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ハイリア=ロード=ウィンダーベル
今夜は珍しく無風だった。
雨の香りはとうに過ぎ去り、土を踏む足は程好い柔らかさを返してくるだけで、泥が跳ねるようなことはない。
雨上がりには騒がしかった夏の虫も今は寝静まっているのか、森の中は生物の気配が驚くほど薄くなっていた。
いや、これは、始まるだろう戦いの気配を感じ取って、住処を捨てていった結果なのか。
倒木へ腰掛けて夜空を仰いだ。
自然と腐り落ちた木が最近まで塞いでいた空の景色がそこにはある。
差し込む月明かりは雲の向こう。
薄い膜を張るような雲が延々と王都北東の丘陵地帯から吐き出されており、そこにあると分かるのに姿を拝むことは叶わない。
足元には早くも空いた隙間を生めるように新緑色がぽつぽつと芽を伸ばし始めていた。
古きは倒れ、新しきに呑み込まれていく。
ほんの僅かな間隙を縫って、多種多様な命が己を育んで、時に争い、時に共存して、いずれはこの場を埋め尽くすのだろう。
後方、森を抜けた先に僅かながら喧騒がある。
ガルタゴの後方拠点だ。
こんな深夜でも人が動き、金と物資を動かしているのだ。
音は届かずとも魔術によって意識を拡張してやれば気配を感じ取ることは出来る。
感覚的には『盾』の術者が持つものに近く、本来であれば誰しもが持ち得る力の使い方。
誰もが何かに成り得ると言えば聞こえはいいが、一度定まれば覆すのは難しく、定められた何者かであり続けなければならないのが四属性というセイラムの魔術が持つ欠陥だ。
肉体が持つ能力を大きく拡張する事の出来る魔術は、精神的未熟な幼少期に得ればその者の性質を大きく歪めてしまう。
大きな加護を得る為に、成長するまで魔術の獲得は控えるべしという通説は、過去の歴史の中でセイラムに抵抗しようとした者の遺した抵抗の残滓だ。
得た力の性質も含めて個人だと解釈することは出来ても、あの少年が『銃剣』のイレギュラー能力を持たなかったとしたら、今でもあの静かな田舎街で暮らしていたことは想像に容易い。今の状況を作り出すことに貢献したティア=ヴィクトールも同様。しかも共に、学園への入学以前から魔術を獲得していたことも無視はできない。
分かり易く大きな力の持ち主を上げたが、得た属性によって術者の気質が多少なりとも変化していくという話はどの国にもある。
曰く、『槍』は豪快、大雑把。
『剣』は真面目・堅物、『弓』は一途・執着心が強い、『盾』は理知的・腹黒い。
血液型別の性格診断に近いものはあるが、二十歳で凡そ影響も薄れるというソレとは違い、魔術は衰え行く肉体を支える拡張機能であり続ける。おそらく依存度は遥かに高く、精神は変質するだろう。
そんなものに影響されず己を貫く者というのも存在するとはいえ、やはり力を行使する瞬間に属性は大きな影響力を持つ。
役割として、立ち位置として、突き詰めるほどに。
先行く者をどれだけ見送ってきたのか。
『騎士』となって共に駆けることが出来たと思っても、やはり少し、追いつけずに来た。
過去は遠く、生き永らえるほどに離れていく。
今もまた、いずれ降り積もる時の中に消えていくのだろう。
風の無い森の中でただ座り、
薄雲に覆われた空を眺める、
静かで静かな夜の沈黙に身を沈めていた俺は――――耳朶を打つ波を感じ取って立ち上がった。
座っていた樹木から身を押し出す時に、握りっぱなしだった右手の中で、夜の色へ溶け込むような暗い色合いの髪飾りがほんの僅かに軋んだ。
※ ※ ※
現場に辿り着くと、待っていたジルの眷族がじりじりと後退を始めた。
この時間の中では『機獣』と呼称されている存在だ。
かつてセイラムによって死の危機に瀕したジル=ド=レイルが、己の意思と、意識と、記憶と、力を出鱈目にばら撒いた結果生じた彼らは、ほぼ全ての個体が強い恐怖を抱いている。
