇ~」
既に飲んでやがった。
まあ俺も中身は酒慣れしてるから構わないが。ハイリア自身も貴族の社交で酒は飲んでいる。禁酒の法もないから子供でも飲む世界だ。
「ちびちびやるなよ男がよお」
「ウイスキーを一気飲みする女も相当珍しいぞ」
しかもジョッキだ。おかしいだろソレ。
「っぷはあ! やぁ~こんぐらいじゃないと来ないんだなぁ」
「来たら駄目だろ。仕事中だろお?」
「潰れちゃったらハイちゃんよろしくぅ~」
「誰がハイちゃんだ。おい、三杯はやりすぎだぞ」
案の定見るからに酒が回って顔が赤くなり始めた。いくら強い人間でも、ウイスキーなんて度数の高い酒を、何も挟まず数秒でジョッキ三杯も飲めば潰れて当然だ。
仕方なく上着を脱いでカウンターに入る。汲み置きの井戸水をよそって渡してやるが、手を付けない。駄目だ。どうしようもない。諦めてカウンター内の椅子に腰掛ける。
「月が綺麗だねぇ」
突如言われた内容にドキリとする。
こちらの反応を見た酔っぱらいが気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「むふふふふふっふふ! 聞ぃーちゃったぁ、聞いちゃったぁ!」
「……何の話だ」
「ほぉんと、どういう意味なんだろうねぇ? フロエは分からないって言ってたけど、むっふふふ。私さぁ、一時期暗殺も飽きてた頃、それでも仕事が来るから仕方なく殺ってた時期があったんだけどね、その時の趣味が忍び込んだ貴族らの恋文探索なのさぁ」
最低に下世話な趣味だった。そいつら、殺された上に恋文まで見られたのか。貴族らの恋文なんてほとんど詩だ。ポエム公開なんて悶絶するぞ……。
「そン中でもハイちゃんのはいっちばん良いよ! ロマンチックで風流で、私が若い頃に聞いてたら攫って軟禁しちゃってたかもねぇ」
どんな若かりし頃だよ。
第一欧州系の世界観で風流なんて日本的概念理解出来てるのかアンタは。
「ま安心しなよ、フロエには教えてないよ。私に聞いてくるくらいだし、気にしてはいるみたいだし? 自分で考えてみなって言っといてやったよ」
ああそうかい。
そっぽを向いて組んでやった井戸水を飲む。まだ冷たくて程よく身体を冷やしてくれた。
「嬉しいんだよ私は。アンタはクソ真面目だし、悪人には到底なれそうにない。相変わらずあの子は警戒してるみたいだけど、とんだ杞憂だ。それに最近は鼻垂れジークまでアンタのことを口に出すくらいだ」
「あいつが?」
「捨てられないくらい大切なものなのかねぇ、貴族って。とか言ってたな」
「それは……」
かなり意外だった。ヤツからすれば俺は鼻持ちならない貴族の筆頭だ。多少出会うタイミングがズレたが、序盤のイメージは敵対しているのもあってそれほど良くなかった。そもそもアリエスルートへ入るまでは、ただの噛ませキャラでしかないハイリアを気にかけるジークなど見たことがない。
「あの馬鹿にしちゃ珍しい言い方だったね。普段なら笑い飛ばして捨てちまえって言って終わりだったさ。で、どうなのよ貴族サマ。捨てられない?」
「不可能だ」
俺としての意識よりも、ハイリアとしての意識が即答していた。そして俺にも納得がある。別に権力が惜しい訳じゃない。だが大きく物事を動かそうと思えば、今の地位は非常に効率がいい。
民主主義は確かに民衆から見る政治の理想だったかもしれない。だが、意思決定に時間が掛かり、一貫性を持てない欠点がある。
