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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(中)
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   エリック=ジェイフリー


 湖面に映った空を眺め続けて随分経つ。

 陽はまだ低く、森の中は長閑な空気に満たされていた。


 冬籠りの準備が終わりつつあるからか、動物の姿はほとんど見えない。枯れ始めた木々からは風が吹く度に木の葉の衣が剥ぎ取られていって、冬の寒さを感じさせる木肌を露出していく。


 こうしていると、合宿の後にハイリア様と二人で行った川釣りを思い出す。

 あの時、まだ傷が治りきってはいなかったハイリア様だけど、治療のためにと寝台から起き上がることも許されず、窮屈な想いをされていたそうで。

 何度か見舞いに行く間に冗談半分に計画を持ちかけられ、結局はなし崩し的に手伝うこととなってしまった。


 釣りの仕掛けも知らないらしかったハイリア様の前で、糸の結び方や竿を引く時の心がけや、その後に釣れた魚の捌き方までを、本当に恐縮ながら僕が教えさせてもらった。

 生でいけるのかと言い出した時には驚いたけれど、川の白身魚はそのままでは危険だと説明すると、ひどく残念そうな顔をしていた。たしか、海の赤身魚を一部の漁村なんかでは生で食べる所もあるそうだけど。


 あの時のように、僕は静かな渓流に糸を垂らして魚が食いつくのを待つ。

 違うのは、隣にいるのがハイリア様ではなく、


「釣れないわね」


 物凄く不機嫌そうなアリエス様だってことです。

 心なしか覇気を衰えさせた表情で垂れた釣り糸を眺める姿は、今回ばかりは遠く離れたハイリア様を想ってのことではなく、


「お腹が空いたわ」


 僕らは、地味に飢え死にしかけていた。


   ※  ※  ※


 クレア様と離れてからデュッセンドルフへ到着するまでは比較的平坦なものだった。男爵からの追撃は離脱した当初のみで、一度戦いから逃れる民に紛れ込んでからは何一つ危険なく潜り抜けていけた。幸いにもお金は豊富にあり、前線に食料や嗜好品などを売りに行く商人たちの列はいい隠れ蓑にもなった。男爵の領地であるとはいっても、やっぱりウィンダーベル家に恩を売りたいって人は物凄く多いみたいです。

 デュッセンドルフでメルトさんと合流してからは、予想外の波乱を孕みながらも、僕たちはアリエス様の導きに従い動き続けた。


 厄介だったのは、そのアリエス様の導きが、端から見ればてんでデタラメなものだったことだ。


 町へ寄ることは許されず、デュッセンドルフを出る時に買い込んだ次の町までの食料をやりくりして、基本的には野山の実りで食い繋いだ。

 何かお考えがあるのだと思う。

 アリエス様は座学でも極めて優秀な成績を修めておられていて、暇があれば地図を手に真剣な表情で考え込んでいる。


 とりわけ今は時期が悪かった。

 冬を前に実りの多くは動物たちがかき集めた後で、罠を仕掛けても穴蔵から出てくることも稀なせいで滅多に獲物はかからない。

 せめて魚をと釣りを始めたんだけど、それも十分な量にはまだまだ掛かりそうだった。


「せめて、少数で町へ買い出しに行くことは出来ませんか?」

「駄目ね」


 却下はするけれど、理由までは言って下さらない。

 信用がないのは、まあ仕方がないのだと思う。この方にとって僕は、兄であるハイリア様と多少の縁があるだけの、小間使いの下男だ。本来であれば言葉を交わすことさえ畏れ多い家柄の人。


「魔術で魚や獣を取れたら良かったのだけど」

「人里に近い場所では、魔術光を抑えていても獣には気取られます。それこそ専門の人間でなければ射程範囲に近づくことは不可能だとも言われていますから」


 貴族の方々の中には、狩猟を趣味として行う人もいるようだけど、男子ならともかくアリエス様は淑女だ。日傘片手に高みの見物ならともかく、土に塗れて獲物を探し回る姿はちょっと想像出来ない。


「同じ理由で魚を捕るにも魔術は向きませんね。どうしてかは知りませんが、昔から魔術そのものの気配を彼らは感じ取って逃げてしまうそうです」

 不可能ではないけれど、魔術を用いた状態で相手を仕留めるには独特の訓練が必要になるらしい。

「魔術には、僕ら自身が気付いていないだけで、何か特殊な……何かを発しているのかもしれないと、ウチの小隊では以前から研究していますが」


 ひどく曖昧で、まるで不確かな物言いに一度アリエス様は目を伏せた。


 こうして見ると、やっぱりアリエス様はお美しい。

 そよ風に揺れる黄金の髪は、日差しの中にあって尚強く輝いているようで、僕なんかが見ていると目が眩んでしまいそうだった。無表情でいてこうなのだから、もし満面の笑みを向けられたりなんてすれば、その場で心臓が止まってしまってもおかしくない。