俺が協力者であると分かっていても、どれだけ好意的に接して見せようとも、警戒が薄れることは無い。
構わず真っ直ぐ向かえば脇へ飛び退き、離れた位置へ回り込んでじっと観察してくる。
中には陽気な個体も居て、言う事も聞かずに遊びまわっているのも居るが、反応としてはこれが平均より良い方だった。
そして、目的である草むらを確認する。
足跡だ。
雨の後とあって、草地の裏に隠れた土がくっきりと跡を残してある。
最中であれば痕跡ごと洗い流されていた筈。
ガルタゴの斥候は何度も領域内へ入り込んでいたが、ここで留まり、王都の側へ引き返す理由のある者は多くない。
偽装か、失態か、未熟故か、判断は難しい。
ジルの眷属は俺を偵察に来たホルノスの人間だと感じている。そういう、言語化されていない感覚の念話は判読に慣れが必要だ。特に彼らは個体差があり、性格によってはあからさまな報告案件すら見落としたり、都市の子どもらと遊んだなどという話を嬉々として送ってくる個体もいる。どれも感覚的な部分が大きく、情報の精査には時間が掛かるのが難点だ。
とはいえ電波方式の通信手段と変わらない使い勝手でリアルタイムに各所の情報が手に入るというのは極めて価値があり、ジルの眷属らは総じて人間よるも遥かに感覚器官が発達しており、また思考速度は比較にならない程高い。
個体と称してはいるが、根本的にジル=ド=レイルから発した副人格に過ぎず、物理的身体を喪失した所で記憶と記録は大元へ送信されて融合する。彼らはこれを進化の一種と捉えており、好奇心旺盛な個体などは死の体験すら興味深いと奨励する場合などもあった。
人間の価値感にそぐわない部分はあるものの、種族として彼らの重んじるものがあるのであれば、俺の方から否定することでもない。
展開する戦力は全て末端器官と同義であり、個体が減少するほどに経験は集約されて強力な存在へと昇華されていき、損失すら変化の一種として受け入れる存在。
敵となるセイラムへ強烈な敵愾心を持ち、時に後ろから突き上げてくることさえある。
共闘相手としてはこれほど使いやすい者は居ない。
人は失われればそれきりだ。
死後の世界があるかないかなど問題ではない。
死を経験として喜ぶジルの眷属とは違い、人間にとって死は絶望的なまでの辛苦に満ちており、後悔と、渇望と、諦観の渦巻く底なしの沼へ沈んでいくようなものだ。
そういう、死を、何度も見てきた。
身を起こし、背を向けた。
結局判別し切れない状況を再確認しに来ただけだった。
彼らの判断を聞きながら自ら足を運び、時間を浪費する。
何をやっているんだ、俺は。
未だ雨の残り香を纏った森の中を抜け、似たような報告のあった場所を一人で回り続ける。
ぐるぐると。
あるいは、からからと。
駆け抜けてきた時で得た、傍らに立つ者は皆、例外無く死体となって道の途中で転がっている。
『お互い不幸を抱えてなきゃ生きていけない負け犬さ。アタシもお前も、誰かを本気で愛することが出来ていたら違――――』
木の根を跨ぐ時に手を掛けた大木が、僅かに軋んだ。
※ ※ ※
フィオーラはガルタゴへ運び込まれた。
ベンズ=リコットの尽力により出来うる限りの環境を整えた状態で手術を受けることの出来た彼女がどうなったのか、俺はその結果を知らない。
ガルタゴは医療の発達した国だ。
大陸西部で数少ない中原との連絡路を持つ国である為、学問の発達が目覚しい。
過去の歴史や差別意識、そして中原各国の関税によって東部との通商路は細く弱いが、それでもホルノスやエルヴィスに比べれば学ぶ機会は遥かに多い。
もしガルタゴがこの戦場にそういった稀少な外科医を派遣していれば、手術を補助できるだけの道具が揃っていれば、彼女にも生きる道はあるのかもしれない。だがこれは、俺の希望的観測の面が強いだろう。
神父は容赦しなかった。
魔術による人体への破壊は見た目通りの負傷とイコールではない。
ゲーム的ではあるものの、物理防御と魔法防御は別、といったところか。
