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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第四章(下)

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 足元から伸びた草の先端にてんとう虫が止まっていた。

 あれ、と思って目を向けた時にはもう飛び立っていたから、見間違いかも知れないが。


 見上げた陽光は強く、朝露をあっという間に払い除けてしまうくらいには温かい。


 気候としてはまだ春だろうが、そろそろ夏かと、そんなことを思う。

 気温の落ち着いた日で良かった。貴族や富裕層は天幕などで雨風を凌いでいるが、避難民の大多数となる平民らは野晒しで夜を過ごしているからだ。拠点北端の門から歩いてきた時、肩を寄せ合って不安そうに眠る親子を見た。こういう環境では窃盗や暴力沙汰が起き易いだろうし、長期化するならパーソナルスペースの確保は必須事項となる。

 ベイルは強制的に移動させるとは言っていたが、果たして素直に応じるかどうか。アテの無い者にとって住まいを追い出されることは流民になれと言われているに等しいだろう。


 登り始めた太陽から視線を外して息をつく。


 不用意な行動だ。これから戦いが続くかもしれない状況で目が焼けるようなことをするべきじゃなかった。

 徹夜明けのせいか普段よりも思考が短絡化しているんだろう。光の残像を打ち消すべく強く瞼を閉じて、軽く目を擦った。駄目だ、ついやってしまう。しかし目薬くらいは欲しいものだな。贅沢は言えないが目の疲れはどうにかならないものか。


 例の魔術といい、ジーク相手の戦いといい、随分と酷使してきたからか、そろそろ休ませろと言ってきているんだろう。


 兵舎に戻って休んでいいとは言われたが、呼び出されるかも知れない、とも言われている。

 最低限眠気覚ましの用意だけしておくべきだろう。

 今の状況で珈琲及びカフェイン類の摂取が可能なのかどうか、少々不安でもある。


 幸いにもメルトを連れ回しながら買い物をしていたから手持ちはある。市は無くとも金で譲ってもらえるならと物の多そうな場所を目指して歩いていると、人だかりを見付けた。炊き出しだろうか?


 欠伸を噛み殺して近寄っていき、様子を伺うが、どうにも事情通らしき男が現況に関しての話をしているらしい。

 昨日俺が話した教団の仕業だという話もあり、基本的に怪しげな噂話ではなく多少なりとも確度のある情報を語っている。批判的な内容を避け、時折予測を示したりはするが、それも当たり障りの無い内容に収まっている。


 問題も無さそうだったので人だかりを離れ、けれど、一度食欲を思い出してしまったせいか空腹感が主張を始めてしまった。

 別に炊き出しで食べるつもりはなかったんだが、ふらふらと歩き回っていたので兵舎にはまだ遠い。


 当初の目的も忘れて周囲を探っているとフロエが居た。


 しかも、空腹に腹へ手をやりながらぼんやりとしていたから、反応が遅れてしまう。

 彼女も俺を見ていた。挨拶をしようか、逃げようかと考えて、いやいや逃げてどうすると思い直す。


 考えている間にフロエは半眼になり、目を逸らし、盛大にため息をついて寄ってきた。面倒くさそうにしているが足取りは軽い。


「親方に食事を抜かれた小僧みたいな顔してるよ」

「随分な挨拶だな」

「食べてないの?」


 問われ、考えてみたが、そういえば最後に食事を摂ったのはジークと戦う前の昼食だ。昨日は昨日で忙しかったし、色々と起き過ぎたせいか空腹なんてすっかり忘れていた。集中していたり、忙しいと忘れることは良くある。


「炊き出しはやっていないんだな」


 フロエはそこで働いているというか、手伝いでもしていると思っていたから、どうしてこんな所にいるんだという意味で言ったつもりだったが、彼女には違って聞こえたらしい。


「うぅ……ん、次はというか、昨日は逃げて落ち着いたのが夜だったからで、昼に一度やるだけって話なんだよね。朝なんて普通は食べないし……そっか、お腹減ってるんだ」


 とりあえずこっち、と手を掴まれ引かれるまま歩いていく。

 あれ、どうして俺は食べてないかわいそうな子扱いになってるんだ?


 物の多そうな場所を探してきたこの一帯には、デュッセンドルフから脱出する際に使われた馬車がそのまま並べ置かれている。

 天幕の少ない一般の区画には遮蔽物となるものが少ないが、貴族の区画とを隔てる柵周辺なら話は変わってくる。丘の始まる手前、粗末な荷馬車……もとい荷車の影に切り株があり、彼女はそこで待っているよう告げた。


 俺は兵舎に戻れば大丈夫だと言ったのに、何故か戻って仕事を続けるような解釈をされてしまい、妙に厳しく待っていろと重ねられてしまった。


 まあ、いいか。


 ふと見上げれば、境界線を見張る兵士がおり、口髭を蓄えた老爺は俺の素性に気付いたのか気付かなかったのか、一瞥しただけで他へ目をやった。面識は無いし、見覚えも無いから近衛ではなくデュッセンドルフの守備隊だろう。年齢を考えれば引退している筈で、今はそんな者まで呼集している状態らしい。


