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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第四章(下)

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 母親はフーリア人。

 正確にはフロンターク人だが、殆どの者にとっては同じようなものだ。


 名前はクロメ、だったと思う。この身の母親の名を設定書(マテリアル)から掘り出さなければいけない時点で顔も覚えていないのは当然の事、人となりさえも知らない。別れたのは幼稚園児程度の頃か、それより前だ。周りから聞かされでもしない限り、記憶に残っている筈もない。

 記憶にも無いのだから残念に思うことも無く、ハイリアとしての母親はシルティアだ。


 この身が家族を知ったのはハイリアとなってからだ。

 ヒース=ノートンはいつも何処かを探し回っていて、俺の世話は人任せにしていることが多かった。


 俺は、よく命を狙われていたらしい。元々フロンターク人らの消極的な支配体制が限界に来ていたのか、どこかの部族にカリスマのある者が出現したのか、ホルノスや他国の苛烈な侵攻によって乱れたかは不明だが、次世代の旗印と成り得る存在として手に入れたかったか始末しておきたかったか、どちらかだろう。

 どこかで限界を感じたことで死を偽装して本拠地を離れ、以降はヒースが持ち前のバイタリティで誼を通じた場所に拠点を構え、また移動してを二十も三十も繰り返した。


 そこまで引越しを続けていると、薄っすらと記憶に残るものさえ何時何所のものだったか判別が付かなくなる。


 気に入っていた遊び道具、よく目にしていた風景、心に刺さった小さな棘。


 覚えているのはそれくらいだ。

 自分の周りで不幸が続くことくらいは分かっていたから、自然と反抗もせず、喋るより沈黙して考え込むことの多い妙な子どもになった。


 母親を求めたことは無い。

 シルティアも精神状態が不安定で、落ち着いてきた頃にはそんな年齢ではなくなっていたしな。

 父親だって、ヒースは俺の面倒を見るより何かを探している方が多かったから、そういう意識はあっても甘える相手にはならなかった。


 だが、そうだ。


 ほんの一時、誰かに。


 寂しさを越えて行く強さをくれた人が居るのだと、今更になって思い出してきた。

 あちらの記憶を忘れていくことで、埋まっていた過去が顔を出したように。


    ※   ※   ※


 板を紐で結んで箱を作っただけのような兵舎にフィオーラが居た。

 状況を弁えつつも騒ぐ中心には団長のディランがおり、俺にしたようなマグナスとお揃い自慢を団員へしていた。応急処置はしてあったが、大量に血を流した後だから休んでいるべきだろうに……これも回りに不安を与えない為の振る舞いなのか素なのかは分からない。だが、俺には足りない資質なのは確かだった。

 そんな彼らに給仕をしていたのがフィオーラだ。

 浅黒い肌に黒い髪と瞳、顔立ちは妹であるメルトによく似ているが、マシになったとはいえやつれた印象は拭い切れない。


 まず関係性が分からなかった。


 確かに一時期はウィンダーベル家で保護し、メルトと一緒にメイドの真似事はしていたが、本人にその手のことが向かないのは早期に分かっていた。こちらの言葉が使えること、メルトの存在から俺との繋ぎを作り易かった事で重宝はされたが、立場上は一般人だ。


 メルトより目尻の高い目がこちらを向き、俺に気付いた。


「あああっ、いいところに!」


 突然の声に皆の目が向いたが、誰もがすぐ元の話題に戻っていく。

 エプロンをかなぐり捨てて寄ってきたフィオーラは、ぐいと俺の胸元を掴み、強引に壁際へ引っ張っていく。通り過ぎた時に何名かがまた目を向けてきたが肩を竦めるだけだった。


「どうなってる」


 何か言い出す前に話を振った。


「……だって身分証使えなくしたでしょっ」

「あぁ」


 概ねの事情は察した。

 確かに保護した際、メイド仕事を手伝う彼女にウィンダーベル家の所有奴隷であるという身分証を持たせた。当時は平民としての立場を与えるのが難しく、とりあえずの保障としては機能すると思えたからだ。


「メルトから言われてな。大分、悪用したそうじゃないか」


 こちらとしては軽い気持ちで与えたものだったが、侯爵家の御紋は方々で多大な効き目を発揮したらしく、彼女がカラムトラを誘引する際には家を借りるわ食料物資の調達に使われるわ挙句守備兵を黙らせるのにまで利用していたというのだから取り上げるのは当然だろう。


「そ、それは悪かったけどさ……あやうく殺されるかと思ったじゃない」


 一応、身分証がもう意味を持たないことを伝達した上で、発見した際には保護するよう頼んであったから身の危険は無い筈だ。多分。

 近衛の巣に居る時点で気を利かせた脅しだったことは読めるし、折角だから黙っておこうと思う。そういえば、カラムトラとの一件でフィオーラと近衛兵団は面識があった筈だな。俺との関係性もそれとなく調べたか、察している者は居るだろう。


「身分の詐称は重罪だぞ。第一、お前が勝手に作った借金を立て替えたのは俺だからな」


 オスロからはクレアの脚の件やハルバードの手入れで何度も世話になったから良いとして、張本人を締め上げるのを忘れていた。

 デュッセンドルフへ戻ってからもそんな所まで気が回らず放置していたが、先だってメルトから未だに利用している旨を聞いて行動に起こすしかないと思ったんだよ。


「そこはそれ、未来のお姉さんへの投資と思って」

「誰が未来のお姉さん……だ、あぁ……話を聞いたのか」


「そうそれ!!」


 がばり、と腕を回され少し強めに締められる。


「おめでとう、ジークくん」

「その名前は……いや、ありがとう」


 小声だったからまあいいだろう。

 多分、近衛の連中に知られても大きな問題にはならない。先ほどシンシア相手にぶちまけてきたばかりだし、想い人の姉からの祝福なら素直に受け取りたい。しかし金を返せなどとは言わないが反省はするんだぞ?


