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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第四章(下)

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 培養槽と呼ばれるものの中に彼は居た。

 前肢を二種類持ち、外側の前腕は太く長く、三つの退化した爪を持っている。もう一種は大型前腕の内側にあり、細く短く、けれどしなやかな三本指があって、使用しない時は大きな方へ突っ込んで格納しているようだった。脚部はカンガルーのものに酷似している。太い前腕とその脚があれば、大抵の外敵は叩き飛ばすか逃げるか出来ただろう。一メートル程度の身長と同じだけの長さがある尻尾も、猫のように走る己を制動するのに便利だし、何より前腕が二種あることでモノを抱えたまま全力疾走が出来る。

 一見して小型のパワードスーツにも思える姿だが、彼を通常の生物と称するには疑問が残る。

 まず皮膚の材質が分からない。表面はつるりとしていて甲殻類に近いのかと思えば、身を捻れば柔らかく形を変える。その様子だけ見ればワニやヘビのような爬虫類だが、培養槽のガラスらしきものに接触した時は硬質な音がしていた。継ぎ目と呼ぶのは正しくないだろうが、間接部などに見られる指先程度の太さの線には青や白などの結晶体が血液みたいに循環している、ように見える。それに四肢……六肢の内側にはビロードを思わせる毛皮があり、これは背骨から尾てい骨を通り尻尾の先端部までのラインにも整った鬣が見て取れる。


 なにより大型前腕と脚には肉球がある。

 触ればきっとふにふにしていることだろう。


 果たして培養槽の内部でそうする意味があるのかは不明だが、彼は一度身を震わせながら伸ばした後、大欠伸をした。

 ちろりと舌先で舐める口が突き出すようになっているのは、狼などに見られる特徴だ。敵へ喰らい付き、喉笛を噛み切るのに適した形状ではあるが、頬皮が無い為咀嚼に向かず、液体を飲み込むのにやや難がある。ただ牙が噛み千切る為の鋭いものではなく、磨り潰すための形状をしていることから、この生物が通常の手段で食事を行うかどうかは疑問が残る。


 液晶のように結晶体を映し出す全身の線といい、艶やかな皮膚といい、肉球など生物らしさはあるのだがどうにも人工物といった印象も覚える。


 しばらくぷかぷか浮かぶ姿を眺めていたが、唐突にソナーを思わせる音が発せられたかと思えば、消失した扉の向こう側からまた奇妙な生物が現れた。


 まず顔がでかい。身体の七割くらいが顔だ。しかも頭髪を全部顎の下でまとめてぐるぐるに巻いてリボンでちょうちょ結びにしている。

 しかし身体をむき出しにしている彼とは違い、ローブらしきものと装飾品で着飾っていることからそれなりに良い身分の者だというのが想像出来た。


髭巻き翼族(オービタリアン)の爺さんか。どおりで足運びが遅いと思った。飛べるくせにどうして歩行なんて非効率的なことをするんだい?》


「これ、ジル。音声会話を怠るでない。今日は交感の授業じゃ、太鼓腹一族(クスケット)どもは丸め込めてもわしらはそうはいかんぞ」


《爺さん、僕の居る場所が分からないのかい? 音とは震動だ、培養槽の中で液体に浸っている僕と、外で気体に浸っている爺さんとじゃ音情報は欠落するじゃないか》


「下らん言い訳は止せ。お前の言う通り音とは震動、情報の欠落を避けるならこちらの空気を直接響かせれば――――ぎゃあ!?」


 まさしく飛び上がって天井に頭をぶつけた髭巻き翼族の老人が頭を振って復帰するまで、培養槽の中でジルは身を震わせて笑っていた。

 ピシリと伸びた髭の先端を突きつけて、老人はジルを糾弾する。


「直接受信体を震動させる奴があるか!! 感度は相手次第になるから二度とやるな!!」


 培養槽のガラスらしきものがひび割れるほどの震動を叩きつけられて、ジルはうんざりしたように大型前腕の肉球で耳を塞いだ。体表のラインには薄く赤が混じり、それが不快感を示すものであるのだと、ようやく気付いた。ちなみにひび割れたガラスらしき……もうガラスでいいだろう、割れた部分はすぐにくっ付いて元通りになった。肉球のある手足の先端部もよくよく見れば靴下を履いたみたいに薄く体毛が包んでいる。


《はいはい――》「――これでいいんだろ」


「うむ。既に声帯など退化した者も多いここと違って、他の世界では大半が音に依存した交感を行う。忘れぬことだ」


「そして正確に発音出来るかどうかも定かではなく、彼らからすれば情報が混じりやすく、誤認も多い。だろ」


「だからこそ原始生物の大半は身振りや表情という付加情報によって判断材料を増やす。お前のエレミームも同じじゃな」


 言って髭巻き翼族の老人が紙製の本を取り出した。

 太い指先でページをめくるのは大変そうだが、どこか楽しげである。


「えー、またアレやるのか」


「これ、空気のレンズなんぞで盗み見をするんじゃない。大切な授業じゃ」


 すぐに風を起こして散らされてしまうが、最初から眼球に移りこんだ画像を読み取って解析していたジルは素知らぬ顔だ。第五の腕を使わずとも、艶やかで透明な膜を張った物体の表面はよくものを映す。


「まずは笑顔じゃ。友好を結ぶにはまず笑顔、こちらに敵意が無く、好意的であることを効果的に伝える手段となる。よいか、最初に手本を見せるから、真似をするんじゃぞ。いち、にの――――ばあ!!」


 ぐぐぐいっ、と口の端を大きく広げ、弓の形を作る老人に従ってジルも培養槽の中で笑顔みたいな何かを作る。


「いち、にの――――ばあ!!」

「ばあ!!」

「いち、にの――――ばあ!!」

「ばあ!!」


 はっきり言って、赤い頭巾がトレードマークな少女のお婆さん宅へ現れた狼と同じくらいには友好的な笑顔だった。

 口の形だけ一生懸命に練習する二人はどうやら目の重要性には気付いていないらしい。これでは赤ん坊をあやそうとして泣かせてしまう叔父さんと大差が無い。


「良い感じじゃ! 続けていくぞいっ――――ばあ!! ばあ!! ばあ!!」


 全く以って良い感じではなかったが、その後もややズレた感情表現を学ばせながら髭巻き翼族の授業は続いた。


    ※   ※   ※


 世界は滅ぼうとしていた。

 どうにも大昔から彼らは野放図に生き過ぎたみたいで、止めようも無い器の崩壊を招き、遂に指折り数えるほどの世紀分しか残り時間がないと判明したのだ。


 当初は延命策が探られたが、その実験場となった他世界が二千七百七つほど滅んだし、その五十倍ほどの世界は荒廃し、ついでに余波で自分とこの銀河が幾つか消し飛んだ。昔から好奇心旺盛な一部の種族が気楽に世界を渡ってお節介を焼いたり、物理的に焼いたりもしていた彼らだが、ここへきてようやく反省というものを覚えた。

 やがて慈善活動が流行り、同じく滅びかけた世界へ干渉して救ってみたり、救えず滅ぼしたりもした。

 同じように故郷を捨てて移り住もうと飛び出していった種族も居たが、大半が戻ってきて肩を落とした。肩の無い者は尻尾の先を地面へ突っ込んだり、転げまわって自分の身体に別のものを貼り付けて身を隠そうとした。とにかく羞恥と消沈を示した彼らは総じてそう言うのだ。


《僕たちが居るべきはここなんだ。他の世界には、その世界の者たちが居るべきなんだ》


 かくして世論はいかにして滅ぶかということを求めるようになった。

 慈善活動に精を出す者も居たし、動きを止めて自然の一部となった者も居た。

 また飛び出そうとした者が出て、それを留めようとした者の間で戦争も起きた。


《生きた証を残そう》


 そう宣言したのは、有史以来延々と世界の記録をつけ続けてきた髭巻き翼族(オービタリアン)だった。

 開放すれば一固体で惑星をぐるりと包めてしまう髭を持つ彼らは、なによりも記録を重んじる。様々な記録媒体が登場してからも紙への筆記という伝統的な手段を守り続ける為に、紙の寿命が終わらぬ内に膨大な情報を記したその場から書き写す彼らは、多くの者にとっては部屋に閉じこもっているだけで目立たない。時折貴重な税金の無駄遣いだと多くの種族が尻尾をびたんびたんと叩きつけて怒りを示すが、彼らとて原始的な行動から開放されてはいないのだからどっちもどっちだったのだろう。


 殆どの種族が知らぬ内に計画は進んだ。

 大半はいつも通り無数の髭筆で書物の複写をしているのだろうと思い込んでいたが、彼らはその圧倒的な情報力によって、一世界が持ちうるすべての記録を肉体に宿した生命を生み出すことに成功していた。