 この荷馬車の陰でフロエは寝泊りしているのだろうか。

 思えば少し不安になる。子羊亭から離れてしまえば家などある筈もなく、学生でも軍人でもない彼女に与えられる場所など無いだろう。ウィンダーベル家が身柄を確保している筈だが、なんて考えていたらフロエが戻ってきた。思っていたよりも早い。


「はい。ちょっとズルして貰って来ちゃった」


 木の器を受け取ると、それ事態がもう温かかった。

 中を覗いてみると赤いスープが湯気を立てて満たされている。

 赤はトマトの色だ。徹夜明けの少し冷えた鼻先をあたたかな香気でほぐしながら鼻腔へ満たしていくと、煮込まれたトマト独特の酸味と旨味に、ほんの少し混じったバジルとオニオンの香りが強烈に空腹感を呼び起こしてきた。

 香りを堪能した分だけ吐息は長くなった。

 つい口元が緩んでいる。あぁ、旨そうだ。しかし、とも思う。


「これは……」

「昨日の残りに軽く手を加えただけ。火はもうあったし、少量だからね」


 炊き出し係の特権といった所か。


 単純にそうとだけ考え、口を付けた。


「……旨い」


 素直に感想を口にするが、荷車へ寄りかかったフロエはさしたる反応もなく「そう」とだけ答えた。

 じゃがいも、にんじん、よく分からないが根菜みたいなものもある。十分過ぎるほど煮込まれたせいでどれも柔らかく、食べ易い。にんじんは概ね溶け込んでいるようだが、皮ごと入れてあるじゃがいもには原型があって食べ応えがある。具沢山とまではいかないが状況を考えれば十分に贅沢な量だ。貰った木のスプーンですくって食べ、舌と上顎を軽く火傷しながら飲み干していく。大人数へ配るべく薄味ではあったが、バジルやオニオンなどで新たに手を加えてくれているからか鮮烈さは十分。トマトの旨みが腹を満たし、最後の一滴まで煽った直後に大きな吐息が一緒になって出た。


 食べ始めて気付いたが、相当に腹が減っていたらしい。

 一気にかっ込んで食べるなんて久しくやっていない。バケットサンドなんかで手掴みの食事はあるものの、すっかり染み付いた習慣で少量ずつ口へ運んで味わうのが殆どだ。それもそれで繊細に味を愉しめるから悪くないんだが、丼飯のような感覚もまた良い。久しぶりに米が食べたくなった。


「炒飯か、なにか、か……」


「……ん?」


 思わず口にして、それから意味を考える。


 あぁ。


「いや、また食べたいなと思っただけだ。こんな状況じゃ難しいな」


 三本角の子羊亭で出される炒飯の米はインド米に近いさらさらとしたもので、俺が本当に求めるものとは違う。だが初めて店を訪れた時、ミシェルに出して貰った料理は実にかつての場所を思い出す強烈な味で、郷愁に胸を焼かれたのを思い出した。

 あの場、あの雰囲気にこっそり混じって食事を摂るのが、俺は好きだったんだ。

 今の皆で食べにいくのもいいが、学園生には貴族が混じっていることを知っているデュッセンドルフの民は、どうしても遠慮してしてしまうからな。


「その内また作ってあげるから、とりあえず街を取り戻してよ」

「あぁ。そうだ――ふぁ…………んっ」


 いかん欠伸が出た。


 すかさず頭にチョップが飛んでくる。


「ふざけてる?」

「いや違…………違う」

「てい、やっ」


 やんわりやってくるから本気でふざけているとは思われていないだろうが、大切な返事の途中でこれは酷い。なのに眠気がどんどんと増してきて、とにかく兵舎へ戻ろうと腰を上げようとしていたら、フロエが切り株の反対側へ腰掛けてきた。

 背中合わせに座る、というよりは俺が背もたれにされているような状態だから逃げるに逃げられない。


「あー疲れた。あのね、炊き出しだって結構大変なんだよ。十人二十人ならいいけど、何百人も何千人も相手にしながら配っていくの。あっちが多かっただのこっちが少ないだの文句も多いし。私の肌見て態度変えてくるのも居るし。まあ貰うもの貰ったら大抵はさっさと離れていくけどさ」


「あぁ」


 確かに、普段子羊亭の切り盛りに慣れているフロエが大変と称するくらいだから、相当な面倒もあったことだろう。単純な作業としても百人単位にスープを配っていくとなれば結構疲れるものだからな。それを千人超か……たしかに重労働だ。


「特になんとかって貴族のご夫人様がでしゃばってきて邪魔でしょうがなかったんだから。この料理はこの味付けがー、とか、野菜はこのくらいの大きさでー、とか、炊き出しに何求めてるんだか。おかげで昨日は予定より出すの遅れたでしょ? 時間稼いでくれて良かったよ。問題はその後なんだけどね」


「炊き出しに協力してくれたのは近くの農場主でもある貴族だな。リーベルト第二夫人は料理研究が趣味で、幾つか出版までしていた女傑との噂だ」


「うん、確かに勉強にはなったかも。でもさ、急いでるんだから包丁研ぎ直せとかはやめて欲しいよね? 砥石探すのにまた大騒ぎで、避難者に紛れてたフーリア人のおじさんにやってもらっちゃったし、あの人すごい、もう滅茶苦茶やるよ」