「実際怖いお兄さんたちにたっぷり脅されたから許してよ……」

「挙句ちょうど良いからと雑用を押し付けられたんだな、頑張るといい」

「未来のお姉さんには優しくしときなさい、フィオーラ姉さんはもうたっぷり反省したよっ」

「反省したと言いつつ人の胸を掴むのは止めなさい」

「えっ、いやぁ……なんかしっかり筋肉付いてきたなぁて思って。わぁ胸板固い」


 冷静に引き剥がし、ついでに回されていた腕も解いた。

 何故か少し離れた位置で筋肉を隆起させて心なしかポーズを取り始める者が数名居たが二人揃ってスルーした。俺の鍛え方は筋肉を肥大化させるものじゃなく、目的に適した状態に仕上げることだからな、負けたわけじゃないぞ。


「……デュッセンドルフで変事があったと聞いて心配していた。メルトにとっては唯一人残った家族だ、何かあっては顔向け出来ない」

「家族。家族ねぇ……ふふん、それならもう君も家族ってことでいいんじゃない?」

「まだ式を挙げた訳では――」


 いや、式というより書類の提出か?


 こちらの方式はよく分から無いが、貴族の結婚であれば領主か王の承認を得るものだったかと思う。平民なら教会が祝福を与えるし、貴族でも希望すれば家へ招いて祝福を受けることは可能だろう。とはいえ陛下からの承認を受けられるかと言えば……かなり勝手な行動だったから微妙かもしれない。少なくとも前もって話を通しなさいよとお叱りくらいは受けそうだ。


「細かいことはいいの。本人同士が望んでて、家族が認めてるんだからさ」


 だったら父上やアリエスにも、なんてすぐ浮かんでくるのだから、俺にとっての家族はやはりウィンダーベル家なのだろう。

 籍は無くとも心根の方では通じていると、そう思いたい。


「そういえばアリエスたちは? あぁ、近衛兵団に捕まっていたんだったか」

「……えぇ、だから細かい所は知らないけど、当主のオラント様はこっちに来てるって話を誰かがしてたような」

「そうか」


 紹介するべきなんだろうか。

 いや、そもそもメルトはウィンダーベル家所有の奴隷ということになっている。ホルノスで本格的な奴隷解放はまだ始まっていないから、まずは彼女を買い取る所から始めなければいけないのか?

 どちらにせよ父上が居るのなら一度話を伺ってみよう。

 直球勝負で行って痛い目を見るのは御免だから、少しは切り口や方法を考えてからだが。


「ところで私が開放されるように口利きしてくれるつもりは」

「全く無い。罪は償いなさい。それに彼らの居る場所ならある意味最も危険で、最も安全だ」

「危険の無い場所に居たいんだけどなぁ」


 フロエが当たり前に炊き出しへ混じっていたことなどから多少楽観も出来るのかもしれないが、やはりフーリア人が後ろ盾も無く今の状況でうろついているのは危険だ。俺が後ろ盾を与えるとまた遠慮無く悪用してきそうだから余計にここが丁度良い。


 ほら、酒の追加を頼まれてるぞ。

 頼んでいるのは何故か重傷者のディランなんだが本当に大丈夫かあの男。


「なあ」


 仕方なし、といった様子で背を向けたフィオーラへ問い掛ける。

 少しだけ視線を落とす。

 彼女のことを真っ直ぐには見れなかった。


「俺の名前を知ったのは、最近のことなのか」


 振り向かず、立ち止まったフィオーラは後ろ手を組んで視線をあげた。


 懐かしむように。


「ずっと昔。短い間だったけど、ウチで預かってた男の子が居たの」


 金髪碧眼に白い肌。

 フーリア人の社会では、さぞ印象に残ったことだろう。


「それだけ。その子にとっては幾つもある隠れ場所の一つだった訳だしさ」

「フィオーラ、俺は――」


「メルトを、残り時間一杯、幸せにしてあげて」


 元気に声をあげて去っていく背中を追ってはいけなかった。


「あぁ、そうするさ」


 変わりに背を向けて、俺は幾つか小部屋の並ぶ通路へ向かった。

 ここには彼女へ会いに来たのだから。


    ※   ※   ※


 記憶を呼び覚ますきっかけはメルトと見たアーモンドの木だった。

 故郷に咲く木の存在と、桃色の花弁から同じものを思い浮かべていた。日本人としての心が咄嗟にソレを発想させたと言えばそれまでだが、アーモンドの木を見つけた時に彼女の言うものとは違うなんてどうして確信出来たんだろうと。


