201
クリスティーナ=フロウシア
お屋敷の二階、茶会向けに作られたテラスの一角でクレアさんが風に当たっていました。
近頃一層と暑さを増してきた中、公の場へ出ることの減った彼女は、貴族の令嬢という肩書きを書き損じした書類のように丸めてポイしていて、ざっくり着崩した服装は女性というよりやや男性らしい。オトコマエって言ったらなんか喜んでいましたが、各所に女性向けの装飾を施し始めてくれたのでなんとか令嬢としての威信は保てた模様。
しかし腰から下は脚絆、女物の腰巻きではなく、足腰の線がはっきり見えるような代物です。
それが膝下まで続き、露出した義足を彩るように飾り紐が伸び、風にはためいています。
義足は木製で、接合部を脚絆の裾で隠しつつも、艶やかな表面には風を現す絵と舞い飛ぶ草花が描かれている。
あくまで日常用、訓練の結果、ゆったりとした舞いくらいならこなせるようにはなっているものの、耐久性や間接部の自由度が問題で戦いに耐えうるものではありません。
杖ではなく、鍛造されたレイピアを収めた鞘で以って時折身を支えながらも、颯爽と歩く姿には遠巻きに無骨さを嘲笑っていた者たちさえ感嘆を漏らすほど。
歩く為の義足を彩ること。
ただ立つだけでなく、魅せることを考える。
欠落という思考を笑い飛ばし、どうだと誇る、その姿。
無様と笑われた後で絵の具を取り出し嬉々として絵を描き始めたクレアさんには、もう笑えばいいのか、泣けばいいのか。
よく見せるための演出とか黙らせる為の裏工作とか、小賢しいことを考えていた私のことは笑って良いと思いますけどね。
「クレアさん」
呼びかけると、心地良い風に目を閉じていた彼女がほっと息を漏らし、目を開きました。
「クリスか。どうだった、下の騒ぎは?」
「アンナさんが御懐妊だそうです」
言った途端、これまで荘厳さもあった姿が崩れ、眉をあげてこちらへ身を向けます。
きょとん、という表現はハイリア様から聞いたものでしたか。
「相手は」
「ヨハン先輩です」
「ん、うん、そうだな。そうか……そう、だな」
次の言葉を口にすべきかどうかは考えましたが、同じ屋敷で暮らしている以上いずれは耳にすることです、言うべきでしょう。
「そしてセイラムとの戦いが終わった後、お二人は結婚するそうです」
あ、陰が濃くなった。
「ちがうぞ」
「いえ何も」
考えが読まれた。
「二人を祝福する気持ちはある。いいか、あるんだ」
「はい。でも、最近周囲に増え行く結婚話にちょっと思うところがあるんですよね」
これで何件目でしたでしょうか。
パッと思いつくのでダット先輩とオフィーリアさん、ウィルホードさんとセイラさん、そして今回のヨハン先輩とアンナさん。
裏方で活躍してきた人なんかもちらちらと結婚話が上がっていて、元一番隊という枠組みだけでも十件以上だった気がします。
えぇ、その内の一件にハイリア様とメルトさんも入ってますとも。
貴族の方々は当然の話として、成人と同時に結婚というのも珍しくありません。婚約であっても早晩そうなる訳ですし、後継者を作ることは最大の、あるいは最低限の義務であるとも言われます。若い方が成しやすいという話も聞きますし、近日中に卒業式を控えた学園生らの中には急激に話が纏められていく姿を見ることもありました。
不詳ながら昨今ハイリア様の名代として働くことの増えた私にまで偉い人から話が回ってくる始末。
主不在のまま、その頭上を飛び越えてお話を受けることは出来ませんと言って回っているものの、中々手強い人も居て困ってるんですよねぇ。
「まあ、結婚ばかりが人生じゃありませんよね」
少しむくれていたので話を逸らすも、クレアさんは更に眉を寄せて黙り込む。
「言うな」
何か言おうと思ったら、素早く遮られ、素直に口を閉ざす。
ちょっと出過ぎましたね。
この件に関しては安易に弄んでいいことではありません。
すっかり諦めつつある私とは違い、彼女はその想いこそを支えに凄まじい努力を重ねているんですから。
「あぁ、そう構えるな。気にしてはいない。いないが、私にだって弱い部分はあるものだ。んん、だから……うん、まあお前に言われる分には構わないと、そういう感じだ」
つい私は笑ってしまい、それを見てまたクレアさんが応える。
私だって、そこまで堅苦しく考えては居ませんよ。
お互い多少のことは笑って流せるくらい、関係を続けてきたつもりです。
「よし、私はリハビリに戻ろう。すまないが、政務は任せるぞ」
「はい。クレアさんが集中出来るよう、そしてハイリア様の分も、しっかり働いてきますよ」
時計を見れば、少しばかり早いですが私も出かける時間です。
「馬車なら私のを使え。歩くのもリハビリの一環、だからな」
「誰の受け売りなんでしょうねぇ」
などと冗談を溢しながら、
「貴族のクレアさんが平然と出歩いて、平民の私が馬車を使うなんて」
『剣』を使ってちょっと走れば、ミッデルハイム宮までスグなんですけどね。
「お前はハイリアの名代として宮殿へ参じるんだ。こけおどしとして、馬車を使うくらいはやっておけ」
平民は馬車を使うお金も無いのですよね、なんて嫌味を言われますからね。
ウィンホールド家の馬車なら箔は申し分ないです。
ただ、
「そういうの、クレアさんに言われる日が来るとは思ってもみませんでした」
軽く突いてあげると、クレアさんは笑って流し、背を向けました。
固い足音を響かせて、草花と風を脚に纏わせ彼女は歩く。
