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ウィルホード=クラン
彼が、我々の長がここまで感情的になるのかと私とセイラはその光景を見ていた。
デュッセンドルフ魔術学園が誇る総合実技訓練会場。準決勝でも使用された葦林のある会場の控え室では、惨状と呼んでも差し支えの無い破壊の痕跡を従えて、たった一人の男が座り込んでいる。
素直に言えば怖れを抱かないでもない。
彼に続こうとする気持ちに揺らぎは無くとも、見せ付けられた感情の荒々しさはおよそ常人のソレとは一線を画するものだったから。
常に冷静さを保とうとし、事実そう振舞い続けてきた大貴族の元嫡男。
見せ付けられる実力の凄まじさ故に嫉妬すら抱けなくなると言われた彼が、こんな、敢えて言えば幼稚とも取れる手段で感情を発散している。
今まで隠されてきた感情の凄まじさに圧倒されるのと同時、それほどまでにあの少女のことが大切だったのかと驚いてしまう。なぜなら彼は、もう一人のフーリア人の少女を選んだのでは無かったか。
事実を知らされずとも見ていれば分かる。
元より主従と呼ぶには距離が近いと思っていたが、今朝方より明らかに何かが変わった。
それ自体は喜ばしいとも思ったし、立場や情勢を思えば危うさもあった為に手を打ちさえした。
拙さのある関係は微笑ましく、支えになれることを誇りにさえ思っていただろう。
幾つもの障害があるのは間違いが無い。それでも一人の女性を選び、覚悟を決めた姿を我が身に重ねて称賛すらしていた。セイラに婚約者としての立場を与えることは出来ても、卒業までの情勢変化を見据えて暫定という言葉を付け加えざるを得ない己の足りなさを悔やんでいる今、尚更だ。
だから彼がフロエ=ノル=アイラという少女にここまで執着しているとは考えなかった。
驚くほど近しく接しているとは思っていた。
奴隷階級である市井のフーリア人と、大貴族の嫡男である彼になんの繋がりがあるのかは分からない。
我々へ話してくれた以上の何かがあるのだろうとも思った。話せないことなのか、話したくないことなのか、本人ですら自覚の無いことなのか。どれでも構わないと今までは思って来た。何も己の全てを話すことが信頼の証ではない。むしろ近しいからこそ話せないこともあるし、打ち明けることを考えもしない話など自分で思っている以上にある。
けれどこの惨状、これだけ内心を揺さぶられる相手だというのなら、我々はもっとあの少女のことを注視すべきだったのだ。
ある程度の治安があり、多少の増員を手配し、ハイリア様自身の実家でもあるウィンダーベル家が見ているのだから大丈夫だと、その程度の警戒に留めていたことが間違いだった。
「…………時間か?」
いつも通りの声が放たれ緊張が強くなった。
こんな状態で、尚も己を立て直す様に畏敬を覚える。
敬意を繋ぎ止められていたのは、これまでの日々と、こちらを向いた表情に深い悔恨の痕が残っていたからでしょう。
「まだ十分に時間はあります。暗殺などの危険も考慮し、時間ちょうどに動く方が良いとのことです」
私より先に時計を確認したセイラが答える。
いけない、もっとしっかりしなくては。
膝に手をやり、天井を仰いだハイリア様が目を焼かれたみたいに瞼を強く閉じ、息を抜いていく。
彼の目が何を見ているのか、私程度では分からない。
己の思考に意識を向ける私とは逆に、セイラは言葉を重ねていった。
「延期を申し出てはいかがでしょう」
「延期……?」
「はい。決闘の約束が交わされた以上、本来は不干渉であるべきこちらへ工作を行った。ハイリア様と近しい人物を誘拐し、人質に取った時点でコレは尋常な勝負とは呼べません。あちらに返還を要求し、ともすれば決闘における有利を引き出すことが可能になるかも知れません」
それは私も考えた手だ。
こちらも近衛兵団が動いて情報収集をしていた事実はあるものの、証拠を握られていないのであれば押し通すことも可能。ハイリア様の精神状態が正常とは呼べない今、戦いへ挑むのは不利でしかない。
ただ、その道は多くの問題を孕んでもいる。
言うべきか、言わざるべきか。
彼女がどこまで見据えているかは知らないが、下手に揺らすのは危険ではないかと思えてしまう。
「……おそらく、近衛兵団は状況の進展を強行するだろう」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