 事実としてそうだった訳だが、やっぱり()はその景色をいつか見たことがあるんだろう。

 もし今の俺として目にしていたら強烈な印象を残しただろう木も、身を潜めることを一義としていた当時の()には違って見えたのかもしれない。


 ただ、心に残っていたのは確かだ。

 景色が原因か、共に見た人が原因なのかは不明だが。


 海辺の町、村の方が正しいのか、漁村だったと以前メルトが言っていた。

 各地を点々としたとはいえ、海辺での滞在なんてあまり多くは無い筈だ。西側はともかく、東側はホルノスを初めとした各国の侵略が始まっていたから、身を隠すにしても危険が大き過ぎる。あるとすれば、海を渡ることを前提とした時期だろう。


 こちらの大陸に移った原因は、父ヒースがオスロからラ・ヴォールの焔を託されたからだと思っている。

 かの秘宝を受け取り、船の用意をして、ホルノス側に知らない無いルートを辿り……それなりに長期間滞在していた可能性が高い。


 記憶は上塗りされていくもの。


 複数の景色から成り立っているように思えて、ある程度は最も新しいものに置き換えられ、曖昧に混同されるというのなら、薄っすらとした記憶の大半がメルトやフィオーラの故郷で過ごしたものなのかも知れない。俺の願望も入っているかもしれないが。


 殆ど家から出ることなく、隠れ潜んで生活していた筈だ。

 金髪碧眼、あちらではあまりにも目立つ風貌だろう。移動だって馬車を使うことが多かったように思う。自然と力ある土地の長などに頼ることが増え、様々な価値観の中で歓待を受けるには勝手な振る舞いは許されなかった。従順、そして見くびられない程度には力を見せ、取り入る。頼るべき母はおらず、父も滅多に顔を見せない。

 (さか)しくもなろうというものだ。

 フロンターク人らは当然のこと、オスロや、命を狙ってきた部族らに知らされでもすればそれだけで終わる。


 不思議と喚き散らして飛び出すような子どもでは無かったようで、大人しく学び、従っていた。


 風貌の特殊さ、最近噂に聞く侵略者の話、周囲が忌避するのも無理からぬことで、同年代と遊んだ経験は殆どない。

 だから、声を掛けてきた子のことは確かに薄っすらと記憶にあった。


 わんぱくで、物怖じしない女の子。

 その子に連れ出される俺を遠くの窓から見ていた、よく似た顔の女の子。


 あの木を共に見たのは、どちらだったのだろうかと、そんなことをふと思った。


 もし、メルトがそのどちらかであったとして、彼女が早々に俺を信じて尽くしてくれた理由だったのだとすれば。


 今更ながらにそんなことを思う。

 俺はハイリアだ。かつての場所からこちらへやってきたという自覚はあれど、意識の根底にはしっかりとした自意識がある。よく性質や気質を切り分けてどちらのものであるかを考えることがあっても、やはり俺自身なのだという意識があるからこそ自分を当たり前に保っていられる。

 異分子が入り込んだことで意識に強烈な侵食があったとしよう。けれどその異分子もまた元のハイリアという人格に侵食されている。

 正確にどこからどこまでという切り分けは出来ないし、状況によって揺れ動いてもいた。意味の無い思考だ。


 俺は、俺だ。

 かつての場所で得た知識や経験を元に行動することもあるが、ここで生きてきた()の知識と経験を元に行動することもある。

 俺は俺という人間以外の何者にも成れない。呼び名が変わろうと、内心が大きく変化しようとも、だ。第一変化と言うなら、去年のこの時期と今では大きく違うじゃないか。


 そこに迷ったことは無かった。

 けれど他から見た時はどうなんだろうか。


 俺の知るハイリアではなく、俺となったハイリアに出会ったのだとジークは言った。


 事実を知れば、得体の知れない何かにハイリアという人格が乗っ取られたように感じられるのではないだろうか。

 それを伝えないまま兄として、息子として、友として、恋人として振舞うのは……裏切りなのだろうか。


 怖ろしい想像だった。


 別人に成り代わっていたと伝えることもそうだが、自分で自分が別人だと認め、言葉にすることもまた猛烈な拒否感がある。

 なのに一度思ってしまえば後ろめたさが尾を引いた。


 メルトーリカ=イル=トーケンシエル。

 俺は、君の婚約者でいて、いいんだろうか。

 君の何かを裏切っているのではないか。


 そういう不安が僅かに過ぎった。


    ※   ※   ※


 思索に耽っている時ほど最短で無駄なく目的地へ向かってしまう。

 フィオーラから聞いたメルトへ与えられた一室のすぐ前まで来ている。


 そのままノックをする前に少し考えた。


 自分の事よりも、彼女の事だ。

 もしメルトが疲れて休んでいたら無理をさせることにならないだろうか、と。

 掘っ立て小屋以前の、板切れを組み合わせただけの兵舎にドアなんて無い。足元なんて地面そのままだ。だからドアはその辺の木から皮を剥がして暖簾のように吊るしてあるだけで、おかげで隙間から中の様子は十分伺えた。


