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フロエの無事(と呼んでいいのか未だに分からないが)はともかくとして、俺はこれを喜ぶべきか嘆くべきなのか決めきれずにいた。
もし彼女が今後聖女と入れ替わることなく過ごせるのであれば、最大の難関が自ずと消え去ってくれる。イルベール教団やカラムトラなどの一部過激な行動を取る勢力を抑える必要はあるだろうが、運命の神から力を授かった聖女を相手にするよりは遥かに手が打ちやすい。
だが、メルトは間違いなく生き返っていた。
彼女が死んだという事実は俺自身で確認している。その結果を、神域の力を用いて捻じ曲げ、書き換えた。
恩恵だけ受けて対価がない、などというのは都合が良すぎる。
「難しい顔してるね」
呆れるのも飽きたとばかりの表情でフロエが言う。
メルトを救った時にはあった僅かな親しみは、今やそこはかとなく冷たい。彼女からすれば俺は、良くて意味不明な言動を繰り返す可哀想な人だろう。
ともあれ思索は必要だ。
彼女も一度は確かに感じていた何者かの気配を今は喪失しているというし、あの日からの変化に戸惑ってはいた。
「最悪の場合、完全な勇み足かとも考えたんだがな」
なんとなしに言ってみると、フロエは少し考えてから応えた。
「どの道、あの状況から無事に抜け出せたとは思えないけど」
言われ、思い出す。
メルトを人質にし、俺の住む屋敷へ立てこもったイルベール教団に対し、予め用意していた抜け道を用いて奇襲を仕掛けた。いかに武闘派の教団員でも、精鋭と名高いマグナスの手勢を相手に浸透を許したが、最後の最後でピエール神父を相手に詰め切れず終わった。片腕を失っているとはいえ、やはりあの男の力量はずば抜けている。
その上で思う。
「かもしれない。だが、手助けしてくれていたのは、近衛兵団だ。俺が手引きした襲撃方法は破られたが、あのマグナス=ハーツバースの元で戦っている者たちが、若造一人の策にすべてを託していたとは思わない」
俺が抵抗の意思を見せれば、血路を作ってでも彼らは逃してくれただろうと思う。あそこで取引し、同行すると言ったからこそ、彼らは退いたのだ。
「マグナスは信用してくれたが、それだけで兵団すべてが俺を信用するのなら、彼らは今日まで生き残っていない」
均一であることは御しやすいが、自浄作用が働きにくく極めて不健全だ。
あの男なら、最も信用出来ない人間を副官にするくらいはやりそうだった。
「そういうのはよく分からないけど」
フロエはカップの縁に残った紅茶の跡をはしたなく舐めとり、
「ええと……アナタ、私の保護者だけをやりたくて来た訳じゃないんでしょ」
「…………」
視線を逸らし、だんまりを決め込むと、半眼が向けられた。
仕方ないだろ。気分が昂っている時ならともかく、こんな茶飲み話の最中に守るだの守らないだのの話題は居心地が悪い。
ただ、彼女の言う通りでもあった。
俺は視界の端にピエール神父を捉えたまま、持ち上げたカップに残る紅茶を眺める。揺れる水面に映る空の景色は色あせた写真のように見えた。
悩みは山の様にある。
解決しやすいことなど一つもなく、全てを自分一人で抱えきることも出来なかった。
クレアについてもそう、アリエスのことも、未だ所在さえ知れないビジットのことも。
そして、魔術の喪失も。
※ ※ ※
町の様子は変わりなく思えた。
デュッセンドルフから随分と離れ、王都にもほど近いここでは、東の内乱も西の最前線も、遠い異国の出来事なのかもしれない。
実際、この国は大きい。かつて王の力が弱かった時代から、様々な経緯を経て多数の国が併合されている。経営の傾いた領地の為に幾度もデフォルト宣言をしたり、それで生まれた敵には政策面での優遇を与えて懐柔したり、とにかく仲間を、規模を拡大させるという点のみにおいては優秀だった。
結果的にイルベール教団をはじめ、内憂を抱え込むことにもなっているが、とかく規模が大きいというのは価値がある。
市場のデカさは単純に動く資本の量に直結するし、そうやって成長した商会や連合などは多くの金を国庫へ齎す。何より一元化された販路は極めて効率的となり、更に流動を加速させる。独占という不健全さは残るし、資金力を持ち過ぎた組織は政府にとって目の上のたんこぶになるのだが。
ただ、併合した領地に対し、積極的な干渉を避けてきたというのは二つの意味で利点だった。
一つは、単純に中央での政に集中できるという点。