「確かにまあ……いや、俺の立場では」


「あーはいはい、お貴族様だからね、立場があるからね」


「実際食料の大半を供出してくれたから、感謝すべき相手だ」


「そして現場はごった返すんだね」


「頑張ってくれ」


「はいはい」


 それからも愚痴のような、世間話のような、なんでもない事を喋り続けるフロエに相槌を打ったり、こちら視点の話をしたりした。

 日差しは強いが、気温は低めで緩い風もある。

 小春の気候の中でゆったりとまどろむような会話は段々と曖昧なものになっていって、なんとか彼女の話を聞こうとするのに、頭が追いつかなくて返事までぼやけていく。

 背中があったかい。

 少し汗ばんでいるような気もするが、どちらのものかは判別がつかない。


 欠伸を一つ。


「聞いてる?」


 と、怒った風でもないフロエの声に、


「あぁ」


 と、冬の吐息みたいな返事をして、


「ハイリア」

「あぁ」

「おやすみ」


 いつしか、眠ってしまっていた。


    ※   ※   ※


   フロエ=ノル=アイラ


 返事が無くなってからもしばらく話し続けた。

 急に止めると、静かになったことで目を覚ますかもしれないし。


 ハイリアの大きな背中に凭れ掛りながら空を仰げば、首の後ろでも彼の体温を感じられる。

 あったかい。けど、風が少し冷たいからちょうどいい。


 あーどうしようかなぁ、なんて思う。


 なんとなく疲れてそうだな、眠たそうだなと思ったから、じゃあ寝かせてやろうかと無駄話を続けていたら本当に眠ってしまったらしい。

 別に寄り掛かってきてる訳じゃないから離れてもいいんだろうけど、眠った人を放置して炊き出しへ行くのは危ない気がする。


 炊き出しはあくまで奉仕活動だ。賃金も契約も命令も無い、料理なら作れるからじゃあやるよって首を突っ込んだだけで、サボった程度でどうこうされることは無いと思う。多分。奴隷階級のフーリア人は世間様の気分一つで罪が変わるから面倒だ。

 ただ、今日の仕込みは夜の間に済ませたし、なんとか夫人の指示を聞きながら作るのは面倒くさい。


 このままでいいか。


 背中あったかいし、ちょうどいい。

 というか私もあんまり寝てないし。

 炊き出しの手伝いだけかと思えば、なんとか夫人が勝手に選んだ料理人に選ばれて、お貴族様のご飯まで作らされた。それについては別でかなりの報酬を貰えたんだけど、数千どころか万にも届きそうな避難者へ向けての仕込みと重なれば時間なんて消し飛ぶ。


 おかげで腕はダルいし、他にも色々あって疲れてる。

 まあこうして普段通り動けてるってことは、それなりに慣れてきてるんだよね。抜け切ってないせいか自分の頭が馬鹿になってる気はするけど。


 順調、なのかな?


 でもやっぱり疲れた。


 これまであんまり気にして無かったのに、寝かせてやろうとハイリアへ凭れ掛ったら、急に疲れが噴き出してきてついつい愚痴を話し過ぎた。寝かせるだけなら何でも良かったのに、愚痴なんて疲れた相手へ聞かせるには向かない話題だ。


 切り株の端へかかとを乗せて両腕で脚を抱く。

 離れた背中が寒くなって降ろした。


 はぁ。


 少し身を捻って頭を凭れ掛らせると良い感じにあったかかった。

 頬を寄せている感覚もなんとなく落ち着く。


 ぼんやりしてきて、まずいなぁと思うけど、相手も寝てるしいいかと思う。


 見張りの人も居るし、人が近寄ってきたら流石に起きる。

 そのくらいの警戒心は持っているつもり。ハイリアが聞けばまた過保護なことを言い出すだろうけど、こんな女に背中預けて眠りこけるような人に言われたくないよね。唇を奪われて、薬まで盛られたのに、懲りないというか学習しないというか、馬鹿なんだ。


「…………ぁー」


 薬を盛った後の不覚を思い出してつい声が出る。


 身体目当てで誘ってやったら、拒否されて、頭を撫でられ、びーびーと泣いたことはもう記憶の片隅へ蹴り飛ばしてやりたい。

 好きとかなんとか言ってくるし、じゃあって……簡単に行くと思い込んでた自分が馬鹿だった。


 あの時感じた体温がそこにある。


 風が少し冷たくて頬を寄せていると、一緒に背中へ触れた耳へ不思議な音が入ってきた。


 トクン――――トクン――――心臓の音だ。


 ほら、例えば今ここをずばっと突き刺されたら、アンタは死ぬんだよ。

 思いながら指で突いてやるけど反応はない。ずり落ちて、その途中で服を掴んでぶら下がる。


 鼻から息を吸って、わあ少し汗くさい、なんて思いながらもっと吸った。


 ただただ穏やかにその息を吐いていたら、ストンと意識は眠りに落ちた。


    ※   ※   ※


   ハイリア


 誰かが周りで動いている。

 ぼんやりとした意識のままそれを感じ、俺は何かを言ったらしい。


「熱中症になりますよ」


 なんて丁寧な答えが返ってくる。


 誰だ。


 だが直後に陽光が遮られて、身体が程好い冷気に包まれた。心地良さに息を付くと、その人は「後の事はこちらで」なんて言って去ってしまった。後ろ姿はすぐに荷車を曲がっていって見えなくなった。


