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エリック=ジェイフリー
そっと、川辺から離れて川下へ向かう。
二人の会話を聞いてしまったのは偶然だった。なぜか距離を取って話していた二人の声は、遠くに居てもよく聞こえてきた。川音に流されて、多少、聞き取り切れなかった部分もあるけれど、話の本質は理解できたと思う。
ハイリア様へ皆が向ける忠誠、敬意、尊敬、憧れ。
それらはウィンダーベル家という血によるものだけではないと、はっきりと言える。これまであの方が示してきたものは、もう家名一つで語れるものなんかじゃないと僕は思う。
だからこその想いを、ヨハン先輩は冷静に分析し、鋭い刃のような言葉で斬って捨ててしまった。
僕はどうなのだろうか。
もしハイリア様が、仮に今までとはまるで違う……例えば悪事に手を染めていたとして、僕はいまと同じ目であの人を見れるのだろうか。自分自身の不出来を棚にあげ、声高に糾弾し、悦に浸ってしまわないだろうか。
もしかしたら――
もしかしたら、あの日、僕の背中を押してくれたハイリア様も、怯えに一歩も動けずにいる自分を奮い立たせていたのだろうかと、そんなことをようやく考えた。
僭越ながら、これはとても本人を前にしては言えないことだけど、僕にとってのハイリア様は兄のように思える人だ。
自分よりもずっとずっと大きく、強く、先を行く人。けれど時折こちらへ戻ってきては、背中を叩いてくれる。
けれど、一人先を行くハイリア様の背は、だれが押してくれるのだろうか。
いや、と。
「あ……ジェイフリー様」
彼女は、知っているのだろうか。
「メルトさん。ええと、釣り竿を……流してしまって」
浅黒い肌を持つ、フーリア人の女性。
華やかな美しさを持つアリエス様を太陽に例えるなら、エキゾチックな黒髪と静謐さを持つメルトーリカさんは月の美しさがあるんだろう。
「釣り竿を……? 申し訳ありません、ずっと川を見てはいなかったので、見逃してしまったかと思います」
「いえ、僕の失敗ですし……ありがとうございます。もう少し川下を探してみますね。では」
正確には僕の失敗ではなくアリエス様の八つ当たりで、そういえばメルトさん絡みではあったけれど、ハイリア様なら笑って許してしまいそうだから僕に言えることは何もなかった。
つまりは黙って釣り竿を探しに行きましょう、きっと誰にも罪はありません。
そのまま言葉少なに別れて下流へ向かおうとした所で、僕はふと立ち止まる。
今は食料の確保が重要だ。けど、この頭の中にかかる重い靄を払拭する為にも、自分で一歩を踏み出していこうかと、我ながら大胆なことを考えた。
「あのっ」
振り返って声を掛けたら、メルトさんは僕をまっすぐ正面に捉え、頭を下げたまま固まっていた。
あ、と思い出すのは彼女の立場だ。同時にアリエス様との会話が頭に浮かんでくる。
メイド服に身を包んだ、奴隷階級の女性。
その立場はハイリア様の奴隷という扱いで、日々屋敷に住むメイド長からの厳しい監視と指導を受けていると聞いたことがある。
彼女がどうして今の立場についたのかを僕は知らないけれど、新大陸との関係が始まった時期を考えても、元はあちらの大陸に居て、連れ去られてきたというのは疑う余地もない。
ああして苛立ちを見せながらも、アリエス様はこうして付き従うことを認めつつ、一方で敗者と呼んだ人。
一度息を吸って吐き、こちらも正対する。
「メルトさん」
呼びかけに、ようやく彼女は顔を上げてくれた。
「はい」
楚々と答える声は夜更けに聞こえる鈴虫の音に近い。
勇気を出して、踏み出そうと決めた。
「も、もし、その……よよよかったたたらら、あのっ、ええと、あの、僕は釣り竿を、えと、あれ…………釣り、ざ、あの、僕は――」
「もしよろしければ、下流までご一緒させていただけますか?」
「あ、はい……ありがとう、ござ、います……」
どうにも僕の勇気は、未だにへっぽこだ。
いや、その……だってメルトさんすごく美人な方ですし、だって探し物とはいえ女性を誘った経験なんてありませんし、だって僕だって男の子なんですもん……。
※ ※ ※
川のせせらぎよりも静かに、メルトさんは僕の少し後をついてきてくれる。
気になって耳を澄ませてみるけれど、衣擦れはおろか足音一つ聞こえてこない。
「すごく、静か、ですね」
「はい。動物たちも冬ごもりを始めているようですね」
「あ、いえ……」
なんとなしに言ったことだが、うまく伝わらなかったようだ。いや、今ので伝わる方がおかしい。