多くを動かそうとすればより多くの優れた人材が必要になるし、意思疎通の取れた人物でなければならない。それらコストを丸投げすることで帳消しにし、当初は連絡役さえ併合した領地任せにしていたという。だが、王国の一部であるという名を与えるだけで税収が増えると考えれば、これほど手軽なものはない。
もう一つは、併合される側の心理的問題をクリアしやすい点。
困り果てて併合を望むとはいえ、古くから自分たちで守ってきた土地を取り上げられたのでは意味が無い。そもそも土地それぞれに培われてきた政治を、中央から派遣してきた人間では理解しがたいものも少なくない。
激動の時代にあって、浮き沈みの激しかった時だからこそ、これらは最大限の力を発揮して王の地位を盤石のものへと変えた。実質的に支配もしていないのに盤石とはこれいかに、とは思うが、不思議と成り立ってしまうのが西洋の面白い所だ。
元より何かしら切迫した理由があって枠へ入ってきた者なら自発的に中央と繋がろうとするし、ウィンダーベル家をはじめとする歴史や旧来の関係を理由に収まっている力ある領地も、余計な口出しをされないのであれば大きな市場へ介入しやすい現状から抜け出すほどの理由も生まれない。
最も、支配を強固にしていないおかげで昔から離脱と併合を繰り返している領地があったりもするのだが、最近は外憂の為に少数だ。中央集権化という方向転換にも賛同する声が大きいのは、やはり外への脅威を感じるからか。
などという会話が街中で交わされている程度には呑気というか、人々に内乱への動揺は少ない。むしろ、身近に起こった戦いへの興味や、これは商機だと大慌てで東へ向かう馬車があるほどで。
「わっ」
砂埃をまき散らして走り抜けていく馬車列に、フロエが危うく轢かれそうになってよろめいた。俺としても不覚ながら気づけずにいて、胸元へ飛び込んでくることとなった彼女の肩を掴んで受け止める。
「ぁ……」
煽られた風でめくれ上がったフードの中から、大きな瞳がこちらを見る。
宿る感情を読み取る前に顔が俯き、すごすごと被りなおす。なんだかもやもやしながら肩から手を放し、少し離れる。
「……ごめんなさい」
残り風のような声を置いて歩き始めるフロエに、俺は特に返事もなく続いた。
なぜ俺たちがこんな所でうろうろしているのかというと、単純に暇だからだ。
個人的にやりたいことは山ほどあったが、それはこの場を放棄して初めて行えるもの。教団に同行することでやりたかったことは、現状では出来ない。目的地へ急ごうにも主導権を握る者が所用と言って離れているのだから。
出来るなら彼女にこの外出を楽しんでもらえたらと思うが、王都にも近くなって、フーリア人への差別は一層苛烈になっている。今でさえ、一瞬であっても顔を晒してしまった彼女へ向かう視線は淀んでいる。あるいは、ギラついた吐き気のする類のものも。
フーリア人に人権はない。いや、人権という概念そのものが未だ発達していない。その上で奴隷階級の最底辺というレッテルは、国なんていう大きなものが自身の身分を保証してくれているおかげで、容易く非道な行いを誘発する。厳格な階級制度を導入することで生まれる不満を、そこへ集約させることで発散させているというのも、やはりあるだろう。有効な手段とも考えられる一方で、個人的には反吐が出る。
そんな手段では、人々が下を向くばかりで、顔を上げた先にあるものを見失う。
しばらくして、十字天秤の刺繍が施された外套の男が現れ、俺たちの自由時間が終わった。
先導する教団員に従って進んでいくと、次第に人の姿が減っていった。雑踏では背後についていたピエール神父の姿が見えなくなっていて、おそらく監視しやすい場所に潜んでいるのだろうと思う。
周囲には木造の、人が住める場所なのかも怪しい長屋が立ち並んでいる。悪臭が漂い、虚ろな目をした者たちが煙草なのか薬なのかも知れない煙を燻らせこちらを見ていた。一度、蠅に集られ転がる男を死体と勘違いした。放置も出来ず近寄ると、瞬時に『剣』の紋章を浮かび上がらせ飛び掛かってきた。
無意識に魔術で対抗しようとしたおかげで反応が遅れ、切っ先が首筋を掠めた。今までであれば十分にあしらえた程度の、素人剣術を相手に。
更なる攻撃を受けずにすんだのは、フロエによる不可視の迎撃があったからだ。
手加減はしたのだろう。弾き飛ばされたというよりは、掴んで放られた男は長屋の屋根で背中を打ち、目を白黒させてこちらを見るや一目散に逃げ出した。
「守られちゃったね」
「……面目ない」
俺は出しかけていた手を引っ込め、足を止めてこちらを見ていた教団員に先を促した。
一行は程なくして目的地へ辿り着いた。
スラムの奥地、比較的開けた場所にそれはあった。