 それが、ジルと呼ばれる培養槽に浮かぶ存在だ。


「最も苦労したのは圧縮じゃ。情報を簡易記号に変換し、配置や厚みなどで意味を持たせたとしても世界一つ分は大き過ぎる。歴史という、時間の積み重ねを記すのなら更に容量が必要となってしまう。またそれだけの情報を他世界へ転送した時点で、膨大な概念変異を引き起こし、滅び去った数多の世界の一つに加わるじゃろう」


「――待って、今……、足の指の付け根が痒くて…………うん。この培養槽の中身ってちゃんと綺麗にしてくれてる? なんか最近、爪の奥に汚れが溜まり易いみたいなんだけど」


「お前のエレミームに合わせて循環し、浄化させてる筈じゃが……そうじゃな、こちら側はもうそんなに汚れてきてしまっているのか」


《爺さん》


「音声会話を怠るでない」


「爺さんっ」


 ジルの叩き付けた大型前腕は培養槽のガラス面を大きく歪曲させるが、ゴムに包まれたみたいに伸びて、元通りになる。

 内と外、いつしかその膜はどうしようもなく隔てられるようになっていた。


 エレミームと呼ばれる線に悲しみを現す白が濃くなる。


 思えば彼は常に穏やかさの青と、悲しみの白で身を包んでいた。それは彼個人のみならず、作り手の心も表していたのではないだろうか。


 しばし問答があり、大気が割れんばかりの震動や激しい打撃の音も聞こえたが、やがて落ち着いていった。


「滅びが近付いて世界が欠けていったとしてもな、何もかもが消える訳じゃない。欠けた時の破片とでも言うべきモノが残った場所へ押し寄せて、徐々に密度を増しているんじゃろう。お前の培養槽は特に注意を払ってきたつもりじゃが、それでも汚染が進むのであれば予定を早める他無い」


 丸まって拗ねるジルに髭巻き翼族(オービタリアン)の老人はくしゃりと笑顔を作る。

 行く先を定め、そこで息づく生命に合わせた交感方法を学んできたせいか、彼の感情はとても人間的だった。


「元より滅ぶことは分かっていたことじゃ。いかにして滅ぶか……多くがこのままここで果てることを望む中、わしらは積み重ねた記録を残したいばかりに新しい罪を重ねようとしておる。じゃがの、お前と話していると決して間違いではないと思うようにもなったんじゃ。きっと、わしらの残した記録の結果は、行く先の世界をより良くしてくれる。多くは望まない、ただ世界のすみっこで、わしらがここに存在していたのだと記していきたい」


 だから彼らは結局、銀河を埋め尽くしかねない膨大な記録を放棄して、このジルという固体をただの我が子として産み落とし、送り出すことを決めた。

 我が子を望むままに染めようなどとおこがましい。先人として口出しはしたくなるし、こうなって欲しくは無いと思うところはあるものの、健やかに育った子を見る内にあるがまま在れと、広げた髭を丁寧に巻いていったのだった。


 準備にはまた数ヶ月を要した。

 相変わらずの授業は続いたが、単に一緒になって時間を過ごしたり、ふざけたジルがおちょくったり、叱られたりすることが増えた。


 一時は培養槽の部屋まで黒と灰色に染まりかけたが、しばらくして元通りの綺麗な状態に戻った。

 変わりに、太鼓腹一族(クスケット)の授業が無くなって、彼らを見ることが無くなった。

 腹の中に固有の世界を持つとも言われる彼らならば、部屋一つ分の汚染を飲み干すことも出来ただろう。

 時折息をつくようにして逆流することもあったが、概ね綺麗で、温かな場所に戻っていった。

 ジルも爪の手入れをする時間が増えたが文句は言わなかった。


《長く記録を続けてきたものじゃが、なんだかお前と過ごした時間の方が長かったように思うのう》


《音声会話は怠ってもいいのかい》


《はは――もうわしらにはそれほどの力も残っとらんからの。良い。良い。良いのじゃ、今更になって過去ばかりを積み上げるのではなく、未来を作るということを夢見るようになったわしらは、きっとどの種族よりも幸福で、満たされておるのじゃから》


 ノイズ交じりに届く老人の()を、ジルは黙って受け止めた。

 部屋の中は綺麗なままなのに、彼の命とも言える髭は随分と艶を無くしてしまっていた。補助器官に過ぎなかったとはいえ、眼球も光を映さなくなって久しい。


 髭巻き翼族(オービタリアン)の老人は言った。


《刻限じゃ》


 弱々しく髭を伸ばし、装置を操作していく。

 ソナーが放たれ、座標を確認する。対象となる世界との隔絶が最も薄くなる、その瞬間に向けて準備が始まったのだ。


《これ以上時間を引き延ばせば、この世界へ溜まる滅びの情報がお前の行く先にまで流れ込みかねないんじゃ。それだけは、それだけはのう》


 ここしばらく丸まったまま浮かんでいるばかりだったジルがようやく身を伸ばすと、老人は嬉しそうに笑った。


《わしらは十分以上に楽しんだ。世界が生まれて、滅ぶまでの間に出来る事を精一杯やり抜いた。巻き込むべきではなかった他世界まで道ずれにした罪は贖えるものではないじゃろうが、たとえ罪だとしても望まずにはおれんのじゃ》


《何を。僕は何を伝えればいいの》


 滅びの音が近付いてくる。

 世界が崩壊していく。

 どこかから尻尾をびたんびたんと打ち付ける音が聞こえてきた。


 悲しみの信号が発散され、そこに何故か喜びと安堵が混じる。


 いや、これは、誇らしい、なのかもしれない。


 彼は、俺は、まだ何も知らない。

 この世界の大きさも、この世界が重ねてきた想いも、なにも分かっていない。

 なのにすべてが終わっていく。刻一刻と時計の針は進んでいく。過去へと繋ぐ腕も、時よ止まれと叫ぶ声も、滅びが喰らい尽くして許さない。


 培養槽の液体が抜かれていく。

 皮膚が初めて気体に触れた。

 水位に合わせて沈んでいく身が、足の裏が、底を踏んだ。

 データ上では知っている己の体重を初めて彼は感じ取ろうとしていた。

 せめてこの世界を踏み締めて、手を取り合いたかった。


《伝えておくれ、ジル――――我が子、ジル=ド=レイル。わしらはここに居た、と》


 最後の瞬間に放たれた膨大な信号を解析する間も無く、彼は世界を渡った。


    ※   ※   ※


 少女が不意に顔をあげたのを見て、周囲の者たちは思い思いの反応を示した。

 多くは感嘆と喜びを、一部では無表情を貫き、また堪えきれず眉を寄せる者も居た。


 十人ばかりが集まっていた円卓の上には大雑把もいい所な地図が乗っていて、ガラスもはめ込まれていない石窓からは十分な光が差し込み室内を照らしている。

 多くは石造りだった。円卓と言えば聞こえもいいが、ただ概ね丸く切り分けられた石の机で、周りを囲むのもまた石の椅子だ。柱も太い円柱。この場合、円形の加工の難しさよりも運搬の問題を優先しての円柱状だろうか。壁面を飾るのも、さほど加工されていない動物の毛皮や、爪や牙を使った装飾品が多いように思える。

 かと思えば少女の腰掛けている石の椅子には絹の織物が敷かれており、その模様は機械化の進んだ世界であっても再現できるかどうかというほどに緻密で繊細な代物だった。刺繍や後からの彩色ではなく、予め染めた糸を交互に重ねるだけで美しい絵を描いているという時点で、この品の凄まじさが分かるだろうか。


 内海の潮風が流れ込んでくる部屋の中、しばしの沈黙を経て少女が口を開いた。


「やっぱり、どんどんと近付いてきてる」


 呟きにも似た声へ真っ先に反応したのは、席にも着かず石窓の一つに腰掛けていた男だ。


「また神か悪魔の世界がどうとかって話かい、姫さん」


「不敬な物言いは止せ、ベルクハルト=ボウ=ノートン」

「妄信すればいいってもんじゃないさ、ゼレム=ノア=クレアライン」


 煽るようなベルクハルトに最年少のゼレムは強く言い返し、また言い返してと応酬が続く。

 この集まりでは慣れた光景だが、すぐ目の前に夢中になるゼレムとは違い、ベルクハルトは常に姫と呼んだ少女を意識して、状況の推移を見守っていた。


 やがて優雅に果実酒を愉しんでいた冠を頂く男が地図を固定する為の重しを手に取り、そのまま机へ叩き付ける。


「ノートン、クレアライン、貴様らは騒ぐ前に黙ることを覚えろ。このオレ様が秘策を考えているというのに邪魔をするなら斬り捨てるぞ」

「リディ、ゼレムの熱くなりやすい所は生まれつきだ、許してやれよ」

「お前もだと言ったぞ、ノートン。分かっていながら無駄に煽るな、気を回していれば良いというものでもない」


 ゼレム少年には散々と減らず口を叩いていたベルクハルトだったが、冠男の言葉にはあっさり肩を竦めて身を引いた。

 被っていた帽子で顔を隠して身を楽にすると、それはそれでゼレムが噛み付くのだが、それも冠男が宥めることであっさりと静かになる。


「ゼレム=ノア=クレアライン。彼女が時折感じ取るという何かの力は、君が言うような福音や啓示であるかは不明だ。なにより彼女自身が不安を覚えていることを忘れるな、よいな」