「…………ぁ」


 目が覚める。


 頭の中で今の景色を思い返すが、夢の記憶のようにするりするりと抜け落ちていって、すぐ分からなくなる。再び息を落とした時には、もう現実だったのか夢だったのかも曖昧だった。


 しかし、そう思って身を捻ろうとしたら、背中に大きな何かがくっついているのに気付いた。

 何か、ではなく、誰かだった。


「おい……」


 フロエ=ノル=アイラが俺の背中にしがみ付いて寝息を立てていた。

 肩越しだから顔は見えない。だが、


「随分べったりだな」


 背中の感触でよく分かる。

 コイツ、人の背中で涎垂らしながら寝てるんだが。


 どうなってるんだと身を捻ろうとすれば掴まれた服を強く握られ、ぐいと引っ張られる。


 動けない。

 強く振り払えばいいんだろうが、そんなこと出来る筈もない。


 ため息と共に足元へ目をやれば、いつの間にか日陰になっているのに気付いた。


「いや……」


 見れば、荷車から広げられた布が二本のポールに支えられ、俺たちに影を作ってくれているようだった。

 誰が? 考えるも、完全に寝入っていたせいで分からない。


「わっ、きたな」


 何故だと考えていたら、背中で寝ていたフロエが酷い物言いをしながら跳ね起きた。

 それはお前の涎だ、俺じゃない。


 改めて振り向くと、まだ完全に覚醒はしていないのか目を擦りながら欠伸をするフロエが見えた。なんだか猫みたいだが、先に垂れた涎を拭きなさい。手拭いを取り出し、渡そうか拭いてしまおうかと悩んでいると、寝惚け眼でこちらを見たフロエが、


「あれ、ジーク……?」

「せい」


 無性に腹が立ったので遠慮無く顔面丸ごと拭いてやった。


「ちょ、っとぉ……! なにすんの!? あれ、ハイリア?」

「おはよう、さっさと目を覚ましなさい。淑女がはしたないぞ」


 涎付き手拭いをひらひらとやりながら挨拶をすると、目が覚めて経緯を思い出したらしい彼女は何故か鼻で笑ってきた。


「不能に淑女とか言われても」

「おいそれは関係ないだろ」


 いや、まず俺は不能じゃない。


「誘っても逃げたくせに」


「あれはそういうのじゃない。そして機能はするから誤解を招くようなことは言わないように」


 不機嫌そうというか、挑発的な様子のフロエに俺も俺で言い返す。

 どうにもお互い目は覚めているが短絡的になっているらしい。

 分かっていても、脊髄反射は止まらない。


「不能じゃなくて根性無しか」

「だから違うと」

「うるさい馬鹿」


 理不尽な。


「そういえば貴族ってそういうこと気にするの?」

「なんだ……?」

「不能とか種無しとか」

「あぁ……まあ、後継者の存在は重要だからな…………」


 子を成すことが出来ず、離婚するなんて話もあるくらいだ。

 主に女性側の風聞が悪くなるものの、男だって陰で相当に色々と言われるらしい。離婚後に男としての機能を証明するべく次々と娼婦を孕ませて領地を混乱に陥れた者まで居たくらいだからな。


「へぇ」


 それを聞いたフロエは殊の他皮肉げに哂い、けれどすぐその表情を消してしまった。

 俺も敢えて言及はしない。


「ともかく……貴族男性相手にそんなことを言うもんじゃない」


「分かった分かった。それはいいけどなんでアンタの服べとべとしてるの、汚いよ」


「お前にだけは言われたくないよ」


 言いつつ俺から手拭いを奪い取って拭いてくれるが、洗濯しないと取れないだろうな……。

 というかコレをメルトに任せるのも……なんというかまあ、俺が勝手にやると怒るし、なんでだよって疑問に思われる訳だ。フロエを特別視していることは最初から伝えてある訳だし、根本的に涎垂らしてうたた寝していた時点で色気も何もないだろう。正直に事実を話す、それでいい。