ここに魔術の根源より生じる因果の再配置を行えば、斬首した相手を蘇生することさえ可能となる。
だがあの男は、確実にフィオーラの息の根を止めるべく行動を起こした。
フィオーラは生へ執着しているようには見えなかった。
二つが重なった結果、セイラムの魔術による制御機構は反対側へ針を傾け、見た目以上の傷を彼女に負わせている可能性もあった。
腹部の、多数の臓器が詰まった部位だ。
仮に手術が成功したとしても、こんな戦場の不衛生な環境では入り込んだ細菌が元で内部から壊死していく危険もある。
手は、ある。
再配置を行えばいい。
手術が成功するという結果を、万が一の感染症を、可能性から排除してしまえば、いい。
同時に頭の中に浮かぶ、最悪の結果を全て排除出来るのであれば。
フィオーラの件が全て上手くいったとして、そこに費やした意識の外でセイラムとの戦いで致命的な不利を抱えてしまう可能性が生じないと、信じ抜けたのなら。
俺が下した決断は、己の持つ状況からフィオーラを排除することだった。
生も、死も、全てを終えた後で背負うことにした。
決断に要した時間も、針の揺れ動きも、過ぎ去った今ではすべてが無価値。
どうなろうと俺が見捨てたという事実に変わりは無い。
身に纏ったハリボテがぼろぼろと崩れていくのを感じる。
セイラムの握る力の全てを奪い取れれば、あるいはそれ以上のものを得たら、何もかもを解決出来るなどと夢を見ているつもりはない。
大きな力を得れば、より大きな困難が確実に立ち塞がってくる。
そんな中で俺はまた同じように何かを見捨てて、力の及ぶ範囲が広がったのと同じだけの被害を撒き散らしてしまうのではないか。
だとしても。
※ ※ ※
『どうして信じてくれない……私はっ、お前の力になろうと!』
女の声がする。
縋りつき、涙を流して、けれど果敢に立ち向かおうとする者の懇願だ。
どうしてなどと、分かりきったことでしかないのに。
あるいは別の男が激情と共に叫んだ。
信頼と友情と希望と失望と、ぐちゃぐちゃに混ざり合った熱の塊が叩き付けられる。
『どうしてこっちに回ってきた! 俺達に任せるって言ったのは嘘だったってのか!? やるべきこと放っぽり出してッ、俺は足を引っ張る為に来たんじゃない!!』
彼らは、
彼女らは、
いつだって同じ事を問い掛ける。
『どうしてっ! そんなんじゃあの子は何の為に死んだのっ!? 信じて戦い抜いてっ、失われたとしても……っ、それで掴める物だってあるって証明して見せたんじゃないの!?』
分かりきったことを問い掛ける。
『君はどうしてそこまで我々を信じようとしないんだい? 盟友となった以上、命を懸けてでも共に戦う覚悟はあると、そう示してきたつもりだった』
『あそこで我を通しきれねえ奴がどうして目的を果たせるってんだよ!! ここで果てようとっ、テメエの無能でくたばろうとっ、テメエに従うと決めた俺の裁量だ! 下らねえ感傷で戦場を引っ掻き回すだけなら今すぐ一人で死にやがれ!!』
『結局アンタは都合良く動く駒が欲しかっただけなんだよ。他のすべてはお遊戯に終始させて、危険を冒すのは自分だけ。そういうのは友情とは言わない』
『思い通りに世界を動かして、思い通りの考えで世界を染め上げて……ソイツは子供の積み木遊びと何が違うんだい?』
『あぁ、ハイリア……私はきっと、一度でいいから、お前と並び立ってみたかったん、だな……』
才能が無いからだ。
努力が足りないからだ。
状況に対して求められるだけのものを、勝敗を決する場へ用意出来なかったからだ。
何故。
どうして。
分からない。
違う。
理解出来ていないことが問題で、今更そんな疑問を問い掛けることが間違いで、現実から目を背けていることが愚かなんだ。
出来ない者が決着の場へ身を晒せば簡単に絶望と死が手に入る。
絶望は容易く人を死に至らしめる。
死は絶望的なまでの辛苦に満ちている。
何故薄い可能性を妄信して死へ突き進む?
どうして今日までに限界まで己を磨き上げてこれなかった?
