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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(中)
63/261

56

 まさか、倒れたまま放置されているとは思わなかった。

 目覚めの意識は重く、身体の節々が痛んだ。きっと感覚が鈍っていたのを無理して動いたからだろう。必要以上の力を掛け、立ち上がったことで筋肉や間接を痛めてしまった。


 灰色の空から察するに、まだ日没には達していない。

 だが意識を失ったのは昼をとうに過ぎていた。記憶を掘り起こすのに幾らか時間は掛かったが、ヴィレイは数時間で効果が切れると言っていた筈だ。ならまだ日を跨いではいないし、そう時間は掛かっていないのかもしれない。


 枯れたスラムの街並みに、便所の匂いに生ごみの腐敗臭を混ぜたような悪臭。

 自分の居る場所は理解した。同時に、気を失う前に何があったかも。


「――――っっっっっっっ!」

 肺腑が焼けるような痛みを伴い、仰向けになったまま握った拳で地面を打ち付けた。

 過呼吸にでも陥ったのかと思えるほど呼吸が乱れ、脳が沸騰した。


 何が護るだ!

 彼女を目の前にしてこんな無様を晒す為にお前は来たのか!


 ヴィレイが体術をはじめ生身で戦う術を身に付けていることは知っていた! なのにただ警戒をするばかりで、具体的な対応を定めていなかった。守るべき間合い、接近された時の対応、幾重にも考え尽くした防御手段の考案を怠った結果だ!


「随分早いお目覚めですね」


 横合いから掛けられた声に、再び失態を悟る。

 ヴィレイかとも思ったが声が違う。見ると、少し離れた場所にここまでの先導をしていた教団員が居る。外套を羽織り、顔を隠す男は、手の甲に十字天秤の刺青を刻んでいた。

「夕暮れまでは起きないものと思っていましたから」 

 立ち上がって砂を払う俺へ、男は淡々と言う。接近を感じ、踏み込まれる間合いの縁へ足を掛けたと同時に視線で制した。


 相手の意図までは分からないが、本来このくらいの警戒は持たねばならなかった。

 俺に才はない。おそらくはジークや、あの女主人であれば柔軟に応じ、適した行動を取れるのかもしれない。だが正面戦闘ならともかく死体のふりをした不意打ちや毒薬による攻撃に対しての経験も対応力も持ち合わせていない。

 信用出来ない人間の一定距離以上の接近は避ける。状況それぞれへの対応が難しいのであれば、その程度の基準がなくてはならない。


 余程強く睨んでいたのか、教団員は身を固くし、二歩三歩と後ずさる。


 相手の位置だけは意識に残したまま、すぐさま俺は教会へ向かった。

 入り口の脇にもう一人、扉へ手を掛けた所で声が掛かった。

「ヴィレイ様は既にここを離れています」

 女の声だった。後ろの男と同じ外套を着ていて、顔を隠しているが、声の印象は三十前後といった所。

「中には……」

 どうしても、躊躇してしまった。

 俺の沈黙を察したのか、女の教団員は幾分声を落として言う。

「彼女は中です」

 それ以上は語らなかった。


 俺は止まっていた右手に力を掛け、ふと肩に痛みを感じてまた止まる。そう言えば肩を外されていたのを忘れていた。あの男が直してくれたのか、間接はハマっているが、急激に引き延ばされた筋肉が内出血を起こして青く腫れていた。一週間は痛みが残るだろう。確実に完治させるなら、負担を掛けないよう腕を固定した上で一か月は必要だ。あまり何度も外し続けると、クセがついて簡単に外れるようになるというが。


 慣れた思考で少しは落ち着いた。

 教会の扉は重く、無駄に負担を掛けることは無い。左手に代え、扉を引いた。


     ※   ※   ※


 そういえば、前に教会へ赴いたのは、合宿前に赤毛少年と出会った時だったのを思い出した。

 デュッセンドルフの比較的裕福な区画のものだから、あそこには大きなパイプオルガンやステンドグラスなんかがあった。だが、ここの教会はひどく小ざっぱりとしていた。

 採光の窓はあってもくすんだ乳白色で、透明ですらない。教会と言われて想像するように左右には長椅子が設置されているが、中央の通路は剥き出しの木だ。決定的なのは奥にある像が半ばから崩れていたことか。到底神聖な気持ちにはなれそうにない。

