表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/261

25

 戦いは終わった。

 ヴィレイ=クレアラインが逃走した後も多少の抵抗は続いたものの、ほとんど損害を出さずに制圧する事が出来た。今は、村へ潜入した者たちとの連絡と合流待ちだ。


 そんな中、俺はただ、血臭漂う戦場を前に立ち尽くしていた。


 治療を受けて下さいと、そう言い続けていたメルトももう何も口にしない。立っているのも限界な俺を支え、一緒にこの景色を見ていた。


 人が倒れている。

 死体だ。紛れも無く、俺たちと戦い、この場で果てたイルベール教団の人間たち。


 今俺は、たった一人の人間を救う為、主義主張の行き違いから殺し合いにまで発展した彼らへ、不思議なことに友情じみた感情を抱いている。

 到底理解し合える相手じゃなかった。どこまでいっても、俺にとって宗教というのは忌避感が先立ってくる。理性でそれだけじゃないことを知りながら、そう密接に関わりたい相手ではないから、距離を取る。それが人の情を捨て、神の意志なんてものに狂信する者たちであったのなら尚更だ。

 それでも、何故か敬意を覚える。きっとこれは、お互い生きて面と向かえば絶対に感じられなかったことだ。


 死者は、たとえいかなる人間だったとしても仏様。

 そういう考えが染み付いているからかもしれない。よくよく考えればこれも宗教的な考えなんだろうな。


 死者へ敬意を。

 それはきっと、あの国で、人が正しく生きていく為に必要だったんだ。


 それでも神は人を救わない。神が人を救うには、人の持つ感情を理解しなければならない。そして、理解してしまえばもう、それは神ではなくなる。ただ強大な力を持っただけの人間と変わらない。だから――、


 あまり考えすぎるべきじゃないのかもしれない。

 死者へこだわりすぎれば、死者に引っ張られる。


 だが、俺だけは許されちゃいけない。


 俺はあの、二十一世紀の人間なんだ。

 国の定めた法によれば、俺のやったことは死刑になってもおかしくない犯罪だ。その法がこの世界に無いとしても、あの世界の知識や考えを我が物顔で扱う俺が、忘れていいことじゃないと思う。自然法という考えを知りながら、俺は大勢を巻き込んで手を下した。


 かつての歴史に語られる、宗教裁判という名の横暴とリンチ。人を売り買いする、奴隷という名の人類最大の汚点。その他数々の愚行を愚行として認識し、自分の価値観を押し付けている。

 それは正しいことなのかもしれない。けれど、資本主義の名の下に行われている数々の横暴もまた、五百年の未来では子どもでさえ唾を吐きかける愚行なのかもしれない。


 静かな風が吹いた。

 それは海岸から運んできた小さな砂粒を、そっと死者たちに降り積もらせていった。血の臭いが、ほんの少しだけ薄くなって、戦いの記憶が遠くなる。


 気付けば幾人もの仲間が傍に居た。

 それぞれと目が合って、当然のように口にする。


「彼らを弔ってやろう」


 はい、と力強い声が返ってきて、勢い良く飛び出していく。

 戦い続けでぼろぼろになっている者が居た。治療を受けたばかりで、本当なら休んでいるべき者が居た。あるいは今担ぎあげた者が、彼を傷付けた本人なのかもしれない。


 火葬は、陽の暮れ始めた夕方に始まった。


 俺たちが拠点としていた場所にほど近い、なだらかな平地に穴を掘って櫓を組み上げた。周辺には掘った土が盛られていて、終わった後には土を掛けてやれる。

 使用した木材だが、海側の木は防風林となっているから、山側の木を少々拝借した。一応、人をやって管理者には許可を得ている。土産に持たせた金貨が効いたらしく、人員や道具まで派遣してくれたのには助かった。


