190
長くなりましたが区切りたくなかったので纏めてます。
アリエス=フィン=ウィンダーベル
決闘はもう始まっている。
じっと見詰めていた時計の針が所定の時間を示した後も、しばらく目を離せないまま固まっていたことをぬるくなった紅茶を飲んで誤魔化した。
部屋の奥、私の居る場所からそう離れていない寝台からは、呻き声が聞こえなくなって久しい。
時折掠れて聞こえてくるのは落ちた意識が強制的に引き戻されているからでしょうね。
音を立てないよう、細心の注意を払ってカップを置いた。
淹れ直そうとするメイドを制して手を元の位置へ。
足音が近付いてくる。
「ハァ……全く、長い年月をかけて加工に適した状態を作っていたというのに、ここまで出来が悪くなっていると手間が掛かります」
朗々と語る男の声は蛇のように巻きついて耳の奥へ侵入してくる。
私は少しだけ視線を部屋の奥へ向け、小さく息を落として目を伏せた。
フロエ=ノル=アイラが薬漬けにされたまま気を失っている。
その事実をしっかりと認識したまま、手を下した男と、自分自身を意識に刻み込む。
手指を膝の上で組んだまま顔をあげると、ヴィレイ=クレアラインが蛇のような目でこちらを見ていた。
触れられてもいないのに舌で舐め上げられたような不快感を覚えるけれど、示した所で得意気にするだけ。無視して語るべきことを私は語る。
「進行度としてはどの程度かしら」
「進行度……ですか。えぇ、そうですね、元々完成状態には達していた素体ですから、九割といった所ですね。ただ予想外の、無意識での抵抗があるようですから、再調整に時間が掛かるかも知れません」
「クレアライン」
「……はい」
はしたなくも脚を組み、背凭れへ身を預けた。
「東方の国々から齎された活版印刷や羅針盤といった発明品を、当家では多額の資金を投じて改良・量産化を進めてきたわ。別にその二つだけではないけれど、研究という分野にはとにかく時間と金が掛かるものよね」
「それが?」
嘲りの混じった問い掛けには目を瞑り、話を続ける。
「成果を出せない者ほど出資者の質問に対して的確な回答を出せないものよ」
「貴女が進行度と問うたから、それを元にお答えしたまで」
「的確な回答というのはこちらが求めている・必要とする情報を読み取り、回答の形式自体を否定してでも告げるもの。算術の答えを聞いているのでは無いのだし、出資者側は専門家ではないのだから誤った形での質問をする場合もある。答えなさい、曖昧にしか返せないのなら曖昧含みで、正確に割り出せるのなら正確に、適した形式での回答を」
しばし眉を寄せた男はけれど、得意気に納得の表情を見せる。
流石に無能では無いのね。
学園での成績も上位ではあったし、ただの無能に彼があそこまで翻弄されたとは思えない。
「あぁ……時間ですか。残念ですか正確な数字など出ませんよ。事が人間の精神ですから。これまでの経験からの予測では数日で突破出来ることもありますし、一月以上掛かる可能性もありますね。ただ、あの男の影響と思えば後者が有力、と考えるべきでしょうか」
「そう」
ざわつく心を見透かしたようにヴィレイが嗤い、慇懃無礼に頭を下げて退室の言葉を告げた。
放っておいても良かった。
でも、敢えて呼び止めた。
「本物が現れた以上、ウィンダーベル家はそちらに付きます」
「えぇ、それが道理でしょう。卑劣なあの男がこれまで重ねてきた所業には、十分な贖いをさせるべきです」
「それを決めるのはお兄様よ」
「ご随意に」
「彼が進む道を阻まぬよう、私に出来るのは十分な状況作りをすることだけ。遠回りは許さないわ。最短で、最速の仕事を為さい」
「アリエス=フィン=ウィンダーベル――――私からも一つよろしいでしょうか」
背を向けていた男が振り返る。
あくまで慇懃に、傅くような振る舞いを見せるヴィレイはけれど、決して内心を舐めつけるような視線を収めたことがないと、気付いている。
何も知らない赤子を憐れむように、どうしようもない愚者を嘲笑うように、告げる。
「貴女は屈辱を許容出来るお人だ。必要だからと意にそぐわぬ事も出来てしまう、それは素晴らしい。ですが一度線の引き直しを覚えた者は時として、幾らでも下がり続けてしまうものです。僅かな安堵、それだけを抱え込んだまま。だから私は貴女を信用する。本当に大切なものが揺らいでいる今こそ、貴女という人間は簡単に己を変えてしまえるのですから」
返す言葉はフロエの苦しそうな呻き声に押し潰された。
ヴィレイは何もしていない。なのに今、あんなにも得意気な目をしているのは何故か。
繋ぐ、力。
未知の力の本質をこの男は相当昔から掴んでいた。なら、私の理解が及ばない所に影響を及ぼせる可能性も無くはない。
詐術であると仮定しつつも、想定は続けていく。妄想とならないよう、慎重に。
「ご安心を。あのように他者の手で汚れた女など興味はありませんよ。あぁそれともこう言うべきでしょうか? フロエの身を案じるのなら、貴女がその身を差し出してみてはいかがですか、と。それもまた、あの卑劣な男を苦しめるには良さそうだ」
「この身は世界を牛耳る力に通じた至宝。それに足ると判断された男にしか触れさせるつもりはないわ。たかが四分の一程度の力で思い上がらないことね」
肩を竦めて部屋を出て行くヴィレイを今度こそ見送って、冷たくなっていた紅茶を飲み干した。
カップを置いた後も、はしたなく煽ったまま視線は天井へ。
遠く、戦いの気配が近付いてくる。
デュッセンドルフ全体へ染み出すように。
戦いでしか人を導けなかった聖女の眷属たちが、世に混沌を広めようとしている。
※ ※ ※
ハイリア
何もしなくていい、男はそう言った。
男の名はハイリア=ロード=ウィンダーベル。
俺という、彼にもう一つの意識が交じり合うことで出来上がった人格ではなく、異世界の知識だけを取得して自我を存続させた正真正銘の本物。
陽を浴びて落ちる影には妙な揺らぎがあって、影そのものが消えたり、濃くなったりする。
不確かな、という表現がしっくりくる。
そして、そんな状態だからと思っていたことだが、どうやら間違いは無いらしい。
おそらく四つか五つほど、彼は年上だ。
単純に目線の高さが違う。掌一つ分ほどだが、陰の濃い顔つきや髪色がくすんで見えるおかげで余計に歳を感じる。
そして伸びた髪を纏めて流してある。身体つきは甲冑のせいで推し量れないが、身長や髪型などの違いから咄嗟に俺と判断出来るのはよほど近くで接してきた者だけだろう。同じ顔があるという違和感がそれほど強くないのも、辿ってきたものの違いを感じればこそ、か。
大きく吐息する。
全く。
苛々して仕方ない。
同属嫌悪? 違う。この男と俺は決定的に異なっている。同じスタート地点に立っておきながら、まるで違う方向へ行ってしまったことが腹立たしい。どうしてそんなことが言えるんだと胸倉の一つも掴んで言ってやりたくなる。
「通常の手段でセイラムからの干渉を防ぐことは出来ない」
なのにハイリアは淡々と説明を始めた。
事情も分からなければ納得も出来ないだろうと、当たり前のように言葉を続ける。
だが俺には、どこか遠い所で起きた出来事のようにしか思えなかった。
「単一の流れに絞られている間は良かった。だが、複数の世界を結び付けたことであらゆる可能性の向こう側からセイラムによる干渉が行われるようになっていった。アレは元来そういう概念だ。繋がるすべてを救おうとする。一方が繋げればもう一方からも繋げられる。相互に干渉を行うようになった時点で、最早この世界のセイラム一人を討った所で意味は無い。異なる世界へ渡り、ソレを潰した所で繋がりは残る。ねずみ講算に増えていく敵をどう絶やす? どこかの誰かが不意に異世界を掘り起こせば、それだけで新たな繋がりとなって干渉が始まる。永遠に終わることなど無い」