準備を怠り、根拠も無く誇り、目の前の崖へ向けて飛び降りるも同然の行為を繰り返せるのか分からない。
幾度も時間を繰り返し、堆積した経験と先行する情報とを振るうこの身を卑怯者と罵った者も居る。ならばやってみせろと手段を示したが、同じ場所へ並び立った者など一人として存在しなかった。
やっていると信じる努力が程度の低いものであることさえ気付かず、
気付いていながら出来ない理由を並べて言い訳を重ねて、
その自覚すら机上のものでしか無いことを知らないまま、
己の不足は笑って誤魔化し、
挙句アイツは天才だからと思考を放棄する。
確かに、この身は多くの才気を宿していた。
時代へ迎合しないヒース=ノートンの息子として生を受け、その思想の一端に触れてきた。
フーリア人と接して生きてきたことで奴隷階級の者に対して偏向を抱くことは無かった。
絶大な権力と資金力を持つウィンダーベル家の嫡男となって、およそ人が生涯費やす生存の為の活動時間を極小にすることが出来た。
義父オラントは極めて優秀な教師でもあった。複数の立場を経由してごちゃまぜになった俺の価値感を理解し、均していけるだけの言葉を持っていた。
セイラムとの強固な縁を持つ一族の血を引いていること、可能性の広い幼少期に魔術を習得したことで得た高い適正、肉体的にも健常であり体格にも恵まれている。政治的及び対人関係においても有利となる美醜の面でも優秀であったことなど、おそらく世界でも一握りと呼べるほどの幸運の元でここに立っている。
そう言うのであれば同じ立場で同じことをやってみせろ、などとは思わない。
時を越えて意識を送り込む手段を教えたのは、ほんの僅かな、俺の弱さに拠るものだ。
嘆く者の生もまた決して平坦ではなく、敢えて傲慢な言い方をするのであれば、同じだけの努力をする動機を得る機会が無かっただけのこと。
ならば困難を得て、乗り越えるだけの材料を外部から揃えることが出来て、より高みを目指す理由を持てた幸運を確かに俺は持っている。
人は平等ではない。
俺は幸運だ。
これだけの幸運を以ってして、未だセイラムを淘汰することも叶わず、数多の嘆きを成功へと結び付けることも出来ないのは、幾度も幾度も幾度も敗北を重ねて今尚も屈辱の上で足掻く程度のことしか出来ていないのは、間違い無く俺の無能故に他ならない。
「っ、……、は、ぁ……っっっ!!」
魔術で編んだ防具が解ける。
寄りかかった大木の根元へ崩れ落ち、右肩を抑えた。
歯車の回る音がする。
右目が霞み、視界の内側からじわりと何かが滲み出す。
痛むことには慣れている。
だがどうしても、身体の反応が抑え切れなくなる時があるだけだ。
身の内へ潜り込もうとしてくる無数の手が、身体の自由を奪ってくるだけだ。
「まだ……、まだ……っ!!」
膝をついたまま息を整えた。
ゆっくりと、少しでも早くと。
静まり返った森の中、縋る相手もなく、暗闇を自ら吐き出して。
黒の魔術光がそよぎ、眼前を通り過ぎた。
次に見えたのは夜の森ではなく、過ぎ去った記憶の断片。
いつだってそうであったように、別れの景色は滲んでいる。
『見ていてくれ。私はきっと戻ってくる。お前の望みを果たして、きっと戻ってくるんだ。だから、今は少しだけ休め。それから一緒に考えよう。どうすればいいかってな』
『お前は生きろ! 可能性を繋げる手段があるならっ、今それを失うことだけは絶対にするな! ははっ、色々とクソッタレな事ばっかり言ってきたけどなァ、ここまで一緒に来れたのは楽しかったぜ!!』
『貴方にとっては僅かな一歩、それでも僕が全身全霊で縮めてみせた僅かな一歩、取るに足りないそれがいつか、何かを決するものになるって、誇ったっていいでしょう?』
伸ばした手が掴んだのは、冷たく硬直した死の感触。
才能を生かせていないから、努力が足りていないから、まだ、まだ、まだ覚悟が届いていない。
全てのツケを己以外に払わせ生き永らえて来た最低最悪の無能者が今日もまた悲劇を撒き散らす。
屈している暇など無い。
寸暇を惜しんで己を磨け。
ジルを失って尚も魔術の深奥へ手を掛け、時代を均してきたあの女へ対抗しようとするのなら、片時もその努力を怠ってはならない。
時間が足りないのであれば命を削って押し寄せる流れを留めて見せろ。
最早、最初の悲劇が決して届かぬ果てへと消え失せているのだとしても、想いは全てここに宿っている。
俺の無能で皆の想いを無にするな。
才能があるんだろう。
幸運だったのだろう。
ならばやってみせろ。
皆の信じた俺が、その想いの果てが諦めや敗北であってなるものか!!
