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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第五章(上)

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199 断章 ハイリア 2


 雫が頬を打ち、口元へ流れ込んでいく。

 些細な感触、たかが蜜の一滴に過ぎないのに、なぜか頬を張られているような印象を受けた。

 早く起きろ。いつまで寝ているんだと、僅かな年齢差を振り翳してふんずり返る少女の姿が頭に浮かぶ。


 どれほどそうしていたのかは分からない。

 人として持つ熱のすべてを失って、動くはずの無い身体を引き摺って歩き続けた無限の果てで、ようやく出会えたセイラムを前にしながら、俺は言葉も無く、意思も無く、倒れ伏しているだけだった。

 僅かでも思考を働かせるようになったのは、口の中が異様に甘かったからだろう。

 溜まった蜜が舌の根へ達した時、ようやくソレが食物であることを思い出した。 


「……っ、ん、っ」


 甘い、花の蜜を飲み込む。


 それだけで喉が焼かれ、胃が役目を思い出し、腹の奥から前進へ熱が伝わっていった。


 思えば食事なんて随分と摂っていなかった。

 ここが仮想の世界に過ぎないのだとしても、身体が動くからと食事も摂らないのでは動けなくなるのは道理というものだ。


 変に意地を張った弊害、とは思いつつも、用意されるまま温かな場所に腰を落ち着けて一時の安寧を得ていたら、それもまたいずれ動き出すことの出来ない安らぎとなっていたかもしれない。


 あの冬の荒野を歩き続けるには、人の心は邪魔過ぎる。


 やがて、俺が蜜を飲んだからか、花びらが瞬く間に枯れてしまった。

 残る茎を大きく広げ、葉を生やし、枯れ落ちて、また葉を生やしては枯れて落ちてくる。

 止め処無く降り注ぐ枯れ葉の布団に包まれて、ようやく、素直に受け入れることが出来た。


 あぁ。


 温かい。


 僅かに熱を帯びた弊害か、骨や肉の冷たさに身が震えて仕方なかったが、朽ちて尚も熱を宿す命に包まれて、そっと息を落としていく。


 そういえば、眠るのも随分……久し、ぶり……だ……。


    ※   ※   ※


 夢を見た。


 些細な幸福を得た夢だ。


 少女が、少年の怪我を治して感謝されるという、本当に他愛も無い内容だった。

 少年はこの世にも捨てたものじゃない人間が居るのだと希望を持てたし、少女は小さな反抗の成功とそれ以上に大きな満足感を得ていた。


 やがて少年は間違いを犯す金持ちから金品を巻き上げて人々へ配る義賊となる。


 さしたる意味の無い、暴力を糧とした自己満足であることを理解しながらも、何かもっと変えていくことが出来ないのかと思い悩む。

 頭の中にあるのはいつだって優しくしてくれた少女の姿だ。あんなにもまっすぐ人を思いやり、当たり前に誰かを助けようと行動出来ること。それは奇蹟のように美しく、生涯辿り着けないのだろう景色に思えた。


 一方で少女も停滞を経験した。

 見知らぬ卑賎な少年に接触したというそれだけを理由に両親は彼女を家の奥へ閉じ込め、時に厳しさと優しさと愛情を以って躾けたのだ。

 少女が納得し、認めるまでそれは続いた。両親は娘の危険な振る舞いを諌めることが出来たのだと安心する。けれども少女は何ら改心などしておらず、ただ愛情を以って人を偽るということを覚えただけ。

 少年を助けたこと、それがどうしても間違っているとは思えなかった。

 なのに世界は間違いだと言う。理由は人それぞれで、時に優しさや思いやりが理由であったりもした。



 やがて――――少年と再会した少女は、過去に得た些細な幸福を胸に世界と向き合っていく。



 そこから続く馬鹿げた話も、信じがたいほどの行動の理由も、結局はこの一事へと収まっていくのだと、ようやく気付く。


 セイラムは、自分が勇気を出して踏み出した一歩を受け止め、感謝してくれた少年の笑顔が忘れられなかった。


 嬉しくて、愉しくで、夜思い出すと興奮して眠れなくなるくらい、他人から見れば滑稽ですらあったかもしれない幸福。

 そういうものなのだろう。


 プロフェッショナルと呼ばれるスポーツ選手たちの全てに、誰もが納得するほど完璧で劇的な、それを続ける理由があった訳じゃない。きっと、何かを続けていくのにはとても些細な思い出があればいい。小さく踏み出した先で、当たり前の一歩を進んできた先で、成功した、認められた、そういう当然のようで得難い、小さな切っ掛けだ。

