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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第四章(下)

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 決闘を受けることが正式に決定された。

 日時もこちらから提示した縮小案が採用され、時間については何度か使者のやり取りがあったものの、夕刻より二周りは前の中途半端な時間に落ち着いた。日暮れまで粘れそうかと問われたが、そこまで戦っていたら俺もそうだがデュッセンドルフが崩壊してそうだ。


 新たな情報を受け取り、敵の能力について推測と検証が行われ、対策を練って擬似的な状況を作り出した上で俺が実践する。


 サイから受け取った半月は、彼が言った通り俺が扱うことだけを前提に作られていて、武器への習熟というよりは拡張された肉体へ慣れる感覚が強く、食事中や休息時でもとにかく肌に触れているようにした。


「…………ぁーーーーー、暑いな」


 という訳で休憩中、広げられた麻布の上で半月を握りながら、だらしなくも手足を放り投げて涼を取っていた。

 隣で正座するメルトが風を送ってきてくれるが、肌にこびり付くような湿気と暑さは相当なもので、正直こんな所で運動するのが正気とは思えなかった。


「拠点の方では()()()で倒れる兵も出ているようです」

「兵で、ということは、平民らはかなり危ないな」


 天幕を持たない者が大多数だ。

 森の中に逃げてくれていればいいが、野晒しでこの気温は命に係わる。


「沼地というのを甘く見ていた。潜むにはいいがここは……とにかく暑い」


 史実でも戦い以前に病なんかの体調不良が重なったことで撤退するなんて事態は多かったと聞く。

 ここを用意してもらっておいてなんだが、下手に無理を続けるより拠点に戻った方が良いかも知れない。決闘の場で疲れを引き摺って負けるなんて最悪の筋書きだ。しかし手応えを得られた訳でもない中、戻ってなにをするというのか。


「あーっ、駄目です暑くて頭が沸騰しそうですぅ……!!」


 考えていたら、奥の掘っ立て小屋からくり子が飛び出してきて、一年生で眼鏡少年のアベルら頭脳系の面々が疲れた様子で顔を出す。


 明け方はマシだったのに、陽が登り始めてからは茹だるような暑さになって、まともに運動なんてやってられなかった。

 くり子は誰かの汗でベタついた紙を振って乾かそうとするが効果は薄い。気温以上に湿度が凄いからだろう。たしか気温的には高い砂漠地帯より、湿度の高い日本の方が体感として暑いのだとか聞いたことがある。しかも昨日今日とで気温差がどうにも大きいように思う。


「軟弱者が。そんなことで明日の決闘に勝てると思っているのか」


 いつも通りの調子で檄を飛ばすジェシカだったが、足元がふらついていて首と耳と顔が赤い。駄目だ、完全に熱中症の症状が出ている。


「あっちいよぉ、ねえジェシカ姉さまぁー、川行こうよ汗で気持ち悪いよー」

「私は意地でもここを動かん。もうじきハイリアが休憩から戻ってくる。次の練習相手は私だ」

「ぶーっ!!」


 不満を漏らすが双子のペロスも結局彼女の近くに留まるらしい。

 身なりを整えているジェシカに対し、彼女は大胆に脚や腕を晒して胸元をバッタバッタと煽っているが、見た目が幼いので気にする者はいないようだ。


 視点を変えればフィリップがクラウドと何かを話していた。

 皆からまだ一歩引いてしまっているフィリップは目立たない配置として見張りを希望し、クラウドはいつも通り無言で周辺状況を探り始めていた。おそらくその報告か相談だろう。元小隊長ということを考えれば出来るだけ指揮にも係わって欲しいのだが、どうにもセレーネと何かあったようで二人ともぎくしゃくしている。今はそっとしておいた方がいいか。


 そのセレーネはというと、相変わらず険悪な様子のヨハンと、アンナまで混ざって謎の三角関係を構成し、それをオフィーリアが懸命に明後日の方向へ取り成しつつ先輩が軌道修正するという器用な事態になっている。

 信頼する仲間が喧嘩状態というのは心配になるし、困る。

 強制するのも嫌だから決定的なものにならないよう気を回すが、ここは先輩の頑張りに期待するしかないだろう。

 ただ、一度落ち着いた筈の二人がまた言い合いを始めたのはこの暑さに起因していると考えるのは、そう間違っていない筈だ。だってさっきから暑いだの脱げだの変態だのと意味の分からない方向へ話が発展していって、アンナの目から光が消えていっているんだからな。


「……あの」


 戦いを前に分裂は拙いなと思い始めた時、見ていた反対側から声が掛かった。


 咄嗟に誰のものかは分からない、少しだけ高めの少年の声。


「どうした――ベンズ=リコット」


 身を起こして胡坐を掻く。

 表情を見て、真剣な話だと思ったから、正面の敷き物の上へ促す。


 双子の片割れ、ベンズは俺と同じように胡坐を掻いて据わり、膝の上で手をくっと握りながらこちらを見た。どうやら、話す内容は何度も考えて整理してきたらしい。ただ、咄嗟に声が出ないのは躊躇いがあるからか。