 部屋の中は真っ暗だった。

 救護室や仮眠室も用意されていて、道中灯りのある部屋はそれなりにあった。


 やはり休んでいるのか、思って出直そうと思った時だ。


 部屋から伸びてきた腕が強引に俺を引き入れ、引き倒されて腕を極められた挙句背中に鋭いものが突きつけられた。


「メルトかっ? 痛っ、俺だ、ハイリアだ……ッ」


 声に腕の主は全身をビクリとさせ、僅かな間の後に叫ぶようにして言った。


「っ!? 申し訳ありませんっっっ!!」


 素早く極めた腕に乗せていた膝が離れ、背中からの圧迫感が消える。

 窓も無い真っ暗な部屋の中、先の動きで外れかかった木の皮の向こうから灯りが漏れ入る。とにかくメルトで間違い無いようだが、なにがどうしてああなったのか説明して欲しい。一瞬、群集を鎮める方便としてクレアが婚約者宣言した件が浮かぶものの、とりあえず頭の隅へ蹴っ飛ばしておいた。


 立ち上がり、メルトと二人して服の汚れを叩き落とす。

 侯爵家の嫡男であればありえない所業だが、今は騎士候なので問題ない。なんでも金持ちは汚れたら服ごと着替えて二度は使わないそうだ。時間も金もあると無駄を始めるのは悪癖だと俺は思う。浪費が経済を回すという言い訳も分からないではないが、つくも神の概念に親しんだ身としては勿体無いお化けが出そうで嫌だ。因みに学園から借り受ける詰め所にはその為の衣装保管庫や更衣室があるし、俺も最近知ったんだが使用人らが使う裏通路まであったらしい。ジェシカがぶっ壊してくれた時に謎の通路を見つけて二人してちょっと盛り上がったものだ。


 自分で袖口を整えていると、メルトの腕が伸びてきて襟首を綺麗にしてくれる。首や顎に手指が触れて、それが薄闇の中というのもあって変に意識してしまった。


「それで?」


 多くは言葉を作らない。

 メルトも求められた所が分かってくれたらしい。


「少し……ぼんやりとしていまして、それでハッとした時に部屋の外で息を潜めて中を伺っている人が居た為…………その」

「メルトが疲れているなら出直そうとしていた俺を引き摺り込んで押し倒し刃物を突きつけたと」


 面白がって言うとあわあわしながら消沈していった。

 彼女にしては珍しいくらい顕わな動揺ぶりだ。


 それに、


「着替えたのか」


 髪も降ろしている。

 ぼんやりしていたと言うから、横になろうとしていたんだろうか。だとすれば本当に無理をさせた。


「はい。服を汚してしまうと叱られてしまいますし……っ、ハイリア様に買って頂いた服なら汚してもいいと思っている訳では」

「分かっている。だが汚れても大丈夫な安物だ。普段使いとして好きに使いつぶすといい」

「大切にします」


 くっと、服ごと抱き締めるように胸元へ両手をやる。


「大切にします」

「……好きにするといい。もう、君の物だからな」

「はいっ」


 薄闇で良かった。


 息を入れ替え、落としている間にメルトは出入り口へ寄って行き、ズレた木の皮をなんとか整えていた。

 漏れ入る光の中で見た彼女の頬には、ほんの少しだけ朱色が差している。


 逃げるように部屋の中を探って、壁掛け用の蝋燭立てを見つけた。

 軽く溶けた先端部を見るに、少し前まで点いていたことが分かる。


 俺の視線を勘違いしたのか、メルトは傍へ寄ってきて手を伸ばしてきた。蝋燭立てへ手を添えた上でまずは断りを入れてくる。


「灯りを貰って来ますね」

「いや……あぁ、出直そうと思う。メルト、今日はゆっくり休め」


 停止する彼女の事情に対し、まだまだ理解が足りていないようだ。

 あの状態で睡眠が取れているとは考え難い。死の状態で固定されている時間と睡眠時間は別に取らせるべきだ。具体的な所は分からないが、眠っている間というのは身体の機能を回復させ整える時間でもある。それが不十分であるというのなら、慢性的な不調があってもおかしくは無い。


「……眠りたくないので、居てくださるのであれば、このまま」


 ところがメルトは蝋燭を取ろうとした手を引っ込め、顔を伏せたまま俺の隣を通り抜けると、縦に割られた丸太に腰掛けた。

 何もかもが現地調達だ。布があったのなら天幕にしただろうが、無かったせいで木を切り出して小屋を作った。寝台なんてあれば貴族に回しただろう。しかしこれでは満足な睡眠が取れるかも怪しい。


 腰掛けて、おそらくは視線を彷徨わせたメルトが躊躇いがちにこちらを向いた。灯りの無い部屋では表情も碌に見えなかったけれど。

 ただ、丸太の長椅子だか寝床だかの縁を固く握っているのが漏れ入る光に浮かんでいたから、俺もそちらへ歩を進めた。


 この小さな部屋で腰掛けられる場所なんてソレしかない、俺は彼女から少しだけ離れた入り口側の位置に腰掛けて、片膝を立てて膝を握った。殆ど地面に座っている感覚だ。だが、座敷の感覚は懐かしくもある。


