表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(中)
67/261

59


   リース=アトラ


 「セックスがしたい」

 開口一番最低最悪の言葉を言い放った変態が居ます。

 よく見るとその最低最悪の変態は私の先輩で、自称大先輩で、一般的にはヨハン=クロスハイトと呼ばれる人でした。目元を覆うほどの長い前髪の奥で、下卑た意志もふざけた色も見せずまっすぐに見返してくるこの人を、私はいつか理解できる日がくるのでしょうかと少し不安になって、なって、そんな必要はないやと放り投げた。


 仮にも先輩であるヨハン先輩の名誉……あるのかどうかも、いえ、あると信じて、あると仮定して名誉の為に状況を整理し直しましょう。


 事の起こりは、アリエス様に率いられてクレア様始め男爵討伐へ向かう戦線より離れた後です。

 元よりハイリア様に託されたアリエス様の事を私がお護りするのは、元騎士の血筋を持つ私としても誉れと言えます。戦力として考えるなら、ヨハン先輩も十分すぎるほどの腕前だと私も思います。自ら志願してきたというエリックさんとはあまり接したことが無かったのですが、炊事洗濯野営その他様々な面で私たちを支えて下さっていること、非常に感謝しています。

 そこに更に加わったのが、アンナ先輩です。先輩に対して私が評するのもおこがましい話ですので割愛しますが、どうにもアンナ先輩が強引に、非常に強引に加わることとなったのは、アリエス様の非常に下世話な考えが絡んでいるのが後に明らかとなったのです。


『道中暇でしょうし、ついでにくっつけてみるのも面白そうよね』


 ハイリア様の命によりアリエス様をお護りする為随行する私は今、そんなアリエス様の暇つぶしにつき合わされ、ヨハン先輩の恋愛相談を受けているのです。


 そして一番最初のあの言葉。

 私も……はい、恋の話と聞かされて、ほんの少しくらいは興味とやる気を出して、それなりな期待と共に何故アンナ先輩が好きなんですかと、そう質問したらああ返ってきました。


 沈黙する私に何を思ったのか、あっけらかんとしたヨハン先輩は腰かけた岩の上で足を組みました。小柄な方だから、高めの岩の上にあって私と目線は同じくらいです。

 背後を流れる川のせせらぎが少しでもこの人の心を清めてくれればいいのに。


「お前、好きな奴はいねえの?」

「おりません」

 即答すると、ヨハン先輩の目が前髪の奥で細まったのが見えました。

「ジークっての、お前んとこの隊長だろ? あいつはどうなんだよ」

「彼は……いえ、私のことではなく」

「っは! 思うところがありますって顔に書いてるぜ? あのすかした野郎に誘われて、ほいほい副隊長になったくらいだ、ねえ訳ねえよな」

「ほいほいなった訳ではありません。騎士として、彼の指揮する元で共に戦うと決めたことに、邪な意味などありません」


 そう、私は騎士だ。

 位を失い、家は没落して久しいが、この胸に宿る意志はだれよりも騎士として在るのだと、そう彼が認めてくれたのだから。もう騎士ではないのだからと、踏み出す一歩を躊躇っていた私の前に立ち、手を差し伸べてくれたことは生涯忘れられないだろう。

 あの時動けずにいた私の横を吹き抜けていった風は、今も遠く果てへ進んでいるのだろうと、そう思える。


「そうは言うけど、じゃあ野郎が本気でお前のことが好きだと言って、迫ってきたらどうすんだよ」

「ありえません」

 ジークの隣には彼女が居る。彼が私を求めるなど考えられない。

「野郎だって男だ。小隊の訓練で長く居りゃ、ムラっとくることくらいあんだろ」

「私のように粗野な者に彼が惹かれる理由がありません。幼い頃から剣ばかり振ってきましたから、化粧や衣装で着飾ることも知らない、生傷は絶えず、到底男性の興味を引くような人間ではありません」

「もしお前が服脱いでどうぞと言ってきたら、俺は躊躇なく抱けるがな」

 素早く距離を取るとヨハン先輩はいつもながらの無表情で待てと手を出してきた。適切な位置関係を維持したまま、先輩からの指示ですので待ちます。

「人間全裸に剥きゃあ化粧も衣も立場もねえよ。素っ裸の王様に誰が気付けるってんだ。裸になった時見えるもの、それがそいつの本質だ――ておい俺が今良いこと言ってるのに遠くねえか?」

