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クレア=ウィンホールド
正直言って、口元がにやけそうになるのを堪えるので必死だった。
黒板へチョークを滑らせる後ろ姿を見ているだけで思い出す。
本人は気付いていないようだし、今の所は他で見せていないというから是非とも独り占めしたいのだが、いっそ見せびらかすのも楽しそうだな、とか考えていたら振り向いた。
「どうした?」
眼鏡を掛けたハイリアが何の気無しに聞いてくる。
太縁で、レンズに度は入っていないという。
気分が乗るから付けてみたと言っていたが、びっくりするくらい似合っていない。
いや、いいとは思うんだ。
ただ妙に幼さが協調されている気がする。
真面目な顔をしている時は凛々しさを感じなくもないが、ふと油断した時のやわらかい目尻がなんとも言えず子どもっぽい。何故だろう。眼鏡を掛けていないと歳相応どころか私よりも年上に感じる時もあるのに、眼鏡を掛けると年下感が強くなる。
かわいい。
本人に言えばまたタオルを投げられるか、二度と私の前で掛けてくれなくなりそうなので黙っているのだが、にやけてくるのが止まらない。
「いや、続けてくれ」
そうか、と応じて黒板へ向き直る。
その背中を眺めながら、私はほっと息を落とす。
戻ってきてくれて良かった。
目覚めてくれて良かった。
独り占めできるこの瞬間を、幸せだと感じている。
※ ※ ※
ハイリアが目覚めた後、彼が陛下の提案でフィラントへの使者として派遣されるまでの間、私は時折訓練を手伝って貰っていた。
彼自身、寝たきりで身体が衰えていたというし、用意された道具一式を使ってのより効果的な鍛え方というのも、改めて知ることが出来て良かった。
そして時折、クリスから聞いた話を整理する為にこんな場が用意されるのだ。
「よし」
チョークを置いたハイリアがこちらを向く。
笑わないように気をつけなければ。
余計な事を考えていた私とは逆に、彼はいたって真面目な表情で続けた。
「訓練の休憩中にすまないな。くり子からの話をちゃんと理解出来ているか、確認しておきたいんだ。一足飛びに大量の情報を貰ったから、流れを掴み切れていない所がある。間違っていたら逐一教えて欲しい」
「あぁ。ただ私も政治関連からは一時的に身を引いているからな、知らないことも多い」
とはいえ今回は私も関係していることだ。
資料を元に書かれた図を見るだけで分かる。
「対セイラムを戦い抜く上で、セイラム本人だけでなく、四柱に対してもそれぞれ複数の決戦戦術が用意されている。未知数である『槍』や『盾』は別としても、『剣』と『弓』に変更は、おそらく無い。それだけに『弓』の術者、ティリアナ=ホークロックを討ち取る手段として期待されている一つがコレだ」
図は三つある。
ハイリアはそれぞれを教鞭で示しつつ、逐一力を入れて解説した。
「第一段階、王城もしくは丘陵地帯に陣取ると見られるティリアナを平原へ引き摺り出す。
第二段階、後退戦術によって後方へ十分な隙間を作る。
第三段階、考案されている高速戦闘術によってティリアナを強襲、撃破する」
改めて聞いてみると、実に分かり易くて簡単な話だ。
そして往々にして、分かり易くて簡単な方法ほど、質を求めればキリが無い。
「この決戦戦術の利点は、採用予定の戦略とも噛み合っている所だ。乱戦を覚悟し速攻でセイラムを攻略するのではなく、敵の行動範囲の広がりへ合わせて後退を続け、敵補給ルートを引き伸ばす」
最初の図、一番上にあるのは王城だろう。
今も大急ぎで用意されている防御陣地は、計画的に放棄・破壊され、軍は後退を続ける予定だ。
通常であれば敵に各個撃破の機会を与える愚策となるが、今回は事情が異なる。
敵には高い確率で行動範囲に制限があり、そこを越えての追撃が出来ないと予測されているからだ。