それは俺たちが必死に考えていた、この世界のセイラムをどうするかという事を軽く跳び越えた先の話だった。
異なる可能性、そして先の時間から現に、今ここに現れた男は何を見据えているのか。
「それでもまず、この世界のセイラムを討滅する。俺の力は大軍を圧倒する為のものだ。むしろ味方の存在は邪魔ですらある。既に数回の実証も出来ている、アレの討伐自体は最早難しいことではない。そしてその先、この世界のセイラムを排した上で、俺が代役を務める。魔術は存続し、西大陸へ中原の国々が侵攻してくることも無いだろう。最小限の混乱でこの争いを治め、支配が浸透した後に異なる世界へこの力と情報を送る。セイラムが無数の世界と繋がり合うことである種の不死性を獲得しているのなら、こちらも同様の方法で淘汰していくのが最も有効となる。これは、お前たちの目的にも沿う筈だ」
大ボスには言葉を重ねさせるなと聞いたことがある。
まさに滑稽だ。こんなの、笑い話にもならない。
ハイリア=ロード=ウィンダーベル。
お前は未だに、最も大切なものについて何ら言及していない。
「俺の行動方針は以上だ。そこの男について少なからず理解しているのならば、これが虚言か否か、本気か否か、判断出来るだろう」
「もういい」
なあオイ。
「お前にも苦労を掛けた。ここまで状況が整ったのは間違い無くお前の――――」
「どうしてフロエを救おうとしなかった!?」
半月を地面へ叩き付ける。
愚かでもいい。
理解の無い子どもと笑われても知ったことか。
「お前は、ハイリア=ロード=ウィンダーベルなんだろう!? なら何故ッ、ヴィレイ如きに彼女をいいようにさせている!? それだけは共通していた筈だ!! それだけが俺たちを繋ぐ縁となったんじゃないのか!? お前は世界なんぞを語る前にッ、まず彼女を助けるべきなんだよ!!」
ハイリアがここ居たのなら、ほんの僅かでもフロエに苦しみを背負わせるようなことは容認しなかった筈だ。
彼女の事を、その苦しみを知って救済を求めた想いを知らなかったとは言わせない。
何度も何度も繰り返して、絶望を超えた先を最初に求めたのはお前だった筈だ。
だったらどれほど擦り切れていようと、どれほど世界に絶望していようと、絶対に忘れる筈が無い。
お前はハイリア=ロード=ウィンダーベルだ。
異なる世界からの情報を収集し、俺という自我に混ざる事無く進み続けた、本来のハイリアという男。
その強さにずっと支えられてきた。お前のひたむきさと積み上げてきた信頼が無ければ俺はここまで辿り着けなかった。
なのにその男が今、理屈を並べて目を背けているのが我慢なら無い。
ハイリアは淡々と、原稿を読み上げるように説明して見せた。
それが感情を殺した結果のものであったらどれほど良かったか。
激昂する俺を静かに品評していた彼は、出来の悪い成績表を見せられた父親のように息を落として、
「感情に流されて大局を見失うな。不確定な可能性を残すより安易な手段へ飛びつかせている方が読みやすい」
「彼女が再びあの男の慰み者にされたとしてもか!?」
「一つの経験が積み上がるだけだ。その後で、必ず笑顔を取り戻せるだけの手を打ってみせる」
ようやく出てきた決意も、何故かくすんで聞こえてしまう。
「ふざけるな……!!」
斬り込んだ。
先の脅しとは違う。
確実に間合いへ踏み込み、渾身の一撃を叩き込んだ。
しかし、
「…………俺を引き摺り込むほどにセイラムを追い詰めることの出来た成果の一つと思っていたが、見込み違いだったようだな」
いかにしてか。
矛先は空中で何かに打ち付けられ、地面へ叩き伏せられる。
半月に引き摺られる形で前のめりとなった俺を奴が静かに見詰めている。
「失望したぞ。貴様はこれまで何をしてきた。たったコレだけか? あれだけの時間があって、あれだけの才覚を持ちながら、この程度にしか己を練り上げてこれなかったのか。土台となる肉体、思想、環境は十分以上に揃っていた筈だ。なのに心地の良い日々に拘泥し、他者に依存し夢想を続けてきたか」
トン、と軽く地面を踏んだ。
最早槍を握る必要すら無いのか、踏みつけた地面が膨れ上がり、それは指向性を持って押し広げられていく。
「メルトを縛っていたのはお前か」
「知らない名だが、そうか、ならばその者も俺が救ってやる」
そうかよ。
罵る言葉も爆発するような土砂の波に追いやられて、俺はこれまで歩いてきた距離を転げ落ちていった。
※ ※ ※
アベル=ハイド
ずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、息を整えた。
思考を安定させるにはまず、心身の安定が大切だ。
戦いの中で冷静さを失えば、僅かな見落としがあれば、一瞬で決着がつく。
一つの結果を思い浮かべて周囲を観察する。
僕らはハイリア様の決闘の開始を待たず動き出していた。
主な戦力は近衛兵団で、立場の弱い僕の補助と称してジェシカ様が同道している。絶対戦いたいからだ、そう思うけど、実際面識のある人が居てくれて良かったとも思う。
「本当に僕なんかが指揮していいんでしょうか……」
救出対象であるフロエさん、子羊亭の女店主と面識があるということで引っ張られただけじゃないのは流石に分かる。
僕自身、勤め先が無くなるのは本気で困るし、提示された報奨金に目が眩んだのもある。あとジェシカ様が一番行きたがった。一年生だからと置いていかれそうになったのを彼女はとても根に持っている。
「試合でやってるのは見てたからなっ」
「あぁあの無茶っぷりはウチに欲しいと話していた所だ!」
「そして俺の好みだからだ」
「助けてジェシカ様ぁあ!?」
なんか三人の筋肉質な人に気に入られてしまったらしいけど、最後の一人は絶対拙い、絶対に二人になりたくない!!
「ん、まあいいんじゃないか」
必死に助けを求めてるのにジェシカ様はうわの空だ。
自分でこちらへの参加を求めたのに、ハイリア様の決闘が気になって仕方ないんだろう。だけど僕の補助として付いて来たなら守ってくれなきゃ困る。
「しっかりしてください! もう敵の勢力圏内なんですよ!? 今回は近衛の方々がついてくれてますけど、その辺の『機獣』たちがいつまた襲い掛かってくるか分からないんですから!!」
言えば少しは切り替えてくれるものの、視線はまだ会場へ向いている。
僕らがここまで余裕を持っていられるのも『機獣』たちが襲い掛かってこないからだ。なんだか巣の中に誘き寄せられている気がしないでも無いけど、相手が機を見ている間に速攻で決着を付けるのだって十分有効なんだ。やるなら急ごう、そして出来ればあの三人とは距離を置きたい。
「他にも似たようなのが出ているんだろ? 私たちが受け持った場所に居るとは限らないからな」
「それでも不在を確認するのは早い方がいいですよ。ほら、行きますよっ」
言いつつ僕は『盾』だから一番足を引っ張ることになる。
ジェシカ様もだらだら進んでいるんじゃなくて、僕に合わせているだけだ。
だけどうわの空なのが怖い。
本当に、一瞬で何かが決まるかも知れないのに。
「お前、結婚って考えたことあるか」
「……いきなり何を言い出すんですか」
一応は周囲を警戒しながら『騎士』で駆けつつ、彼女はソードランスと呼ばれている槍を肩へ乗せて続けた。
「近々ハイリアは結婚するらしくてな。何、私もいい歳だ、家を途絶えさせる訳にはいかないから、そろそろ相手を探さないといかん」
「へ、へぇ……貴族の方は大変ですね」
「しかし気に入った相手は婚約者が出来たからもう無理だ。どうしたものかと、なんとなく思ってしまってな」
それってハイリア様のこと!?