「しかしリーゼルド王、ベルクハルトの物言いはあまりにも――」

「よいな、と問うたとぞオレ様は」

「っ、はい……」


 よろしい、と言い置いてリーゼルドは己を仰ぐ側女から扇を奪い取り、その先端で地図を示す。


「いつになるかも分からない接近者についてはよい。まずは目先のラインコットの蛮族共だ。今年も連中はオレ様の土地から麦を奪っていくつもりだろう。所詮小規模に暴れるだけだからと軽く追い返してきたが、この頃は北方の国々が介入しておかげか組織だった動きを見せるようになっている。とっとと土地ごと沼に沈んでしまえば良かろうに、毎年飽きずに湧いて出て来やがる」


「かの地は底なし沼があちこちにあって、軽装の者が辛うじて踏んで歩ける通路が迷路のようになっている為、どうしても逃げる連中を追いかけることが出来ず、また大軍を送り込むことも出来ずに手を(こまね)いていましたから……」


「オレ様は南方の制圧で忙しい。あちらもあちらで連合化の動きがあるからな。とはいえ今年は我らが姫君の策により商業ギルドを中心に内乱の火を付けることに成功している。流石に今年一杯は戦争なんぞしている暇はないだろう。だからこそ北方に手を付けたいんだが、南方とて放置とはいかんからな……」


 リーゼルド=シーク=ド=クレインハルト、後に広大な土地を支配化に置いて真なる王国を築いたと謳われる建国王は、今も俯いて何かを思案する少女へ風を送った。黙っているだけで相手を威圧し、対面しただけで十七つの部族と二つの国を屈服させたとまで語られる彼も、彼女に対しては表情に柔らかさが出る。


「おい、オレ様が話している時は顔をあげんか」


 別の者では手打ちにしていたかも知れない不敬に対しても、やはり仕方ないなと眉を落とすばかりだ。



「おい、おい――――セイラム」



 結局身を乗り出して鼻をくすぐるまで少女は反応しなかった。

 鵞鳥の羽で出来た扇の先端は流石に強力だったのか、一度目は大きく、二度目は小さく、くしゃみをして顔を隠した。


 平民であれば気にもしないようなことであったが、セイラムと呼ばれた少女は耳まで赤くしてはしたなさを恥じている。

 この場合、くしゃみをしたことに加えて異性から鼻をくすぐられたということも理由に入っているだろう。装身具の類は少ないが、顔立ちや振る舞いの細やかさから相当に躾けられてきた良家の人間だと読み取れる。


「リディ、あんまり姫さんをいじめるな」

「なんだ嫉妬かベル。嫌ならこっちにきて知恵を貸せ」

「椅子ってものが苦手でね、ここのが俺に合ってるんだよ」


「もーっ、どうしてリーゼルド様はそんなことを為さるのですか」


「おー、起きた起きた」

「寝てませんっ」

「語気を荒げるなどはしたないことは止せ」

「異性の鼻をくすぐるだなんてはしたないことはお止め下さい」


 売り言葉に買い言葉、つい先ほど言い合いを止めていた筈の男が嬉しそうに言葉を返す様は大人気無さの極みでもあったが、唯一口を挟める男は石窓で昼寝の体だ。

 しばらくして会話の不毛さを悟ったセイラムが口を引き結び、寝たふりをするベルクハルトの元へ歩いていって引き摺り降ろした。

「おわあ!? いきなりだな姫さん」

「綺麗に着地しておいて驚いたフリはしなくていいのよ」

 そしてベルクハルトの位置へ収まると、両膝を抱えて息をついた。


「……話は頭に入ってます。北方からの侵略者を退けるんですよね」

「そうだ。オレ様の土地を荒らすアホ共を皆殺しにする」

「殺しは極力避けるべきです。王の威や脅しとしての効果があることは分かりますが、そうやって殺された親たちの仇だと言って、彼らは延々と略奪を正当化し続けるんですから」

「財産を奪われるオレ様はどうする」

「我慢すればよろしいのでは?」


 あんまりにもあんまりな言い方ではあったが、側近たちが顔色を変える中でリーゼルドは一層愉しげに、威圧的な顔付きを更に険しくして問い掛ける。


「では聖女様は殺され、あるいは攫われて売り飛ばされるオレ様の民はどうなってもいいと? 税が減ることを我慢しても、食料を奪われた民どもは飢えて死ぬぞ」

「施せばよろしいでしょう。風を送らせる為だけの奴隷を作るほど財を集めていらっしゃるのですから、リーゼルド様が毎日一食我慢するだけで町一つが潤います」

「まんまと蛮族に税である麦を奪われた者に施しを与えれば、次から奴らは戦いもせず倉を開け放つぞ。既に武装を整えるだけの優遇措置は取っている。不十分であろうことは認めるが、守りきれぬなりに手は存在するのだから、奪われるのは連中の落ち度だ。他にも肥沃なオレ様の土地を狙って侵入してくる豚の餌どもは居て、懸命に守りきって税を納めている者たちからすればふざけるなと言いたくなるだろうな。聖女と違い、王は無制限に甘くなどは成れん」

「そうですね」


 厳しい意見をあっさりと受け止めてセイラムは思案に入る。

 おそらく今の話を予め予測した上で発言していたのだろう彼女を、リーゼルドは愉しげな表情を崩さず観察する。

 敢えて問うた意味はある。リーゼルド自身の細やかな反応を見て、どの程度なら引き出せるのかを測る。また他の領地を引き合いに出させたことで、これまで放置するに等しかった北方の領地へ支援する意欲を示させたのだ。彼の方からつらつらと出てきたのは、話の流れを察したことで過程を省いたに過ぎない。愚か者を相手にする時は言葉を尽くしもするが、これと見込んだ者には無駄を省く。そういう王だった。

 ただ、南方が落ち着いている間に北方を、とは言っていたものの、未だリーゼルドは出兵の準備も、予算の取り決めも口にしていない。

 国の運営を担う文官も数名居るだけで、この集まりはその方策を巡る会議でもない。

 だからこそ弁は滑らかに、時に遊びを混ぜたりもする。


「北方の地を支援する者たちが居る、と仰いましたね。組織だって行動するようになり、おそらくは被害が拡大している」

「あぁ。あちらの税は去年、半分も取れなかったからな」

「これまであの沼地は少数の侵入者が持てるだけの麦を奪って運ぶだけだった。だからこそ追撃が出来ず、こちらからも沼地に囲まれた細い道では大軍を送り込めずにいた」


 だが今、行動が大規模化している。

 ならば、


「こちらは知らないだけで、ある程度の規模で侵入可能な経路がある筈です。それを探る方法……例えば、敢えて倉を襲わせ、麦の中に隠れて相手に運ばせる、とか」


「流石に運ぶ時に重さで気付くさ。それに沼地へ面した範囲は結構広い、こっちの狙い通りにはいかないんじゃないのかい」

「ううん。ベル、それなら最初から荷車に乗せておいてあげればいいのよ。たっぷりの水と麦と、キツーいお酒も合わせて置いといてあげれば、きっと案内してくれるわ」


 話を聞きつつ、リーゼルドが鵞鳥の扇で沼地の端を示す。


「悪くない。なら敵の侵入を防ぐ為の策と称して簡易の防護柵を作らせよう。実際に施工するのは一部で、測量や位置の確認としておけば物資も浪費せずに済むし、範囲を絞ることも出来るな。そして荷車は施工部隊の支援物資として送り込む。予め情報を流してやれば連中は嬉々として食いつくだろう」


 セイラムとリーゼルドの会話を文官たちが必死に木札へ書き留めていく。

 おそらくは後で詳細を詰めて、荒を取っていくのだろう。

 時折ベルクハルトが現地を知る者としての口出しをし、それを元に二人の思考が一層深まっていく。


「ただ、北方の集落を叩いた所で解決はしないでしょう。そこに人の歴史が続く限り、積み重ねてきた過去を理由に幾らでも人は罪を犯すものです」


「では根絶やしにしてみるか?」


「天然の要塞を相手となれば、リーゼルド様でも何十年掛かるか。倒すことばかり考えず、施しを与えれば良いのです」


 静かに告げるセイラムのそれを、甘い言葉と考えるのは思慮が足りなすぎる。

 先だって南方の諸国へ内乱を誘発させたと話があった。


 歴史を紐解けば分かるように、大きな力を持った一定以上の規模を持つ集団というのは仮想敵国なしには纏まり切れない。

 しかしその敵という存在がさしたる脅威では無くなって、同時に国内での余裕が生まれれば今度は内部での闘争を始めてしまう。

 権力欲や非道が原因とするのもまた安易だ。多くの場合、当人たちは正しいと信じることを成す為に行動を起こす。悪に落とすより、正義の背を押すほうが簡単に騒乱の火は広まってしまう。