 それがどちらの記憶なのかも曖昧なまま、言葉を探し、沈黙を得る。


 メルトも何も言わなかった。

 据わりが悪いのか、何度か座る位置を微調整している。


 言うべきことは分かっているのに言葉が出ない。

 何度も何度も頭の中で応答を繰り返し、確認しては躊躇う。


「あの……お怪我は、大丈夫でしょうか……」


 ぐい、と体温が寄ってきて躊躇いがちに手が伸びる。

 膝を握った手が動かず、ぼんやりとそれを見た。


「っ、あぁ、大丈夫だ」


 言葉の意味が遅れて繋がり、答えると伸びていた手が引っ込んでいく。

 おそらくメルトに噛まれた所のことだ。軽い出血があったくらいで骨や筋に異常はない。


「そう、ですか」

「あぁ、気にしなくていい」


 問題なのはその原因だ。それを話さないといけない。 


「傷口を見せていただいてもよろしいですか」


 なのにメルトは珍しく言葉を重ねて聞いてくる。


「大した傷じゃないんだ。本当に気にするな」

「……ハイリア様はご自分のことになると大変なことでも軽く扱われます」

「いや、本当に……」


 なんなんだ。


 いつもの楚々とした態度でも、少し崩れた時のやわらかさでもない、子どもっぽさを感じるような拗ねた声に戸惑った。


 そのままで居ると、メルトは揃えた脚の上に両手を置き、目線が部屋の奥に向いた。足先もそちらへ流しているから、自然と入り口側の俺が座る方向へ重心が寄る。彼女が寄ってきたのもあって肩ほどに頭があり、見慣れない、髪を降ろしたメルトがそのまま口を噤んでいる。


 時計でもあれば針の音を聞いたんだろうが、生憎聞こえてくるのはむさ苦しい男共の酒盛りの声だ。


 ええいっ、ちゃんと話をしようと思って来たのにヘタレている場合か!!

 自意識の悩みなど脇へ置いておけ! もっと大切なことがあるだろう……!!


「メルト」


「……はい」


 何故か物凄く沈んだ返事が来たが怯んではいけない。


「俺は君の事が好きだ」


「は、っ、ふあ、ふぁ……はい」


「だが俺に、君を求める資格があるのか分からない。俺は、君に死を強要し、他の誰かを優先させようとした。君の意思を、自由に言える機会も作らず、一方的に要求してしまっていた。死にたくないと言った君の意思は最大限尊重する。解決策はあるんだ。目的を果たしつつ、君に生き延びる道を付ける方法なら――」


 ぎゅぅぅぅぅぅぅぅ、といきなり容赦無く腕を掴まれて驚いた。

 あのメルトが、天然でも勘違いでもなく明確に、俺の腕を掴み、力を籠めて、無理矢理に引き寄せてくる。


「それがご自分を器として封印するというものなら、本当に怒りますよ……ッ」


 薄闇ではっきりと彼女の顔は見えない。

 だがようやく、向き合って話をしている。


 驚きもする、予想外のことに怯みもした、だが、


「ッッ……、しかしそれ以外の方法など俺には示せない。フロエが何をどうするつもりかは分からないが、人任せの手段でこんなこと言えるかッ」


 荒くなった語調を何とか抑えようとした。

 違う、と分かっているのに心の深い部分が揺れ動き、静止を許さない。


 彼女もまた、突き動かされるように身を乗り出してきた。


「男子が一度口にしたことを反故にされるおつもりですか!! ……、……っ」


 予想外に大きな声。


 止めろと思うのに、流れ出すのを押し留められない。


 頭の中が加熱していた。

 互いの声が徐々に大きくなっている。

 掴まれたままの腕を振り払いこそしなかったけれど、押し込まれているのに耐え切れず持ち上げて、だから震える腕を何よりも強く感じた。


 どちらだ。

 震えているのは、どちらだ。


 何かを言い募ろうとするメルトより先に声を張った。


「そうだ……!! 君を死なせず、フロエを死なせずにセイラムの動きを封じる手段なんて俺にはソレしか分からない!! 今の状況を作ったのは俺だ……!! 最初に動いた俺が責任を取るのは当然の筋だろう……ッ、もうどれだけ巻き込んだと思っている、どれだけ犠牲を積み上げて……だったら最短の手段を取る方がずっと」


 くそ……何を大声なんてあげている、感情的になって言い返して、こんなことを言いたいんじゃない。


 なのに心がざわついて止まらない。

 落ち着け。

 俺の自分勝手な苦しみなんて死の恐怖を味わい続けてきたメルトに遠く及ばない。


 無意識に自分の胸元を掴み、強く、強く握っていた。

 大丈夫だと言ったメルトの噛み痕がひりつく。


 胸の奥の奥がやすりで抉られたみたいに痛んだ。


 そうだ、自分のことなんて勝手に悩んでいればいい。

 俺じゃない。

 苦しいのは、俺なんかじゃない。


 潤んでくるな。

 俺は生きている。

 死んだのは、苦しいのはエリックの方だ。

 遺された家族の嘆きを聞いた。自分勝手だと言われようと、どんな言い訳を重ねても、俺と係わらなければ起きなかった筈の苦しみがあそこにはあった。気持ちを切り分けて整理したとしても、切り離してはこなかった。手放して堪るか。全て俺のモノだ。背負わせてくれと、そう言ったのだから。