いや絶対そうだ。普段色事には全く関心が無さそうなのに、でも、あれほど相手をして欲しがっていたのは単純に戦い大好きだからとかじゃなくて、好きな人に鎌ってほしかったとかなのかな?
なんかとんでもないことを聞いてしまった気がする。
こういうの、簡単に言ってしまっていいんだろうか。
「ハ、ハイリア様のことがお好きだったんですね……」
「ん?」
「え?」
少しの間が出来た。
あれ、違う人だった?
「政略結婚には好ましい相手だな。本家との繋がりも強くなるし、好条件ではあるんだが」
そして彼女は思いついたように筋肉男三人衆へ振り向いて、
「お前ら私の家に婿入りする気があるか?」
「な、なに言い出すんですか!?」
幾ら強い人を好んでいるからって、会って一時間くらいしか経ってない人に結婚を打診するなんて!
だけどジェシカ様は結構美人だ。
天下のウィンダーベル家、内部の事情までは分からないけど大貴族の名が手に入ると思えばこぞって……
「お前がホルノスに居ついて、ウチに入るならな」
「そっちが東に来る気は無いのか」
「無いな。俺はホルノスで生きて死ぬ」
「そうか。私もこちらへ残る気は無いから無理だな」
思った以上にあっさりとした断りが来て呆気に取られる。
もう一人も似たような感じで、最後の一人は女性に興味が無いらしいけど意味が分からない分かりたくない。こっちを見ないで!
「こんな調子でどうにも相手が見付からん」
「え、今の調子で求婚しまくってるんですか? 正気ですか?」
頭をはたかれた。
軽くやったんだろうけど『騎士』の加護のせいで結構痛い。
ジェシカ様のせいではあるんだけど、転びそうになった僕の腕を引いて彼女は立たせてくれる。
走っているのは相変わらずだったけど、その時にジェシカ様の大きな胸が当たって顔が赤くなる。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないですっ」
「そうか」
嘘を吐けば彼女はとても不機嫌になる。
鍛冶場からの付き合いで十分過ぎるくらいソレを知ったから正直に答えたのに、何故か並走するジェシカ様は腕を放してくれなかった。
ふかふかの何かに腕が沈む。
多分僕は真っ赤になっていた。
「ふむ」
ふむ、じゃなくて!?
「あんな脂肪の塊より筋肉の塊の方が良いぞ」
「いえ、僕は筋肉よりおっぱいが良いです」
「なるほど」
ああしまった! 反対側から固い感触を押し付けられたせいでつい冷静に本音が漏れた! しかもジェシカ様、なるほどってどういう意味ですか!? なんかさっきより沈み込んで沈み込んで沈み込んでるんですってば!?
「既に立場を得ている者や貴族ではどうにも腰が重いからな。平民なら持って帰るのも楽そうだ」
「お土産買って行く感覚で結婚相手選ぶの止めて下さい!?」
「あぁ、まあ冗談だ」
ようやく開放されて大きく息をつく。
なんか後ろから悔しそうな呻き声が聞こえてくるけど無視だ無視。
「じょ、冗談ですか……いえっ僕は既に心に決めた人が居るのでどの道駄目です!」
「くり子とかハイリアに呼ばれていた女だろう? あんなちんちくりんの何がいいんだ?」
「どどどどうしてそれを!?」
「ん、女連中の話に出ていたからな。今日はどうだったとか、昨日はどうだったとか、そんな感じで」
どうして僕の気持ちがハイリア様のご友人間で常識のように語られているんですか!?
「でもお前はコレが好きなんだろう? あの女は大して無いぞ」
持ち上げながら言うの止めて下さい。
顔が熱くなるのを感じながら通りを抜けて、三叉路へ出ようとした時だ。
「右前方っ! 攻撃が来ます!!」
叫びと同時にジェシカ様ともう一人が前へ出た。
『騎士』が二人、おそらくは近衛の人が完璧にジェシカ様に合わせて、飛来した矢を弾き飛ばす。
途端、宗教画に描かれる天使が撃ち落されたみたいに黄色の羽が空に弾けた。
ティリアナ=ホークロック。
セイラムの召喚した四柱の一つで、『弓』の術者。
その攻撃が僕らに対して牙を剝いている。
視線を巡らせる。情報を取得する。処理は後回しでいい。何でもないような景色ですら意識に落とし込んで記憶しろ。ここにある全てが金の一粒にも匹敵する情報だと思え。
降り注ぐ。弾けた黄色の羽が、『弓』の魔術光がひらりひらりと舞い落ちて、降り注いでくる。
途方もない容量で以って。
「っ、下がって!!」
土砂降りの雨みたいに落ちてくる魔術光は紛れもなく脅威だった。
『弓』の魔術光には小さいながら破壊力がある。
本来『剣』で素早く接近する分にはさしたる問題にならない程度だけど、ティリアナのソレは常軌を逸した量だ。ただの石礫であれば『槍』の一振りで吹き飛ばせただろう。けれど羽では。風に巻かれても幾らかはむしろ引き込まれるようにして襲い来る。
『槍』の術者が持つ魔術光による甲冑も、実際は風を纏っているようなものだから隙間がある。
普通なら無駄に力を消耗するだけだから、この魔術光は長持ちしない。なのに続く第二射を『盾』で防いだ時、最初の分が足元へ浸透してきていた。
冗談じゃない。
性質そのものは、射程さえ無視すれば上位能力ですらない『弓』の術者な筈なのに。
『盾』で防げるし、『剣』で回避し追いつく事さえ可能なのに。
誰もが当たり前に使いこなしているすべての要素が一定の線を越えるとここまで脅威になるのか。
「駄目です! ここは撤退を!」
「いいやそれこそ駄目だ!」
この人数では耐え切れない、そう判断してのことだったけど、ジェシカ様はいつも以上の強硬さで言い張った。
慌てて言葉を重ねる。
明らかにその判断は間違いだ。
「すぐに損害が出ます! そうなる前に退いて、味方と協力して対処すべきです!」
「損害は覚悟しろ! 少人数で事に当たっている以上、無傷では居られない! それよりもこのまま攻撃を続けさせるべきだ!」
「僕に指揮をさせてくれるんじゃなかったんですか!?」
「指揮は任せるが、方針について意見は言う! 今私たちがやるべきは怖気付いて逃げることじゃない! それだけだっ」
カッして頭の中が焼け焦げそうになるけど、同時に言われたことは思考する。
彼女の言う理由。それを僕は分かってない。
僕が撤退を言い出したのは簡単だ、この人数では対処出来ないから。人数を増やして十分な対応策を講じたいから。
だけどここで退かない理由は?