 その一事でハマる。

 キツい練習だって、面白くも無い基礎だって、腹の内が焼けるような悔しさだって、越えていける。

 またその一事を得る為に。その一事を越えて行く為に。

 時に人生を捧げて。

 自分の身が壊れても尚、目指し続ける。


 途方も無い規模を前に見失いかけていた、当たり前の感情だ。


 俺が皆の前で意地を張って、恰好を付けるのと変わらない。


 ジーク=ノートンとの総合実技訓練へ向けて、多くの力を借りながら準備を整え、最後には支えられつつ勝利した。


 俺はそれが嬉しかった。

 夜中に目が覚めて、皆がそこらへ転がっている姿を見た時の胸の温かさは今でも覚えている。

 彼らが、彼女らが、俺を長と認めてくれている。だからそう振舞うことの誇らしさが堪らなく好きで、何度も何度も頑張ってこれた。


 初めてメルトと会った時、彼女に降りかかる理不尽が許せなくて、涙を滲ませながら治療をした。

 ハイリアという男の積み重ねてきた結果の権力が支えではあったけど、血の滲んだ肌を懸命に拭い、包帯を巻いて、彼女自身からも感謝されたことは、やっぱり嬉しくって、達成感があったんだと思う。彼女のような人が奴隷であってはならない。人を売り買いするのは間違っている。それは俺という意識を構成する様々な人の中にあっただけのものかも知れないが、今の()にとってはあの場でこそ完成された価値感なのだ。


 かつて、ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト女王陛下は仰った。


 『都合が』良い。

 『都合が』悪い。


 相対的であり、主観的である正義と悪をここまで分かり易く示した言葉は中々無い。


 フロエ=ノル=アイラを救うという理由の元で繰り広げられた戦いを、あらゆる側面からも肯定していく手段はない。


 彼女自身にすら拒否されていたにも関わらず、これこそが救いだと規定して、押し付けてきた。

 それは、俺が否定した()()()()という男の手段と何ら変わらないのかも知れない。


 それでも、俺は彼女を救いたいと思う。

 この手で救われた物語を描きたい。


 エゴの塊みたいなものだ。


 でも、もう止められない。


 ハマる、なんて言葉で表現したくはないけど。

 間違いを孕んでいようと、悪と呼ばれる事があろうと、俺の想いは変わらない。


 あの月の夜に誓いを立てた。


 自分の想いなんて添え物に過ぎない。


 ジーク=ノートン。

 フロエ=ノル=アイラ。


 俺が憧れて、心底ハマった物語の主役であるお前たち二人には、どうしたって幸せになってもらいたいんだよ。

 大好きな主人公で、大好きなヒロインだったんだ。


 そりゃ、幸せなエンディングを見たいって思うじゃないか。


 今なら本当に、友人と呼んでもいいかも知れない二人。

 彼と彼女が犠牲にならないで良い未来を。


 その先でこそ、ようやく俺の物語を始められる。


 自分自身の幸福を求める、旅の始まりを。


    ※   ※   ※


 カフスボタンの付いた袖口を留め、腕を伸ばす。

 ほんの僅かに張る感触があるのは胸元と背中だ。不快ではない。姿勢を安定させてくれる基準にでもなりそうな締め付けで、感覚は緩めの和服に近い。アレは背筋を正し、正座をした時に美しい姿勢を取れるよう設計されているものだ。洋服、それもワイシャツの類は椅子へ座ることが前提に作られているので正座よりは余裕がある。

 昔、義父オラントが相手の振る舞いを指定したい時は服を贈るのも手だと言われたことがある。

 衣装とは役と同じだ。担うべき役割に応じた衣装を着れば、人は自然とそこに収まっていく、のだとか。


 首元へ手をやり、指を這わせて整えていく。

 少し崩し、タイで調節する。

 これからするのは決まりきったこととは外れるから、崩れているくらいでちょうど良い。


 裾にしわは無く、二歩三歩と動いてみて様子を確かめる。

 靴も磨き上げた。運動するには向かない硬質なものだが、硬い足音がそれらしくて気に入っている。

 姿見は無く、自分一人で着付けたから少しズレているようにも思う。ま、メルトも居ないんだから仕方あるまい。


 久しく着ることのなかった貴族の服装だ。

 衣の上から権威を纏う。市井へ降りてからはラフな格好ばかりしていたから、やっぱり気持ちが引き締まる。

 結局逃げだったのか。爵位を失い、曖昧になった自分の進路にかまけて気を抜き捲くっていた。それは皆との距離が縮んだことによる嬉しさや緩みもあったのだろうと思うけど、どこか一歩離れた位置から政局を見て、責任と呼べるものからは遠ざかっていた。

