174
予め連絡して回させていた馬で現地へ辿り着いた時には、区分けされた貴族らの為の一角が群集に包囲されつつあった。
急ごしらえだろう見張り櫓やバリケードを挟んで兵士が魔術を使用した状態で立っており、暗闇で見れば区画を分ける篝火のようにも感じられた。
群集の居る一帯には所々砲撃でも受けたような場所があり、散乱した荷物と血の跡がそのままに放置されている。
どうにも彼らはこの攻撃から逃れようと、高台に陣取った貴族らの区画へ詰め寄っているようだった。
馬を引き、彼らの元へ行こうとした時、顔を知る兵士が松明を手に駆け寄ってきた。
青褪めているのはこの暴動だけが原因じゃないだろう。
「こちらは危険です。案内しますから、まずは陛下の元へお越し下さい」
言葉を返そうとした時、群衆から悲鳴があがり、それは地鳴りのように広がった。
人々の見る方向へ目をやれば、遥か彼方に上がった何かが、凄まじい速度でこちらへ飛来し、そして――
「伏せてください!!」
受けた言葉とは逆に馬上のクレアを引き降ろし、抱き抱えた。
衝撃は思ったほど大きくは無く、吹き飛ばされた土砂がぱらぱらと降ってくるだけ。
着弾は今の位置よりずっと手前だったようだ。
なのに群集は、そして訓練を受けた兵士ですら身を震わせて縮こまっていた。
「今のは」
「ティリアナ=ホークロックの攻撃ですよ!! 天罰だ!! 聖女の遣わした使徒が俺たちを皆殺しにするつもりなんだ!!」
応答は悲鳴に近かった。
あまりの怯えように肩を掴もうとしたが、クレアを抱き抱えたままではどうにもならない。
「役得だな」
なぜか近くにいるメルトに向けて言うが話がややこしくなるので止めなさい。
改めて馬上へ戻し、その際、他にどうしようも無かった為に尻を押す形になったのをメルトがじとーっと眺めていたが俺に邪な気持ちなどない。クレアも変な声を出すんじゃない。膝や太股では痛むとか言い出したからだろ。
なんとか関係ない状況を一纏めにし、端に寄せて、ようやく怯える兵士の肩を掴んだ。
「よく見ろ」
再びの射撃が来る。
今度はしっかりと見て取れた。
黄色の魔術光を帯びた矢は、間違い無く魔術によるものだ。
最大射程二百メートル、という基本的な性能を明らかに無視した射程距離だが、ある一定ラインよりこちらは完全に無傷だった。
「ここは敵の射程外だ。ここに居ればあの矢は届かない。いいか、君はここの守備隊に連絡を取って、敵の射程ラインから一定間隔を置いた場所に兵士を配置させるんだ。今みたいに群衆へ向かい合っているより余程守られている安堵がある」
「っ、しかしハイリア様を誘導するようにと」
「陛下の元へは後で行く。まずは彼らを解散させなければ満足に兵力も展開できないだろう」
けれどと言い募ろうとする所に再びの攻撃があり、俺は彼の背を押してやった。
使命感はあるが、明らかに安堵の色が見える。
俺は馬上を見上げた。
そして、
「メルト。すまないが君が側に居ると話がややこしくなる。クレア、ここからは車椅子で同行してくれ、君の姿は彼らの同情を得やすい」
「はい……」
「行けと言われなくて安心したぞ」
他の近衛兵団の者たちも、下手に同行していると売り言葉に買い言葉で喧嘩を始めかねない。
ディランの姿も敵に押されている状況を想起させるから、やはりまだ見せない方がいい。
陛下がいらっしゃるなら対策は練っているだろうし、俺を誘導するつもりだったのならこのまま行くべきなんだろうが。
丘の守りに付く兵は臨戦態勢だ。
先の男のように、追われ続けた彼らも冷静さを欠いている可能性は高い。
そうなった時に犠牲になるのは群衆の方だ。
分かっているのか、肩を竦めた男が顎で群集を示した。
「俺たちは準備して群集に紛れ込むよ。扇動もあるが、いざとなればアンタたちを抱えて脱出する。やりたいことは理解出来るが、そこらの連中よりお前たちの命が優先だ。必要であれば何人斬り捨ててでもな」
分かりづらいが、コレは応援だ。
近衛兵団にはツンデレが多い。
「そうならないよう努力するさ。同時に正確な情報が無ければ詰まる場面があると思う、一人は陛下の方へ回して、情報を取り纏めたら来て欲しい」
「分かった」
方針が決まれば行動は早い。
近衛兵団の人員はようやく追いついてきた団長を置き去りに散開した。
片足を包帯で雁字搦めにしつつも単独で馬を乗りこなしてきた巨漢の男は、たっぷり蓄えた髭を擦りながら唸るように言う。
「……やはり、次期団長はハイリアでよかろうに」
俺は肩を竦めて言い返してやった。
「片目無くして病死するまでマグナスは戦い続けた。まだまだ戦えるじゃないか、近衛兵団現団長?」
※ ※ ※
ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト
天幕の柱へ括りつけられた時計だけが音を発していた。
暴動による喧騒もここでは遠くて、私たちは具体的な何かを動かすでもなく沈黙を続けていた。
打てる手は打ってある。
情報収集と散り散りになった兵力の回収、夜明けまでの警備体制の調整と今後の方策。
モノはある。だけど、それらが結果を出すかと言われると、この場の誰もが沈黙するしかなかった。
既に現地へ残してきた偵察部隊が幾つも消息不明になっている。
新たに向かわせた部隊も半数が全滅、なんとか逃げ延びてきた者の話によると、敵術者の尋常ならざる強さによって打つ手もなく壊走したんだとか。
ハイリアを経由して与えられていたティア=ヴィクトールからの情報で、彼らの出現は予測されていたものだった。
戦術が練られ、王都に残してきた兵力にはそれぞれに対処出来るだけの訓練を積ませている筈だった。
だけど、何もかもが規格外だ。
闇に紛れて次々と要人を刈り取ってくる『剣』。
町の一角をただの一戟で叩き飛ばす『槍』。
何より通常の射程限界を無視してくる『弓』の存在は逃げてきた民だけじゃなく、兵士たちにも恐怖を刻み付けていた。ただ距離が長いだけじゃない。逃げる相手の恐怖を煽る事に長けた、追跡者なんだと思う。
小部屋一つ分の再抽選なんて何の意味も無かった。
一度は出現を止めたものの、ヴィレイ=クレアラインは何かを拠り代に出現した筈。
暴動の切っ掛けになった噂を流したのはおそらく彼だ。
ある程度の事実を交えながら、意地の悪い部分で湾曲させ、私たちが民を盾に逃げ出そうとしたという物語が出来てしまっている。憶測の根拠は事実のまま、ただ解釈を変えるだけで物事は歪む。一度広まった噂は誰にも制御なんて出来ない。
収集した情報から判明した『弓』の術者は、二百年ほど前に実在した月を落とした女の異名を持つティリアナ=ホークロックだと言われている。
これだって具体的な名前がどこから出てきたのかも分からない。
あるいは戦力を誇示することでこちらの動揺を誘おうと向こう側から流されたのかも。
聖女セイラムに愛された救国の英雄、月を落としたとも言われる長大な射程で数々の敵将を討ち取ってきた『弓』の術者だ。
当初私たちはデュッセンドルフから南下した近くの丘上に陣取ろうとした。
高所に陣取るのは基本だし、遠巻きに町の様子を伺える。本当は隣町まで逃がしたかったけど、敵の追撃を受けて疲弊しきった民を抱えたまま夜の行軍は不可能だったから。そうして天幕を用意して一息付こうとした所にあの攻撃だ。
