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風に吹かれたような動きで、ティア=ヴィクトールが膝をついた。
小柄な少女は窓枠に手を掛け、苦しそうに眉を潜めながら足元を見つめている。
「ティア……?」
「待て」
気付いたリースが駆け寄ろうとするのを呼び止め、俺は立ち上がる。
『槍』(インパクトランス)の紋章を浮かび上がらせ、ハルバードを右手に握った。
不穏な俺の動きに困惑する者は居ても、警戒をする者は皆無だった。平時のジークであれば何かを感じ取ったのだろうが、今は他所事に気を取られて余裕もない。
「アリエス」
一人、話の輪から外れて寝台で横になっている妹へ声を掛けると、小さく縮こまる動きがあった。
「はい……」
覇気の無い声に苦笑し、改めて息を吸う。
「メルトに手紙を預けてある。落ち着いたら読んでほしい」
その直後だった。
崩れ落ちたティア=ヴィクトールの眼前に人間の瞳を模した紋章が浮かび上がり、紫色の霧が視界の全てを覆い尽くした。
あまりにも唐突な『魔郷』の発動に誰もが呆然とする中、俺はハルバードを床へ叩きつけた。手加減抜きの一撃に床は崩落し、近くに居たジークを巻き添えに落下していく。
「っ、いきなり何しやがる!?」
姿勢を崩しながらも軽やかに着地してみせてジークが、強張った表情で言ってくる。
「下の部屋は無人にしてある。安心しろ」
「そういう話じゃねえだろ!」
「無事ですか! ハイリア様! ジーク!」
頭上から聞こえてきたリースの声に、俺は片手を挙げて応じた。
ふむ。まだ状況が理解出来ていないか。まあ当然か。
「なにをしている、リース=アトラ」
「はい?」
「逃げた方がいいぞ」
「逃げる……? いえ、ですがティアが」
「今この力を発動させているのは本人じゃない。この古城の主、ラインコット男爵だ」
「は……?」
それ以上の説明は省き、俺は部屋の壁をぶち破る。
吹き飛んだ瓦礫が中庭へ撒き散らされ、大きな物音に人の視線が集まるのを感じる。だが、今朝方見た時よりも警備の数が少ない。
どうやらこちら側の兵には話が通っているようだ。
ざっと状況を確認した後、俺は改めて上の大穴に目をやり、そこからこちらを覗きこむ赤い髪の少女へ向けて言う。
「リース。お前はアリエスを頼む」
「…………はい!」
状況が分からないなりに、やるべきことには納得してもらえたらしい。
さて、現在地は三階の俺の部屋から下がって二階。魔術による身体強化もあれば飛び降るのはそう難しくない。瓦礫に足を取られないよう飛び降りる場所を吟味していると、力強く肩を掴まれた。
「ハイリア」
ジークだ。
「あんたは何をどこまで知ってる。ティアがああなることを最初から知っていたんだろ……! 一体なんのつもりで!」
ともすればこの場で殺し合いが始まってもおかしくない敵意だった。
自分の仲間が得体も知れない何かに利用されているのだから、当然と言えば当然だ。
嘘はつけない。
それと気付かれれば、こいつは必ず俺の動きを封じに来る。
だが敢えて、俺は問いかけた。
「答えは出たのか」
「…………っ」
「もうあまり時間は残っていない。だが、悩めるだけ悩んでいろ。他の誰が批難しようと、お前のその葛藤を俺は肯定する」
簡単に決断出来ないのは、天秤に載せられた二つのものがあまりにも重いからだ。
言い訳ばかり並べてしまうのは、感情を思考で覆い隠そうとしているからだ。
どれほど頑強に見えても、その一点に於いて彼の心はとても弱い。
心に弱さが芽生える理由とはなんだろうな。
「ジーク。お前は俺と来い」
「どこへ……」
最後に俺は頭上の穴を見やり、ティア=ヴィクトールを思う。
『魔郷』(イントリーガー)のイレギュラー能力を持つ少女。