その姿は、貴族の御令嬢ではなく、すっかり一角の剣客という雰囲気ですね。
※ ※ ※
ミッデルハイム宮の姿を見れば、人は自然とウィンダーベル家の強大さを知る、という言葉を最近知り、納得するようになりました。
元からハイリア様より故郷としてのこの地について聞き及んではいましたが、聞くと見るとではまるで違うものです。
中心部は古く、石造りが中心です。
けれどそこらの家々とは違い、息をつくほど繊細に掘り込まれた意匠があり、表面は艶やかに磨き上げられています。何百年も前に作られたものだというのに風化した様子はまるで見受けられない。おそらく、何度か補修が行われているのでしょうが、ウィンダーベル家がここから興ったのだと感じさせるに足る堂々たる佇まい。
そんな中心部から左右へ広がるほどに建築様式が複雑化していき、より豪華に、華美とも呼べる造りへと変化していくのです。
宮殿は都市部とそう変わらない敷地面積があって、外周をぐるりと歩くだけで相当な時間を要するほど。
ここまで大きな建築物となれば一時代では終わらず、増築に増築を重ねた結果として年輪のように建築様式が変化していく様を見て取れるものなのです。
しかし、このミッデルハイム宮は予めそうなることを前提とし、中心地から決してみすぼらしくは無い変化の継ぎ目を造り、後から意匠を重ねて移り変わりを愉しませさえする。きっと、初期の構想を打ち出した方は相当な先見性を持っていらしたのでしょう。
完成に至った今に至るまでの変化を含め、最初からそういうものとして取り込んでいる風でもあります。
これだけのモノを造り続ける力があり、歴史がある。
政務の途中で気晴らしにと庭を歩けばそれだけで畏怖を覚えるほど。
整然とした通路がある一方で、花壇に植えつけられた花たちはどこか野山に咲き誇る自由さを感じなくも無いです。
偶々見かけた庭師の方に聞いてみたら、昔ある方が小さな花を摘んでいるのを見て酷く心を痛めたのだとか。それで庭師一同がなんとか試行錯誤を繰り返し、今もまだその途上にあるという話です。
大抵は、この内庭まで馬車が必要になるような広さから、道すがらの花壇には中々目が留まらないそうですけど、その心優しい方にもいつか気付いて貰えたらいいですよね。
既に幾つも馬車の並んでいる場所を迂回し、離れた場所で下車。
あっちは貴族様用、こっちは下々の出入り口。
ウィンホールド家の馬車を使っているとはいえ、私は平民。
ハイリア様の威信を背負う身でもありますから無意味に謙ったりはしませんけど、流石に大手を振って貴族ぶるには私はまだまだです。
とりわけ、すっかりここに馴染みつつある王都やデュッセンドルフから避難してきた貴族様たちは、一筋縄でいかない人も多くて悩みの種ですね。
わざわざ遠回りして辿り着いた扉の番に名前を告げて、会議室へと続く待合室に入ります。
一斉に視線が集まる感覚にも慣れたもの。
適当な場所へ陣取ると、顔見知りが寄ってきて幾つかの言葉を交わす。
情報の奪い合い。会議の前の会議。意見調整に釘刺しに煽り。表面的な態度が相手の本心だと思っていたら簡単に操られてしまいます。
待っている間、奥の会議室から怒鳴り声が聞こえてくるのもあり、大抵は軽い話だけで終わりました。
今日の会議内容は事前にはっきりしていますし、結果の程もこの騒がしさを思えば見てくるというもの。
個人的には気が重くなるのですが、大多数にとってはようやくといった所でしょうか。
しばらくそんな調子で待っていると、静かになった会議室から人が出てきて門番と二・三言葉を交わす。同時に待合室で給仕に回っていた使用人さんたちが素早く、けれども優雅に動いて準備を始めました。給仕を続ける人も居て、注意しなければ気付かないほど、動き自体が洗練されています。メルトさんも凄かったですけど、さすが本家の方々ともなれば彼女に勝るとも劣らない人が一杯なんですね。
ウィンダーベル家の使用人衆。
このミッデルハイムで雑用、給仕を許されているのはあの方たちだけです。
当主であるオラント様や奥方のシルティア様が自ら離れに閉じこもり、政局から一歩引いていることで幽閉状態などと呼ぶ人も居ますが、姿無くとも権勢の影が見え隠れ。気分良く使って鼻が伸びる程度の人なら情報を片っ端からぶっこ抜かれたりするんでしょうか。
財産の大半を失う形でこちらへ逃れてきた貴族たちにとって、ウィンダーベル家による歓待は渡りに船でしょう。
逃げ延びたものの、時に悪辣とも言える手段を平然と行うウィンダーベル家、そこに招かれた時はどうなることかと警戒した貴族も多かったと聞きます。ですが今や手厚い保護を受け、無いも同然の利息で金を貸して後の再起を手助けするという姿勢に頼る家もあるとかなんとか。いろんな意味で凄いですねぇ。
「どうぞ、お入り下さい」
結局予定より十分以上も待たされて、ようやく会議室への扉が開かれました。
序列に気を付けながら入室していき、私は大半の参加者がそうしているように、奥に座る人物を確認しました。
あの待合室におらず、この会議室に居る人物。
ホルノス王ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト。
近衛兵団副団長ベイル=ランディバート。
そして、フィラント王国のリリーナ=コルトゥストゥス。
