192
破城槌が降下を始めている。
このままでは小隕石の衝突にも等しい衝撃がデュッセンドルフ全域を襲い、誰一人として意識を保っていられないだろう。
認識が甘いのは奴もだ。その衝撃によって巻き上げられた粉塵が長期に渡って日光を遮り、寒冷期を呼び込むこともある。この場で命を助けたとしても後の食糧難や貧困によってどれだけの犠牲が出るのか分かったものじゃない。流石に宇宙から落下してくるほどじゃないにせよ、被害は確実に発生するだろう。
「まず」
声を掛ける。
「まず、落ち着け。アレは十秒二十秒で落下してくるものじゃない」
一万メートルだ。
どれほど強大な破壊力を持っていようと、長大な距離を瞬間移動みたいに越えてくることはない。
単純な自由落下では一定速度へ達した時点で落下エネルギーと空気摩擦の値が均衡して加速が止まる。垂直落下の限界速度というのは質量に係わらず同じの筈だ。
魔術に拠る降下の力を加えているから実際よりは加速が強い。それでもまだ時間はある。最終的に音速を超えるのだとしても、瞬間的になんて不可能。これだけの広範囲に及んでいる以上は考慮すべきか微妙だが、魔術の効果範囲内へ収めるために制動を掛ければ減速するし、奴の言うように魔術的な第三の腕で以って引き寄せるのなら自由落下と同じだけの速度になるかは分からない。むしろ、初速は通常の落下よりもずっと遅くなる筈だ。狙いを定め、慣性を落ち着かせる。月が一定の速度で周期するように、まずは安定させなければ降下すらままならない。
かつてジークが逃げ損なったのは動揺故だ。
奴にはったりを効かせて釘付けにしなければ、あっさりと逃げられていた可能性だってある。
あの時の感覚から言って、二分か三分。ざっくり音速で一万を割った時間や、加速への必要時間を計算しても随分と長い。
状況を並列で動かせ。
指揮という行為に固執していては間に合わなくなる。
「メルト、まずベイルへ状況の伝達を。外部とも連絡を取って意見を集めよう」
「突入中の本隊を戻した方がいい。万が一失敗した時は奴らに後の事を任せられる」
ジンが付け加えたことに頷いて、すぐ追加の念話を送らせた。
「フィラントからの協力は得られないか? 前に言ってた魔術を断ち切るって奴、アレが出来れば一気に解決する」
「彼が使う魔術自体がセイラムによって強固に結び付けられたものから発せられている。高確率で失敗するだろう。そしてその時、俺たちの魔術も使えなくなる」
「だが最終手段としての用意があってもいい、だろ?」
「そうだな……フィラントとの連絡口はリリーナか。いや、そこは陛下に任せよう。メルト――」
適宜の情報提供は状況が錯綜する原因にもなり得るが、陛下なら十分に扱いきれる筈だ。
今は一分一秒を争う状況。思いついたことは即座に共有した方がいい。
「もっとてっとり早い方法があんだろ」
挑戦的な声で言うヨハンは既に目標を定めている。
サーベルで肩を叩きながら、戦ってみたいとその目が語る。
「結局アレを維持してんのは術者だ。あっちのハイリアを倒せば上のは消える。だろ?」
「分かった。『盾』と『弓』を中心に部隊を編成し攻撃に当たれ。ヨハン、お前が選出し、指揮をするんだ」
「……あぁ、任せろ」
戦いになるならここは危険だ。
奴がどこへ向かうつもりなのかは知らないが、本気で暴れられたら陛下たちだって危ない。
「ハイリア様、具体的な対処法について幾つか案が出来ました」
「片手間ですまないが聞いている。ジン、任せるぞ」
頷くジンに判断を委ねて、聞き耳を立てながら届いた念話へ意識を向けた。
こんな時でも紙とペンを持ち歩いているくり子が、ボードに目を落としながら読み上げていく。
背後で実演としての作業が進み、状況が進む。
「まず『槍』で穴を作り、そこで衝撃をやり過ごす。次に、射程に入り次第『弓』による集中射撃で破城槌そのものを粉砕する。最終的に『槍』の集団で落下してくる破城槌へこちらも破城槌をぶつけて破壊する」
「場所の選定が重要だな。生半可な状態では逆効果にもなり得る」
「『盾』の数を揃えられれば、二次的な衝撃や土砂は防げます」
「なるほど。人員の分布によっては集結地点を複数設けて備える方がいいか」
口を挟む。
「最初の塹壕策と『弓』の射撃が限度だ。最後の一つは策として対局にあるのを忘れるな」
