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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第三章(上)

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「なぁ・ん・で・す・ってー?」


 笑顔のアリエスが、無表情のティアへ詰め寄る。

 女の子としては身長の高いアリエスが、明らかに小さいティアと並ぶと、その違いが一層強調された。だが、アリエスは向かい合う位置では止まらず、敢えて一歩を踏み出す。すると、ちょうど彼女の胸元の高さに顔のあったティアが、アリエスの胸に突き飛ばされるようになり、たたらを踏んで数歩下がった。

 そして、そんなティアを見たアリエスが、優越感に浸りながら口元に手を当て、クスリと笑う。


「あらごめんなさい。小さくて見えなかったの、本当よ?」


 当然嘘である。

「……乳おばけ」

 負けじと呟くティアの言葉に、今度は手が伸びた。

「二回までなら許しましょう。けど次はないわ」

「ひひほふぁへ、ひひふぉんふぁー」

 両頬を摘まれパン生地のように捏ねられながら、ティアは果敢にも反抗した。因みに彼女も手を伸ばしているが、届いていない。

「あらあら何を言ってるのか分からないわねぇ」

「ふぁふぁふぇっ」

 ぺしん、と手を叩き、距離を取るティア。

 散々にこねられた頬は普段よりやや膨らんでいて、興奮しているのも合わさって更に赤い。荒くなった呼吸をなんとか抑え、潤んだ目を両手のひらで擦って吐息。


「林檎みたいで可愛いわよ。そうして静かに飾られてなさい」


 ほほほ、と手で口元隠して笑うアリエスの目はとても楽しそうだった。対しティアはこめかみをピクリとさせ、平坦な声で言う。

「私の嫌いな人間は、話の邪魔をするうるさい貴族女と、下品な胸の貴族女」

 ピクリ、と今度はアリエスのこめかみが動く。

「それは一体誰のことかしら」

「私の嫌いな人間は、話の邪魔をするうるさいアリエスと、下品な胸のアリエス」

「名指し! 遂に名指しで言ったわねアナタ!」

「やっぱり縛って置いてくればよかった。話が進まない」

「アナタねぇ……!」


 と、ここで自分が声を荒立てていることに気付いたらしいアリエスが、こほん、と可愛らしく咳払いをした。しかし、それで溜飲を下げた訳ではない。当然ない。


「それはごめんなさいね。……ああそれと、アナタにとって下品な胸というのは、私のように豊かで、包容力のある胸のことかしら。さすが、貧相で、あるかどうかも分からないような胸の持ち主は心が狭いわね」

「狭い……? アナタのソレがあまりに不格好で耐え難いだけ。なにそれ、顔でも入ってるの、付け替え可能なの」

「ほほほ、自分には無いから分からないのね。教えてあげる。大きな胸には優しさと豊かさが詰まっているのよ? それで、アナタのソレには何があるのかしら? 貧しさと僻みかしらね、ほほほほほ」

「これは清貧。美しいの。高貴なの」

「高貴?」

 ほほ、と笑い飛ばそうとしたアリエスより早く、ティアは一つ付け加えた。


「芸術の世界では、アナタのように無駄に大きな胸の女体像は存在しない」

「ぐっ」

「大きいというのは、それだけで品がない」

「ぐぐっ……だ、だからといって、アナタのように何もない女体像なんてものもないじゃないのっ」

「ぐぅっ」

「悔しいけど、確かに芸術的な美は大きすぎず小さすぎず。そうね、ちょうどそこに居るリース=アトラの……胸、みたい…………に……」

「リース…………? …………リース」


「な、なんで私が睨まれるんだ!?」


 じとー、とリースを見つめる二人に、彼女は顔を赤くして周囲に助けを求めようとするが、生憎と残るは男二人だ。やめろ、変に胸を隠そうとするからこっちまで意識してしまうだろう。

 第一、俺だって女性とそういう話をおっぴろげにするのは抵抗がある。ジークもそうなのか、とても居づらそうに顔を背けて我関せずを貫いていた。


 困り果てたリースを見て、俺たち二人の居る場所で胸の話なんぞをしていたことに気付いたアリエスとティアは、それぞれ頬を赤くして口籠る。

 アリエスが俺に対して照れるということは無いから、きっとジークが原因だ。腹立たしいなっ!