陣を下げ、民を誘導しようとした時には噂が広まっていて、動くに動けない状態が出来上がってしまった。
射程限界は憶測ながらも確認できたし、大丈夫だと喧伝はしたけど、延々と続く攻撃に兵士までもが平静を欠いて逃げ出そうと言い始める始末。
正直に言って、疲れ果てていた。
実際に前線で動き回る兵士も大変だけど、次々と移り変わる状況を精査して正しい指示を出さなければいけない頭脳の側だって疲弊する。
判断の全てを放棄してしまいたい、そんな馬鹿な衝動がじわじわと自分の中に生まれつつあるのが、なによりもの毒だと思った。
今も続く攻撃はただの嫌がらせだ。
狙いもなにもあったものじゃない。
悪戯に攻撃を重ねているだけで、物資の回収だって概ね完了しつつある。
けれどどうしても、騒ぐ人々の声が神経を逆なでする。
「……やっぱり、私が」
「陛下……どうかそれだけは」
あまりにも危険だと、随分前にも止められていた。
敵の中に暗殺者が居るという話から、彼らは過剰に私や自分たちの身を心配する。実際に死者が出ているんだから愚かとは言えない。だけど戦力を配置するべき場所に配置せずに自分の身だけ固めていても端から崩されていくだけだ。
「動きたい、動かなければならない……人間の性だね。時には沈黙が正解になると分かっていても、無駄に行動を重ねて自滅する」
この中で唯一人、余裕そうな表情を浮かべている者が声を発すると、少なからず文官たちに反発心が芽生える。
あくまでフリなんだけど、大抵は分からないよね、こんなへそ曲がり。
「しつこいから同席を許してるけど、発言の許可は与えていないよ、シンシア」
「虜囚の身としては減らず口くらいが唯一の自由なんだ、憐れと思って許して欲しい」
だけど彼女の胆力に私たちも支えられている。
対抗意識か、反発心か、沈んでいた文官たちの心に熱が宿る。
なんでもいい、ということかな。
良い結果を生み出す為に行うのが、全て良い行動とは限らない。
彼女が更に言葉を重ねようとした時、天幕の外から声が掛かり、中の警護の者が私へ寄ってきた。
耳打ちされた内容に、つい、浮き上がる自分を戒めようとした。
「……来たね」
うるさい。
彼女の一言で他の者たちも理解したんだと思う。
だけど私は、かつてあの内乱で感じたのと同じ不安もまた、覚えてしまっていた。
辛いのなら、逃げ出してくれれば良かったのに。
大切なモノだけ抱えて、どこかへ消えたのなら、それでも良いと思った。
クレアが飛び出したことだって何も言わなかった。
彼女なら彼を守ることを何よりも優先してくれる。
なのに、
「また背負うんだ。そうやって、重荷ばかり抱え込もうとする……」
あの日出来なかった決断がずっと尾を引いていた。
本当に必要だと思ったら、次は躊躇わない。
だけど私は結局、兄さんや、貴方に手を引かれてやっとここに立っている。
俯いて手を握る。
その時の私はまだ気付いていなかった。
天幕に配備する警護の人選を誰がやったのだとか、最近になって変わりつつある兵士の装備だとか、撤退直後の混乱した状態では外部からの侵入が極めて容易になることだとか、
――兜で顔を覆った一人の兵士がじっと私を見詰めていたことを。
※ ※ ※
ジン=コーリア
遠巻きに群集を眺めていた。
アテられて突っ走ったのだっていい加減品切れだ。
助けて欲しいんだか襲い掛かりたいんだかも分かってない連中の前へ出て行くなんてぞっとする。
人は群れると一気に思考が単調化するもんだ。
元々本当に頭の回る奴なんてそうは居ない。
俺なんて駄目な方の筆頭だ。
幾らか平均より上回る部分があると成績上では出ているけど、数字の得意な奴がすべての思考に秀でているなんてことが無いように、統率の取れた軍団を率いれる人間でも、右往左往する群集を操作するのは至難の業だ。
今、この状況に適した思考を持つ人間。
あるいは群集が求めている人間。
そういう生贄みたいなのが必要になってくる。
「分かってんのかよ……」
人の群れが割れて、人影が彼らの前に出て行く。
顔は確認出来ないが、車椅子を押してるってことはクレア確定で、どうせもう一人はハイリアだ。
すっかり陽の落ちた景色に篝火と兵の魔術光が点々と連なっていて、いつの間にかデュッセンドルフからの狙撃は止まっていた。狙撃というか、終盤はただ放り込んでいただけのようなもんだったが。
ざわめきが引いていく。
ずっと昔に聞いた潮騒を思い出した。
終わりは海の向こうからやってきた。
第一声は、よく通る女のものだった。
※ ※ ※
クレア=ウィンホールド
「誰か話の出来る者はいるか!!」
現状がはっきりしない以上、疲弊し恐怖する民衆へ、貴族らへの安易な擁護を聞かせるのは危険だと思った。
可能ならば中立の立場を取り、双方の調整が出来たなら一番良い。
『槍』を使って切り出し、打ち付けた丸太に紐を通しただけの簡易柵。そこから斜面が急になっていて、要所要所に兵を配置しているだけ。武器こそ足元に突き立てているが、踏み込めばどうなるかを如実に現していた。
警護する方も必死だ。
こんな意味があるかも怪しい境界線では民衆が詰め寄せれば簡単に瓦解する。
そうなれば守護対象を優先する彼らは武器を取らなければならなくなる。
群衆の中にも魔術を使える者は多く居るだろうし、行動は徹底的なものになるだろう。
警備側に動きはあるが、確認も合わせてまだ時間が掛かるだろう。
なら、動きの早さは民衆が勝る。
「……ハイリア様」
多少息を切らせながら、綺麗に髭を整えた男が顔を出した。
知らん顔だ。だが、と名を呼ばれたハイリアへ目を向ける。
「貴方は……貧民街で自警団を率いていた」
「はい。最初は抗議と詳しい事情の説明を求めて来たのですが、何故か話が方々へ伝わって規模が膨れ上がってしまったのです」
声を潜めてのものだったが、周囲の者たちは少しばかり警戒を強めて遠巻きにしている。
ハイリアは大貴族。
今がどうであれ、デュッセンドルフに係わる者であればその意識は強い。
たかが貧民街の男が彼へ話しかけている様子は、おそらく相当に異様な光景に見えるのだろう。
この町では学園の存在もあって比較的柔軟だが、立場の弱い、学園との係わりが少ない者は苛烈な方の噂話を信じ、警戒する。実際、横暴な振る舞いを日常的に行い、理不尽な罰を与えていた者は確かに居たんだ。
私の車椅子から手を離し、並ぶようにしてハイリアが歩み寄った。
「話を聞きたい。まず君たちは現状をどう認識している」
男は私の足元をちらりと見て、
「まず、デュッセンドルフに何処かの軍隊が攻め入ったのだとか、あるいは……神の罰が下ったのだと聞いています」
「軍隊は分かるが、罰とは?」
「いえ、それは……」
言いよどむ様子にハイリアは頷いた。
「わかった」
なるべく強要はしないようにという配慮だろう。
既に大昔の英雄が尖兵として出現したという話は聞いた。王都に出現した神樹といい、ホルノスでは近頃不可解な出来事をよく目にする。
「とにかく町を放棄せざるを得ない理由があって、避難の指示か命令が下ったことを理解してくれているんだな」
「……はい。ハイリア様は何かご存知なのでしょうか?」
視線に違和感を覚えた。
