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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第五章(上)

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   ヘレッド=トゥラジア


 アリエス様の私室から出てそっと息を落とす。

 分かっちゃいるが、あの光景は中々にキツい。


「おかえりですか?」


 珍しい声が掛かった。


「そっちこそ。蛇野郎の使い走りに忙しいらしいな」

「お互い犬の生活には中々慣れませんか」


 おっとりとした口調とは裏腹に毒のある事を言って来るのは、俺と同じく元アリエス様の小隊へ属していた者の、数少ない残り物であるナーシャ=リアルドだ。

 内乱の折、気が付けば大半が取り込まれ、加えて現況を考えれば当然と言えば当然だが、殆どはあっちのお仲間として振舞っていることだろう。

 フーリア人なんぞを側に置くハイリア……様とはソリが合わない俺や、何を思ったかこんな所まで追いかけてきた世話焼きと、後は数えるほどの人員が残るのみ。


 この女は側周りを数名引き連れて来ているって話だが、自由民の俺と違って家だのなんだのややこしい貴族がコレでいいのかね。


「飼い主へ媚びる鳴き方でも練習してみるか?」


 皮肉で返し、とりあえずは二人で部屋の前を離れた。

 外で煩くして折角の休息を邪魔したくは無い。


 石の回廊を渡り、中庭へ出る。

 美的感覚なんぞは知らんが、手が掛かっているのだけは俺でも分かる。

 一部の建物が崩れていたり、地面が荒れたままなのは、神樹と呼ばれるものの影響だ。

 戦いが始まってからは消え失せたが、壊された場所はそのまま。おかげで屋敷も半壊状態、戦中とあっては修理なんて望むべくも無い。


「わんわんっ」


 幻聴が聞こえた。


「…………」


 何が起きたとそちらを見ると、ナーシャがやや恥ずかしそうに苦笑いしていた。


「気でも触れたか」

「和まそうとしたんですっ。最近皆して暗くなってますから、私達だけでも元気でいないとっ」

「そうか、疲れてるんだな、ご苦労様だ。さっさと部屋に戻って今日は寝てろ」

「せめて笑ってくださいっ、頑張ったんですからねっ」

「そうか、ならもう一度やってみろ。ちゃんと笑ってやるから」


 言いつつ歩を進めると後を追ってくる。

 嫌なら離れていけばいいんだ。無理に来ることはない。


 しばらく無言だったが、足元の小さな破片を気付かず蹴り飛ばし、つい視線が下向き歩が止まった。

 ここぞとばかりにナーシャが息を吸う。


「……っっ、わんわん!」

「っふん」

「鼻で笑いましたね!? やると思いましたけど泣きますよ!?」


 また歩き出すと付いてくる。


「アンタは随分と元気だな」


 無理をしてるのは分かってるが、らしく無さ過ぎる。


「今の状況に舞い上がっている自覚はあるんですけどね」


 言い置き、歩くのが早いらしい俺へ追いつく為に少しだけ駆け足になる。


「我ながら思い切ったことをしたと驚いています。あのまま……ハイリア様の元で多方面へ関係を持ち続ける方が、きっと家の為には良かったのでしょうね」

「なのにここへ来た」

「はい。そして追ってきた私達にアリエス様は心の内を明かす事無く、ただ受け入れて下さった。何を目的とし、何処へ辿り着こうとしているのか分からないままで誰かを仰ぐというのはとても不安です。正直に言うと、彼女を長として行動していた時間はとても短く、家の件を抜きにしても、ハイリア様を慕う方達のような想いでここに居るのでは無いと思います」


 歩を緩め、


「それで?」


 やや弾んだ声のナーシャを待つ。


「最初は突然の裏切りの理由を知りたかったからだと思います。我ながら衝動的でしたね。アリエス様が、ハイリア様を苦しめるようなことへ加担するとは考えていなかったので、大いに驚いたのもあります。どうして、と」