 彼女はこう言ったのだ。沼地を血で染めればいい、と。

 既に北方諸国から支援を受けて組織化されつつあるラインコットに更なる余裕を与え、内部での闘争を引き起こせば、そのどれかに味方する形で入り込めてしまう。

 北方諸国とてすべてが手を取り合っているのではない。肥沃な南方への入り口を作り、やがてはラインコットを踏み潰した上で侵攻してくるつもりだろう。なら上手く手を進めればあの沼地以北にまで混乱を広げられる。


 語る内容こそ聖女と呼ばれた者に相応しいものであったが、正確に意図を読み取っていけば極めつけに合理的で、理を弁えた意見でもある。


「流石、聖女様は慈悲深い。リーゼルド王、彼女の仰る通りに施しを以って北方を教化すべきです」


 これにゼレム=ノア=クレアラインは興奮した様子で祈りの礼を取った。

 ベルクハルトが一つ二つ混ぜ返すようなこと言うが、少年は頑なにセイラムの言葉を至宝と崇め、異なる意見を払い除けた。


「彼らが蛮族としての振る舞いを止めないのは教えを知らぬからです。知れば共に歩めるものを武力で押さえつけてはあまりにも不憫でしょう? 必要とあれば私自らが現地へ赴き、説き伏せる覚悟ですっ」

「よかろう」


 しばらく話を黙って聞いていたリーゼルドだったが、ゼレムの言葉に賛同を示した。

 ベルクハルトの反論に苦渋を舐めていただけに瞳は輝き、身を乗り出して食いついていく。


「リーゼルド王っ」

「うむ。施しについてはゼレム、お前に任せる。必要なものがあれば用意してやろう。しかしまずは相手の強硬派を止めるべきだ。こちらへの効果的な手段を秘めたままの者へ慈悲を示しても、それは(おもね)りや弱みとしか捉えられん。悔しかろうが耐えてくれ。この一年の内に必ずお前が働ける土壌を築いてみせよう」

「過分なお気遣い、心に刻みました」


 大方針が決定した為か、急激に空気が弛緩していく。

 元より会議の体を取っているが、これは表向きお茶会と称される集まりだ。

 リーゼルドの合図により石机の地図が取り払われ、次々と果物や酒が運ばれてくる。


 大喜びで手をつける側近たちや、苦手ながら勧められるまま酒を手にしたゼレムとは別に、石窓のセイラムとベルクハルトは少しだけ騒ぎから距離を取る。

 中心となるリーゼルドも視線でそれを追ったが、すぐに酒を取ると自ら一気に煽った。


 静かな風が石窓から入り込んでくる。


 潮気を感じる海辺の風だ。

 丘の上に作られた屋敷は堅牢な石造りだが、見える街並みには土の色が多い。

 日干しのレンガを重ねて、何らかの泥を塗って強度を上げているのか、二階建てだけではなく三階建ての建物も見える。


 風に乗ってきた街の喧騒に目を閉じて聞き入っていたセイラムの隣へ、ベルクハルトが腰掛ける。


 しばし、無言だった。


 掛ける言葉が見付からない、というよりはこの一時を大切にするような穏やかさのある間の後に、やはり彼は口を開く。


「戦争ばっかりだな」


「争いを治めなければ平和を得られないのなら仕方ないわ」


「そうじゃない」


 平然と答えたセイラムにベルクハルトは瞼を落とした。


「お前の周囲にはいつの間にか戦争ばっかりが集まるようになった」


 すぐに返答は無く、けれど平坦な言葉が送り返される。


「私が戦争を引き起こしているとでも仰りたいのですか」


「いいや、姫さんは戦争を治めているよ。誰もがびっくりするくらいあっさりと、五十年も続いた戦いが一夜で終結した時なんて奇蹟にしか思えなかった。犠牲は大きかったけど、今はもう大勢が安心して明日を夢見てる」


「だったらいいじゃない。何年も戦い続けてずるずると犠牲を増やすよりずっと、いい」


「そうだな」


 そこでベルクハルトの言葉は止まったが、セイラムはちらちらと彼の方を見ては思案を重ねる。

 戦いについて微動だにせず黙考していた時を思えば、あまりにも雑念の多い様子は年頃の少女にしか思えなかった。


 結局無言で窓枠から降りて、机の上から果物を一房取ると再び石窓へ腰掛けてからベルクハルトへ差し出す。


「ん、ありがと」

「いいえ」


 分厚い石窓の上で膝を抱え、街並みへ目をやったセイラムはそっと息をついた。

 また横目で果物を齧るベルクハルトと見て、反対を向いてから頬を緩める。


「ベル」


「なんだ」


「なんでもない」


「そうか」


「ベル」


「なんだ」


「私は、間違えてるのかな」


「皆は姫さんのおかげで平和になって喜んでるよ。教えを知って毎日が楽しいって、ゼレムなんかはいつも言ってるだろ」


 コツン、と握った拳をベルクハルトのわき腹へ押し付ける。

 齧った果物の味を堪能していた彼はしばし無視を決め込んだが、押し付けていた手が服の裾を掴んで引き始めたのを見て肩を竦めた。


「正しいか間違ってるかなんて俺は知らない。どっちでもいいしな」

「だったらどうして戦争ばっかりなんて言うの」


「前はそうじゃなかったって思っただけだ。俺が姫さんを連れて飛び出した頃は、もっとちっちゃなことで毎日頭を悩ませて、ちっぽけな笑顔を貰って、腹の底から笑ってたよな」


「あの頃じゃ手の届かなかった大勢を今は救えてるよね」


「そうだ。いっぱい、いっぱい、救ってる」


「ベルはあの頃みたいに小さな力しか振るえず、どうにもならないって顔を伏せるしかなかった方が良かったの……?」


「そうは言ってない。俺だって悔しい想いはした。ただ、戦争ばっかりだって、それだけだ」


「嫌なの……? ここには居たくない? 私の所から、居なくなっちゃうの?」


 裾を掴む手は強くなったのに、むしろ弱々しく思えたのは気のせいではないだろう。

 膝を抱える少女はそれ以上の縋りを禁じるように、頑なに街並みを見詰めている。

 視線を向けることさえしなくなって、やがて諦めたみたいに手を離そうとした。


「ま、俺は姫さんのとこに居るよ。だから安心しろ」


 大きな手が少女の頭に乗った。

 驚いて首を引っ込めるも、逃がさないとばかりに指が掴んで話さない。


 はは、と笑う声がする。


「お前は聖女なんかじゃない。ただの女の子だ。頑張ってる姿は好きだけど、無理だと思ったらいつでも言えよ。また攫って逃げてやる」

「もう、すぐそうやって冗談ばっかり言う」


 けれど安堵したように目尻を下げる姿を、リーゼルドとゼレムがじっと見ていた。


 ベルクハルトは空を見上げて、羽ばたく鳥を追いかける。


「人は自由さ。縛られて苦しむより、大空に駆け出すほうがずっといい」


    ※   ※   ※


 轟々と立ち昇る炎が街を焼いていた。

 人の命を燃料として吹き上がる赤い舌が、夜空を舐めるようにして揺らめいている。


 打ち鳴らされる大門の周囲には悲壮な表情をした兵士が身構えていて、壁の上からは必死の叫びと戦いの音が続いていた。


「魔女を殺せえええ!!」

「俺たちを騙した女の首を広場へ掲げろ!!」

「あの女のせいで俺の息子は死んだ!!」

「争いを生み出し血の川を築いておきながら、聖女を名乗るなどおこがましいわ!!」


 ()の多くは民衆だった。

 しばらく前まであたり前の日々を送っていた、セイラムという少女の教えに感謝すらしていた筈の者たちが、手に桑や鋤を抱えて押し寄せてくる。


 丘の麓には金属の鎧に身を包んだ兵の姿があり、一定間隔で並べられた台座には足首を断たれ、目を抉られた女たちが縛り付けられている。

 同じく縛られた老婆が鞭で打たれながら涙ながらに叫ぶ。


「あの女はいつも男を寝所へ呼び寄せ爛れた生活を送る売女ですッ、聖女などおこがましい穢れた女なのですッ!!」


 似たような手段で悪評を吐かせ、広め、扇動する者があちこちにいた。

 拒絶した者は例外無く足首を断たれ、目を抉られた。若い女は股を器具で貫かれて出血のあまり死亡した者も居る。恐怖は周囲に伝染し、言わされていた筈の言葉を次第に自ら口にする者が出た。そうやって、生き残るべく必死に、ただただ屈服していった人々は己を正しき座に置くべく信仰するのだ。


