35
白と黒の炎が、互いを喰い合いながら絡み合っている。
手品か奇術の類かと疑うほどに奇妙な石を手にしたラインコット男爵が、見せつけるようにしてこちらへ翳す。それがただの顕示ではないことを俺は知っている。
これ以上彼にくれてやる情報はない。
だから俺は、即座にこの場からの撤退を決意した。
「ジーク」
少し離れた位置で、くり子と共に立つ少年へ声を掛ける。
『銃剣』の紋章を浮かび上がらせる少年は、こちらをチラリと見て、すぐにまた男爵の手元に視線を戻す。
「予定通り、ここから退避する。アレは捨て置け」
「十年以上も探し続けてきたものを前にかよ」
「十年待ったのなら、あと少しくらい待って見せろ」
「っ……」
「俺を信じると言ったな。そして俺も、お前を信じると言った」
だから、躊躇はしない。
俺は傍らに立つクレア嬢へ、そっと語りかける。
「ここは任せる」
「はいっ。『旗剣』相手の戦いなら、多少の慣れもあります」
「くり子に幾つか策を預けてある。だが状況は有機的に変化するということを忘れるな。それとな」
青い風が霧を払う。
それと意識した訳でもなく、『騎士』の魔術が『魔郷』の魔術に優越するという、当たり前の理由によって。
彼女の『剣』は、この霧の前にはただただ無力だった。
「初めて出会った頃の俺は、君に、クレア=ウィンホールドに憧れていたんだ」
「それ……は……?」
「あの時俺が立ち止まらなかったのは、そうなってはいけない理由があったからだ。それだけだ」
きっと、いつだってそれだけだった。
俺にはその責任を望みとし、力一杯に走り続けるしか脳はない。きっと、人より理由を多く抱えているだけで。
「私は……」
「もし君が挫けそうな時、また立ち止まってしまいそうな時、空を見上げろ。俺はきっと、道標となって先を照らそう」
ただの詭弁に過ぎなかったが、真実だけが人の背を押すとは限らない。
彼女の力はどうしても、この先に必要となってくる。
俺の知る、ジークがアリエスとの関係を深めていく物語では、失踪したハイリアに変わって、クレアが部隊を率いて大きな活躍を遂げる。その背景には二人の会話があり、日々があった筈だが、俺はそれを知らない。
かつての世界で『幻影緋弾のカウボーイ』を描いた作家が掘り起こしたのは、ジーク=ノートンの物語だ。
だから正解なんて分からない。
けれど、それが正しいからなんて理由で彼女に掛ける言葉はない。
心のままに、かつての日々を想いながら言葉を紡ぐ。
「そしていつか、君がもう一つの旗印となってくれることを、俺は夢見ている」
夢などと、また青臭いことをと自分でも思った。
けれどハイリアにとってクレア=ウィンホールドという人物は、いつか見た夢のような存在で。
「皆を頼む」
振り返ること無く駆けた。
後方、響く剣戟の音は遠ざかっていく。
俺の言葉は迷いを与えただけだったのかも知れない。敢えて言う必要もない事を残して、自分勝手に。
駆ける濃霧の中で緋色の炎だけが傍らにあり、それが途切れた所で夜の暗さを思い出した。とても冷たい暗闇だった。
だがそんな感慨に浸る間もなく、ジークの切迫した声が後方へ抜けていった。
「追っ手が居る! 数は三!」
振り向けば、霧を抜けてくる三つの影が見えた。
マントをたなびかせ、男爵同様に防具を身に付けた者たち。月明かりの中で、真っ白な兜が異様に映えた。
こちらに追いつく勢いで迫る三騎を見て、どこか腹が決まるのを感じる。
纏う魔術光は、青。
紋章は――『騎士』。
何者だとうろたえる必要はもうない。
敵だ。俺の望みを阻み、奴らの望みを通そうとしてくる相手。
邪魔をするなら排除するしか…………ん?