 名前も、経歴も分からない者たちを丁寧に並べ終え、厳かに火が点けられた。

 静かに燃え広がる炎をしばらく眺め、組み上げた櫓が燃え落ちるのを見る。誰も何も言わないまま、ただ炎を見つめる時間が過ぎる。

 ふと仰げば、満ちかけの月が登っていた。いつの間にか夜になっていたんだ。


 俺は、キツく巻かれた包帯に動きづらさを感じながら振り返る。

 背後には神妙な顔つきの仲間たちが居て、そして、たった一人の男が消えていた。


「此度の戦いは、俺たちの勝利によって終わった。だが」


 注目が集まる。


「こちらに死者は居ない。この事を喜ばしく思う反面、お前たちが思っていることを、俺も同じく感じている」


 背後で木材が大きく弾け、火の粉が舞い上がる。それは背中越しにも感じられて、傷口が強い熱を持った。


「この勝利は与えられたものだ。奴らの意思によって定められた、見せかけの勝利に過ぎない。俺たちは、勝利こそすれ、勝ち取るには至らなかった」


 リースを見た。その傍らに立つヨハンを見た。背後にはいつも通りアンナが居て、セレーネとオフィーリアが挟み込んでいる。ウィルホードが、オットーが、ふらつきながらも立ったままこちらを見ていた。仏頂面のクラウドはやや離れた位置で胡座を掻いていて、ヘレッドが手にした棒でその背を小突いている。ふざけあっていたらしいポーキー君とジンが、そのままの姿勢で固まっていた。

 他にも多くの仲間が、それぞれの思いを胸にこの言葉を聞いていた。


 傍らへ目をやれば、少し不安そうな表情のアリエスが居る。副官のナーシャはそんな彼女を気遣いつつも、声を掛けられないでいた。

 反対側には、やや離れた位置にくり子とメルトが立っていた。俺の弱気な発言の次を、じっと待っていた。


「俺たちは弱い!」


 海側からの強風が炎を巻き上げ、天高く昇らせていく。そのずっと先には、ほんの少しだけ掛けた月がある。


「だが、強くなる……!」


 その月の夜は、いつまでも皆と騒ぎ続けていた。一人分の空白を埋めるように、皆で少しずつ無理をして。


   ※  ※  ※


 町への帰還は、それから更に十日が費やされた。

 怪我人も多く、治療を継続するのにどうしても動きながらが難しい場面もあり、のんびりと時間を掛けることとした。

 途中、父上からの使者が着て、便箋十数枚に及ぶ恨み事と今後の方針についての通達があった。この手紙にはクレア嬢に関する話もあって、俺が即興で組み上げた策については上手く行きそうとのこと。ただ、彼女は久々に帰った実家で両親に捕まってしまい、しばらく帰れそうにないのだとか。

 道中の護衛もしてもらえたことで、ようやく全員で休む時間が取れた。


 戻ってきた町では多少の騒ぎがあったものの、まずはそれぞれを家に帰した。帰り道では金に物を言わせて宿を借り切ったりもしたが、自室に勝る休息の場はない。

 今では、父上の派遣してくれたウィンダーベル家の私兵が町に駐留し、多少の緊張を孕みながらも静けさが戻りつつある。


 予定を大幅に割り込んだことで、夏季長期休暇は残り僅か。

 負傷を抱える俺は、その時間を治療に費やさねばならなさそうだった。


 そして、退屈に心が腐り始めていた頃、赤毛少年、エリックが姉を伴って屋敷を訪れた。


「あ、もう大丈夫なんですか?」


 客間に普段通りの格好をして現れた俺に、エリックは驚き半分、安心半分の表情でそう言った。隣では、ガチガチに緊張した赤毛の、メガネを掛けた女性が座っている。

 エリックの姉、以前俺が訪れた本屋の店主だ。


「安静が必要とはいえ、無理をしなければ歩くくらいは出来る。やや心配性な見張りが居るおかげで、治るのは早くなりそうだ」

 その心配性なメイドへ視線を送ると、当人は目を伏せたまま不動の姿勢を維持した。が、その隣、メルトと同じく浅黒い肌を持つ、彼女よりもやや背の高い女がにんまりと笑って脇腹を小突く。

 それでも反応しようとしないメルトに彼女は俺を見て、こちらの頷きを見るや親指を立ててスカートをめくり上げた。


「きゃぁぁぁあああああっ!?」


 メルトの素っ頓狂な声というのも、この数日でようやく慣れてきた。あいにく膝までしか見えなかったものの、すっかり落ち着ききった彼女を慌てさせることの出来る人材に、俺は大変満足していた。

「いい仕事だ、フィオーラ」

「お褒め頂き光栄です、ハイリア様」

「ね、姉さんっ、いきなり何をするんですかっ」

 顔を真っ赤にしてスカートを抑えるメルトが、珍しく噛み付くような勢いでフィオーラへ詰め寄る。対し、フィオーラは赤子をあやすような態度でなだめすかし、ハイリア様の前だよ、などと自分の行動を棚上げした事を言う。