「魔女を殺せ!! 穢れた魔女を! 誤った教えを信じた罪を雪ぐのだ!!!」

「あの女の血で罪を洗い流せ!! さもなくば罪と共に燃え尽きろ!! さあ進め!!」


 最早扇動した者までもが嘘と真実の見分けが付かなくなっていた。

 狂乱のまま無数の人々が悪意を叫び、叩き付けてくる。


 今、魂を焼いているのは人か、炎か。


 渦の中で唯一人、門の前に少女が立っていた。

 及び腰の兵士たちは守るべき人物の凶行を止めもせず見守っている。

 彼らもこの狂乱にアテられたのか、己の置き場所を定めることが出来ず、また信じた彼女ならば何とか出来るのではないかと、ただ変化を見守っていた。


 しかし、それは誤りだ。


 聖女と呼ばれた女、セイラムは死の覚悟を以ってここへ来た。

 重く分厚い門の向こう、まともな手段もなく押し寄せた為に手持ちの粗末な武器を叩き付けることしかしていない民衆の叫びを聞きながら、彼女は自らをその渦中へ晒すことで争いを止めようと考えたのだ。


 けれど決意は門へ触れた途端に砕け散った。


 開門すべきか戸惑う兵の視線など考えている余裕はない。


 見上げるほど巨大な門が、震えている。

 触れた掌が痺れを得て、人々の感情を伝えた。

 そこで初めて彼女はこの門と壁が己を守ってくれていることに気付いたのだ。

 出て行けば、この争いは止まる。まだ数日を耐え切ることは出来るだろうが、どれほどの犠牲が出るか分からない。それだけの抵抗を重ねた上で助かるかも定かではないのなら、最小限の被害に留めるべきだ。いつもながらの合理性で以って判断し、覚悟を決めてきた。


「っ、…………っっ」


 どうしても、出て行くことが出来なかった。


 一より百を読み取る頭脳が正確に己の未来を予知させる。

 誰よりも惨たらしく、誰よりも永く苦痛と共に辱められるだろう。

 ともすればここで自決して、死体を差し出させる方が遥かに良いと思えるほどに。

 同時に生死の違いがこの内部を守る者たちの運命にも繋がることを理解している。

 ぶつける対象を失えば間違い無く彼らは生き残れない。この荒れ狂う感情を一身で受け切ってこそ、皆は助かるのだ。だから、自ら死ぬことさえ選べずに門の前で立ち竦んでいた。


 人の感情は怖ろしい。

 悪意であれ、好意であれ。


 俯き、扉に額を押し付けて、少女は呟く。


「ベル…………」


「呼んだかい」


 ここに居る筈のない者の声だった。

 ベルクハルト=ボウ=ノートンは、数日前にリーゼルドの元へ発っている。

 近隣の港町で突如として発生した暴動を治めるべく、援軍を求めてセイラム自身が送り出したのだ。間に合わないことを知っていて、だからこそ。


「どうして……」

「間に合わないはずなのに?」


 見れば、彼はぼろぼろだった。


 傷を探せばキリが無いほどで、顔色は悪く、長衣は破れて血塗れだ。

 駆け寄ったセイラムにベルクハルトは笑いかける。


「寝る間も惜しんで走り続けたからだ……って言えたら良かったんだけどな。途中で上手く合流できたから余裕が出来たんだよ」

「リーゼルド様が援軍を? 南方の騒乱は相当に激しい筈なのに」

「そっちじゃないが、まあなんとかなるさ」


 微妙な、言い回しだった。


 すぐ視線が周囲を探り、違和感を見つけ出す。

 困惑していただけの兵士が招集され、防備が増強されつつある。

 それだけなら援軍を期待できた。だが、遠巻きながらセイラムを見守っていた側付きの姿が無い。生活の面倒を見る立場にある者が主人の下を離れる理由など限られている。何らかの準備、それをする指示が出されたのだ。


「いや」


 一歩下がったセイラムの背が扉に触れて、怒号による震えを感じた為か身を縮こまらせる。

 首を振り、息を止めた彼女は縋るようにベルクハルト見る。


「ごめんなさい。大丈夫、最後にベルと会えて良かった」


「逃げる準備を整えてきた。今すぐここを出るぞ」


 布の千切れる音がした。

 見れば、ベルクハルトの傷付いた長衣をセイラムが掴み、引き寄せている。

 血の滲んだ衣服は何も彼だけの血で汚れているのではない。

 これだけの暴動だ。退路を確保するだけでも相当な血を流したに違いない。


「私が行けばこれ以上無駄な犠牲は減らせる」

「連中が自ら選んだ結果だ。その責任を負うべきは姫さんじゃなく、選んだ本人だ」

「私がずっと語り聞かせてきたの。この言葉が正しいって、信じてもらえるように手を尽くしてきた」

「そうだ。信じて、間違い無く幸福を得てきた筈の奴らが今度は責任を押し付けて大暴れだ。正直、ここまで自分勝手だとは思わなかったな」

「私か逃げればこの屋敷の中だけじゃない、街中で殺戮が行われて、それは周辺の都市にまで飛び火する」

「今まで姫さんが救った命に比べればずっと少ない。それにさ、今まであれほど熱心に感謝してきた癖に、命の危険一つで手の平返してくる連中の為なんかに姫さんが命を投げ出すことはない。屋敷の連中は覚悟を決めたぞ。時間を稼ぐ為に最後まで戦ってくれる。そうじゃない奴はとっとと逃げ出してるさ」

「私が――――」


「もういいだろ」


 突き放し、今尚震え続ける大扉へセイラムを押し付ける。

 怯える姿を目に焼き付けて、ベルクハルトは眉を下げた。

 顎に手をやり、顔を寄せて、恐怖に震える女の子に口付ける。


「もう十分に聖女をやった。人を救った。いろんなものの土台を作った。だから、後は普通の女の子に戻っていい。普通に恋をして、結んで、子を産んで、幸せに暮らしてみろよ。それだって覚悟の要る人生さ。俺は君のとこに居る。俺はさ、聖女さまの君が好きなんじゃない。いつも一生懸命だった君が、それだけで好きだったんだよ」


 涙を流す少女が何を考えているのかは分からない。

「さ、行こう」

 けれど手を引くベルクハルトに、彼女は抵抗しなかった。

 最後に振り返った大扉の向こう側で火の粉があがり、命が燃えた。


    ※   ※   ※


 地下水路。長く留まっていたあの街の地下にそんなものがあるとセイラムは知らなかったらしい。

 おそらく大多数の者が意識すらしていない経路を辿って、二人は松明の灯りを頼りに進んでいく。

 地上の喧騒は今や遠い。すぐ頭上で人が焼かれ、嘆きと共に死んでいくのだと理解していながら、セイラムはどこか浮かれたように鼻歌を口ずさんでいた。


 足取りは軽く、慣れない不安定な足場に姿勢を崩した時などは甘えるようにベルクハルトへ縋りつく。


 当初は無理をしているのだと思っていた彼も、徐々に不安の色を濃くしていく。

 だが、まずは脱出すべきだった。

 周囲を確保して動いたものの、屋敷への突入を許せばどこから話が漏れるか分かったものではない。

 人の覚悟などすぐ崩れてしまう。殊に、手段を選ばない拷問の前では意思など意味を持たないだろう。


「っ……!!」


 時折、セイラムが思い出したように頭を抱えて蹲ることが更に不安を加速させた。

 精神的に追い詰められるだろうことは覚悟していたが、尋常ではないほどの苦しみようにベルクハルトの覚悟こそが揺らいでしまいそうだった。


「大丈夫だ。大丈夫、俺はここに居るぞ」

「うん。大丈夫、大丈夫」


 何度も何度もセイラムは蹲った。


 頭を抱えて、苦しんで、その後で幼子のように甘えてキスをせがんだ。


 徐々に行動が幼稚化していくと気付いたのは何度目だっただろうか。


「頼む、生きてくれ。君を連れ去ったのは俺だ。悪いのは俺なんだ。だから自分を責めるな。死のうとするな」

「うふふ、そんなこと考えてない、っ、よ。もう、ベルは心配性なんだから」

「あぁ、そうだな。じゃあもう少し歩こう」

「えー、もう、しょうがないなぁ。じゃあとびっきり甘くして? してくれたら、私、歩くよ」


 きっと、この瞬間だけではなかったのだ。


 聖女と呼ばれ、人の命を平然と左右するように見えていても、やはり彼女は普通の女の子だった。


 ベルクハルトが危惧していた通り、いや、それ以上に彼女は無理を押してこれまでの日々を送ってきた。


 だからこそ、一度張り詰めていたものが途切れると抑えが効かなくなる。


 精神の均衡が崩れてしまえば、後は雪崩のように押し流されていく。


「ねえ、して」

「あぁ」

「違うの」

「なにが」

「……犯して」

「……あぁ」


 彼女を壊してしまったのは紛れも無く彼だった。

 聖女として生涯を捧げるつもりでいた少女に、それだけが己を赦す理由となって、あらゆる不安も不満も押さえ込めていた女の子から支えを奪った。

 ベルクハルトは確かにセイラムを愛し、いつでも心配していたが、自由気ままに力を貸していただけの彼ではその重責を理解できない。数万の命を差配する重責を知り、彼女の危うさを正確に理解していたのはおそらく、リーゼルド=シーク=ド=クレインハルトだけだっただろう。