「ぁ……足音、でしょうか」
まさか伝わった。
「はいっ。あれ? あ、あの、どうして」
「意図して抑えるよう努めておりました。余計なことをしてしまったようで、申し訳ありません」
「いえそんな、その、僕なんかに気を使っていただかずとも、もっと気楽に話してくれていいと、思うんです、が」
「申し訳ありません。ジェイフリー様はウィンダーベル家の客人であり、嫡男であるハイリア様のご友人です。私程度の者が礼を失するわけにはいきません。どうか、ご容赦を」
説得の言葉をあらかた先回りで潰されてしまった。
いや、たしかにそうだ。個人個人の考えはともかくとして、互いの立場を上からの言葉で強引に曲げさせるのは、形は違えど階級差別と変わりない。
いろいろ突っ込んだ話をしたいと考えていただけに、最初にぶちあたった壁が分厚く高過ぎて、僕じゃあ呆気に取られて見上げてしまう。同時に、大貴族であるハイリア様が気軽に接してくれるのをいいことに、僕自身もかなり楽にして話していることが、今更ながら異常に思えてきた。普通なら不敬の一言で一族もろとも処刑されていてもおかしくないのに。
「足音のことですが」
考え込んでいると、気を使ってくれたらしいメルトさんが話を切り出してくれた。
川辺の土の上とはいえ、時折砂利も混じる中、足音一つ聞こえない。意図していると言っていたけれど、そんなことが可能なんだろうか。
「静歩と申します。武術の業の一つです」
「せいほ、ですか」
戦いに関しては小隊で学んだ以上のことは知らないけど、聞いたことのない名前だった。
「最初に足の裏で地面を捉える際、どこから触れて、どこを引き寄せ、どのように加える力を広げていくのか、などを調整しています。脚だけでなく、腰から上体に至るまで姿勢を整えて重心を制御しますが、慣れてしまえばそれほど難しくはありませんよ」
難しくはないらしいが難しそうだった。
「それって、ウィンダーベル家に伝わる秘法とかなんでしょうか」
言って思ったが、だとすればメルトさんが口にするはずもなかった。だったらこれは、
「私たちフーリア人の……トーケンシエルの家に伝わる技術の一つです」
どこかで鳥が鳴き、数羽が飛び去った。
その間僕は考える。
フーリア人は長年に渡り魔術も無しで僕らに対抗してきた。ウチは代々どんな国の本でも収集して取り扱っていたから偏見らしい偏見もないけれど、魔術もなしに強力な術者を葬る彼らを化け物のように感じたことは、確かにあった。
聖女の加護もなく、時に岩を砕き川を割り、荒野に城を築き上げる僕らの力を身一つで斬って捨てる彼らを脅威に感じない筈もない。一部には聖女の祈りを汚す悪魔と契約しているのだとか、そんな噂も立つほどに。そしてそれは、魔術があり、聖女という神域の存在が実在する以上、決してないとは言い切れない。
けれど、技術と彼女は言った。
砂利を踏んでさえ音を響かせない。それがどうしたとほとんどの人は言うだろう。けど小隊で様々な研究や開発に携わる僕らには、どれほど驚異的なものかが良くわかる。
足音一つを操作するには、肉体全てを制御下に置かなければならないのだから。
踏み込みの際、つま先の角度一つで威力が変わるというのはもう小隊内だと常識だ。次の動きに繋げる踏み込みもあれば、それだけに集中するものもある。まだまだ研究途中のことだけど、確かな結果を僕らは得られつつある。
僕らの力は、聖女セイラムの慈悲と愛によって授けられた加護だ。
魔術の力差は、僕らがどれだけ世界へ影響を与えてよいかという許しの差なのだ。
ちっぽけな力しかない僕は、この世界でちっぽけな生涯を送れという、聖女からの慈悲なのだから。及ばない性質の人が無理に世を動かそうとすれば、待っているのは悲劇か喜劇だ。だから示される。やすらかな人の営みをと、厳しいながらも優しい慈しみ。
技術は、それを覆そうとするものだ。
本来力をぶつけ合って加護の大きな者が勝つ、それだけの戦い。
だから僕らは技術を遠ざける。小賢しい手管を嫌い、与えられた魔術を与えられたまま扱うのだと、だれもが口をそろえて言う。
一方で、戦場には陣形が生まれ、名家は魔術の技を伝承し、僕らは道具を以って力を増強する。もってのほかと言われながら、いざ戦場に立てば技術に頼らざるを得ない。けれどそれは原則として秘するものだ。誰もが頼りながらも、そんなことはしていないと嘯いて、そういうこととして戦場は動く。
フーリア人にも技術がある。