教会だ。
俺の知る世界では十字を翳していたソレは、こちらではリングを額に張り付け神の威を示している。
すべてが神の意のままに、定められた運命を表す閉じた円字はこんなスラムにあっても綺麗に磨き抜かれていた。
教会から離れていく子どもたちを見て、つい気持ちの悪さを覚えてしまった。
彼らが持っていたのは食料と、生活の雑貨だ。それを教会周辺に陣取るイルベール教団が配っていた。おそらくは無償で。
彼らが慈善事業に手を出しているのは知識としてあったが、こうして見るのは初めてだった。ここだけを見るならば善行である筈なのに、今すぐあの子どもたちを追いかけて持っている物を検めたい気持ちになってしまう。食料に毒や薬の類が仕込まれてはないか、雑貨は正規の形で入手したものなのか。
自分がひどく汚れた人間に思えてくる。事実、そうなのだろうとは思っていても、今日ここで彼らに明日の食事を与えたのは教団なのだという事実に苦みを覚える。
イルベール教団によるフーリア人差別は容認出来ない。
ただ、彼らの活動によって救われた命があることを、教団の消失を願う俺は覚えておかなければならないのだろう。
ちょうど今のが最後の訪問者だったのか、教会の周辺に誰も居なくなったところで、俺たちはこの慈善行為の中心人物へ近寄って行った。
興味のないショーウィンドウを眺めるような眼がこちらへ向いた。
椅子に腰掛け、炊き出しや応対を手伝うでもなく眺めていたヴィレイ=クレアラインが、たった一度の吐息を見せ、立ち上がる。
「お待たせしたようですね。早速出発をと言いたいところですが、今から立ったのでは山中で夜を越す事になります。本日はこの教会でお休みいただけますでしょうか」
慇懃無礼な口調だが、まるでやる気のないコンビニ店員の口上じみた声に不愉快さが増す。教団と行動を共にするようになったものの、基本的に監視は神父が行っている為、ヴィレイとは別行動が多い。その上ではっきりしたのは、やはり俺はコイツが嫌いだという点だ。善行も悪行も、息をしているのも不愉快だ。
「教団は名目上、巡礼を理由にこの国へ滞在しています。立ち寄った町の教会へは必ず顔を出しますし、ここのように神父の居ない場所ならば維持管理も同様です。更には――」
俺の様子を勘違いしたのか、ヴィレイが淡々と説明を始める。ただ、それも長く続かず、奴の視線が一瞬だけ俺の首筋を撫でた。
「は……ふふふふふふ、っ」
実に愉快そうな声で嗤う姿に、眉を顰める。すぐに表情を正したが、ヴィレイは変わらず湿った嗤いを続け、直後、勢いよく振り返ったフロエが鼻を寄せてきた。明らかに匂いを嗅いでいる鼻息に戸惑う間もなく、
「じっとしてて」
ぐい、と上半身を引き寄せられ、首筋に吸い付かれた。
思わぬ不意打ちに混乱するも、肌に感じる生暖かい感触と、傷口に触れられた痛みとで身体が硬直する。以前にもこういう接触はあったが、思わず顔が熱くなった。
ただ、身体の拘束はそのままに、彼女が俺の首筋から吸い出した血を吐き捨てたことで意図を察した。
頼んでもいないのにヴィレイが説明をする。
「僅かに感じられる甘い花の香り。その傷をどこで付けられたのかはわかりませんが、それなりに強力な麻痺毒ですよ。分量次第では死に至ることもありますが、おそらく致死量には達していません」
言われている間も血抜きが続けられていた為、正直まともに聞いていなかったが、山中に群生する珍しい種らしい。
「フロエ=ノル=アイラ」
ヴィレイからの呼び掛けに、身を離しかけていたフロエが強く緊張するのが分かった。彼女は口の中の血を吐き捨て、奴には背を向けたまま、しかし決して俺を見ようとせず答えた。
「私は……」
「こい」
微動だにしなかったのは、きっと怖れをこらえたからだろう。
フロエは俯き、俺の目を避けたまま、それでも決して引き寄せるために掴んだ手を離さず、声を絞り出した。
「ジークは……もう居ない」
今まで彼女を縛っていた最大の理由は、ジーク=ノートンの平穏を守る為だ。処刑されたヒース=ノートン、俺の父と同様の運命を辿らせないよう、身を隠させることを条件に彼女は――。
「二度言わせるな」
荒げる手前、といった声に今度こそ身体が震えた。
彼女の恐怖は、幼少期に刻み付けられたものだ。一度は心を壊すほどの体験を経て、ジークと暮らす中でなんとか持ち直していた所に、再度想像を絶する苦痛を刻み付けられた。
それでも彼女がジークの前で表面上でも明るく振る舞い続けるには、受け入れる意外になかった。意識に刻み込め、身体を慣らし、そういうものだと諦める。