もし優れた指導者が存在するなら、有無を言わせない影響力は何者にも勝る強みだ。当然こちらには権利の不在という大問題があるのだが。
いや、と俺は思う。
ハイリアの中にある貴族意識というものは非常に複雑だが、その根幹にあるものを探った。あの時、ヴィレイ=クレアラインを前にしてメルトを助けられなかった理由の一つ。
「今の俺たちがあるのは、遠い先祖から連なる血のおかげだ」
はるか昔、ウィンダーベル家など塵芥に等しかった時代で、先祖の一人が功績をあげた。そこから着々と積み上げてきた結果が今だ。
血の重み、先祖が遺した財産の相続。それに対する情を、誇りと呼ぶのかもしれない。
情は正しさに対して意味を見出さない。もし俺がイルベール教団と本格的に敵対し、それによって両親や、アリエスにまで類が及ぶと考えた時、やはり怖れは浮かんでくる。大切な人を守りたいという、当たり前で単純な感情がその根源なのかもしれない。
「ふぅん」
女主人は興味なさげに頷いて、また酒を煽る。さっきから飲み続けでもう相当な量に達しているだろう。
「いつかさぁ……あの二人が何もかもを捨てて、自分の幸福だけを見られたらなぁって思うんだよ。いつまでも父親との約束引きずって、こんな所まで来てさ。学園への入学だってこっちで面倒見てやったんだぜ? いざって時に残しといた借りぃ、ほとんど使っちゃったって」
「そうか」
「ホント……ふわ、ぁ……なんなんだろうねぇ。皆私みたいに生きればいいのさ。人殺しでもこうして酒飲んで居られる世の中なんだ……あの子らが…………あの人の子どもたちが……幸せに、なっちゃ……いけないなんて………………」
「あぁ、そうだな」
「…………だか、らさ……私、は……」
語りは徐々に小さく、途切れ途切れになっていった。
酒のせいもあるんだろうが、こんな彼女はゲームでも見たことがない。殆どが俺の知る話でもあったが、どんな時でもジークらの味方として笑ってくれていた彼女からの吐露は、想像以上に胸へ刺さった。
席に置いていた上着を取り、肩へ掛けてやる。
と、その時客が来た。
「あれ? やってる?」
ふと俺は女主人を見る。
少し悩んだが、
「主人がコレでな。出来るものは限られるが、何にする?」
※ ※ ※
料理は楽しかった。
小さな頃から料理はしていたから、基本的な技術と知識はある。こうしてファンタジー真っ盛りな世界では調味料の一つとっても貴重だが、あまり価値も分からないので好きに使わせて貰った。最悪、金で解決出来なくもないだろう。たぶん。
筋肉痛は辛かったが、動いていると徐々に馴染んできた気もする。まあ疲労が蓄積してしまうだろうけど、後一日あるから大丈夫だ。
途中からやってきた雇われの女たちとも事情を説明して上手く店は回っていた。
中でも俺の作る料理は好評だった。意外にもコメがあり、炊き上がりからインド米に近かったことから炒飯にした。それっぽく肉と野菜、卵を混ぜあわせて塩胡椒で味を整える。出来れば醤油が欲しかったというのは欲張り過ぎか。そういえば新大陸発見って胡椒の輸送ルートを探す副次効果だったんだっけか? あれ、今俺、金貨摩り下ろして使ってる? まあ美味しいって言ってもらえるのは嬉しいから気にしなくていいや。
そーれ胡椒をたっぷり挽いてやろうハハハ。
「なっ!?」
上機嫌で料理を続けていた所に、ウエイトレス姿のフロエちゃんが現れた。ああ最高だその格好。俺の味噌汁を作ってくれ!