 すっかりメルトの弱点を把握したようで、何も言えなくなった彼女を前に楽しそうな笑顔を浮かべる。


 彼女、フィオーラは教団によって捕縛され、あの日処刑されようとしていたフーリア人だ。メルト……メルトーリカとは血の繋がった姉の関係であり、もう何年も前に離れ離れとなった、唯一の肉親。

 戦いの後のごたごたと、それぞれの立ち位置から二人が再会出来たのは町に帰還した後だった。正直、保護したフーリア人の扱いには少々困っていた。解放するには人数が多く、確かな信頼関係が持てない以上抱え込むのも危険が伴う。

 それを繋げてくれたのがメルトとフィオーラだ。

 とまあ、今は細かい話を省略しても構わないだろう。ともあれ彼らは現在、ウィンダーベル家の使用人として各所で働いてもらっている。

 衰弱し、心の弱っていたフィオーラも、メルトの世話の甲斐あってすっかり快復している。それ以上の理由も、兄としての俺はよく分かった。

「ほらほら、ハイリア様の前で私語は厳禁なんでしょ? 私は今許可していただきましたから。でもメルトはだーめ。そうでしょ?」

 うんうん。悔しそうな顔をして何も言えずに居るメルトが見れて、俺はとても満足である。表情豊かなメルトは見ていて楽しい。もっとやりたまえ。最近じゃあ俺がやると怒るからな。


 おおいかん、客を前に遊び過ぎた。

 改めてエリックを見ると、ちらりと見えたメルトの足に顔を真っ赤にして固まっていた。落ち着きたまえ赤毛少年よ。いかにかけがえの無い戦友とはいえ、俺のメイドに対して邪な想像は許さんぞ?


「それで、二人揃ってというのは珍しいな。何用だ」

 特に用件も聞かず通させていたから、まずは話を聞く所からだ。

「はい」

 と、エリックは頷いた後、姉を促す。だが緊張し切った姉はひざ上にかかえていた包みを真っ直ぐに突き出すと、叩きつけるようにして目の前のテーブルへ置いた。先んじて振る舞われていた紅茶がカップからはね、クロスへ染みが広がっていく。

「ごっ、ごめんなさい!?」

「落ち着いてよ、もう……」

「だだだ、だけど憧れの雷帝様を前になんて喋ればっ!? 私今、ちゃんと喋れてるかな!? 大丈夫!? 大丈夫だよねエリック!?」

「大丈夫じゃないよ、もう……」


 ともあれメルトとフィオーラにその場の後始末を任せ、俺は書斎に二人を通すことにした。いきなりの失敗に恐縮していたエリックの姉君だが、本棚に並んでいるものを見て眼の色が変わる。

「すごい…………ウィルローザの幻の二巻に、希少度は落ちるけど最終巻も合わせて全て揃ってる! どちらも内乱や戦争の過程で原本が消失して、復元された本は殆ど出回っていないのに……。シンシア=オーケンシエルの詩集はコレ、もしかして異端審問の原因となった七ページと三十八ページが残っているものですかっ!? 作曲家でもある彼女は、教会に目をつけられるのを避ける為、この詩集を暗号化した楽譜として世に出したっていう噂があるんです。あぁ……今も王都で教会と揉めながら新作を作っているって聞いたんですけど、あの才能を潰そうだなんて頭がおかしいですよね! ああここにもっ!?」

「良かったら何冊か貸してやろうか?」

「いいんですか!?」

 構わんとも。

 うん、やはりコレクションを見せびらかすのは分かる相手に限る。メルトやフィオーラに見せても価値は分からないし、アリエスは読書よりも音楽を好む。くり子は財源の問題から知識が飛び飛びだ。ここまで重度のマニアとなると、やはり滅多に居ないからな。

「あぁ、シンシアの本は一番後ろに俺が解読した楽譜が挟んである。自力でやりたいならそれは置いて行くといい」

「はいっ!」

 良い返事だが既に三十を越えそうな量が積み上がっている。徒歩で来たんだろうに、持って帰る気か。諦めたような顔のエリックを見て納得した。なるほど、姉の権力はここでも強大なんだな。