 無理矢理に息を吸い、吐いて、呼吸を落ち着けていく。


 慣れた作業だ。

 眠れない夜に何度と繰り返した。

 ほんの少しの時間があれば平常心を取り戻せる。


 少し。


 少しだけ時間があれば。


「悲しみを抑え込んでも、苦しみが増すだけです」


 メルトの指先が目尻を撫でた。

 あたたかな感触が頬を、沁みついた(しずく)の跡を辿る。


 涙なんて流していない。


 なのに今、どうしても流れ出す感情を抑えきれない。


 張り詰めていたものがこぼれていく。


「謝らなければならないのは私の方です」


 何故。


「負担になることが分かっていたのに、貴方に縋ってしまいました。こんなにも苦しんでいるのに、死体を抱いて眠らせるようなこと、私は……私が貴方を孤独へ追い詰めたんです。誰にも頼れず一人で過ごす苦しみに私は耐えられなかった。なのに」


「俺がそうしたかったからだ。負担なんかじゃない。本当に、君の苦しみをやわらげる事が出来ていたのなら、それが一番良かった」


「なら一人で死ぬなんて言わないで下さい。二人で共に果てると言って下さった時、その罪深さを感じながらも私は本当に安心しました。死ぬのは、怖い、です。それでも共に歩める人が居るのなら耐えられると思ったから、なのに、置いていくなんて残酷過ぎます」


 俺が望んで、彼女は受け入れた。

 本来ならこちらか反故にしていいようなものじゃなかった。


 だけどもう無理だ。


 聞いてしまったから。

 分からされてしまったから。


 そして……たった今、君が覚悟へ至る意地を取り払ってしまった。

 敗北を認めるような想いで、言葉を差し出した。


「メルト。俺はもう君を犠牲にする道を選べない」


「ハイリア様」


「選べないんだ……」


 フロエに幸せになって欲しいとは思う。

 同時に、メルトを犠牲にしたくないと、心底思ってしまったから。


 あれも欲しい、これも欲しい。欲張って何もかもを取りこぼす。そして生き延びる俺は、必ず誰かを踏みつけにしていた。支えになろうとしたのに、血と骨で出来た道の上を歩んでいる自分が居るんだよ。


 だから、


 違う。


 でも、


「馬鹿なことを言っているのは分かっている。だが、もしフロエの手段が上手く行かず、どうしようもなくなったのなら、俺はもう迷わず自分を器としてセイラムを封印する。あるいはその手段が破滅的なものであった場合も同様だ」

「ハイリア様がご自分を犠牲になされた場合、私は確実に後を追わせていただきます」

「ば、かな、事を………………言わないでくれ……」


 ただ息が落ちる。


 もう懇願でしかなかった。


 メルトは薄闇でもはっきり見えるくらい顔を寄せ、俺の目を覗き込んできた。


「いやです。共に果てる覚悟はとうに出来ています」


 死ぬのが怖いと言ったのに、向き合った目には覚悟より大きな、深い感情が湛えられていた。

 黒の瞳に吸い込まれそうで、柔らかな感情に溺れたくなくて目を伏せた。


 すると彼女は少しだけ笑ったようだった。


 僅かな空気の震えが唇を撫でる。


 尚も甘えに逃げようとする自分を感じた途端、ささくれ立った心の部分が針となって身の内を貫いてくるのを感じた。痛い。痛い。でもコレは、俺の意思で引き起こしたことの結果だった。華々しい栄光に晒されると、戦いの後に見た医務室の景色が浮かんでくる。もう話すことも出来なくなった仲間たち、意識の戻らない人々。王城から振り返れば、踏み越えてきた骸が川となって山野へ続いていた。

 越えては行ける。

 誤魔化しであろうと感情を切り分けて、前進を続けていけるんだ。


 悲嘆に暮れていたい訳じゃない。


 戦いと死に意味があったのだと信じて、巻き込まれただけではなかったのだと見据えて、それでも消えないものがあるだけだ。


 それだけだ。

 こればっかりは俺一人で抱えていくべきもの。

 だから、誰の手も借りるべきじゃない。


 なのにメルトは心外だと言わんばかりの口調で続けた。



()()()()()()()()()()()。止めるのも、続けるのも、決めるのは私です」



 唇に感触があり、食むようにはさまれる。


 死ぬのは怖いと言ってくれたその感情を、震える唇が教えてくれた。

 なのに何故死を望むのか。愚かな問いを選びはしなかったけれど、きっと聡明な彼女には何を言うべきなのかが分かっている。 


 少し離れて、また触れて、

 

「心よりお慕いしております、ハイリア様」


 涙を、口付けが()()とっていった。


    ※   ※   ※


 何度も、何度も、口付けを交わした。


 最初はただ、隣り合ったメルトの腕に抱かれ、抗う気力も湧かないまま身を委ねていた。

 布越しに感じる彼女の肌の柔らかさと、頭を撫で、背中を優しく叩く手指の感触に意識が遠のいて、そのまま眠ってしまうんじゃないかと思っていた。だけど、胸元へ埋めていた顔を軽くあげた時に鼻先と頬が黒髪に触れた。普段とは違う、髪を降ろした状態だからだ。しっとりとした髪の感触が気持ち良くて、ぼやけた頭で顔を寄せると首筋が目に入った。その瞬間、鼻腔一杯に甘い香りが強烈に広がって、吸い込まれるように口付けた。