問い掛けに小さく首を振ったハイリア様は、少しだけ視点を遠くへ向けた。
天下無双と呼ばれる近衛兵団にも、何か弱みがあるということでしょうか。
「別の理由として、元からこの決闘自体の勝敗は重視されていないから、というのもある」
「くり子さんの仰っていた決闘への同伴と称した人員配置でしょうか」
「そうだ。何より急ぐ理由が生まれた。これから時間を掛けるほどに不利となっていくのはこちら側で、延期となれば敵を喜ばせるだけだ」
昨夜の雨で水不足は解消されたとか、小規模ながら近隣からの戦力が到着しつつあることは好条件にならないのでしょうか。
援軍無き篭城に陥っているのは敵方で、南北を封じられている今、事実上の包囲が出来ているとも言える状況です。
こういう現実的な面を踏まえて尚も不利が生じるとするなら、やはりセイラムという存在が絡んでいると見るべきか。
同じ所へ辿り着いたのだろう、言葉を重ねようとしていたセイラが口篭る。
目的地への道が途絶えた。
そう感じる横顔に、私は熟考を重ねる。
私は商人だ。
貴族でもないが、一般的な市井の者より多くの情報を得られる。
それを精査し、踏み込むことの許されない場所での出来事を推察していく力を鍛えられてもきた。
ハイリア様との話の中で、時に貴族らの事情に通じながら商人としての視点という、通常では得られない考えを持ちうるということは強く実感させられた。
政治軍事魔術では及ばない私たちも、商取引という観点から解決策を見つけ出せないだろうか。
「ハイリア様……」
結論を言おう。無いのだ。沈黙を選んでいた、それそのものが答えだった。
暴力と暴力がぶつかり合う戦場を前に、私の知る商人という存在は極めて無力だ。
戦いを扇動したり、引き起こしたりということはある。戦争というのは、満ち足りている場所には発生しない。不足、それがどのようなものであれ、足りないものがあるからこそ戦いは起きる。商売にはその不足を満たしたり、削る力がある。だが一度ぶつかり始めた戦いそのものを制御していくことなど可能なのだろうか。
この世の法は貴族が決める。商人との関係を深め、利益を得るというのは当たり前に存在する手法だが、いざとなれば政治は容易く我々を切り捨て、何もかもを取り上げてしまう。日頃どれほど効率的な流通路を持っていたとしても、戦時には呆気無く潰れ、溜め込んだ財も物資も取り上げられる。我々はその際に少しでも先の利益と今からの延命を考えて立ち回る程度。
けれど、と思考はまた流れ続ける。
無いと結論付けながら、尚も続けるのは何故だろう。
これも簡単な話だった。諦めたくないと、自分にはどうすることも出来ないという気持ちを背負って、出来るのだと示してくれた人が居たからだ。
あの丘の上で、雄叫びを上げた姿が目に焼き付いている。
自分もまたそうでありたいと願った。
ならば今、こうして座り込んでいる彼に言うべき言葉は、
「一戦、願えますか」
珍しい顔を見れたものですね。
きょとんとこちらを見るハイリア様は、なんだか歳相応というより、もっと若く感じられる。
立ってください、でも、行きましょう、でも良かったのだと後から気付いて苦笑する。
セイラもセイラでとても驚いている。
私もです。私も、自分がこんなにも論理的でない発言をするとは思いませんでした。
火の粉を散らせ、エストックを握る。
眼前に構えた刃に映る姿を、あの日の背中に重ねて。
「私は鉄甲杯では直接対決が叶いませんでしたから。ヨハンさんばかりが特別扱いでは、男子は皆、その内拗ねてしまいますよ」
※ ※ ※
ハイリア
会場内には控え室に併設して、軽い運動を行える広めの部屋がある。
あくまで身体を動かす場所だ。魔術を使用して戦えばうっかり崩落させかねないし、学園や鉄甲杯で使用する時は訓練などでも勝負の類は禁止されていた。
高さは三メートルに届くか届かないかという所。
奥行きは二十か二十五メートル程度だ。学校のプールなんかと大差は無い。
「この高さではハルバードを満足に振れない。そんな状態で構わないのか?」
始める前、勝負が不完全なものになるのを懸念して聞いてみたのだが、ウィルホードはいっそ不敵に笑って見せた。
「おや、正々堂々だけが勝負ではありませんよ。私は商人、有利があるなら躊躇わず利用させていただきます」