 だがその問いかけは許されなかった。

 今もこうしているのは、なんでだろうな。


「ヘレッドさんはどうしてですか?」

「いきなり手配されたら誰だって逃げ出すだろ」


 連中からすれば疑惑程度の事だったんだろうと今では思うが、あの時は大いに驚いた。

 確かにハイリア絡みの連中の橋渡しをしながら、あの人の名義を借りて潜り込んだりもしていたからな。


「……そういうことにしておきましょうか」

「それ以外にあるかよ」

「じゃあなんで今もここに居るんでしょうね」


 不思議ですねー、なんてほんわか笑いやがるから、歩く速度を上げた。


「あらあら、怒らないで下さいよ。やっている事はお互い同じようなものですよ」

「そもそもなんで俺に絡んでくる。アリエス様に用事があったんだろ。あっちに行けよ」

「様子を伺おうと思っていただけですから。ヘレッドさんから聞けば良いでしょう? 彼女に余計な負担を掛けさせたくはありません」


 別の渡り廊下へ辿り着いた所で一時止まる。

 涼しげな風が頬を撫でた。


「相変わらずだ」

「ありがとうございます」


 いいのかよ、それで納得して。

 アンタならもっと気遣いとか、色んな手配とか出来るだろうに。

 俺に任せるなよ。


「はぁ」


 ついため息が漏れた。

 ナーシャへ視線をやると、彼女は気付かなかったみたいに渡り廊下の屋根から顔を出し、空を眺めていた。

 気味の悪い歯車に覆われて以来、大地にはまだらな影が幾つも出来ている。

 夏の日差しから守るみたいに。

 けど光が無ければ畑の野菜も育ちが悪くなる。

 セイラムそのものなのか、イレギュラーなのかも分からないが、分かり易い救い一つで何もかも解決すると思い込んでいる者は得てして悲劇を撒き散らす。挙句必要な犠牲だったなどと言い出せば始末に負えない。

 ちゃんと正せる人間が、相反する人間が、あるいは追いかける幻想(りそう)が、絶対者には必要なんだろう。


「足掛かりになっているのかは、分からないけどな」

「孤独に何かを始めてしまうと、どうしても内へ閉じこもってしまいますよね。あの日常を忘れないで頂ければ、そう思うのは間違いでしょうか」


 しばし無言のまま斑な空を眺め、ナーシャは背を向けて離れていった。

 俺が動き出すのと、殆ど一緒だった。


 お互い、思っていたより捻くれ者なのかも知れない。


    ※   ※   ※


 またしばらくしてアリエス様の部屋を訪ねようとしたら、少し手前で人の気配があった。

 つい身構える。

 ナーシャじゃない。

 アイツは俺に放り投げて自分のことをやりに行った。

 なら少数の捻くれ者か。

 多分、違う。

 元々アリエス様は兄と違って俺達と距離がある。

 言うなれば、君臨していた。

 絶対者の部屋を気軽に尋ねるようなのは、捻くれ者の中でも更に馬鹿な奴くらいだろう。

 なら思い浮かぶのは蛇野郎しか居ない。


 引き返すか。

 