穴に潜んでやり過ごすものと、飛び出して真っ向から潰しにかかるのでは目的が違う。最後まで破壊に固執するのなら予防策としての塹壕より打撃可能な機会と確実性を増すべく動いた方が良い。共存は半端にしかならないだろう。
「はい」
「徹底するべきだな。やっぱり俺は回避策のが現実的だと思う」
「ではそちらで固めます。より深く、衝撃を緩和し、後の生き埋めへの対策は――」
「先に行くぜ!」
ヨハンがクラウドを始め、数名を連れて駆け出した。
「任せる!」
振り向きもしない。
彼らが最も危険な状態になるが、事態を解決する一番の手であるのは間違いない。
変化する状況を意識しつつ、意識に響く声を聞く。
《ハイリア》
陛下だ。
《エルヴィスのワイズ=ローエンが直接伝えたいことがあるって》
《分かりました。繋げてください》
少しして、聞きなれたキザったらしい声が聞こえてくる。
《お困りのようだね》
《本気で困っているから余計な話には付き合わない》
《ふふっ、分かっているよ。では情報提供を。上を見たまえ》
反論も反対も時間の無駄だ。
焦るなと言いつつ焦っている自分を感じながら、空を見上げた。
もう随分と落ちてきている。雲の一部が散らされているのは通り抜けた破城槌によるものか。
《偏っていると思わないか?》
見る。
いや、
「くり子!」
すぐに今の言葉をそのまま伝えた。
「っ、そうです! 偏りがあります! 配置の大半がデュッセンドルフ西方で、東側は南部方面に延びている。たしかに北東部にも幾つか在りますが、妙に偏ってる……」
《私は君に魔術を指導するつもりはないが、起きた結果には何か意味があるのだろう? 少なくとも北東部の丘側へ回れば生存率は上がると思うが、どうかね》
《感謝する》
《っ、ふん――》
唐突な印象を残して念話が切れた。
素直に感謝を伝えたのにどういう訳だ。
《ハイリアへ直接伝えるって聞かなかったから、ごめんね》
《いえ、あの男は昔から意味不明なところがあるので》
ともあれ、根本的に魔術の効果範囲を超えて破城槌を配置していることが一番妙だ。
そのカラクリさえ分かれば、最悪でも一本か二本だけに絞りきれるかも知れない。
「っ、ハイリア様!!」
悲痛な叫びに促され、再び天を仰いだ。
破城槌が、遠目に見て分かるほど明確に、加速を始めていた。
「っっくそったれが!!」
正確な計算なんて出来ない。
ただの印象だ。
だが、奴から受け取ったコツという奴が影響しているのか、自然と数字が浮かんでくる。
残り、およそ三十秒。
※ ※ ※
ティリアナ=ホークロック
息も絶え絶えで腰を下ろす。
貰った傷口から血が滴って化け物じみた白い肌を染めていった。
「……やるじゃないのさ、坊や」
立てなくなった坊やが呻き声もあげずアタシを観察していた。
間接に二本、急所に一本、それ以外にも掠めたのが一杯。
だけど急所は外されてるね。ありゃあ骨で受けた感じだ。あんだけ景気良くぶっ刺さってるってのに泣き叫ばないなんて、全くどういう人生を歩んできたんだか。でももう駄目だ。構造として立てない。悪あがきで何かを投げてきても、対処出来るだけの距離は保ってる。他の二人も片方は勝手に倒れたし、もう片方だって自分で撒き散らした破片に頭をぶつけて目を回しちまった。愉快ではあるけどね。
「はは、まあ久しぶりに楽しい日々だったよ。あぁ、楽しかった」
空を仰げば馬鹿みたいな出来事が埋め尽くしている。
なんだいありゃあ。
想像もつかない。
あんなことがこの世にあるだなんて思いもしなかった。
面白い。
面白いけど、それだけさ。
面白いは娯楽だ。無きゃ退屈するけど無くても生きていける。
生きていけるけど、娯楽が無いのは本当につまらない。
あの『槍』の坊やが最たるモンさ。
言う事成す事退屈さ。
でもアタシに我が子をくれるってんなら協力もする。都合良く使い潰される未来ばかり見えてくるのは、アタシがそういう生ばかり送ってきたからか。まあセイラムでも坊やでも変わりゃしない。
屋上の縁に寄りかかって息を抜いた。
とりあえずここでの仕事は終わりか。
僅かに身を起こそうとした坊やを見てアタシは笑った。
まだ何か出来ると思ってる。
だから目を離さないんだ。
観察して、機会を、あるいは情報を持ち帰ろうとしている。