そもそも何故ここでティリアナ=ホークロックからの攻撃が始まったのか。
僕らはフロエさんを探していた。
目的地まではそう距離が無い。
安直に考えるなら、この先に行かれると困るから。
だけどあの幽鬼のような女性がたまたま見付けた敵を攻撃したって可能性の方が高い。
いや違う。ジェシカ様の言葉をもう一度精査しろ。
逃げるべきじゃない。いやもっと前。このまま攻撃を続けさせるべきだ。
「…………別働隊が見付けてくれますかね」
「当然だろう。私たちが役目を果たすんだからな」
所在の知れない敵の配置の把握。
たしかに近衛の副団長様はそう言っていた。
既に三つ、四つと攻撃が繰り返されて、その度に溢れる魔術光をジェシカ様ともう一人の『騎士』が払ってくれている。だけど川遊びでどれだけペロスさんが暴れても川が無くならなかったように、無尽蔵に垂れ流されるものを抑えつけるなんて不可能だ。
犠牲は出る。
戦いで結果を求めた時、必ずその言葉が顔を出す。
でも。
でも。
厭うのなら、出来うる限りの知恵を働かせろ!
僕に出来るのは守ることと、偉そうに正論を述べるだけか!?
考えろ、そして観察しろ。物事には必ず法則がある。それを紐解いていけば解決策へ辿り着ける!
クリス先輩に教わった考え方の基礎を元に頭を使う。
幸いにも僕は『盾』。
自分の身体なんて無視しておけばいい。
守るべき味方を守っていれば、自然と自分の安全も確保される。
見ろ。そして……、
「そこの建物っ! 入り口脇に地下室があります! それと『弓』の方は奥の古井戸の口を吹き飛ばして!」
すぐ行動に移された。
広がり続ける羽の一部がそこへ流れ込み、少しだけ勢いが収まる。
そう、これは水みたいなものだ。落ちて、広がる。だけど高い所よりは低い所へ流れる。道を作ってやれば僕らの方よりそちらへ流れていく!
あくまで時間稼ぎ。でも、今必要なのはそれだ。
店主の手伝いであちこち使いに出されていて助かった。あの井戸は結構深いし、そこの商店の地下倉庫も結構な大きさだった。四回か五回分くらいは収容できる筈。壊れたものは後で偉い人が何とかするだろう。僕の仕事じゃないからそんなことは知らない。
大盾の配置を変更し、向かってくる魔術光を受け止めるんじゃなく、外へ逃がすようにしてやる。
『騎士』が二人も居たのは幸運だった。地面をぶっ壊して即席の堀を作れたおかげでかなり延命出来た。相手は上空からも狙ってくるけど、盾で受け止めてから下に屋根を作って後ろへ流してやればいい。完璧にはいかない。隙間から、あるいは飛び散った黄色の羽が肌を裂く。
でも相手は『弓』だ。
僕の『盾』を貫通することは出来ない。
一度目の交戦でも確認できていたことを、改めて確認する。
セイラムの魔術が持つ法則は、例え力の大小があっても変わらない。
続けて数度、攻撃を受け止めた頃だ。
風に乗って女の声が聞こえてきた。
かすれ気味で、ひび割れたような声が、苛立たしげに、愉しそうに、反響する。
『あぁ面倒くせえな、ぶち殺すか』
次の瞬間、全方向から打ち込まれた百二十七つの罠による射撃が僕らを襲った。
※ ※ ※
ハイリア
幸いだったのは転げ落ちていきながらも半月を手放さなかったことと、手放さなかったことで自分の身を傷付けるようなことが起きなかった点だ。
手足は動く。
膝や腰、背中と肩と肘、そして首、関節部にも異常はない。
細かい傷を受けずに澄んだのは外套を身に付けていたからだろう。
あの大規模な攻撃では無数の瓦礫や石が一緒になって襲い掛かってくるから、腕や脚なども肌を晒さずに居た方がいいとくり子が提案してくれた。
内腿や首筋は僅か数センチの傷で大量出血に至る事も珍しくない。インナーで保護しているだけでもかなり違ってくるだろう。問題は熱さだが。
腰に下げていた水筒の栓を抜いて口に含む。
入り込んだ土や石を吐き捨てて、二度三度と繰り返した後で煽った。
翳っていた陽の光が差し込んでくる。
眩しさに目を細めるが、意識はしっかりと敵へ向いている。
兜を被り直した全身甲冑の姿は、やはりどこか現実感が無く、不確かだ。
右手には突撃槍、左手には短槍。二槍使い、と安易に考えるのは危険だろう。
本人が言っていた通り、あの力は完全に大軍へ向けたもので、手元の細かい動きはさほど重要ではない。
セレーネがやっていたような連打を繰り出せば、巨大な津波に呑み込まれるのと同様成す術がなくなる。
槍の打撃だけが基点ではないにせよ、ああして持っているということは槍を介した方が威力が増すとも予想出来るか。
俺の起き上がった場所には破壊が及んでいない。
先の攻撃は純粋に奴の周囲を弾けさせた、と見るべきだろうか。
確かに攻撃の規模は大きい。
だがここまで近衛兵団や、実際の交戦をしたセレーネやヨハンの証言からもあくまで『槍』としての性質に準拠しているのは間違いが無い。
少なくともあの攻撃、打撃の発生場所を自在に設定できるといった、純粋な遠距離攻撃手段はない。言ってしまえば通常の術者が手近なものを飛ばしてくるのと同じだ。
敵を過大評価しては性能を見誤る。
安く見るのも危険だが、分析は平坦に行われるべき。
水筒を腰へ戻して最初の一歩を踏もうとした時、再び巻き上げられた土砂や襲い掛かってきた。
外套を広げ、頭を保護しつつ膝をつく。
半月は後ろに、握る手は自分の身に隠れて直接土砂にぶつかることは無い。
土は重かった。
衝撃は重かった。
だが、致命的なものではない。
なにせ大半がただの泥で、身構えていればなんとかなる程度だ。
地滑りのように押し寄せてくるのではなく、巻き上げられただけでは量も知れている。
立ち上がるのと同時に半月を地面へ突き立て、土砂を防いでいる間に用意した投擲槍を投げ放つ。
くり子らが作っていた携帯性の高い、折りたたみ式の槍だ。鉄甲杯ではグランツの落としたモノを拾って使用したが、今回は外套の内側へ数本仕込んで持ってきている。
不意打ちの形で投じた槍は想定以上に上手く対象を捉え、そして、
「弾け」
奴は突撃槍をほんの少し掲げるだけで打撃をぶち当て、耐久性の低い槍を容易く粉砕してみせた。
その、衝撃を以って。
内部に詰め込まれていた粉末が弾け跳び、甲冑の姿を多い尽くす。
同時に駆け出していた。
撒き散らされ、踏み固められてもいない土壌は砂地を行くより困難だ。だが前へ進まなければ勝機は無い。この距離で不意打ちの投擲をあっさり防いでしまう時点で、俺からの遠距離攻撃もさしたる効果を上げることが出来ない。
滑り込む。
足場が不安定なら、無理に安定させようとするより自ら滑っていった方が良い。
まだ動きはない。
音は聞こえている筈だ。
腕を振るう。
動いた。
俺が跳び込んで行った場所を正確に狙い澄まし、短槍を払って打撃を放つ。
衝撃を受けた筒から再度、粉末が撒き散らされた。
半月を引っ掛けて急制動を掛けていた俺は、大規模な打撃によって引き起こされる現象をしっかりと観察しながら、攻撃の裏から追いかけるようにして短槍を狙う。急制動で走る勢いを抑えながら、身を捻って引き絞りは終わっている。追いつき、打撃した。
加護は、無い。
弾かれた短槍が宙を舞った。
その行く末を辿ろうとして、反対側から感じた黒い風に全身が総毛立つ。
右の突撃槍、それを以っての緩やかな突きだった。だが確実に俺を追いかけ、刺し貫こうと寄せてくる。
一歩抜いた。
下がった分だけ寄せてくる。
僅か、距離が詰まる。呼吸を忘れた。吹き散らされた魔術光が粉末を払っていき、その奥から黒の甲冑が顔を出す。