主に声を荒げていたのはベイルさんでしょうねぇ……。男の人の声でしたし。でももう一つ大きな声があった。陛下は滅多なことじゃ声を荒げたりしないし、そもそも彼女の幼い声とはまた違った。口論の相手はリリーナさんでしょう。
「さて、随分と待たされたものですが、事情の説明くらいは頂けるのでしょうか」
重い雰囲気のホルノス側を完全に無視して、いつもの涼やかな声で告げたのはエルヴィスの貴族ワイズ=ローエン。
現地の筆頭貴族として、またデュッセンドルフの復興支援にやってきた王女の面倒という計り知れない重責を担う彼は、ここミッデルハイムにあってどこかほっとした様子で続けます。
「大方いつもの、まだ分からない、が原因でしょうけどね」
彼の目が鋭いものとなってリリーナさんへ突きつけられる。
会議の席へ着く人の大半もそう。
表情が分からない、などと言われることもあるフーリア人である彼女は、けれど一目見て分かるほど憔悴し、苦悩に顔を歪ませていました。
「既に手遅れと呼んでいい時期ですが、今からでも前提の見直しをすべきでしょう」
「その為に今日は集まってもらった。彼女からも、最終的な確認として来てもらったが、結果としては予想通りでもある」
優雅に告げたワイズさんの後に、近衛兵団の副団長ベイルさんが続けます。
二人共通しているのは、やっぱりリリーナさんへの辛辣な態度です。
奴隷制度の撤廃を掲げ、フィラントとの協調を目指すホルノスらしからぬ行動ですが、王であるルリカ様は黙って聞いています。
二人の声の間には、彼女の言葉もあったことでしょう。
でも、楽観的な言葉を吐ける人は、この場にはいない。
「まずは各自の報告と調整から。そして、最終的には同時に進めてきた交戦計画のどちらを選択するかについて、決を取りたいと思う。陛下も、それでいいですね」
返答は無く、ただ、頷くだけ。
当初は彼女もリリーナさんを擁護し、弁明に協力を示してきたけど、流石にもう限界でしょう。
既に予定されていた決戦の日は間近。
まるで性質の異なる交戦計画を同時進行させるという、多大な負担を推してきただけに、これ以上の無駄を続ける訳にはいかない。
ホルノス内部でのことだけではなく、事は他国も絡んでいるんですから。
ベイルさんを司会とした会議は順調に進み、私も幾つかの発言をし、質問を受けた。用意しておいた回答表で事足りて、ハイリア様の名代として不足なくこなせたとは思います。ただ、満足に出来たかというと、やっぱり疑問が残りました。
最後に、会議の始めに告げていた通り、決が取られました。
「では、今後は旧来通りの戦略と戦術を中心とし、幾つかの決戦戦術の使用を前提としつつも、全体を調整していく方向で決定します」
圧倒的多数で方針が定まり、一元化された計画にほっとした様子の人も居る中、陛下は静かに座っていました。
反対は陛下と私、二票だけ。リリーナさんはあくまで連絡役である為、この場でフィラントの意思代弁は出来ません。
ホルノス国内でのことなら王の決定一つで動くこともあるんでしょう。
ですけどコレはエルヴィスのみならず、ガルタゴや周辺国家も参加している会議で、彼らも参加する戦いにおける方針を定める為です。
どの国もホルノス王の意見には最大限配慮してきました。だからこそ同時進行で訓練も行い、様々な手法が試され、独自の部門を立ち上げるにまで至っています。でも、前提が成立しないとなればどうにもなりません。責める意見が無いだけでも良かったと考えるべきなのでしょうか。
あるいは、フーリア人を悪者にすることで、内部の結束を固めたという見方もあるんだと思います。
多分、ベイルさん辺りはそれが可能になるからと、同時進行を認めたんでしょう。
最後までリリーナさんは顔を俯けたままでした。
本当ならここに留まるより、フィラント本国へ戻って確認をしたかったに違いありません。
ですがフィラントへ通じる数少ない人物である以上、離れてしまえば今以上に致命的な状況に陥った筈。
「王よ……」
悲痛な呟きに目を伏せる人も居ます。
けれど、決定は決定です。
私と陛下の票が意味を成さなかったように、同情で国の方針は動かない。
動かすことは計画を致命的な破綻に導くと多くの者が思っているでしょう。
フィラント王国は、その王は、デュッセンドルフの変事の後で一時帰国した後、一切の連絡を断っているのだから。
※ ※ ※
会議の後、ルリカ様からのお誘いもあって、テラスでのお茶会へ参加しました。
参加者は私、リリーナさん。主催がホルノス王ではあるものの、あからさまに負け組の集まりとあって会議に居た人たちからはさほど警戒はされていない様子でした。
でも当然でしょう。大方針が決定した以上、ここからひっくり返すことは不可能です。仮に、今ここでフィラントからの連絡が入ったとしても、かの国との協調を大多数の国々が不信感を持って拒絶するでしょう。
興味ありげな人たちが私へ視線を送ってきましたが、交渉材料としての価値は低いでしょう。
「一体どうしてこのようなことに……」
深いため息と共にリリーナさんがカップを置きました。
音を立ててしまったことに気付いてもいないのか、相変わらず顔色は悪いままです。
「この際だから聞くけど、フィラント王がこちらとの関係に飽きたとか、また別のところと渡りを付けたりして、ホルノスとの関係を放り出してるってことはないの?」
ルリカ様の発言に、警護をしている近衛の人たちが強い警戒を見せました。