 促すように声を掛けようとした時、背後から人の倒れる音がして、もう片方の双子の少女が悲鳴をあげた。


「ジェシカ姉さまが死んだぁ!?」


「死んでない……ハイリア、次は……私の、番、だ…………」


 後回しにしたのは悪かったから無理をしないでくれ……。


「すまない、先にやる事ができた」


 話を聞きたいのだが、やはりもっと早く決断するべきだった。

 俺はベンズに断ってオフィーリアとウィルホードを呼び、拠点側の判断と諸所の手配を頼むことにした。


「よろしいのですか?」


 ウィルホードが気遣わしげに言うが、俺だけならどうにかなるという問題でもない。


「近衛兵団からの情報も、撤退戦以前からの情報を潜伏している者たちから回収したものしか得られていない。おそらくだが、この先もそうそう来ないだろう」

「こちらからの襲撃を察知して、身を隠してあると……?」


 妥当な動きである筈だが、ここまで圧倒的な力を見せ付けてきた相手の消極的な振る舞いに疑問があるのだろう。


「敵に睡眠や食事が必要かどうかは不明だが、必要の無い戦闘を重ねて精神をすり減らすことはしないだろう。あるいは情報の価値を知っている相手ということだ。ならこちらも、戦いの前に根を詰めすぎて悪影響を残すより、気持ちを落ち着けて戦いに望んだ方がいいと思ったんだ」


 こちらへ軽く視線を振って心配してくれる先輩に少しだけ苦笑する。

 自分の為。あぁ、これは間違いなく、そうなんですよ。


「わかりました。私は場所の選定と諸所の手配をしましょう」

「私は陛下を始めとした拠点側への判断打診ですね」


 飲み込みの早い二人はすぐに行動を開始した。

 置き去りになっていたベンズへ向き合うと、彼は諦めたような、困ったような顔をしていた。


「後で話を聞こう。ただ、まずは倒れたジェシカの看護だ」


「……なにをするつもりなんですか?」


 少年の問いに、俺は幾分力を抜いて答える。


 とにかく、ここは暑すぎるんだ。


「バカンスだ。モラトリアムと言ってもいい。まあ、訓練ばかりでストレスを溜めるより、いっそスッキリ気持ちをリセットして戦いに望むのも悪くは無いさ」


    ※   ※   ※


   ティリアナ=ホークロック


 都市の東側、丘の上にある家屋の屋上から南方の平原を望む。

 天から降り注ぐ陽の強さは先日よりも増していて、正直言えば中々に辛い。

 『盾』なんかは折角死んでまで尖兵になったのだから、こういう辛さや苦しさくらい切り離してくれれば良かったなどと言っていた。こうして陽を浴びてずっと見張りをしている身からすれば同感なんだが、生憎と苦しみのない生なんかには喜びも無い。なにより一仕事終えた後の酒とセックスが気持ち良くない。

 内輪が自分含めてたった四人しか居ないというのが最大の問題だった。

 これだけ頑張っているのに相手はチビと愛想の無い無言男と性悪しか居ないんだからな。

 チビは襲えば殺されそうだし、甲冑ハンサムは誘ってみたが駄目だった。


「いっそ『盾』でも襲ってやろうかねェ」


 ああいう調子に乗った馬鹿は良く知ってる。生来のクズさ加減はそうそう治るもんじゃないが、男が人生を変えるのには女を使うのが一番早い。要するに上手く調教してやればいいだけさ。

 軽く探りを入れてみた感じだと、童貞って訳じゃなさそうだ。

 ただ、妙に強気というか、すかすかの自信を振り翳して女を見下す感じはアタシの時代に居た馬鹿男爵に似ている。

 燃えるような恋も知らず、暴力か権力で得た女を弄んできただけの、つまらない男だった。


 思えばヤる気も削がれてくるってもんだな。


 折角歴代の英雄が召喚されたんだから、活きの良い男でも選んでくれよ、ってコレじゃあ『盾』と対して変わらないね。


「昨日から動き回ってる連中は中々好みなんだけどねェ」


 明らかに何者かが入り込んで工作をしているが、上手く所在を突き止められないで居る。

 最初の内は派手に動き回っていたから『剣』と協力して刈り取っていけたが、一時を境にまるで追えなくなった。それでいて息遣いだけ聞かせてくるんだから相当な手練れ揃いだ。こっちに緩む隙を与えてくれず、追えば動いた隙間へ入り込んで暗躍してくる、そう確信できる相手。


 『盾』みたいな策謀は好みじゃないし、何を考えてるのか分からない『槍』の独断なんて知ったことじゃない。

 いざとなれば両方切り捨ててこちらの目的を果たせば良い。


 歪な五角形をした家の屋上で、部屋から引っ張り出してきた椅子へ腰掛けてお腹へ触れる。


 ここは良い。


 景色が開けているように見えて、部屋の中を覗けるのは二箇所しかない。その二箇所は出入り口の方が死角になっていて身を隠すにはちょうどいい。屋上からは主要な進軍経路を完璧に見通せて、いざとなればそこからの視線を切った状態で逃げていける道もある。そういう構造を作っている建物は全て基礎が他より古く、かなりしっかりとしていた。ここはアタシが生きた場所とは違うけど、明らかに意図して作られた穴と死角は砦の構造を思わせる。