 俺が服の状態を見ながら考えている間にフロエは伸びをして、また大欠伸。

 わき腹が丸見えだ、はしたない。


「開放的なのは結構だが、もう少し慎みを持ちなさい」


「お小言がうるさいなぁ。いいじゃん別に」


「そんなことじゃ嫁の貰い手が無くなるだろう」


「本気で言ってる……?」


 声のトーンに少し身構えそうになったが、さして考える必要も無く答える。


「当然だ。まあ貴族と違って義務ではないから独身を貫くなら強要はしないが、備えておいて損はしない」

「ウィンダーベル家で一生養ってもらおうかなぁ」


 ため息をつく。

 本気では言ってないだろうが現実を教えてやろう。


「君が聖女の器という看板を背負っていられるのも夏までだ。事が片付けばただのイレギュラー。しかも戦闘には怖気付き、向かない」

 デュッセンドルフで暴れた時、君が倒した相手のことや壊した街並みを見てショックを受けていたのを俺は忘れていない。

「アリエスも父上も甘いが、貴族としての己を持っている。只人となった君を特別扱いはしないだろう」


 そして政治的な意味を持つ客人ではなく、ただの友人としての関係だけが残る。


「あからさまに追い出されはしないだろうが、居心地は悪いぞ」


 知る者はアイツいつまで居るんだろう。知らぬ者はなんでアイツずっと居るの。と、こんな感じになっていく。

 しかもその人物は大貴族ウィンダーベル家に居候しながら、貧民街や娼館街にも近い通りで料理屋を営んでいる奴隷階級のフーリア人。実に謎だ。良くて父上の愛人、隠し子、悪ければ弱みを握って脅している、とこんな所か。


「っさいなぁ、そんなの分かってる。アンタこそお小言が過ぎて相手から愛想尽かされても知らないから」


「小言の必要な相手を娶るつもりはない」


 メルトは淑女として完璧な振る舞いを知っている。そうであれと思っているのではなく、やろうと思えばちゃんと出来ることが重要なんだ。俺だって四六時中完璧な振る舞いなんて求めてないし、やりたくはない。何よりも彼女が崩した振る舞いを取るのなら俺はそれを尊重したいし、むしろ隙を隠そうとするメルトの失態を見てみたいとも思う。


 俺の説明にフロエはただただ面倒くさそうにため息と瞼を落として手をひらひらとさせた。


「頑固で気難しいアンタの相手になる人が可愛そうになってきた」


「……頑固……気難しい」


 つい先日シンシアに言われたばかりの評価と似た物言いに視線が落ちた。


「俺、そんなに頑固で気難しいか……?」


 世界的に認められる作家であるシンシアからの評だったから、人を見る哲学というか、観察眼も確かだろうと納得はしていたものの、実際に言われてみて少しショックだったんだ。それをフロエにまで言われるとは、俺は本格的に頑固で気難しいらしい。


「え、自覚ないの」


 馬鹿を見る目で言われてしまった。


「散々いらないって言ったのに助ける助けるうるさいし、一度決めたら大体譲らないでしょ」

「いや譲るぞ。ちゃんと相手の言い分を聞いて、考えて、そちらの方が正しいと思ったらな」

「正しいと思わなければ譲らないでしょ」

「当然だろう」

「ほら」

「……ん?」


 んー?


「普通はさ、正しくなくても譲る時は譲るし、意見が食い違ったらそのまま距離を取るとか対処するけど、アンタは違うと思ったら全部修正しようとするでしょ」


「…………するかもしれない」


「今意地張った」


「……する」


 こういう部分が頑固なんだろうか。

 いかんいかん、なんて思っているとフロエが立ち上がって視界から消えた。後ろへ回り込んだんだ。肩に手を置かれて遠慮の無い重みが掛かる。軽いものではあったが、身を回す時の支えにされたのだ。ぐるりと回って重みが抜けたと思えば、首後ろのやや下辺りに何かが乗った。


「こら止めなさい」


 尻だ。

 人の背中で涎垂らして眠るどころか、背中を椅子にしてきた。


「アンタ背筋綺麗に伸ばしてるから座り難い。ちょっと曲げて」

「いやだから止めなさい」

「まーげーなーさーいーっ」


 バンバンと叩かれるから仕方なく背中を丸めると、彼女は満足そうに喉を鳴らした。


「座り易くなった」


「…………まさかとは思うが、真っ直ぐ過ぎるよりちょっと曲げたくらいが座り易くなるよとか、そういうたとえ話の伏線じゃないだろうな」


 返事は無かった。

 ただ、間があった。


 やがて痛みが来た。


「人の耳を抓るんじゃない」

「もぉいいじゃん面倒くさいなぁぁぁぁぁぁぁ……っ」


 そのままずり落ちてきて、また背中合わせに座る形となった。

 ただ彼女の長い白髪が盛大に肩とか頭とかに乗ってきて、艶やかな感触が頬を撫でる。


「…………枝毛発見」

「えっ、嘘どれ?」


 ほらこれだ、と摘んで、肩越しに顔を出した彼女に見せると、止める間も無く引っこ抜いた。

 風に流して放り捨てると、難しい顔をして毛先を調べ始める。


 平民での美容に対する意識の平均は知らないが、彼女はそれなりに気にする方らしい。対処法について異論はあるのだが、今し方お小言が多い、気難しいなどと言われたばかりで口を噤んでしまう。


「ほらコレから探して」


 一房と言わず一掴み渡されて仕方なく枝毛を探した。

 頭を撫でるとか、そういう形で触れたことはあったが、まさか枝毛探しで女性の髪に触れることがあるとは思わなかった。フロエ的にはいいのか、髪ってあんまり触られたくないものじゃないのか、この時代の平民の感覚はよく分からない。