けれど僕らのようにこそこそと育まれてきたものと、公然と育まれてきたもの。僕はメルトさんの言った静歩という技だけじゃない。魔術によって武器を手にする僕らは、それの鍛造方法を知らない。外見だけ真似てみても質の違いは嫌でもわかる。彼らの作る武器は一部の趣味人らによって高値で取引されているし、出来栄えの凄さは確かなものだった。
僕らは羅針盤を手にして海洋を支配した。活版印刷によって知識の拡散を成し遂げた。黒色火薬への評価は未だ低いけれど、僕程度の術者があのピエール神父に手傷を負わせたことから見直されて然るべきものだろう。
どちらが優れているかとは言い難いのかもしれない。
けれど技ではなく、業という見方をすれば、もしかすると僕らとフーリア人は歴然たる差があるのかもしれない。
不意に戦いを思った。
新大陸で起きた虐殺から、大規模な撤退の後、こちらの大陸へ侵攻してきたフーリア人。敗走に次ぐ敗走で幾つもの国が滅び、今もこの国を脅かしている彼ら。
一方で、未だ新大陸に橋頭保を持つ各国から流入してくる大勢の奴隷。
フーリア人差別は、彼らの侵攻に合わせて苛烈さを増していった。イルベール教団をはじめ、様々な人々がフーリア人の脅威と、魔術を使えない、聖女の加護から外れた存在だという話を広めた。
怖れと、侮蔑への許しと、元から世に広がっていた貴族ら権力者の横暴に対する不満。知識の広がりは同時に思想の広がりを見せ、ごまかしのような弾圧は蜜のように浸透した。
魔術に対する考えがより前時代的になったのもこの時期だ。羅針盤や活版印刷や黒色火薬は、それらを生産する下地さえ整えばどんな人間でも扱える。かつて先進的な技術を以って新大陸で猛威を振るった僕たちだったが、恐るべき速度で技術に順応し、吸収したフーリア人たちに押しやられているという現実が、彼らには扱えない代替不能の力に信仰が集まるというのも納得のいく話だろう。
半分くらいはハイリア様の受け売りだ。
けどこんな状態から僕らはどう立ち直ればいい。
人を売り買いする狂気を肯定なんてしないけれど、どんな言葉を重ねたって罪は残る。遺恨は人の心に根差し、きっと差別はなくならない。
「メルトさんは……」
疑問が口をついて出た。
「あの、いきなりこんなことを聞くのは失礼かと思うんですけど」
予防線を引きたがる僕へメルトさんは少しだけ表情を引き締め、先を促してくれる。声色から話の質を察してくれたのかも知れなかった。
「……メルトさんは、どう、なりたいですか」
黒髪の美しいフーリア人。ハイリア様への忠誠は確かなものだとは思うけれど、彼女の望みは、忠誠の影に隠れて見えないままだ。きっと、どんなものでも立場が彼女の口を閉ざしてしまう。
ウィンダーベル家は保守派だ。階級制度を肯定しているし、フーリア人との戦争において少なくない貢献をしているとも聞く。
「僕なんかがこんなことを聞くはおこがましいと思っています。けど、どうしても聞いてみたいんです。アリエス様は、ハイリア様とは違う考えを持ちながら、同じ夢を見ることを望んでいるようでした。ヨハン先輩もそうです。僕じゃ、何度も言葉を交わしても、きっとあの人と同じものは見えていない。けれど、あの人と同じものを目指してみたいって思います。だから、知りたいんです。メルトさんは、何を望んでいて、それで……ハイリア様と共に歩んでいるのか」
精一杯に喋り、二度三度と熱いため息をついた。
メルトさんはじっと川面を見つめていた。遠く、彼方を見つめる目で。そしてなんとなく理解した。これから語られる言葉は、敢えてのものだろうことを。
「家に……帰りたい」
熱を一気に覚ます一言がきた。
「豊かな漁港に住んでいました。遠く人々の喧噪を聞きながら、良い暮らしを続けられるようにと学問に励み、武術を学び、巫女としての鍛錬を受け……とても楽なものではありませんでしたが、進む先に何一つ不安のない、優しい将来を見通せる日々に、あの日の家に、帰りたい」
もし願いが叶うのなら。
自分が放った一言の重みをやっと理解した。
僕たちはこの想いに向き合っているんだ。
僕たちはこの想いを踏みにじってきたんだ。
僕たちはこの想いを糧に生きているんだ。
※ ※ ※
結局、釣り竿は見つからなかった。
ヨハン先輩とリースさんとが見つけてきた木の実を食べ、幾らかの非常食を仕込んで僕らは眠った。
どうして、僕らはこんなことになっているんだろう。
大海原に漕ぎ出し、夢を求めて辿り着いた筈の新大陸で、どうしてこんな罪深いことをしてしまったのだろうか。
どうして。
その日の夜は、今まで以上に冷え込んだ。