「なるほど消火器か」
今ある攻防以上に興味深いとばかりに感心した声がきた。
「――っ、!!」
振り抜いた直後の半月を引き戻すようにして力を掛ける。
重たい慣性の中にあるハルバードは、今度は自分の番だとばかりに俺を振り回してきた。
すなわち下がりながらの払い上げ。
慣れない動きと泥の溜まった地面に姿勢を崩して膝をつく。
振り上げた半月を横倒しにし、攻撃の構えを取りつつ息を吸った。
「ポンプを使って内部に通常ではありえないほどの圧力を掛けてあるな。弾いて噴出孔を作れば消火器のように粉を撒き散らす。中身は、石臼などで粉末状にした石か何かだな。可燃物では圧縮時の熱で発火する怖れもある」
つらつらと現代の知識を述べる男は追撃もせずに技術を品評してみせる。
目の前で構えを取っていることなと気にもしていない。
「鍛錬の時間を技術開発へ費やした結果のものか。だがライフリングによって威力を向上させる程度では『盾』を破ることは出来ないし、大砲も『槍』の突入に比べれば効果は低い。応用だとは思うがな。それ以上を望むには基礎技術や材料工学の面で何年掛かるか分からない。まして核兵器など原子論も存在していないこちらではな。魔術が存在する世界で、それが無い世界と全く同じ法則が適応されるかどうかもはっきりはしない。兵器の制御を行わせるコンピュータの開発も考えてみたが、化学面で限界に達した。必要となる素材の場所が分からないんだ。こればかりはループの繰り返しでなんとかなると思ったが、移動速度で頭打ちが来た。自動車、飛行機といったものもメンテナンスフォローが可能な範囲内でしか稼動できない。掘削、採取についても継続的に行うならば技術が要る。魔術も科学も発展には時間を必要とするが、発展を支える土壌が違うんだ。分かるか? セイラムによる世界の完全支配、あるいは崩壊が起きる阻止限界点までの時間を考えれば、魔術を起用するのが最も高い効果を見込める。これ以上余力を技術発展へ回すより、国情の安定に努めた方がいい。中原の乱がこちらにまで波及する前に体制を整えなければ世界的な大戦にまで発展しかねない」
諦めたようなようなことを言っていた癖に、まだこちらを説き伏せるつもりでいるのか。
本当に、舐められたものだ。
「そういえば聞いてみようと思っていたんだが」
「なんだ」
「フーリア人はどうする」
黒の兜が少しだけ俯く。
それだけで答えは分かった。
「現時点で労働力を失う訳にはいかない。カラムトラから情報の抜き出しさえ終われば、余計なことが出来ぬよう叩いておくべきだ」
思うところはあっても、そこの変革に興味は無い、か。
いずれと思っているが後回し。
まあ、そうだろうな、ウィンダーベル家のご嫡男なら。
「ははは」
どんどんと化けの皮が剥がれていく。
所詮、彼はハイリアだ。
ヒーローではない。
なんとなく、俺の漏らした笑いに眉を寄せたのが分かった。
生真面目な馬鹿は反応が読みやすい。
「やっぱりお前は分かってない。独りっきりで何もかもを抱え込んで、自分だけが何かを成せると思い込んでいる馬鹿は、すぐ足元に宝の山があることにさえ気付けないんだろうな」
半月を振り上げる。
俺の事を半端者と突き付けた少年から与えられた、フーリア人と繋がりあうことで得た力だ。
打つほどにその力を磨き上げていく未完成な武器は、俺でさえ予測も付かない動きを生み出すこともある。
陽光を浴びて煌々と光を放つハルバードに、彼は初めて目を向けたようだった。
「その武器は……」
「仲間が、友がくれた力だよ」
失望したぞと、一度はそう評された攻撃を再び叩き込む。
防ぐ突撃槍を重く叩きつけ、土砂の中へめり込ませる。
やはり、加護は起きなかった。
※ ※ ※
甲冑男の振るう力について、くり子を始めとした分析班から凡その予測を聞かされていた。
まず異常なまでの規模だ。
通常『槍』の術者は武器で何かを打つことで打撃の加護を発生させる。
そして、その加護は打撃点より発生し、打撃時点の進行方向に準拠する。
点というのは正確ではない。ただ、触れ合った場所全体が、振っている方向を意識する術者の思考に引き摺られる形で打撃を放つから、この場合は暫定的に点の攻撃であると説明する。
対し、甲冑男の攻撃は面。
武器の触れた一点を引き伸ばし、巨大な面全体を打撃の発生源としている。
この結論に達したくり子は数名の協力者を得て打撃点の引き伸ばしが通常の術者でも可能だったことを証明している。
出来たとは言っても一センチにも満たない僅かな広がりで、それ以上を求めるとどれだけ掛かるか分からない、ということだったが。
別荘での遊戯を放り出してでも調べてくれたことには頭が下がる。
クレアも結局は陛下の代役として動き回っていたから、一度別れてからは会えていないしな。
俺は既に二度、至近でその攻撃を見ている。
「大軍を相手にする力と言ったな!!」
半月で斬り付け、素早く動き回って背後へ回る。
『剣』の術者に比べればさしたる速度ではない。
なのに反応が遅い。
反応出来ないんじゃない。
全身鎧という重たい防具を身に付けているからだ。
確かに頑丈なのだろう。
大軍の放つ攻撃は時折あの波のような攻撃を通り抜けて術者へ達することもある。いかに彼が飛び抜けた力を持っているとしても数千の敵から放たれる全ての攻撃を把握することなど出来る筈もない。だからこその甲冑だ。不意の一撃による致命傷を避ける為の防具。
そんなものを着ているという事が既に防御面での不安を物語っている。
「確かにお前は万の敵を打ち倒せるのかも知れない。だが、たった一人を相手に戦うことを想定した力じゃないな!!」
振るった半月に急制動を掛け、防ぎに入った突撃槍へぶつけ、反発力を以って狙いを変える。
掛かる慣性は無理に殺そうとせず足捌きに活用した。
重たい武器だ。振れば確実に慣性が掛かる。普段ならどっしりと腰を落とし、支えきることで戦っていたが、今は待ちの戦法を放り投げ、ひたすら動き回って攻撃の機会を作り出していく。
力を死なせないよう、頭上で半月を一回転させる。
奴の振り返る動作、引く脚が僅かに泥に邪魔された。
振り下ろす。
重たい金属音が弾け、飛び散った火花の向こうで身を仰け反った奴の甲冑が削れている事実を見て取った。
浅い。限界まで踏み込んだ一斬だったが、振るった瞬間半月に押し留められるような感覚があって、腕を振り切れていない。不完全な攻撃は、上手く鎧で受けて力を流された。
だがいい。
届かせていたとして、攻防の影に潜む短槍を上手く捌けたかは分からない。
突き出された突撃槍を半瞬ズラして受けに行く。
懐へ引き込んだせいで力負けも著しいが、加護はない。
「その力、発動までにタイムラグがあるんだろう? 打撃の加護が自動発生しないよう制御し、打った瞬間に範囲を広げる。間を外せば打撃すら起きないし、受けたとしても一呼吸にも至らないほどの時間だが、僅かに間が開く。そんな遅い攻撃、紙一重を越えるには十分過ぎる!!」
押し込まれるまま後退し、甲冑故の関節の動きが甘くなる瞬間に距離を取った。
動く。動く。動く。
鉄甲杯での、あるいは神父との決闘を見た者なら瞠目するほどに動き回る。
当然だ。
確かに俺の性質上、待ちの戦法が非常に合う。
だがどんな相手にも有効かと言われれば当然違う。
待ちは相手が接近してくることを前提に行うもので、遠距離からこちらの防御を抜いてくる相手には全くと言っていいほど無力だ。
この相手にそれが通用しないのは明らか。
ただ、仕方なく動き回っているのではない。