仮にデュッセンドルフとは異なり自由な行動が可能であれば、一気に別の戦略へ切り替わることになっているが、まあ今は置いておこう。
「セイラムに連なる者達の召喚には幾つかのパターンがあると予測されている。一つ、完全なランダム。二つ、特定ポイントからの出現。三つ、セイラム自身の居場所とリンクする。四つ、セイラムの思うが侭、だな」
たまに出てくるハイリア語はいつからか皆で気にしないお約束になっている。
クリスなんかは意味を聞き出して自分でも使っていたりするから、気が付けば真似てる者も居るのだが。
彼の来歴などを聞かされた今となっては、油断し切ってぽろぽろ溢す様が可愛らしくもある。
「このどのパターンであっても、戦線が拡大し続けることは相手を苦しめるだろう。最初の二つは当然のこと、出現場所から前線へ辿り着くまでの時間が伸びる。三つ目も基本的に二つ目と同じだ。戦線が拡大すれば、セイラムとて北へ南へと瞬時に移動することは出来ない。故に彼女の居る場所を敵補給地点と設定し、前線を調整してやれば良い。四つ目には幾つかの可能性があるものの、軍勢を無尽蔵に、瞬間的に意図する場所へ呼び出すことが出来るのなら、正直言ってお手上げなので考慮する価値はない」
見事な投げっぷりだが同意見だ。
悪い想像など幾らでも出来る。
相手を過剰に怖れ過ぎて最初の一歩も踏み出せなくなるのは最も避けなければいけない。
あの冬の丘を私達は見ていたのだから。
「俺達は軍勢として動く。この戦いの終盤は行動範囲など関係無しの、従来の戦いに落ち着くだろう。そうなった時、湧き出る敵の戦力もまた従来の形に収まらずを得ない。なぜなら小規模な散兵は方陣を組んだ軍隊に対して効果的な攻撃手段を持てず、散発的な襲撃では効果を期待できなくなるからだ。相手もまた集結地点を定め、軍勢となって攻め寄せてくる。広大な戦線が戦力の一極集中を困難たらしめ、押し寄せる津波の如き相手戦力を分散させる。まあ、四柱とセイラムさえ居なければの話だし、無尽蔵に湧き続ける軍勢というだけで十分な脅威でもある」
「故に私の、私達の進めている決戦戦術が役に立つ訳だ」
「あぁ。この戦術は投資額こそ大きいが……」
「ん」
構わない、と示すとやや渋々といった様子で言葉が続いた。
「失敗した際に戦線へ与える影響は小さく、成功すれば大きな効果を得られる」
「素晴らしい案だな」
「戦力を数字として見た場合は、だな。最悪犠牲は一人か二人、戦略とのかみ合わせも良い為、是非試してみろと前線の将兵は言うだろう」
実際に戦い、命を落としている者が居れば、一人二人を気にして勝ちへの手を止めるのは愚挙でしかない。
私はとっくに腹を括っているが、聞かされたばかりのハイリアは不満そうだ。
隠そうとしているのに、目元が協調されると内心が分かり易い。
「第一段階、第二段階が上手く運んだ場合、ティリアナはこちらの主力を叩くべく前線後方で射撃を続けると思われる。奇襲への警戒も当然ある。故にこの戦術は、ティリアナの予想を超えるものでなくてはならない」
第二段階の終盤、敵集結地点や拠点を割り出した上で経路を確保する。
ティリアナの位置は前線の配置で凡そ予測できる。
また、位置が多少ズレていようと、最終的にはあまり関係が無い。
これが終われば、いよいよ私達の出番だ。
「第三段階、両脚義足装着者であり、『剣』の術者である者から選抜された部隊が滑走路を用いて超加速を行い、一直線にティリアナを強襲する」
※ ※ ※
去年の春から一番隊では魔術の属性それぞれが持つメカニズムを解明しようと研究を重ねていた。
『槍』は上下への範囲伸長が容易であると分かり、あの高高度からの破城槌降下が考案された。
その一事があまりに派手で忘れられがちだが、他の属性にだって気付きや、その具体的な運用方法が確立され活用されている。
