28
まずは食事を済ませよう、と言った俺にしぶしぶアリエスは従った。
ちょっとした我儘や面倒くさがることは認められても、用意してもらった料理を好き勝手に残すのはいけない。それは贅沢ではなく堕落だ。幸い、俺も彼女も朝は小食だからすぐに終わる。
そこから俺の書斎にアリエスを招待した。入り口にはメルトが立ち、フィオーラは別のメイドに連れられて教育に。部屋にある燭台の蝋燭はすっかり短くなっていた。
俺は窓際にある大机の引き出しから、一枚の絵を取り出す。
極めて簡素な額縁は、その絵を飾り立てるというより保存の為と言える。ソファに腰掛けるアリエスの前、ウッドテーブルの上に俺はそれを置いた。
黒炭で描かれただけの簡素な絵だ。
「これ、は…………あっ、お兄様っ」
華やかさのない絵だけに、なんだろうと思っていたアリエスの顔に喜色が浮かんだ。そこに昔の俺が描かれていたからだ。だが、それだけではない。
「他の方々にも見覚えがあります。たしか、お兄様の小隊の」
俺もアリエスの隣に腰掛け、絵を眺める。本当は対面に行こうとしたんだが、裾を掴まれては仕方ない。
「これは去年、俺が小隊を結成した時のものだ」
十名にも満たない男女の集合絵。
今や百を超える人員を擁する我が小隊も、最初はこんなものだった。
隊長である俺は勿論中央に。副隊長のビジットはその隣に居て、反対側には、
「一人だけ知らない方が……この人は?」
綺麗なストレートの少女が立っている。髪は腰元まで伸び、険しい表情でこちらを睨みつけているよう感じられた。
「それが、一年前のクレア嬢だ」
今の彼女はショートで、厳しさはあれど柔らかな印象もある。言い方を変えれば、年上らしい大人な雰囲気を持っているだけに、その少女さながらの不機嫌そうな表情は別人かと疑うほどだった。
異様な点はまだある。俺やビジットを始め、学内で描いたものだから全員が制服姿なのだが、
「どうして彼女だけ私服を?」
「ああ、それはな」
思わず笑ってしまう。
「今から話す事情を、自分と照らしあわせてみるといい。アリエスにも心当たりがあるはずだ」
一年前、突如として学園に現れた竜巻娘の事情。
「彼女は父親と大げんかして、家を飛び出して来たんだ」
※ ※ ※
彼女と出会った当初、俺はまだ小隊を結成しておらず、放課後は特にやることもなくぶらぶらとしていた。暇ではあったが、ビジットの誘いに乗って遊ぶのは気が引けて、早々に部屋へ戻ってしまうことが多かったかな。
その日も適当に時間を潰した後、寮に戻ろうとしていた。
ところが、校門でちょっとしたドレスのような服を着た女に呼び止められたんだ。
「そこの人……ここの学園生か」
当時、俺は既に『騎士』の力を持っていたものの、侯爵家という階級と基本的に他人と関わっていなかったのも手伝って、ほとんど声を掛けられる事がなかった。
退屈にも飽きていたし、明らかにこちらを下に見た態度に軽い興味も湧いた。滅多に居ないからな、そんな奴は。
あぁ待て、一年も前の話だ。
俺への不敬は許せないって?
お前がそう言ってくれることが俺の誇りだよ、アリエス。
「そうだが、なんの用だ」
「クレア=ウィンホールドという女を探している。心当たりはない?」
ん? 彼女がクレアじゃないのかって?