落ち込んでいるとはいえ、リリーナさんは『剣』の術者を生身で制圧してみせたこともある実力者です。今の言葉に激昂して襲い掛かってもおかしくはない、ということなんでしょう。
「……王の為さることは、私たち……私にとっても突拍子が無く、なんと言えば良いのか」
以前であれば堂々と否定していただろうことも、彼女は弱々しく不安を口にするばかり。
連日会議でキツい質問をぶつけられ、信じる王からの連絡も途絶え、自身でもどうすればいいか分からないという状態では、無理からぬことだとは思います。
彼女は、リリーナ=コルトゥストゥスはフィラント王の腹心だった筈だ。
政務における秘書はリオンというレイクリフト人の青年が担っていたそうですけど、日々の世話や護衛、祭事に於ける補佐など、王にとって極めて近しい人物として扱われてきた彼女からすると、今のこの状況は絶望してもおかしくはないのだと思います。
巫女の力を持ち、遠方から言葉のやり取りが出来るからこそ、これまで王の代弁者として振舞うこともあったそうです。
デュッセンドルフでの変事があった当初もそうしていたと聞きます。
ですがフィラント王が一時帰国し、その一団が国境を越えた辺りで完全に連絡が途絶えてしまった。
最初は一時的なものだろうとリリーナさんも言っていました。巫女の念話には距離的な制限もあり、各所に配置して繋げていなければ不通となることも十分に考えられる。会話も直接繋げるものではなく伝言ですから、託した言葉が届くのに思う以上の時間が必要だという話です。
「しかし、何かがあったのではないかと思うのです。本当にホルノスからの引き上げを考えているのであれば、こちらに残した者も引き上げさせる筈です」
「ホルノスとの協力関係を断ちながらも、周辺状況の確認は行いたい。だから、貴方たちを置いているという可能性もあるよ。それと、これは酷な話にはなるけど、国の運営を行っていくにあたって、時に重臣であっても切り捨てなければいけない状況はある。フィラントがどういう状況なのか、まだはっきりしないけど」
「そう、ですね」
ホルノスとしても座して待っていた訳ではないんです。
まず念話による伝達が国境付近で途絶えていることを確認すると、小数の調査隊を派遣、現地を担当している筈の巫女がしばらく前にフィラント方面へと発っていたことが判明しました。詳細については不明です。現地の住民とは上手くいっておらず、折衝役の貴族も差別的な発言が多く、いつの間にか居なくなっていた、これだからフーリア人はなどと話すばかり。
当人はすぐさま更迭されたものの、肝心の情報は得られず、仕方なくフィラントとの間にある小国家群と渡りをつけて直接現地を赴くことを決めるも、その先ではこちら側の諸国とフーリア人との戦闘まで発生していて、調査隊は続行不可としてこれらの情報を持ち帰ってきました。
調査隊の帰還と共に派兵し援軍に向かわせたものの、王都からの遷都やセイラムへの対策、他国との折衝などを抱えていたこちら側から搾り出せる戦力は少なく、到着にも時間が掛かるそうです。また西側が騒がしくなったことを理由に、周辺領主たちからは王都への増援が断られ、更に戦力が減少する始末。
ルリカ様は落ち込むリリーナを見て、自身も俯き、じっと何かを考えています。
私も何を言えば良いやら。
正直言って、ハイリア様の名代という冠があるといっても私は平民、どころか流民です。
正式な市民権は無くて、教会の奉仕活動などに参加し続けることで後ろ盾になってもらい、なんとか暮らしているような状態。
貧乏とか身分とかいう以前に、本来王様なんていうとんでもない方と同席するのさえ恐れ多い。というか怖いです。ハイリア様からそんな方ではないよと言われていても、他の人が不敬と思えばどうとでも出来てしまうくらい、私の立場は弱々しい。
まがりなりにも伝言役であるリリーナさんより、更に弱いと言えるでしょう。
「貴女はどう思う? えっと、くり子?」
なんで王様の所にまでその呼び方が伝わっているんでしょうねぇ……。
嫌じゃないです、嫌じゃないですけど、王様の口から呼ばれるとなんだか名前を偽っているみたいで凄い罪悪感が。
「クリスティーナ=フロウシア、です。くり子と呼ばれていますので、どうぞ、そのままで」
「うん、そう?」
「はいっ」
緊張のせいか汗が凄い。
最近暑くなってきたせいだ。
ここはミッデルハイム宮でも特に風通しが良くて、暑い日でも心地良い風が吹く場所だそうですけど、こんな状況緊張するなという方が無理でしょっ。
「ハイリアから、貴女は物事の分析に掛けては学園随一、王都の文官団にも劣らないくらい長けているって聞いてるから、何か思いつくものがあるなら言って欲しいの」
ハイリア様ー!
いつもの調子で仲間自慢している姿が目に浮かぶけど相手は選んで下さいーっ!
と言いますか貴方は仲間内への評価がすこぶる甘いので自嘲してくださいっ、そりゃあ私もいずれはこういう仕事を任されたんでしょうけど今はちょっと心の準備が出来ていないというか、いきなり期待が大き過ぎて重圧に押し潰されるぅ!
否定したいけど王様の言葉を訂正しては不敬なのかも知れません。
しかも王様が長けてるって言ったのに長けてなかったら不敬なのかも知れません。
分からない。
貴族ルールが分からないっ。
とりあえずは全力で、ええと、何を答えればいいんでしたっけ……?
