32
クレア=ウィンホールド
目覚めは泥から這い上がるように重かった。
鈍痛のある頭を抑えながら身を起こすと、私は寝台脇にある水差しを手に取り、コップへ注いで口を付けた。ほんの僅かに清涼感のある酸味を感じるのは、水差しの底へ沈められたレモンが原因だろう。
訓練後の疲労回復には、こういう酸っぱいものが効果的だと言っていた人の事を思い出して、冷たい水を飲み込んだ後、ほっと気持ちが暖かくなる。
その後で頭の中に一つの事が浮かんできて、吐息ついた私は布団を手繰り寄せて丸くなった。
ハイリア様が運んでくれて、布団を掛けてくれたのをぼんやりと覚えている。あの人の掛けてくれた、暖かさ。
「…………………………赤くなるな。乙女か私は」
いや、確かに身体的な意味では乙女なのだろうが、そういう青臭さを捨てようとこの一年頑張ってきた筈だ。けれど酔いの抜け切らない頭がどうしても甘えに引き寄せられ、私はたまらず布団の中へ潜り込んで叫んだ。
「~~~~っぷはあ!」
乱暴に掛け布団を払って寝台から飛び降りると、つい先程までの自分が相当な馬鹿に思えて仕方なかった。
馬鹿め、十分過ぎる程に甘えているキサマがこれ以上を求めてどうする。
全くもって頭が痛くなる。
少しだけ冷めた頭で今の状況を観察した結果、すぐにでもここを出て自室へ戻ることにした。
どれだけ時間が経過しているかは分からないが、両親の用意した二人用の部屋で一夜を明かすなど、仮に何も無かったとしても既成事実化されかねない。
手早くドレスの乱れを正し、靴をはいてから探し出した櫛で髪を梳かす。どうせ部屋までの道だからと簡単に纏め直すと、最後にもう一度水差しから一杯のレモン水を口にして部屋を出た。
ついてこようとした護衛を警備に回して、ふらふらと薄暗い廊下を歩く。
ええとたしか、私に与えられているのは西の貴賓室で、一番上の階だ。
主賓扱いというのもあって一番奥の部屋にされているけど、政務ばかりで身体の鈍っている父や申し訳程度の魔術しか使えない母を考えれば、私を手前に置いて守りとしてほしいくらいだった。
途中警備の者に呼び止められた。けれど、私の部屋はその一つ向こうだと主張すると、彼らは少し待つように言って、数名を残しその場を離れた。
まあ、密談だろう。
父もそれなりな立場があるし、こういう場では家族にも聞かせることの出来ない話の一つや二つ出てくる。実直な父のことだからそう悪い話でもないだろうと思っているけど、後で軽く聞いてみるのもいいかもしれない。
しかし、自室でとなると母も一緒なのか。
しばらくして、廊下の先から何かを強く打ち付けるような音が聞こえてきた。遅れて野太い男の声がなにかをがなり立て、扉が開け放たれる。
私が通る間だけでも会話を止めてもらう、にしては物々しい雰囲気だ。そして部屋から現れた男の表情に、不安は更に色濃くなった。
ラインコット男爵。
私たちの通うデュッセンドルフ魔術学園やこの古城を始めとし、我が国の南東部一帯を治める領主代行だ。元々複数の国家が入り乱れていたこの周辺を百年以上前にある国家が制圧し、統治していた。それを更に滅ぼして吸収したのが五十年ほど前。
しかし当時既に分裂を始めていたこの地を統治し直するのは難しく、また余力も無かったことから対外的には自国として吸収しながらも、ほぼ丸投げする形で内部紛争ごと現地貴族らに統治を継続させた。当然、様々な利権は中央へ掠め取られているらしいが、きな臭い話はいくつも聞く。
そういう意味でもこの領地は、色々と都合を付け易い場所でもある。
とはいえ、ラインコット男爵は数年前の内乱でもそれに乗じる兆しを見せず、大人しく静観していたと聞く。従順、且つ気の長い人物だと教えられていたし、顔合わせの時も似たような印象を受けた。
けれど、薄暗闇で見えた彼の表情は、それを覆すにあまりあった。
おそらく、私が近くに来ていることを一番に聞かされただろう古城の主は、数名の兵を引き連れてこちらへやってきた。
「……そこで止まって下さい」
咄嗟に構えながら言葉を投げる。