 気を許してくれている、とは思うものの、なんだか雑用みたいに扱われているように感じなくも無い。

 後ろから抱き着くようにして肩越しに腕を回し、人の頭に顎を乗せて自分の枝毛を探す少女をどう評すればいいのやら。

 押し付けられている胸の感覚にドギマギなんて展開は遥か遠い場所にある。あーはいはい無防備ですね、そんなことより枝毛枝毛、白は溶け込みやすいから毛先を見るのは少々疲れる。


 そうして俺たちは誰かの用意してくれた日陰で切り株に座り枝毛を探す。


 うむ、よく分からない。


「重い。せめて君が前になりなさい」

「うん」


 毛先に夢中で生返事だが、素直に従ったフロエを切り株に座らせ、俺は後ろに膝を付いて枝毛を探していった。

 ついでに、抜くと増えるらしいぞと脅して抜くのは控えさせる。


 最終的に枝毛チェックを終え、荷車にあった短剣で先を落とした上で髪を結った。


 アリエスが身支度をしている時に見覚えたものを真似ただけだが、やってみると面白くて色んな工夫を凝らしてみた。


「ねえまだ終わらないの」


 貴族女性みたいな髪になりつつあるフロエを俺は軽く手で制して動かないよう言う。

 整髪油はなく、フロエの手持ちのリボンで要点を抑えながら飾っていくのは大変だが、思い描いた形になると満足感があった。

 元々が可愛い系のフロエだから、活発そうなポニーテールなんかの括って纏める手法より、降ろした状態を維持したまま三つ編みなどを駆使して飾り付けつつ、全体的にはふわりとさせるのが良い気がする。結う髪の量を調整したり、位置を変えてみて角度をつけたり、飾りの方法を工夫してみたりと試していき、たまに離れて状態を見る。近距離では良く感じても全体として見るとバランスが悪かったりするのは良くあることだ。左右対称を崩すにしても、大胆にいかなければ単にズレているようにしか見えないのは困ったものだな。


「私お店の制服以外じゃボロしか無いんだけど、この後こんな馬鹿みたいな頭にして手伝い行くの……?」

「顔の向きはそのままだ」

 退屈しているから手鏡を渡してやったのにキョロキョロするんじゃありません。動かすのは頭ではなく手鏡だ。

 両手で頭を抑えて前を向かせる。

「もーっ、面倒臭いなぁぁぁっ……!」



 ――――思わず手を止める。



「どうしたの?」

「いや……」


 今、少し笑ってなかったか……?


 髪に夢中でちゃんとは聞いていなかったから、聞き間違い……なんだろうか。

 鏡越しに彼女の様子を伺うが、普段通りだ。鏡の中のフロエと目が合って、なんとなく逸らす。手元へ向ければそう不自然ではないだろう。だから、鏡に映った目元以外を見逃して……。


 最後の一房を綺麗に処理して全体像を眺めた。


 良し。


「……完成だ」


「なんで不満そうなの」


「いや、今日はこのくらいで勘弁してやろうと思っただけだ」


 とりあえずの言葉を返すも、彼女は鏡に夢中で聞いているのかいないのか。

「あたっ」

 ぺしりと後頭部を叩いてやって、膝を払いながら立ち上がる。

 膝立ちの時間が長かったから少し疲れた。


「退屈しのぎだからな、手伝いへ出る時には解けばいい」

「こんな状態で行ったら頭おかしくなったって思われるしね」


 言いつつ熱心に鏡で自分の髪を見る。

 縫い目へ指を這わせて、どうやったかを考えているらしい。


「ねえ、この髪ならお貴族様に見えたりするかな?」

「ん? あぁ、あとは服を調えてしっかりと化粧をすればな。今のままだと整髪油も無いから長持ちはしないぞ?」

「そっか」


 少しトーンが落ちたように感じて眉をあげた。


 フロエもお姫様に憧れたりするんだろうか?

 前にくり子を高級料理店へ連れて行った時、オーナーのサービスでドレスを着せたことがある。随分と喜んでいたし、俺も敢えてお姫様扱いをして遊んだら嬉しそうだった。緊張もあっただろう赤毛少年は視線を彷徨わせていたが、時折くり子を見て頬を染めていたり、意外と上品な褒め言葉も口にしていたな。


「今度、内輪だけでパーティでも開こうか。服なんかも貸し出して、好きに着飾って……美味しい料理でも食べながら」


 俺個人では無理でも、ナーシャやオフィーリアに頼み込めば協力してくれると思う。物の手配はウィルホードの家のクラン商会に任せる。

 セレーネなんかは大喜びしてくれるだろうか。ヨハンとのことでアンナをおちょくるのも良い。ジンや先輩や、ヘレッドなんかには世話になった分の礼もしたい。その他一年生たちだって、子羊亭には何度か出入りしていたから、フロエも多少は面識があるだろう。こっそりと開催するならジーク達を呼んでもいい。ビジットの居場所は依然として不明なままだが、上手くやっているんだと思う。貴族らの輪には入りにくくなったと言っていたフィリップのリハビリにも良い環境だろうしな。