先の攻防でもあったように、甲冑は重く、動きを制限するものだ。
何よりも視界を大きく塞いでしまう。
最初の攻防で滞留する粉末に目を塞がれていながら俺を捉えてきたことから、何らかの手段があるとも考えられるが、やはり目で見る以上の反応にはなりにくいのだと思う。
いつもは機動力で大きく負けるから下手な隙を晒さないよう待ちを選んでいる。
防御を固め、隙を無くし、防がれたことで生まれる相手の隙を狙う。
そういう戦い方を選んできた。
選んでいた、だけだ。
俺は元『騎士』の術者だ。
動き回って戦うことには慣れている。
だが、
だが、
それはこの男も同じなのだということを、決して忘れてはいけなかった。
「その通りだな」
ハイリア=ロード=ウィンダーベルは元より、『騎士』という上位能力だけに拠らず学園で頂点に君臨していた男だ。
早く動ける『槍』というだけであのワイズやプレインを押さえ込めていたと思うのは、あまりにも考えが甘い。
黒い風が吹き荒れる。
左手には短槍。
追撃にと踏み込もうとした俺を押さえ込む構えを取りながら、打ち消した突撃槍の代わりにハルバードを掴み直し、懐へ突き入れてくる。
「っ、っっ……!?」
「踏み込みが甘い。その武器、未だ使いこなせてはいないようだな」
防いだ半月の柄へ、ハルバードの戦斧が引っ掛けられる。
加護の分、膂力では勝ち目が無い。引き合いになれば武器を奪われるのはこちらの方だ。
咄嗟に石突き側の手を離し、二歩の距離を引いて握り直そうとし、
「甘いと言った!!」
払ったハイリアのハルバードが外套を掠めた。いや、狙われた。外套の留め具。切り落としておくべきだったことに今更ながら気付いた。攻撃の意思を以っての打撃、加護が来る。僅かなタイムラグの後、引き伸ばされた一面より放たれる打撃から逃れなければ、半身を引き千切られて死ぬだろう。奴の攻撃が面によるものだと気付いていながら、それは正面から真っ直ぐぶつけられるものだと思い込んでいた。
打撃点を横に向ければ、長大に引き伸ばされた面に対象の身体を巻き込むことで十分な遠距離攻撃となる!?
一瞬、半月を諦めて回避すべきかと考えた。
だがそれを留めたのはサイの一言だ。安易に手放すなと、怒った顔で言われたことを思い出す。
逡巡はすぐに掻き消えた。
出来うる限りの力を込めて身体を面の内側へ放り込んでいく。
間に合わない。肌で感じる。ほんの一息先の未来の感覚を引き寄せたみたいに痺れを得た。冷静に被害を計算し、次に繋げるべく思考する。生きろ。意識を失うな。肉体を動かす構造を残しさえすれば戦いは継続出来る。
そういった、覚悟と根性を丸ごとぶっとばすようにして、握ったままの半月に身体を引き寄せられる。
超えられなかった筈の打撃面を超えた。
驚きは無かった。
予想すらしていなかった、一息先の未来を越えていける半歩を得たというのに、笑いたくなるくらいの納得があった。
転ぶことには慣れている。だけどそんな俺の手を引いてくれる仲間の手は、もう沢山あるんだから。
景色が弾け飛ぶ。
薄い膜の向こう側で、世界が冗談みたいに打撃され、吹き飛んでいく。
強烈な圧力故か景色がたわんで見えた。現実感の失せた光景と、膜の向こうとこちらでのあまりもの違いにガラス越しに見ているような気になったが、不意に身体を引っ張られるような感覚を得て、むしろ姿勢を安定させる余裕を得た。
足先が泥に沈んだ地面を噛み、脚から腰へと余裕を残しながらの重みが加わる。
握ったその手は離さない。
自ら放り投げることはもうしない。
離れていくのなら、俺の方から追いかけて捕まえよう。
だから、次の攻撃を受けられたんだろうと思う。
奴はハルバードの払う慣性を利用して身を前へ飛ばし、打撃の内側へ飛び込んでくるだろう俺へ向けて短槍を突き入れていた。
半月を手放していれば今より距離を開けられたのだろうが、勢いをつけた奴の射程からは逃れられなかっただろう。
立てた柄で押し出すようにして防いだ短槍から、力が抜け、浮く。打ち合わせれば打撃が来る。回避は間に合わない。ならせめて弾くか。上か、下か、打った面から反発するように大規模な打撃がくる。予めの想定ではこちらから下へ撃てば、打撃は上空へ飛んでいく。最も影響が少なく、沈み込む形の回避を狙いやすい手段だ。
浮かんだ選択肢を放り捨てた。
腕を前へ。
外套の長袖、それに隠された左腕を真っ直ぐ甲冑の腹部へ向けて突き出して、手首を折り曲げる動作をする。
打てば叩き伏せられただろう短槍を放り捨て、回避を取ったのは奴の方だった。
この腕からは何も放たれない。
仕込み弓や仕込み銃なんて身に付けてこなかった。
外套の重さだけでも面倒なのに間接や筋肉の動きを阻害するようなものを身に付けている余裕はない。
「なるほど、想定し得る手段の中には、ソレを貫通し得るものがあるということか」
あるいは咄嗟の反応故か。だとすれば奴自身今の状態で戦うことには慣れていない。
出来た余裕の中で外套を脱ぎ捨てた。
腕に何も巻かれていないことを見て取った奴が何を思ったかは知らないが、二度三度と効果の読めないハッタリを効かせるより、今さっきやられた留め具狙いの方がずっと重要だ。折り畳みの槍も今の状況ではあまり必要無い。腰に下がった水筒と、槍が一振り。やはり手数を仕込むよりこの方が落ち着く。接近戦に注力するまでは必要だったのは確かだけどな。
「……小道具に詐術、お前の知る筈の無い情報を決闘までに集め、分析した手腕」
そうか、と。
「そうやって仲間の力を得て、お前は今日までを越えてきたのか」
黒の甲冑から魔術以外の何かが広がったように感じられた。
これは。
あぁ、怒りだ。
「どれだけの犠牲を払ってきた」
「数え切れないほどに」
返ってきたのは嘆息だった。
甲冑の中、やや篭った声が苛立たしげに吐き出される。
怒りを堪え、霧散させ、冷徹な己を取り戻した上で改めての言葉が来た。
「そのお前が、何故たった一度の辛苦を見逃せない。これまで犠牲にして来た者は良くて、彼女は別だと言い張るつもりか」
「軽んじるつもりはない。掛け替えのない友を失った。だがたった一度として、犠牲にすると決めて失わせたことはない。それにな、俺たちにとって彼女が、特別な相手であるのは間違いない筈だ」
「一時の感情に流されて機を見失うな。この世界は救われる。お前たちはその邪魔をしているだけだ」
「っは! 何を言い出すかと思えば、まだ諦めていなかったのか。そもそもお前の言い分をどうやって信用する? 自分自身だからだ、なんて事は言ってくれるなよ。俺とお前は別だ。まるで違う。俺はお前のように周囲を切り捨ててなんかいない。最初の一手をもう間違えているんだよ。フロエを見捨てた時点で、お前はこの先も後で救うからと言い置いて幾らでも犠牲を許容する」
「死なせはしない」
「死ななければいいと?」
「生きていれば幸福を得る機会がある」
「その幸福を決めるのは誰だ? お前か、それともセイラムか?」
言葉を交わすほどに苛立ちが募っていく。
どうして分からない。
どうして気付かない。
俺はお前に支えられてここまで来たのに、そのお前がまるで違う所に向かっている。
死ななければいいと、ただそれだけを見て、自分の計りだけで世界を整えようとしている。
「舐めるなよ……! 俺やお前なんてちっぽけな一人に過ぎないんだ。この対峙は何かを決するものなのかも知れない。だが例え俺がこの場で死んだとしても戦いは終わらないッ。世界は少しずつセイラムから、自分たちを守る大いなる存在からの脱却を目指して動き出している! あぁそうじゃない奴らも当然居るさ! 俺も痛いほどこの身で味わった! だけどな、それが世界だ! 俺の思い通りにいかないことばかりで腹も立つし泣き叫んだこともあったさ!!」