目のやり方というか、色というか、とにかく言葉に思惑があるような印象だ。
この手の経験はここ最近で沢山積ませてもらった。彼も心得のある相手だろうが、一国の利害を背負った者たちほどではない。自警団で何かを守ろうとして動いたという時点で、政治より腕っ節に自信があることだろうしな。
「ハイリア」
何かを応えようとしたのを止めるべく、呼びかけた。
自然と周囲の視線がこちらに向いた。
「攻撃が止んだようだぞ」
示してやれば、全員の視線が北へ向いた。
あれほど続いていた『弓』による遠距離攻撃が止まっている。
ま、それはどうでもいいんだが。
袖を掴んで引き寄せると、小声でハイリアに耳打ちした。
「我々は罰せられる立場かもしれないぞ」
男の視線がすぐに戻ってきたから、頬に口付けをして、袖を離した。
唇の前で指を一本立てて、黙っていろよと示すと男は少し困ったように肩を竦めた。
「これで少しは落ち着けるかな」
「そう、ですね……。いつの間にか兵士が」
ハイリアが指示を出していたヤツだろう。
座ったままでは確認出来ないが、ティリアナ某の射程限界付近に兵士を数名並べてある筈だ。
「相手もいい加減無意味だと悟ったのだろう。何も無いならともかく、手練れが守りについたのならそうそう『弓』の攻撃など通らないからな」
周囲があからさまにほっとするのが分かった。
不満の訴え以上に、延々と続く攻撃がこの行動を引き起こしていたのなら、このまま解散だってありうるが。
「しかし、一体何が原因なのでしょうか。あの攻撃は明らかに魔術本来の限界を超えています。伝説に聞く救国の英雄と呼ぶ者もおりますが、まさか我々は聖女の怒りを買ってしまったのかと……そんな噂も立っていますから」
気の緩みか、それとも歩み寄ってくれたのか、あっさりと手札を明かしてくれる。
迂闊に違う話をしていれば周囲からコレに関する糾弾があったかもしれない。
「なるほど」
ハイリアは頷きを見せ、顎へ手をやった。
「……敢えて言おう。それは在り得ない」
どうするつもりだ。
私たちがセイラムからの脱却を目指して動いていることは一部では知られた事実だ。
彼らには知りようの無い話とはいえ、事実として敵対しているのだから。この攻撃の理由をどう説明する。
疑心を募らせようとする民衆へ、ハイリアは向かい合い、意外な所から話を進めた。
「先の内乱の、本当の原因について君たちは知っているか」
※ ※ ※
ハイリア
この騒動にヴィレイ=クレアラインが絡んでいるのなら、俺の急所を狙ってくるのは分かりきっている。
大多数の者にとってセイラムは信仰の対象だ。
一昔前の宗教戦争によって教会の影響力は薄れ、苛烈な信仰を忌避する下地があるとはいえ、やはり聖女信仰の根は深い。魔術という目に見える恩恵のみならず、フーリア人による逆襲で長く危険を感じてきたことがより偉大な存在への依存を高めていく。
蛇の毒に付け入る隙を与えるな。
「近衛兵団前団長マグナス=ハーツバースは、先王ルドルフの威光を奪った宰相を討ち、ご息女のルリカ様へと玉座を返還した。だが、そもそもとしてマグナスが宰相を見限る原因となったのは、イルベール教団という狂信者の集団を王国の中央へ引き入れたからだ」
奴らの悪名を知らない者は居ない。
時に慈善活動をしていたり、戦場では死を怖れず立ち向かう英雄であっても、やはり起こしてきた問題と苛烈な虐殺への忌避感は人々に伝わっている。ましてや内乱ではビジットによってこれでもかと民衆にその様を見せ付けている。
「奴らイルベール教団は、王都での騒乱に乗じて無数の生贄を捧げ、セイラムを復活させようと目論んでいた」
これもそれなりに広まっている噂だ。
神樹に宿った狂気的な女が誰であるか、結論こそ出ていないが、大抵は違う何かが呼び出されたのだと解釈されている。
今は彼方、王都を仰ぐように空を見やれば、道半ばにデュッセンドルフがある。
街道を南下した森の手前は小規模な丘が幾つもあり、普段なら羊飼いたちの領域として他は立ち入らない。森は途中で沼地に変わり、越えていくには向かない地形だ。南へ抜けるには街道を行くしかないが、道は細く避難は進まない。
陛下たちがここに臨時拠点を設置しようとしたのも、足止めを食らう民の休憩所にと、また敵の攻撃を食い止める防波堤を作ろうとしたからだ。
長大な射程を持つというティリアナの限界距離に近いのも、偶然か、あるいは見せかけかはまだ判断が付かない。
視線を戻して男を、それを見詰める人々を見た。
多くは警戒、あるいは困惑。英雄などと持て囃されていても、無条件で信用を得られるわけじゃない。
彼らにとって権力者とは自然の一部のようなもの。上手く付き合えば恩恵を得られるが、時折理不尽に全てを奪い去る。
故郷を追われ、平穏を乱された彼らの不安を思えば、今は特に。
だが、謙ってもいけない。
少なくとも彼らは不可侵である貴族らの領域へ詰め掛けるという禁忌を犯している。
ここを統括しているのが陛下で無かったら既に武力で制圧されている可能性だってあった。
代表者らしい男でさえ群集を制御できていないのなら、易しと見られることは、失った分の補填にと略奪を始める理由に変わる。
事実として、背後の貴族たちは疲弊しているのだから。
「教団の狙いは大半が防がれたが、奴らはセイラムの力を一部奪い去ることに成功している可能性があった」
「……つまり、それが今だと?」
少し間を開けたせいか、男が戸惑いながら俺の言葉を咀嚼しようとする。
どうして分かるのかと問われなかったことで、順番を整理する必要はあったが。
「聖女は運命を操る。我々が本当に天罰を受けているのなら、こうして立っていることすら出来なかった筈だ。遥か過去から今までを導いてきた力を前に、どうして抗っていられると思う?」
理解が追いついていないらしく、声を聞ける範囲の者たちは視線を彷徨わせていた。
誰かに尋ねたい。どういうことなのか、アレは本当なのか。
そういう俺の解釈が合っているのかどうかは、まだ分からないが。
「聖女はもしかすると、既にイルベール教団に囚われているのかもしれない。内乱の折、マグナスからの要請を受けて、調査の為に彼らへ同行していた時期があるが、怪しげな儀式を幾つも目撃した。教会本国から送られてきた異端審問官が、正式に破門を言い渡したことからも、教団が極めて非道な、そして聖女の教えに反する行いを繰り返していたのが事実と分かるだろう」
「そんなことをしていたのか」
クレアからの援護が来る。
「あぁ。元々奴らは俺に興味を示していた。戦いの大半を預ける形にはなったが、結果として幽閉されていた陛下を救い出すことにも成功し、また儀式の大半を事前に防ぐことが出来たと思う。そしてイルベール教団の破門を言い渡した異端審問官、彼は教会本国で次の教皇候補に挙げられるほどの人格者だ。その裁定は教会の名に於いて保障されている」
実際は名が挙がっているだけで、まだまだ実績も足りない若手という話だったが、そんな話をしても意味は無い。
事実を部分的に並べると、真実を話しながら相手の理解を誘導出来る。
以前なら避けただろう手段を当たり前に用いようとする自分への感想は、胸の奥へ封じ込めた。
その結果として彼らが無用な血を流さずに済むのであれば。