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!」
吐き出した雄叫びは土に塗れて、夜の森へと消えていった。
※ ※ ※
セレーネ=ホーエンハイム
夜の森へ鳴り響く何かの遠吠えを、私達は小高い丘の上から聞いていた。
常在戦場、とまでは言わないけれど、体調管理も含めて戦う準備はいつでも整えられるよう習慣付けてる。
ただ、今日はどうにも寝付けなかっただけだ。
覚悟は決めてきた。
屈辱に向き合って、不足を埋めるべく立ち向かってきた。
それでもずっと不安は胸の内に残っていた。
「アイツ……大丈夫かな?」
私の想いを代弁するみたいにフィリップさんが言う。
言葉とか、表情とかを見ると優しいなとは感じるけど、根っ子の所で結構偉そうだったり、勇み足が過ぎたり、自分勝手な所があるのは知っている。治そうとして治りきっていなかったり、治ったと思えば別の所からささくれが飛び出してきたり。
「どーかなぁ」
夜風と同じくらいには涼しげな声が出る。
私も同じだ。
傲慢で、他人を見下していて、自分の無能を隠す為に誰かの足を引っ張る事だってする、意地汚くて卑怯者の私。どれだけハイリア様に憧れて、心を預けてもらえて、信じてくれたとしても、何もかもが染められたりなんてしない。
「せめて……あのフーリア人がどうなったかって事くらい教えてやっても……」
「本人が知りたがらないんだから、頭を下げて教えてさせていただくことは無くないですか?」
「そ、そうかも知れないが」
「逆効果かもしれないし」
死んだから屈すると決まった訳でも、生きているから立ち上がると決まった訳でもないと思う。
結果を知ること事態から背を向けた以上、どちらであったとしても今は響かない。
「私は自分の能力が及ぶ範囲でいつだって偉そうに考えてきて、いざ及ばない場所へ引っ張り出されたらあっさり逃げて努力を放り出した。きっとね、今までの、彼の中に居る私もそんなだと思う。決意を固めて飛び出しても、踏み出す瞬間までの努力不足なんて考えもしなかったんじゃないかな」
「お、俺だってそうだ。自分の力不足を思い知らされて、その原因を仲間、仲間へ押し付けて、自分を磨くことを怠ってきた。あんなことがあったのに、反省して、そういう自分が怖いと思っている癖に、時々どうしても偉そうな考えが頭に浮かぶし、口から飛び出す……。ハイリアが仲間に引き入れてくれなかったら、俺はまた逃げ場を探して別の誰かに責任を被せてたと思う。貴族だと、そういうことが出来るからな……」
本当に。
「もし別人みたいに努力家で、聖人みたいに高潔で、ハイリア様が素敵っ抱いてって言ってくるような私が居たとして――――」
「え?」
「んんん?」
「はい」
「居たとして」
おほん。
「本当にそんな私が居たとしたらすっごく悔しい。むかつく。蹴落としたい。私の癖に私より先に成長するの止めてもらえます? とかってイビリ倒したい」
「お、俺はそういうのは……いや、悔しいのは分かるけど」
「というかそんなのノーカウントって奴ですよ! 私じゃないしソレっ! というか私以外の私って何さっ! なんでもいいけどそんな幸運あったなら分けてよね! 一度でいいから耳元で『お前が居なくちゃ駄目なんだ。セレーネ、愛してる』とか言われたい!!!!!!」
「お、おう……」
「だけどそんなのある訳ないじゃないですか」
前髪を軽く弄り、頬に指を当て、滑らせて胸元へ。
髪は括ってある。
じょーざいせんじょーもどき、だからね。
ついで思う。
今の私でさえ色んな私が居た。