「フィラントの動静、ですか」
一拍置こうと告げると、ルリカ様は無言で頷く。
見た目は年下の女の子ですけど、彼女の思慮深さや先を見通す力というのはとてつもないと、えぇハイリア様が言っていました。
私への評価は思いっきり身贔屓が入っていますが、相手は王様、これまで遠巻きに言葉を聞いていた様子からも非常に優れた方なのでしょう。
そんな方の満足行く話が出来るのか非常に不安です。不安ですが、やるしかないのです。さっきから近衛の人が挙動不審な私にも警戒を向けています。迂闊なことを言えば死が待っている、そんな雰囲気で。
「まず一般的な見方から考えますと……先ほど陛下の仰られた通りにホルノスを切り捨てた、という考え方もあると思います。先の会議でも大方がそのような見方をしていて、ホルノスのこれまでを評価しつつそれに応えないフィラントへの不審という意見でしたね」
あぁリリーナさんが落ち込んでいく。
なのでちょっと意見を寄り添わせてみる。
「ただ先ほど仰っていたお話には矛盾、といいますか、おかしな点が……あー、いえ、別に否定するつもりはないのですが――」
「続けて」
「はい」
と、息を吸って。
「一番不思議なのは、念話による情報網を途絶えさせている、という所です」
言うと、小さな頷きを返してくれた。
うーんこれは分かってて聞いてそうですね。
「仮にホルノスを切り捨てるとして、ここにリリーナさんを置き続けているのなら、表向きは関係性を続けるべきです。その方が多くの情報も得られて、いざとなれば切り替えることも出来ます。なのに、していない。完全にこちらからの情報を断ち、国境付近の巫女だけを引き上げさせるというのは妙です。巫女というのは、簡単に切り捨てられるほど育成しやすいものなんでしょうか?」
「いいえ。私は言葉を受け取るだけで二年、届けるには五年以上掛かりました。その他、巫女としての力を磨く手段は秘匿されていて、適性の無い者では何十年掛かっても無理です」
こちらの魔術と違い、巫女というのは余程特異な才能という印象があります。
基礎があったとはいえ、半ば独学でそれを再現したメルトさんの凄まじさについてはまあ、置いておきましょう。
「貴重な人材を各地に置いておきながら、ほんの一部だけを回収し、残りは放置する。やっぱり妙な話です」
「フィラントの残した念話網は今も機能してる。おかげで各地との連携も取り易くて、相手の言い訳を潰すことも出来てるね」
元よりフィラントとの協調はホルノスにとってもこういう旨味があるからなんでしょう。
提供された巫女はホルノスの指示に従い、十分に役立っている。
「今下がれば、フィラントは丸損ですよね」
貴重な人材を取り込まれ、周辺国からの不審を買い、ホルノスはむしろ被害者としての立場を取ることで同情を集められる。同情で国は動かないけど、大義名分があれば国家間での利益交換が容易になる。
「ですから、現状にはフィラント以外の国か勢力の意思が介入している可能性があるかもしれません」
「それは、どこ?」
「エルヴィスやガルタゴ、そして周辺諸国、どこでもそうです。フィラントへの不審を一貫させているエルヴィスも怪しいと言えば怪しいですし、特に発言の無いガルタゴも、過去共謀していたことを考えると怪しいです。周辺国だって、ホルノスが自分たちよりもフィラントを重視する様を不安に思っているかもしれません。念話という手段が共謀の発覚を非常に困難にさせるというのは先だって証明されていますしね」
「それで?」
ううん、なんだか誘導されてる気分になりますね。
今の発言に、それで、ですか。普通なら結論と考え思考が途切れるものですけど……。
お化粧で隠してますけど、机一つ挟んだ距離からよくよく見れば分かる目の下の隈。瞼が落ちて、力が抜けて見えるのに、目の奥だけが妙に強い光を持っている。ハイリア様とはまた違う、強烈な意思を持った目、という印象です。
こういう人に私たちは支配されているんだ。
思うと自然に畏怖を覚える。
静かに息を抜き、吸った。
「二国の関係を崩したい国や勢力は一杯ありますから、この際どこがという考えは脇に置いてもいいんじゃないかと思います。肝心なのは、この状況をフィラントも望んでいるのか、望んでいないのか、という点です。望んでいるなら切り捨てるという話は現実的です。上手く利用して優位を取れるよう立ち回るのが一番でしょう。ですが、望んでいなかった場合」
リリーナさんが顔をあげて、縋るようにこちらを見ています。
私はあくまで可能性の話をしているだけなので、そう味方に思われても困ります。
故郷を追われたとはいえ、道中酷い目に合わせてきたのはこちらの人たちで、特別恨みはありません。ただ、私はハイリア様の名代としてフーリア人寄りの立場を取っているので、それ以上の決断をすることが出来ません。
内心としては、力になれたらいいとは思いますが。
「もしフィラントが何らかの介入によってホルノスとの関係を脅かされているのなら、これを切り捨てるのはホルノスにとって千載一遇の好機を逃すことになります」
「うん、そうだね。状況から出来る事は限られているし、軍事的な同盟を結んでいない以上こちらから戦力を送り込むことは領土侵犯にもなってしまう。あくまでフィラントからの援軍要請があった場合に限り、ホルノスは戦力を送り込む用意をしている」
「ホルノス王……」
「でもね、リリーナ、その連絡が途絶えていることが問題なんだよ」
復活しかけたリリーナさんの肩ががっくりと落ちる。
結局そこだ。
嘘や疑いがあろうとも、言葉を交わせるからこそ先へ進める。
今の連絡が途絶えた状態というのは、悪化こそすれ関係が進むことはありえない。