男へ目を向けると、戸惑いながらも納得の表情が見えた。
そう。
この暴動を扇動しているのがヴィレイなら、俺に関する疑惑の情報は全て開示されていると見るべきだ。俺をより貶められるよう、悪意を籠めた曲解と憶測をふんだんに含んだ噂は、先ほどから見える俺への警戒と合致する。以前から繋がりを得ていたことで男は信用してくれたようで安心した。
ただし、話が長引けば危険が増えることも事実。
長々と事情説明をしている暇は思っているほど無いかもしれない。
新しく何かをし掛けてこない内に、一度解散させ、改めて場を設けたいが。
「全く以って厚かましい!! 聖女を貶め、人々から彼女の救いを奪い去ろうとした男が!!」
一手、いや、数手あちらが早かった。
今まで背にしていた貴族区画の方から数名の供回りを連れて、たっぷりと贅肉を蓄えた男が姿を現したのだ。
※ ※ ※
ジン=コーリア
乗っているのはロバかと思ったが、どうにも馬で間違いないらしい。
我慢強い生き物とはいえあれでは不憫だ。
少しこちら側をみやれば、他にも数名の貴族や御付きらしい連中が警備を強引に押しやってハイリアの居る場所へ詰め寄せていた。こういう矢面に立たされるのは平民出の兵士だ。貴族から強引に来られると抑えが甘くなる。
しかし、なんだあれは。
いや、
「ちっ、面倒なことをしやがったな」
宗教戦争の歴史を紐解けば、この手口は考えて然るべきだった。
肥満男がハイリアを指差し罵倒する。
これまで教団を槍玉に挙げて、罪を着せることで現状を纏めようとしていたハイリアに、真っ向からぶつかる意見が来る。
「すべてはこの男が原因だ!!」
噂話の大半は民衆の側から広がっていたから、こちらの警戒は少し緩んでいた。
というより、比重をあちらに向けるしかなかった。兵も疲弊し切っている。異常な事態を前に休息もなしに働き続けるなんて、そうそう出来ることじゃない。
「この男は不遜にも聖女を討ち取ろうとしている!! 我らを導いて下さってきたセイラムを!! 慈悲深き我らが信仰の主を!! 故にデュッセンドルフは怒りを向けられ、滅びかけているのだ!! 今ここに立っている理由など、聖女セイラムの慈悲以外にあるものか!!」
挙句暴動寸前の出来事が続き、対処が後手に回った。
こちらを打倒する為の手というより、こちらを瓦解させる為の手。
ハイリアの存在はもうホルノス中枢に深く食い込んでいる。
ホルノスとしての失策を突くより、ハイリア個人を狙った方が容易いのは当然の考えだ。下手をすると大局の為に見捨てられることもある上、ホルノスだって勢いの支えを失うことに繋がる。
「……狙われたな」
出て来るのを待っていたという所か。
「また出て来たんなら、覚悟の一つくらいは付いたんだろう」
調子良く叫んでいる男になんか負けるなよ。
「かましてやれ」
※ ※ ※
ハイリア
貴族だろうが、相手の名前が思い浮かばなかった。
デュッセンドルフに根を張る貴族ではないのかとも思ったが妙に覚えのある顔だ。
「あぁ……」
しばらく考えていたら思い出してきた。
もう随分と前の話だ。
去年の春頃、ジークとの総合実技訓練を控えた数日前だったかに、三本角の子羊亭で顔を見た。
理由はなんだったか? たしか、鉱山に買われた労働奴隷のフーリア人が子羊亭で当たり前に飯を食っているのが気に入らないだとか、そんな理由で難癖を付けにきたんだったな。本来は女店主とジークに叩き出されるありがちな三下キャラだったが、まあそんなのの手に掛かって毒を貰い、試合当日ピンチに陥っていた俺も中々に間抜けだったと今でも思う。
まあどうでもよろしい。
「イルベール教団の後ろ盾を得て男爵位を金で買った成金貴族だな」
うんうん、と少し懐かしい気持ちで頷いた。
気が抜けて溢したつもりはないが、なんとなく危機感が薄れている。
「なっ、ぁ、っ!?」
ついでに男は気分良く振るっていた弁舌が口の中で絡んだのか、息苦しそうに声を詰まらせて顔を真っ赤にしていく。
「元々太り気味だったとは思うが、すっかり教団に肥えさせられたのか。豊かさの象徴とはいえ、もう少し運動をしないと健康に悪いぞ、男爵」
「ぶぶっ、無礼な!! 異端者の分際で私にそんな口を聞くつもりか!!」
「異端なのはイルベール教団であると答えが出ている。君が抗議するべきなのは俺ではなく、教会本国だろう。幾つかの証言や証拠、証人の引渡しは行ったが、異端の認定は俺や君が行うようなことではない」
軽く頭を捻りつつ考えを進める。
彼個人だけならさして怖くないが、ここでイルベール教団と元々関係のあった貴族が出てくるなら、ヴィレイの考えそうな事に幾つか予想が立ってくる。
秘密や疑惑というのは他人から指摘を受けるのと、自分から明かしてしまうのでは印象に大きな差が出る。先回りしつつ、自爆しないよう注意する必要もあるだろう。
とはいえ人選の荒さが目に付くというのは、意外と余裕の無い証拠か、それとも伏兵故なのか。
多少、口論のレベルが落ちているような気もするが、気を引き締めていこう。
「それで、君は何をしにきた。今まさにデュッセンドルフでの混乱にはイルベール教団が絡んでいるという話をしていた所だが……町を占拠した上で使者を送ってきたという所かな?」
俺の言葉を受けて明らかに周囲の人々が殺気立つ。
まだ混乱している様子はあるが、信用度で言えばこちらに分があると見ていいんだろうか。
ところでクレア、君まで殺気立ってどうする。抑えなさい。
注目が男に集まっている隙に頭をポンとやって、同時にやりすぎるなとも思う。
借りのある相手とはいえ、貴族だ。
万が一でも平民が手を出せば極刑は免れない。
群集を味方につけるのはいいが、暴走させては無用な死人を生むだけだ。
勝ち過ぎて気が昂ぶれば投石の一つくらいは出るかもしれない。俺にとっても敵対者だが、彼らが貴族相手の攻撃に慣れるようなことがあれば別の不幸に繋がってしまう。しかしそんな微調整が俺に出来るだろうか。この手のことは昔から誰かに任せてきた気がする。前はビジット、今は陛下、内輪でもジンや先輩がさりげなく周りを見てくれているように思う。
気は回っても力加減が苦手。こういうのは力任せにぶっ叩く『槍』の本質なのかもな、後天的なものだとは思うけど。
「まさしく……私は聖女の使徒であるのだよ」
時間は掛かったが、男はようやく返答を寄越した。
「事もあろうに偉大なる我らが信仰の主を脅かさんとする愚か者に鉄槌を下せと御下命があった。あぁ、私はただの伝言役だ。しかし聖女の威光を貶め、あろうことか皆殺しにしろとお告げのあったフーリア人と結ぼうとする貴様らだ、言い訳など出来よう筈もない!」
想定していた話の順序を入れ替える。
今、彼の言葉の中で最も注目される内容へ、まず切り込まなければならないだろう。
「フーリア人を殺せ、とそんな言葉があったと喧伝しているのはイルベール教団だったな。方々へ悪影響を及ぼしたことも含めて、教会から異端の烙印を押された今となっては信憑性に乏しい」
彼らからの言葉は基本的に異端の一言で片が付きそうだ。宗教戦争から異端審問なんて悪の所業という印象もあるが、実際に国が乱れ、俺の言った教団の残党が町を襲ったという話にある程度の信用が置かれる限り、あちら側へ賛同する者は少ないだろう。
