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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第五章(上)

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198 断章 ハイリア 1


 踏みしめた足の裏で雪が音を立てる。

 キュ、と表すればいいのか、ギュ、と表すればいいのか悩む所だ。

 足元という多少離れた位置で聞いているからやわらかい音にも感じるけれど、間近で聞けば締め付けられるような印象が湧いてくるようにも思う。


 どうでもいいことだ。


 なのに頭は度々どうでもいいことに流れていく。


「はぁ……」


 冷たくなった手の指先を温めるように白い息を吹きかけるが、芯が冷えつつあるのだからまともに温まるはずもない。


 おそらくここがセイラムによって管理された場所でなければ、俺は凍傷になって指先や手足を切り落とさなければならないほどの状態に陥っているだろう。しかしこのセイラムによって作られた箱庭では、汗によって靴下が凍りつくことも無く、空腹や凍傷などによって行動不能に陥ることがない。寒いという感覚だけがあり、肉体は冷たくなり、それに伴う感覚の鈍化はあれど機能障害と呼べる状態には陥らない。


 そもそも俺は肉体ごとこの場に居るのだろうか。


 違う、と思う。


 何せ最初も最初は肉体すらなく、五感を失ったままセイラムやジルの記憶を閲覧していたのだ。その後になって何とか自分を保つ為の境界を獲得し、それが肉体という形をとった。これでセイラムの作った異世界へ放り込まれて法則ごと創造中だ、などと言われればお手上げだが、最初に見えたものを思えば可能性は低い。低い、と思いたい自分を感じながらも、やはり違うのだと思っている。


 どちらにせよ俺は捕らわれの身だ。


 デュッセンドルフで発生したセイラムの眷属らによる奇襲。

 ジル=ド=レイルの撒き散らされた因子より生じたと思われる魔術を使う異形の獣達。そして四柱。『剣』の術者については不明とのことだが、『盾』にはヴィレイ=クレアライン、『弓』にはティリアナ=ホークロック、そして『槍』には、俺という意識に取り変わられることのなかったハイリア=ロード=ウィンダーベルが顕現している。

 その()()()()より申し込まれた決闘が有耶無耶になった後、奴の繰り出した高高度からの破城槌降下、それを打ち破るべく切った札が、まさしくセイラムへ俺はここだと自ら引き寄せるものであった為に、成す術無く呑み込まれてしまった。


 あの時の感覚はよく覚えている。

 初めてだったのならともかく、アレは内乱の最中にも一度経験している。

 比較にならないほど強力ではあったが、やはり肉体ごととは思い難い。


 どちらにせよ俺は実体を伴わない、指向性された意識の集合体という話だったから、肉体が残ろうと関係は無いのかもしれない。


 現状、この思考に大した意味は無い。


「全く」


 どうでもいいことにばかり頭が向かう。


 というのも、この終着点も見えない雪原が原因だ。

 全身が凍りつきそうなほど冷え切っていることなど大した理由にならない。


 もう何日、どれだけの時間を費やしたのだろう。


 この世界には昼が無かった。

 雪は降ったり止んだりを繰り返すが法則性があるでもなく、また歩む先に見える塔とはまるで距離が縮まっていない。

 俺だって訓練で長時間のランニングを行ったりする。習慣と照らし合わせれば体感時間でどのくらい経過したかをざっくりと測ることは出来るし、走った分だけ縮まる距離というのも分かるものだ。それだけに今のこの状態は解せない。進んでも進んでおらず、体感時間はあっても時の経過が目で見て取れない。


 休む必要は無く、食事も不要で、当然睡眠だって取っていない。

 意識は覚醒している。凍傷にならないのと同様に、不眠による意識の混濁なども見られない。


 いや認めてしまおう。


 俺の感覚では既に一ヶ月もの時間が経過している。


 焦るなという方が無理だ。

 元よりセイラムとの決戦は夏季長期休暇に入ってからという話だった。

 ティア=ヴィクトールによる封印が持つ限界点、そこを最終地点とした計画が立てられ、ホルノスは動いていた。


 あれはいつだ。

 俺が意識を失った日。

 そこからどれほどの猶予があった?