 この都市を作っていった者は余程の曲者か、余程の阿呆ということだ。

 意味があるかないかより、考えられる手段を片っ端から揃えて備えておく、実に敵へ回したくない相手だろう。


 そんな奴があの拠点に居るとすれば、『槍』の企図した決闘とやらも効果を発揮できるか分からない。


 南方、アタシの射程限界をしっかり見極めて陣取った敵拠点は良く見える。

 普通の奴らは見えないなんて甘えたことをほざくけど、よくよく意識を飛ばせば怒鳴ってる野郎の歯が一本欠けていることくらいは分かるもんさ。


 だから、唐突に馬へ乗った若い一団が拠点を出て行くのを見た時、思わずきょとんと見送っちまった。


 離反とは違う。見送りが居たし、荷物が少ない。あれだけの人数が次の補給場所を得るまで持つとは思えない。なら、偵察か何かだろうか。いや、と思い直す。それにしたって堂々と動き過ぎているし、何人かの面構えを見れば裏でコソコソするより真っ向から突っ込んでくる愛すべき阿呆共なのが分かる。


「ん、まあ見間違いか」


 まあいいか、と思い直して弓を構えた。


 敵だ。

 ちょいと堂々と居座り過ぎたらしい。

 身を隠していたつもりだったが、ここは敵の巣だ、アタシの気付かなかった別角度からの監視なんかも可能だろう。


「オイオイ本命は『槍』なんだろう? アタシに目移りしちまうなんて光栄だけどよォ……!!」


 四方向から同時に仕掛けてきた、凄腕を感じさせる者たちへ向けて吼える。

 黄色の魔術光が舞い散り、放たれた矢が踏み込み過ぎた三人を同時に射抜く。若いのは我慢が足りねェ。


「突っ込むだけの野郎共じゃあ物足りねェ!! イカせたかったらもっと愛撫を頑張りなァ!!」


 舞い踊れ天使の羽。

 ひたひたと大地を濡らし、包んで喰らえ。


    ※   ※   ※


   ハイリア


 最初にヨハンが飛び込んで、撒き散らした衣服をアンナが拾い集めて畳んでいった。

 意外に嫁力の高そうな彼女の脇をペロスに手を引かれたジェシカと、ジェシカの手に首根っこを掴まれたアベルが抜けていって、アベルに助けを求められているサイやグランツやベンズが楽しそうに続いていく。


 ジンが給仕の女性から飲み物を受け取り、おそらくは口説き始めた。川近くの木に縄を通して布を張り、日陰の確保された場所には川遊びに消極的な女性陣が幾分ほっとした様子で座っている。軽く寝転んで座れる、よくビーチなんかで見るタイプの椅子だ。


 拠点から西へ、早馬で三時間と半分少々。


 かなり遠出したが、ウィルホードの案内してくれた避暑地は予想以上に金の掛かった場所だった。


 ぽつぽつと木々の見える景色から森と呼べる場所へ踏み込んだ頃には石畳が見えてきて、軽い上り坂になっているその道を進めば、デュッセンドルフ西の山脈を背にした屋敷があったのだ。山からの涼しい風が吹き降ろし、敷地内に川を取り込んでいるおかげで実に雰囲気がある。周辺には獣が出るとあって鉄柵で囲われているが、やろうと思えば狩りへ出かけることも出来るだろう。


「元はこの地で領主をしていた貴族から買い取ったものだそうです。年代物ですが良く管理していますし、ウチで賓客を迎える時にはよく使っているんです」


 デュッセンドルフからこんなにも離れた森の奥で、一体どういう歓待をしていたのかは聞かない方がいいんだろうか。

 商売をしていれば品行方正とは行かないことも出てくるだろう。犯罪に手は染めていませんよ、と言うセイラの話を信じよう。まあ、賄賂は交渉術の一つと考えられている時代だしな。


 増員された様子のある使用人らを取り仕切っているのは、俺が世話して貰った家の一階に住む老夫婦の息子なんだそうだ。


 軽く紹介を受けただけだが、クラン商会にとって何か重要な位置にある一家なのかも知れない。また、あの老夫婦が無事デュッセンドルフを脱出していることも聞けて、ここへ来て良かったと一つ思えた。


「私は少し屋敷の中で後の準備を進めてきます。折角休息にいらしたのですから、ハイリア様もゆるりとお過ごし下さい。メルトーリカ様も、今はハイリア様の婚約者としてお過ごし下さい」


 言っていることは使用人みたいなのに、まるで本物の王子様みたいに爽やかな笑みを置いてウィルホードは場を辞した。

 後を追って行くセイラも足は速いのに動きが優雅そのもので、彼を見詰める表情は物語で男達が求める恋するお姫様そのものだ。


 あれが民の求める貴族らしさなんだろうなとしみじみ思いつつ背後を振り返れば、元王族のジンがだらしない顔で給仕の女性の肩へ回した手を抓られていて、天下の大貴族であるウィンダーベル家のジェシカが大喜びのペロスを川へ放り投げていた。


 往々にして、現実と理想は乖離するものである。極端な例であることは否定しないが。ちなみに、俺は元平民なのでノーカウント、よろしいね?