 最後のモラトリアム、そんな言葉だけでは陛下の苦悩に言い訳出来ない。


 そういった後悔と反省を内に秘めながら、衣で覆い尽くして俺は立つ。


 ここは夢の続きなのだろうかと考えた。


 なにせ望む物が自在に手に入る。

 そこらの木箱を開ければ見覚えのある私物なんかも出てきて、ついつい探し物を忘れて眺めたりしてしまった。

 全て俺の記憶を読んだセイラムが配置したのか、あるいは彼女か、俺自身が想像する事で形にしているとも取れそうな環境。

 今はまあ、いいだろう。


 俺は身嗜みを一通り整えた後、分厚い石の階段を登って行った。

 緩く曲がりながら続く石階段からは内海を望む港町が見え、温かな潮風が時折身体を押し出すように強く吹き抜けていく。

 危ないな、と思わなくも無い。なにせ石階段には手すりがない。端から下を覗けばさぞ肝が冷えたことだろう。

 やがて階段の先に見えてくるのが例の会議室だ。

 正直言って、子どもの秘密基地にも思える。

 丘の上、海を望むようにして作られた石造りの小屋は、利便性とはかけ離れているし、しかめっ面の大人たちが集まるには少々開放的過ぎる。


 セイラムとその仲間たちが集まり、悪巧みとも呼べる計画を話し合っていた場所。


 いつもここでとはいかなかったのだろうが、まだ平和と呼べた時代をここで過ごし、思い出深い場所となっていたのは間違いない。


 なにせ、抜け殻のようになったセイラムが居場所として選んだのがここだったのだから。


「失礼する」


 扉すらない小屋の中へ入ると一番に目に入る。

 大きな石窓へ腰掛け、どこを見るでもなく外へ視線を向けている女。

 極めて精巧に作られた人形と言われた方がまだ納得の出来そうな姿に、強い違和感を覚えると当時に、やはり納得してもいた。


 ちらりと、入り口脇の壺に枯れ葉が収まっているのを見る。

 散らかしているのもなんだなと掻き集めて収めたのだが、いつの間にか花そのものが消えてしまっていて、何無駄なことやってるんだとつっこみを受けたような気がする。感謝しているんだから、素直に受け取ってくれてもいいと思うんだよな。


「セイラム」


 呼びかけに女が反応した。

 あんな人形のようになってまで、まだ彼女は動き続けられるのだ。

 俺が体験した数年か十数年か、あるいは数ヶ月にも満たない時間など及びもつかないほどの永きを越えてきた。


 流れる髪が目元を隠しても、それを気に留める様子もなく見詰めてくる。


 色の無い眼を虚などと称されることもあるが、彼女のソレはただただ鈍いだけなのだと、今ならば分かる。

 慣れすぎて、疲れすぎて、動かす気力が残っていない。


 ガラスは液体だと聞いたことがある。怖ろしく高い粘度によってゆっくりゆっくりと動いているのだとか。何十年も前に作られたガラスのコップの底が分厚かったり、妙に波打ってるような形に変形しているのはその為だとか。