動きまわることを前提としていないドレスに、高いヒールの靴は争いに向かない。だからこんなもの着たくなかったんだと言っても今更だろう。紐でヒザ下まで巻き付けているだけに、この場で脱ぐことは出来ない。
私の言葉通り、男爵は確かに止まった。
けれど、背後で人の壁が出来上がったのを同時に感じる。
代替わりしたという新たな領主、年齢は三十前後と聞いているが……どちらかと言えばずっと若く感じる。くすんだ金髪を後ろへ撫で付け、細身の体を包む貴族の礼服は洒落っ気が強い。
ほんの僅かに香ってくるのは香水か。
「深夜に未婚の女性へ大勢で迫るというのは無礼でしょう」
「……全く、親子揃って口が回る」
嫌な予感がした。
もう警戒を隠すこともなく、私は『剣』の紋章を眼前に浮かび上がらせる。
手にはレイピア、そして纏う炎に、男爵の後ろで控えていた兵らが一歩前へ出る。
前に三人、後ろに五人。
足元の不確かさが崖際に立っているような錯覚さえ与えてきた。
「そういえば君は、ウチの領土でやっているあの学園の生徒だったね。中々の腕前だと聞いている」
そんな兵を更に押しのけ、彼は一歩前へ出てきた。
こちらへ手を差し伸べ、微笑みながら。放たれた言葉は、予想だにしなかったもので、
「共に革命を起こそう」
「は……?」
「君のような人であれば分かっている筈だ。この国はもう破綻している。過去の栄光にしがみつく老害たちのせいで、君たちのような若者が苦しむのは見ていられないんだよ」
開け放たれたままの両親の部屋から、金属を打ち付けるような音が連続する。思わず駆けつけようとして、素早く兵の一人が切っ先を差し込んできた。
止まり、次への初動を入れようとした時にはもう遅かった。
「本当にどうしようもない。たった一人の少年が作った流れに群がる虫たちは、僕が排除してあげたよ」
廊下へ流れ出す赤いシミ。
無造作に蹴り出された人の身体には剣が突き立てられていて、術者の効果範囲から飛び出したそれが火の粉となって散っていく。
「なに……を……」
「僕も最初は期待していたんだ。彼らならきっと分かってくれるって。けれどどうしても首を縦に振らない。この下らない国を守ろうとなんてしている。イルベール教団なんてゴミクズを内部に迎え入れている国をだよ? 本当に、馬鹿げてる」
言葉が頭に入ってこなかった。
あの部屋に居るのは……?
居たのは、
父は、
母は、
「ぁ……」
ごめん。
ごめんなさい。
ずっと会うのを拒絶していたのは、二人が嫌いになったからじゃないんだ。私は取り返しの付かない過ちを犯した。それに向き合うことも出来ず、人に縋って、与えてくれる道標へただ精一杯走り続けていたんだ。
こんな自分を、私のような駄目娘を、両親に見せる訳にはいかない。
いつか、きっといつか胸を張って二人の前に行くから……そう思っていた。
ふっと何かが降りてきたように一歩を踏み出せたのは、またあの人が示してくれたからだ。あぁ、私は行くんだと、不思議なほど静かな気持ちで納得できた。
でもまだ不格好な私のままで、そんな出来損ないの娘の訴えを本気で聞いてくれた両親へ、心からの感謝を送りたかった。
だからせめてもう一度……、
血を吸った絨毯を踏んで、両の手に剣を握った男が顔を出す。
室内からの明かりに顔が映し出され、
「残念、暗殺は失敗だクソ領主」
燃え上がった炎を置き去りに、その姿が掻き消えた。
咄嗟に姿を追えなかったのは、彼の動きが意識の外側にあったからだ。加速によって天井を足場とし、相手が気付いた次の瞬間には地面へ飛びついて這うように駆けて来る。
「悪いが余裕はないんでな。転がってろ」
応じる間も無く足を払われ、みっともなく転倒する。
動揺したラインコット男爵の声だけははっきりと聞こえて、視界の端で赤い火の粉が散っていくのが見えた。言われたことを理解する間もなく転倒した私は、咄嗟の行動で身を起こす。
そして、兵の一人が背後から胸を貫かれ、目を剥いて絶命するのを私は目の当たりにした。
何を考えたのか、求めるように私へ手を伸ばした彼は、剣が火の粉と消えたその後も、身を横たえたままこちらを見ていた。とても人の顔とは思えないほど目玉が浮き上がった、不気味な表情で。