「俺が足止めする! アンタは先に――」
「必要なくなった。目的地までこのまま行くぞ!」
前方で舞い上がる黄色の羽。
無口な『弓』の術者が、いかなる読みでか暗闇に立っていた。いや、俺が脱出を試みているとするなら、霧の外側が最後の追撃戦の場所だと、推測は出来るのかもしれない。
それだけの戦術眼を彼は身に付けつつある。
おそらく最も過酷だろう状況を任せるのに、不思議と不安はない。
彼はかつてジークを相手に数秒を稼ぎ切った。多くの訓練と経験を経てきた今なら、有利となる『騎士』相手に後れを取ったりはしない。
視線は合わせなかった。
声も交わさなかった。
だがすれ違う時、ちょっとした安心をくれた。
二つも年上の先輩から、背負い込むなと、そう言われた気がしたんだ。
※ ※ ※
古城から北へ抜けた森の中、俺はパーティの時から所持していた笛を取り出し、口に咥える。吐き出す呼気に音はない。が、それは人間の可聴範囲を超えているだけだ。
「……そろそろ、どこへ行くのか聞かせてもらえないのか」
既に魔術を非使用状態とし、俺たちは月明かりの影となる大樹へ身を寄せていた。森の中へ深入りはしていない。少し歩けばすぐ外へ辿り着ける程度の距離だ。
ジークの声は戦いの中にあった時よりもずっと落ち着いていて、冷えている。
心を殺し、思考を巡らせている声だ。
「ある程度分かってきているんじゃないのか」
「余分を省きたい。聞けるなら聞いた方が早いだろ」
「そうだな。俺たちが今向かっているのは――」
「デュッセンドルフ魔術学園」
言われ、口をつぐむ。吐息するだけの間があって、俺は抗議した。
「余分を省くんじゃなかったのか」
「HA! 合ってるならもっと話が早くなるっ」
なるほど、そういうことか。
「正解だ」
俺が頷いてみせると、ジークは深いため息をついた。
「って事は、やっぱりアレは偽物か」
男爵の所持していたラ・ヴォールの焔。本物となんら変わらない性質を持ち、神の器の失敗作とされるティアを操るアレは、ラインコット男爵が別から手に入れた偽物だ。
正しくは断片。
本物は学園にある。
「最初飛び掛かった時にはもう気付いていたな」
「本物の可能性もあった。それに偽物だからって、放置していいものじゃない」
「その通りだ」
「だがアンタは捨て置けと言った。ティアを苦しめてる張本人を前に、それ以上に優先するべきことがあるってな」
それは、一つの意味としては言葉通りに。
そして目的地が学園であるのならば、別の理由が浮かび上がる。つまり、アレが本物ではなく、偽物だという可能性。また、それと判断出来るだけの根拠を既にジークは持っている。
「キサマは夏季長期休暇の間に、奴隷狩りの一件を解決したと聞いている」
「あぁ、ティアやフロエ…………なんかと一緒にな。その時犯人が持ってたのが、さっきのと同じレプリカだ」
真っ先に奴隷狩りへ着手するリース√で得られる、ラ・ヴォールの焔へ通じる情報だ。生憎本命へは届かず、あの話ではリースにとって因縁あるピエール神父を通じて、イルベール教団へ深入りしていくことになったが。
「反乱起こした領主の持っているのは偽物。本物は学園にある、そうだな」
「そうだ」
「っし!」
隣でジークが握り拳を作るのが分かる。
そもそもコイツは、ラ・ヴォールの焔を求めてあの学園へ潜入していたのだから。
深夜の徘徊や休憩時間、授業中なんかも、様々な場所を虱潰しに探していたのを知っている。幾つか怪しいと思える場所は見つけても、今一歩を阻まれて進展していなかったんだろう。
だから学園の歴史なんてものにまで手を伸ばして調べ始めた。
俺から受け取っている筈の本も、奴隷狩りを追い詰める程度の役にしか立っていない筈だ。
現状、ラ・ヴォールの焔捜索の進捗は俺の意図した通りの状況と、考えていいだろう。
俺は再び笛を咥え、吹く。
あまり長居はしたくない場所だ。
かといって徒歩で行くには時間が掛かり過ぎるし、こんな夜中に魔術を使っては見つけてくれと言っているようなもの。
カサリ、と落ち葉を踏む音がした。
ジークが腰元へ手を当てるのを制止し、俺は立ち上がる。
「遅くなりました、ハイリア様」
「何、俺もいま来た所だ、メルト」
「……何の返しだ」
人間誰しも、ふざけていたい時というのはあるものだ。
こんな時でもメイド服姿のメルトに、少しだけ心が落ち着く。日常の光景というのはやはりいいな。
「こちらに馬車を…………馬車を用意してあります。敵の追っ手は先発した囮へ引き付けられています」