「あぁ、そういやアタシの元へ辿り着けたのはアンタらだけだったね。それだけは誇ってもいいぜ? まあ、十七も部隊送り込んでしぶとく寄せてきてたおかげでまともに戦えたってのもあるだろうけどさ」
とはいえ骨が折れた。
アタシは特別細いからね、あんまり働かせるとぽっきり逝くのさ。
「空が、青いねぇ……」
終わりの時は近い。
アタシらはぶっ壊れてもまた使いまわされるが、坊やたちはどうにもならないだろうね。
勿体無い。
惜しい。
でも、どうにも出来ない自分らを恨みな。
せめてアタシくらいトバせる奴が居れば何とか出来ただろうけど、昨日今日で出来るようなことじゃないからね。
そういうもんさ、と、
「……ん?」
いつものように、かつてのように目を閉じようとした時に、何かが来た。
それは、声だった。
※ ※ ※
ジェシカ=ウィンダーベル
眼鏡がさっきからやかましい。
静かにしろと言うのに落ち着かない。
こういう所は問題だな。私が黙れと言ったら黙ってくれないと、その内拳で黙らせることになるからだ。
「だ、だってアレ!? アレって昔ハイリア様がやったって話題になってた雷帝の一撃ですよ!? あんなのが五十も落ちてきたら死にますよ!?」
「逃げられるのか」
「無理ですよ!! どうやったって間に合わないんです! どうせ術者の意思一つで速度を変えるんですから、最初はゆっくり見せといて詰みの状況へ入った時点で一気に加速して逃げる間も与えないんです!!」
コイツよくそんな性格悪いこと思いつくな。
「だったら放置しろ。考えても無駄だ。私たちは白髪の女を確保するだけだろう?」
「なんでそんなに落ち着いてるんですか!? 死ぬんですよ僕たち!! あぁ、駄目だ、まだ先輩にも想いを伝えてないのに……このまま死ぬなんて嫌だぁ」
うるさい。
一発殴って黙らせて、死ぬのが当然みたいなことを言う馬鹿にもっと当然の事を教えてやる。
「あっちはハイリアの担当だ。アレがなんとかするから、私たちの考えることじゃない」
全く、そんなことも分からず騒ぐとは仕方の無い奴だ。
肩を竦め、地面を蹴った。
幸いにも目的地は目の前だ。
ウィンダーベル家別邸、今ではデュッセンドルフでの本邸扱いとなってアリエス様が滞在されていた場所。
まさか堂々と陣取っていることはあるまいと言われていたが、ここへ来て敵からの妨害が増してきた。
南へ突っ切る時にも出てきたイルベール教団か、もしかしたらウィンダーベル家の私兵かも知れんが私の前に出たのならぶっ飛ばすだけだ。後で叱られるかも知れんが、根本的に私の邪魔をしなければぶっ飛ばさなかったのだから、コイツらの方が悪いんじゃないのか?
どの道ウチは本流から外れた跳ねっ返りの家系だ、何かあっても今更だろう。
正直こんな忙しい状況で細かいことを考えるのは面倒くさい。
ぶっ叩けるものはぶっ叩く、それでいいだろう。多分。
「もうじき何かが起こるさ。その時にお前は、役目を果たしたアイツらに何て言うつもりだ? お前たちを信用しないでブルブル震えていたから何にも出来ていません? 私は嫌だぞ、叱られるだろう」
「最後の理由が無ければとてもかっこよかったと思いますジェシカ様」
女の子にかっこいいとか言うな。
最近知ったことだが、一般にはかわいいが良いらしい。
まあどうでもいい話だ。
ほら、
「っはは」
来たぞ。
「さあ私たちの役目を果たしに行くぞ!」
※ ※ ※
ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト
全て予測されていたことだった。
あの甲冑の中身がハイリアであったなら、彼がかつて使ったという大破壊の力を使用してくる可能性が高い。
死んでも再召喚が可能な術者であれば、尚更あの自爆技を躊躇無く使える。まさか、セイラムとの力関係がひっくり返っているとまでは思っていなかったけど、今対処すべきことは変わらない。
大規模な破壊に加えて質の知れない甲冑を考えれば、一度始められたら対処のしようが無くなる事も、やっぱり予測していた。
流石にあんな数を出してくるのは想定外だったけど。
「本当にいいんだな」
「そうでなきゃ、敵陣ど真ん中にのこのこやってきたりなんてしないし」