 もしかすると、金目の物は盗み出された後なのかもしれないな。


 やけに響く足音を聞きながら、中央の通路を半ばまで進んだ所で白い髪の少女が見えた。

 足が止まる。


「安心して」


 フロエが、平坦な声で言う。


「何もなかったから」


 教会の中では、音は異様なほど響く。

 俺はすぐ近くにあった長椅子の背もたれを握る。肩の痛みさえ吹き飛ぶほどに、強く。強すぎて、軋みをあげた。

 笑うような吐息が聞こえ、困ったような声が続く。

「右肩、大丈夫? すごいことになってたよ」

「痛みは無い。何もない」

「そうなんだ」


 また、沈黙。


 ただ、指摘されてそのまま握っている訳にもいかず、背もたれに置かれた右手は力無く指先を垂れるだけ。

 決して彼女に聞かれぬよう静かに深呼吸をし、口先を、喉の震えを解していく。


 彼女と俺の間には、まだ幾つもの長椅子があって、背を向けた顔がこちらを向くことは無い。


「どうして……」


 薄氷を踏むように言葉が紡がれた。


「どうして、痛みに向かっていこうとするの」


「……痛みに向かったことは一度もない。目的へ辿り着く途上に痛みがあるだけだ」


「そんな所からもう、違うんだ」

 言われた意味が分からず、黙り込んでしまう。

「私はきっと、痛みが欲しい。痛みは理由になるから。私はなにかをやろうとして、届かなかったけど、それは痛みがあったから。痛いから、立ち止まっていられる。進まずにいられる。完璧で、綺麗で、幸せな未来なんてもう手に入らないの。仕方ないよね」

「手に入る」

「入らないよ。こんな薄汚れた身体で、仮に幸せな日々を送れたとしても、私はきっと私自身を引き裂きたくなる。救われることに耐えられない」

「大丈夫だ。君は幸せの中で、心の底から笑って過ごせる」

「止めてよ。綺麗なのも、真っ直ぐなのも、苦しいんだから。そんなもの私には残ってない。分かってるの? 私はもう、何人も殺してるんだよ。あのデュッセンドルフでのことだけじゃない。フーリア人を……同胞まで手に掛けて」

「知っている。そんなことは最初から」

「どう……し、て」

「俺は君が思っているほど、綺麗でも真っ直ぐでもない。卑怯で、傲慢で、冷血で、自分勝手だ。そんな俺でも、君には綺麗に見えるのか」

 足音を聞く。

「俺には君がとても綺麗に見える。たった一人の為に我が身を犠牲にし、苦しませぬよう明るく振る舞い、あいつの夢を支えてきた。自分が報われることなど考えもせず、ひたすらに尽くし、そして――」

 命を賭してあいつの生きる世界を護った。

「――俺は、君の想いを尊いと思う」

「なにそれ……っ」


 引き攣った喉は息を乱し、上手く声を出せないのだろう。フロエは口元を抑えるような動きを見せ、背中を丸める。

 それでいい、と俺は思う。

 自分を卑下するような発言をさせたくはなかった。

 不満に思ったことくらいある筈だ。気付かれないことへの苛立ちと悲しみで心が荒れた時もあっただろう。目的を持って行動を続けるジークを、不意に面倒な悪戯を仕掛けて妨害する場面は何度かあった。

 けどな、そんなものは軽蔑する理由にはならないんだ。

 声に出して、誰かに聞かせれば、一層自分の奥底にそれらの感情を刻み込んでしまう。そう思わなければならないと考えてしまう。逃げるな、などと思い、改めて自分の傲慢さを思い知る。それでも今は笑えた。


 足音を止める。


 最前列に座るフロエの傍らに膝をつき、右手を伸ばした。

 行為には痛みが伴った。それでも自然と笑みが出て、


「ほら、君の涙はこんなにも綺麗だ」


 俯く彼女の前髪をどかしてやると、本当に綺麗な涙を流すフロエの顔が見えた。採光の窓から入り込むくすんだ光が、柔らかく二人を包んでくれている。浅黒い肌の上を目元から顎に向けて一筋の輝きが伝っている。