「適切な位置関係です」

「遠いよ。全力で踏み込んで一歩届かねえ距離じゃねえかよソコ」

 適切な位置関係です。


 まあよ、と彼は肩をすくめ、


「お前の悪い癖だと思うぜ。そうやって他人の美点を見つけて崇拝して、自分の欠点を見つけて罰するみたいなのはよ」

「崇拝、ですか」

「してるだろ。ウチの隊長殿に対してとか、そっちの隊長殿に対してとか、とにかく信じ過ぎるし、忠実過ぎる。そういうのを俺の生まれた場所じゃなんて言うか分かるか」

「いえ……」

「使い捨ての肉袋。女だからまあ、性欲処理くらいには使えるんだろうがな」


 あまりの物言いに絶句し、同時に顔が熱くなる。

 いくら先輩とはいえ、これは侮辱にしても程がある。

 けれど私が怒りを覚えたことさえ鼻で笑い飛ばし、ヨハン先輩は冷たい目でこちらを見て、言う。声には、私には理解できない凄みすら含ませて。


「俺からすりゃ、忠誠を捧げるってのと、隷属するのに大した差なんてねえよ。お前みたいな騎士っていう物語の登場人物になりきってる奴らは、心が違うなんて言うんだろうがな。じゃあお前とそいつを何も知らない人間が、素っ裸のテメエらを見て、甲斐甲斐しくも世話する姿を見た時、騎士サマが主人に仕えてる姿だって誰に分かるよ」

「真に通じ合った関係であるのなら、仮に貴方の言う裸の状態であっても分かるものです」

「ほう」

 目の色が変わった。

「まあなら裸でやれって言いだすのも馬鹿らしいが、今の言葉は覚えといてやるよ。お前のことだから、まだまだ未熟だって、自分を低く扱うんだろうしな」

「僭越ながら……」

「なんだ」


「ヨハン先輩の欠点は、常に自分を一番高いところに置いている所です。何にも揺るがず自分の考えを固定しすぎているように思えます」


 言い切って、お腹の中が少しだけ縮むような思いがした。

 目上に、それと許されてもいないのに、ここまで反抗したのは初めてだ。


 そよ風にヨハン先輩の前髪が揺れる。

 隙間から見える彼の目を怖れながら、ああも言った以上は逃げるべきではないと見返した。きっといつもの冷たい瞳があるのだと、そう信じて。

 けれどヨハン先輩は、

「俺は、この世界からゴミとして捨てられた女の腹から産まれた。父親は性欲を処理するためか、趣味のためかは知らねえが小銭を女に叩きつけ、そうして種を植え付けた野郎だ」

 力無い瞳で地面を見降ろしていた。肩が、静かに落ちるのを見た。


「合宿で教団のクソ共がこっちを殺すななんて命令を聞いて、首を差し出してきてやがったと聞いた時、俺はあっそう、て思ったね。だが他の連中は結構堪えたらしくて、涙ながらに部隊を抜けていく奴も居た。家に籠って未だに顔を出さねえ奴らもいる。虐殺をしたって思い込んで、魔術を使えば真っ青になって吐き出す奴も居た。別に分からねえ訳じゃねえよ。けどな、俺は最初から分かってようが、隊長どのが命じたのなら、あの狂信者のクソ共を百人だろうが千人だろうが殺してやるよ」

 吐息は静かに、そしてどこか軽い。

「弱けりゃ死ぬ。弱けりゃ奪われる。テメエで勝手に命を捨てた連中がどれだけ死のうが興味もねえ。気持ちの悪い考えを持った奴らを掃除した達成感さえある。だからな、俺は弱い奴を殺すのは当然だって思えるし、弱い奴から奪うのも当然だって思える。身を守れない奴が悪い。心に引っ張られて諦める奴は更にクソったれだって思うね」

「ヨハン先輩……」

「俺は性根が腐り果ててる。この世で最も底辺に位置するクソ野郎だって、そう思うね」

「申し訳ありません」

 俯かせた頭を、このまま地面に擦り付けたい気持ちだった。

 けれどそれをすることは、更にヨハン先輩を侮辱することなのだと気付いて、それ以上何もできないでいた。


「謝るなよ後輩。上だろうと下だろうと大した違いはねえよ。他人がどう思うかより、自分がどう思うかで生きてることも言い当ててたんだからな」


 沈黙が降りた。

 寒空の下での静けさは一層息苦しさを感じさせて、私は必死になって次の言葉を探したけれど、思いつくより先にヨハン先輩が笑うように吐息した。


「すげえって思ったんだ」

 遠く空を仰いでいたヨハン先輩は、先のように力無い瞳で、軽やかに笑う。

「隊長どのはきっと、俺たちなんて背負いたくは無かったんだろうって思ってる。試合の事故で副隊長どのが人を殺しちまった後、仕掛けてきた側にだって批難は向かったさ。それをひっくるめて抱き込んで、自分一人で何もかもを成し遂げちまって、いつの間にかあの話が学園じゃ美談にすり替わってた。なんというかよ、ぶっ殺したりぶっ殺されたり、奪われたり奪ったり、そんなちっぽけな事ばっかり見てる自分の小ささに笑えたよ。あの人はもっといろんなものを見て、俺には想像もつかない何かを背負って、変えていくんだなって。