「王子みたいな顔で言われると大いに違和感があるな」
「ハイリア様に言われてしまうと立つ瀬がありませんよ」
彼の中で俺がどう評価されているのか分からないが、そんな爽やかな笑顔、俺は愛想笑いでしかやったことがないぞ。
入り口を守るセイラと共に、人の求める王子王女の理想像を体現したような二人はとても絵になるしな。
何気ない会話をしながら半月をゆっくり振って感触を確かめた。
フーリア人の少年、サイによって打たれたハルバードは使い手を支えてくれる。
今まで武器とは振るうものだったが、半月は時に俺の意図を汲み取ったように身を舞わせ、時に手を引いて拡張してくれた。振り回されているのとは違う。最初は幾らかのぎこちなさがあった。自分の意識から外れて動く様に戸惑い、思考を乱されてしまうこともあり、まるで初心者のような無様さを晒すことさえあった。だが慣れるほどに意思の疎通とでも言えばいいのか、半月が動こうとするのを軽く開放してやるだけで凄まじい一斬へと繋がることまで出てきたのだ。
まだ使いこなせているとは言えない。習熟期間はあまりにも短く、心身の充実を優先したことで扱い方の幅もまだまだ狭い。あの時間を費やしていればなんとかなったとは流石に思わないが、受け取ってから数時間程度よりはマシだっただろう。
しかも一日手放したことを怒るみたいに手から離れていこうとするのだから困り者だ。
サイは俺に合わせてこのハルバードを打ったという。
僅かな反り一つ、飾りにしか見えない細工一つ、構えそれぞれに掛かる重量の大きさと位置までもが非常に計算されており、それが万全の俺を基準としているが故にサボりのツケが大きく出てくるのだろう。
試しに握ってみたジェシカやジンは扱い辛いと溢していた。
今の俺が持ち得る万全の状態でなければあらゆる工夫が逆に働くと考えるべきなのか。
そう拗ねないでくれ。
もっと真剣に向き合うから、俺の言う事を聞いてくれないか。
武器に語り掛けるなんて初めてのことだった。
ジークなんかが冗談まじりに機嫌がどうとか言っていたが、なるほど手に馴染む武器であればこそ、こういう些細な違いが如実に出てくるのだろう。
改めて今までの自分が、武器は武器として単に振るうだけだったことを知る。
どんな違いが生まれるのか、まだ分からない。
「あまり時間もありませんし、そろそろよろしいでしょうか」
「そうだな。頼むから決闘に出られなくなるようなことにはしないてくれよ」
「お戯れを」
「戯れかどうかは、その剣で俺に示してみるといい」
挑発的に言うと、ふっとウィルホードは笑った。
エストックを構える彼に応じ、守りの構えを取る。
来る。
「参ります……!」
来た。
澄んだ音色が鼓膜を打つ。
清浄な、穢れを祓うような剣戟によって生まれた火の粉が目の前に散る。
初戟からの強打。硬守によって崩そうとするも、返した衝撃ごと綺麗に流されて、こちらの足元が浮付く。
故に高所からの攻撃が続いた。
天井が低いせいでハルバードのような長柄の武器を振り回すのは難しい。
手立てはあるが間合いの取り合いでは『剣』には劣る。押し引きや姿勢一つで誤魔化すのは危険か。
攻めても守ってもウィルホードは姿勢が整っている。これがどれほど驚異的なことか。誰しも攻めれば前へ、守れば後ろへ、あるいは意図する側への歪みが出る。意識的に魔術光の揺らぎを抑える訓練を行っていたとの話はあるが、確かに彼の纏う光を追っても何ら情報を取得出来ないでいる。
攻撃へ転じる期を見定められないでいるまま守勢が続いた。
初手から判断を誤ったかとさえ思える静かな攻撃の連打は調べにも似ている。
丁寧な攻めだ。
動きそのものは大胆ながら、手先の技は繊細なもので、同じような場面の繰り返しと思い込んでいたら姿勢を崩され隙を晒してしまうだろう。
昔から変わらないウィルホードの剣技だが、確かに質が大きく向上している。
しかも、
「……良い響きだ」
なんだろうか。一打を重ねるほどに身を立て直されていく。
彼の真っ直ぐさ、ひたむきさ。基礎を決して疎かにしない者だからこそ得られる、当たり前の攻防でこそ発揮される純粋な強さ。
硬守が通用しないのも道理だろう。
アレは相手の攻撃に含まれる雑さというか、乱れを利用したものだ。
単に強い力へ真っ向から力をぶつけているのではない。
強打への反発力を利用したのでは余裕を残した牽制などには使えない。