 ナーシャと違って、俺はあの手の奴への嫌悪感を隠し通せるほどお行儀が良くないんだよ。

 変に係わり合いにもなりたくない。

 しかし、放り投げてきたナーシャの手前、ただ逃げるのはどうなんだと自問する。

 また何かしてきたのなら、会話の中で探れることもあるだろう。


 苦手な分野だ。

 裏でこそこそするのは良いが、真っ向からぶつかって探りを入れるなんてのは性に合わん。

 しかし、とまた悩んでいたら、角から相手が顔を出した。


 白髪の、浅黒い肌を持つ、フーリア人の女。


 壁を伝うようにして歩き、虚ろな目で足元を探り、肩を上下させている。


 更に厄介だ、そう思った。

 俺は、ハイリアのとこの連中とは違い、フーリア人に苦手意識がある。

 恨んですらいた。

 あの女が俺の親を殺した本人じゃないのは分かってるが、幼い頃に植え付けられた嫌悪感はそう簡単に消えちゃくれない。


 第一なんで一人出歩いてるんだよ。


 思っていたら女が姿勢を崩して倒れこんだ。


「ちっ、っ!?」


 駆け寄って様子を伺おうとしたが、あまりの甘ったるい匂いにむせそうになった。


「くそっ! おいしっかりしろ!」


 どれだけ薬漬けになればここまで異様な匂いを放つようになるんだか。

 荒事上等の裏町でも、こんなのは全員が避けて通る。

 理屈の通じない狂人相手、面子も意地も無いからな。


 しかも相手はフーリア人だ。


 十分に警戒しながら、守りの手を置き、すぐ拘束出来る様に手首から掴んで屈みこむ。その肌の、あまりの熱さに驚きながら。


「何やってるか知らないけどな、こんな状態で続けていたら死んじまうぞ。後遺症だって残るかもしれん」


「ぁ……ぁ、りがと」

「別に何もしちゃいない。何処に行くつもりだ。アリエス様は承知しているのか」

「アリエスは、休んでる。起こしたくないからこっそり出てきた」

「何処に行く」

「喉、渇いて」

「部屋にあっただろう」

「溢した」


 今の有り様を見て、さもありなんと納得した。

 あの部屋はアリエス様のメイド連中だって遠ざけられてる。

 奥の別室ともなれば俺達だって。

 中でなにやってるかは知らないけど、この女を見られない為なのかもなと思った。


「持って来てやるから休んでろ」

「あぁ、それは助かるかも」


 座れるよう手を貸してやってから立ち上がり、何をやってるんだとようやく思い至る。


 フーリア人相手に。

 別人だろうと、関わりたくなんてないってのに。


 足元で呼吸も荒く、熱病にやられたみたいに苦しそうにする姿を見て、ため息も肩をすくめることも出来なかった。


 じっと見詰めていると、ふいに女が顔をあげ、


「あれ……早いね」

「まだ出発もしてないよ」

「そっか。そか」


 膝を抱え、蹲る姿に苛立ちを覚え、俺は足早にその場を離れた。


 腹の中が異様にむかむかして仕方なかった。


    ※   ※   ※


 どうにか水を探し出して戻ってきたら、女の姿が無かった。

 あの状態でまたうろちょろしているのかと収まらぬ苛立ちと一緒に探していると、すぐ表の中庭にある長椅子で横になっていた。


 何故そんな所にという答えは、彼女の傍らに立っていて、


「なんだい、逢瀬の途中だったんなら言ってくれよ。邪魔するつもりは無かったんだ」


 病的なまでに白い肌、白い髪の女。

 手足は骨ばっていて細く、軽く殴りつければそれだけでへし折れてしまいそうな印象さえある。


 なのに今、各国連合軍が最も手を焼いているのがこの、ティリアナ=ホークロックという『弓』の術者だ。


 平時から纏い続けている魔術光は斑な陽光の中で異様に美しく羽を散らしていて、こんな場所でも戦場と同様の意識を持ち続けているんだろうかと思わせる。少しだけ、思案した。やれるか。無理だ。即断出来た。当然だろう、相手は『弓』の最上位で、俺は『槍』だ。得意にしてる暗器も魔術を使っている状態の『弓』相手には反射や動きで負けてしまう。


「そう警戒してくれるなよ。こんな骨ばっかりな女、相手にしてても仕方ないぜ?」


 言われ、視線を長椅子へ向けた。

 先ほどのフーリア人が辛そうに息をし、薄っすらと目を開けている。


「あぁ……おかえり」

「水を持ってきた」


 差し出して、伸びてくる手のあまりの弱々しさに視線を彷徨わせた。

 このままで飲める訳がない。


 だけど、これ以上を躊躇してただ見ているだけだった。


「なにやってんだい」


 するとティリアナが何を思ったかフーリア人の女へ寄り添い、身を起こさせた。

 身体の向きを変えさせ、背凭れへ寄り掛からせると、未だ固まっている俺を見るやガラスの瓶を取り、口元へ当てた。

 僅かに傾け、先に溜まった水を舐めさせるようにしながら、取り出した手拭いを添えて零れた水を吸わせている。


「っ……、ありがと」


 そこでようやく、この女はすぐ横に居るのがセイラムの尖兵であることを知らないのだと気付いた。

 ずっとあの部屋に閉じこもって薬漬けだ、会う機会なんて無かっただろう。


 ティリアナはどういうつもりなんだろうか。

 顔は知らなかったとはいえ、蛇野郎の連れ込んだ相手だというくらいは予測が付く。

 なのに今の、この表情は……。


「何か食べる余裕はあるかい」

「ん、ごめんなさい、今は無理そう」

「そうかい」


 女の放つ、異様なほどの甘い匂いは今も消えていない。

 近くにいるだけで酩酊しそうになる。


「いい天気だねぇ」


 などと言いながら仰いだ先には、斑模様の空がある。


「……そうでもないか」


 生暖かい風が吹いてきた。

 ここは日陰だが、すっかり夏の暑さが支配するようになってから、日中は肌が汗ばんできてしまう。


 気持ちが悪い。


「今日は暑かったからね、部屋の中に居たって水は飲まなきゃやってられないよ」


 気持ちが悪くて仕方ない。


 だけど、ここを置き捨てて離れるのは、裏切りに思えて足が動かないで居る。

 誰に対して?