 破瓜の血を水で洗い流して、二人は無言のまま水路を進んだ。

 即席の松明が消えてしまった後は手を繋いだまま、身を寄せ合って。


 頭痛はその後も続いたが、むしろ接触を避けるようにベルクハルトは遠ざけられ、掛けた言葉にも空々しい返答があるばかり。


 唯一触れている手だけは決して離さないよう、ふらつくセイラムを支えながら歩き続け、やがて、出口へ至った。



「お待ちしていました、我らが聖女。暴虐の街より奇蹟の帰還、いえ、これは奇蹟の復活と呼んでも差し支えの無い伝説でしょう」



 月明かりの中で痛ましいほど顔を青褪めている姿を何ら意に介さず、青年は諸手をあげて歓迎を示した。

 装飾華美な美辞麗句が続き、それで目の前に居る薄汚れた姿を覆い隠さんとばかりに高らかに謳う。

「……ゼレム? 北方の平定に出ている筈のアナタがどうして」

 ふらふらと、覚束無い足取りで歩み寄ったセイラムが彼の手を取った。

 出立前に話した時ならば感涙して跪いただろうに、ゼレムは触れた聖女の手が泥や煤で汚れているのを見るや払い除けて己の手を拭う。

 呆気に取られる彼女の、もう片方の手をしっかりと握りながら、ベルクハルトが言う。


「そっちの条件は果たした。今度はそっちが約束を果たす番だ」

「えぇ。彼女の身は世の至宝です。何不自由なく暮らせる場所を用意していますよ」

「それだけじゃない。あの悪趣味な祭りを止めさせろ。これ以上は……姫さんの心が持たない」

「…………そうですね。えぇ」


「待って、ねえ、何を言ってるの? ベル? ゼレム、どういうこと……?」


 再び手を取ろうとしたセイラムに、ゼレムは汚物を見たような目で身を引き、尚も寄ってくるのを知るや頬を打った。


「なんだその姿は!! 私の!! 聖女は!! そのように穢れた姿など晒すものか!! 売女のように男へ擦り寄り肌へ触れようとするなど恥を知れ!! 私の聖女はそのような女ではない!!」


 姿勢を崩して膝をつくのを見ればそれにも激昂して足蹴にする。

 暴力を振るえば振るうほどに汚れていく様にまた一層怒り、言葉汚く暴力を重ねようとする。


「そこまでにしときな。お前が北方でどれだけ絶望したのかは知らないけどさ、姫さんへ手をあげることまで許した覚えはないぜ」

「黙れェ!! 私は絶望などしていない! 世界は遍く聖女の慈悲によって救われるのだ!! 誰一人例外無く!! 私はっ、私もっ…………、っっっっっっ!!!」

「だから……止めろって言ってるだろ!!」


 暴力では到底勝ち目が無かったのか、あっさりと叩き伏せられたゼレムは態度を急変させた。


「嫌だぁ!! やめっ、やめて……!! ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ゆるしてっ、私はなにも、なに、も……っ、違う、違う違うっ、私は教えを捨ててなんていないっ、私は、私は聖女によって救われたんだァ……!! いやだ、いやだゆるして、ぁあああ、っっあああああああああああ!!!」


 それは水路で見た景色に近かったのかもしれない。

 見えない何かに怯えて幼児のように蹲るゼレムに、同じく心を病んでいただろうセイラムがそっと寄り添った。

 つい先ほど暴力を振るわれた相手だとしても、それなりの時間を共に過ごし、仕方の無い弟のように扱ってきた少年だった。だから、苦しむ姿を見せられて黙ってはいられない。


 身を抱き、頭を撫でて、優しく宥めていく。


「大丈夫。大丈夫。アナタは帰って来たのよ。だから、もう安心していい」

「う、ぁ、ぁあああ、ああああああああっっっ!!」

「うん、辛かったね。でも、大丈夫だから。そうよ、もういいの。アナタも一緒に行きましょう」

「どこへ?」


「姫さん」

「わからない。でも、ベルと、私と、ゼレムで、それなりに楽しい日常へ」


 抱かれていたゼレムが凶行に及ぶのと、ベルクハルトがセイラムを引っ張って引き剥がすのは同時だった。

 力が強い分、離れる側に軍配があがる。また容赦の無い蹴りが彼の腹部に突き刺さって悶絶している間に、ベルクハルトはセイラムを背に庇った。


「がァっ、っは! ぁああ!! 黙れ偽物がァ!! セイラム様がっ、私の聖女がそんなことを言うものか!!」

「黙ってろ」

「止めてっ!!」


 静止したセイラムを無視してベルクハルトは蹴りを入れる。

 また怯え出すのかと思われたが、ゼレムは地面に転がったまま痛みと恐怖に涙と洟で顔をぐちゃぐちゃにしながらも叫ぶ。


「あの煉獄さえも聖女を焼き尽くすことは出来ない!! 不敬な者共も思い知るだろうっ、私の聖女は永遠の乙女なのだっ、滅びを知らず、穢れを知らず、世の全てをお救い下さる方なのだ!! 嗚呼、聖女さま、私は貴女へ尽くします。たとえどれほどの犠牲を払ってでも、どれほどの屍を積み上げようとも、世は遍く貴女によって救われるのですから!!!!」


 それが、今回の暴動を扇動した理由だと、後の世で裏切り者と語られるゼレム=ノア=クレアラインは宣言した。


 あらゆる策謀を巡らせてきたセイラムもあまりにも滅茶苦茶な物言いに言葉を失う。

 ベルクハルトだけが冷たくその姿を見据えて、そっとセイラムの身を庇う。


「もうコレは諦めろ。身に降りかかったものを認められず、周りを書き換えることで目を背けているだけだ」


 尚も続く狂ったような賛美にただ眉を寄せるだけ。

 しばらくして後続の侍女衆が到着し、ゼレムの姿には絶句していたものの、主人の薄汚れた姿を見るや大慌てで場所を用意して身を清め始めた。


 あまりに多くのことがありすぎて、今すぐにでも倒れそうになっているセイラムだったが、日頃自分を支えてきた者たちとの合流で少しだけ身を持ち直したようだった。


 都市からの脱出には成功したものの、未だ騒乱は続いている。

 離れるならば早い方が良い。

 扇動の主導者であるゼレムもこの調子ではまともに機能するかは分からない。

 とはいえ一時の安心は得た。そんな、ある種弛緩した空気の中でソレは起きた。


 探査音(ソナー)が世界を震動させた。


 大きな変化はない。

 光や雷光が弾けたりといった派手さもなく、風が荒れ狂うことも無く、あるいは宗教画に描かれるような天使の出現すらなく、何よりも聖女と謳われたセイラムではなく、その衣装を準備する白髪の侍女の腕の中に、



 こてり、と異形の生物が転んだみたいに落ちてきて、収まった。



 反応出来たのはセイラムだけだった。

 着替えを終えた直後だったのもあり、衣装籠に落とされた生物を覗き込む。

 異変という一事だけでセイラムの元へ駆けつけたベルクハルトが息を呑む中、その生物は首を傾げ、凶悪に口の端を吊り上げて告げた。


《やあ――僕はジル。平たい家から転げ落ちた力有る翼だ。君を閲覧し、操作しないで記録する。翻訳合ってる?》


 多分合ってないよ。

 ()の突っ込みは届かないまま、場面は運命神と呼ばれた存在の側へと切り替わっていった。


    ※   ※   ※


 運命を操るとされる神、ジル=ド=レイル。

 聖女セイラムに加護を与え、やがて月へ召された後の彼女と、その信徒たちを永遠の楽園へ導いてくれるとされている存在だ。


 聖女信仰の根強い大陸西方では当たり前にその名が語られるが、具体的にどのような神なのかはあまり知られていない。地方それぞれの神が文化の交じり合いと共に輸入されて、全く別の神話で名を変えて登場するというのも歴史には存在するが、運命の操作という絶大な権能を持つ神にしては驚くほど情報が少ない。