元からある切り口を開き、相手自身の力で自壊させるものだから、狙えさえすれば理論上どんな攻撃相手でも繰り出していける。
しかし乱れの無い相手となれば話は別だ。
攻防を繰り返すほどに疲労や負荷を蓄積させ、乱れを生じさせる手は無くもない。
今が決闘を前にしたウォーミングアップでなければ腰を据えて戦うことも出来ただろう。
有利があるなら使うと言ったウィルホードは積極的に攻撃を繰り出し、動いていく。
通常ならゆったりと構えている筈の彼が、息を切らせて戦っているというのが意外だった。
尚も乱れなく、連なる剣戟の調べ。
対して守る俺の、なんとお粗末なことか。
彼と打ち合わなければ気付けなかった。心が乱れている自覚は持てても、いつも通り表面上の取り繕いで済ませてしまっていただろう。
フロエをむざむざ奪われたという事実は消えない。後悔はどれだけ重ねても足りず、焦りに身を焼かれるなど生易しいとばかりに感情が暴れて八つ当たりをしていた。
自分を立て直すことに慣れ過ぎて、自分自身の感じているモノさえ正確に見定められなくなっていたなんて。
戦う彼に恥じることの無いよう、一打受ける毎に己の歪みを正していく。
十、二十、三十……硬軟織り交ぜ、緩急をつけて、舞い散る火花の輝きに目を焼かれながら、この戦いは続いた。
やがて見えてくる。
乱れた心のままでは分からなかった僅かな揺らぎ。
がむしゃらに足掻いて進むだけでは相手に自由を与えてしまう。
暴れる者は危険であっても脅威には成り得ない。この磨き上げられた剣舞を乱すには、威を以って圧していかなければならない。
硬く、受ける。
生じた乱れを半歩の踏み込みで押し広げる。
牽制の一打を敢えて深く呼び込み防ぐことで呼吸を乱す。
そこまでして尚も崩し切れなかった。
あぁ見誤っていたよ、ウィルホード。時間を掛けてお前の力を削ぎ落とそうとしても無駄だ。お前は限界の限界を超えても今の攻守を当たり前みたいな顔をしてやり通してしまう。それが時に貴族という圧倒的上位の者と渡り合い、隙を伺う同業者を抑え込んで日常を続けてきた商人としての力だとするなら、風上に立って隙を伺うだけでどうにかなる筈が無かった。
彼の状態に依存する手段では駄目だ。
必要なのは圧倒。
理不尽なほどの膂力の違いで隙を作り出す。
強引に攻撃を弾き、押し込む形でウィルホードを引かせる。同時にこちらも身を引いて距離を開けた。
呼吸の間が重なって、同調した。
声が出る。
「ウィルホード」
「はいっ」
弾む声が返ってきた。
半月がたわむ。
歪みに力を溜めて、打ち出す一瞬の間に、彼の纏った魔術光が僅かに揺らいだ。
「行くぞ」
「はい!!」
振り上げるのでもなく、払うのでもなく、ましてや防御を固めるのでもなく。
腰の回しに脚を巻き込み、向きを整え構えを取ったその先へ、これまで使っていたハルバードとは違う先端槍で以って突きを打ち放つ。
壁にでもぶつかったようなウィルホードの回避。
息を呑みかけた彼が呼吸を止めたのが分かった。
乱れない。硬くなりかけた上体を下半身が受け止めた。
赤の魔術光が示す先、揺れる炎の隙間へと突き入れられた矛先は彼を捉えてはいない。
身を逸らして地面へ手を付こうとする動きに、矛先が追いかけ沈み込む。
見た目にはそれだけ。
それだけで、ウィルホードは追い詰められ、膝を付いた。
地面へ押し付けるようにして戦斧の刃が首元へ触れている。
「…………私の負けですね」
矛先を突き出した動きには十分過ぎる鋭さがあった。
回避されることを前提として繰り出したのではない。
決めになり得るだけの攻撃ではあった。
ただ回避されたのだから、対応したまで。
突き出した構えから左の手を返し、右の手を滑らせて握る位置を調整、追うべき方向に余裕を持たせた握り込みにする。ハルバードという長柄の武器を箒でも掃くようにして、下へ逃げたウィルホードを追った。同時に脚と腰、背中で以って身を回し、矛先を引き寄せる動きで続く動きを封じ込めた。下へ、そして俺の懐へ潜りこむ事で回避しようとした彼を追いかけて、地へと追い詰めた形になる。
手捌き、足捌き、体捌き。
言ってしまえばそれだけだ。
突き出した半月の重量に身を引かれながら、掌に感じる柄から追う道を得た。