むすっと怒って言うと、少しだけ篭った笑い声が来て、私の中がぐちゃぐちゃしてくる。
「実際、良い宣伝になるんだから。結局ハイリアは三つの上位能力について示したけど、最後の一つについては未開発。だけどコレまで揃えばもう飛びついてくる。戦場を一変させる力、人工的な『王冠』への覚醒」
生涯背負うことになる、偽りの冠が刻み込まれる。
私にそんな力はない。私に魔術を求める気持ちはない。王さまとして皆の生きる場所を作り上げていくこと、それこそが私の望み。誰かに縋るんじゃない。誰も彼もを決めていくのが王だ。それに魔術なんて大嫌い。お前はこうだと決めて、決まった役割しか出来なくなる。私はやりたいことが一杯ある。四つしか選択肢が無いなんて絶対嫌だ。だから自力で上位能力に覚醒することなんてきっと無い。
「……安心しろ。お前が王である限り、『王冠』はその傍らに在り続ける。だからルリカ、お前にだけ背負わせたりはしない」
そっちがやってよ、なんて、前なら言ったと思う。
「私は我侭な王さまだから、振り落とされないよう頑張ってついて来てよね――兄さん!!」
私は王だ。
ホルノスを統べる、支配者だ。
自分勝手に世界を作り変える。
私が望み、私が決めて、私が示した先へすべての民を引き摺り込む。
ハイリア、メルト。
二人の事だって取りこぼしてなんてやらないんだから。
「よく言った! あぁ受け取ってくれ俺たちの王よ! いつか渡し損ねた、とびっきりの『王冠』だ!!」
ビジット=ハイリヤークによる『王冠』が展開される。
兄さんが、反逆者である彼が王のこんな近くにいるなんて殆どの人が知らない。居るだなんて考えもしない。
だから、これは私の力だ。ずっと昔、元近衛兵団団長マグナス=ハーツバースが、前王ルドルフへ向けて、自分の力は王のものだと告げたみたいに。
偽りではあったけど、王冠は私の中へ確かに刻み込まれた。
感慨に浸っていた時間は僅か。
長く無駄な時間を過ごした私は、結構せっかちになったんだよ。
設計図を広げ、築き上げる城塞の構造を指定していく。
「力を効率よく受け止められる三角構造を城壁で構築し、内部を脆く拡散するよう作ることで力の流れ込む川を作る! 天蓋部分はアーチ型を採用! 城壁は地下へも伸ばして周辺への地震被害を軽減! 巻き上がる粉塵は降下直後に最大射程で天蓋を張り巡らせて受け止め拡散を防ぐ! 守り切ってよねッ、ここに在るのは全て私のものなんだから!!」
加えてもう一振り。
抜き放った夜立で再抽選を。
届かない一手を届かせる。
配置の変更、指向の変更、未来を決定しうる些細な因子を再配置して、思うが儘に世界を書き換えていく。無数に浮かび上がる可能性を選別する思考が切り刻まれていくようだった。
指示するだけじゃない。私にも出来ることがある。
いつか見た丘の上の景色に、今度こそ胸を張って加われるように。
「っ、っ……! っっっ!!」
頭が痛む。何度も何度も抜き放ったのに、再抽選が終われば夜立は鞘に収まって手元に戻ってる。
呪いみたいだ。刻み込まれた力として、永遠にその全容を見せることなく、この一時が繰り返されるような錯覚に吐き気がしてくる。時間は進んでいる筈なのに、閉じた一瞬の中で回り続けているような気持ち悪さに憑りつかれる。
でも大丈夫、私は一人じゃない。
王の孤独なんて知らない。
私は手の届く全部を手繰り寄せて、夢のような王国を作る。
「ルリカ」
「大丈夫。まだ、いける」
「……あぁ、そうだな。まだいこう。アイツらに胸張れるように」
声が来る。
何よりも強く、願いを込めて。
彼が、告げる。
※ ※ ※
ジャック=ピエール
蹴り飛ばした少女が、受けた衝撃ごと活かして壁を駆け、振り返り様に投げた短剣と針をこちらは弾く。
短剣は振った動きのまま。針は背面越しに。どちらにも毒が塗ってあり、掠めればすぐ死に至ったことでしょう。
「そう逃げないで頂きたい。幼子とはいえ、女性から背を向けられるのは悲しいものです」
「うっさいジジイ」
肩を竦める。
こちらは坊っちゃんの居場所を突き止めたいだけなのですが、どうにも情報源が錯綜していて踊らされている。
近衛兵団の副団長と密約を交わし、そこへ誘導してくれるという話でしたが、やはり彼らは平然と私を使い潰すつもりなのでしょう。えぇ私も邪魔はされたくないので、居場所がはっきりすれば斬り捨てるつもりでいましたが。