 神の子を謳う十字教でさえ世界の創造という大きな出来事にその功績が語られているが、運命神は取り立てて何かをしたという話は聞かない。

 あえて言えばセイラムに力を与えたことだが、神にしてはポッと出が過ぎるし、後に姿を現したというような話もまた、無い。


 しかし、その姿はあまりにも『機神』と酷似していた。


 背の大きな歯車の翼であったり、爪の鋭さなどの違いはあるものの、原型になったと言われれば納得してしまうほどに。


 またラインコット領では密教のような状態で信仰の対象になっていて、明らかに莫大な財を投じて作られただろう地下祭壇を思えば、どこかの時代で大きな権力を持つ者が作り上げたことは想像に難くない。しかし、聖女信仰の始まった時代以降、あの地域でそれほどの権力者が生まれたという話をとんと聞いたことが無かった。

 一応、近隣にウィンダーベル家の本拠地とされるミッデルハイム宮は存在するが、家紋などにその形跡は見られない。

 そもそも領地の殆どが森と沼地になっているような土地だ。

 農耕の可能な土地を巡って小規模な勢力が争いを繰り返してきたことを思えば、絶大な権力者の存在には眉を顰めたくなってしまう。


 それほどまでに謎の多い存在であったジル=ド=レイルという神が、まさか異界からの来訪者であったなど、誰に想像出来ただろうか。


 ()、目の前で二つの存在が遭遇した。

 滅び行く世界の希望を背負って脱出してきたジルと、燃え盛る都市の怨嗟から背を向け逃げ出してきたセイラム。


 転げ落ちるように世界を渡ってきた彼を受け止めたのは、白い髪を持つ少女だ。


 衣装籠から顔を出す異形の生物に目を丸くする彼女とは対局に、セイラムは魅入られたようにジルへ駆け寄り、伸ばされた大型前腕を手に取る。


 ジルは友好を示すコンタクトが成功したことに安堵して、周辺の状況を探っていた。

 やや遠方に大きな熱反応があり、生命と呼べるものが急激に減少している。コロニー内部に植えつけられた植物の胞子、周辺ではそこにしか無い筈のものを外装部へ付着させた固体が幾つかあることから、総合的に見て災害などから脱してきたことを予測した。

 もっと深く探ろうと、過去を読み取ることも考えたが、安易に探索波を発するのは危険だとも言われている。

 細かい性質を理解しないまま動けば、あの熱反応など及びもつかない程の大規模な災害が発生しかねない。

 まずは原始的な手段で理解を深めるのじゃ、という爺さんの指示に従ってとりあえず目の前の生物の耐久性を調べようとした時だった。


《ずっと私たちを、ここを、探っていたのはアナタなの?》


 想定されていたよりも遥かに安定した手段で以って、セイラムからの交感があった。

 拙さはある。対話相手を固定化するでもなく、一方的に送りつけてくるだけで、言語の情報量も少ない。

 また情報が拡散しがちでこちらから拾ってやらなければ言語になったかすら怪しい。


 けれど好都合ではあった。


 原始的な手段での走査はどうしても時間が掛かるし、正確ではない。


 今受け取った信号を解析に回しつつ、不安定だった繋がりをジルの側から固定化する。

 それを感じ取ったのか、セイラムは目を閉じてジルを走査し始めた。ここに居たぞと、そういう証を残す目的もあるのだからと彼は無条件で己を解放した。


 本当はこういう直接交感はとても破廉恥な行いだ、とジルは思考する。

 彼らの中には精神的交感によって固体情報を融合させ、次世代を生み出す者も居た。

 言ってしまえばセックスと変わらない。通常は外部装置に依存した交感網を介して間接的に行うし、閲覧可能な範囲を絞るものだ。

 人間で言えば服を着るようなものだが、彼女にはそれがない。ジルを読み取りながら、あまりにも無防備に己を晒している。しかも物理的にも情報的にも隔絶されていない、公の場でだ。彼らの世界にも時折見られるのだが、どうやらこの固体はビッチであるらしい。


 あんまりにもあんまりな評価だったが、価値観の異なる生物同士がそれぞれの知性で以って行動すればこんなことも起こりうるのだろう。


 計算外であったのは、この少女が持ち得る類稀なほどの学習能力と、常識を容易く崩してしまえる柔軟性、そして何よりも突然変異と呼べるほど強力な交感能力を持っていたということだ。


 ジル=ド=レイルという存在が持つ記憶、情報を知る間に今し方された固定化を習得し、交感技術を発展させていく。

 数千年、数万年分のブレイクスルーをあっさり受け止め、危険を感じたジルが攻勢防壁を起動するも眉一つ動かさずに無効化させた。その他情報隔壁は素早く信号が置き換えられて、慌てて自分を走査する様すら情報源として学び、利用し、誘導していく。


 そして、聖女と呼ばれた少女は髭巻き翼族(オービタリアン)の技術を更に発展させて、ジルが転げ落ちてきた時間へ干渉し、崩壊する世界との繋がりを厳重な防壁の向こう側へ留め置いた。

 無からエネルギーを生み出すことは出来ない。

 惑星の自転や重力、地殻の動きなどから抽出する手段もあったが、必要なだけのものを安定して入手するには向かない。

 世界の崩壊という莫大なエネルギーは、これからのことを考えれば確保しておいたほうが良い。


 滅びの因子が流れ込む危険については、零時点を基点に生成した世界を貯蔵庫としておけば最悪の場合に切り離しが可能。


 化学によって原子構造を分解したり結合させるように、零時点より発生した世界Aを純貯蔵庫に、更に派生させたB・C・D・Eへエネルギーの性質を抽出しながら送り込んでいく。同様の構造を複数作り出すことで安定性を高めることが出来た。また実験場となる世界を作り、力の作用や性質などを丹念に研究し始めた。幾つかがそのまま崩壊し、多重に経由した世界のおよそ八割が滅びの因子に侵食されて放棄される。この過程で消費されたのはセイラムとジルが出会わなかった世界で、やがて可能性は淘汰されていった。


 夢中だった。


 必死だった。


 突如として目の前に現れた存在の力があれば、不可能を可能にすることが出来る。

 常識に囚われない常軌を逸した柔軟性によって、その固体を端末化することに決定したセイラムは容赦しなかった。

 元より大の為に小を切り捨てることも出来た彼女からすれば、異界からの来訪者の望みなど真っ先に無視すべきものだ。

 相手側に後続と呼べるものが無いことも幸いした。つまりはこの固体さえ抑えてしまえば、技術も力も完璧に独占が可能なのだ。


 人の命が失われている時に、躊躇している時間など惜しかった。何よりジルという固体もまた、セイラムや人間という生物を特別に扱うつもりがなかった。知性があることは認めるが、原始的でそこらの虫や獣と大差がない。多様な種族の入り混じっていた世界の住人からすれば、銀河の巡る膨大の時間の中に在って、一時的に知性を勝ち得ただけのことは珍しくない。尊重し、無闇に殺すことはしないが、営みに介入するつもりも無ければ、あの炎に焼かれる人々を助けようなどとは思ってもいない。


《ア。アア、アアアバアバアバ……アアアアアアアアアqr:w!! qr:w、qr:weqeeqeァァアアアア――――!!!!》


 そうして、滅び行く世界から転げ落ちてきた存在は身の内の全てを喰らい尽くされた。

 予想外であったのは、ジルが無作為にばら撒いた信号が時間を超えていったことだ。

 慌てたセイラムが抑え込みを図ったが、一歩間違えば数百もの世界が巻き添えで滅びかねない作業の最中、広げた網に掛かったのは半分にも満たなかった。


 死の瞬間、彼は大きなお髭の老人からの頼まれ事を必死になって果たそうとした。


 世界に足跡を。


 ここに居たのだ、と。


 力が、意思が、物質が、それらの破片が、ばら撒かれた。


    ※   ※   ※


 そこからの経緯は見るも無残なものだった。

 圧倒的な力を得たセイラムとその使徒たちはあらゆる敵を粉砕し、蹂躙し、支配していった。

 独自の魔術を形成していた現代フーリア人とは違い、まだ魔術の萌芽すら見られなかった土地では対抗する手段が存在しない。

 銅剣を振り回している時代に現代以上の力でセイラムの魔術を使えばどうなるか。なにせ彼女自らがその場に居て、力を注いでいるのだ。当初は属性それぞれの制約すら無く、望めば山一つを消し飛ばすような破壊すら可能だったらしい。元は世界の崩壊から抽出された力だ。たかが星一つの僅かなおうとつなど、有って無いようなものだったに違いない。