武器を振るっている最中に手を返すのは愚挙だ。手捌きというのはある程度の安定を確保してから行う。そうでなければ自ら武器を放り捨てる羽目になるし、敵に勘付かれれば隙でしかない。戦いの型というのはその一瞬を如何にして確保するかという点を突き詰めて作り上げられてもいる。
あの一瞬にソレはなかった。
在ったと思えるのは、いけるという確信だけだ。
手の内で暴れまわる武器に導かれ、らしからぬ無茶を当たり前の基礎を以って成し遂げた。
なるほどと思う。
常から基礎を大切にしろと言っていながら、まだまだ理解が足りなかった。
土台となるものがより成長すればするほど、無茶は無茶で無くなり、時に奇抜と思える攻めでさえ純然と支えてくれる。
俺という人間の理想像を追いかけて生み出された半月は、考えもしなかった流れに俺を引き込んでくれる。扱い切れなければあっという間にこの手を離れていってしまうだろう。
「たった二つ……二つすら越えられなかったのですね」
「いや。見事だった、ウィルホード」
当たり前であることと常軌を逸することは同居出来る。
未だ掴んだとは言えないものの、感覚を得られたのは彼のおかげだ。
なにより歪んでいた自分の心が彼のまっすぐな剣戟で叩き直された。
あぁ。
淀みの中で尚も己を立たせる力が今はある。
怒り、悔やみ、荒れているだけではいけない。
分かっていて立て直すことが出来なかったのに。
矛を収め、寄ってきたセイラへ半月を渡す。あまりの重量に目を瞬かせて落としそうになったのをウィルホードが支え、咄嗟の事で抱き込むようになった二人が赤面するのをニヤニヤして眺めてやった。
「汗を拭いて着替えてくる。二人には半月の管理を任せるぞ」
「いえハイリア様、私たちは護衛ですので」
「お待ち下さいっ、あの、ぁ……」
「余計なお世話だろうし、お前が言うのかと言われそうだが。ウィルホード、男には最大の利益を追求するより、自分の望みこそが最大の利益だと周囲に納得させる力が必要な時もある」
散々迷って、悩んできた癖に。
皆に対して偉そうに話しているとすんなり言えてしまうんだから、我ながら見栄っ張りの自分勝手だ。
でもいいさ。
今くらいは、そう思おう。
※ ※ ※
通路へ出ると、ちょうどセレーネが戻ってきた所だった。
「ああっ、ハイリア様ハイリア様っ、貴方の元気の源セレーネお姉さんがとっても素敵な準備を整えてきましたよっ! さあ手取り足取り身も心も揉み解して差し上げますからちょっとそこの部屋で二人っきりで横になりましょうねっ!」
「分かった」
「はぁーい! そんな我侭言わずお姉さんにお任せなさ――えええっ!?」
どうしていきなりお姉さんぶっているのかは分からないが、とにかくセレーネは激しく動揺し視線を彷徨わせて耳を赤くしていた。ついでに足取りが怪しい。酔漢みたいにふらつきながら指差していた扉へしがみ付き、振り向いて、真っ赤な顔で確認してくる。
「いいいいいんですか!?」
「あんまり時間はないが、俺が気持ちを整えられるように用意してくれたんだろう? 少しだけな」
「そっ、そうですよっ、少しだけ、ホントのホントに少しだけで他は何もしませんから、ちょっと揉んで柔らかくするだけですからっ」
おそらく自分で言っている事が分かっていないセレーネに、俺は素直に従った。
部屋へ入ると背凭れの無いソファらしきものがあり、四隅からは澄んだ花の香りが漂ってくる。
お湯を張った桶の前ではアンナが膝をついて手拭いを絞っていて、こちらに気付いてにかりと笑う。ウィルホードらの代わりか、ヨハンとクラウドが扉の左右で待機しており、お互い軽く目配せする。ヨハンは顎をしゃくって眠そうに欠伸を、クラウドは鼻をひくつかせながら肩を竦めた。会釈の文化が無いからこういう時の反応は割と個人の差が出るものだ。
「なんだ、二人きりと聞いたが違ったのか」
「ああああ私の馬鹿あああああっ!! ホントに二人だけだと来てくれないと思って人を誘った私痛恨の大失敗!!」
ともあれセレーネ印のアロマセラピーマッサージが始まった。
ちゃんと湯に浸けた手拭いで身体を温めながら筋肉を解してくれる。香も良いものだ。
本当は運動前に向かないマッサージだが、単純に荒れた俺を見てなんとかしようとしてくれたのが嬉しかったし、余計なことは言うまい。
セレーネはやはりというか、とても真面目にやってくれている。
平時なら足が滑ったとか手が滑ったとか言って密着しようとするが、本当に密着すると一番慌てるのが自分だと分かっているからかフリしかしない。