 憎むべきフーリア人と、同族である筈の人間と、その不一致が気に入らない。


 別に、恨んでいたい訳じゃない。

 内乱の折にビジット=ハイリヤークの示した現状を確かに見た。

 アレを平然と行い、また行っていると知りながら放置していた自分にも虫唾が走ったさ。


 それでも嫌悪感は根強い。

 蜘蛛が害虫を食べるからと言われた所で、頬ずりしたいとは思えないように、幼い頃から染み付いた感覚というのは簡単には払拭できない。

 距離を取って関わらないようにしているくらいで勘弁して貰いたい。


 落ち着いてきたのか、身を起こしたフーリア人と、あくまで長椅子の傍らに立つティリアナとが何の気無しな会話を続けている。あぁ、と思う。俺がここに居るから、アリエスの関係者だと勘違いしているんだ。だが目の前でこいつは敵だと言えば、今は穏当に受け答えしているティリアナが豹変するかも知れない。

 結局見ているしかないのだと諦めて、一人壁際まで寄って背を預けた。


 また生暖かい風が吹いて、二人の髪が揺れる。

 共に、真っ白な髪だ。

 なんとなく、生まれる場所は違っても起源は同じなのかもなと考えた。


 どうでもいい話だ。


「ここも随分と変わった。昔はもっと寒くてね、この時期でも冷え込む時があって、作物が駄目になることも多かったんだよ」

「今でも急に冷える時はあるよ。でも、新大陸から入ってきたジャガイモとか、枯れた土地でも育つトマトみたいなのも増えたからね」

「目新しくてアタシなんかは目が回りそうだよ。刺激ってのは大事だが、歳取ると静かに過ごしたい時も増えるからね」


 おそらく、百年分はズレた会話をする二人の様子に、敵とその被害者である事実を忘れれば親子のようにも見えただろう。

 親しげというのも違うが、珍しい白髪が並んでいるとそう見えてくる。


 一先ず会話が成立する程度には回復してきたらしい。

 思って、安堵していたら、


――――ひゅ、とフーリア人の女が息を呑んだ。


 カツカツと音を鳴らして歩いてくる人影がある。

 霧淀む魔術光、『盾』の力を見せびらかすようにゆっくりと歩いてくる男を一瞥し、舌打ちをした。


 蛇野郎、ヴィレイ=クレアラインは一瞬俺を見た後に即興味を無くし、一直線にフーリア人の女へ歩み寄った。


 身が強張っている。

 どんな関係があったのかは知らないが、あの甘い匂いの原因に絡んでいるのだとしたらこの反応も仕方ない。いや、と思い直す。今のはそんな、即物的な反応とは違う気がした。もっと根深い、心の奥底へ、心の臓に絡みついたような感情。


「なにをしている」


 女は応えない。

 身動き一つ、瞬き一つせず硬直している。

 岩となってやりすごす以外を知らないみたいに。


「今は大切な調整の期間中だ。余計な影響を受けて手間を増やすな」


 幼い頃から染み付いた感覚というのは簡単には払拭できない。

 嫌悪のような、恐怖のような、強い傷は不意に脆い肌を突き破って顔を出す。


 こちらに微塵も価値を見出していない、絞め殺される家畜以下の、始末すればただ気が晴れる、あるいは愉しめるという程度の相手へ向ける目は、俺にも覚えがあった。


 凭れていた身を起こし、歩を進め、目の前に『弓』が居るという事実すら忘れて青い風を纏おうとして、


「腐臭漂う身でよく恥ずかしげも無く人間の居る場所へ姿を晒せたものだ。穢らわしいと手を出さずに居た事で増長したのなら、改めて自分の醜さを――――」

「坊や、そのくらいにしておきな」


 意外なほど大きな手がヴィレイの頭を掴んで、乱暴に撫でた。


「っ!? なにをっ!?」

「アンタのソレは八つ当たりさ」

「ティリアナ……如何に同志と言えど侮辱に黙っているつもりはありませんよ」

「はいはい。同志だって思ってくれてるんならさ、折角アタシが看病した子を余計悪くするようなことはしないでおくれよ。今日の所は」


 ぽんぽん、と頭を叩き、仕方ないねと苦笑いをする。


 その、あまりにも敵というものからかけ離れた表情に俺まで毒気を抜かれて棒立ちした。


 知っている。

 その表情。


 母親が我が子へ向けるような、優しさでもなく、愛情とも少し違う、ただ受け入れて、納得しているような。


「アンタにもアンタの考えがあるんだろうさ。だからまあ、余計な口出しは避けるけどさ、今日は頼むよ」

「…………今日だけですよ」


 言い捨てて、ヴィレイは女と、ついでのように俺にまで睨みを利かせて立ち去っていった。

 ティリアナが女の背に手をやっていたと気付いたのは少し経ってからだ。


「生きてりゃ色々あるもんだ」


 また苦笑いをして、敵である女は言葉を紡ぐ。

 声は、低く、静かに響いた。


「ロクでもない男にいいようにされた時は、もう生きていられないくらい自分が醜くて汚らしいものに成り下がったと思ったね。自分の腹の内でそれが日々大きくなっていくのを感じながら、何度開いて掻き出そうとしたか分からないよ。だがいざ生まれるとなった時、ソイツが必死にアタシの中から飛び出して、生きようとしているのが分かった時、ぐちゃぐちゃになった心で大泣きしたね」