「っ、ひ……ぁ……!」
全身の肌が泡立つのを感じた。
不意打ちでの光景に半ば狂乱しかけた所へ、敵へ向かう足を止めた少年が戻って来る。小柄な、よく知る相手だった。
「落ちつけ。もう死んでる」
「ヨ、ヨハンっ? 何故……」
両親の部屋から現れた、同じ小隊の男。
ヨハン=クロスハイトとは、結成時のいざこざもあって私なりの信頼がある。彼が父の暗殺に加担したなどとは考えられず、いやそれに今領主の手勢と敵対して……なにがどうなって。
「まー、一番に言っておくと、アンタの両親は無事だよ」
「そう、なのか………………はぁぁ」
ため息と一緒に気も抜けた。
すっかり脱力した私へ向けて、一応の説明とばかりにヨハンは言葉を続けた。
「俺がここに居たのは、隊長殿の指示だよ」
「ハイリア様の……?」
「元々、妹ちゃんの馬鹿騒ぎの最中に怪しい動きが幾つかあってな。なにかを隠しているような、全く別の何かを守ろうとしているような、まあ妙な動きだ。おかげで会場までの突破は楽だったけどな。そんで隊長殿にその事を話したら、しばらく主だった貴族らの護衛についておくよう言われた。俺以外にも何人かいるぞ」
言われ、部屋の入り口を見れば、アンナ=タトリンを含む三人娘がこちらを伺っていた。
ハイリア様の指示とはいえ、密談に同席出来たとは思えないから、おそらくどこかに潜んでいたんだろう。一歩間違えば引っ立てられる所だが、今回は両親の命を救われた。
「さてまあ……形勢は逆転した訳だが、どうするよクソ領主」
少し離れた位置で様子を伺っていたラインコット男爵に、ヨハンはサーベルの切っ先を向けて言葉を放る。対し、男爵は薄く笑った。
「形勢逆転か。何、役立たずの部下は死んだが、私一人でもどうにかなる状況だ」
彼の足元から炎が燃え上がる。
手には無骨な騎士剣。
眼前に浮かび上がる紋章は――『旗剣』(ライトフラッグ)。
「……おいおいマジかよ」
「革命の旗印に相応しい力だろう?」
踏み込む男爵に、ヨハンは後退するしか手が無かった。
叩きつけられた連続破砕に逃げ場はそこしかない。私も踏ん張りの効かない靴でなんとか後退すると、手にしたレイピアを一応は男爵へ向ける。
「っ、くそ」
せめてまともに動ければ援護も出来るだろうが、無理に戦えば足手纏いとなる。
アンナ達の力量では相手をするのも難しい。
「どうするかねぇ、一番手」
「逃げるしか手はない。が」
「あちらさんも中々早そうだ。足手纏いを三人も連れて逃げるのはキツいな」
「ヨハン君、絶対私のこと足手纏いに数えてるよね……」(←三軍)
「元気出してアンナ。そう、人間時には諦めも必要だから」
「慰めてよセレーネちゃん!」
「間違えた、四人居た。使えないのがもう一人」
「離してアンナ。あの馬鹿殴らなきゃ死んでも死にきれないっ」(←二軍)
「その痛みだよセレーネちゃん。私がさっき感じた痛みをよく噛み締めてっ」
「二人共うるさくして……。たしかこんな時は、そう……『静かにしやがらねえと、その膜突き破るぞ無能ども』です」(←一軍)
「「オフィーリアさん!?」」
とても綺麗な笑顔でした。
と、なんだかんだで三人の会話を聞いていたら落ち着いた。
状況は変わらないが、逸る気持ちのまま動くのだけは避けられた訳だ。少しだけ肩の力が抜けて、改めて対峙するラインコット男爵を見れば、彼は楽しげにこちらの様子を伺っていた。
「……愉快な子どもたちだ」
その表情は慈しむようでいて、決して敵意の類ではなかった。
「もう少し聞いていたくもあるが、彼に感付かれていたとなれば急がねばならない。行かせてくれるかい?」
「さあ、どうだろうな」
「何、止められてもここは引かせて貰うさ」
振り上げられた騎士剣にヨハンが踏み込む動きを見せる。だがそれより早く男爵の剣が連続破砕を生み、更なる後退を彼に強いた。
凌ぎ、次の前進をと踏み出した足は、数歩進んだ所で止まってしまう。
「チッ、逃げる方向だけでも確認したかったが」
追跡は相手との力量差も考えれば現実的じゃない。