 ビジットが顔を出せるなら、陛下をお忍びでも呼んで引き合わせて差し上げたい。そうなると副団長のベイル辺りはしれっと参加して美味い酒と食事を漁りにくるか。色々とあったがシャスティともちゃんと話して文句の一つも言ってやりたい。

 気安い内輪と言ったが、気付けばワールドワイドで国家級の集まりになってきたが、こっそりやるから気にしない。


 もし来てもらえるのなら、父上や母上、それにアリエスも…………、


「そうだね。いいんじゃない?」


 俺の表情をどう読んだのか、フロエは普段通りに返してきて、力の入っていた肩が落ちる。


 やがてベイルからの書状を携えた近衛の少年が現れ、俺はフロエと別れた。

 聞いておくべき事は沢山あった。

 なのに、なんでもない時間だけで猶予を埋め尽くし、分からず仕舞いだ。


 馬鹿か。馬鹿か?


 別れ際にフロエは言った。


「いってらっしゃい」


「あぁ、いってくる」


 メルトや……彼女の時に感じたものとは違う、なのに当たり前のように感じるものがその言葉にはあった。

 普通に別れて、また会う。それを当然とする関係が、俺とフロエとの間にあるのだろうか。


 そういうものを何と呼べばいいのか、分からなかった。


    ※   ※   ※


   フロエ=ノル=アイラ


 ハイリアが去っていった後、ふと気付いて両手を頬に当てて、こねた。


 なんだろう、これ。


 彼相手に欲情した自分を見せて以降、出来るだけ意識しないよう、接触しないよう努めてきたのに、呆けた頭でついやってしまった。なのに身体の奥で熱が疼くようなことはなくて、疲れて果てて寝台の上へ身を投げた時みたいな、あーーって色んなものが抜けていく感覚。


 一度疼けば処置しないとどうにもならないから、シて、気持ち悪くなって吐く。


 そういうのとは随分と違う。


 熱は残っているのにおだやかだ。


「……でも」


 頬をつねって自分を戒める。


 何やってんの。

 二重の意味でありえない。


 少なくとも今の私が、彼にあんな、馬鹿みたいなことをする資格はないのに。



 私はアリエスを見捨ててここに居る。



 屋敷から逃げた後も奪還の部隊が幾つも出ていたけど、一つとして戻っては来ていない。そう聞いてる。

 ハイリアが心の底から大切にしている人へ背を向けておきながらあんなことをするなんて。自分を親友と呼んだ人の危険を知りながら、利口な考えに縋ってあっさり逃げてきた癖に。

 アイツが疲れてたから、少しでも楽になればと思ったのも罪悪感からだろう。

 途中までは良かったのに自分が世話になってちゃ話にならない。根本的には男を求める売女であることに変わりが無いんだろう。


 首を振る。


 そういうのはいい。

 どうでも、いい。


 やることは決まってる。

 覚悟も決まってる。

 ただ、今は状況が整っていないから。

 もっともっと、しておかないと。


「ごめんね」


 きっとアンタは聞きたかったよね。

 こっちに着いてから、貴族の人が真っ先に言ってきた。

 アリエスの件については口外禁止。特に、ハイリアへ絶対に漏らさないように。


 私も同感だった。

 知れば、その時現場に居なかったことさえ悔やむ。

 自分の立場に縛られるアイツは、アリエスの元へ駆け付けられない自分を罵って、苦しんで、傷付いてる癖に当たり前の顔で大勢の前に立つ。私はそれが気に入らない。気に入らないけど、立場とかを大切にすることを頭から悪し様に言える程なにも見てこなかったつもりはない。


「アリエスは絶対に助け出すから、だから――」


 だから、なんだろう……。


 何かを求めるなんて。

 でも、


「だから…………いってらっしゃい、の……次は……?」


 分からない。


 いつも綺麗な景色を遠くから眺めていた。

 憧れるほどに自分の醜さを知った。その景色の中から目を向けられることさえ嫌だった。なのに目を背けることも出来なくて、私は今や、そこから伸びた手を掴んで飛び込んでしまっている。

 自分が場違いだってことくらい分かってる。

 決して溶け込めない景色が嫌ってしまえるものならどれだけ楽だったか。綺麗で、優しくて、温かくて、強い。

 出来れば早く退場したい。いたたまれない。自分の居場所なんて暗闇でいい。最初から眉を潜めて見るような場所へ佇んでいる方が気持ちが楽だ。

 勘違いしたくないのに。綺麗に着飾ったつもりで煌びやかな場所へ立って、周りと比べた時にドレスの内側が蛆と汚物で穢れているのに気付く。せめて誰からも見られない場所へ逃げ込みたいのに当たり前の顔で引きとめられたら辛いじゃない。耐えられないよ。


 じゃあ、なんでさっき、いいんじゃない、なんて言ったの?