 一応馬車を手配しておいてやるか。まだ増えてるし。


「それで、今エリックの持っているのが、頼んでいた本ということでいいのかな」


 書斎の大きな椅子へ腰掛け聞くと、本に夢中な姉の代わりに、エリックが赤毛を掻きながら応えた。

「はい。届いたのはつい先日です。保存状態のいいものが二冊、父が旅先から見つけて送ってきたものです」

 絹の包みを解き、机の上に本を広げた。

 くり子の持っていた本は泥や埃ですっかり擦り切れていたが、元は鮮やかな空色の装丁だったらしい。タイトルを見てややどきりとする。

「どうかしましたか?」

「……いや」

「そうですか。ええと、この本なんですが、作者の詳細についてはよく分かっていないんです」

 促すと、エリックは父や姉が調べてきたらしい内容をつらつらと話し始めた。


「一つ明らかなのは、この本が製造されたのが新大陸であることです」

「ほう?」

「理由は、紙の材質です。こちらでは一般にケナシの木から作った紙を用います。高級な本になるといろいろ変わりますが、装丁がいたって簡素であることから、大衆向けに書かれたものであると推測できます。そして、ケナシの木で作った紙とは手触りが違うんです」

 試しに近くの本とで紙の手触りを確かめてみたが、いまいち差が分からなかった。それを言うとエリックは、慣れれば分かりますよ、とだけ答えた。

 うーむ、なんとなくケナシとかいうものの方がいい気はするなっ。

「実は、新大陸で使われている木の方が優れていて、手触りと硬さが本をめくるのにちょうどいいと言われているんです」

 そうそう、俺もやっぱり新大陸産の方がいいと思いかけていたところだ。

「……となると、作者は植民地に住んでいる人間か」

「製造場所をわざわざ危険な船旅をして変える必要はありませんし、おそらくは」

「それがこちらへ流れてきたか……希少になる訳だ」

「あぁ、それもあるんですが、どうやら製造数そのものもあまり多くないみたいなんです」

「売れない作家だったか?」

「理由はやや不確かですが、製造中に作家自らが中止を迫り、原稿を焼いてしまったと聞いています」

 陶芸家が気に入らない茶碗を割るようなものかとも思うが、原稿を焼くとなるとやや過激過ぎる。くり子の思い出でもある本だが、少々きな臭くなってきたな。

「ちなみに、その作者は」

「死亡しているとのことです。名前も、その騒ぎが原因で装丁に刻まれることがなく……その、内容がかなり独特だったこともあって……」

 不人気の闇に消えた一冊の残りか……。

 そう思うと急に呪いの本に見えてくるな。


 摘むように表紙をめくり、最初のページを目にした時、またしてもぎょっとした。


「……?」

「いや……あぁ、そうだな、まずは金だ。これだけしっかりした物を用意してもらったんだ、旅費から何から、ひと通りは出すぞ」

「いえっ、ハイリア様からお代を頂くわけには!?」

「お前の家は本屋だろう。本を売れ少年」

 値段に関しては父親が戻り次第、その経費全てを持つという方向で納得させた。やがて馬車が到着し、店を開けっ放しで出てきたという二人を追い出すようにして帰してやった。

 去り際、エリックは深々と礼をして言った。


「あの日、引き留めて頂いて、本当にありがとうございました。あの時抜けていたら、今みたいになにかをやろうという気持ちを持てないまま、自分の不足に胡座を掻いて生きていったんじゃないかと思います。全てハイリア様のおかげです」

「違うぞ、エリック」

「え?」

「俺たちはお互いに、同じ一歩を踏み出したんだ。誰か一人が頑張ったからじゃない。皆で手を取り合えたから……。一人でなにもかもやるには、この世の中は難し過ぎる」

 最後に彼は「僕は絶対に、強くなります!」と、そう力強く告げて馬車へ乗り込んでいった。既に本へ夢中な姉に一言注意を言いながら、閉まる扉の隙間から、また礼をして。


「お前にも感謝している。メルト」


 控えていた黒髪の少女へ向けて、顔を見せぬまま言う。


「……私は最後に、役目を全うできませんでした」

「言うな。皆納得している。その上で言っているんだ」

「あの時、ハイリア様が斬られたのを見た瞬間……私だけが役目を忘れて縋ってしまいました……」

 あの局面でメルトによる念話が途絶えたことは、確かに様々な弊害を引き起こした。だが同時に、彼女が来てくれなければ、エリックの背を押すことも出来なかったんだ。最後の瞬間、ピエール神父の注意を引きつける位置に立てたこともそう。