 ティリアナは生涯子を産まなかったと言われている。

 それは、孕んだことが無いという意味じゃない。


「結局流れた。ほんの少し前まで悪魔の子が生まれるんだと怖れていたのに、腕の中で冷たくなっていく子を見ると愛おしくて仕方なかった。まあ、その後何度か似たようなことを繰り返したけど、どうにもアタシの痩せ細った身体は腹の中で子を育てるのには向かないみたいでね、全部駄目だったなぁ」


 取り残された母親は、流れ落ちていった子を救い上げる為にこそ今ここに居るのだと。


「死にたくなるくらい辛いことなんて、案外どこにでも転がってる。だから顔をあげろなんて言うつもりは無いよ。ただ、そうして蹲って、小さくなって、内側へ引き篭もっていると永遠にそこから這い出ることは出来ないさ。大事なのは辛いことと同じくらい、愉しいことも転がってるってことさ。そういうことを忘れないこった」


「……別に」


 フーリア人の女は、フロエ=ノル=アイラという女は、ぽつりと、


「そのくらい、言われるまでもないよ」


 血の気の失せた顔で、肩を、手を震わせながら、痛むのだろうお腹を抑えてティリアナを見上げた。


「っはあ! こりゃ余計な説教をしたかねぇ。嫌だよぉ。歳を取るとさ、若者捕まえて分かったようなことを言いたくなるのさ。でもまあ、敢えて言うけどその表情、惨めさが滲み出てるぜ」


「ティリアナ=ホークロック」

「あぁ」


 アリエス様から名前くらいは聞いていたのかも知れない。

 先ほど、ヴィレイが口にした名前を彼女は聞き逃してはいなかった。


「ハイリアや、ジークは、絶対にアンタには負けない。私も、いつまでも負けてなんていられない」


 滲む脂汗と共に宣言したフロエに、ティリアナはここぞとばかりに煽り立てた。


「その首をいずれアンタの前に並べてやるさ」


 銀の光が周囲に溢れた。

 とても生物のものには思えない、金属のような光沢を持つ大爪が周囲を横薙ぎにし、空気を握り潰した。


「はははははっ!! こりゃ予想外にとんでもないのが出てきたねえ……!!」


 あっさりとそれを避けてみせたティリアナが二階の窓に身を置きながら『弓』を構えている。

 庇い立ち、今度こそ『槍』の紋章を浮かび上がらせ短槍を手にした。


 くそったれが、勝つ算段くらいはあるんだろうな。


 言い掛けて諦める。

 あの衝動的な行動の何処に計算があった。

 どうにもならない。なら、どこまでを許容する? ナーシャは、誰かが今の物音に気付いて駆けつけてくれるか?


「ちっ」


 他人をアテにしてる時点で詰みだ馬鹿野郎。

 ところがティリアナはあっさりと力を抜いたかと思えば、風へ巻かれたように飛び上がって屋上から叫んだ。


「この世で最も下らない言い訳をするけどねェッ! これが戦争なのさ! 奪おうとするなら、当然奪われることも覚悟するんだね! 死者の軍団と生者の軍団――――最初から相容れる筈もない訳さ!!」


 両手を広げ、空へと翳し、謳うように宣言する。


「セイラムはアタシに約束した。我が子を返してくれると。産んでやることが、生まれさせてやることが出来なかったあの子たちを、もう一度抱き締めるその為に! アンタらが聖女を討とうとするってのはさ、アタシの子を殺しにくるのと変わらないってことを覚えておくんだねぇ……!!」


 そうして身を返すと飛び去っていった。

 向かう先なんて知れてる。


 戦場だ。


 この世で最も下らない言い訳がまかり通る、あの女にとっての日常へ。


「くそっ!!」


 今更ながら、既に戦いが始まってるだろうこの時間に、ティリアナをこの場へ拘束出来ていたことの大きさへ思い至る。

 間抜けが。

 自分を罵るのはどうでもいい。

 せめて、何か足を止めさせて、あるいはこの場で一対一に持ち込んででも…………、『槍』という鈍足の力ではあまりにも届かない望みに悪態をつく。だから、俺は魔術が嫌いなんだ。いつだって届かない。いつだって俺は、自分を守るだけで見ていることしか。