 新学期が始まり、程無くして鉄甲杯の開催が喧伝され、セレーネを始めとした新設の部隊を編成し、大会を勝ち抜いた。大会は雨季を避けて開催されたが、ヨハンとの準決勝では大雨に晒された。春が終わり、夏に入り始めた頃。ここでの時間と向こうの時間が同期していた場合、既に手遅れという可能性だってある。


 だから進む。

 最初はセイラムの用意した防寒具や食事などを受け取っていたが、途中から軽装になって食事も摂らなくなった。

 寒いは寒い。空腹であるかは別として、習慣としての食事を欲する気持ちもある。正直に言えば、辛い。

 だが無駄な時間を過ごしている余裕など無い。無い筈なんだ。


「はぁ……」


 ため息が多い。どうにもならない。所詮ルールを決めるのは相手だ。俺はそこで転がされる、弄ばれるだけの愛玩人形と変わらない。勝手に塔へ向かうと言って、ついたら話をさせろと言い張った所で、セイラムが了承しない限りは延々と雪の中を進むしかない。絶対に扉まで辿り着けない、無限の回廊を進むように。


 無為の繰り返しは拷問になると読んだことがある。


 今の俺はまさしくそれだ。


 意地を張って進み続けているが、それが意味あることとは思えなくなってきている。

 セイラムがずっと俺を監視しているとも思えない。彼女が片手間で無限ループに閉じ込めているのなら訴えることさえ無駄になる。

 いっそ凍り付いてしまえば、あるいは自傷行為に走るなどして気を引けば……自棄になりそうな自分を何度叱り付けて奮い立たせたか。


 困難があれば乗り越えられる。

 終着点さえ分かっていれば、そこにどれほどの時間が掛かるかはわからないが、いずれはと言い張っていける。


 だがここには何も無い。


 時折思い出したように宿が建ったり、かまくらがあったり、謎の扉が出現したりもする。

 念の為に内部を捜索してみたが、セイラムが待っているということもなく、ただ俺が安心して休める場所を提供してきているだけなのが分かった。寝台には、一度も身を横たえたりはしなかったが。