 いってらっしゃい、なんて、また会うことが当たり前みたいに。


 ううん。


 私だって、いつまでも同じ場所に居続けたいんじゃない。

 アリエスが私を引き込んだ。無理矢理に、我侭に、あんな必死に。

 だから受け入れようとだって思った。

 どれだけ嫌がって見せても、手を離したくなるような汚さを見せても、構わず()を見て、認めてくれる人が居る。


 嬉しい、のかもしれない。


 だから、応えられずにいる自分が辛くなる。

 頭で理解して、それらしく振舞ってみても上手く行かない。


 笑って欲しいと言ったハイリアに一生懸命笑顔を見せても、アイツは私なんかじゃ届かない、いろんなものを背負って苦しんで、死ぬことを選ぼうとした。


 皆で幸福を勝ち取ろう。

 そう言って彼を励ましたかったのか、自分を慰めたかったのか、また同じ所をぐるぐる悩む。

 代償行為に溺れていないかな? 危険を背負うことで安心しようとしていないかな?

 決意なんて。逆境よりも平穏の中で揺らぐ。


 セイラムが私の身体を狙っているのなら、今後も私は戦いの場へ出ようとする度に諭されるんだろう。

 正しく居ようとすれば、親友を名乗る彼女を裏切り続けるしかない。なのに助け出すからなんて思考、どこまで自己満足なんだろう。


 冷たい風が吹き抜けていって、少し身を震わせた。

 さっきまではあったかかった気がするのに、今はもう、身体が冷たい。


「大丈夫。大丈夫」


 いつも通りに戻っただけなのに、とても、寒かった。


    ※   ※   ※


   ハイリア


 「分かった。応じよう」


 俺の返答にベイルは表情を動かさなかったが、僅かな間があった。


「よし、後の調整はこちらに任せろ。必要なものがあれば何でも用意してやる」

「まずは人目を気にせず調整の出来る場所が欲しい。身辺の世話はメルトに頼むが、他にも何人か――」


 フロエと別れて兵舎へ向かう途中、近衛の者が接触してきて人目につかない場所へと誘導された。

 待つ事半刻、現れた近衛兵団長ベイル=ランディバートの提案を俺は呑んだ。


 思う所が無い訳でもなかった。


 ただ、受けた場合の利点と欠点を照らし合わせた結果、俺もやるべきだと思った。


 問題なのは彼がこんな形で接触してきたことだ。

 昨夜、門番をしていた時とは事情が違う。

 欲する結果の為に平然と敵を作るのはいつもの事だが、今回は陛下が――



「ベイル……っ、――――――――ハイリア」



 並ぶ貴族域の天幕裏にある、小さな窪地の縁。俺たちが話していたのはそこだ。

 風が強く、天幕を抑えてしまえば後は読唇術への警戒だけしていれば内緒話に打ってつけ。


 ホルノス国王たる者が通るような場所ではないから、ベイルか俺のどちらかを探していたということになる。


 陛下、ルリカ=フェルノーブル=クレインハルトは焦りと怒りと、心配を滲ませた表情になんとか仮面を被せて俺たちの前へ現れた。


 視線がベイルを射抜く。

 彼は慇懃に礼を取るだけで知らん顔だ。


 胸の内に疼きがある。


 俺の決断はホルノスに利するものであっても、きっと彼女からすれば裏切りのようなものだから。


 それでも選んだのだから、ベイル一人に泥を被せてはいられない。

 何かを口にするより早く進み出て、連れている文官や護衛が陛下の振る舞いを汲んで警戒を示す中、霜が降りるように跪いた。


「陛下、どうかお許しを戴きたく存じます」


 俺の慇懃な物言いに彼女は傷付いたようだった。

 頭を垂れているから顔は確認出来ないが、足先が少し揺れていた。

 心から仕える主にそんな想いを抱かせたことを悔しく思う。

 せめて、俺にもっと信頼があれば。


「敵側から齎された申し出はこちらにも利のある話です。諦めているつもりはありません、果たし切るつもりでの決断です。ですから、どうかお許しを」


「私からも重ねてお願い申し上げます。現状を最も早く、次への状況へ戦力を温存するには敵方の話に乗るのが一番。これはホルノスだけではなく、結果的に国際連合への加盟国や、外部から別の形で繋がりを保持しようとする諸外国との関係性を保つ上でも有効です。今は何よりも早さが重要なのです、陛下」


 俺の言葉にベイルが重ね、いつか見た定規で測ったような動きで跪く。


 王への敬意は当たり前のことではあったが、普段から独断専行が多く、また何が相手だろうと必要とあれば噛み付いてみせる近衛兵団の、まさしく近衛に相応しい振る舞いに何人かは驚いたようだった。

 また、紛れも無く利のある話でもあるんだ。

 同行していた文官の一部が、こちらに賛同し、口添えすら始めた中、膨らみ始めた気配を察して俺は声で射抜く。


「陛下」


 無礼と叩きつけられようと、許可も無く顔をあげて、泣きそうになって居るのを必死に堪える少女へ、俺は笑いかけた。



「負けるつもりはありません。ですからどうか――敵より提示された、『槍』の術者との一騎打ちによる決闘を、どうかご承認下さい」



 口を引き結んだ陛下は今一度地面を踏み締めて、けれど、


 けれど、中々返答を出せなかった。





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