「それに、涙以上に見たいものが――」

「分かったから。もういいから」

 調子に乗って言葉を重ねようとしたら、不意に彼女の表情が崩れて半眼がこちらを向く。頬を伝う涙はそのままに。

「はあ…………頑固だよね、アナタって」


 …………ふむ。


「こんなに薄汚れた女を綺麗だなんて、変な趣味でもあるんじゃないの」

「何を言う。日々アリエスの私服を選び抜く為に流行の調査は怠っていない。最近では我が妹の服装が一つの流行となり、王都を始め各国でも真似をするものが出てくるほどにな」

「へー」

 心なしか温度の下がった声が来た。

「割と図に乗るよね」

「持てる才覚を当たり前に誇ることの何が問題か」

「その無駄に大きな自信が一番信じられない」

「重ねた努力と得た結果を思えば当然のこと」


 ……というよりは、自信を失ってはならないんだ、俺は。

 前にビジットから言われた。戦いの勝敗を指揮官が宣言しない限り、付き従ったものは結果に悩み続ける。俺たちは勝った。この戦いは正しかった。そう宣言し、振る舞い続けなければならないのだから。

 悩んでいる姿なんて見せれば、皆が迷ってしまう。


 ただ、そうだな。

 俺はハイリア=ロード=ウィンダーベルなんだ。

 この自意識こそが俺の自信になる。折れるものかと、寸での所で留まって居られる。


「ねえ」

 伸ばしていた手が掴まれる。

 柔らかな少女の手が、武器を握り続けて分厚くなった手を包む。

「私は、薄汚れてるよ。ううん、汚れきって、醜くて、人の皮を被っているだけの、気持ちの悪い肉の塊」

「そんなことは――」


「違うって言うなら、私を抱ける? 今ここで」


     ※   ※   ※


 浅黒い指先が、俺の手を恐る恐る握り込むのを感じた。

 細い指だ。爪の色は薄いピンク色で、先端は綺麗な曲線を描いている。暮らしていたジークの故郷は農村だったからか、この時代の人間に比して肉付きがよく、その感触がやけに柔らかくて艶やかだ。


 引き寄せられるようにフロエの目を見た。

 よく、黒い瞳の美しさを黒曜石のようだと表現する。実際に磨かれた黒曜石を見たことがあれば分かると思うが、あれほど深い黒の色はなかなかない。闇の様に厚みを持ちながら、闇とは違って確かな形を持つからこそ生まれる光彩は、他の色では決して出ない美しさがある。

 光を何よりも際立たせる色、それが黒曜石の瞳。

 彼女の瞳はとても綺麗だった。


 だから、つい目を逸らしてしまった。

「……ほら」

 と笑うフロエに、遅れて最悪の失敗を悟る。

「違う!」

「何が」

 口ごもる俺に最初は得意げな笑みを浮かべていたフロエだったが、次第に溶け落ちるように表情が変わる。痛ましい笑みから、注視、心配へ。


 そっと息をつき、腹の奥に沸き上がった重たい靄を吐き出す。


「俺は……人を殺した」


 思い出すのは、ラインコット男爵の古城から逃走する最中での戦いだ。逃亡中だったから死亡確認こそしていないが、多くの血を流させ、打ちあった数名はきっと死んでいる。それだけじゃない。

「争いを起こし、大勢を巻き添えにして、平和に暮らしていける筈だった者たちを憎しみの渦中へ引きずり込もうとしている。そして、これからも止めるつもりはない。俺はいずれ血の川を築き上げる。分かっていて、止まらない」

 だから、君にまっすぐ見つめられるのが辛くなったのだと。


「そう」


 離れていこうとする手を、今度が俺が掴んだ。


「そういう躊躇だ。勘違いするな」

「出来ないなら出来ないでいいよ。ただの気紛れだもん」

「君は綺麗だ。その身を抱くことに躊躇はない」

「まさか抱きしめるだけなんで言わないでよ」

 空いた左手がフロエの顎に触れる。

 教会へ差し込む光の中、そっと顔を寄せ、意識が彼女の瞳に集中した時、


――不意に、楚々とした声が唇から漏れた。


「ハイリア様」

普段の彼女とはあまりにも違う、まるで、

「――――――――」


 その瞳に、唇に、眉に、頬に、何もかもに、一瞬だけ――メルトの顔が映り込んだ。


 それでもう動けなくなった。

 二人は似ていない。肌の色はともかくとして、髪の色どころか、顔つきや表情のなにもかもが違う。明るく振る舞うフロエに対し、メルトはいつも物静かで、なのに時折驚くほど強引な所があって、そして、