 この話は何度もしたが、時が経つほどにメルトの自責は強くなっていく。忠誠も度が過ぎれば自傷行為に近くなる。本人が納得できるよう、どこかで挽回の機会を作ってやりたいが。


 振り返ると、別の仕事をしていた筈のフィオーラが音もなく忍び寄っていた。

 目が合う。よし、やれ。


 ばさあっ、と持ち上がるかと思われたスカートに、フィオーラの手は届かなかった。メルトは素早く伸びてきた右手を払い落とし、続く左手を拘束。懲りずに出した右手も掴み取り、お互いが両手を取って火花を散らした。


「ね・え・さ・ん! 今はハイリア様、とっ、話をしている大切な時間なんですっ。邪、魔をっ、しないでください……っ」

「聞きましたハイリア様? た・い・せ・つ・な・時間ですってっ。昔から人のことをよく聞く素直な子だったけど、これは心底どっぷりですよーっ」

 一見してフィオーラが力で優っているように見えるが、実は逆だ。やりにくそうなメルトへ新しい指示を与えると、彼女はさっと身を引いて屋敷の中へ戻っていった。

 見えなくなった所で、フィオーラがふらついて門にもたれかかる。


「兄や姉の強がりは案外見抜かれているらしいことが、お前を見ていると分かるようになるよ」

「……ははは、申し訳、ありません」

「何、気持ちは十二分に分かる。ただし、本当に倒れたら心配ではすまなくなるのも、肝に銘じておけ」

「本当に、変な人」

 汗を拭うフィオーラの腕は細い。顔つきも、髪も、俺が初めてメルトに出会った時よりもずっと。現代でこんな人を見れば、すぐ病院に送り込んで点滴を打たせる所だ。

 だが、それだけが原因じゃない。

「まあ……正直まだ怖いですから。灰色髪のヴァレスト人もそうだけど、ハイリア様みたいな金髪碧眼のレイクリフト人の男は、見るだけで寒気がするし、震えが止まらなくなる」

「だったら素直に配置換えを受け入れろ。屋敷にはそういう連中の方が多い」

「冗談……!」


 フィオーラは黒髪を傷付けるようにかき乱し、苦悶の表情を浮かべたまま声を荒げだ。


「私は……あんたらが憎いよ。助けてくれたことも、メルトをあんなに大切にしてくれていたことも分かってる。本当に……私みたいな体験をせずにいてくれたことに、心から感謝だってしてる。けど私は、あんたらが憎い。あの連中とは違うって思ってても、どうしたって憎しみが消えないよ……そんなフーリア人はまだまだ大勢居る。あんたたちは私たちを違う生き物だって言う。その通りさ! 私だって、あんたたちが同じ生き物には見えやしない……! ハイリア様……あなたの語った理想を信じられない人間でこの世は埋め尽くされてるよ。出来る筈の無い絵空事にメルトが巻き込まれて苦しまないよう、私はここに居ると決めた。そう、最初の日に言っておいたでしょ」

「ああ。そして、そう言い切れるお前だからこそ傍に置くと決めた。もしもの時はメルトを頼む」

「……私は諦めてるだけだよ。希望なんてない。この奇跡も、一夜の内に消えてしまうんじゃないかって、寝る前はいつも怯えてるんだから」

 しばし無言の後、フィオーラは両頬を強く叩き、裾を整えて完璧な礼をしてみせた。


「それでも、メルトを大切にしてくれたことは感謝しています。あの子の笑顔の分だけ、私も貴方に尽くすことをお約束致します」


 彼女の目は真っ直ぐに俺を射抜き、強張っていた力を抜くように吐息する。そして彼女は下げていた鞄を軽く持ち上げた。

「お使いを引き受けていますので、失礼致します」

「ん、こんな時間にか」

 昼も過ぎた中途半端な時間だ。買い出しにしては遅すぎる。

「本をお届けに。クリスティーナさんの自宅は前に一度行きましたので、出来るだろうと」

 なるほど。可能なら二冊、というのは予め言い含めてあったからな。小説というコンテンツより、固有のあの本が大切なのも分かるが、読みやすい新品がもう一冊あってもいいだろうと思ってだ。

 くり子もこの時間なら自宅だろう。外で食べるという思考の無いヤツだしな。


 フィオーラを見送り、屋敷に入る途中、ふと書斎の窓を見た。


 本、か。


 読んでみなければまだ分からない。だがあれは……。




 

後一話です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