 同じ年齢だというのに、いつだって無邪気さと計算高さが共存しているのは僕にだって片鱗くらいは分かる。


 美しく、愛らしく、無邪気で、知的で――


 ハイリア様があれだけ溺愛するのも当然だ。

 そうして、思考の端に引っかかった何かを、僕は無遠慮に尋ねてしまう。今なら答えて貰えそうで、そよ風に乗せて言葉を送る。


「アリエス様は、メルトさんのことをどう思っていらっしゃるのでしょうか」

 問いに開いた目が、一瞬だけ水晶玉のように澄んでいたのが分かった。

 ゾクリと肝が冷える。迂闊な質問だったと今更ながらに後悔した。今こうして横に並んでいるのでさえ、この方の気まぐれでしかないのだから。気まぐれ一つで命を奪われても文句は言えない。ハイリア様ならそんなことはないと言い切れるのに、アリエス様にはいつもどこかで揺らぎを感じる。

 あの一緒に出掛けた釣りの日に、ハイリア様の言葉を聞いたからかもしれないけれど。


「彼女はただの奴隷よ。特別美しく、有能であることは認めているけれど、敗者は敗者でしかありえないわ」


 敗者、とアリエス様は言う。


 僕たちは新大陸で彼らと出会い、当初魔術という圧倒的な力で以ってフーリア人たちの国を、部族を滅ぼした。こちらの大陸に大きく侵攻してきた現在でも、新大陸の一部は占領下にあり、奴隷は日々送られてくる。

 人間を箱詰めにして、家畜よりも更に劣悪な環境で輸送する。何割かの死者は当然のものとして扱われ、航海中に死んだ者は弔われもせず海へ捨てられるとも聞いた。


 勝者の論理を語ったアリエス様は、けれど揺るがない瞳で何かを見据えたまま、言葉を続ける。


「もし、フーリア人たちが慈悲を求め、民としての庇護を求めるのであれば、彼らは永遠に敗者である己から脱却することは出来ない。敗者は敗者相応の庇護を与えられ、生きるだけよ」

 始まりからして敗者である者は、同等のものを求める勝者と同じものが与えられることはない。それは分かるけれど、やっぱり悲しい考えにも思えて、頭の中に靄が出来る。言葉になる前に、アリエス様が重ねた。

「私は、私が幸運であることを自覚しているつもりよ。およそこの世で手に入る最高の幸運の元で生まれ、強者の側に立ち、思考と思想を強靭に醸成するだけの時間と知識と猶予を与えられたのだから。例え自らが敗者の側に立たされたとして、必ず勝者に成り代わってみせると、そう言い放てるだけの誇りと気位を持てる生を送ってこれたのだから。

 だから私は決然として強者であり、勝者であり、与える側の人間として生きるのよ。文句があるなら殺しにくればいいわ。私は私の持てるすべてを以って、私に反するすべてを薙ぎ払う」


 話が逸れたわね、そう言ってアリエス様は無表情に川面へ垂れる釣り糸を眺めながら吐息する。


「メルト自身がどう思おうと、他の誰がどう思おうと、彼女がウィンダーベル家の奴隷であることに変わりはないわ。私の家はね、とてもすごいの。たった一人の奴隷がどれだけの忠誠と誠意と実力を見せつけても、鼻で笑い飛ばせるくらいの人材は持っているのよ。

 私はアリエス=フィン=ウィンダーベル。私の生まれ持ったすべてに懸けて、たとえそれがお兄様自身の望みと幸せであろうと…………」


 吐き出そうとした言葉を、アリエス様は何度も喉の奥で反芻した。

 やがて大きなため息をつき、と思えば僕の持っていた釣り竿を強引に奪い取ると、冷え冷えとした目でこちらを睨んだ。驚く僕を置き去りに、彼女はそのまま釣り竿を川へ捨ててしまう。

 ああっ、と慌てるがもう遅い。緩やかながら川の流れは複雑で、すぐに釣り竿の位置を見失う。追いかけようと膝立ちになって川面に目を凝らすけれど、川のせせらぎよりも確かにアリエス様の声が聞こえてくる。


「早くお兄様に逢いたいわ。その胸に顔を埋め、頭を撫でて貰いながら眠りに落ちるのは世界で私だけの特権なの。この世すべての財を積み上げても手に入らない至上の聖域なの。嫌よ、絶対に嫌。誰かに渡してたまるもんですかっ!」


 ハイリア様が大好きなのは分かりましたけど今日のご飯はどうするんですかっ!


「知らないわよ、なんとかしなさい」


 続く言葉に、僕は何も言えず去っていくアリエス様を見送った。

 なんというか、突き抜けた我が儘ぶりにはもう敬意すら覚える。


 次いで、この場にハイリア様が居れば今のアリエス様を見て、怒って当たり散らす姿がかわいいとかなんとか、笑って許してしまうんだろうなあと思い、僕もつい笑ってため息をついてしまった。




 

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