「は――――はははははははははははは!」


 口付けの直前に硬直する俺を見て、フロエが絹を引き裂いたみたいな笑い声を弾けさせた。俺の胸を押し、二歩三歩と引き下がるのを見て立ち上がると、悪戯が成功したとばかりに意地の悪い笑みを浮かべて回り込む。

 崩れた像の前に立ち、両手を腰の後ろで組む彼女に、罪悪感とも後悔とも知れない感情を抱えたまま向き直る。


 光の中に立つフロエは落ち着いた表情を浮かべており、彼女は俺を見て思いがけない言葉を口にした。


「貴方の罪を赦しましょう」


 両手を組み、祈りを捧げるように。


「貴方の行動は多くの人々を傷付けるでしょう。きっと、とても罪深いことなのでしょう。けれど、私は貴方の想いを、とても尊いと思います」


 思わず、今更ながらに彼女の身へ聖女が降りてきたのかと考えた。だが違う。こちらを見つめる瞳は、ついさっき間近で見たものと変わらない。呆然とするこちらを見て、居心地の悪そうな表情に変わっていくのは、フロエ=ノル=アイラで間違いなかった。

 尚もその様子を眺めていると、

「な、なに……だから、赦してあげるって…………ここ教会だし、なんか私聖女を降ろす器みたいなのらしいし……ほら、像だって壊れてるから代わりに」

 よっぽど恥ずかしくなってきたのか、浅黒い肌でもはっきり分かるほど頬や耳が紅潮してきていた。誘ってきたときにはまるでそんな様子を見せなかったのに、やはりそういうことなのか。


 おかげで生まれてきた余裕に、息をついて笑う。

 今度は俺が少々にやついて彼女を観察してやった。

「もぉぉうっ! バカ! 有罪! その顔すっごい腹立つ!」

 ビシリ――と俺の顔を指差すフロエは……うん、やはり可愛らしい。


「なんか凄く疲れた……」

「お互いさまだな」


 言い合って場の空気は一気に緩んでいった。

 思う所はまだあるが、今から掘り返して言うべきとは思えなかった。ここで区切ろう、そう彼女も思ったのだろう。

「お腹空いてきた」

「店では紅茶を嗜んだだけだったからな」

「飲んだって言えばいいのに」


 そういえば、一泊すると言っていたが、宿はここでいいのだろうか。

 この教会にも居住区画はあるだろう。使用されていないという点は清掃されただろうから一応安心している。貴族生活に慣れているとはいえ、元は庶民だ。広さ云々で文句を言うつもりもない。

 防犯がやや不安だが、表に二人の教団員が居たのだから、護衛と考えて構わないだろう。

 あくまで同行。保護され連れていかれているのではない。だから俺自身で宿を定め、自分で足を確保しても構わないのだが、あまりその手の場所へ顔を出すと、流石に素性がバレてしまう。何かを調達するにも市場くらいが精々だ。


「今から行って間に合うかな?」

「夕暮れが近いか。暗くなれば市は畳まれてしまうしな」


 食事は今まで自分で用意していた。フロエも一緒に。

 警戒が足りていなかったとはいえ、流石にそこまで信用はしていなかった。手持ちの金はまだまだあるし、さて今日は何にするか。

 三本角の子羊亭で働いていただけにフロエも料理は一通り出来る。食材にも詳しい。俺も小隊の皆へ振る舞う料理には自ら厨房へ入って指示を出していたし、中身は煮炊きの火に四苦八苦するようなお坊ちゃんではないからな。


 それから、二人で市へ行き、なんとか素材を買い集め、教会の炊事場で調理をした。

 長机で互いに向かい合わせにはならない位置で食事を済ませた後、後片付けの途中でフロエがこんなことを言っていた。


「そういえばさ、やっと思い出せたんだけど」

「あ、こら器はちゃんと逆向きに――なんだ」

「だから横向きの方がいっぱい置けるじゃない――いや前に会った時は気付かなかったんだけど、こないだ会った時から気になってたの」


 かつてフーリア人たちの調停者とされていた、フロンターク人の少女は、食事に使った箸を拭きながら言う。


「メルトーリカ=イル=トーケンシエル。イルは巫女を表す言葉だけど、トーケンシエルって確か、あっちでかなりの歴史がある家系だった筈だよ」





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