二人きりという話だって、根本的にこの区画自体は近衛兵団がガチガチに固めているから、俺が出来る限り楽が出来るよう仲間内だけにしてくれているんだ。仮にセレーネが何かを企んでもアンナやオフィーリアが絶対くっ付いてくる。まあオフィーリアは今、ウィルホードたちへのデバガメ中だろうし、煽っておいてなんだが、勢い任せな行動に出ないことを祈っておこう。
マッサージが終わった後は、クレアのところに行っていたくり子が私物の本を持ってきて短いながらも読書の時間が作れた。
流石は昨今人気が出始めている作家だけあって短編も中々に上質で、心地良い一時を味わえた。
脚の事がある為、クレアは拠点で待機している。
リリーナによる念話で少しだけ会話をして、相変わらずの力強さで励ましを貰った。
皆、皆、色々と考えてくれた。
自分一人で焦って荒れていたのが恥ずかしいくらいだ。
俺はすぐ独り善がりになる。
正解を見定めるとそこばかり見てしまって、強引に押し通しがちだ。
別働隊に加わるというジェシカたちが顔を出した頃にはすっかり平常心を取り戻していて、なんとか面子を保ちつつ、素直に心配と期待を贈った。ジェシカはいつも通りだ。大きな功績をあげてやるぞと意気込んでいたが、眼鏡少年アベルが引っ張られていったから、きっとなんとかなるだろう。
最後に、ここへ来る途中で時間を迎えたメルトを見舞い、冷たくなった手をしっかりと確かめて、心を切り替えた。
通路、思い思いの表情で俺を見る皆と言葉を交わしながら先へ進んでいく。
オフィーリアが妙に嬉しそうで、日頃冷静なウィルホードやセイラがこちらに集中できていないことから何かはあったのだろうが、それは後で聞くとしよう。恋愛脳を放し飼いにすると皆がボーイミーツガール出来なくなるので飼い主にはちゃんとして欲しいものである。
リードを手放して彼が何をしていたのかと思ったが、一部神妙な顔をしてこちらを見ている一団を背負っていたから……先に話してくれていたのだろうことに気付く。
クラン商会の別荘へ行った時には合流できていなかった者たちも、北側から駆けつけてくれている。
改めて無事を確認できて良かった。
結局先輩を頼る形になったが、目的や予定についても説明を俺以外がすることで冷静に受け止め、考える余地が出来た筈だ。
答えが出たと決め付けることは出来ないものの、来てくれたという一事が今は心強い。
一際大きな扉の前まで辿り着いた。
鉄板が打ち込まれた、分厚い木の扉だ。
観音開きになっていて、片側だけでも『槍』の術者二人掛かりでなければ開かないという重量がある。
受け取った半月に小さな違和感を覚えて、また何か調整されたことを知る。
サイが並んでいたのはずっと手前だ。何も言わなかったということは、自力で理解してほしいと、そういうことだろう。
あれで結構頑固職人みたいな所のあるサイは多くを説明してくれない。
想い溢れた譲渡の時はともかく、基本的に自分の調整したハルバードそのものを言葉として渡してくるから、こちらは毎度必死に読み取らなければならなくなる。
しかももう実戦だ。
苦笑して、しかし強く握り込む。
手放すまいとしながらも、ゆったりとした動きで身を回し、振り返った。
「ありがとう。行ってくるよ」
それぞれの言葉で背を押されながら、開いていく扉の向こうへ歩を進める。
気取ることも、背負うことも、もうしない。
ありのままの俺で向き合って、言葉を告げた。
そして、
そして――
※ ※ ※
黒の甲冑に身を包んだ敵が佇んでいた。
一段と深くなった葦林が風に靡き、土の窪みに溜まった水の表面を雲が流れていく。
会場は静まり返っている。皆も特別室へ移動して見ていてくれるというが、後は既に配置を終えている陛下とその護衛たちくらいか。
祭りの後という雰囲気はどこにも無かった。あれほど騒ぎ、沸き立ち、楽しかった時間は『機獣』の出現によって押し流され、四柱の圧倒的な力によって叩き伏せられた。今のデュッセンドルフに漂っているのは血生臭い緊張感と、行動原理も不明なままの『機獣』の群れだ。
敵の懐へ飛び込んでの決闘などどこまで信用出来るか分かったものじゃない。罠であれば全員取り囲まれて最悪全滅だ。
いや。罠というならフロエを攫うこと、それ自体が目的だったのかも知れない。