その通り。彼女こそ、宮中伯の父を持つウチで一番の剣士、クレア=ウィンホールドだよ。
※ ※ ※
レモンの輪切りを底に沈めた紅茶を口元に寄せ、乾いた喉を潤す。
うん、いい味だ。
「一つ、よろしいでしょうか?」
基本的に俺とアリエスの会話には口を挟まないメルトだが、我慢出来ないとばかりに声を掛けてきた。普段から三人の時はそうするよう言ってある。俺の目指す先を考えれば、対外的な扱いは奴隷であっても、精神的には対等であるべきだ。
アリエスも特に気分を害した様子はなかった。
「なんだ」
「クレア様は三年生。ハイリア様の一つ上であったと記憶しておりますが」
そうでしたっけ、なんて顔をするアリエスの頭を撫でる。
「メルトの言うとおりだ。だからクレア=ウィンホールドは俺より一年前に入学していたことになる」
どんどん困惑顔になる二人を前に、勿体振るのもここまでかと思い至る。
これ以上引き伸ばせば我慢の嫌いなアリエスがぐずり出す。
「この国では階級とは別に、もう一つの価値観が存在する」
「……はい。魔術の腕前が優れているなら、階級を超えて敬意を集めることも珍しくないと」
「世界は運命神の定めた通りに進んでいく。ならば習得した魔術の力量は、神がその人間に対してどれほど世界への干渉を許したかという、一つの指針になると考えられているからだ」
フーリア人との戦争もある今、それは現実的な戦力としての重用も勿論あるだろう。だが、下地になっているのはそういう思想。
ここで問題となるのは、プライドの高い貴族にとって、その思想は楽しい物じゃないという事。
魔術の習得や修練は、強い意志を持ち、弛まぬ努力を積めば優れた環境にある貴族に有利なのは明白だ。個々の才覚は別としても、努力だけで到達出来る場所というのは意外と高い。
が、それで全ての貴族が努力できるというのなら、この世はずっと豊潤だろう。
「替え玉」
怠惰の中にあっても栄光は得たい。
幸いなことに金も立場もある。
なら、独自に徴用した優れた人材を、書類上は同一人物として扱わせるのは、そう難しいことじゃない。
古くから存在する手法だけに周囲の反応も淡白なもので、クレア嬢の父も娘にちょっとばかりの誉れと思って用意していたに違いない。それで上手く成績上位で卒業できれば箔が付くし、替え玉の人間はそのまま前線に送られて名を戻す。
これで、市井から能力のあるものを発掘するという副次効果もあるだけに、批判されることは滅多に無い。
「最初の一年は彼女の名を借りた自由民が通っていたんだ。本人が名乗り出てくるなんて前例が無かったから、相当に扱いに困っただろうな。が、結局彼女は学籍をそのまま引き継いで二年生として入学した」
「その自由民は?」
「逃げたよ。成績は良かったらしいが、本来貴族寮から通うべきところを、一般向けの寮で暮らして金銭をちょろまかしていたらしい。逃げる時に一部を持ち去ったが、残る金はそのままクレア嬢の資金となった」
現在も彼女は家の支援を受けずに暮らしている。金は潤沢にあったが、今も時折働いては金を稼いでいるらしい。
「聞けば聞くほど……あの時のクレア様が、よくああもあっさり引き受けてくれたものだと思います。ずっと音信不通だったのでは?」
「小隊を結成してしばらくしてから連絡を取った。それからも彼女は家の干渉を拒絶していたがな」
※ ※ ※
話を戻そう。
クレア嬢が替え玉と入れ替わるにはそれなりな騒動もあったが、一先ずは収まるべき鞘に収まった。その騒動もあって彼女の身分が知れると、表立った批難はほとんど消えたしな。
だがそれで学園が平穏になったかと言えば、そうではない。
初日に声を掛けた俺が年下だと知ると、彼女は殊更俺を小間使いにしようとしてきたんだ。
俺の身分?
使用人の名前を覚えようとする貴族は稀だ。彼女は真っ当な類の貴族ではあったが、生憎甘やかされて育った跳ねっ返りだったからな。生まれた時から自分の周りに、自分以上の身分を持った者が滅多に居なかったというのもあるか。
俺からか。そんな勿体無いことはしない。教えないでいた方が面白いじゃないか。
一ヶ月もする頃には、面白がったビジットと二人で我儘お嬢様の言うことを聞いて回っていたよ。また騒動が起きたのは、ちょうどその頃だ。
「恥を知れ下郎が!」
昼の休憩時間も終わろうとしていた頃だ。彼女に庶民の食事を食べさせてやろうと、学外から食料を調達してきた俺は、校舎前で彼女の声を聞いた。
「身分を振りかざして他者を虐げる前に、相手にそうさせるだけの格を身に付けてみせろ! 貴人の誇りも無い者が貴族を名乗るなど陛下への侮辱も同然だ!」
彼女は正義の人だった。
なまじ自分より強い立場の相手が居なかっただけに、教師に対しても当然と叱咤し、相手の不心得を正そうとしていた。学年が違うから、ビジットからの情報でしかなかったが、その時初めて俺は現場を目撃した。
そして、現場の様子というのは想像以上のものだった。
周囲にあったのは降り掛かった煤を面倒くさそうに払うような、そんな空気だった。騒動の野次馬に隠れて、所々から薄笑いすら聞こえてくる。
彼女に叱咤された貴族らしい男は、まるで口うるさい母親に叱られたようにふてくされた態度でそっぽを向いていた。
そんな時、野次馬の中から声が投げ入れられた。
「口だけならなんとでも言える……」
「っ、誰だ! 言いたいことがあるなら顔を見せろ!」
当然、言われて顔を出すような相手じゃない。
こういうことを何度も繰り返していて、今までは身分の壁が彼女を守ってくれていた。だが恐怖と同様に、実感しがたい大きすぎる権力への畏れも次第に慣れる。彼女の場合は特にそれを振り翳し過ぎた。本人にそのつもりは無かっただろうがな。
それも一度どこかが崩れてしまえば呆気無いものだ。
どれほど身分が高くとも、能力の無い者に無制限の敬意は払われない。
特にデュッセンドルフ魔術学園は、貴族への配慮こそあれ、様々な身分の人間が入り乱れている。小隊同士での競い合いもそれに拍車をかけているだろう。
「替え玉やってた奴の言うことかよ……」「前の奴の方がずっとマシだったな」「ああ知ってる。あいつも可哀想にな」「どっちが権力振りかざしてるんだか」「ウィンホールド家ってあれだろ、内乱じゃなにもしなかった癖に勝った側へ擦り寄っていったっていうさ」
クレア嬢は羞恥に顔を赤くして震えていた。
あいも変わらず私服姿で、目立つ振る舞いもあって相当に噂が広まっているらしい。最後までなにもしなかったウチとしても耳の痛い話だが、そんな話をすれば国内で大半の貴族が吊るし上げられる。
それからどうしたって?