それでもどこへ向かったか、という情報は確かに欲しかった。ここは彼の庭。私たちには知らない事が多すぎる。
この場での戦いが完全に終わったと判断したのか、ヨハンは両手のサーベルを火の粉と消し、頭をぼりぼりとかく。
「さて……一先ず守り切ったはいいが、どうするかな?」
「ヨハン君ヨハン君、私たちの役目は護衛なんだから、このままクレアちゃんのお父さんを守っといた方がいいと思うの」
「そうするかぁ。つってもこういう時、普通は城外へ逃げるんだろ? でも中には俺たちが居て、警備の半数近くは二人んトコが用意した連中だ。ちょっと号令かけたらあっさり潰せるんじゃねえのか?」
それもそうだ。
反乱を起こすにしてはあまりにも不向きな状況で彼は動いた。彼の目指す革命に同意しなかった父へ逆上したとも言えるが、仮に暗殺が成功したとしても、待っているのは宮中伯を守りきれなかったことへの引責。
あくまで代理の扱いに過ぎない彼がその座を追われるのは想像にかたくない。
仮にも上位能力に目覚めた男の、大義そうに語っていた革命への気持ちが、それほど安易なものとは思い難いが……。
「追いなさい」
ふと、声が聞こえた。
落ち着いていて、深い響きをたたえた声だ。
「お父様……」
「私は今日この場に集めた方々を守る義務がある。幾人かの私兵は居るが、彼を追うのは皆の安全を確保してからになる。ここはいい。君たちは君たちの動きを、老人たちに気を取られて足を止めるな、若者」
私のすぐ隣で、ヨハンが『剣』の紋章を浮かび上がらせた。
両手にサーベルを握り、笑う。
「いいねぇ、父親ってのは」
「あ、あぁ」
「ほら、いつまで呆けてんだよ。もういい加減状況は整理出来たろ」
革命を起こそうとしていたラインコット男爵。
それに気付き、いざという事態に備えていたハイリア様とヨハンたち。
城内にはこちらの味方の方が圧倒的に多く、しかし自分の庭とも言える場所で男爵は逃走中。
逆上して父を暗殺しようとしたのが、仮に無策無謀でないとするなら、事態が拡大する前に捕らえてしまった方がいい。
「そうだな」
「よし、行くぞ」
「あぁ、いや……すまない。先に向かってくれ」
「はあ?」
このまま追っても、正直言って足手まといになってしまう。
「戦い易いよう、服を着替えてくる」
※ ※ ※
自室で乱暴にドレスを脱ぎ捨てると、ソファに腰掛けて靴を脱ぐ。
紐さえ解いてしまえば後は簡単で、すっと足が抜けた。
下着姿のまま部屋を横断し、隣室の衣装部屋へ踏み入れる。
世話をしてくれるメイドは居ない。こんな夜中でもあるし、大掛かりなドレスに着替えるならともかく、普通の服を着るのに人の手なんて必要ない。
思い、つい苦笑する。
学園へやってきた当時、私は服の着替え方も知らなかった。
家出をする前にメイドから教わった何着かを着回すのがやっとで、場にそぐわない服装をずっと着ていた。制服の着方が分かったのだってずいぶんと経ってからだ。
そもそも理解しようともしていなかったのだからどうしようもない。
教えられてみれば驚くほど簡単で、今までの苦労はなんだったのだと思ったものだ。
私は衣装部屋の一番奥にあった服を取る。
デュッセンドルフ魔術学園の制服だ。
学び、成長していく者の着る服。
未熟な私はこれを着よう。
ここから先、ドレスは必要ない。
脚を美しく見せるための靴ではなく、動きやすく耐久性の高い靴を。
制服に腕を通せば、私は宮中伯の娘ではなく、一学生であり、ハイリア=ロード=ウィンダーベル率いる一番隊の剣士だ。
この事態、どこまでハイリア様は読んでいるのだろう。
状況の動き出した今、何をしているのか。
彼が反乱を企てる領主と同列に見做した事とは何なのだろうか。
ダン――と足を踏み鳴らし、足元の感触を確かめる。
装飾の多い髪飾りを放り捨て、簡素な紐で髪を括り直す。
部屋を出た。
伝令としてやってきたらしいくりくり頭の後輩が、廊下で私を待っていた。
お互いにもうドレスではない。
「いくぞ」
「はいっ」
その瞬間城内は、尋常ならざる世界に飲み込まれた。