「なんで俺は睨まれてるんだ」

「ふんっ」


 兄心は複雑なのだ。

 合宿以来、アリエスが俺の寝床に入ってくることもなくなったし、今までは一緒に過ごしていた余暇も、自小隊の者たちと居ることが増えた。はっきり言って、二人の時間が減っていてものすごく寂しい。


「まあ……色々と話は逸れたが、改めて話そう」


 俺の一言で場は一度区切られた。

 本を読む時に使っていた大きな椅子を、ソファから少し離れた位置に置いて腰掛けた後、ジークたちの表情を照らす灯りが、溶け出した蝋を受け皿へ流すまでの時間を待って言葉を作る。


「先に問題となる名前だけは伝えておいたが、ここに居るのは、ソレに大して一定の関係性を持つ者だ」

「ラ・ヴォールの焔、だな」

「あぁ」


 ソファのへりに腰掛け、問いかけてくるジークの表情は攻撃的ですらあった。

 それはきっと、事この話題に関して、奴に余裕がないからだ。リースは気遣わしげにジークを見ていて、ティアの表情は相変わらず読みづらい。

 拗ねたアリエスが俺の寝台で足を垂らして横になっていて、俺はむしろ、彼女のその何気なく眺める目を恐れた。


 そっと吸い込んだ息を、盛大に吐いた。

 重いものを吐き出すように、深く。


「話をする前に、まず聞いておくべきことがある」


 とても重要な、すべての起点となる事だ。


「ジーク。お前にとって、フロエ=ノル=アイラとは何だ」


 沈黙が降りた。

 カウボーイハットを脱いだただの少年は、崖から転落していく人を見送るような、そんなイメージさえ浮かばせるほど絶望的な、悲しい表情をしていた。


   ※  ※  ※


 ひび割れそうな沈黙を一番に破ったのは、ティアだった。


「なんの関係があるの」


 それが疑問というより、何も言えないでいるジークを守るようで、

「質問に答えろ、ジーク」

 だから俺は答えもせず、ただの少年に問いかけた。沈黙が返ってくるのを分かっていて、追い詰めるだけだというのを分かっていて、問いかける。

 それは、短剣で切るつけるに等しいものだった。


「その答えが出ない限り、キサマにラ・ヴォールの焔を渡すことは出来ない」


「渡す……ハイリア様が持っていたのですか!?」

 リースの驚愕に俺は首を振った。

「入手しようと思えば可能、というだけだ」

 ティアの表情は変わらない。時折ジークの方に目をやりながら、俺をじっと見据えていた。耐え切れない、とばかりにリースが一歩を踏み出す。

「ハイリア様ならその意味が分かっている筈。なぜそれと、ジークの答えが関係してくるのですか?」


「ジークの手にソレが渡った結果起きる事が、あのフーリア人への気持ち如何で左右されるということよ、リース=アトラ」


 そうですわよね、お兄様、とアリエスが身を横たえたまま言う。言葉の後でシーツの皺が濃くなって、小さな吐息に胸が傷んだ。

「そうでもなければ、お兄様が話の前提に持ってくる筈ありませんもの」

 集まる視線に俺は不動のまま。

 それをどう取るかは各自に任せた。


 俺は、危うい綱引きをしている。


 この世界がゲームの始まりと共に誕生し、終わりと共に消滅するものではなかったとしても、そこに息づく者たちの思考によって事態は巡る。

 リース=アトラが、ティア=ヴィクトールが、アリエス=フィン=ウィンダーベルが、そしてフロエ=ノル=アイラが、依然世界の今後に多大な影響を与える可能性を持っていることは変わらない。

 だから、彼女たちの性質から当然と発生する、ゲームで見た流れ、イベントを追うというのは、一つの最適解と言える。


 が、その思考に乗せられ過ぎた。


 俺のあずかり知らぬ所で起きた個々の変化。

 総合実技訓練の以前から俺と接触し、貴族について思考を始めたジーク=ノートン。本来小隊の仮要員として参加する筈だったフロエや、いきなり上位能力に目覚めていたリース、参加している筈のなかったティア。