「俺の婚約者として過ごして欲しいそうだぞ」

 俺が期待を籠めて言うと、メルトは楚々とした表情を崩さず首を振った。

「私服は洗濯中です」

「頼めば貸してもらえる筈だ。後から馬車で来ることになっているオフィーリアは多分、その手の着替えを大量に持ち込むぞ」

「では、その時になったら考えます」


 あっさり受け入れたな、と思ったが、そろそろ時間か。


 屋敷内に部屋を用意してもらおうかと思っていたら、セイラが戻ってきた。


「ご案内します。こちらの景色が望める一室を用意いたしました」


「助かる。メルト、行こう」


 手を差し出すと、また彼女は目を彷徨わせて躊躇する。

 恥じらいはいいんだが少しは慣れてくれ。


 セイラがにこりとお姫様みたいな笑みを浮かべた。


「婚約者に恥を掻かせるものではありませんよ? メルトーリカ様はハイリア様に婚約者からエスコートを断られてしまう方という評判を与えたいのでしょうか?」


 思い合っていらっしゃるのに不思議ですね、なんてにこやかに言うから、メルトさんの反抗心がちょっとだけ疼いたらしい。出だしの動きだけ鋭く、すぐ勢いを失ってのそのそと、俺の差し出した手の指先へ自分の指先を重ねた。


「あらあら」


 ナーシャみたいなことを言ってセイラが笑う。

 でもまだ彼女が案内を始めないのは、メルトがちゃんと手を重ねていないからだ。


 うん、お姫様みたいだけどこういう部分は商家の娘らしい。


 すっかり顔を赤くしたメルトが決死の覚悟を固めると、今度こそ手を重ねてきて、俺はすかさずそれを握った。逃がさない。怖気付いてももう遅い。


「ではこちらへ」


 微笑ましげなセイラの目線がメルトだけでなく、俺にも注がれていることには気付かず、三人で屋敷へ向かう。


 今日は暑いからな。


    ※   ※   ※


   フィリップ=ポートマン


 ハイリアが婚約者のフーリア人を送っていくのをセレーネが遠巻きに、吹いた風へ目を向けるようにして見ていた。

 そんな彼女の姿を、俺はまた遠巻きに見ている。


 一時はどうなるかと思ったが、まずは落ち着いたようで良かった。


 アンナという平民の友達がよくよく面倒を見てくれている。ヨハン=クロスハイトとの言い合いは相変わらず絶えないが、斬り合いみたいな事態には発展しないようになってきたから、多分、大丈夫だろう。


 俺はなにも出来ないのにここに居る。


 本当は場違いなんだろう。

 ジェシカたち一年生は自分たちの位置を得たみたいにいつも楽しそうで、元一番隊の面々も特別そんな場所を求めていたりしない。


 俺だけが自分の位置を定めていない気がする。


 それはこの中での居場所というだけではない。


 俺は本来、ここに居るより義勇兵団へ加わるべきだったんじゃないか、ずっとそう思っている。


 どこに居ても役立たずなのは変わらない。だけど、ここじゃないんじゃないか、そういう考えが消えず、同時に逃げだと感じてもいた。

 元一番隊は特に身分の差を気にしない。

 最初からそうだったのかは分からないが、見ていると誰もが同じ目線を共有し、当たり前に認めているのだと感じる。

 身分に拠って、身分で位置を作ってきた俺にはどうすればいいのか分からなくなる時がある。


 鉄甲杯のように部隊の枠があった時は自然と居場所を確保出来た。

 だけど今、大きく枠が広がると不安が先立ってしまう。


 いいや、これらも言い訳を見付けて並び立てているだけだろう。


 尾を引いているのは、拠点を出る準備を進めている時に、義勇兵団への参加者に俺の元小隊員を見かけたからだ。

 ()()は、小隊の主戦力であった二人に左右を守られ、強張った顔で一団に加わっていた。


 気の強そうな吊り目で、女にしては身長が高い。


 目立つ女だった。


 成績は良いが位は低く、愛想のある奴じゃない。


 貴族なのに衣服が豪華とは言えず、ほつれを馬鹿にされているのを聞いたことがある。


 上位の者へも物怖じせずに意見して、下位の者をよく守る。


 部隊内で一番位の高かった俺が隊長を継いだ後、卒業する先輩からの指名で副隊長に就いたのが彼女だ。


 そして俺が小隊を崩壊させた時、自分の無能を棚に上げて怒鳴り散らし、恐喝までして黙らせ、従わせようとした相手。


 最後の瞬間、泣くでもなく、叫ぶでもなく、ただ崩れ落ちて顔を隠した彼女の姿が目に焼き付いている。

 彼女を庇い、俺を睨みつけて去っていった時にも、あの二人が左右に居た。


 今なら分かる。


 遅すぎる理解に自分を殺してやりたくなるほどに……傲慢で権力を振るうしか能の無かった俺が隊長を務めていくには、彼女のような人物が必要だと先輩たちが指名していったのだと。いくら気の強い人間であっても、貴族社会で上位の者に意見を挟むことの怖ろしさと、一族を巻き込むかもしれないという重責を知らないような人では無かったのだ。