 きっと、胸元で抱かれていたのと同じ感覚だった。


 だけど唇が触れた時、耳元で微かに甘い吐息が漏れて、自分の頬へ、胸の内へ、熱が篭った。

 確かめるようにもう一度、今度は軽く吸ってやると回した腕や肩や、首筋が軽く跳ねた。口付けを続けながら、首筋を辿って耳元へ触れる。


 吐息と共に彼女の名を呼んだ。


「メルト」


 驚いたみたいな反応でこちらを見たメルトと目が合って、今まで見たことが無いほど上気した顔を、戸惑った表情を、暗闇の中でも見えるほど近くで見て取った時、もう我慢が効かなくなった。こちらから寄せた癖に、甘えて、求めるような口付けをした。

 触れていることが救いであるように、離れることを禁忌として間断無く触れ合わせ、確かめ合い、食む。


 求め、求められ、いつしか互いの息継ぎの音だけが響いていることに気付く。

 時折メルトが俺の目尻に口付け、そうやって顕わになった顎や首や耳へ俺は口付けをした。メルトは唇だけでなく、肌の何もかもが柔らかく、唇で撫でるだけで心がやわらいでいくように感じた。彼女の唇で触れられることも心地良くて、目尻へ、瞼へ、頬へと口付けされる度に冷たさと頑なさが抜けていくような気がした。同時に、全く違う熱が宿っていくことも、そろそろ目を逸らしているのが限界だった。


 何十回目かのキスで互いの舌先が触れ、俺が舐め取るとメルトがぐいと奥へ差し込んできて、そこからはひたすらに絡み合う。


 隣り合って座っていたから無理が出て、いつのまにか俺のふとももの上に彼女が跨っていた。

 こちらから引き寄せたように思うけど、彼女の方から向きあって来たようにも思う。もう、どちらでもいい。

 正面から向き合うとより密着しやすくなる。少しでも触れている場所を増やすように、腕を回し、位置を整え、口内を絡ませる。彼女の喉の奥から時折漏れるか細い声が蜂蜜みたいに耳の奥へ垂れてくる。頭が痺れていた、もう、このまま、なんて茹だった思考へ身を任せそうになった時、ふいにメルトから顔を離した。


 唐突に不安になる自分の幼稚さを感じ、誤魔化そうとしていたら、再びメルトから口付けがあり、そのまま耳元へ口を寄せ――僅かな間に俺も気付いた。


 おいなんだかさっきから、やけに静かじゃないか?

 酒盛りをしていた奴らはどうなった。

 ここは天下の馬鹿野郎共が詰め込まれたボロ小屋だろうに。


「覗かれています」

「殺すか」

「はい」


 幸いにもメルトの薙刀が部屋にあった。

 回収してくれていた、もうただの刀もある。


 互いに黙ったまま立ち上がり、衣服を整え、武器を手にする。


 動きがあった。

 しかしメルトの対処は早い、相手は発覚し易い出入り口付近などには居ないことを正確に察知している。この薄い壁の向こう、隣の部屋に大勢の気配があり、故に動き出しは入り乱れ、流石の近衛兵団でも遅れを得た。薄い板の壁など容易く貫通させ、薙刀が隣部屋の戸口を塞ぐ。俺は既に外へ飛び出していた。どうやら部屋に収まりきらなかった馬鹿が通路にまで折り重なって様子を伺っていたらしい。


「覚悟は出来ているんだろうな」


 言い終わるのを待つでもなく斬りかかって来た。

 寸での所で白刃取りをし、止めるが、かなり際どかった。

「殺す気か……っ」

 こちらからそう発言したのだが、向こうはお構いなしに叫んでくる。


「テメエこそ覚悟出来てるんだろうなァ!!」


 酒臭い息が気持ち悪くて強めに押し込むが、絶妙に受けられ逆に引き込まれる。

 耐えて、下がらないように身構えれば抑え込みの位置を取られてしまう。世紀末のモヒカン野郎でも中々しないだろう下卑た顔を歪ませ唾を飛ばしながら叫んでくる。


「この男所帯で女連れ込んでよろしくやってるとか喧嘩売ってんのかオラァアア!!」


 押し込むように体重を掛けてきたと思えば、その脇を抜けて後ろへ回りこまれた。一人をなんとか掴んで止めるが数が多い。こんな所で無駄に連携を見せ付けなくていい、そう思う俺へむさ苦しい男共が次々飛び掛ってきて組み伏せられた。左右も正面も囮で、小柄な奴が滑り込むようにして飛びついてきたのだ。

 分厚い筋肉が折り重なり、嬉しくない熱っぽさが布越しに伝わってくる。

 つい先ほどまでメルトに触れていたせいか、男共の感触が非常に不愉快だ。


「へへっ、威勢が良かった割に大人しいじゃねえか」

「ハイリアァァ……っ、女を知る前に男を教えてやろうか、ぁあ?」


 尻を撫でられる感触があって本気で抵抗するが次々折り重なってくる男達を振り解けない。

 一人では不利だ、メルトは――思って視線を移すのと隣部屋から叫びが上がるのは同時だった。


「ッアー!! 団長テメエいの一番に逃げようとしてんじゃねえよ入り口が詰まるだろうが!!」

「キサマらこそ長を救う為に殿の一つも務めんか馬鹿共!!」

「ふざけんな特等席まで確保しといて足手まといはさっさと死ね!」

「メルトちゃんの声たまんねえなぁ。俺ちょっと用足してくるわ」


 とりあえず最後の人は徹底的に始末するとして、あちらはあちらで別種の喧嘩が発生しており、ディランに投げ飛ばされた一人が俺の上に乗って首を絞めてきた男たちを叩き飛ばし、ついでに壁を突き破っていく。派手に壊れた先で寝ていた男が切れて飛んできた男を投げ返す。その間に俺は残る二人を押しのけ立ち上がると、メルトが手を取って引き上げてくれた。