 わざわざ俺と敵対する為だけに現れたようなヴィレイもそう。結果としてこんな早期にビジットは小隊を離れ、ピエール神父は片腕を失った。

 これだけの変化を目の当たりにしながら、油断にも等しい形で情報が露見した。

 どこまでなのかは、俺にも分からないが。


「ハイリア=ロード=ウィンダーベル」


 ティアの声に俺は顔を向ける。

 ジークへ問う意味も、既に半分は果たした。


「アナタはどこまで知ってるの」

「どこまで、とは?」

「つまらない引っ掛けや探りはいらない」

 効果的さ。

 今も彼女の言葉から、幾らかの絞り込みが出来た。

 それぞれの裏事情まで把握しているという、反則じみた情報源あってのことではあるが。


「そうだな」


 何度も思考してきた通りに、言葉を紡いでいく。


「ラ・ヴォールの焔。それは、かつて新大陸に四つ存在していた要石。一つは過去の戦争でフーリア人らが自ら破壊し、一つは新大陸へ渡った者たちによって奪われ、海運中の嵐で喪失。残る二つの内一つはまだ新大陸にあると聞いている」

 そして、

「最後の一つは、そこに居る男の父が密かに受け継ぎ、そして、それを預かっていた息子が、誰とも知れぬ者たちにくれてやった」


 枯草色の髪をした少年は、ただ歯を食いしばって押し黙り、俺の言葉を待った。

 リースが、ティアが、彼の苦しそうな吐息に目を細める。アリエスだけは、寝台から身を起こして俺に注目していて、


「その後、預けていたラ・ヴォールの焔が喪失したことを知ったカラムトラの男が、俺たちとフーリア人との全面戦争を決意した」


 そうだろ。


「ジーク。お前の行動が、今の戦争を引き起こした」


 そしてまた、もう一つの流れすらも。


   ※  ※  ※


 ラ・ヴォールの焔とは、フーリア人にとって決して失ってはならないものだ。

 それを託した信用への裏切り、なによりも行方も分からない要石を捜索するには、当時既に浸透してしまっていたフーリア人差別があまりにも邪魔だった。

 幾度かの捜索失敗の結果、カラムトラは地下組織として狂気とも言える方法を用いて捜査網を広げ、一方で侵略行為に加担しながら各国内部の動静をも探り始めた。


 すべて、幼いジークがラ・ヴォールの焔を手放してしまった為に。


「それが分かっているなら……」

 言い淀んだリースは一度、覚悟の息を吸って俺を見る。


「アナタは今すぐにでもラ・ヴォールの焔を入手し、フーリア人らの手に返すべきだ。そうすれば戦争は終わる」


 正々堂々と言い放った彼女の気質が心地よかった。

 だが今は緩んだ表情を見せる訳にはいかない。俺は努めて冷淡な顔のまま、俯くジークを見据える。そこに、更にリースは踏み込んできた。


「ジークの責任を問うというのなら、戦争を治めた後でも構わないでしょう! もし彼一人では足りないのであれば、私も共に罰を受ける」

 なぜそこまでと、問いかける必要はない。

 友だからだ。

 轡を並べ、同じ旗の元に集って一つのことを始めた仲間だからだ。

 彼を長とし、その副官として支えると誓った以上、例え世界が敵に回ろうとリース=アトラが裏切ることなんてない。そういう奴なんだ、彼女は。


「落ち着きなさい、リース=アトラ。そしてもっとよく思考なさい。この話の根本を」


 そこへ口を挟んだのはアリエスだった。

 寝台脇にある燭台を指で弄びながら、小さく欠伸する。緩慢な動きで火に蓋をして消すと、アリエスの周囲は暗闇が濃くなった。もう表情も見えない。


「フロエ=ノル=アイラ……」


 呟いた名を振り払うように、アリエスは寝台の掛け布団をめくり上げ、潜り込む。

 しばらくして、何かを察したリースに片手を挙げて制すると、俺は改めてジークへ問いかけた。


「ジーク。お前にとって、フロエ=ノル=アイラとは何だ」


   ※  ※  ※


 彼は、その周囲を照らし、暖かさで包み込む火のような少年だった。


 冒険に明け暮れ、世界の様々な所を巡っては夢の様な世界を語ってくれる父へ、少年らしい憧れこそ強かったものの、彼は村での日々を最も重んじていた。


 朝起きて、近くの川でもう仕事を始めている顔なじみの女衆と下らない会話を交わしながら、顔を洗い、水を汲む。蒸かしたじゃがいもと腸詰め肉、卵を気分で調理して付け合わせたのがいつもの朝食だった。