式典、祭典、あらゆる手段を以って国内外との定期的な連絡を維持することは、国体を維持する上で決して欠かすことの出来ないことでしょう。
「セイラムとの戦いはあくまでホルノスという国の歴史における過程に過ぎない。勝っても、負けても、相応の形で明日は続いていく。本当に世界が滅んでしまえば分からないけど。でも国を背負ったなら、常にその先を見据えなくちゃいけない。わかる?」
「はい……」
自分は武人であるとして、こういう話には関わってこなかったというリリーナさんは更に落ち込んだ。
私も同じだ。ハイリア様の名代。その立場に甘えて、決断をしてこなかった。
「私は、私の統治するホルノスにはフィラントが必要だと思ってる。そしてフィラントにとっても、ホルノスは必要になってくる。仮に他国と協力関係を築いて、重要度が下がったように見えても、ホルノス無しではいずれ立ち行かなくなる」
そうでは、ない筈だ。
やりようはある。
思いながらも、彼女の言葉を否定できない。
何故なんだろう。
これが違いなのか。
足元でちょろちょろしているだけの私と、頂点に立つ王との、決定的な違い。
なぜ、そこまでフィラントとの関係に拘るのかは分からない。
別の手段で似たような利益を得ることは可能な筈だ。
ここまで考えている彼女が、別の手段を思いつかない筈はない。
「リリーナ」
ホルノスの王が言う。
「今日の会議を以って、対セイラムへの戦略は一元化された。もう、貴女がここに居る意味は無い」
「っ……」
青褪める彼女に構わず、堂々と続けた。
「だから、貴女は次に出来ることをすべきだと思う。私は貴女の王ではないから命令は出来ない。だけど、友人として助言をするくらいは出来るよ」
「ルリカ様……」
「ここに留まり、小さな可能性を残し続けるより、貴女自身がフィラント王の言葉を届けてくれれば、事態を一気に進展させることが出来るかも知れない。念話網を再構築するなり、自分の足で王の元へ向かうなり。各地の巫女を貴女なら動かせるでしょう?」
「ですがそれでは、ホルノスの不利益に」
「もうフィラントには頼らない。そう決めたんだから、都合良く連絡手段だけ確保しようとするのは間違いだよね」
それでも反発は必至でしょう。
フィラントへの悪感情を抑えるべく、彼女がずっと耐えてきたのは私も知っている。
「その程度の代償を抱え込めないのなら、事態を打開することは出来ないよ。貴女がホルノスとの良い関係を望んでいるのなら、仮にフィラント王にそのつもりが無くとも説得してくれればいい。こちらの人々を納得させられるだけの言い訳を嘘でも良いから捻り出して、友好を示してくれたのなら、私はそれを受け取るだけの理由を捻り出して貴女を再び迎え入れるつもりだよ」
だから、
「リリーナ。すぐにでもここを発ち、フィラントとの連絡をつけて」
「っ、はい!」
勢い良く立ち上がる様は、やっぱり武人らしい。
決断即行動。気持ちが良いけど、もうちょっと慎重になるべきだ。
「それなら、私からも一つよろしいですか?」
ルリカ様の目がこちらへ向く。
責める印象は無いけど、余計なことだろうかとちょっと冷や汗。
「国境付近の巫女がフィラントへ向かったというのは、王の危機を察してという可能性も考えられます。ですが、その際にこちらへ何一つ連絡を寄越さなかったとは思い難いんです。なにせ国境付近は民衆の感情的にも難しい場所です。迂闊に飛び出すような人物を配置していたとは思いません。なら、連絡はどこで途切れたのか」
長距離での念話は伝言という形になります。
当人同士で話せる訳ではない。
伝えた言葉が、間違い無く相手へ届いているという保証も無い。
そういう不審があるからこそ、好意の皮を被せてルリカ様は巫女をつき返した一面もあるでしょう。
「奴隷貿易では、フーリア人側から売り込まれた人というのも少なくなかったと聞きます。その中に巫女を紛れ込ませ、こちらへ諜報網を築いた組織があるという話、リリーナさんはご存知でしょうか」
「それは……」
ホルノスとフィラントの蜜月を快く思わない勢力は多くあります。
ですが、今の状況を作り出せる勢力となると、実はかなり少ない。
憶測はあります。希望的観測も多い。ですけど、可能であるかを問えば、十分その能力を保有組織がホルノス国内に存在している。
「地下組織カラムトラ。フィラント王の祖父であるオスロ=ドル=ブレーメン氏なら、フィラントの広げた諜報網に介入することも、小国家群との国境で戦闘を引き起こすことも、可能なんじゃないでしょうか?」
※ ※ ※
準備をしますと飛び出していったリリーナさんを見送って、私も席を立とうかと結びの言葉を考えていたら、
「はぁぁぁぁぁぁぁ…………っ」
なんて大きなため息をついてルリカ様が机につっぷした。
よっぽど余裕が無かったのか、脇に寄せていた茶器なんかもうな垂れるまま押し出して、危うく倒れてしまう所でした。
素早く反応して取り上げた給仕の方々は気遣わしげに彼女を見た後、メルトさんみたいに楚々とした表情に戻って下がっていった。
「つかれためんどうくさいだれかかわってはんじゅくたまごたべたいーっ」
とんでもない愚痴が飛び出して私は周囲へ目をやる。
ここに私が居ていいんでしょうか。なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまった気が。
挙動不審になっているとがばりと顔をあげたルリカ様が半眼でこちらを見て、可愛らしく「うーん」と唸る。
「くり子なら入れ替わってもバレないんじゃないかな」
「いえ、私さすがにそこまで小さくはないので」
つい反射的に反論してしまった。
ひぃっ打ち首獄門!