「ははー!! ハイリアてめえこんな所でおっぱじめる奴が悪いんだよ!!」

「今夜のおかずをありがとう!!」

「おじさんにも昔、めっちゃくちゃすけべな婚約者が居てな、気持ちは分かる」

「メルトッ。お姉ちゃんは最初から分かってたからね、アンタが結構むっつりすけべだってこと!!」


「っ、っ、っ~~~!!!」


 細かい描写は省くが薙刀が彼らと彼女を追い回し、最終的には柄で滅多打ちにしていた。

「だってメルト前に夜中の見回りの時に寝てるあの子の前髪触ってにやにやしてたじゃ――キャアアア!?」

 メルトを怒らせてはいけない、俺は深く心に刻み込んだ。何故か睨まれたので今の話は聞かなかったことにする、分かっています。


 とはいえ全員の動きがやや鈍い。

 酒ではなく、少し前かがみになっているせいだと思われるが、余計に腹が立つので遠慮しなかった。


 喧嘩が喧嘩を呼び、別口で呑み続けていた連中にまで事が及び、最早最初の理由すら曖昧なまま暴れ続けた結果、兵舎は程無くして崩壊、敵の襲撃かと血相変えて駆けつけた守備隊が巻き込まれ、どこかの肥え太った男爵が残していった無駄に豪華で物資の豊富な天幕が流れ弾で吹き飛んだ。あの男爵へ予めこの混乱の発生が知らされていたかどうかは不明だが、手駒として保護された状態での逃亡だった為の余裕だろう、不足しがちな物資を山ほど持ち込んでいた。譲って恩でも売るつもりだったのか、高値で売りつけるつもりだったのかは分からないが、日用品が多い辺り、結構マメな奴だったのかも知れない。

 乱闘の最中しっかりとせしめている彼らの様子からわざとやったのは間違い無く、それらが平民たちの為に使われたことを俺は後に知る事となる。


 とはいえ喧嘩は喧嘩。

 非常事態の真っ只中で精鋭部隊が好き放題に暴れる様は不安と苛立ちを煽るものでしかなく、罰則として、守備隊に負担させていた拠点警備の全てを近衛兵団が受け持つこととなった。当然、睡眠時間などは与えられない、休憩すらない。


 挙句俺は、



「非常事態だから、場所と状況は弁えて」



 自分より遥かに年下の幼女、もとい、陛下からの直言を賜り、更には白い目で見られながら愚痴を拝聴する栄誉を得た。


「こっちはもう数日全力稼動が続いてて疲れてるの。ねえ、なんで仕事増やすの、半熟卵も食べられないんだよ。御菓子も食べたい。お風呂入りたい。しんどいしんどいしんどいセイラムもなんでこんな面倒くさい時に出てくるんだろうね、百年後くらいにしてくれたら私は何も気にせずのんびりできたのにね。あーーーーーーーーーーー、ねえ聞いてる?」

「はい」


 よっぽど溜まってたらしい……後回しにしてごめんなさいと本気で思った。


「婚前交渉など不潔だっ、身体接触の一切を禁止しようっ」

「クレアの私情はどうでもいいよ」

「はい」


 話を聞いてやってきたクレアはあっさり黙らされたが、一緒になってお叱りを受けたメルトは終始顔を伏せ、覆い、羞恥に顔を赤く染めていた。

 元々身持ちが固い、というか、貞操観念が強そうだったし、気付けば方々に話が及んでいたことで耐え切れなくなったんだろう、熱を出して倒れてしまった。運ばれていく彼女を見送り、陛下の前で正座する俺は、深い深いため息の後に心底疲れた声でこう言われた。


「……政治的な立場もあるんだから、以降、落ち着くまでは婚前交渉やそれに類する行為は一切禁止ね」


「……はい」


 そういう訳で俺は、幼女からえっちなことは駄目だからねと約束させられたのだった。


    ※   ※   ※


 馬鹿をやっていても、真面目に悩んでいたって、時間は同じように過ぎていく。

 力が抜けたのは確かだったが、我が事ながら腑抜けになっていないことを祈るばかりだ。


 一通りの騒動を終え、門番を割り振られた俺は、ふと月を見上げながら随分と気持ちが楽になっているのを知って、そんなことを思った。


 まだ少しまどろんでいるような気持ちだ。

 この心地良さはメルトが与えてくれたものだろう。


 共に始めたことだと彼女は言った。


 ならきっと、俺と彼女の関係も、あの瞬間から始まったのだと。


 俺はここに居る。

 ここに居て良いのだと、そう思えた。


 そうして、翳した手を握り込む。

 失って堪るか。


 思い、留め――ふと、デュッセンドルフの街中から一筋の矢が放たれたのを知る。


 矢は真っ直ぐに月を目指し、消えていった。





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