「事実なのだ!! 我らは聖女の名の下にあの虫けら共を始末しているだけ――」
「穢れた殺意の理由を一人の少女に押し付けるな……ッ」
「っ、ひ、ぐ……ぁ!?」
過去存在した偉大なる者の足跡を理由に殺し殺されを繰り返すなど最大級の背信だろう。
自らを律せよ、そう願いを籠めて、少しでも何かを良くしようと尽力した生涯が殺戮の理由に使われるなんて、吐き気を催すほどの自己満足だ。
男のみならず、周囲まで僅かに身を引く中、そっと隣から手を触れられた。
ほんの少しだけ力を籠めて、小指と薬指だけに指が絡む。
するりと抜け落ちた頃には気持ちも落ち着いていた。
感情的になるな。
ワイズと学園で話をした時もそうだったが、どうにも意図する以上に相手を威圧してしまうらしい。
魔術の影響が漏れ出ているのか、現状では研究不足な状況だが。
しかし本当に役者不足だ。
情報はまだまだ持っていそうだが、出し切る前に当人が卒倒しかけているぞ。
まあ場が白けてくれれば解散へ導き易い。
あるいはここに注目を集めることが目的、陽動の可能性を考え始めた辺りで進み出る影があった。
「はは……随分と懐かしい話ですね。あの頃を思い出しますよ、ハイリア=ロード=ウィンダーベル」
俺よりも遥かに早く、群集から、あるいは貴族側の警備から、近衛と思しき者たちが飛び出てきて俺の周囲を固め、同時に斬りかかる勢いでその長身の男を囲い込んだ。
「止めろ!!」
咄嗟に叫んでいた。
これだけの人の中で戦いを始めればどんな混乱を及ぼすか分からない。彼らも分かっていて、決定的な行動を控えているけれど、凄まじく殺気立った様子に思わず声が出てしまう。ただ、俺の声を理由に、数名が下がり、それとなく群集を守るように配置を変えた。
コレが本命か? ヴィレイ=クレアライン。
護衛に付いた一人が小声で情報をくれる。
「撤退前に『剣』の術者と交戦する姿が確認されていたが、途中で見失っていた」
「彼が『剣』の術者ではないのか」
道中、リリーナを介して情報交換はしたが、何分陛下たちは騒動の真っ最中だ。根掘り葉掘り全てを詳細にとは行かなかった。その為に同行していた者を陛下の側へ向かわせたが、流石にこの手の機微への対処は頭が下がる。
しかし、と役者が変わったのであれば、対処が必要だ。
この幽鬼のように立つ男と、また向かい合うことになるとは思わなかったが。
「……虐殺神父」
群集から声が漏れる。
知っている者が居たらしい。
そういえばデュッセンドルフには幾つかの新聞社が出来たというから、情報通の者は意外と多いのかもしれない。
なら中途半端な誤魔化しは命取りだ。
「ジャック=ブラッディ=ピエール」
「ハイリア=ロード=ウィンダーベル」
一瞬、あの雪の丘での光景を目に浮かべたが、神父の両腕は既に無く、肩が……以前より落ちているように思えた。
揺れる篝火の灯りに照らされた顔つきには不思議と老いを感じる。元々老人だが、色恋だのを愉しむ所もあったから、ずっと精気に満ちた、覇気のある男と思っていたが。
足元、切れ落ち掛かった裾に金属製らしき光沢が覗いていた。
自然と息が落ちる。
「……俺の首を取りに来た訳では無いようだが、今更お前が何を望む。それともやはり、死ぬまで決着は付かないと言い張るつもりか」
虐殺神父は肩を竦めた。
息を吸う時、少しだけ以前の顔を見た気がする。
「あの決闘は貴方の勝利です。それに関してどうこう言うつもりはありませんよ」
「ならば下がっていろ。お前にはもう歴史の表舞台に出る資格など無い」
「嫌われたものですね。余程あの赤毛の少年を殺されたことが堪えますか」
篝火が消えた。
一つ、二つ、それだけだ。
誰かが慌てて声をあげるが、新しく灯りが持ち込まれる頃には平静を取り戻している。
「エリック=ジェイフリーこそがお前を討ち取った。その右腕も、左腕も、全て彼の功労によって果たされた成果だ」
「今となっては否定するのも虚しいものですが、確かに今の貴方の名声は彼の血肉を生贄に捧げた結果でしょうね」
「お前の殺戮と彼の献身を混同するな」
「混同ではなく、同一なのですよ。根となる感情で飾りつけた所で贄は贄」
一瞬でも険悪にならずに済むと思ったのが間違いだった。
一度ならず二度三度と命のやりとりをした相手。戦った相手へ敬意を抱くなんて恰好の良いことは長続きしないもので、面と向かっているだけで苛立ちが増してくる。それがプレッシャー故だというのが分かりつつ、黙り込むのが精一杯だった。
すると神父までもが口を閉じ、じっとこちらを見据えてくる。
何かを思案するようでいて、単純に観察しているだけのようにも思えた。
あれだけ倒す為に試行錯誤した成果か、不思議と考えていることが見えてくるものだ。
「ヴィレイ=クレアラインが死んだらしいな」
「はい。私が看取りました」
そしてセイラムの眷属へと成り果てて再び立ち塞がってきた、か。
この男は時折ヴィレイの監視も行っていた筈だ。あまり仲の良さそうな所は見なかったが、神父なりに思うところはあるのかもしれない。
なら敢えて敵対するより、奴の方へ誘導した方がいいのか? アレの味方をすると言うのならこの出現は悪手だ。身を潜めたまま俺たちの急所を、陛下の身を狙えばいい。あくまでポーズとして、身構えを解こうとした。俺が戦う姿勢に無くとも近衛兵団が居る。が、対話の姿勢を見せることは有用だろう。
「しかし……それとは別に私は貴方へ問い掛けたい」
ヴィレイが獄死。奴もまたセイラムに付き従った使徒の血を受け継いでいる。彼女との縁という点では十分干渉に足るだろう。本人にどれだけの確信があったのかは不明だが、予め聖女相手にここでの召喚を条件に命を捧げる……一個人の呼びかけならともかく、強い縁の持ち主であれば不可能ではない、のかも知れない。少なくともセイラムは過去に無いほど今の時代に身を乗り出しつつあり、なのにティアの力によって抑え付けられて出所を探している。
俺自身、一度は振り払えたものの強い干渉を受けることもあるのだから。
あぁ、それはいい。
現実としてヴィレイの姿が確認されているのなら、始末をつけるだけだ。
問題は死の間際にどれだけ自棄になって神父相手に話をしたか。
普通なら信じがたい内容であれ、死を賭しての訴えであったなら信じる可能性もあるが。
「自らを律せよ。かつて貴方はそう言った。聖女の想いを代弁し、汲むよう促した貴方が、今は彼女を討とうとしている。それは一体、どういうことなのでしょうか」
極薄の刃を差し込んでくるように、そっと神父は告げる。
「もし敵対するつもりが無いのなら、デュッセンドルフを奪還した後、貴方は彼女の祝福を受けるというのですね? 抗うことなく、全てを投げ打って。そうでないなら、結局は嘘で塗り固めた言葉だと自ら露呈するだけです。別段イルベール教団に追従しろとは言いません。貴方の信心を問うているだけですから」
周到に、沁み込ませるようにして退路を奪ってくる。
いずれセイラムとの衝突は避けられない。ここでそのつもりが無いと発言するだけで、後々での不審や、士気に影響を与えてしまう。
だからまず、
「それはホルノスへの問いかけか。それとも俺か」
お前の興味はこちらだろう?