俺は何もしなかった。正直に言えば、少し感心していたからな。彼女の行動は矛盾に溢れていて、それを自覚しながらも……そうだな、彼女は分かっていながらも動くことを止めていなかったんだ。
考え足らずのお嬢様には違いなかったが、その籠から飛び出して自力で何かを成し遂げようとしていた彼女を、また別の籠に入れてしまうのは忍びない。
膠着した騒ぎを動かしたのは、彼女に助けられた筈の少年だった。
「ありがたくて泣けてくるねぇ、貴族サマの慈悲深さには」
「な……にを……」
周囲の批難は覚悟していたらしい彼女も、そこからの言葉に狼狽えた。
「どれだけご高説を垂れた所で、力づくで納得させる実力が無ければ、頭下げた後に舌出されて終いだ」
少年は首をコキコキと鳴らしながら、自分に対して高圧的な態度を取っていた揉め事相手を見る。野次馬を味方につけて調子に乗っていたその相手は、思わぬ援軍に困惑していた。
「こちとら覚悟を決めてこうしてるんだ。別に貴族サマのご成長になんざ期待してる奴は居ねえよ。第一、アンタへの当て付けで俺たち平民への当たりが強くなってるのに気付いてねえのか」
事実、この一ヶ月でこういう騒ぎは増えていたらしい。俺の周辺では見咎められるからと控えていたらしく、俺も当時は気付いていなかったが。
「それは……」
「弱ぇ奴が正論吠える度に、その正論の方が腐っていきやがる。月並みな言葉っていうのはそれだけで価値がねえだろ。そもそも俺は、別に助けなんて求めて無かった。このヘボ野郎が突っかかってきたから、人気のない所に誘い込んでぼこってやろうとしてただけだ」
「はあ……? いやっ、それではキミも同じじゃないか! キミは自分が嫌う人間と同列に落ちるつもりなのかっ!」
「同列じゃねえだろ。頭わいてんのか」
大貴族を相手にここまで面と向かって中傷する者も珍しいだろう? 身を隠して好き勝手言うような連中よりずっと上等だ。
で、それをされたクレア嬢は最初呆気に取られて、次第に怒りを露わにしていった。
「私は侮辱されるのが嫌いだ……!」
「誰だってそうだろ。で、お前はその嫌いなことされた癖に、処女みてえに顔赤らめて口を閉じた。黙ってりゃ終わるとでも思ってんのか。自分がやらなくても周りが助けてくれるって? いかにも箱入りお嬢様らしい甘えた考えだな」
「っ~~~~! いいいいいだろうっ! お前のルールに従って実力で黙らせてやる!」
「おうおう出来るじゃねえか。最初からその調子でうるさい外野にも吠えてろってんだ。いいぜ相手になって――」
互いに『剣』の紋章まで浮かび上がらせて、一触即発かと思われたんだが、不意に少年の方が吹っ飛んでな。それをしたらしい女生徒が身長の倍はありそうな木の板を抱えて叫んだ。
「だっ、ダメだよヨハン君! 魔術を使った喧嘩なんかしたら、どっちかが死んじゃうかもしれないんだからっ!」
「…………おいクソアンナ、危うく俺が死んじゃうところだったぞ」
「わあっ!? 大変ヨハン君! 首がとってもイケナイ方向に曲がってるよ!?」
「おいクソアンナ、俺はとってもお怒りだ。とりあえず首がやばいから膝枕してくれ」
「嫌だよヨハン君すぐお尻触ってくるから」
そんなこんなで少年は気絶した。
遺体は近くの木の根本に運ばれていき、彼は盛り上がった根に頭を乗せてそれを撫でていた。戻ってきた女生徒はこほんと咳払いをし、
「失礼しました。それでは続きをどうぞお楽しみ下さい」
などととてつもなく場違いな事を言って再び木の根元へ戻っていった。膝は貸さないが近くには居るらしい。
しかし、どうぞお楽しみ下さいと言われた所で、もう状況はめちゃくちゃだった。
場を任されてしまったクレア嬢も別の意味で困り果てていて、ふと、その視線が俺を捉えた。彼女はとっさに俺を呼ぼうとして片手を挙げたが、俺の名前を知らなかったことに気付いて口篭った。ひどく後悔するような表情でな。