 自己嫌悪へ駆られそうになった背後で、重たい音がして振り返る。


 女が、フロエが倒れている。


「っ、オイ! ちっ、そんな身体で無理すりゃそうなることくらい分かんだろ! オイ! っっっ、くそ!」


 ティリアナは追えない。

 『槍』でなくとも、『弓』を生身で追いかけるなんて速度の問題以前に自殺行為だ。


 女を見て、ティリアナの去っていた方を見て、また視線を戻して。

 動けず、息を吸った所に声が掛かった。


「ヘレッドさん、これは?」

「来るのが遅いぞナーシャ!」

「はいっ! え? ああいえ、急いで休める場所へ運びましょう!」

「休んでどうにかなるならこんなんになってる訳ないだろ、犬の真似して鳴いてるくらいなら必要な時にさっさと来いってんだよ……っ」


「え? えぇ……、今それ掘り返すんですか……?」


 完全に八つ当たりだったが、世話焼きお節介女はしょうがないなぁなんて顔をしながら遅れて来た子飼いの連中に指示を出し、アリエス様への連絡までしっかり行った上で女の介抱を進めた。あまりの手際の良さに、改めて自分の使えなさを実感する。

 腹立たしかったので、また少し八つ当たりした。


「あらあら」


 ナーシャはまたあの顔で笑い、受け入れた。


    ※   ※   ※


   ティリアナ=ホークロック


 いけないいけない。

 ちょいと気紛れで優しくしてたらすっかり立ち位置を忘れちまってたよ。


 胸の内が軋んでいけない。


 跳び付いた屋根の角を足先で掴むように踏んで、そのまま勢いの向きを調整して再び跳ぶ。

 都市を出るまではあっという間だった。


 外壁へ取り付き、溜めの一瞬の間に、それを見た。


 黒い川が幾つも南へ流れていく。

 真っ黒で顔の無い、薄気味悪い人型たち。

 アーノルドの戦利品から聞き出した話だと、連中は『影』と呼んでいるらしい。

 倣ってアタシもそう呼ぶとしようじゃないか。その『影』が次々と湧き出して戦場へ送り出されていく。


 武器を生み出し、今度は戦う駒を生み出し、アタシらのようなモノまで生み出してくる。


 兎角、聖女ってのは戦いがお好きらしい。


 アタシは大嫌いだけどね。


「は……!」


 跳ぶ。


 地上へ向けて、矢のように跳んで、更に前へ。


 丘陵地帯は抑えられた、西は森が多くて敵を探すのが面倒くさい。丸ごと吹き飛ばしてもいいが、今日は陣地再編の為に敵が前へ出てくるだろうと話していたから、ちょっとお邪魔して遊んでもらうのも悪くない。


 女の顔が頭の中を過ぎる。

 虚ろで、空っぽになって、怖さや辛さが通り過ぎるのを待っているしか方法を知らない、そんな昔を思い出して口走っちまったが、どうにも生きてる奴ってのは油断がならない。中途半端に脅かして逃げられた後ってのは、決まってとんでもない反撃を食らうもんさ。


 そうだ。


 この戦いはあの子たちを救い上げる為の戦いなのさ。

 

 だったら悠長に構えてなんていられない。

 待てば勝ちが転がり込むなんてアーノルドは言ってたが、坊や向けのお為ごかしなのは流石に分かるよ。

 兵站を無視出来ようと、無限に兵が湧き出そうと、今のままじゃ限界が来る。


 陣地を二つも三つも抜かれりゃ普通は瓦解してくるもんだが、敵はどんな求心力で軍勢を纏め上げているのか、未だに守勢へ回りつつも動きそのものは衰えちゃいない。


 怖いねぇ。


 草原を走り、ふと小高い丘を見付けて迂回した。真上を通り越しても問題無い程度だったが、ああそうかと思い出したんだよ。


 風が吹く。炎が勢いを増すのにちょうどいい、そんないい風だ。


「いたぞっ、討ち取れ!!」


 先日も見たような男共が丘の向こうに伏せてやがった。

 どうやって侵入した?

 いや、そんなことよりも。


 飛び上がって左右より放たれた矢を避ける。そりゃ、あんだけ分かり易く注目を集めようとすればね。空中で身を捻り、まずは一発前線へ。そう、ここがアーノルドの戦う場所への援護にちょうど良い、アタシの射程距離だ。当然丘からアタシを追い出した連中は読んで兵を伏せてくるよねええ!