誘うように言えば、影の中で神父は笑った。
カタカタと、まるで糸で吊るされて動いているようだ。
「では貴方に問い掛けましょう。貴方は本当は、民を騙してセイラムの打倒を考えている。聖女の導き無き世界へと、すべての者から彼女の愛を、慈悲を、奪い去ろうとしているのではありませんか?」
「俺の答えは否だ」
「ほう」
目の奥を覗き込むように、少しだけ神父の鼻先が下を向く。
「しかし、俺はセイラムに依存する今の在り方を良しとしない。殺戮の理由に、あるいは差別、非道の理由にその名は穢されてきた。俺たちは彼女の揺りかごに居る――鉄甲杯を目にした者なら分かる筈だ。魔術が、どれほど人を戦いから守ってきたか」
最後の言葉は周囲への呼びかけだ。
一般的には初めて目撃されたフーリア人らの強さ、戦い方の一端を目にし、今まで当たり前としていた自分たちの戦いとどう違うのか。
新聞では熱心に研究をし、実に分かり易く違いを書いていた者も居た。
人を斬り付けて尚も傷を埋め合わせ、戦いが泥沼化するような潜伏を困難にし自然と真っ向からの衝突へと誘導し、未熟な者でも生き残る力が与えられる。
しかし魔術を使わないフーリア人らの攻撃は確実に命を刈り取りにくるものだった。
相手を殺さず、制圧するには凄まじい実力が必要だ。自分の身を守りながら相手を守る、それだけの力を身に付けるのにどれほどの鍛錬を積んだのか。そして誰かの手によって鍛えられた武器に、己の命を託すという考え。人殺しの道具である事に変わりは無い。だが魔術によって手にする無味無臭の武器よりも遥かに、何かの願いが籠められることもあるんじゃないかと俺は思う。
「俺たちはいい加減、揺りかごから出て、自らの足で立つべきだ。母の慈悲に縋って揺られ続けるのではなく、俺はここまで出来るぞと示し、その手を離れて自立していく。本来それは誰もが越えて行くべきものだ」
俺の答えに神父はそっと目を閉じ、空を仰いだ。
陽の落ちきった星空を前に、何故か初めて対峙した時の、夜明けの空を思い浮かべた。
思えばあの時、俺の言葉に神父が切りかかってきた事で話が途切れていたように思う。当時では出せなかった回答だろうが、ようやく話すべきことを終えた、そんな気がする。
「それが貴方の信仰ですか」
「信仰……そうかも知れない」
再びこちらを見た目を、俺はすぐに目を伏せて見ないようにした。
そんな目を見せるな。
どこまで行っても俺とお前は敵対者だ。
お互いが仇同士と言っても差し支えない。
「坊っちゃんには、何一つ信仰が無かった」
終わった筈の男が何故再び現れたのかが分かって、俺は苛立ちを感じながら息を落とした。
不愉快だ。
「俺にとっては奴を放置していたお前も同罪だ。事の結果の何一つ、お前たちを肯定するものが無い」
心底殺してやりたいと思ったさ。
だが俺は無法者ではない。法の側に立った以上は、法によって裁かれるべきだと判断し、異端審問官へ引き渡した。幸いにも父上オラントが手を回したことでクレアライン家は潰され、教会内部での組織改革が望める状況だったことで、正しく機能することも考えられたからだ。
しかしヴィレイは死に、再び現れ、神父は脱走か、あるいは解放された。
「そして神父、お前はホルノスにとって大罪人だ。目的がどのようなものであれ、現れたのなら拘束させて貰う。今度はホルノスの法によってお前を裁く」
「おや、ここで私とやるおつもりですか? お優しいハイリア様には無理でしょう? なにせどれだけ死者が出るか分からないのですから」
「だろうな…………ならばさっさと失せろ。次に見たら容赦はしない」
言えば含み笑いを溢しつつ神父が頷いた。
重心が揺れ、身を返すかと思ったが、その前に別の声があがった。
「そっ、その男はフーリア人だ!!」
先の男爵だ。
最早誰も興味を示していなかったが、神父の登場に最大の盾を得たと勘違いした為か、俺を指差し、妙に興奮した様子でまくし立てる。
「いいか! ウィンダーベル家本来の長男はずっと昔に事故死している!! それに成り代わり、我々を内側から乗っ取ろうとしている!! この国はその男によってフーリア人に差し出されようとしているんだ!! フィラントなどというフーリア人の国を認めっ、受け入れっ、奴隷制度の廃止などという国の根幹を覆すようなことを推し進めているのはそいつだ!!」
いいか、そう叫ぶ男を近衛の一人が叩き潰そうとしたのを止めた。
群集の中に僅か、賛同する声があった。
「奴隷たちに賃金を与え、家を与え、友人のように接しろなどと!! これはお前たち全員に関係のある話だぞ!! 明日食べるパンが二倍三倍の値段になっていてもおかしくはない!! しかも我々は奴隷如きの為に家を追われるかも知れん!! ホルノスには何一つ利益のないことを何故推し進めるか!? それはフーリア人の血を引くその男が、ホルノスを奴らへ差し出す為だ!!」
群集には識者も混じっている。
そしてこの男のようにヴィレイが手を回しただろう者も確実に居るだろう。
無理矢理抑え込めば圧政と罵られ、しかしこのまま言われるままでもある事ない事吹聴されるだけだ。
まずは、と睨みを利かせようとした所を、先んじて神父が男を蹴り付けて膝を折らせた。
「その程度になさい。下手に続けると折角の情報源を失うことになります」
援護かと思った俺が馬鹿だった。神父はあくまでヴィレイへ繋がる情報源として男を見ている。続ければ殺気立ったままの近衛にしれっと始末される可能性がある。流石に神父とて両腕無しに近衛相手で役立たずを守りながら生還は出来ない、という所だろうか。
「あぁ……まあソレは好きにしてくれて構わんが」
「っ、ひい!?」
言うと何故か縋るような目を向けられた。
確かに今の神父の声は底冷えするようなものだったが、まだまだ加減されているだろうに。
第一俺を貶めようとしておいて俺に助けを求めるな。
所詮は騎士候へ男爵が食って掛かっただけの話、この状況で貴族向けの裁判なんてやっている暇は無いし、正直ヴィレイとのホットラインなんてどうでもいい。邪魔だから連れて行ってくれた方が助かるくらいだ。
「しかし」
と、いっそ愉しむようにしてピエール神父が言い置いた。
「先だってフーリア人女性との浮名を流したとの噂もありましたし、どうなのですか、ハイリア様」
判断の時間は長く無かった。
否定すればメルトへの裏切り、ただこの身に彼女らと同じ血が流れているのも事実。