「なんで居る、んですか……」
「中華鍋が俺を呼んでいる」
「え? えーと?」
注文が入ったのでフロエちゃんのウエイトレス姿を観賞するの切り上げた。
手早く料理を作っていく俺に驚愕する姿は中々に面白かった。
「はい、十三番テーブルに」
「え、十三番?」
クエスチョンマークを浮かべるフロエに、順応していた他のスタッフが教えてくれる。
一桁代はカウンター席に、二桁からはテーブル席に番号を振った。そして紙は浪費出来なかったから、並べたコップに料理の名前を刻み込んだ板と席番の板を差し込んで貰っている。現代が生んだ仕事のシステム化というのは非常に良い。これを全て記憶してやっていた女主人は流石というか、未発達な時代によくある力技過ぎる。
潰れてカウンター内で眠っている女主人を見て、ようやくフロエは納得してくれたようだった。
それから一時間ほど皆で店を回していると、目を引く一団が入ってきた。
既に混雑する時間を超えたから客の数は少ないが、まだのんびりと酒を飲んではしゃいでる者も居る。
「ここかね。下等市民らが噂する店というのは」
生憎と今は侯爵家の嫡男がやっておりますが。
「なにか用か?」
フロエを見られないよう真っ先に声を掛けた俺の元へ、身なりのいい男がふんぞり返ってやってくる。貴族だ。そして後ろに居るのは……十字天秤の刺青。
「君かね? ここの主人は」
違うが、敢えて寝ている女主人を、こんな連中を相手させる為に起こしたくはない。
「用件はなんだ?」
無視して言う俺の態度が癇に障ったらしい。
「ここは奴隷も食わせるらしいじゃないか」
「ここは客に食わせ、飲ませる店だ」
「人間以外にまで飯を食わせているのか? はは、なるほど、確かに残飯みたいな飯だ」
まあその炒飯、元々は賄い料理から広まったものだけどな。
「食ってみるか? 美味いぞ」
「犬の飯を喰う趣味はない。それよりもお前、雇っている奴隷には相応の扱いをしているんだろうな?」
あまりに大声に話していたからか、酔客たちが机を叩いて立ち上がった。拙い。フーリア人を隣人とする彼らからすれば、友への侮辱だ。当のフーリア人らは黙って俯いていたが、対面の男が我慢出来なかったらしい。
「なんだお前。この私に逆らうつもりか? ははっ、私は先だって男爵の爵位を受けた貴族だ。手を出せばどうなるか分かっているのか?」
なるほど、調子に乗って噂の店を教育してやろうとやってきた訳だ。
「ここは貴人の来る所じゃない。用件はもう聞いた。お帰りを」
「その前に奴らを叩きだせっ。畜生風情が人間と食事を共にするなど不愉快極まる」
「ここには客しかいない。客ではないアナタこそ去るべきだ」
「なんだと! お前っ、男爵であるこの私を追い出すつもりか!」
今すぐ物理的に叩きだしてやりたくもあったが、この店を壊す訳にもいかない。それに、昨日までの激しい訓練で今はまともに魔術が使えない。嫌な時にやってくる……。
と、ここで俺はこれがゲームにもあったイベントだと気付いた。
確か、ジークと女主人とで叩き出すだけの話だったが、生憎と一人は不在で一人は酔い潰れている。しかも問題となるフーリア人のフロエだけは居るという、厄介極まる状況だ。
男の背後で笑うフードの男たちを見る。
十字天秤の刺青は、イルベール教団員であることを示すものだ。奴隷差別の急先鋒である彼らからすれば、フーリア人を当たり前に食わせ、雇用しているこの店を潰したくて仕方がないんだろう。
以前領地でやった連中との違いは、貴族を盾にしていることか。そして本人たちはなにもしていない。ただこちらの失敗を待っている。
ここまで予防策を練ってくる相手へ、仮に俺の身分を晒して効果があるだろうか。ヴィレイの時のようになるのが関の山だ。警察も居ないこの世界なら、相手を制圧してしまえばどうとでも言える。だが、出来ない可能性も踏まえると難しかった。
術者に大して格闘戦で勝利するのは不可能に近い。
銃を持ち、多少以上の訓練を受けた人間と戦うようなものだ。それに料理をしていて馴染んだとはいえ、筋肉痛と疲労は確かにある。
どうする? 言葉で言って引く気配はない。
「んん? なんだそこの奴隷。まるで人間のような服を来て……この私を見るんじゃない!」
くそっ、考えている間にフロエへ矛先が向かってしまった。
このままじゃ以前の二の舞いだ!