 彼女は、俺のせいで分裂して、崩壊していく小隊を必死に纏め上げようと、俺の暴走を止めようとしてくれていた。

 あの時誰よりも俺の事を考えてくれていた人へ、俺は怒鳴りつけたんだ。


 分かった所で過去は消せない。


 分かった所で俺のクズさが消える訳じゃない。


 だけど、一度は学園からも姿を消した彼女がどうしてあの場に居たのか、その意味を考えれば、こうして安穏と守られた環境に居る自分に不安と焦りが募る。


 受け継がれてきた小隊を崩壊させたことで一時は窮地に陥ったものの、ハイリアから与えられた上位能力でポートマン家は再興の兆しが見えている。ナーシャが溝の出来ていた周辺貴族らとの関係を取り成してくれたのが何よりも大きい。まだ不名誉を突いて文句を言う者は多いようだが、全体の流れとしてはもう大丈夫、両親や兄達はそう言っていた。

 いや、ホルノスの未来を担うと目されているハイリアとの関係、上位能力の秘密を求める者たちと多くの繋がりを得ることで、きっとウチは前以上の発展を遂げるだろうと一族は沸き立っている。


 同じく不名誉を得た者たちを置き去りにして。

 一番の原因である俺だけが、こんな所で。


 だが同時に、ハイリアの言葉が頭を離れない。


 助けてくれとアイツは言った。


 俺なんかを友人と呼んでくれて、間違えそうな時、落ち込んでいる時には声を掛けてくれて、なんとか俺は奮い立ってこれた。

 そんな男が助けを求めている中、また自分勝手な理由で行動して、自分勝手な利益を得ていくのか?


 許されない、と思うし、力になりたいとも思うんだ。


 何も出来ないと思いながらも、情けか本気か……きっとアイツはいつでも本気だから、本当に俺が必要だと思ってくれているから、何をすればいいのかも分からないままここに居る。


 誰かが完璧な道を示してくれればこんなにも苦しまないで居られる。


 例えば、聖女セイラムのように。


 首を振る。


 納得した筈だ。

 俺のうじうじした話をしっかり聞いてくれて、納得の行く意見をくれた。


 いつか、そう、二番隊のプレインへ向けて、彼女の傍らに居たかつての仲間へ叫んだように、後悔を抱えながらも進むことを選んだのだから。


 木陰で俯いている場合じゃない。

 そうだ。やれることをやろう。


 思って、顔をあげるともうセレーネは居なくなっていた。


 どこだ、と思った時、彼女の声が川辺を貫く。


「じゃじゃーん!! これでハイリア様を悩殺よー!!」


 顎が地に付き目玉が転がり出るかと思った。


 胸の表面と腰回りを覆う布。


 たったそれしか身に付けていないセレーネが川へ飛び込んで水を巻き上げたのだった。


「ぉおおぉぉおおおぉぉおおぉおぉおおお前!? 気でも狂ったか!?」


    ※   ※   ※


   セレーネ=ホーエンハイム


 悩んで落ち込むより行動あるのみ!!


 ハイリア様は貴族なんだからアレよ! 第一夫人とかは別に譲っちゃって私は愛人とか情婦とかになっちゃえば全て良し!! 大切なのは既成事実っ! 真面目で義理堅いハイリア様だからたった一度の間違いでもあれば一生大切にしてくれる! そこに甘えたい訳じゃないけど甘えたいし、とにかくキッカケが重要なの! 


 遅れて到着したオフィーリアさんから水着を借りて誰よりも先に飛び出した。


 じゃじゃーん!! とね!!


 だけど暗くて湿った所で涼んでたらしいフィリップさんが素っ頓狂な声をあげるから、皆が私の方へ目を向けた。


 ふっ、見るがいいわ!


 注目に答えて自ら一度川からあがり、じゃじゃーん、と腰を捻った。

 メルトさんとかジェシカみたいな凄まじい大きさは無いし、アンナみたいな隠れ巨乳とは違うけど、背中とか腰とか脚には自信があるのよっ。これでも毎朝走って毎晩引き締め運動してるんだからっ。


 見せ付ける私に今度は声より本体が飛んできた。


「いっ、今すぐ隠せ!! ハイリアの件は辛いと思うが自暴自棄になんてなるもんじゃない!!」


 言って服を肩に掛けようとしてくれるけど、私はするりと抜けて言い返した。


「これは水着! 下着じゃないの!! 海で泳いだりする時の服なの!!」


「そんな服があるもんか!? それじゃあまるでっ、まるっ……でっっ!!!」


 まるでなんなの、娼婦みたいって言いたいの?