分かり易い所では、『弓』の射程範囲を意図的に狭めれば罠の設置数が向上したし、盾は浮かしたまま固定が可能だとかいう話。
そして『剣』は、可動箇所毎に加速の加護が掛かる、とかな。
「通常、これはさしたる発見とも考えられていなかった。間接それぞれに加護を受けると理解することで、身体操作の重要性があがったとか、爪先、足の指を重視することで最終的な加速に一段加える、といった感じだな。しかし手練れの術者は直感的にコレを行っていて、長い間訓練時の注意事項としての域を出なかった」
『槍』の範囲同様、最初期に発覚したものだ。
一番隊では身体操作を磨くべく色々と訓練法が考案されてきたものの、所詮はその程度。
なんならオフィーリア辺りは最初から無意識にやっていて全く変化しなかった。
だがある条件を満たせば、この法則は凄まじい効果を生むと分かった。
「義足とは、いや義肢とは、代替物ではない。君が得たものは、人体の拡張性だ」
間接は増やせる。
加護を受けられる判定についても調べ上げられ、それに対応した義足が幾つも考案され、改良されてきた。
「真っ直ぐ突っ走ることしか出来ないがな」
根本的に義足は、生身の脚に比べて繊細な操作を受け付けない。
足首や指先に感覚など無く、断端から上の間接と筋肉を用いて無理矢理動かすしかないのだ。
日常的なゆったりとした動きは出来ても、戦闘機動など行えばあっという間に転倒するか、壁に激突する。
「得意だろう?」
なんて言われてしまうと、得意気に笑ってやるしかない。
「この先どこまで進歩出来るかは分からないが、まず他を切り捨ててたった一つに特化するというのも良い考えだ」
「最初はとにかく走れる楽しさを感じる為、だったんだがな。それがまさか、突っ走って敵将の首を取って来い、なんて言われるとは思わなかった」
「候補者は君を入れて三人。今は、二番手なんだったか」
「……あぁ。ガルタゴから出向してきた者が、精度も速度も私より高い」
声が低くなったからか、ハイリアが愉しげに私を見る。
やめろ、惚れ直してしまうだろう。
溜まった熱を放出して、笑ってみせる。
少しぎこちなくなったが。
「安心しろ、本番では私が一番手を務めてみせる。精々惚れ直して愛を叫ばぬよう心しておけ」
「楽しみにしている」
お前に貰ったあの日の熱は、今も胸の内で燃えている。
己の不足も、現実の高さと分厚さも、十分に感じてきた。
萎えてはいない。
脅えてはいない。
越えてみせると、そう思っている。
言葉に嘘は無かった。
だが届かない。
ハイリアがミッデルハイムを出立する頃になっても、私はずっと二番手のままだった。
※ ※ ※
訓練は続けた。
一人では足りないと思ったから、仲間を頼った。
より良い訓練法を考えたり、私に合わせて義足を再調整したり、暴走して無茶をしないよう見張ってもらいもした。
追い込んで、追い込んで、無理を推して何か得られるものは無いかとひたすらに打ち込んでもみた。
分かった事もある。
掴んだと思えた日もあった。
それでも、一番手の女もまた、私以上に努力をし、成長していった。
届かない。
何が足りていないのか、何が劣っているのか。
悔しさを腹に据えて考え尽くしても、当人に尋ねてみても、手を取ってさえ貰ったのに、私の一歩は彼女に劣った。
私を信じ抜こうとしてくれているハイリアを思う度、やり遂げられない自分が情けなかった。
何とか持ち直して、立ち向かい、敗北する日々。
駆けて、考えて、駆けて、洗い出して、駆けて、届かぬ背中を見る。
雨の降り出した戦場を遠くに見やり、寝起きに慣れた手付きで日常生活用の義足を取り付け、留め具を忘れてあっさり転倒した時、何かが決壊して……布団を被って全力で泣き叫んだ。
立ち上がる。
前へ進んだ。