「彼女はウチの店員だ。無礼な口は慎め」
挑発すると面白いほど簡単に釣れた。だが、後ろでイルベール教団の連中がほくそ笑んでいる。審問に掛けられれば拒否権はない。貴族であろうと自白か改心するまで拷問を受けることもある。逃げれば異端の烙印を押されて生涯追われ続けるし、連座制で家族にまで累が及ぶ。
いや、権力以上に、どこから涌いてくるかも分からないということの方が厄介か。
狂信者の群れは自分の死さえ厭わず捨て身の行動を起こしてくる。
この場だけならウィンダーベル家の威光で叩き潰せなくもないが、俺の勝手は知られてしまうし、因縁を作ってしまうのも拙い。
鬱陶しい言葉を吐き続ける男を無視して方策を練っていると、男の方へ客の中から酒瓶が投げつけられた。加熱した怒りが一気に弾け、店中から罵倒の声が襲う。
竦み上がる男とは逆に、教団員らは薄い笑みを浮かべていた。
袖口から抜き放った短剣を、酔っ払ったフーリア人へ向け、
「っ――!」
真っ先にフロエが飛び出した。
妖しく刃を燦めかせる短剣が投げ付けられる。
どよめき。動揺。怖れ。
淀んだ空気の中に青い風が吹いた。
「ぁ……ハイリアさんっ!?」
客を庇ったフロエを、更に俺が庇い、短剣を腕に受けていた。普段であれば叩き落とせたものを。魔術の発動も待たずに飛び出して、盾になるので精一杯だった。甲冑の守りを纏うほどの時間もない。
事が終わってようやく『騎士』による魔術光が吹き荒れ、俺は男へ歩み寄る。
刃傷沙汰に怖気づいたのか、予想外の上位能力者に動揺しているのか、元々小物に過ぎないソイツは血相を変えて崩れ落ちた。
「お友達と一緒に帰るんだな。お前たちも、これ以上は進展しないのがわかるだろう?」
もし短剣がフーリア人を殺していれば、今見ている客が収まらなかった。勿論怒りはあるが、まだ致命的な場面は生まれていない事、逆らえば自分が狙われるかという不安でギリギリ爆発するのが抑えられていた。初手のインパクトに劣る次で誰かを殺したとしても、おそらく怖れが上回るだろう。
彼らはあっさりと男を見限ると、まるで幽鬼のように去っていった。遅れて男爵らしい男がみっともなく走って行く。
「傷をっ! 治療をしないと!」
「いや、必要ない。すまんが用事を思い出した。ここは任せる」
慌てるフロエを置き去りに、俺はそのまま店を出た。それでも追い掛けてきたが、強く言って帰らせた。
元々、命がけでお互いをどうこうするほどの仲じゃない。
それに、あそこで倒れる訳にはいかなかった。
連中と揉めたのが俺であると知られれば厄介が増える。店にも、あの地区にも迷惑が掛かっただろう。後日連中が俺を探した所で、もうあそこへ行くつもりのない俺と搦めて店をどうこうするのも難しい。俺は今日、偶然あそこにいただけ。そうであればいい。
屋敷に辿り着き、人を呼んでから壁に寄りかかって座り込んだ。
途中から意識が危なかった。腕が痺れ、全身が異様に熱い。
毒を受けたのは間違いなかった。
腕は縛ってきたが、流石に歩きまわっていたら効果も薄いか。
顔を真っ青にしてやってきたメルトへ、この話を伏せること、理由の一切を尋ねない、尋ねさせないこと、あらゆる面会を断るよう言いつけて、ようやく俺は意識を手放した。
最後に、店に上着を忘れてきたことを思い出しながら。
※ ※ ※
峠は翌日にやってきた。
激しい痛みと熱にうなされながら、必死に叫びを堪えた。アリエスたちに不安を与えたくはない。なにより、俺の病状を知られて総合実技訓練の日取りが変わってしまうのが拙い。何度か意識を飛ばしながら、メルトにどうだったかと尋ねると、大丈夫ですと言って貰えて安心した。
最後の休日の記憶は全て途切れ途切れ。
ようやく意識が戻ったのは、明け方を直前とした黎明時だった。
「なにか飲みますか」
言って俺に水差しを見せるメルトがひどくやつれていた。頬に赤い腫れもあった。まだ頭の鈍かった俺は、彼女の頬へ手をやると、子どものようにただただ撫でた。メルトはじっと俺を見ていて、俺もメルトをじっと見ていた。