彼女の行動で俺の存在に気付いた連中は、青ざめて顔を逸らした。今すぐにでも逃げ出そうとしていた者も居たが、その前に声が上がった。
「皆!」
クレア嬢だった。
騒ぎばかり起こす少女の言葉に、何を言うのかと身構えた皆の前で、彼女は深々と頭を下げたんだ。
「騒がせてすまなかった!」
筋を言えば、彼女が謝る道理なんてなかった。
言っていることそのものは間違いではなかったし、助けられたことになるヨハンも、結局はショボくれてるなと叱咤したに過ぎない。彼女が頭を下げたのは、その場を収める為に自分を悪役とするものだったんだ。
揉め事を起こしていた貴族は悪態をついて去り、彼女を批難していた者も逃げるように散っていった。
それがおそらく、彼女にとって自力のみで人を動かした、初めての経験だ。
「キミっ」
人の居なくなった校舎前で、心なしか力の抜けたクレア嬢が駆け寄ってきた。彼女は走るのが好きだった。アリエスも分かるだろう? はしたないと叱られてしまうから、今まで禄に走ったこともなかったんだ。
「その……いいだろうか」
「どうかしましたか、お嬢様」
俺は彼女をそう呼んでいた。言い始めたのはビジットだったが、面白がっていたのは否定しない。
「名前を教えてくれ」
「……ハイリアだ」
「そうか。うん……ハイリアか」
俺も敢えて家名を名乗らなかったんだが、ここで追求しない辺り、クレア嬢も脇が甘かったな。そう批難するような目を向けるなメルト。彼女の素直な行動を見ていたかったというのもあるんだ。もし俺が侯爵家の人間だと知れば、自他に厳格さを求める彼女はたちまち萎縮してしまう。
その時には、彼女という一人の人間がどうなっていくのか、強い興味があったんだ。
※ ※ ※
「ん、どうした?」
不意に腕へ手を回してきたアリエスに話を中断する。なにも珍しい行動じゃなかったが、甘えたがる普段のそれとは違って、おそろしくふくれた表情で俺に擦り寄っていた。
「もう結構ですぅ~」
「話はこれからなんだぞ?」
ここからまた色々と波乱を巻き起こしながらも小隊を結成したり、上位十小隊との激しい戦いがあったんだ。
お兄様の武勇伝を聞かせてやろうじゃないか、ハハハハハ!
「どうせ最後はお兄様の犬になるんでしょう。ふんっ、大人しくしているからと見逃していましたが、あの女も痛い目に合わせてやろうかしら」
あの女も、ということは他の何名かが既に被害を受けていることか? こらこらこちらを見なさいアリエス。
「べっつにぃ……私は生まれた時からお兄様と過ごしてきた思い出がありますもの。たかが一年二年のひょっと出なんかじゃ遠く及びませんわ」
ねえ聞いて、とメルトの袖を引いて隣に座らせる。
すっかり対抗意識を燃やしたアリエスに困りながらも、メルトは姉のように笑って先を促した。
「今よりももっと小さかった頃の話よ。お母様の誕生日を祝おうと、領地の山に一人で果物を採りに行ったの。そうね……反省してる。それでメルトの言う通り、私は道に迷ってしまって……それで」
あー、その話は聞きたくない。
ん……?
「ぁ……」
俺が部屋の片隅を見ていると、話を聞いていたメルトが声を漏らした。気付いたアリエスがこちらを見て、声を掛けてくる。
「お兄様……どうかしましたか?」
「いや」
ぬるくなった紅茶を飲み干してカップを置く。
「目が合った気がしてな」
「目……が……?」
「俺の話が終わりなら、少し出掛けてくる。書斎の鍵は俺の部屋に戻しておいてくれればいい」
結局話はそれまでになった。
ついてこようとしたメルトをアリエスの傍に戻し、屋敷の外へ出た。入り口を固める警備は不動のまま。俺は閉じた扉に背を預けて上半分が覆われた空を見る。
そうしていると、早鐘を打つ心臓が徐々に落ち着いてきた。
「これは……気付かれたかな」
メルトとも目が合ってしまった。
聡い彼女は、俺の様子に気付いただろうか。
いや、やるべきことはもう決まっている。
「まずは、見合いの準備だな」
 