生真面目なメルトが言葉の途中で身を引くなどとは珍しい。
ジークが一緒だったことに驚いた? いや、彼女にはこうなることを伝えてあった。だとすればなんだろうか。
手短に告げて背を向けたメルトへ向けて、小さく疑問を漏らす。
「どこかおかしな部分でもあっただろうか」
疑問に首を傾げる俺へ、ジークが可愛そうなモノを見るような目で言ってきた。
「いや……自覚ないのかもしれないけど、アンタ……滅茶苦茶酒臭いぜ」
「ん?」
「飲み過ぎだ、大将」
馬鹿な……、新卒社員として働いていた当初ならビール瓶二十本は軽く開けていたぞ。酒の種類や度数が違うとはいえ、今日はまだ十本程度。うん、まだまだ余裕の量ではないか。
「飲み過ぎだ」
「そうか?」
「ああ」
「そうか……」
次は九本くらいに、いや八本くらいに抑えよう。
※ ※ ※
ガタガタと車輪が回る音を聞いている。
時刻は既に深夜を通り越し、もうじき朝を迎えようとしていた。けれど、一向に眠気がやってこない。ここ最近はずっとそうだ。
自覚出来る程度の酔いもあり、しかし思考だけは妙に冴えている。
この先の事、前の事。様々な事項が頭の中で回っているが、実のところ何一つ発展性はない。俺がやっているのは、既に整理整頓を終えた机の上を、再び並び替えて同じ場所へ戻しているのと変わらない。
無意味に、いやむしろ今後を考えれば愚かな事に、俺は眠りの時間を浪費していた。
それでも朝がやってくる頃にはいつの間にか眠っていて、いつも通りに目覚め、動くことが出来ていた。今日もそうであればいいと思う。
ふと気付けば、いつの間にか馬車は止まっていた。
小さく人の声がして、静かな緊張と共に外を伺う。
街中だ。
レンガ造りの町並みはデュッセンドルフに近いが、まだ着くような距離じゃない。となると、予定通り男爵の追っ手は振り切れたという事か。
常夜灯が掲げられていることを考えれば、それなりに大きな町であることが伺える。
俺は荷馬車に偽装した車内から、隠し扉を開けて外へ出た。
「あ……ハイリア様」
人目が無いことは確認していたが、死角に居たメルトにあっさり見付かった。
「起きていたのか」
「……はい。昼過ぎに一度仮眠を取っていますから、私は」
「そうか」
御者に全てを任せて眠る訳にもいかないか。
この強行軍には最低限の人員しか割いていない。三つの車両に御者が予備を含めて四人、俺、ジーク、メルトで全員だ。護衛は囮となった方に付けてある。
それでも戦力としてはこちらが上だろう。
「一応、宿を抑えてありますが、そちらで眠りますか?」
「あぁ」
そういえばそんな指示も出していたな、という意味での反応だったが、了承と受け取ったメルトが先行して歩き出す。俺も敢えて訂正はせず、その背に続いた。
宿は目の前にあった。
ボロ宿ではなかったが、貴族が好んで泊まるような場所には見えない。ごく一般的な、この町を探せば幾つも見付かるような宿だ。
早起きらしい老主人にメルトが一言二言何かを告げる。
俺は食堂になっているらしい一階の景色をのんびり眺め、それからメルトに連れられて階段を上がっていく。部屋は、それなりに大きなものだった。ざっと見て十五畳程度だろうか。最近は極端な例に慣れ切ってしまっているが、並の宿で一人部屋という事も考えれば十分だ。
大の字で寝るにはやや狭い寝台を横目に、俺は窓際に置かれた椅子へ腰掛けた。窓を開けば、終わりつつある夏の夜の、ひんやりとした風がくる。
相変わらず眠気はない。
だがいつの間にかメルトが姿を消していたことで、いささか思考に没頭し過ぎていたことを思い知る。少し待てば、控えめに扉がノックされる。
「入れ」
一礼して入ってきたメルトの手には、俺の上着があった。
そういえば馬車に入って脱いだままだった。呆けるにも程があるな。これで思考が冴えているとはとても言えない。
「メルト」
上着を置いて出ていこうとしたメルトを呼び止める。
「はい」
そうしてから、用件を考えた。
空いた間を埋めるように空を仰ぐと、そこは雲に覆われていた。星空を見たかったが、思ったようにはいかないらしい。
用件……そうだな、
「何かご用意致しますか? 食事など」
「食事か。いや、食欲はない。そうだな、それじゃあ紅茶を淹れてもらえるか?」
「はい」
「カップは二つだ」
「……はい」
珍しく、メルトは口答えしなかった。