ミシェルは猫のようにこちらを威嚇してくるばかりで、一向に情報を開示してはくれない。
仮に今の居場所が分からずとも、最後に会った場所が分かるだけでも探しようはあるというのに。
「……しかし、どうやら時間切れのようですね」
先ほどから見えていた青い風。
立ち昇る様を眺めていれば誰もが気付く。
かつてハイリア様の成した高高度からの破城槌降下。
一体どのようにしてか、あそこまで広範囲に設置し、すべてが噂に違わぬ威力を発揮するのであればデュッセンドルフなど跡形も無く吹き飛ぶでしょう。
追えば逃げるというのに、他へ気を向ければ顔を出し、様子を伺ってくるミシェルへ肩を竦めました。
坊っちゃんから聞いた想像を超える世界の背景、これまで見てきたハイリア様の為さりよう、後は単純な勘。それらを一纏めにして導き出した予測として私は彼女があらゆる可能性を内包したミシェル=トリッティアであると結論した。
ですが妙なのです。
あらゆる可能性を内包しているのであれば、どうしてこの世界を生きた彼女が居ないのか。
成長し、暗殺を止め、料理屋を経営して歳若い少年少女を気に掛ける。
全く人は変わるものだと思ったのですが、何故かその片鱗が見えてこない。
解せない、というよりは腹立たしい。
根拠も無く侮蔑を向けたくなる。
「一体いつまで自分を誤魔化しているのですか。貴女は結局何も出来なかった。身の内に抱え込んだ少女の真実にすら気付けず、少年を苦悩から開放することも出来ず、ただ死んだという事実をどうして忘れていられるのでしょうか」
それだけではない、とは思うものの。
ミシェル=トリッティアという女が持つ一面を現しているのは紛れも無い事実なのだと。
「うるさい」
「少女の姿になれば、何も出来なかった自分に言い訳が出来ると思ったのですか」
「死ね」
「なのに未練がましく現れて、今や彼らを妨害する側に立っているなど何の冗談ですか。死んでいるべきなのは貴女でしょう。既に終わった者よ」
「殺す――!!」
残り時間は僅か。
私は消えて、貴女は残る。
せめて最後は、本来の神父らしく懺悔の言葉を聞こうじゃありませんか。
「全てを告解し、悔い改めなさい。聖女セイラムの名の元に、私は貴女の罪を赦します」
他の声など耳に入らない。
それを受け取る資格など、もう私には無いのですから。
※ ※ ※
ハイリア
間に合わない……!!
どれほど急いでも、どれだけの解決策を用意しても、絶望的に時間が足りない。
時間という流れに縛られた俺たちには、この三十秒を越えていく術が無い。
ヨハンたちを見た。
果敢に、猛烈に、徹底的に戦い続ける彼らも、奴を止めるには至らない。
くり子やジンの号令に従って塹壕を掘り、『盾』を張っていくも、やはり深さが足りていない。
核兵器から身を守る為のシェルターだって数百メートル地下に作られることを思えば、あの質量弾を凌ぐのにどれほどの深さが必要なのか。
周囲を漂い始めた霧を見て、一瞬だけその力に救われた様な気がしたが、加速を続けるアレを完全に受け止められるだけの構築時間が足りない。いや、『王冠』だけではそもそもあれだけの数を防ぎ切れない。緩和は出来ても完璧な防御には足りない、たった一つでさえビジットは必死だったと言っていたくらいだ。それの五十倍、単純計算できるものではないが……完全な詰みだ。
「っ、は……っっ!!」
諦めを踏み潰し、尚も前を見た。
なのに手が無い。
対策を話し合う、それだけの時間すらもう残ってはいない。
どうすれば。
歯を食いしばって、落ちていく視線をなんとかあげて、でも、どうしようもなく現実が迫ってくる。
指先に感触があった。
見れば、同じく諦めまいとしながらも、一つの結末を覚悟したメルトが居て、震える喉から声を絞り出す。
「メルト」
「はい」
「愛している」
「はい。私も、心より――」
世界を切り裂く音がした。
それは、口笛だった。
最後まで言葉を聞いていれば受け入れただろうに、せめて彼女と共にと抱き合える時間は得られただろうに、あらゆる不条理を蹴り飛ばす男の放った音がすべてを吹き飛ばした。
ここから見える尖塔の一つ、破城槌の降下によって開けた雲間から差し込んだ光の中に彼は居た。