敢えてこちらの持ち込む戦力に大きな制限を設けてこなかったのも、紛れ込ませての脱出を企図してか。
拠点周りをガチガチに警戒していた近衛兵団も、移動の時には隙が生じるものだ。数の少ない彼らの弱点を狙った策、その一つなのだろう。
フロエの誘拐にはウィンダーベル家が関与した。
この時点で近衛兵団は臨戦態勢を取り、馬車隊から離脱していったという車輌を追跡し身柄を確保しに動き始めている。
拠点内に居る筈の父上や母上がどうなっているかは……詳細を伝えられていない。
本来休戦状態となる筈の決闘中に繰り広げられた謀略の数々。既にこうして向き合うことさえ滑稽に思えるほどの状況だ。セイラにはああ言ったが、ベイルからは決闘へ出る必要は無いぞとの言葉を貰っている。表沙汰な動きにはしていないだけで、互いにもう戦闘状態は始まっているのだから。何より、ここまで侵入した時点でこちらの目的も大半は果たしている。
それでも俺がここに立っているのは、やっぱり個人的な理由なんだろうか。
歩を進めると、水を含んだ土に靴が沈み込む。
革の長靴を選んだのは正しかっただろう。足が泥まみれになっては動きに支障が出るし、何より気持ち悪い。
昨夜見た嵐みたいな雨を思い出す。
山の天気は変わりやすいと言うが、あそこまで激しいのは初めて見た。
会場の排水が何故か内向きに作られているここが水浸しになっているのは予想通り。
足場が不安定なのは待ちを取るのに適した環境ではあるが、今回ばかりは攻める他ないだろう。相手は街の一画をひっくり返してくるような力を持っているのだから、のんびり待っていても押し潰されるだけだ。
泥から長靴を引っ張り出して進んでいると、湿り気を帯びた風に外套が重く揺れた。
日差しは強い。雲間から差し込んだ時には刺す様な痛みを感じるほどだ。これほど強い光が雲に遮られては時折顔を出す。注意が必要だ。明暗の入れ替わり時には像のぼやけが生じるかもしれない。気温も未だ中途半端に高いから、熱中症の怖れも出てくるだろう。
汗か、湿りか、半月を握る手に違和感が生まれないかと確かめてみたが、今の所は問題無い。
なのに吐く息が重く沈んでいくのは、結局俺の気持ちが低い所で落ち着いている証拠だろう。
己を正すことが出来た、励ましを得た、安らぎと、意気込みと、使命感みたいなものもある。
それでもフロエの事は引っかかっているし、メルトの冷たい手を取るのは辛かった。
一と零で何もかも割り切れやしない。
人間は機械になれやしない。
面倒くさい自分自身を抱えたまま、自分以外の誰かを感じるからこそ己を正したり、見栄を張ったり、腐ったり、捻くれたりする。
真っ直ぐ進んできたつもりでも、振り返れば曲がりくねっていることなんてザラだろう。
自分だけになった時、その心は点となって動かなくなるのだろうか。
目標物の多すぎる森の中で真っ直ぐ進めなくなるように、何の目標物の無い広大な砂漠で、人は何を目指して進めばいい?
ましてや地面すら定かではない場所に独り取り残された時、どうやって進む実感を得ればいい……?
もしそうなった時、遥か遥か先に佇む手段を見付けたら、もう脇目も振らずに向かうのかもしれない。
「デュッセンドルフ魔術学園学生小隊元一番隊隊長、ハイリアだ」
黒点のように景色の中に歪みを生む男がそこに居る。
距離にして五メートル。ちょっとした小部屋の端から端までみたいな距離を開けて向き合った俺は、躊躇無く声を掛けていた。
本当は問答無用で半月を叩きつけてやろうと思っていた。
フロエの誘拐を聞いた時、自分自身の間抜けさを後悔すると共に、目の前のこの男がソレを看過したという事実に叫びだしたくなるような怒りを覚えた。
怒りはまだ残っている。
心が凪いでいる筈なんてない。
今も俺の内側にはヴィレイへ向けるのと同じくらいの強い殺意が渦巻いていた。
許せない、という気持ちだけで言えば奴以上かも知れなかった。
「…………いい加減、素顔を晒したらどうだ。ここまで呼び出しておいて、こうして向き合っておいて、上座で胡坐を掻いたまま分かったような顔をするつもりか」
例え俺自身が糾弾されることになろうとも、有耶無耶になんてしておかない。
最初は疑惑。
次に可能性を見出して、徐々に確信し、納得していった。
あまりにも多く、事のヒントが散りばめられていたから、いつしか当然のように受け入れていた。
近衛兵団副団長であるベイルが俺を疑い、警戒を続けている理由。