「カラムトラについてどこまで確証持ってる?」
しかし私の言葉はあっさり流され、また突っ伏しながらも真面目な話を振ってきました。
「証拠と呼べるものはありません。私が触れることの出来た情報の中では最も可能性があったというだけです。少なくともフーリア人による何らかの組織が関与している可能性は高いと思います」
リリーナさんはどうも何かへ集中するとうっかりする所があるようなので、脅しの意味もあって言ったんですが。
「そっかぁ……そこまで頭回ってなかった」
「え、そうなのです、か?」
意外だ。分かってて黙っていたのか、私が言うと思っていたのか、なにか意図があるものだと思ってたけど。
「……他に考えることいっぱいあるから。方針はともかく、多くの人からすれば国営として考えた時に、現時点でのフィラントの優先度は低い。どちらでも対処出来るよう準備もしてきたけどね」
「陛下は、フィラントとの関係に、その……」
「はっきり言っていいよ」
「はい……フィラントとの関係に固執しているのだと思っていました。何か理由があるのだろうと」
突っ伏した彼女は少しだけ顔を傾けて、片目で私を見てくる。
リリーナさんが同席していた時は凛々しさもあったのに、今は眠たそうな印象が強い。
実際、寝ていないのかも知れない。内乱の時からすごい隈だったけど、今は更に濃くなってる気がする。お化粧なんかで顔色良く見せてるのは女同士なら分かる。さっきの会議でも基本的に彼女は外部の人と距離があるから、ここまで近寄らなければバレないんだろう。
再び伏せ、やや篭った声で、暗闇で形を確かめるような慎重さで彼女は言った。
「国とはミームの媒介物」
浅いため息があり、異様に響くその言葉を私は上手く処理できない。
「……ミーム、というのは?」
「しらない?」
「はい」
「私もいつから知っているのか良く分からないけど、気が付いたらそういうものだと考えてた。前にハイリアと話した時、ぽろって零れるみたいに出てきた言葉だよ。最近は国ではなく、王国、あるいは……それに準じた絶対者の存在する集団、という視点に絞って考えてる」
噛み締めて、理解しようとはした。
だけどまだミームについては分からない。
待った。
待って、考えて、そして、
「それは思想、ですか?」
言うとルリカ様は弾んだ息を吐いた。
笑った、のかもしれない。
「すごいね」
伏せていた顔をあげ、真っ直ぐにこちらを見詰める目がある。
あの、強烈な意思を感じられる目だ。
私には足りない、絶対者の目。
彼女以外のものを知るからこそ出た言葉だったけど、
「でも、正確じゃない。私が見ているものはそれで合ってるけど、ミームっていうのはもっと広範で、漠然としたもの、なのかなぁ」
説明しようとすると詐欺師になったような気分になる、とは言ったものの、本人も消化し切れていない様子。
けれど何かの確信を持って、言葉を続けた。
酷く、静かに響く声で。
夏に吹く極北の風のように。
「王は王の血を伝える。貴族は貴族の血を。そういう物理的な血の繋がりとは違うけど、血統というありもしないものに媒介される貴種という意味、概念のようなものをよく考える。どこどこの一族だから高貴で敬わなければいけない、とは言うけどさ、能の無い貴族って結構居るよ」
冷や汗が流れた。
私はこの後始末されてしまうんじゃないだろうかと思えるほどに、今の発言は色々と拙い。
王が自ら血統をありもしないとか、能無しとか、貴族社会を揺るがしかねないほどの発言だ。
いや、と考える。
こういう場所で働いているからか、まことしやかな噂というのは耳にする。情報収集も仕事の内だ。その一つに、怖ろしい話もあった。
今目の前の少女が、本来の王の血を受け継いでいない、という話。そもそも先王ルドルフ陛下が偽王だったなんて言われていて、いやいやそんなと思ったものの、そういう前提があるからこそ今の発言に繋がったのかと邪推してしまう。
とにかく否定も肯定もしない。
話を聞くだけ。
聞いて、絶対口外はしないでおこうと決める。
そんな私を読み切っているのか、ルリカ様はくすりと笑う。
「物質として存在していないもの。集団の中で、無いけど、在ると思われているもの。人間という思考する生き物が子々孫々と伝えていく、意味とか印象とかいう情報。この虫がきもち悪い、この動物が可愛い、っていうのもミームの一つ、じゃないかな? 親や友だちと共感し受け継いだ印象だからね。他には風習だったり慣例だったり、寝物語だったり。語り継がれるからこそ、それは存在し続ける」
あ、と繋がった。
「陛下はホルノスという国、あるいは暮らす人々の中になんらかの印象……思想を植えつけたいと思っているんです、か?」
発言してしまったと思う。
聞くだけだと考えていたのに。
でも結構面白い考え方だ。
そんなものもあるんだなぁと感心してしまう。
変な危機感さえ無ければもっと聞きたいくらいだ。
間にハイリア様さえ挟まっていればもっと話せたかもしれない。
「羅針盤は世界の姿を解き明かし、黒色火薬は人の力を拡張した。活版印刷は、なんだろうね?」
大昔、印刷技術の無い時代に本というのは金持ちの道楽だった。
自伝とか、研究記録とか、歴史書であったりとか、自分で作って保存する為の道具でしかない。
娯楽小説なんてありえないものだった。吟遊詩人や教会の講談師が口伝するものが精々で、内容も正確には記録されない。
紙もインクも高額だし、そもそも消費する人が少数で金持ちだけだから、必然的に値が下がらない。