「その悲しみを俺が終わらせる」
「いいや終わらない。お前には絶対に無理だ。力の有無が問題なんじゃない。誰もが完璧な幸福を選べば、幸福でさえあれば救われると思っていることが間違いだ」
言葉遊びや諦観を元に言ってるんじゃない。
人は犠牲無しには何も生み出せないとか、そんな分かったようなことを言ってるんじゃない。
ただ経験が知っている。
犠牲を払ってきたからじゃない。
犠牲となってきた人たちが、それでも前に進んだ時の表情を見てきたからだ。
明快な理屈がくっつくでもない、印象を元にした主張だ。
でも感じたんだ。
どうにもならない何かを感じながらも、精一杯踏み出した一歩の尊さを俺は見た。
エリックのように。
マグナスのように。
世界にとって絶対的な正義かなんて知らない。
ただ思うんだ。
「誰か一人に調律された世界じゃ、誰かの幸福に届かない。悲しくないだけの世界なんて悲し過ぎる。お前がやろうとしているのは悲しみを消すことじゃなくて、悲しみとはこうだと定義し、押し付けることなんだよ」
マメのスープを見てなんて貧しいんだと叫んだ者が居た。
だけどその人はいつもファーストフードばかり食べていて、マメのスープの人はなんて不健康なんだと肩を竦めるだろう。
そして肉食を嫌い、食物でさえも自然に死したモノしか口にしない者が居る。
価値観なんて人それぞれだ。
誰かの幸福は誰かの不幸だ。
だからそれを擦り合わせていく。
接して、言葉を交わし、時に対立し、傷を負ってでも。
折り合えない一線の引きながらも、そういう考えもあるのだと認め、時に我慢し、より良いものとは何かを考える。
辛くても、苦しくても、面倒になって、うんざりしたとしても、考え続ける選択肢を放棄しては世界は固定化されてしまう。
「お前は何を見てきた。この世の不幸にばかり目を向けて、その傍らで笑う人々を見付けられなかったのか?」
「不幸を傍らに置いて笑うなど許されざる非道だ」
「誰もがお前の理想通りには生きられない」
「これからはそうなる。自然と、他者を尊べるようになっていく」
それは確かに一つの奇蹟かも知れない。
彼の言葉を聞いて、ならば任せようと願う者も居るだろう。
フィリップが言っていたように、大きな存在に自分を預けた方が良いと感じる者は居るだろう。
誰もが俺の理想通りには生きられない。
それでも、と。
一度は手放し、自ら落ちていくことを選んだ上で敢えて言う。
恥など蹴っ飛ばせ。
批難なら受け止めよう。
もう少しだけ頑張ってくれ。
俺はここに居るから、進んだ先で君を待っているから、ここまで来て欲しい。
それが見せかけであろうと言い張ってやる。ハリボテは被り慣れた。追い越していった人がなんだこんなものかと笑ってくれれば、それだけで十分に嬉しいんだ。
「そう思うのならお前こそこちらへ下れ。お前はまだまだ知るべき事が山ほどある。たった一人の世界に閉じこもっていては見えないものがある。それを知らずに悲しみだの幸福だのと、中二病の囀りと変わらない」
手を差し伸べ、そして、
「聞いているんだろう? お前もだ、セイラム」
全ての魔術と繋がる彼女なら、本当は見えている筈なんだ。
今、ここで抗う全ての者たちと、その手を拒んで尚も戦い続ける者たちのことを。
※ ※ ※
アベル=ハイド
恐怖が過ぎ去った後、急激な静寂が訪れていた。
殺到した罠による攻撃のせいか、周囲に立ち込めていた魔術光がかなり晴れている。
「すぐに建て直しを!!」
何よりもまず叫んだ。
「……その前に離せ。身動きが取り辛い」
「ぁ、わあっ!? ごめんなさい!?」
ジェシカ様の戸惑った声がして即座に平伏しようと思ったけど今は無理だ、平伏すると周囲への観察能力が大きく下がる。
攻撃の瞬間、すぐ横を行き過ぎようとしたジェシカ様の服を掴んで留めた訳だけど、あろうことか脇の下から胸部を含めた側面を鷲掴みにしていた。感触はもう遥か彼方。というか必死だったので何も覚えてません許してください!
「全員無事か」
「あぁ」
「利き腕とは逆の腕をやられたがな」
「俺は尻だぞ尻っ、刺されるのは慣れてねえんだよ!」
よし問題無し。
続く攻撃に警戒するけど、とりあえず射撃は止まったらしい。
「今の……私を盾にしたのか」
「……申し訳ありません」
どうか処刑だけはお許し下さい、そう続けようとしたけど、ジェシカ様は関心するみたいに僕を見ただけだった。
合計百二十七。
ティリアナの放った罠による攻撃はこちらに一人の犠牲者を生む事無く防ぎきれた。
偶然なんかじゃない。
クリス先輩が予めこのことを看破していなければ危うかった。
ティリアナは長大な射程を持ち、こちらの手が届かない所から一方的に攻撃してくる。
でもそれだけに注目していると見落としてしまう。『弓』の術者が持つあたり前の力を。
彼女はその長大な射程の内部に、文字通り無数の罠を設置出来る可能性がある。
最初、ひたすら射撃だけを繰り返していたのは、追い出した僕らがいずれ反攻に出て、戻ってくると考えていたからだ。
だから弓による超長距離射撃を強く印象付けさせ、目を眩ませた。
本命はこっちだ。
射撃に交えて魔術光を隠蔽し、今日までの時間をたっぷり使って設置した罠。
それ自体を見つける力は僕に無い。
だけど『弓』の術者が持つ思考は分かる。
建物の死角や大量に設置したくなるような場所、何処を守り、何処に敵を誘導して仕留めようとしているのか。
相手には見つけられないと思って居ても、人は必ず死角から攻撃したがるし、狙う場所からは気付き難い場所を選ぶ。予想外である場所はあってもすべての射線を統合すればそこに被らない、あるいは視線を集める場所の対極であると予測できる。あくまで考え方の基本だ。その上で術者ぞれぞれの思考や嗜好に左右されるけど、導き出す為の材料はティリアナ自身の射撃によって与えられている。
守りながら周囲を観察し、その配置を予測した。
そして狙われている位置と、攻撃の来る角度を計算し、敵が奥の手を使ってくるその瞬間に全て再計算。
使うということは、そこが一定以上の効果を見込める配置だからだ。
ここは三叉路。
どれだけの数を設置して、こちらの死角を狙おうとしても攻撃の来る方向はかなり絞られる。
丸ごと味方を囲って防ぐことなんてしない。そもそも盾の数が足りない。そういう配置の瞬間を狙われた自覚がある。だから最低限、死なない事と、戦いを継続出来る程度の被害に絞った。盾の数が足りないから『騎士』の力を拝借もした。ジェシカ様の力量なら任せた数くらいは捌けるはずだ。近衛兵団というとびきりの戦力についても、ここまでの戦いぶりからどの程度任せられるかはずっと推し量ってきた。完璧なんて程遠い。でもやってみせろと思ってぶん投げた。結果、彼女らと僕は生き残っている。もっと負傷が増えるかと思っていたのに、予想を超えて一つ二つに収まっているのはまだまだ見極めが甘い証拠だ。
全てを自分だけでやろうとは思わない。
傷の全てを払おうとは思わない。
大切なのは戦闘継続が可能であること。
「ふぅん」
すぐ近くでジェシカ様が興味深げに僕を見て、何故かその目が、狙いを定めた肉食獣のように思えた。
「ぼっ、僕はおいしくありません!?」
「それを決めるのは私だ。お前じゃない」
確かにそうですけど!