ジーク=ノートンが、尚も天へ睨み付けながら立ち向かっている。
何もかもが頭の中から消し飛んだ。
終わりを飾りつけることも、ほんの二十数秒先に来るソレも、どうでも良くなった。
同時に切り分けられた思考が高速で動き出す。
残り二十秒。
言葉を重ねている時間は無い。
いつものように理屈を捏ねて、反論から身を守る為の無駄を重ねることは出来ない。
たった一言。
そう、それを伝える術を、俺はもう持っている。
足元から銀色の魔術光が噴出した。
忽ち全身を覆い、周囲へ広がって溶け込んでいく。
響け。
魔術の見た目に騙されるな。
聞いてくれ。
魔術は見た目通りの結果を生むものじゃない。術者の心情、受けた者の心情によって傷の深さが変化する。死に至る筈の攻撃に倒れても、混濁の闇に落ちたとしても、そこから回帰する者が居た。何より奴は全てを生かしきるつもりでいる。徹底した破壊と、力の誇示によって心を折って、限り無く受ける側の影響力を排除しようとしている。
ならやるべきはそこだけだ。
踏み止まらせろ。
諦めを蹴り飛ばせ。
百万の言葉には足りぬ時間で、
僅か数秒の言葉を旗へ刻み付けろ。
届け……!!
※ ※ ※
ジーク=ノートン
ふらついた俺の身をリースが支えてくれた。
高い場所って気持ちがいいけど、こうして殆ど目が見えない状態だと風がおっかない。
「……全く無茶をする」
黒い魔術光に縛られた今の俺じゃ、もう魔術は使えないらしい。
『銃剣』による時間遡行も無い。そもそも武器も無い。
「これくらいはな」
本当に、たったコレだけだった。
何の意味があるのかって言われたら、俺だって上手く言えないさ。
でも今出来る一番をって思ったら、ハイリアから見える所で恰好付けるしかなかったんだ。
何にも出来ない癖に、何もかもが出来るような顔で荒野を行く、完全無欠のカウボーイみたいによ。
「……それにしても死ぬなぁ」
「無駄に高い場所を選ぶからだ」
仮に魔術がどうにかなっても、この高さから落ちれば流石に死ぬ。
リースが居るったってコイツも負傷を引き摺ったままだ。延々と螺旋階段を登ってきた時点で二人して冷や汗まみれ。魔術の加護があったって崩壊する塔から完璧に脱出する道筋なんてまるで見えてこない。なにせ一回きりだ。失敗すればそれまでなんだ。
あの甲冑男、アレとの交戦で俺たちだけが意識をふっとばさず最後まで戦ってたからな。やられた連中が完治してて、生き残ったのが重症抱えてるってどういう冗談だよ。まあでも、下手したらこの場にも居られなかったんだから、仕方ねえよなって思う。
思うけど、諦めて堪るか。
必死こいて階段を降りていく。目が見えないってのは特に面倒だ。二人揃ってすっ転ぶしまともに走れたもんじゃない。あーくそ、なのにリースの奴、なんで笑っていられるんだよ。ほんとコイツ、いい女だよ。
「っはは」
最後まで走り続けた。
間に合うかどうかじゃない。
諦めなんて何処かに放り捨ててきた。
出来るから、こなせるからやってきたんじゃない。
出来るかどうかも分からないまま突き進んで、振り向いたら上手くいった、そういう結果があるだけだ。
今この一時を、俺たちは全力で駆け抜けた。
そして、
《――――――――》
そして、
「っっ、間に合った!!」
土塗れでぼろぼろで、血走った目で階段を駆け上がってきたヘレッド=トゥラジアと、その後ろに続く屈強な野郎共が、問答無用で俺たちを担ぎ上げて尖塔から飛び出した。ぶち抜かれた瓦礫と一緒に落下していくのに、どういう訳か不安も無い。
誰も彼もがぼろぼろで、俺なんかよりもよっぽど死にそうな顔をしてやがるのに、まるで痛快な出来事が起きたみたいに笑ってやがる。
「アンタ、アリエスんとこの……」
「穴ん中で救助を待ってるのも飽きてきたからな! 思い切って出てみたら空から破城槌だ。説明できる奴を捜してたんだよ!!」
「俺に出来ると思ってこんなとこまで来たのかよ」
「うるっせえなマカロニ野郎!! ほらくるぞ、死んでも耐えて生き残れ!!」
声が来る。
あぁ、
そんなの言われたら、全力で駆け抜けて、一番いい場所から高笑いでもしながら待ち受けたくなるじゃねえか。
世界よ巡れ。
誰の者でもない、誰も彼もの世界が次の時を刻む。
もう二度と、巻き戻ったりなんてしないんだ。
進め!!