「あの人らの服はいろいろ丸見えになってるからコレとは別ですよ? 第一、コレって去年からハイリア様が考案して作られてきたものなんですからねー!!」

「なんだと!?」


 フィリップさんがキョロキョロをハイリア様を探し始めるけど、そういえば姿が無い。


「あれ? ねえアンナ、ハイリア様は?」

「さっきメルトさん連れて家に入ってったよセレーネちゃん、残念」

 そういえばそうだった。まだ戻ってないのか、そうかぁ。

「アンタは着ないの? こんな機会滅多に無いよ?」

「結構めげないね。私は慣れない馬に乗って腰が痛いから木陰で休んでるよ」

「そうね、ヨハンってまさしく種馬って感じだから、一晩中攻められ続けて大変だったんでしょうね」

「落ち込むのはいいけどこっちに逸らしてくるの良くないよ。あとその恰好で家に入るのは流石に恥ずかしいかなぁ」


 細かいことを言ってくるアンナは無視して私は川に身を沈めた。

 ハイリア様が居ないのは残念だけど、仕方ない仕方ない。


 沼地よりはマシだけど、ここだって日差しが強くてそこそこ暑い。

 川遊びは昔よくやってたっけ。男も女も無かったような時だからどっちも下着だけで飛び込んで、男の子はいつも高い場所からの飛び降り度胸試しをやってた。まあ、あっちだと私は浮いててずっと隅っこでぷかぷか浮いてただけなんだけどさ。


「はぁ~気持ちいい。ねえオフィーリアさんも来なよー」


 一緒に着替えてたから水着は着てるんだよね。だけど、地肌を晒すのは恥ずかしいって、膝下まで隠す薄手の上着を羽織ってる。言っちゃあなんだけど、一生懸命抑えてる上と下の隙間から見える肌色がいっそエロい。しかもその上着、さっきまでダットさんの羽織ってた奴だよね。


 川の深い所へ一度潜って、対岸を蹴ってまた戻ってくる。

 すると、岸辺にまだフィリップさんが居た。


「……もう、大丈夫なのか?」


 真剣な顔で言ってくる。


 私が負けたことで落ち込んで、引き篭もってた時、様子を見に来てくれた時と同じだ。


 じっとその顔を見詰めて、眉を寄せた。


「全然駄目」

「そうなのか……」


 もう助からないって言われた重傷者みたいな顔をするから、ちょいと手招きしてやる。

 何の警戒もなく寄ってきたフィリップさんの、大きな手を水の中から掴み、引き寄せた耳元へそっと呟く。


「心配してくれてありがとう」


 そんでもっていらっしゃい。


「お、俺はその、仲間としてとうぜ――ぶをああ!?」


 容赦なく引っ張り込んだフィリップさんが川の中へどぼん。


「あっはははははは!! やーい引っかかったー!!」


 ついでに重たそうな服を剥いで剥いで、暴れるのを無視して靴とかぽーんと岸辺へ放り投げる。


「待て!? わぷ……っはあ! セレ……ッ、ネ!?」


 造船業を営む貴族様だから泳げるみたいなことは前に言ってたしね。一応息継ぎだけさせてあげて、でも水の中へ引っ張って引っ張って、服を剥いで、暴れるのを抑えるのに腕とか脚とかにこっちのを絡ませる。カチンコチンに固まって動かなくなるからちょうどいい。フィリップさんも魔術を使えばいいのに、やんわりとした抵抗しかしないから調子に乗って遠慮なく襲い掛かる。


 はっはっはっはっは!!


 下着一枚にひん剥かれたフィリップさんが岸辺にしがみ付いて首まで真っ赤にして泣いているけど構わない。

 服の何枚かが流されていったけど、使用人の人が慌てて走ってったから何とかなるよね?

「ほらっ、泳ごうよ!!」

「今は無理だあ!!」

「今じゃないと無理なの!!」

「勘弁してくれええ!!」

 勿論、容赦しなかった。


 本当に今日は暑い。

 太陽が淀んで見てられなかったから、私は慌てて水の中へ逃げ込んだ。

 何もかもの音が曖昧になる場所で、お腹の中にある息を全部吐き出すつもりで叫んだ。


「ちっくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」


 勿論、至近にいたフィリップさんにだって聞こえなかっただろう。



    ※   ※   ※


   ハイリア


 メルトを寝かせて、しばらく気持ちの整理を付けた後に戻ってきたらフィリップとセレーネが楽しそうに水遊びをしていた。

 普通にパンツ一枚で泳いでいるヨハンは別として、女性陣は何人かが水着に着替えているようだった。とりわけ南方のガルタゴ出身であるリコット家の双子は躊躇が無い。こちらより水遊びが一般的で、文化的にも慣れているということだろうか。


「すごいね、ゆれるね」

「あんまり見るんじゃない」


 ジェシカは泳ぎ自体が怪しいらしく、川岸に掴まったままあまり動こうとはしていない。

 水着姿にはなっているが、流石に周囲の目が気になる辺り、貴族のお嬢様という所だろうか。

 色黒故に変化がわかりにくいものの、サイはあからさまに顔を赤くしているし、グランツは何故か悟ったような表情で頷いていた。


「あちらの品はハイリア様が考案されたと伺いました」


 遅れて屋敷から出てきたウィルホードが並び立ち、興味深そうに周囲を伺う。


「元は夏季長期休暇へ合わせて考えたものだな。泳ぎの練習をするのにちょうど良い」

 フィリップが素っ頓狂な声をあげていたように、当初は何を言い出すのかと大慌てで止められた。思えば当時は完全に馴染んでいなかったのか、ここの常識とややズレることが多かったように思う。