どちらを選べばより良い展開へ持っていけるか、思案しなければならない。
「それが何か意味のあることなのか?」
すると、すぐ隣から何の気無しの声が飛んだ。クレアだ。
神父は最初、彼女からの言葉を意外そうに見たが、すぐに諭すような口調で言う。
「もし彼がフーリア人の血を引いていて、同族を憐れむ余りに本来守るべき母国を蔑ろにしているとなれば、民の気持ちは穏やかではありません」
「ホルノスを貴様らイルベール教団の手から開放し、陛下を玉座へと導き、今や国際連合という世の結束に尽力している。ハイリアの貢献は間違い無くホルノスに利するものだろう」
「そう見せかけて、裏でなどという話は歴史に幾つも例がありますよ、ウィンホールドのお嬢さん。どちらでも筋は通るのです。ハイリア様が否定なさるのであれば仕方ありませんが、実際にフーリア人の女性とは愛し合ったのでしょう? おそらくは彼女でしょうが、あの浅黒い肌を堪能したということですね?」
聞き方が艶かしい止めろまだそこまではしていない。
どこから話を纏め、否定したものかと思案しているとなぜか手を取られて引っ張られた。
「クレア、何を――」
「安心しろ、ハイリアは私の婚約者だ」
「待て一体どうしてそうなったっ」
「おやおやおや、やはりどうして好色家な。しかしそうなるとフーリア人女性との関係は? 大勢の前で口付けまでしたとの話もありますが」
なぜお前は一々そんなゴシップに詳しいんだよ。
「彼女とは私も面識がある。ふむ、確かにどちらが第一婦人になるかという点では今後の衝突は免れんだろうが、ハイリアがフーリア人ばかりを贔屓しているという認識は改めるべきだ。第一、キスなら私の方が先だからな」
《――――》
なんか今一瞬だけ念話が飛んできた気がするが気のせいだ。
そもそも何故こんな話になっている。好いた惚れたがそんなに重要か。今は国の大事とか今後の方針とか町の奪還だとか暴動を鎮めるとか…………なんで周りのお前らまで興味津々なんだよ。暴動起こしに来たんならそれらしく野次の一つも飛ばしていろ。
「あれは内乱の末期、両脚を失った私を励まし、奮い立たせてくれたハイリアは強引に私を抑え付けて……私も淑女として恥らって、いけないと拒否しようとはしたんだが、もう彼に心の底から惚れ込んでいたからな、そっと目を閉じて受け入れたさ」
奪ってきたのはお前の方だ。
止めろそっちのメモ帳持った男絶対記事にするつもりだろうメモを取るな。
なんか勝手に捏造交じりの思い出話が繰り広げられていくが、現状否定するとフーリア人贔屓の左翼扱いに話を持っていかれそうだからそっとしておくべきなんだろうか。でも放置しておくとどんどん外堀が埋まっていきそうだった。大阪城が陥落したのって夏の陣だったか冬の陣だったか。ちなみに季節はじきに夏である。
日和見で外堀を埋め立てさせることを認めれば、いずれ城は落ちるもの。
口実を与えた時点で詰みだった歴史的事実は否定できないが、突っぱねることで変わった流れもあるだろう。
俺は長広舌を振るうクレアの頭に手をやり、少し指に力を入れた。
「痛タタタタタっ!? いきなり何をする!? 撫でられると思って期待したら痛くて驚いたぞ!?」
「あまりある事ない事吹聴するのは止めなさい」
「ほら見ろっ、この生真面目な堅物男が頭ぐりぐりなどそうそうすることではないぞ!! 痛っ、いや本当に痛いっ!? っっ、どうだ私は遠慮無く痛みを与えられるくらいの関係だっ、つまりいずれは私の初め――」
「さすがに淑女としてそれ以上言うのは止めておくんだな、後で死にたくなるのは自分だぞ」
むぅ、と言葉を詰めるクレアにようやく安堵する。
協力してくれたのは分かるが暴走し過ぎだ。
しかし神父が更に引っ掻き回してくる。
「それで、どちらを第一婦人にと考えてらっしゃるのですか?」
「この件に関してはノーコメントだ! 黙秘する! クレア、意思表明はしなくていい」
「ふっ」
とにかく状況が落ち着いてきたのならさっさと解散させるべきだ。
思っていたような変化ではなかったが、当初あった怒りは有耶無耶になり、今では遠巻きに不安を見せているように思う。俺の周囲に強面の近衛たちが陣取っていることもあってか、落ち着いた今では怖れの方がずっと強いだろう。
改めて、俺は最初に話していた貧民街の男へ目をやった。
自警団を纏めていたのだから、それなりに力もあり名も通っているのだろう。
肩を竦めて参ったという風を見せているが、当初の目的は忘れていないようだ。
「少々話が脱線し過ぎたようだな」
「……中々に大変なご様子で」
痛み入る。
「原因については説明した通りだが、異なる意見が出ている事実もある。俺も戻ったばかりですべては把握していない。だが、ホルノスの王がここに留まっている事実をまず分かってほしい。王は、貴方たちと、貴方たちの町を見捨ててはいない」
「また、あそこで暮らせますかい」
「俺の家もあるからな。帰れなければ少々困る」
「そういえばそうでしたね」
伝えるべきことは概ね伝えた。
喉元で引っかかっている事はあるが、詮索されないのであれば黙っているべきかとも思う。
そこで、金音が鳴り響いた。
物々しいと言えなくも無い音に周囲が怯え、警戒を見せるが、揉めていた貴族たちがいつの間にか取り除かれ、斜面の途中には一人の女の子が立っていた。
白い髪に、浅黒い肌、フロンターク人のフロエが、フライパンとオタマを手に立っている。
「簡単なものだけど食事の用意が出来たから、食べたい人はちゃんと並んでこっちに来なさい。おなか空いてるでしょ?」
見れば、いつの間にか煮炊きの煙が上がっていた。
これだけの人数相手に言うのだから、陛下の采配だろう。
けれどあたり前の顔でそこに混ざる彼女の姿に、つい額に手をやって顔を覆った。
「一番厄介なのはあの女だな……」
呟くクレアは一先ず放っておいた。
少し登った所から、ちらりと彼女の視線が来る。顔を隠しておいて良かった。
「ほらそこっ、はみ出さない横入りしない身分なんか振り翳さないっ、フーリア人が気になるなら草でも食べなさい。お腹空いてるのは皆同じなんだからさ」
※ ※ ※
しばらく一人でその様子を眺めていた。
クレアは近衛に頼んで陛下の元へ送った。俺も後で行かなければならないだろうが、今はこの光景を見ていたいと、そう思った。
一先ず、まだ彼女が話していたセイラムを自分に降ろすという手段を実行していないのが分かってほっとした。