 だからだな。あの日、隊長殿のご活躍を尻目に何もしていなかった俺を誘いに来た時、この腕を使ってもらえたらって思ったんだ」

「……ん、初期の隊員ではなかったのですか?」

「違うよ。俺は最初、面倒なことになったって、学園を出ようとしてたからな。俺も元々相手も構わず噛みつきまくってたから、敵も多かったしな」


 それを留めたのがハイリア様、ということだろう。


「俺は使い捨てで構わない。あの人が望む何かを達成する為に、無価値な俺の腕を使って、助けにしてもらえるのなら、ごみ溜めで産まれながらもあがいて生き延びてきた意味がある」


 ヨハン先輩が、自分のことを無価値だと考えていたことにまず驚き、それでこんなにもハイリア様へのまっすぐな信頼……いや、忠誠心を抱いていたことに、そんなものとは無縁だと思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。

 同時に気付く。

 私を使い捨ての肉袋と称したこの人もまた、自身をそうだと見なしていることに。


 考えた。考えて、考えて、ようやく辿り着いた。


 今まで思考を止めていたのはどちらか、思い知ることとなった。


「誰かに忠誠を……願いを託すということは、どこかで自分には不可能だからという諦めと、相手ならばという押しつけにも似た願望があるということでしょうか」

「お綺麗に飾る言葉があるってのは幸せだよな。無価値な自分はどれだけ汚れても平気なのに、相手がみっともなく泥の中でもがいてるのを見たら、人はクソ溜にある自分を忘れて見放すんだからよ」

 きっと、それは託された者にとって何よりも辛い。

 託した者の不出来を許し、受け入れ、けれど自身の失態は許されない。


 私は、ジークを揺るぎのない、理想に向かって真っすぐ生きていける人だと思っている。けれど、そうあって欲しいと願いを託された彼が、背負う彼の後ろ姿ばかり眺めて、どんな顔をしているのか考えたことさえなかった。いや、当然のように彼は笑っているのだと、それと意識さえせず願っていた。


 はあ、と深いため息が二つ重なった。

 本当にどうしようもない。


「どうしたら」

「どうしたら……」


「どうしたらジークと」「アンナと一発ヤれるかな」「ォオオイ!」


   ※  ※  ※


「あー、結局だな」

 私の抗議が思ったより効いたのか、ヨハン先輩が軽く引いていた。

 私たちは適切な距離を維持したまま、やや赤面しながら真面目な顔を向け合う。

「とりあえず一回ヤっておけば落ち着くかと思うんだよ」

「とりあえずで淑女の貞操を奪うなど言語道断です」

「俺なりに躊躇ってもいるし悩んでもいるんだよ」

「まず正座してください」

「は?」

「正座です。しなさい」

「お、おう……」


 岩の上に座っていたヨハン先輩が、その上で正座に座り直すと、私は無言で足の上へ程よい岩塊を置きます。


「こういう拷問があるって昔聞いたことあるわ、ってか痛い痛い痛い! なんだこれ結構痛えぞ!?」


 それは自ら岩の上に正座するからです。脛がさぞお痛い事でしょう。


 ともあれ、私も先の会話でヨハン先輩なりの考えや自己評価を聞いたばかり。この破廉恥極まりない発言の意図も、なんとなくは分かってきました。


「紳士として最底辺にいらっしゃるヨハン先輩が、あんなに気さくで優しいアンナ先輩を娶るのは気が引ける、ですか」

「おう、理解が良くなったのは褒めるが後輩としてはかなり褒められなくなったなお前」

 誰のせいだとお思いでしょうか。

「自分に自信がないから、一度だけでも願いを叶えておいて、気持ちを切り替えるということですね。残された相手のことなんてお構いなしに」

「お、おう」

「最低ですね」

「お前のその態度嫌いじゃねえわ」

 岩を一個追加しました。

 けれどヨハン先輩は抱いた岩の上に頬杖を突きながら、比較的余裕そうな表情を見せます。


「痛く、ないんですか?」

「やってみれば分かる、かなり痛いぞコレ」

「あの……大丈夫なんですか?」

「学園に入る前はさ、暗殺なんてものを稼業にしようと思ってたんだが、最初に受けさせられた訓練が拷問に耐えることだったわ」

 それで痛みには耐性があると。

 なんとなく申し訳なくなって岩を外すと、ヨハン先輩はあっけらかんと足を伸ばし、そのまま仰向けに寝転がった。


「なんで、あいつとの子が欲しいと思っちまったんだろうな、俺は」


 自分を使い捨ての肉袋とし、ハイリア様の目的に使い潰されることを望んでいながら、己自身の血を受け継いだ存在を欲した。アトラの家を潰さない為には、私もいずれは誰かの子を産まねばならないのだろう。けれどそれは義務感が強くて、ヨハン先輩のように欲しているのではない。

 欲しいと思える日が、私には来るのだろうか。

 思えたら、彼のように私も悩むのだろうか。




 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