人へ伝えることを目的とした聖書ですら装飾的で、権威を示す形であろうとしていた。
だけど活版印刷が余に出始めてから本が庶民の手にも届いて読まれるようになった。
私も幾つか持っている。貧乏で、教会のおかげで生きてるような小娘でも買える値にまで下がってきた。実は、かなり無理をして買っているし、ハイリア様みたいに新品は手が届かず粗悪品ばかりなんですけど……。
人は本を読み、知識を得る。
得た知識は世界をより鮮やかに見せ、可能性が広がる。
貧民が、ただの貧民ではなくなる。
考えるということは誰にでも出来るからだ。
得手不得手はある。でもぼろぼろの本一つから文字を覚えたみたいに、知った言葉から思想を生み出す人は現れる。その機会が増える。圧倒的に、数千数万では効かないほど機会の中で、誰かが気付く。
たった今、王の口から漏れた言葉とまったく同じものを。
まるで違う感情や思惑で以って、生み出してしまう。
「セイラムの思想は世界を変えた。教義という形で縁を作り、それを辿って歴史を導きさえした。思想は世界を変える」
じゃあ、王政も。
急激に怖ろしくなった。
この話題がじゃない。
自分の寄って立つ何もかもが、瞬く間に崩れ去ってしまうような恐怖だ。
今まで私は本を娯楽として捉えてきた。
最初は生き残っていく為の知識を得る為に。だけど愉しみを見出していたのも確かで、こんな大きな変化を与えるものとは考えたことがない。
だけどそうだ。
シンシアの戯曲によって、ホルノスは反フーリア人思想を変えようとしている。
それだけに頼るつもりはないでしょうけど、力があるのは間違いない。
物語というのは仮想という建前があるからこそ、容易く人の思考へ影響する。
生活や生き方を完全に変えてしまうのは難しくとも、考えもしなかった方向への突破口は作れてしまう。後は、当人次第。でも時にその背中すら押して、現実に反映させてしまうということは起こり得る。
かつてハイリア様が私たちの背中を押したように。
ビジットさんがあの内乱で見せ付けたように。
感動は、あるいは恐怖や嫌悪感は、十分に人を変え得る。
本というものはそれが出来てしまうんだ。
山ほど本を読み、溢れるほどの思想に触れればまた変わってくるだろうけど、まだまだ言葉に触れるということに慣れていない大多数は劇的な反応を起こしかねない。最たるものとして、様々な演出が織り成す劇があり、簡素化された本とも言える新聞がある。文字を読めない層はまだまだ多いけど、ミッデルハイムでは本を読み聞かせるというような場が立つこともあるんだ。
識字率は今後確実に向上していく。
一度市井へ降りた知識というのは簡単には消せない。
王ですら、この流れを止めることは出来ないのではないか。
あふれる熱をそっと放つ。
ため息を。
吐き出さなければ頭が沸騰してしまいそうだ。
いい。掘を埋めるための遠回りは脇へ置こう。繋がらない言葉を、その隙間を埋めていこう。大昔にやってきたことだ。意味の分からない図形に意味を見出し、音と照らし合わせ、解いていく。
「それが、貴女が王である意味だと……」
私の言葉に彼女は少し寂しそうに笑った。
活版印刷は、言葉の伝達と定着を加速させるその技術は、いずれ王というミームすら彼女から剥ぎ取ってしまうのかも知れない。
この人はそれを分かっている。分かっていて止めようとはしない。だけど、だからこそ今も王で在り続ける意味を考えている。
あの内乱で政治の形を変えていくことが出来たのに、本質的な構造は宰相の時代とそう変わっていない。
先王の時代から宰相との癒着が強かった貴族から、これまで外様に置かれていた北方領主たちへと権力が移り、利益が拡散した程度。
他国から出された新聞の中には、あの内乱が貴族らによる権力闘争だったとする説まで出ているくらいだ。学生らの存在も、率いていたのはウィンホールド家の娘。ハイリア様だって世間的にはまだまだ貴族の扱いは変わっていない。
王政という本質、絶対者による支配は継続された。
気付けば周囲の人たちが薄く笑いながら、やっぱりどこか悲しそうにしていた。
内乱当初、王は幽閉されていたという。
味方は殆ど居なかった筈だ。
ハイリア様が助け出し、そこから広まっていったという印象がある。
でも今、誰もが彼女の声を聞き、理解をし、従っている。
「別にホルノスが終わるなんて思ってないよ。変化の加速は私でも思いつかないような新しい解決策を導き出すかもしれない。その中で、王という存在に全く別の価値が見出されるかもしれない。逆もあるけど、最初から駄目になるつもりで上になんて立ってないから。ギロチンは嫌だし」
聞いていて、ようやく繋がった。
今の話と、フィラントへの対応。
繋がらない筈の、不合理とも呼べる行動が、繋がった。
「リリーナさんには頑張ってもらわないとですね」
「そうだね。うん、くり子を見てて思いついたんだけど、やっぱりアレ、使おうかな?」
「あー……確かにいいかも知れません」
アレ、という呼び方には引け目を覚えますけど。
「失敗した時の反動はあるだろうけど、修正も出来る。成功した時は強引に進める理由を作れると思う。どうせ今は使い処が無いんだし、悪くないかなって」
「問題はオラント様でしょうか。色々とやりたいこともあったみたいですし」
「そこはなんとかする。でもやっぱり急いでて良かった。貴方たちには感謝してる」
「あとはクレアさんも」
「そこはなんとかして」
「あ、はい」
という訳で、リリーナさんへ更なる援護を差し出すことになった。