※ ※ ※
ハイリア
吹き上がる銀の魔術光が俺へしがみ付くようにして絡みついてくる。
セイラムの感情が、粘ついた無数の声となって身を包んでいく。
――目の前をアーモンドの花びらが横切った。
意識がほんの少し外へ向く。
――風を受けて小さく舞い上がったソレは円を描いて回る。
刻一刻と身の内を削り取られていく感覚に心底震えた。
こんなものとティアは何ヶ月も向き合って抑えてくれているのだと気付いて、焼かれる想いがまた少し己を繋ぐ。
いや、押さえ込まれてコレなんだ。
俺からの呼びかけによって相対したセイラムは、まさしく抜け殻のようだった。
ティアの方でパワーバランスが崩れたか、魔術によって無防備に身を晒したことが原因なのかは分からない。
――それは飛行機の宙返りみたいに綺麗な円だった。
周囲に白の蛍火が漂い始める。
メルトが俺の行動に気付き、少しでもと心を繋ぎ止めてくれている。
思えばなんて無謀なことをしているんだろうか。
セイラムを引き寄せるからだけじゃない。
俺はほんの数日前までは死のうとしていた。
この状況で僅かでも死の魅力にとり憑かれれば、ハイリアの意図を超えて影響を受けた誰も彼もが死に至るかもしれない。
抗しようとする皆を僅かでも支え、あの攻撃に耐えられるようにと始めた癖に、道連れを増やしたんじゃ世話は無い。
――あと僅か、その花びらが落ちる頃には落着だ。
なのにどうしてだろう。
今日までの日々が浮かぶ。
楽しかった、それだけの日々。
いつかフロエを救済し、笑えるようになった彼女の周りに、その日々が重なっていく。
いつか別れの時は来るのかもしれない。
だけど一人一人の胸に、決して消えない思い出として残る、たったそれだけの時間が欲しい。
でも、
――視線の端へ濃い桃色の花びらが流れていく。
俺たちだけじゃ駄目なんだと、改めて気付く。
俺の知らない誰かもまた、この一時を作る為に戦っている。
それは味方かも知れないし、敵かも知れない。
俺たち以外の方法で世界を作っていく人だって確かに居るのだから。
――風を受けて翻った。
だから、相手を絞ったりなんてしない。
耳を塞いで聞かぬフリなんて認めない。
なあ、聞こえるだろう?
――落ちていく花びらを、
掴み取った。
《皆!!》
生きる意志を。
負けぬと応じる心構えを。
こんな程度で地に伏せられたままに出来ると思うなよ。
ここに在るのは人々を繋ぐ力だ。
時にぶつかりながら、時に揺らぎながら、それでも手を伸ばすことを是として、前進していこう。
百万の鉄華を世界へ広げる為に。
風が吹く。
いつか誰かの背を押した風と共に、この想いを聞いている筈の彼女へ向けて。
縋りつくような手を自ら掴む――
振り返って皆の姿を見た。
いや、もう、どこにだって皆は居る。
だから、
《後の事は任せた》
何一つ心配はしていない。
《俺も必ず、そこへ辿り着くから》
また会おうと、荒れ狂う嵐の中で、別れを告げた。
《さあ、描いた夢の先へ行こう》
※ ※ ※
ハイリア=ロード=ウィンダーベル
風が吹いていた。
激しい風が。
時に渦を巻き、舞い上がり、叩き付けるようにして暴れている。
数歩先も怪しくなるような濃い粉塵を前に己の居場所を知る。
耳障りな風の音もじきに止むだろう。
太陽を覆い隠すほどの粉塵は予想外だったが、拡散していく様子は無い。
崩れ落ちる瓦礫の音。
耳元を過ぎ行く葦の葉が僅かに甲冑を擦る。
そっと息をつこうとした。
計画通りになったというのに達成感などどこにもない。
むしろ無限に連なる負債をようやく一つ返せたという果てしない焦燥感だけだ。
陽光が遠かった。
舞い上がった粉塵の量が多く、太陽を覆い隠してしまっているのだろう。
思い、だが、違和感に気付いた。
……近い?