同じ机を囲むなんて、そうそう頷きはしないというのに。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、見慣れたデザインのカップがあった。陶器類の運搬は大変だっただろうに、荷物に入れていたらしい。
口を付けた紅茶はやや薄めで、それが不思議と心地よかった。ほんのりとした甘みは砂糖ではなく、蜂蜜だろう。気付けが欲しかった訳ではないから、こういう味は丁度いい。
「美味い」
「ありがとうございます」
「メルトも座れ。紅茶も好きな様に味わうといい」
「はい」
膝を折り、スカートを片手で支えてメルトが腰掛ける。座ってから身嗜みを軽く整える動きを、俺は紅茶に口を付けて見ないようにした。
「いただきます」
そうして音もなくカップを取り、口を付けたメルトが、楚々とした表情を安堵に崩す。受け皿へ戻されたカップの底には輪切りになったレモンが沈められていて、どうやら俺が言うまでもなく自分好みの味にしてきた様だった。
そんな俺の視線に気付いたのか、それとなく視線を逸らすメルトに笑いが漏れた。
「ぁ……雨、ですね」
逸らした先、窓の外を見やれば、小降りながら雨が降り始めていた。
続くとなればあまり嬉しくない事態だ。道が泥濘むと馬車の車輪が嵌り込む危険もある。一台や二台を惜しみはしないものの、余計なトラブルは抱え込みたくない。
二人して夜明け前の、雨に濡れていく町並みを眺める。
次に口を開いたのは俺だった。自然と零れたというよりも、奥底で燻っていた何かが、優し過ぎる雨音を聞いて暴れ始めたかのような衝動があった。
「しばらく離れていたが、屋敷の方はどうだ」
甘い紅茶に口を付ける。それを味わうこともなく、飲み下した熱が肺腑へ落ちていく。
「何事もなく」
そうか、と頷き、新しい話題を探した。
会話は途切れ途切れになりながらも、雨音を打ち消すように続いていく。パーティでの事、その準備、アリエスが皆を率いて乱入してきた事、父がクレア嬢とくっつけようと企んでいる事、最近呼んだ本について、いつになく熱心な声で俺は語っていた。
そして、
「ハイリア様」
「……なんだ?」
「無理をして笑わずとも大丈夫です」
呼吸が止まったような気がした。
鏡のような瞳がこちらを見つめている。
俺はなんとか腹に力を入れ、息を吸う。吸った息に喉が震えて、吐き出すことが出来なかった。
息苦しさも忘れて笑おうとするが、上手くいかなかった。
結局は苦笑いが漏れてようやく吐息がつけた。
「っ」
咄嗟に手の平で顔を覆う。そのまま何度か深呼吸し、気持ちを落ち着けようとした。けれど、その手首を掴むものがあった。
メルトの手だ。
立ち上がったメルトが俺の手を柔らかく掴んでいた。
やがてもう片方の手が手指に触れ、解き解すように、ゆっくりと引き剥がしていく。
悲しそうな瞳がそこにあった。
俺はそれを、鏡のようだと思ってしまった。
染み渡るような雨音が耳朶を打つ。
優し過ぎる音だ。
何も言えなくなったまま、悲しげな瞳から逃げるように俯いた。
俯いた先、砂で汚れた靴がある。
小奇麗な靴には、小さなシミが付着している。
不意に雷鳴が轟いた。
強烈な光の中、一瞬の瞬きの間に、俺はソレを見た。
血だ。
急激に雨音を強めていく空を置き去りに、先の戦いを思い出した。
実戦だった。何も初めてじゃない。だがイルベール教団との戦いでは、俺は結局ピエール神父との戦いに終始し、その機会がなかったのを覚えている。
今回は余裕など無かった。一つ一つを確認はしていなかったが、誰一人死んでいないなんて都合のいいことはない。
殺した。人を。
そして俺は、何もかもを巻き込んで、たった一人の少女を生贄に捧げた。
そうやって不幸になっていく一人を救いたいと願っているくせに。
罪悪感に浸ることはしない。
身を委ねれば溺れてしまう。
それでも、俯く俺の頭を抱いてくるメルトを、拒むことは出来なかった。
ふと、完璧超人、なんて言葉を思い出した。
この世界『幻影緋弾のカウボーイ』の物語をプレイした者たちが口にしていた、ジーク=ノートンへの総評。
そんな人間が本当に居たなら良かった。
そうすれば世界は、どんな悲しみも取りこぼさず救い上げられただろう。
あるいは『俺』という異物が混じったことによって、『ハイリア』の中に弱さが生まれてしまったからか。
いや違う、彼とて心に迷いを持っていた。
とても重い、押し潰されそうなほどのものを。
雨は激しさを増していく。
赤いシミは、徐々に黒く染まっていった。