「ハイリア様は泳げるのですか?」

「……どうだろうな」


 問われて習ったからなと言い掛けて、詰まりながらも誤魔化した。

 日本じゃ水泳なんて小学校の授業でやるものだ。上手い下手は別として、水に浮けない者は滅多に居ない。しかしここでは川はともかく海や湖のような場所を見たことも無い者の方が圧倒的に多い筈だ。合宿で内海を見た時に随分と興奮していた者たちを思い出す。


「随分と前にやった覚えはあるんだが、今出来るかは分からない」


 ついでに、誤魔化したのが嫌で嘘にならない範囲で答えた。


 ウィルホードもそれ以上掘り返しはしなかったから、ありがたく甘えておいた。


「売れそうか?」


 商家の跡取り息子である彼は、俺の問いに困った顔をする。


「水遊びをもっと大々的に行うような環境が無ければ難しいでしょうね。こういった内輪の環境ですら、貴族女性は肌を晒すのを嫌いますから。そして気にしない平民層はそもそも専用の服を買わず、下着と布で済ませてしまう」


 なるほど。


「敢えて水遊びで着飾るような環境が必要、ということだな」

「水着を着るのは着飾ることと同義です。あるいはガルタゴなら、とも思いますが、あちらの販路を得るのはとても難しいのです」


 ガルタゴや南方の国々は古来より肥沃な土地を背景に強大な軍事力を誇ってきた。

 金銭と物資のやり取りに於いても同じで、時に商人達が一国を呑み込むほどの勢力になったこともある。

 安易に参入すれば瞬く間に呑み込まれ、骨も残らないとは誰に聞かされたんだったか。そこへ食い込んで操りさえするウィンダーベル家も凄まじいが、商業組合の連合体がそのウィンダーベル家に十分対抗し得るというのもまた凄まじい。


 大航海時代を経てもしばらくは中東勢力が強大で、欧州など片田舎の扱いだったとも聞く。

 陸路(シルクロード)があったにも係わらず海路を求めたのは、そこを牛耳る者たちが居たからだ。


「まあ、今日は無礼講だ。遊びに来たのだから、存分に愉しむとしよう」


「ごゆるりと」

「一緒に行くぞ」

「あ、いえ、私は」

「ほらセイラっ、ウィルホードをくれてやる! 存分に惑わしてやるといい!」


「はい」


「あの、セイラ、いつの間に着替えたんですか……?」


「ふふっ」


 ついでに俺も服を脱ぎ捨てる。

 貴族としての服装をしていない分、数枚脱げば水着姿の出来上がりだ。

 通り掛けにやや困った様子の女を未だに口説こうとしているジンの首根っこを引っつかみ、はしゃいで興奮した様子のリコット兄妹だか姉弟だかに与えた。


「ジンさんジンさんジンさんジンさーーん!!」

「兄ちゃんも行くぞお! 誰が一番長く潜れるか勝負だー!!」


「まあ待てお前ら俺はまだ水着とやらには着替えてないから水は駄目無理無理泳げないから引っ張るな川の流れ意外と早くないかだから溺れる溺れる溺れるから離せっておいいいいい!?」


 結局数枚引っぺがされただけで殆ど着衣のまま川へ押し込まれた。

 最後にペロスが大喜びで飛びついて、すかさずベンズが足払いを仕掛けたのは良い連携だ。


「よしその調子だ、そこの破廉恥男を存分にいたぶってやれ!! だから私の方に来るな泳げないと言ってるだろう止め――キャアアアア!?」


「足が!! 足がつかないんだけどここ!! 誰か助けろっ、いや助けてっ、助けてくださああい!?」


 珍しいジェシカのキャー系な悲鳴を聞きながら和やかな気分に浸っていると、次なる得物を求めてやってきた双子が俺へ飛びついてくる。

 しかし泳げる俺は余裕で受け止め、二人を両腕にぶら下げた。


「およげる?」

「あぁ」

「よぉっし! それじゃあ次の奴だ!!」

「いえっさー!!」


 どうやらガルタゴには泳げない者を水へ引きずり込む文化があるらしい。

 いつか行くことになった時は身の回りの者にも注意させよう。


 ちなみに泳げないらしいサイは一番に鎮められて今岸辺で伸びている。グランツの経歴は知らないが実に泳ぎが堪能なようで、放置されたジェシカやジンをさりげなく救出している。戦った時にも思ったが随分と多芸な子だ。