理由を聞きたいんだろうが、倒れる前の言いつけ通り何も聞いてこない。すまない、そう思いながら撫でる。
身を起こしてもらう。それから少しだけ水を注いだ器を口元に当てられ、ゆっくりと水が口内へ注ぎ込まれる。口元から零れた水を何も言わず拭いてくれた。情けないが、飲む力も弱まっていて思ったように水を呑み込めない。
「食事を」
「はい」
無理矢理食事を取って、何としてでも体力を戻す。時間はまだある。肉体は別としても、魔術が扱えるだけの力は戻っていた。
これなら……。
何度か吐きながらも胃袋を満たした俺は、再び横になって休んだ。頭が重い。身体はまだ熱く、目元に痛みがあった。手足に力は無かったが、特に後遺症が残っている感触はない。
メルトに身体を拭いてもらっている間も熱が消えず、ふと触れた彼女の手がひんやりとしていて気持ちよかった。服を着せようとした手を取り、引き寄せる。意識がぼんやりとしていた。触れた女の肌は弾力があり、脳が痺れる。男としての本能が女の肉体を求めていた。強く死を感じたことで、より強く生殖への欲求に火がついていた。なにより彼女は、女として魅力的過ぎる。俺の付き人となって一段と肉感的な身体つきとなり、浅黒い肌はなによりも蠱惑的で、思わず唇で吸い付いた。
メルトは何の抵抗もしなかった。熱に浮かされたまま服を脱がし、赤ん坊のように乳房へ吸い付く俺を優しく抱いてくれる。この上ない安心感に心が震えた。随分と長い時間をそうしていたと思う。
ただ、最後の瞬間になって一つの光景が頭に浮かんだ。
それでもうなにもかも駄目になった。情けないことに気力が萎え、何もできなくなった。
激しい自己嫌悪と罪悪感からベッドを飛び出す。気付けば、自由に動けるだけの体力が戻っていた。取り残されたメルトは何事もなかったように服を纏い、丁寧に礼をして部屋を出て行った。
「すまない……」
もう、君に謝る資格さえ俺はないのかもしれない。
冷めた頭でメルトの姿を思い出した。やつれた表情で、こんな時間にまで起きて俺を見ていてくれた。もしかするとあれから一睡もしていないのかもしれない。俺が無茶な指示を出したせいで、屋敷に住む様々な人間と衝突したのかもしれない。アリエスなら俺との面会を阻むメルトの頬を張ってもおかしくない。
屋敷の中が異様に静かだった。
今日は決戦の日。その筈だ。俺が自分の不調を伏せてでも遅らせたくなかったジーク=ノートンとの公式試合の日だ。
所詮は学生の部活動でしかない公式試合で、もし俺の不調が知られれば日取りが大きく遅れてしまうだろう。これがたった数日で回復するとしても、場所の確保には時間が掛かる。それではいけない。今後、仮にジークへ勝利出来たとして、ずれ込んだだけ様々な要因が複雑化して展開が読めなくなる。
ただフロエルートに入るだけでは二人の内どちらかが死んでしまう。それでは意味が無い。ルートのイベントを進めながら、その上で両者が生き残って幸福になれるエンディングを探すのが俺の目的だ。
その為に、この世界に来た。
来たんだ。
だが結局ジークの里帰りイベントは発生せず、当然ヤツは負傷もしていない。どころか、本来は無かった俺の負傷で更に状況が悪化した。
「はは……」
笑う弾みで痛みを感じる。
握力も普段の半分。頭は重く、強く意識していないと倒れそうだった。魔術が使えるとしても、万全とはいかないだろう。試合までの時間でどれほど取り戻せるか。
元より勝機の薄い相手だ。こちらも十分な準備をしてきたが、それも俺が純全な力を振るえることが条件だ。
登る陽を眺め、口元に笑みが浮かんだ。
服を自分で着直し、ベッドの脇に置いてあった補修された上着を取り、羽織る。
例え何を失っても、俺は負けたくない。
勝利で得るものが無くても構わない。
そうだ。
一つだけ思い出した。
この物語を終らせた後に、最初に浮かんだ感情を。
憤り。怒り。悔しさ。ないまぜの喪失感を補填するモノ。
その思いをぶつける対象を求めたんだった。
登っていく輝かしい陽の光へ向けて、淀んだ声が奥底から響いた。
「堕ちろよ太陽」
もう月は見えなかった。