 着地と同時にもう一発。


 今やるべきは保身じゃない。

 右へ駆ける。丘側は連中の拠点がある筈だ。そう考えてから誘われたことに気付く。


「あーいや待たれい! 一手お相手願おうか!!」


 巨漢の男が立ち塞がる。

 紋章は、『騎士』。加えて五人、大きく広がって展開していやがる。


 手前へ減速し、一発。


 追いついてきた『剣』相手に身を返し、蹴りを放つ。流石に反応じゃ負けるね、上手く回避して隙を狙う動きに、さっき置いて来た石弓で後輩から射抜かせる。どれだけ反応が良くても、見えていない、気付いていないじゃ回避は不可能さ。

 更に立ち昇る青の魔術光を割って一斉射が来た。

 『弓』を後ろに隠してたってことかい。

 仕方なく新しい仕込みを使って撃ち落す。幾らかはこっちに来た。傷を得る。更に『剣』が来る。至近。けど、

「いい夢を」

 鏃を向ける方が早かった。

 しかし、相手もやる。

 矢をぶち込まれ上半身の半分近くが吹き飛ばされたってのに振るった剣が届いてやがった。浅い、が、確実に傷は増えていく。おまけに驚いて出来た僅かな硬直に合わせて打ち込まれた矢が首元を掠めた。


 怖い怖いッ、これだからコイツらは油断ならねえ!

 仲間の死が避けられないと知ったら、その死さえ利用して仕留めにきやがるじゃないのさ!


 身を返してまた一発前線へ放り込む。

 当然隙を狙って踏み込んでくる。

 血気盛んな馬鹿が血走った目で迫るのを見てこちらから踏み込んだ。

 足元がお留守さ。払った脚が絡まり無様に転がっていくのを確認はしない。困ったことに踏み込みを狙って放たれた鉄杭をふとももに受けちまった。痛い。痛いねぇ……! 堪らないよ!


 続けて派手にぶち込まれた罠の一斉射がこっちの身を抉る。


「っはあ!!」


 血が流れる。

 血が滾る。

 致命傷は、動けなくなる所だけは避けて、後は力任せに自分の体をぶん回す。


 先の一斉射で視界が粉塵塗れだ。

 ということはだ。


「なに企んでやがるんだァ! ええおい!」


 来た。

 塊だ。

 太い棒のようなもの。

 途中で折れ曲がり、先端にはまた何かがくっ付いてやがる。


 引き千切れた腕だった。


「ぁあ?」


 流石に呆けた。

 ついでその腕が握っているモノの先端がチリチリと奇妙な音を立てて燃えてやがる。そいつは、それは、丘陵地帯でも一度見た。


「っっ――――!!」


 吹き飛ばされた。

 破片が肌を裂き、一部は体内へ。


 突っ込まれるのは慣れてるけどさ、所構わずってのは勘弁して貰いたいねェ。


 そして何より厄介なのは音だ。

 馬鹿みたいにデカくて耳が効かなくなる。

 だが流れは読める。勘だけど。ほぅら追い討ちに来たクソッタレの馬鹿共をさっき温存した罠で迎撃だ。一度脚を滑らせながらも大きく跳んで距離を稼ぐ。周囲への対処より先に矢を放った。


 それから位置が悪かったのに気付く。

 意識を外へやってるせいかね、内のことが疎かになりがちさ。


 退避した場所にはさっきの巨漢男が距離を詰めてきて、あぁ来るかいと身構えたら手前で減速しやがった。


 全く、油断なら無い連中だよ。


 合わせた速度で背後に『剣』が二人回りこんできている。

 禿野郎に、赤髪。後詰めも十分。


 側面からさっきの一発に紛れさせて設置した石弓を一斉射するが、赤髪のに若いのが引っ張られて仕留めそこなった。が、間は出来た。足元に大量の罠をばら撒きながら、『騎士』へと肉薄する。射る。弾かれた。射る。また弾かれた。


「ふはははは! さあもっともっと来るがよ――――待たれよ! おおい無視していくなあ!」


 嫌だよ。

 矢捌きの得意な『槍』は結構居る。

 得意な相手だからと倒すことに拘泥して、気が付けば詰みだったなんて経験もあるんでね、ああいうのは無視するに限る。


 更にもう一発前線へぶち込んで、追いついてきた『剣』二人とその後詰めを捉える。


 すぐ詰めてはこない。

 狙いの三人包囲を外されたんだ、丘で『剣』数名相手に立ち回って見せたのが頭をチラつくかい?