ちっぽけな村で……そこをちっぽけだと馬鹿にして、飛び出した先で自分より劣った人間だと狭い視野の中で馬鹿にして、髪を切って何かを吹っ切ったような気になって、呆気無く脱落した先で逃げて引き篭もり、エースと呼ばれて必死にしがみ付いてみたりして、決して許されることの無い敗北の原因となって、挑んだ勝負ですらあっさり負けて大切なものを失って、積み上がった後悔を必死に飼い馴らして腕を磨いたつもりでも、またあっさりボロ負けした。
その時々の私が一堂に会して話でもしたら、一体何なのって文句を付けたに違いない。
時間が違うだけで、経験が一つ積みあがるだけで、こんなにも違ってくる。
人は変われると思う。
まあ、それなりに。
でも自分自身の根っ子を変えることなんて出来ない。
あの人の見てきた全ての時間で、私の根っ子は私であり続けただろう。
変わったように見えて、やっぱり変わりきれてない私が、後悔をまた一つ積み上げたのかもしれない。
というか今はそんなことはどうでもよくて。
「今の私が一番可愛い! 今の私が一番輝いてる! 今の私が私史上最っ高の私な訳ですよ!! 過去とか未来とか別の時間とかそんなもんに負けて堪るかってことですよ!! 私がメルトさんみたいな……みたいなぁ、あのカマトトぶって男の保護欲刺激しまくるばいんばいんの巨乳女みたいになれないのは、まあっ、まーーあ! 仕方ないとしてですよ!」
キッとフィリップさんを見て、合いの手が無いのでビシリと指差し、
「フィリップさんが超絶カッコ良くて優しくて素敵で声なんて間近で聞いたらそれだけでキュンキュン来ちゃう様な、それでいて凛々しく皆の前に立っている姿とか時々見せる憂い顔とか、アリエス様が絡むとちょっと駄目になっちゃう可愛い所もある、あの超絶カッコ良いハイリア様みたいになれないのは仕方ないとしてですよ!」
「うぐっ……というかカッコ良い二度言うんだな」
「超絶! 超絶カッコ良いの! 行動とか今まで見てきた姿とかももっちろん素敵ですけど、顔! 顔が良いのは事実ですよね! 私が小隊へ誘われてほいほい付いて行った最初の理由それですからねっ。顔なのっ。でも見た目軽視するとかなくない!? 声掛けてきたのか膨らんだ豚みたいな人だったらノーっ、最初からノーですから!」
「……………………」
「あっ、因みに私的にフィリップさんはセーフですからそんな落ち込まないで下さいね?」
「え!?」
ぷい。
セーフだよセーフ。
セーフって言っただけだもん。
「話が逸れたけど、見た目は確かに磨くことが出来ますけど、個人個人で結構上限ってありますからね。世の女性は皆それと戦い続けてるんですっ。見た目否定とか喧嘩売ってるんですかって話ですよ! あぁ違うそっちじゃない」
全くもう、ちょっと焦って思考が勢い任せになった。
「……誰かと優劣があること、立ち位置とか間とか機会とか、元々持っているモノとか、そういう部分で差が付くことはありますよ。でも自分ってそうじゃないですよね」
ちっぽけな村で生まれ、飛び出して、今こうしている私。
経過は別としたって、始まりからして違うならそれはもう私じゃない。
条件は同じ。
だったら、思うことは一つだ。
「今まで彼が見てきたどの私にだって、私は負けたくない。今ここに居る私こそが最高のセレーネちゃんな訳ですよ。そこで負けてたら話にもならない」
「あぁ……そうだな。俺も、俺にだって、今の自分が前よりもマシになってきたっていう自負はあ、ある。こんな俺だけど、俺を相手に腰が引ける理由なんてない」
だからと再び指先をフィリップさんへ向ける。
膨らんだ鼻の頭をツンと叩いて、自然と溢れた笑顔で問い掛ける。
「今の私達、結構いい位置に居ると思いません?」
「…………ええと」
ツンツン。
「あ、あのなあ!?」
「あははははは!!」
すぐには伝わらなかった駄目なフィリップさんだけど、ここまで一緒に頑張って来た私達だから。
私が笑っていると、思い至った彼がまた鼻の穴を膨らませて、ようやく応えた。
「俺達は駄目駄目だ」
「はい」