 食事はいつも一人で摂る。

 母は幼い頃に死に、父はほとんど家には戻ってこない。寂しさはあったけど、戻ってきた時に聞かされる冒険話は少年の心を沸き立たせ、また村中の楽しみでもあった。

 時には大金を手に戻って来ることもあって、そんな時はしばらく村が裕福に暮らせたりもした。

 父は村で、誰も彼もの憧れだった。


 少年も一度は父と冒険に出たことがあった。

 とても幼い頃に一度きり。何か恐ろしいことがあって、それ以来ずっと村で暮らしている。


 ある時、父は女の子を連れてきた。

 白い髪で、浅黒い肌の女の子。家族だと父は言った。年上だから、お前の姉になるな、と。不思議と言われたことが馴染んで、少年は女の子を受け入れた。

 問題なのは女の子の方だった。

 彼女はいつも視線の定まらない様子で、こちらから話掛けたり、ましてや触れでもすればひどく怯えてしまった。


 女の子を連れてきて以来、父は村に留まるようになった。

 十日も同じ場所に居ないような人だったのに、相変わらず畑仕事は下手くそで、邪魔だ邪魔だと笑われながら、家族三人でいろんなことをした。

 女の子は基本的に、言われたことに逆らわない。

 不意に触れられたり近寄られることには怯えを見せるけど、ちゃんと呼び掛けてから、今から近づくよと示してやれば、手の届く距離で会話することも出来た。それでも最初は長く持たず、ぎゅっと目を瞑ったまま身を縮こまらせて動かなくなって、父がやってくるまで何時間でもそのまま過ごす。


 父のことを少女は怖れていないようだった。

 その手に触れるとほんの少しだけ安堵するような顔を見せ、会話だってずっとしていられる。あくまで一方的に話しかけているような状態ではあったが。


 そうして、冬越しの季節がやってきた。

 その年は去年の蓄えもあり、村人全員で十分に過ごしていける冬だと大人たちが口にしていた。蓄えが足りないと、町へ出稼ぎに行かなければならなくて、余所者となる村人らの扱いは悪い。


 女の子の様子は相変わらずで、それでも会ったばかりの時よりは格段に話せる時間が長くなっていた。

 少年は少女の住んでいた場所について、たどたどしく断片的な話を幾つも聞いた。遠い場所にあるというそこには、彼女のような肌の人が大勢居るんだという。思い出に残っている景色や祝い事について、小さな既視感を得たが、よくよく考えれば同じような話を父から聞かされていたのを思い出す。

 少女から聞いた時の感動を薄れさせるなんて、なんて父親だ、と少年はしたり顔で頷いていたのを覚えている。


 そうやって拙い会話を繰り返したり、あるいは暖炉の周りで二人して父の冒険話に耳を傾けたり、今までよりも工夫することの増えた少年の食事を摂ったりしながら、寒さに震えつつも身を寄せ合って夜を明かす。

 それは時間が止まったと錯覚するほど起伏の少ない日々だったけど、掃除できないまま暖炉に溜まっていく灰のように、じっくりと何かが降り積もっていった。


 ある日の事だ。

 寒さから逃げ回るように冒険へ出かけていた父はぶるぶると震えたまま役に立たず、少年は三人分の食事を作る為に、凍えるほど寒い外へ出掛け、指先が凍りそうなほど冷たい川の水を汲んでは水瓶へ溜めた。

 畑仕事も出来ないから、家の中では内職をする。蓄えはあるとはいえ、来年もまた十分な稼ぎが得られるとは限らないから、村全体で工芸品や革製品なんかを作って、冬が開けたら売りに行く。暖かくなればどんな町でもお祝いをするから、少し高値を付けても売れてしまう。

 こんなにも寒い中を、今が稼ぎ時だと行ってやってくる行商人も居た。彼らは幾らかのお金を落としていき、村で作っていた内職品と色んな物を交換してくれる。

 冬明けの稼ぎは減ってしまうけど、閉じこもりがちな季節にはとてもありがたい楽しみだった。


 その年には、少年にとって思わぬ幸運があった。

 元々手先が器用だった少年は、幼いながら村大工の指導を受けていて、幾つかの工芸品を任されていたのだが、それがやってきた行商人の目に留まった。彼は、今後それを定期的に買わせて欲しいと持ちかけてきて、村人らも快く承諾した。

 それから行商人は、少年を懐柔する意味も込めて、特別に自分の扱っている貴族向けの商品の中から、一つだけ好きなモノをくれるといった。


 認めてもらえたことが嬉しくて最初は断っていた少年だったが、ふと目に留まった櫛を、彼は貰うことにした。とても鮮やかな色で、綺麗な細工の施された一品だった。


 家に戻ると、相変わらず寒さに震えて役に立たない父が見つかった。ここ数日はマシな寒さだから、暖房用の薪を温存して点けていない。少女はどこだろうと探すと、彼女は帰りの遅くなっていた少年の代わりに、何かを作ろうとしている所だった。