 終わらない道程、無為の時間、そこを進み続けるしかないという無力感。


 それを、体感時間で一ヶ月は味わい続けた。


 屈するものか。

 思い通りになって堪るか。


 意地を張って、張り通してここまできた。


 だが今、ここまで来て、タイムリミットを迎えようとしている。


 時間が正確であることが問題なんじゃない。

 ただセイラムとの決戦には間に合わせるぞという気持ちがあったればこそ続いていた無理が、ここへ来て致命的なほど心を蝕んでくる。


「セイラム……」


 応じる存在は居ない。

 ここには居ない。


「セイラム!」


 ここに居ない彼女が何をしているのか。


 人が自分の思いたい理由ばかり見つけるように、嫌な予想を実感させるものにばかり思考が向いてしまう。

 焦るなと引き留めても、大丈夫だと落ち着こうとしても、この永遠に続く無力感の前にこぼれ落ちていく。僅かであろうと、留まることもないのだとすれば、いずれは。


「…………ははは」


 真っ暗な空を仰ぎ、漏れた笑いに心が引き裂かれていく。


 何も見えない空だった。

 星も、月も、なにもない。

 孤独の世界があるとすれば、こういう空をしているんだろう。


「…………」


 目を閉じる。

 息を抜いた。


 そして、


 息を吸う。

 目を開けた。


「さあ行こう」


 前を向き、進み始める。


 それしか知らぬ者になろう。

 それしか出来ぬ者になろう。

 ここが無限の回廊であるのなら、都合良く先へ進めるギミックがある訳でも無いのなら、俺はそうする以外に術を知らない。


 何ヶ月でも、何年でも、何十年でも、続けてやる。


 だが、

 だが、


 心は竦む。


 決意の隙間からこぼれ落ちた弱気が、過ごした日々を思い起こさせる。


「あぁ……皆に、会いたいよ」


 雪原はただ、俺の前に佇んでいる。


    ※   ※   ※


 更に一ヶ月が過ぎた。

 あくまで体感時間だ。

 こんな所に居ては正確性を認めるのも馬鹿らしいものだが、終着点の見えないこの時間において、経過を感じられる部分は非常に重要だ。


 数を数えるのは単純ながら有効性が高い。

 一歩二歩三歩。

 あるいは秒数でもいい。

 一秒二秒三秒。


 無為であろうと、心の中に降り積もらせた成果を抱いて進んでいく。


 同時にセイラムを恨んだ。

 対話を求める気持ちは変わらないが、この理不尽さを恨み、怒り、原動力とした。

 何を言ってやろう、どんな文句を、いやまずは胸倉を掴み上げて。そんな、馬鹿げた暴力性に身を任せてでもいなければとうに足は止まっていただろう。


 我ながら愚かしい。


 愚かしかろうと、利用する。


 自分の心さえ操って進む。


 最近は、ため息すら出なくなっていた。


    ※   ※   ※


 いつの間にか雪の中で蹲っていた。

 ちょうど吹雪がきていたせいか、背中まですっぽり雪に覆われている。

 冷え切った身体でそうしていると、自分と雪との境界が曖昧になる。

 凍りつこうとする意思には、けれどあたたかな記憶があった。


 皆とウィルホードの別荘で川遊びをした、バーベキューもあった、夜には、初めてメルトと身体を重ねた。

 徹夜明けの俺をフロエが引っ張っていって、話をしながらいつの間にか眠ってしまっていた。起きたらアイツまで寝ていて、背中が涎でびしょ濡れだった。

 もっと以前、夏季長期休暇でも似たようなことをしたけど、あの時は立場から逸脱し切ることが出来ずに距離があった。俺に飛びついてくる後輩なんて居なかったし、ジャンプ台にされたのだって初めてだ。同学年や年上とだって付き合い方はややお上品なものだったと思う。べたべたくっ付いてきたのはアリエスくらいだったか。あぁでも、あの頃からアリエスの自立が始まって、俺はせめてこれくらいはと彼女の身の回りの人間に話を聞いて回ったんだったか。ナーシャと話をしたのはあの時が初めてだった気がする。他には、そう、屋敷で静かに読書をしていた。シンシアの過去作を漁ったり、別の作家だったり、くり子のおすすめを読んで、傍らに立つメルトが淹れてくれたお茶を愉しみながら過ごす休日だ。あの元気な見習いがいつしかアリエスと結託して俺の生誕日を祝ってくれたことは非常に驚かされた。

 ヨハンとの真っ向勝負が出来た準決勝、届かなかった自分を悔やみながらも、ずっとどこかで縮こまってしまっていた彼が明確に自分を追い抜いていくのが分かって、本当に、心の底から嬉しかったんだ。

 クレアと初めてキスをした。内乱の最中、毒によって両脚を切断しなければならなかった彼女の元を訪れて、義足の作成を提案した。不意をつかれて、いや、気持ちがずっと彼女に寄っていたから、咄嗟に拒否するということが出来なかったのか……今となってはメルトへの不義理でしかないが、最後は我侭を言う彼女に自ら顔を寄せたのは事実だ。もし傷のある彼女を気遣っていなければ、その身を抱き締めていたのかも知れない。


 思い出だけが熱を残している。


 意識を飛ばした覚えは無い。

 だとすれば俺は、自らの意思で膝をつき、丸まって、赤子のように泣いているのだろうか。

 無限に引き伸ばされたような今を辿り続けるあまり、経過する一秒一秒への自覚が乏しくなっている。夢中になってゲームをした時のように、意識はあるのに自分の状態を知覚していないような。