「きっとクロの、ハイリアの辿った時間の中でも駄目駄目だっただろう」
「はい」
「仮に頑張った俺達が居たとしても、自分自身には負けてられない――――」
「はいっ」
食い気味に応じて言うと、勢いを受け取ったフィリップさんが力強く手を握って叫んだ。
「ハイリアは俺達を甘く見ている! だが俺達はアイツの知る俺達よりもずっとずっと凄い事をやってのける! そりゃもうびっくりするくらいのことをだ!! 油断してる所に思いっ切りカマしてやればっ、そりゃもうびっくりするに違いない!!」
うーん最後もうちょっと別の言い回し無かったかなぁ。
なんて思ったりするけれど、決まり切れないこの人と居るのが心地良いとも感じてるから。
「やってやりましょうっ、ねえ――――相棒」
腰に下げた小剣とは別に、魔術で生み出したトゥーハンデットソードを掲げる。
赤の魔術光が火の粉を散らし、夜闇に呑み込まれようとする世界に光と熱を灯す。
「おうっ、やってやろうぜ…………相棒っ」
青い風が吹く。
炎を煽り立て、更に燃え上がらせる風が周囲へ満ちる。
大きな突撃槍が最初は勢い良く、だけど打撃の加護を心配してか、最後はおっかなびっくり、触れ合わせる。
決まり切れない私達だけど、
今日まで万全の努力なんてして来れなかったけど、
後悔と失敗をしこたま抱えて、
明確な解決策も見えないまま、のたうつみたいに挑みかかるこの想いは、
「……上手くいくかな?」
「失敗するかもですね」
「そうだな。あぁ、そうかもしれない。けど」
「はい。失敗したら、思い上がるなクソ雑魚がって罵られましょう。それで、なにくそってまた頑張りましょう」
「死んだら、そこで終わりだよな」
「はい」
「でも、やりたいって、思うんだ。俺も、悔しいんだ。頑張れたらいい。それだけでも十分だって思うのに、やっぱり結果が、成功が欲しくなる」
「私もです。成功したい。全部上手くいって、敵なんてもうバッタバッタと倒しちゃって、どうだ凄いでしょうって言いたい」
「その挑戦すら否定する奴が居る」
「優しい言葉で、厳しい言葉で、色々と都合良く扱おうとしてきましたよねぇ。惚れてるからって、信頼してるからって、なんでも言う事聞くと思ったら大間違いですよ」
「あぁ――――やろう。俺達で、アイツの度肝を抜いてやる」
きっと、神様にだって止められやしない。
運命がどうとか、成功するとか失敗するとか、そういうことは物凄い権力とか実力とかを持った人なら好きに選べることもあるんだろう。
でも挑みかかること、望むことだけは、どんな凄い存在にだって邪魔できない。
それはあの人だって同じ筈だから。
遠く遠く、北の果てのそのまた向こう。
逃げ続けて、離れ続けて、今となっては姿すら見えなくなった王都の向こう側で――――小さく蹲っていた女の人が立ち上がるのを感じた。
私達の魔術はセイラムと繋がっている。
この姿だって彼女は見ているんじゃないだろうか。
巨大な流れに揉まれて足掻く、小さな石ころに過ぎないのかもしれないけれど。
「アナタも同じなんだろうね」
挑みかかることを、望むことは、誰にだって止められない。
誰もがそう成り得る。
出発点は同じ。
持ち込めた荷物は少なくて、踏み出す一歩はまだまだ小さく、駆け出す理由だってちっぽけだけど。
「私達だってここに居る。ここに生きている」
負けた時の言い訳なんて要らない。
優しい言葉で許して欲しいなんて望まない。
身が引き裂かれるような嵐の中で、死に物狂いで抗ってみたい。
その向こうへ駆け抜けて見せてくれた人の、心を奮わせる雄叫びを、私も上げてみたいと思うから。
いくよ。
第五章 上 -完-
ご感想、評価など頂けますと励みになります。
残るは下、そして最終章。最終章のあそこから先を番外編とするか、本編に含めるか、永遠に悩み続けてる日々。