もし本気でその行動を止めたいのなら、今から有無を言わせず拘束すればいい。
だが何も出来ず、攻撃の止んだ夜空と共にその姿を見る。
忙しそうだ。
集まっていた群衆はそのまま炊き出しを貰う長蛇の列に変わり、シチューを貰った人々には一様に笑顔がある。何はともあれ腹ごしらえか。俺は理屈を捏ねるばかりで、そんな簡単なことにも気が付いていなかった。
そうして彼女を見ていて、俺は、フロエにとっての幸福がどういうものであるか、具体的に考えたことがないのだと知った。
まずジークに丸投げするつもりだった時点で駄目だろう。奴なら大丈夫だ、そういう信頼があったのは確かだが、あのカウボーイが完全無欠のヒーローじゃないなんてこと、ずっと前から分かってた筈なのに。
いや、ただ……託すのならジーク=ノートンであって欲しいと、思っていたからなのか。
フロエは自分で考え、自分で道を探し始めた。
ジークが言ったように、こうなる前のハイリア=ロード=ウィンダーベルと出会った彼女ではなく、俺と出会った彼女が、今あそこで頑張っているのだと。
思い描いた脚本通りに進まずとも、物語は巡っていく。
息づいた人が居る限り、終わらない。
「お話少し、よろしいですか、ハイリア様」
帽子を目深に被り、そいつは寄ってきた。
手にはメモとペン。鉄甲杯ですっかり見慣れた記者のスタイルだ。ご丁寧に腕章まで付けているのは凝り性だからか。
「さっき断った内容で無ければな」
クレアとの一件を掘り返されても面倒だ。
今後がどうなるにせよ、俺が求めたのはメルト。
公的な場での彼女の立場を確保する上でも誤解は解いていかなければならないが、少し時間は置くべきだろう。
まあ、彼女に言っても仕方ないんだろうが。
「貴方は何故、行動を起こしたのですか」
謙った様子で顔を伏せているが、目がしっかりこちらを覗いている。
何故、か。
行動とは曖昧だが、今頭に浮かぶのは最初も最初、今の俺が初めて持った動機だった。
少し癪だが素直に答えた。
「助けたかった」
「それは何故」
問われ、言葉にしようとすると、それらしい正論ばかり飛び出す気がして口を噤んだ。
なのに相手は質問を重ねようとはせずじっと待つ。
だから言葉を探した。
眺めていた景色の中に彼女は居る。
分かりきっている不幸があって、それをしている奴もその行為そのものも嫌いで、空想の世界と考え切り捨てることは出来たのに……安易に駄作と罵倒する様に腹が立ったのもきっとあるだろう。彼女を好きだと想う気持ちも、実感を得るまでは偶像への感情と変わりがない。だから、きっと人を想う感情とは少し違っていて、示された結末に自分の手でIFを描くようなもの。
「シンシア=オーケンシエル」
「なんだ、気付いていたのか」
歩き方を見ればその人物の生業が見えてくると、昔父上に教わったからな。
君は作家であって役者じゃない。流石に記者へ成り切るのは無理がある。どこぞに紛れていたのならともかく、ファンである俺は似顔絵くらい見たことがあるんだからな。
「君は何故作家になった。物語を作ろうと思った」
問えば小さく笑う声がして、彼女は口を噤んだ。
目が、続く言葉を待っている。
「俺は彼女が救われる物語を、自分の手で作りたかったんだろうな」
だから描いた。
結末の記された物語を崩して、思うまま。
それだって一つの幸福であっただろうに。
「この世の全ての作家は初め、上手く行った物語を書こうとしただろう」
シンシアは帽子を取り、肩を竦めて俺の隣に立ち、少しだけズレた景色を見る。
「そしていずれ、上手く行かない理由を探し始めるようになるだろう」
「思索は熟練するほどに難解を極める、といったところか」
笑みが濃くなった。
「やがて道筋を定め、道程を行く為の術を考え始める。道の先へ辿り着ける作家も居れば、辿り着けない作家も居る。どちらも、それなりに読み応えが出てくるものだがね」
一作目の幸福な結末から一転し、二作目で歴史に残るとまで言われた悲劇を描いた彼女は、今何所に立っているんだろうか。
辿り着けた結果がああなのか、辿り着けず、未だに道を彷徨っているのか。
無粋と思いつつ、問い掛けた。
「君はどうなんだ」
「着いた場所とて途上だ、終わりなんてあるものか」
なるほど。
「それでもな、ここだと思うことがある。振り返ってみればあまりにも稚拙で、駄作としか言えなくなるようなものでも、書き上がった瞬間に身を焼かれるような確信を得る」
「それが送りつけていた物語か」
「素晴らしき駄作だっただろう?」
悲劇を描く劇作家が、幸福を描いた。
現実と絡めて読まなければ、アレは確かに良い結末だった。
少なくとも彼女は、アレを描いたんだ。
「だから懸けてみることにした。出来の程は悩ましいが、纏わり付いた悲劇を振り払えるだけの熱があの日の君にはあったんだ」
「不甲斐無い英雄ですまないな」
「お互い様だ。こっちはこっちで打ちのめされた、幼女にだぞ?」
なるほど、陛下にか。
笑いそうになるけれど、こっちだって似たようなものだった。
「で、どうするんだ」
視線の先にはフロエが居る。
具体性なんて何所にも無く、過去を振り返った所で結果が変わる訳でも無い。
それでも今、純粋に思うことは相変わらずだ。
「幸せになって欲しい。あぁ、最初はどうすればいいかも分かっていなかった癖に、そう思ったんだったな」
なら始まりと変わらない。
探していこう。
その為にはまず、話すべき人が居る。
俺が踵を返すとシンシアは帽子を被り直し、一度は俯けた視線を無理矢理空へ向けた。
「やっぱり会うべきじゃなかった。相手を知り過ぎると筆が鈍る。だから遠くから観察し続けていたっていうのに、彼女が煩いんだ」
「純粋に物語を愉しむのなら、作家の素性なんて知らないままの方がいいとよく言われるからな」
だからきっと、この邂逅は一度きりだ。
歩を進め、行くべき場所へ行こう。
そう思っていたのに。
「そんな縛りは知らないね。駄目になろうと話を聞きたくなったら私はまた来る。ハイリア、君は自分で思っているよりずっと意地っ張りで、気難しい跳ねっ返りだ。だから幸福を思い描きながら悲劇に辿り着くのさ。素直さこそが、幸福の近道なんだよ」
なのに君も俺も、曲がりくねった道を行くんだろう。
「それでさっき話に上がっていたけど、混血だって話は本当なのかい」
「あぁ、俺の母はフーリア人だ。やはり君もか」
「こちらは父がな。……なるほど、同属だった訳か」
そうして俺は、彼女の元へ向かった。
 