父上が今になって俺の行動を浚い始め、その報告を受けていたらしいという話の理由。
デュッセンドルフからの撤退時に殿を務めていたという先輩が、俺を気にして心配してくれた理由。
多くは俺自身を見定めることで一定の理解を示してくれたが、それは単に現実的な判断に収まったことだろう。
だが違う。
セイラムは己の支配が及ぶ歴史上の術者をこの場へ召喚した。
時間軸を自在に行き来する力であるからこそ果たせた現象でもあるだろう。
自在に。
「そもそも俺を指定すること自体が妙なんだ。ヴィレイが主体になっていたなら、フロエを誘拐した後で話を持ち込ませただろう。後からの介入は出来上がった状況への横槍という方が納得出来る。俺を敢えて呼び出し、向かい合う、そういう理由を考えた時、確実に何らかの接点を想定する。確かに俺も器には足る。だが所詮適性があるだけで何の調整も受けていない未完成品だ。フロエという完成された者が居る中で、満を持して出現したセイラムの眷属が格落ちを選ぶなんて、そんな間抜けな話は無いだろう」
時間に囚われないというのであれば、それこそ未来からだって可能なはずだ。
そこにセイラムの力が及び、強固な縁で縛ることが出来たなら。
いや、もういいだろう。
分かりきった状況で長々と推理を聞かせるほど出来た状況じゃない。
もっと馬鹿馬鹿しくて、もっと愚かで、苦々しい、ちっぽけな……ため息が出るようなものでしかないのだから。
二番煎じも甚だしい出来事を前に、さっさとしろよと声を掛ける。
「なあ、オイ」
悪態をつく俺をどう思ったのか、男は顔を覆い尽くす兜へ手をやった。
黒い風が解けて溶けていく。
あぁ。
可能性は幾らかあった。
けれど答えは単純な所に行き着くらしい。
分岐は最初の最初。
あるいはこの先かと考えたのさえ甘い発想だ。
声が来る。
愚直なまでに整い切った姿勢から紡ぎ出される、人の意識へ呼びかけるような発声術。
がなり立てるのではなく、澄んだまま空へ響かせ、耳へ届かせる為の技術を以って、語りかけてくる。
まるで、どこかの大貴族の嫡男みたいに。
「告げるべきことは一つだけ。降伏しろ、それで全てが解決する」
兜を脱いだ黒い甲冑の男は、その瞳に何も映さないまま決別の言葉を読み上げた。
協力する道も、あった筈だった。
なのに彼は全てを拒絶した。
「我が名はハイリア=ロード=ウィンダーベル。繰り返し言おう。降伏しろ、それで全てが解決する」
意識へ響く声に心の弱い部分が締め付けられる。
この声は物理的な距離を跳び越えて送られているのだろう。
俺のやっていた魔術より遥かに発展した、メルトの念話以上に広域へ響かせる、繋ぐ力。
今、ここに、俺の戦いを見届けようと集った全ての者へ逃げ場を許さず突きつけてくる。
同じ肉体を持つからだろうか。
届く言葉以上に相手の事を理解出来る。
真実本物であろう男……今の俺という意識の混濁した状態ではなく、異世界の知識のみを純粋に取り入れることに成功した、本来のハイリアという男。
最早俺など見ていない。
いや最初からか。
本物であると確信するからこそ、偽物だと糾弾する意味すらない。
俺が土足で踏み込んで、しがみ付いてきた何もかもが、本来彼のものなのだから。
たった一人の例外であるメルトは今、死に囚われて眠っている。
いいや、それでも、という言葉を紡ぐには、彼はハイリア=ロード=ウィンダーベルで在り過ぎた。
「この名を信ずるに足ると思うのならば矛を引け。悪いようにはしない。そして、俺の行動を阻害しないよう努めてほしい」
「何をするつもりだ」
ようやく出た問いかけも、彼を引き立たせるものでしかなくて。
「全てのセイラムからの干渉を止めさせる。俺にはその為の力と、手段が在る。いいか、余計なことはせず待っていればいい」
ハイリアという男を知る者を、この窮地の中で尚も追いかけてくるほどの協力者を、呼び寄せることこそが、
決闘という形で向かい合い、互いの声を聞く瞬間こそが狙いだったのだと、
過去の彼を知れば知るほどに無視できなくなるその声と、意思で以って、
「降伏しろ、それで全てが解決する」
ありのままのハイリアという男が告げた。
「お前たちはもう、何もしなくて良い。俺が全てを解決する」
救済という名の決別を。
長らくお待たせしました。
ここから下の完結までは週一の定期更新でいく予定です。