 景気良く大笑いするような陽光に俺は目元へ手を翳し、晒した肌が焼けていくのを感じる。

 皮が剥けて戦いに支障が出ないように気をつける必要はあるだろう。

 だが今は、純粋に愉しむ。


「ハイリア様こっちー!」


 セレーネがフィリップを静めながら声を掛けてくる。

 大きく振られた手へこちらも返し、歩を進めようとした所で駆け寄る足音を聞いた。


「たーーーー!!」


 ペロスだ。

 得物が見当たらないのか、単純に飽きたのか、兄だか弟だかのベンズを放り出して俺へ突撃してきた。


「よし、来い!」


 すぐさま腰を落とし、膝の上に手を添えた。

 俺の姿勢を見てすぐさま察したのか、飛びつこうとしていた双子の少女は俺の膝上、手のひらの上へ乗ってくる。

 走り、浮き上がった勢いを崩さないよう気を付けながら、俺はペロスを川のど真ん中へ放り投げた。


「キャアアアアアアアアアアア!!!」


 滅茶苦茶嬉しそうな声はそのまま水の中へ消えた。


「おおおおおすげえ!! すっっっげえ飛んでたぞ今!! 俺も俺も! 俺もやりたい!!」

「よし来いベンズ!! 上手く乗れよ」

「っしゃああ!!」


 二人目は上手い具合にペロスの横へ着水し、さて俺も行くかと思った時、いつの間にかグランツが回りこんでいた。


「おっす」


「ふむ。いいだろう、来い」


 浅黒い肌の少年が風に乗るようにして膝上へ足を掛ける。

 放り投げる瞬間、これまでの二人とは違う、ズシリとくる重さが加わったのを感じて俺も狙いを知る。


 まあ、出来るのなら任せるか。


 遠慮なく力一杯放り投げた。

 これまでよりも更に高い跳躍に見ていただけの者からも声があがった。

 空中でくるくると身を回し、川の中心を越え、更に越え、対岸まで飛んで着地した。

 一瞬、シンと静まり返る。だが蹲るようにして着地していたグランツが立ち上がり、いつもの表情で腕を振り上げると、双子のみならず方々から喝采が沸き起こった。


「うおおおすげえ!! なんだいまの!? あれが前に言ってた忍者か!?」

「ニンジャてなに?」

「フーリア人の暗殺者みたいな奴らだよ! 俺たちの国で言えばアサシン!! お前アサシンの血ぃ引いてたのか!? 俺もやりたい!!」


 興奮して川から這い上がってくるベンズへ、俺は髪をわしゃわしゃとしながら止めた。

「あれは慣れてないと骨を折る。上手くいっても足を痛めるからな、真似は出来ないぞ」

「っちくしょお!! いいなぁ、かっこいいなぁ……!!」

 多芸だなんだと思っていたが、本当にどんな経歴なのやらだ。

 前に軽業師の舞う演劇をアリエスと観たが、精々が一階の天井程度。俺が思いっきり投げたのもあるが、投げる瞬間にはまるで重さを感じなかった。俺の間を読み取って完全に勢いを生かして飛ばなければああはならないだろう。


「しとり」


 すっかりヒーローとなったグランツへ俺も称賛を送っていたら、セレーネが立てたままの俺の膝上へ尻を乗せてきた。

 用意された水着の中で最も過激なビキニタイプを着ている彼女は、腰元から背中、脚の肌色を存分に晒しつつ意味ありげな視線を送ってきた。


「投げればいいのか?」

「ハイリア様に投げられるならそれもいいかなぁ。出来れば一緒に水の中へ、そして流されたフリして人気の無い所へ……私の準備はいつでも整ってますよっ」

 すまないがメルトの死を見送った直後でそういうノリには乗っていけないな。

「ごめんなさい」

「分かってくれたならいい」

 察した彼女からの謝罪を受け取り、二人して立ち上がる。

「それじゃあ、私は少し休憩がてら飲み物探してきますねー」

「あぁ」


 少し気まずさを感じつつ、セレーネへ背を向けて川へ向かう。

 フィリップが彼女を見詰めているのを視界の端で感じつつ、こちらを呼ぶジェシカへ手を挙げる。どうやら何か勝負事を仕掛けたいらしい。仕方ないな、と救われた気持ちで川岸へ足を掛けた時だ。


「諦めると思ったら大間違いだぞおおおおい!!」


 完全に無警戒となっていた背後から飛びついたセレーネへ引きずり込まれ、俺は川へ没した。


    ※   ※   ※


 水の底に居た。

 何もかもの音が曖昧で、何もかもの景色が曖昧で、陽の光もここでは少し遠い。

 川の流れが思っていたより速いんだろう。それで川岸から少し進めば急に深くなる。最初にヨハンが飛び込んでいた場所は川の流れが緩やかな場所で、逃げ込んだジンやジェシカたちは水の浅い場所で俺を呼んでいた。聞こえないのに、曖昧な景色を見てなんとなくそう思う。


 誰かが手を伸ばしている。

 沈んだ俺を見て慌てているのか、もがくように追ってくる。


 誰だ。


 不意に、その手の主が分からなくなった。


 思い出せない。

 知らない。

 いいや、そんなことは無い筈だ。


 心の底から信頼し、求め、求められることを誇りと出来る仲間達。


 その一人である彼女を忘れる筈がない。


 なのに急に思い出の輪郭がぼやけていく。


 止めてくれと訴えて、すんなり受け入れてくれたと思ったのに、また急に飛びついてきて。

 危ないじゃないか。叱る気持ちはあっても怒ってはいない。彼女からの好意はとても直接的で、時折こそばゆくもある。


 彼女。


 彼女、名前は。


 伸びた手がもうじき届く。


 水の中で俺の名を呼んでいるのか泡が溢れて登っていく。そんなに叫んでは息が続かないだろう。呼んで、止めさせないと。けれど、水の中では息が吸えなかった。なけなしの息を搾り出し、そして――



「そこに居るのか、セイラム」



 視界が暗転する。





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