 怖くて仕方ないのはこっちの方なんだが、体験ってのは簡単には払拭出来ないもんさ。


 なんて得意気に思っていたが、どうにも様子が違う。


 敵がじりじりと後退を始めている。


 あぁ。


「今日もアタシの勝ちかな?」


 さっきの一発で敵主力が敗走を始めてる。

 アーノルドの奴、どんどんとコツをつかみ始めてるのかも知れないね。ここでの勝利より前線の勝利を優先したアタシのおかげだって、自惚れたっていいのかも知れないけどさ。


 さてどうするか。

 もう前線への援護はいいだろう。

 やればもっと悲惨なことに出来るだろうが、ここからは連中を相手にするのに使うべきだ。

 血を流し過ぎたし、呼吸がままならないがね、こういう時ほど研ぎ澄まされてくるんだよ、アタシは。


 予想通り、近衛兵団は退き始めた。

 手出しはまあ、止めておこう。敵主力への追撃も無しだ。

 この平地で逃げられないからと腹を括った連中に襲われ続けるのは骨が折れそうだ。

 奇襲が失敗し、本隊が逃げているってのに、踏ん張る理由は薄い。


 なにより襲われるアタシの影で随分と『剣』が暴れてくれていたらしい。


 面倒見てたっていうセイラムの幻影はいいのかね。

 まあ、助かったんだけどさ。ここが今日の要だと分かっていたのかもしれない。


 にしても近衛兵団……抜け目の無さや厄介さはあるけど、どうにも厚みが足りないんじゃないのかね。ここに百人ばかし配置しておけば流石のアタシも逃げるしかなかったからね。さっきのじゃ見えたので二十も無い程度、後方の予備を考えても倍は居ない。加えて『剣』が結構刈り取ったに違いない。


 そろそろ打ち止めかな。


 折角だ、勝ち誇ってにんまり笑ってやろうとしていたら、不意に前線から強烈な圧が広がった。


 轟、と全身を打ち付けるような混濁した音に遅れて、衝撃が叩き付けられる。


「っ……!?」


 文字通り吹っ飛ばされた。

 ただの衝撃だ。

 打撃じゃない。

 だからしっかり身を回して脚から着地した。


「なんだいありゃあ」


 いや、


「アレは」


 覚えがある。

 心を飛ばし、視線を伸ばす。


 崩壊した敵主力部隊の先方に立つ黒い点、そこへ意識を縫い付けるようにして見て、しばし笑みも忘れて見入っていた。


「……なんだい色男、戻ってきちまったのかい」


    ※   ※   ※


   アーノルド=ロンヴァルディア


 追撃を掛けていた『影』が軒並み吹き飛ばされた。

 だけではない。

 軍勢を指揮する余の配置を正確に読み切り、殺到する兵を短槍の一振りで次々と蹴散らしながら前進してくる。


 おぉこれは懐かしい。


 懐かしい感覚である!


 あれは何者か。

 強者だ。


 故の恐れと、故にこその高鳴りと、滾る己を冷淡に見詰めるもう一人の余がここに在る。

 情勢は見えておる。

 然らば、などという考えをまずは脇へ押しのけ、猛る心のままに叫ぼう。


 戦場へ華を添えるのも皇帝たる余の役目というものよ。


「我が名はアーノルド=ロンヴァルディア! 我が前に立ち塞がりし勇者よッ、名を聞こう!!」


 目前へと迫る者へ問い掛けた。


 今日ここでどちらかが死ぬにせよ、名も明かされぬのでは歴史家共が悲しもうというもの。

 何十年、何百年もの未来で、子どもらが心躍らせる詩を紡ぐのだ。

 あぁ、この『影』ばかりの軍勢には学者の一人もおらぬ。詩人も、神学者も、音楽家も、建築家も、外征を余す事無く愉しむ為の者達が居ないことが不服でならん。こうも戦力ばかり溢れ返させるのなら、最初から人の形など取らせず海として広がれば良いというのだ。


 さて、黒の甲冑に身を包む者は我が矛の届く手前で立ち止まり、ゆっくりと視線を挙げた。


 篭手の内で短槍を握り直し、突き付けるでもなく垂らしたまま。


 何故か、躊躇うように。



「ハイリア=ロード=ウィンダーベル」



 告げられた名はどこか、空々しく風へ溶けていった。

 だというのに声音だけは、どこまでもまっすぐに、痛々しいほどに澄み切っていた。





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