ヒース=ノートンに見つけ出されるまでの壊れた自分と、ジークとの間で育まれた純朴な自分という二面性の中で、彼女は常に揺れている。きっとそれは、とてつもなく不安定で、不安で、苦しいものだ。
ジークの告白を受けて尚、彼女は教団に組すると決めた。
彼を守るという大本は、ジークが自分と同じ器なのだという勘違いだ。自分が器にならなければ、ジークがそうなってしまう。
どこまでも献身的、あるいは依存とも言える感情で彼女は教団に従い、聖女を降ろす為の調整を受け続けてきた。
ジーク自身がフロエを助ける為に行動すると決めた以上、最早ヤツの安否はフロエやヴィレイの手の上にはない。最後の理由となる器に関しても、デュッセンドルフへ向かう道中でジークに俺の正体を明かしており、フロエへ伝えるよう言ってある。
その上で彼女は戻ってきた。
俺が考えていた以上に、この件に関する根は深いらしい。
絶望という安息に縋る者を、どうすれば引き上げられるのか。
「……おや、何のつもりでしょうか、ハイリア卿」
俺の本名を知りながら、あえてそう呼び続けるヴィレイの目はひどく淀んでいる。
「お前の行動を俺が容認すると思うか」
同行はする。俺の意思など関係なく、ただ居ればいいのだから、連中も最初から完全な協力関係など求めていない。そもそもが敵対している者同士だ、信用など最初からされていないだろう。
フロエを背後にかばい、正面に立った俺をヴィレイが楽しそうに見る。
「間が抜けています、ハイリア卿」
接近があった。
何の予備動作も感じられず不意の踏み込みを許したことで、反射的に防ぐ手が出て、足が下がった。右手を取られたと思った時には何もかも遅く、
「っ――!」
天地が回り、俺は地面に組み伏せられていた。
「邪道を知らず、悪徳を知らず、守れる正道などありませんよ。あなたはきっと、どこまでも真っ直ぐに表の道を歩いていけるのでしょう。ですが、所詮その程度。輝かしい世界の裏で踏み躙られる人々を、あなたはきっと刈り取り続ける。残酷に、傲慢に、誰もが認める正義の剣で」
取られた腕の関節へ容赦なく力が掛けられる。
激痛に耐える間もなく、脇腹を握りこまれた。かつてピエール神父との闘いで受けた、未だ治りきっていない傷。
「っっっ」
「あなたに彼女は救えない。正義に彼女は救えない。なぜなら彼女は、アナタの掲げる正義と希望にこそ踏み躙られ続けてきたのだから」
ゴキン――と肩の関節が外される音が聞こえた。
「ほら、こうして興奮状態に陥ると、たちまち心臓は鼓動を早め、毒は体中に回っていく。毒を吸い出すのも直後でなければ傷口に残った少量を除くだけです。もう指先の感覚は消えているでしょう? 麻酔に利用されることもある毒です。即効性はありますが、数時間で元に戻るでしょう。――フロエ」
身体は機能を停止させようとしていた。
休まなければ、解毒などしなくても身体は常に毒素を排出しようと動いている。ほかに力を使っていればそれだけ機能が低下し、長引いてしまうか、下手をすると後遺症になる。人体の構造として、遺伝子に刻まれた本能として、俺の身体は俺自身に動くなと命じていた。
だから、
「なにっ!?」
ヴィレイが手を緩めた途端、意思の力で起き上がった。
身体の感覚はとうに薄れ、真っ直ぐ立っていることさえ出来ない。音は途切れ途切れで、意識は今にも闇に落ちそうだった。なのに外された関節部はもう一つの心臓が出来たみたいに定期的な血流と痛みを訴えてくる。
血が一瞬で凍ったように寒気を覚え、脂汗がにじみ出る。
それでも立った。
「フロエ……お前はもう、苦しまなくていいんだ。だから――」
そうして、背後からの斬撃を俺は受けた。
「力無き者に、何かをする権利など与えられていません」
肩越しに差し込まれた小太刀の刃が、首筋の傷にピタリと張り付く。鈍った感覚の上に、僅かな痺れが浸透していくのを感じた。
「約束された栄光も、勝利も、既に過去のもの。聖女より与えられた慈悲の上に胡坐を掻き、冒瀆した罰に従うことしか、もうアナタには残されていないのです」
いつの間にか、ピエール神父が背後に居た。
斬られたと感じたのも勘違いだった。どこにも出血はなく、痛みも一瞬の誤認によるもの。
「ただ、死になさい。降臨における鍵として用を果たしたなら、無価値な己をただ終わらせるのです」
いいですね、とそこだけはまるで生徒にものを教える教師のように、柔らかい笑みを感じた。
首筋に当たる小太刀から、甘い花の香りが漂ってきて、
「ごめんなさい……」
無感情なフロエの声を聞きながら、今度こそ俺は意識を落とした。
拳を、握ることさえ出来ないまま。