 大陸を西から東へ、確かにセイラムの力は伝播し繋がれた。

 踏破困難な北方や、未開とされた密林や群島などのある南方へは手が届かなかったものの、確かに当時、人の生きる文化圏をほぼ制圧したとも言える。


 私見ではあるが、この時に伝わった魔術について、東方では独自の解釈を得て後に開発が始まったのだろうと思う。

 時代が変わって交わることが無くなれば信仰は土着のモノと交じり合って変わり行く。あるいは異なる文化圏に蹂躙され、消え去ったか。

 故に現在の東方にセイラムの影響力が及ばず、また西方を怖れ、遠巻きにする根拠にもなっているのかも知れない。


 かくして世界制服を果たしたセイラムだったが、圧倒的な武力には常に反攻する者が現れる。

 運の悪いことに、自らが喰らったジルの食べ残し、彼の撒き散らした力の片鱗が徐々に彼女の首を絞めていったのだ。


 やがて当初ほどの大きな力を振るうことの出来なくなったセイラムは周囲の信仰を失っていき、いつかのように包囲を受けて、今度こそ囚われた。


 詳しい内容については……いいだろう。


 かつて転げ落ちたジルを受け止めていた白髪の少女、その時にはすっかり美しい女となっていたが、彼女の手引きによって脱出に成功したセイラムは、かつての友であるクレインハルトの血族を頼るも、あくまで穏当な措置として外洋への流刑とされたのだ。

 妄信していたクレアラインの血族とは違い、ノートンの男は変わり行く彼女を見ていられず姿を消していたが、身の破滅を聞くや後を追って外洋を目指した。北方の島国で名高い海賊らと手を組み、太陽石を手に旅した果てで彼女の足跡を捉えるも、そこでもまた同じような結末を迎えていたことを知るや、失意のまま大陸を去った。入植しようとしていた海賊らが、現地の住民と揉めて追い出されそうになっていたという背景はあったが、結局ベルクハルトはセイラムを見捨てたのだ。


 最も一緒に居るべき時に彼は姿を見せず、幕間で右往左往するばかり。


 挙句残した航海日誌が後の大量虐殺や奴隷貿易を生んだ、なんて、本当に救いようがない。


 撒き散らされた記録の破片を辿り、ここまでを読み取ってきたが、()はセイラムを理解出来なかった。

 人を愛し、正そうとしていたのは分かる。

 根気強く自分の考えを言葉にして、相手の理解を得ようと試行錯誤していた。

 多くの不幸に晒されながらも希望を夢見て語らうことを忘れなかったことは、本来称賛すべきことなのだろう。


 だけど、分からない。


 彼女はなぜ、そうまでして人を救おうとするのだろうか。


 目の前で失われそうな命を見た時、人はそれを助けようとする。

 本能としてそうなのだ。俺自身、理由なんて必要ないとも思う。

 ただ混沌とした世界にあって、何不自由無く暮らすことの出来た良家の娘が世界に異を唱えた、その最初の感情が見付からない。


 打算的な所は確かにあった。

 聖書に語られるような純白の乙女では決して無い。

 合理的な判断と、類稀な洞察力、常識に縛られない柔軟さ、なにより道理を弁えて筋を通す政治手腕は救世主というよりは英雄的な指導者と言えた。

 成功してきた結果から周囲が勝手に聖女と呼んでいたのだとしても、そう思わせるものがあるからこそ人は彼女を教義の柱としたのだ。


 最初から最後まで、彼女は人を導く歯車だった。


 所詮は理解の出来ない化け物。

 歴史に名を残し、数百年に渡って信仰される人間ともなれば、常人の思考とはかけ離れていたっておかしくない。


、そう切って捨てることは簡単だ。


 だけど今、彼女が紛れも無く人間であったことを知った。

 聖女セイラム、そう呼ばれた人物が実在したこと。多くの辛苦を乗り越えて、終わりを迎えて尚も進み続けてきたこと。理想を胸に抱きながら、時に冷酷とも言える判断を下すこともありながら、当たり前の少女として寄り添ってくれた男へ恋心を秘めていたことを、知った。

 言葉の通じない狂人のままであったなら、これまでのように切り捨てることもしただろう。

 意思を感じる。

 ここはセイラムの身の内だ。

 本人ですら見失っていた過去を掘り起こし、触れることさえ出来る。

 触れて、彼女の内心にあった葛藤を知ることが出来た。


 ならばもう、見捨てられない。 


 聖女と呼ばれた女の心の内へ分け入って、根源となる意思を、衝動を理解しよう。


《そうでなければ届かない。フロエの生と、メルトの生と、俺や、皆の幸福に、手が届かないだろう?》


 なあ――セイラム。


 人を引き摺り込んでおいて、

 こんな記録を撒き散らしたまま放置して、

 理解もされたくないだなんて、まさか言わないだろう?


《どうせ俺はもうアンタに囚われているんだ。だったら腹を決めて、話していくしかない。そっちから引き込んだんだぞ》


 前のようにすれ違いみたいな対面では終わらない。

 俺はここに居る。

 突き放されてもこっちから喰らいついてやる。


 皆には後を任せると言って来たんだ。


 その俺が眠りこけて、ただ皆の得た功績を受け取るだけだなんて出来るか。


《答えろよ…………っ、セイラム!!》


 力一杯の訴えに何かが大きく反応したのが分かった。


 引き摺り込まれた先で記録の渦に囚われていた時とは違い、確かな肉体の感覚が手に入った。

 なのにまだ、なにも見えず、なにも触れられない。肉体を感じるのに外部からの影響を全く受けない。無感覚の海に溺れそうになった。


 溶けていく。このままでは意識が周囲に溶け出して薄まって消えてしまう。

 肉体は魂の殻であるが、その肉体が感じる五感もまた精神の殻なんだろう。

 無感覚の中で人は己を保てない。


 ふざけるなと言いたかった。


 こんな、なにも無い所へ放り出して応じたとでも言うつもりか。


《俺はここに居るッ、セイラム――お前もここへ来い!!》


 地に足がついた。

 目の前を、周囲を猛吹雪が埋め尽くしていく。

 何も無かった地面には雪が積み上がり、あっという間に周囲を白く染めた。

 劇的に変化していく外側に従い、肉体はあっさりと己を獲得した。まだ違和感の残る状況ではあったが、確かに俺はこの空間へ降り立った。


 唖然とする俺を置き去りに、何かの意思は周囲を飛び回って現実を構築していく。


 そして、終えた途端、だ。

 多分、目が合った。意識的な、それと感じるものに過ぎないが、確かに視線が交わって、そして。


 ずさあああああっ、と後ずさっていく何かを目で追えば、遥か遠くの岬に魔女の塔みたいなものが出来上がって、頂上に灯りが点る。

 逃げていったのが誰かなんて考える必要は無い。

 ここは彼女の懐の内だ。


 つまり、そこまで来いと、そう言っているのか……?


「おい……」


 ちょっとだけ気持ちが前に向いた後でなんだが、なんか、滅茶苦茶遠いんだけど。


 ついさっきまで姿は見えなくとも至近に居るという感覚があったのに、今はこの猛吹雪の遥か先にまで遠ざかってしまった。

 なのにしっかり見られているのが分かるから、余計に腹が立ってくる。


「ここで話せばいいだろ!? 無駄な労力を掛けさせるなっ、急いでるんだよ俺は!! しかもこの猛吹雪の中で夏服のままなんだぞ!! いや正直寒さは感じてな……敢えて寒くする必要は無いから戻してくれ。しかも防寒具やテントの用意どころか大量の食料や燃料まで……こんなもの用意するくらいならお前が来いと言ってるだろう!?」


 じゃあもう行くからスノーモービルでも寄越せと訴えてみたが、時間を縮める類の対応はしてくれないらしい。

 お詫びのつもりか頭でちらっと考えた餅と火鉢が出てきて驚く。

 ならお米食べたい、考えてたら本当にほかほかご飯と焼き魚と味噌汁とお新香が出てきて頭を抱えた。

 どうやら俺が彼女の記憶を覗いたように、彼女も俺の記憶を覗いたのだろう。知る筈も無い日本食が、懐かしい香りまで忠実に再現されている。集合体などと言われても、薄れ行く記憶のなかにそれらはあり、感慨だって湧いてくる。


 物凄く惹かれるのは事実だが、ここで食いついたら負けな気がして無視した。


 出てきた物資も防寒具だけは拝借して後は無視。


 沈み込む足を持ち上げて前へ。

 一歩進むのさえ難儀する中、いつも通りの前進を始めた。


「分かったよ。そこまで行ってやるから今度は逃げるな。そして……次は俺としっかり話をして貰う」


 風が耳元を掠めた。


 遠く、塔の上から応じる声を、聞いたような気がする。





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