 どれだけそうしていたのかは分からない。


 やがてのそりと身を起こし、ついた手が雪を握り込む。

 雪の冷たさを感じることが出来なくなって、どれほど時間が流れただろうか。

 血潮に熱を感じない。吹雪く風すら温く感じることもある。身体は冷え切っていて、引き摺られるようにして心までも凍り付いていく。

 温度を失くしているのに、動き続ける自分が怖ろしくなった。


 まだ、歩ける。


 姿勢を崩しながら、忘れてしまった歩き方を初めから学ぶようにして立ち上がり、猛吹雪の中を進み始める。


 もう、泣いているのかも、笑っているのかも分からない。


    ※   ※   ※


 もしかすると俺はもう死んでいるのかも知れなかった。

 こうして身体を動かしているけれど、所詮は意識が生み出した感覚。それは誤認と大差がないのだ。


 死んでいるのに死を自覚しないまま、延々と彷徨い続けている亡霊なのか。


 確かに我の強さと頑固さはフロエなんかにも指摘されていたな。


 息を漏らして手を見れば、本当に形が曖昧になっていた。


 世界へ溶け込むようにして肉体が消えていく。


 霊が霊であることを自覚すると途端に死者としての振る舞いを始めるように、この猛烈な吹雪の中に俺という意識は飲み込まれていくのかも知れない。


 足を取られて転倒する。

 転んだのなんて初めてだ。

 見れば、足もまた像を失いつつあった。

 身を起こす気力もなく、腕も足もなく、仰向けに転がって真っ暗な空を見る。


 夜空なんかじゃない。

 あれは、なんにもないだけだ。

 空っぽな空間を生めるようにしてただ真っ黒なものが詰まっているだけの空。


 ふざけるな。


 思うも、もう以前のような怒りすら湧いてこなかった。


 原動力を失いつつある。

 いつかのように、進むだけの機能を持った何かになれば良かったのに、俺はついあれこれ考えてしまって駄目だった。

 意思を持つから、それを消費して進むから、いつしか枯れるのは自明の理。


 考えてみれば、どうしてここまで進もうとしているのかも分からなくなっていた。


 既に、一年か、二年か、いや、もっとか。

 十年経っていたっておかしくない。

 気持ちがいい加減になっているから適当な数字を並べ立てる。

 十年なんて、人の心を保ったまま費やせる時間じゃないだろう。

 けど、本当にそうと感じるほどに長い時をここで過ごしていた。


 同じだけの時間が経過しているのであれば、俺は、もう……。


 セイラムとの決戦だって終わっているかも知れない。


 俺の果たすべき役目なんて何も無くて、居場所すら、これだけの時間の向こうには在るのかも分からない。


 取り込まれた当初と変わりなくこの場が続いているのだから、結果は敗北なのかもしれない。いいや、と思いながらも、既に反骨心は使い切っていた。磨耗して、出来た隙間からぼたぼたとこぼれていったんだ。


 起き上がる。


 像も無い手で自分を支え、像も無い足で自分を支え、立ち上がる。


 進む。

 進む。


 遠く見える塔を目指して。

 永遠に辿り着けない彼方を目指して。


 無為の歩行を続けていく。


 そうする中で思い出すのは、クレアの両脚を斬り落とした時の記憶だった。

 叫びを聞いた。手指が痺れた。全身の血が一瞬で沸騰して脳へと押し寄せた。焼き切れそうな意識が途端、己の足元から登って来る寒気に支配され、視界が揺れた。猛烈な後悔が押し寄せて、すぐにでも膝をついて吐き出してしまいそうだった。不衛生だ、やめろ、彼女の前で――必死に己を保って堪えていた。

 他に処置は無かっただろうか。もっとしっかり毒物を調べれば。あるいはすぐにでも敵陣へ突入してヴィレイを締め上げれば。血を止めていたのだからまだ猶予はあったんじゃないか。早まったのでは。斬り落とす以外にだって、何か。

 もっと、もっと慎重に行動出来ていれば、もう少し早ければ、待たずに、自ら駆け寄っていれば、解毒の手段をもっと揃えていられたら。


 本当はあの天幕で、俺は彼女に許しを請いたかった。


 諦めに安住を求めたと察した時、足元に崩れ落ちて共に泣いてしまえば良かったんじゃないか。

 過酷極まる、諦めないという意思で以って不可能へ立ち向かうことの怖ろしさを知らずに済んだのかもしれない。


 思えば、脚が震えだす。

 手が感触を思い出し、耳は叫びを聞いて、肺腑が狂ったように暴れだす。


 まだ、歩ける。


 失わせた俺が、自ら歩く術を放棄するなんて許されない。


 後悔すら糧として、熱の無い自分を進めていく。


    ※   ※   ※


 やがて後悔は吹き溜まり、目を背けてきた記憶に支配されていった。


 直視してきたつもりだった。

 向かい合い、最大限の礼を以って受け止めてきたつもりだった。


 だがやはり俺が、自分の都合の良い解釈ばかり重ねてきたことも事実だった。


 泣き叫ぶ声を聞いた。

 責める言葉を必死に堪え、頭を下げた両親の傍らで、エリックの姉は立ち上がることも出来ず泣き崩れていた。

 ただ、ただ、悲しいのだ。悲しみが深過ぎて、失ったどうしようもなさに打ちのめされて、外へ向かう気持ちが湧いてこないのだ。

 決して見せるまいとしていた涙を流し、彼女らの言葉を封じてしまった。いや、責められることを望む卑怯な想いがあったのだと今ならば思う。


 ヒースという名の少年の、父親を殺した。相手は王都の守備隊の者で、間違いなく俺がこの手で命を断った。

 なぜ殺した? 簡単だ。敵として向かい合ったからだ。俺に殺さず制圧するだけの力が無かったからだ。次々と現れる敵対する人間を、彼らを死なせず戦おうなどという余裕すら持てずに立ち向かい、殺し続けた。どれだけ? 分からない。相手の顔すら分からないまま切り伏せたこともある。犠牲者の数は知っている。けれど名は? どんな人間で、何を望み、その死によってどれだけの人が苦しみ悲しんだかを俺は知らない。