距離はある。
だが、雲ほどには舞い上がっていないように見える。
まるで水底へ泥が溜まるように、ある一定の高さになると急激に粉塵の層が濃くなる。
これまでも鍛錬の最中、似たような光景を見てきたからこその違和感だ。何かが、舞い上がる粉塵を押し留めている。そんなことが出来る力は一つしか思い浮かばない。この場には顔を出さなかった、かつての幼馴染の名を呼ぼうとして…………唐突に風が止まったことに気付いた。
無風。
静寂。
静止。
いやむしろ、限界まで膨らむことで形状を安定させるように、爆発的な何かが周囲を覆っていた。
足音がした。
息遣いがあり、苦悶と苦悩を含んだ嗚咽が叫びへ変わる。
張り詰めた何かが弾ける、その直前。
立ち上がる姿を見た。
届かなかった少年の言葉を受け取り、誇らしげに言葉を返す――彼ら、彼女らこそが、
『任せろ』
己の進む道にとって最大の障害になるのだと確信した。
そして、それはどんな偶然だったのだろうか。
頭上にあの男が使っていたハルバードが降って来る。
荒れ狂う破壊の結果としてこんなこともあるのかも知れない。
見事な造形、刃の美しさには芸術性すら感じる。間違い無く業物。なのに不完全だ。完成されていない。
ならばと、この手に柄を握り込み、黒の風で覆っていった。
「いいだろう」
手にしたハルバードで粉塵を叩き、吹き飛ばす。
暴風の中で必死に己を支え、尚も耐え切った者たちを見て、最早過去を重ねる無礼はすまい。
己の持つ最大の罪を前に、最大限の礼を以って告げる。
「貴様たちは俺の敵だ。最早容赦も手加減もしない。俺を止めたければこれより、命を懸けて掛かって来い」
黒の風が吹き荒れる。
割れた大地から飛び出してくるのは『機神』に良く似た異形の存在。
ジルの落とし子たちは恐怖に身を震わせながらも、死に物狂いの侵攻を始めた。
力は繋ぐ。
この世で最も清浄なる青の風を纏って戦い抜け。
俺もまた、新たな一歩を踏み、
――――落ち窪んだ空から声がする。
《おかえりなさい》
《おかえりなさい》
《おかえりなさい》
《おかえりなさい》
《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《愛して》《愛して》《愛して》《愛してる》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《おかえりなさい》《大丈夫》《大丈夫》《Die、じょ、b》――――――――《許さない》《許さない》《アナタが》《アナタが》《アナタが》《苦しんで》《苦しいの》《苦しめて》《アナタが》《やめて》《アナタが》《だいじょうぶだよ》《わたしは》《泣いて》《慰めて》《性愛で》《情愛で》《友愛で》《狂愛で》《愛で》《愛なんて》《狂う》《狂う》《狂う》《狂う》《狂う》《狂う》《狂う》《たすけて》《狂う》《狂う》《狂う》《狂った》《たすけて》《苦しい》《愛して》《おかえりなさい》《あなたのために》《わたしのために》《殺して》《終わらせて》《終わらない》《終わらせない》《終わるのよ》《無駄だった》《苦しめた》《殺してよ》《愛してよ》《愛させて》《消えてしまいたい》《待って》《待って》《待って》《待って》《まだ》《まだ》《帰って》《帰って》《来て》《駄目なの行かないでその先には地獄しか待ってない》《私がアナタを繋ぎ止める終わらせたりはしないから》《終わらせる何もかもを終わらせて始めてくるくると回って居場所を作る》《まだ終わらない》《終わらせない》《愛してる》《この腕に抱いてアナタを愛するの》《苦しめて》《泣かせて》《突き放して》《斬り付けて》《腸を抉って泥の中へ打ち捨てて》《失うくらいなら》《何もかもの罪を背負って世界を救う》《ワタシは誰》《誰?》《失った》《分からない》《腕が生えるのいっぱい生えるの無数の腕が暴れまわってあなたを抱くの》《大丈夫》《もう失わない》《この腕でアナタを守る》《抱いて閉めて包んで箱の中へ閉じ込める》《ゆらゆら揺れてお眠り坊や》《永遠に》《永遠に》――――《巡る》《巡っていく》《止まらない》《鍵を開けたのは誰》《誰だ》《誰かが》《あぁ愛しい子》《この腕に抱かれて》《抱いて締めて潰して混ぜて》《くるくると回して均一に》《離さない》《溶かして溶けて交じり合う》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタは》《アナタは》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》《アナタを》――――――――――――――――《みつけた》
踏み抜いた地面の底へ組み伏せられ、砕かれ、磨り潰され、喰らい尽くされた。