「つまり俺の尻に刺さったコイツは坊やが選んでそうしたってことか、つまりこれは坊やの逸物、そう思えばこの痛みも耐えられるぜ」
「貴方が男性を好むのは結構ですけど僕は女性が好きなんです!!」
「ははは、諦めろよ、嬢ちゃんがおっかない顔してるぜ?」
「うるせえ内乱の時に相方死んでからようやくその気になれたんだよ!」
内乱ってホルノスの政変のことか。
ハイリア様をはじめ、クリス先輩たちが勇名を知らしめたあの一大事件の裏で起きた悲しい出来事、人死にに対してこんなこと言いたくないけどあんまり知りたくなかったよ。
「しかし、攻撃が止まったな」
三叉路の先、坂の道を見据えてジェシカ様が言う。
そうだ。あの一斉攻撃以来、まだ射撃が来ていない。
だったら、
「よし、私たちは引き続き白髪の女を捜す。あっちは他の連中に任せるぞ」
「ジェシカ様、向こうには……」
「分かっている」
言い残し、けれど駆けた。
青い風を追いかけて、僕もまた走る。
あちらにはグランツくん達が加わってる。
僕ら自身がそうだったように、ハイリア様との関係が深いことを理由に内部へ入り込めた彼らは、後方での支援を仕事として最前線へ出るようなことにはなっていない筈だ。
「だけど、あの三人ってすぐ無茶するし、妙に目端が効くからなぁ……」
※ ※ ※
ティリアナ=ホークロック
侵入経路の大半は罠の一斉起動で潰した。
やっぱり腕の立つのが居るもんで、生き残ったのもかなり多い。
だが一箇所、ここから遠い場所に居た連中ではあったが、誰一人犠牲者を出さずに耐え切ったのはあそこだけだ。
「いやだねぇ、疼いちまうよ。しかも『盾』に寝取られちまったってんだから、アタシはとんとツキが無いね」
ともあれこっちを狙ってた部隊は殆ど壊滅。
建て直して寄せてくるまではまたまだ時間が掛かりそうだ。
焦らされるのは好きだけど、自分でお預けするほどじゃないんだが。
そんなことを思っていたらすぐ裏手で角笛が吹き鳴らされた。
何の合図かは知らない。だが、敵がすぐそこに居る。
「……見落としか。それか余程上手く立ち回られたか」
何にせよ自分で居場所を教えてくれてるんだ、そこを狙う罠を使ってまずは牽制か。
その間に上位を取って狙いを付ける。
ここまで気付かせずに接近してきた相手だ、簡単にヤれるとは思ってないが、何故か何の物音もしなかった。
外したのならどっかに刺さった音くらいするもんだ。
弾いたにせよ、相手が間抜けこいたにせよ、何の物音も無いのは妙だ。
覗き込んだ。
「っはっはー! なんだい居るじゃないか!!」
アタシが陣取る場所を読んでいた相手から早速の返礼があった。
丸っこい刃物を飛ばしてきての牽制なんて初めて見たよ。
真ん中の丸い穴へ指を入れて受け取って、ようやく鼠ちゃんとのご対面さ。
「おっす」
浅黒い肌と黒い髪の少年。
その手には短槍。もう片方には……アタシの罠から放たれた矢がある。
矢捌きは知ってるが、射るところを見て、十分な距離がある時だけだ。
罠からその位置までの距離は短い。それを掴み取ったんだという事実。
そして掴み取った手にもう一つ、紐状の何かが絡めてあった。スリングか。
魔術を使ってる様子はどこにもなかった。
「へぇ、ぞくぞくしちまうねぇ。なんなんだいアンタは、そんな道具なんかでアタシをイかせようってのかい?」
暗殺なんてする連中は真っ向から魔術を使ってこない。
この手の相手は初めてじゃないが、どういう訳か連中とは違った雰囲気がある。
邪道を知るが、邪道に堕ちず、正道を来たような。
口端が広がっていく。
「おっす」
「口説き文句が物足りないけど、その分は業で満足させてくれるんだろう? ちょうど退屈していた所さ、すぐにイっちまってくれるなよ……!!」
短槍を構えてくる。
腰を低くし、側面からの攻撃を弾き、弾いた動きを溜めとして身を放つ。
アタシが陣取っていた建物の三階屋上部分へ、ソイツは真っ直ぐ壁を登ってやってきた。
「っ……!?」
無意識に射った。
けれど途中で壁を蹴って回避し、通路の端から端へと誰ぞの通した物干し竿に掴まって飛び上がった坊やは、あっさりと短槍を投げ付けてきた。
「つまらないねぇ……! そんなので満足出来ると思うのかい!!」
半歩と動かず掴み取り、投げ返す。コレは。っはは!
矢捌きが出来るのはアンタだけじゃないのさ。
だけど、直後に坊やは背面に隠していた短槍でアタシの投げ返したものを弾き飛ばし、その動きごと構えの前動作として飛び掛ってくる。
アタシが投げ返したのは物干し竿だった。
掴まって飛び上がった時に二つあったものの一つを拝借した?
いや、それよりも、
「おっす……!!」
坊やの矢捌きに対抗して余計なことをしたせいで弓を構えていない。
ついやっちまった。それだけだ。だけど明確に、そう誘導された自分を知る。加えて微かな風を切る音を感じた。直感が告げてるねぇ、今アタシの死角から坊やが投げてきたあの丸っこい刃物がまた飛んできてる。いつ投げたかなんて分かりきってる。矢捌きでアタシが物干し竿を掴み取った時だ。一瞬視線が外れた。その為の一連の流れ。調子に乗って上から目線で見ていたアタシへとびきりの一撃を叩き込んできやがった。
面白いじゃないのさ!!
犠牲を出さずに生き延びてみせた連中といい、こうして魔術も無しに肉薄してくる奴といい、どうして世はこんなにも面白い奴らで満ちてるんだろうねえ!
死んじまってる自分が悔しくて仕方ない。もう生きられない自分が悲しくて仕方ない。あの子を抱けないこの手が、今は動くようになってるこの手が、どうしようもなくアタシの心を苛んでいく。
もう一度、あの子に会いたいねぇ。
生きたまま出会うことの出来なかった我が子の、最後に残った熱を掻き抱いて、さあもう一度泣き叫ぼう。
「上等さ!」
こんな世界は間違っている。
母親が我が子を抱いて幸福を感じられる世界にしておくれ。
たったそれだけでいいんだ。特別な何かなんて要らないんだ。もう一度だけあの子を抱きしめたい。出来るのなら、失わなかった喜びと共に。叶わないのなら、失う悲しみを胸に。もう一度、あの子に会いたいのさ。それだけでいいんだよ。
だから、
邪魔する全てをぶち殺し、血塗れの道を辿ってでもアタシはそこへ向かうよ。