 見様見真似で組んだらしい木に、火をつけようと悪戦苦闘していた。ちゃんと火を点けようと思ったら、風のとおり道を作ってやるのが大切だ。拙いながらもそれらくし組まれた木には細い道が出来ていて、少年は見守ることを決めた。

 材料を切るのは終わっていて、後は調理するだけといった状態。よく見れば端の焦げた薪が何本か転がっていた。どうやら最初に挑戦したものの、上手くいかず諦めたんだろう。


 少女が自分から何かをしようとするようになったのは、つい最近からだ。危険があれば止めるけれど、出来るだけ好きなようにさせたい。少年はそう思っていた。


 幸い無事に火がついて、調理が始まった。

 見慣れない何かを作っているらしい少女の行動は、ともすれば思いつきでやっているのではと疑いたくなるほど奇抜なものだったが、初めてから半時も過ぎた頃になって、少年は「おおっ」と感嘆を漏らした。

 とても柔らかで、香ばしくも甘い香りが漂ってきたからだ。

 ただ、間が悪かった。

 少女は出来上がりつつある鍋をおいて、他のものも用意しようと水瓶から器一杯の水を運んでいた所だった。少年の声に驚き、詰まった悲鳴を上げた少女の手から器が跳んだ。意外にも頭上を超えるほどに跳ね上がった器は、底をくるりと回転させて中身をぶちまける。当然、その下に居る少女へ向けて。

 そこまでならまだよかった。

 驚き、足元も不確かになった少女が、濡れた床で足を滑らせ転んだ。竈の前は燃え移りが起きないよう石張りで、古い家だから削れていて濡れると滑りやすい。彼女の足は明らかに炊事の火へ向いていて、舞い上がった火の粉を見て少年は飛び出した。


 結果から言えば、少女に怪我は無かった。

 足は、突っ込んだと言えるような状態にはなっておらず、むしろ軽く煮こむだけとなった為にばらけさせていた一つを蹴っ飛ばして、それが火の粉を巻き上げていただけだった。

 けれど彼女が火に足を突っ込ませたと思い込んだ少年は、驚いたまま身を固まらせる少女にゴメンと謝った上で調理場から引きずり出した。

 硬直する少女を余所に、少年は慌て切った表情で彼女の足に触れ、火傷を確認した。ところが怪我一つない状態に混乱し、ふと聞き慣れない音に顔を上げると、今まで大きく表情を変化させることのなかった少女が、耐え切れず笑い出していた。


 顔が熱くなるのを感じた少年は、それでもまだ安心できず、何度も痛みはないかと問いかけた。笑う少女は、うん、大丈夫、とその度に答えて、少年の顔をみてまた笑う。

 一先ず無事に納得した少年は、笑われ続けることにやや膨れながらも、水浸しになった少女の髪を拭いた。自分でやれと言っても笑っているから、構うものかと拭いてやった。

 そうして、ごく自然に触れていながら、少女がそれを受け入れていることに気付くと、不意に胸の奥がジン、ときて少年は鼻を啜った。


 髪を拭くと、どうしても毛の一つ一つが絡んでしまう。

 少年がそうならない方法を知らないというのもあったが、彼は普段気にも留めないソレを見て、思い付いたように櫛を取り出し、少女の髪を梳いた。

 その感覚に今度は少女が驚き、触れ合うような距離で目を合わせることになった少年が驚いて身を引く。

 たどたどしく櫛を手に入れた経緯を話ながら、何故それを選んだのかだけは決して口にしないまま、少年は櫛を少女へ差し出した。すると少女は、お願い、とだけ言って背を向ける。


 その日から、少年は時折、少女の髪を梳いてやるようになった。


   ※  ※  ※


 飛び出すだけなら、自分の身一つに責任を負えばいい。それは時に人々へ夢を見せ、希望を与える。けれど同時に、先を示すばかりで、人の背を共に歩みながら押していくことは出来ない。

 眩しいほどの夢を見せる者は時に、だからこそ、己の足だけでは立つことの出来ない人間を置き去りに、あるいは踏み潰してしまう。


 少なくとも幼い頃のジーク=ノートンは、手の届く者たちと共に歩み、誰かの為に足を止める、それが出来る少年だった。





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