 セイラムの瞳はガラス製なのかもしれない。

 動きの読めない、止まって固まっているようにも思える瞳だ。


 それは、美しいと、そう思う。


「話をしにきた。今度こそ、俺の話を聞いてもらう」


 ゆっくり、ゆっくり、こちらを向いた彼女が口を開いていく。

 人形のように固まっていた唇が、声を発し、


「…………………………」


 発し。発し、


「……………………………………………………………………………………………………………………――――」


 待てど暮らせど発しなかった。


 むぅ。


「セイラム。その……」


 いや。


「俺は」


 言いかけて、口を噤む。


 口を開いたままのセイラムが、再びゆっくりと首を傾げた。

 目元へ掛かっていた髪が顔を半分隠すほどに流れ落ちてくるが、それを払い除ける様子もない。

 どころか、口元へ掛かった髪が風に吹かれて中ヘ入り込むや、


 あむあむ、あむあむ、と赤ん坊みたいに食べ始めた。


 そっと顔を背けて額に手をやる。

 身嗜みを整えて、過去とか色々に反省とかして気合を入れ直してきた訳だが。


 あむあむ。


「っ、喉に絡んでしまうから、それはいけない」


 つい、近寄って食べていた髪を引っ張り出してしまった。

 取り出した手拭いで髪を拭き、裏を返して口元を拭く。

 ぞっとするような肌の冷たさには躊躇したが、一度始めたことはやり通そう。

 状況を理解していなさそうな眼がじっとこちらを見て、されるがままになっている。

 改めて見てもガラスのように透明で、硬質だ。これでもホルノスの中央で多少は揉まれてきたつもりだが、何を考えているのかさっぱり読めない。

 女性の髪へ触れるのは無遠慮と思いつつも、このままでは良くないと思い髪を後ろへ払って横髪を纏めた。髪留めは昔アリエスへ贈ったものが出てきたので使う。窓の外へ回り込む訳にはいかないし、流石にがっつり整えたりはしなかったから髪を編むほどには触らない。ただ、華やかな色の髪留めを後頭部に付け、横髪をそこへ纏めただけだ。


 改めて口元を確認して手拭いを取り出し、そして――――滴が頬を伝っていることに気付いた。


 美しい、世のあるがままを映す瞳から流れ落ちる涙。


 それを拭うべきなのかと、妙な動揺と共に悩んだ。


「何故泣く」


 問えど、答えはない。

 期待してもいなかった。


 かつてヴィレイと共に現れた彼女は、別れの間際に俺を見て、かわいそう、と呟いた。


 上手く進めどセイラムを打倒すれば消滅、失敗しても()()()()によってセイラムが討たれれば消滅。

 どん詰まりに陥った俺は自分とメルトの死を受け入れることで先へ進もうとしたが、それも今となっては受け入れ難い。決意はした。失わせたくないと思えた。だが現状はまだ何も変わっていない。


 俺が、メルトが生き残るには、セイラムの存在が不可欠だ。

 けれど、ただ隷属してはフロエが犠牲になるか、ジークが犠牲になるか。


 助けを請うつもりはない。

 

 彼女の根源は知った。

 それ故に時間という神の領域にまで手を広げ、何もかもを守り通そうとする様を今は頭ごなしに否定は出来ない。

 誰かの為に。そう出来る自分にも満足があり、好くなっていく世界に熱を灯していられたのはいつまでなのだろうか。


 セイラムは紛れも無く世に救いをと思って行動したのかも知れない。


 だけど土地が違えば価値観は違う。時代を巡れば同じ土地でもまるで変わってくる。人の数は膨大だ。小さな国一つに百を越える民族が混在していることも少なくない。民族それぞれに文化があり、価値感があり、死生観がある。それらが広大な世界の中で日々ぶつかり合い、混ざり合い、考え方を変えていく。どれだけ強大な力で覆いつくしても、そこに息づく人々を死滅させようとも、時に人は歴史を掘り起こして再生させる。

 所詮、人一人がどれほど公正であろうとしても、すべてに対応していくことなど出来る筈もない。

 神の力を以ってしてでも、やはり不可能だった。


 足掻き、もがいて、必死に縋り付いてきたのだろうか。

 やがて最初の想いすら枯れ果てて、あの冬の荒野を黙々と進み続けたのか。


 涙を拭う。

 触れた指が焼かれたように熱くなった。

 こんなに冷たい身体なのに、涙だけはこんなにも熱い。


 ふと気付けば、彼女の手が俺の手を掴んでいた。


 無造作なつかみ方だ。

 子どもが積み木を取るような、なんの警戒も無い動き。


 触れた手の部分から熱を吸い取られているようにすら感じる冷たさがあり、俺はそれをそっと包んで彼女の膝元へ添えて、手放した。


 また、長く思い悩んだ。

 言うべきなのか、これが正解なのかと不安が過ぎり、後悔するだろう未来すら予測して、けれども。



「認めるべきだ。貴女一人では、もう世界を救済することなど出来ないと」



 これが最初の言葉。

 交渉はここから始まる。


    ※   ※   ※


 もう手遅れなのかもしれない。

 時間はとっくに過ぎ去っていて、セイラムはこれまでと変わらない日々を送っているだけなのかも。


 でも、続けていこう。


 何もかもが終わっていようと、先が拓けたなら始めていける。


 どういう結果になるかは分からない。

 やぶれかぶれにはなっていない。


 ここから、始めるのだ。


 なあ、皆。


 俺はようやくここまできたよ。


 皆は、どうしているのかな?





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