ある秘境に住む少数民族によって作られた、神の器の失敗作。
彼女の能力は『王冠』(インサイスドクラウン)を基盤とし、支配下とした領域内にある自然を操る――というのはあくまで表面的なものだ。
イントリーガー、陰謀者の名を持つ彼女の力の本質は、陣地内に居る人間の精神に干渉することにある。ある程度の操作も可能とされる能力だが、俺にとって最も厄介なのはその副次効果だ。
対象の精神に干渉することで、彼女は相手の心を読む。
今現在の思考はおろか、記憶すらも。
幼い頃にラインコット男爵に拾われたティアは、定期的に学園内で回収した情報を報告させられている。だが俺の知る限りにおいて、ティアがハイリアへ干渉を行ったことはなかった。
干渉された人間は幻覚や悪夢を見る。
その事を知るウィンダーベル家の嫡男に下手な手を出せば、国内有数の大貴族を敵に回すことになる。だから、彼女に読み取られることはないとタカを括っていた。
ティアと男爵、どちらの意志によって行われたのかは分からないが、この世界の未来までをも知る俺の記憶は、迂闊に人へ知られていいものじゃない。
下手をすれば全てが台無しになる。
その為にも俺は……、
「これだけは答えろっ、ティアは助けられるのか!」
自分の秘密を守る為に巻き込んだ少女は、自失の中で全ての情報を沈黙させている。
今はまだ、けれど、
「当然だ。必ず、助けに来る」
中庭へ青い風を纏って降り立った俺は、武装を突撃槍へ持ち替え、『騎士』の紋章を浮かび上がらせた。呼吸を切り替え、重心を低く構えを取る。
派手な騒ぎに集まり出していた兵たちの一部が、とうとうこちらへ武器を向けてきたからだ。
彼らはどこまでも当たり前な警備兵の勤めとして、冷静に言葉を作る。
「ウィンダーベル家のご嫡男ですね! どうか武器を収めて下さい!」
「一体なにがあったのです!? 事情を説明して下さい!」
「なんだ……こいつら」
困惑したジークが言葉を漏らす。
彼らの言葉はあくまでいつもどおりのものだ。
だが武器はしっかりとこちらへ向けられ、囲む動きは油断がない。何より、『魔郷』の放つ紫色の濃霧に覆われた状況で、なぜ何かしらの行動を起こすことをここまで警戒するのか。
「突破するぞ。こいつらはティアを操っている者の配下、敵だ」
城壁までは目算で百五十メートルほど。超えた先には小規模な街が広がっているものの、有効的な戦力が配置されているのは城内だけだろう。
敵の数は見えるだけで三十。だが、今後も増え続けるのは間違いない。
『騎士』にとっては天敵と言える『弓』の術者は、城壁へ近付くほど多くなっている。
普通なら突破は不可能。
『騎士』は確かに特性上、個人レベルでの優劣をひっくり返す力を持つが、所詮は枠の中に収まった能力だ。
味方と合流し、中隊クラスの編成で突破を図るのが最も安全だが、
「出来うる限り急ぎたい。行けるな、ジーク」
尽くの説明を省き、自分勝手な行動ばかりを取る俺に、ジークは苛立ったように頭を掻く。
そういえば部屋に居た時からカウボーイハットを被っていなかったが、今も持っている様子はない。いいのか?
「……ったよ! もう何が何だかさっぱりだけど、一つだけハッキリしてることがある!」
『銃剣』(ガンソード)の紋章が並び立ち、枯草色の髪が緋色の炎に揺れた。
「こいつらがティアを苦しめてるってんならっ、一発くれてやらなきゃ気がすまねえ!」
幻影緋弾がひた走る。
駆け寄ってきていた一陣を横薙ぎにする弾丸は、瞬く間に三人の紋章を打ち砕いた。
「今はアンタを信じる。だからアンタも、俺を信じて突っ走れ!」
「ああ。最初から、お前を疑ったことなど一度もない」
『騎士』の突撃で、更に二人の紋章が火の粉と消えた。
あまりにも長くなりすぎた為に分割してます。