 誰一人残さず、取りこぼさず、すべてを刻み込んで戦い続けられるほど強くは無かった。

 使い古されたその行動がどれほど重く、辛いものであるか。そんなことが出来る人間は狂っている。人としての限界を超えた、人の外側へ足を踏み入れた者の所業だ。

 あるいはもしかすると、出来るのかもしれない。

 途方もない重みを背負い、今と同じように進んでいけるのかもしれない。

 でもそうなった俺は今の俺とは違うのだろう。犠牲を罪深いものと自覚しながらも当然のように背負い、必要だったと許容する。その先までは、分からないけれど。


 どちらにせよ俺は大切な仲間を危険に晒し、殺人を犯させ、時に魔術を手放すほどの苦しみを与えてきた。

 死んだ者は、別に向かうべき未来があった筈だ。

 望んでついてきてくれたなどと。それは、俺が全く別の道へ進んでも言えた話じゃないのか。


 犠牲は山と積み上げた。

 自分ではなく、他者に負債を背負わせてきた。



 たった一人で背負わず、誰も彼もを巻き込んで、背負わせてきたから。



 世の中を変化させる為? 誰かの想いを継ぐ為? 一人の少女を救う為に……。


 それは、正しい。正しいと周囲を納得させることが出来る。多くの納得を糧に扇動し、殺戮と悲劇を肯定させる理由足り得る。


『この人殺し』


 ヴィレイの言葉が呪いのように突き刺さる。

 当人への感情も、それまでの行いも、この言葉一つには関係が無い。


 俺は人殺しだ。


 内乱を誘発させ、数千もの犠牲者を生み出し、その数十倍もの人々を地獄へ叩き落した、最低最悪の殺戮者だ。


 そして、


 それでも、


「っ…………」


 続く言葉が紡げず、顔が下を向いてしまう。


 前へ向かう言葉さえ、今となっては重く辛い。


 歩を進めていく。


 まだ、止まらない。


 擦り切れた想いを掻き抱いて、尚も進み続けた。

 進む意味すら見失ったまま。


 なぜ進めるのかすら、分からないまま。


    ※   ※   ※


 そして心を使い果たした俺は呆然と立ち竦んでいた。

 時間などもう分からない。身体のどこにも熱が残っていない。

 凍りつかないことが、動ける筈の肉体を持つことが、数少ない生の証明だった。


 目の前に扉がある。


 その向こうには、遥か向こうには岬があって、目指していた塔がある筈だった。

 なのに迂回して望もうとは思えない。


 歩を進めようとして、心底身体が震えた。


 足をほんの少し浮かせることさえ出来ず、なのに尚も前へ進もうとして、上手く行かず、倒れこんだ。

 扉はこちらが触れるまでも無く内開きに俺を迎えて、雪景色が背後へ吹き飛んでいく。


 身体が板張りの床に触れる。

 倒れたのだから、扉の中にある部屋か何かに入ったのだろう。

 受身も無く打ち付けた身体に痛みはなく、手足を投げ出したまま中を窺った。

 窺ったというか、手足と一緒に投げ出された頭がたまたまその景色を見ていただけだ。


 風が吹いた。

 潮を感じる風だった。


 暖かいのに、どこか冷たく感じる。


 石造りの椅子と机。独特な柄のタペストリーや、動物の骨や牙や皮による装飾。そしてガラスも無く、人一人が横になれそうなほどの幅を持たせた、石壁をくり抜いただけのような窓がある。見たことのある場所だった。記憶には繋がっていないが、確かに。


 空っぽになった俺はぼんやり部屋の中を眺めていて、ふと、石畳の隙間から生えてきた小さな花を見た。

 景色が変わり、肌を撫でる空気が変わり、けれど反応する意思すら失っていた俺は、幼児が動くものを目で追い掛けるのと同じく、花の動きを追い掛ける。ゆっくりだった。なにせ花だ。普通のものとは違うのだろうが、手足を動かすほどとはいかない。けれど時間だけはたっぷりとあったから、永遠に続く不変の世界の中で、今まさに育まれようとしている命を追いかけて、俺の目はじっと花の動きを眺めていた。


 そして、その先に彼女が居た。


「…………」


 彼女は、セイラムは、俺が見た記憶と同じようにして、石の窓に腰掛けてこちらを眺めていた。

 表情はない。空っぽ。人形と言われれば納得してしまいそうなほど、その目には人の思考が残っていなかった。

 だらりと垂れ落ちた腕と目元に掛かる髪すら払い除けない姿は、まさしく抜け殻そのものだ。


 あぁ、これに比べれば、俺はまだまだ人間だ。


 そしてようやく会えた。

 話す言葉を考えてきた。

 説得の為の手順、心理の誘導、印象を操作してでも成し遂げてやろうと。


 なのに今、言葉が出ない。


 起き上がる気力も無く仰向けに転がる俺と、石の窓に腰掛けて無表情に見下ろしてくるセイラム。


 会話の一つも無く見詰め合い、ただ、そこに居た。


 二人、死んだみたいに向かい合っていた。





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