172
熱が冷めるまでの時間を、二人して顔を合わせることも出来ず壁を見詰めていた。
息を整えるのにここまで苦労したのは初めてかもしれない。額を付けた壁が冷たい。もっとへばりつこうか、なんて酔っ払いにも似た思考を奔らせるが、メルトが横たわっていて、同じく壁に沈み込まんばかりの勢いで悶絶するクレアを背に感じながらでは流石に出来ない。
何故、やった当人でもないのにここまで恥ずかしくなるのか。
駄目だ、居た堪れない、叫びながら部屋を飛び出ししばらくランニングでもしていたい。
だがこの状況で彼女を放置する残酷さを思えば留まるしかないのがまた一層辛かった。
酔っ払いなどと思っていたが、最早比喩ではないのかもしれない。
まさしく酔っている。
深酒し過ぎた翌日にも似た辛さがここにはあった。
どこから踏ん切りをつけなければいけない。
彼女からは難しいだろう。
なにせ事の中心人物だ。
こちらから何事も無かったように切り出し、会話を繋げていけば平常心を取り戻せるはず。
要は素振りと同じだな。
普段通りの、慣れた会話を繰り返すことで心身を整える。
何か間違っている気もするが多分なんとかなる筈だ。
よし。
大きく息を吸って、
「クレ――」
「き、来ちゃった!!」
なぜ繰り返した。
再度の自爆で場は騒然となった。
※ ※ ※
クレア=ウィンホールド
落ち着け冷静になって現在の状況を確認しろ。
壁冷たい。
よし。
壁を冷たく感じるということは、触れている私自身が熱くなっているということだ。
だからどうしたと思うが事実確認は重要だ。多分。
第一不公平じゃないか。両脚で立っているハイリアは私に背を向けた状態で壁に顔を付けられるが、車椅子の私が同じようにしようと思えば身を乗り出すしかない。まだ満足に歩けない私では無理のある体勢で、結果的に車椅子を壁際へ横向きに寄せて頬を付いている訳だが、これでは中途半端にハイリアの姿が見えてしまう。後ろから見ればあの普段落ち着いている彼が耳まで赤く染めているのが分かってしまう。
人は恋をすると恋愛小説を嗜むのだと最近知った。
気が付けば自ら筆を取っていたがアレは封書して厳重に封印しているから問題は無い。
かくしてクリスの蔵書から得た知識によって攻勢を仕掛けることには成功したものの、頭の中で想像していた程容易い話ではなく、自らも傷を負うという結果になってしまったのはいただけない。
恋の刃というのは諸刃であったと、そういうことだ。
何を言っているかは自分でも分からないが何かが納得できればそれでいい。何かとは何だ。
しかしいつまでもこうして居ては話が進まない。
恋は戦、勝負に傷は付き物だ。
問題なのは彼我の差異を知ることだろう。
リース=アトラとの勝負を思い出すまでもなく、多少の傷を受けようとも相手を倒してしまえば勝負は勝ちだ。
肉を切らせて骨を断つ。多少恥ずかしくても相手が落ちればそれでいい。
そう、勝てば恋とは勝利なのだ。何を言っているんだ私は。
ハイリアは今、敵に背を向けている。
あまりにも不利な体勢だ。
不意を打たれるばかりか、得意の防御も儘ならないのではなかろうか。
初戟で相手は無防備となり、更なる追撃が可能。
ならば次の一手を。
想い、どれを選ぼうかと思案し始めた時、ハイリアが振り返る素振りを見せた。
いかん、このままでは折角の初戟で得た有利を失うことになる。
惚れた弱みという言葉の通り、情勢は常にこちらへ不利となっている。
畳み掛けるべきは今。
もう訳が分からないのでそのまま言った。
「クレ――」
「き、来ちゃった!!」
改心の一戟は、痛恨の一戟でもある。
至言だな。
いや、その……。
※ ※ ※
「――つまり陛下に任せられた仕事も終わったので、人目を盗んで抜け出して単身ここまでやってきたと」
ハイリアが頬を染めたまま表情だけは普段通り淡々と私の説明を纏めた。
「ちゃんと書置きはしてきたから大丈夫だ」
私も似たような状態だったが言葉の上では大丈夫。
すこし、怒った様な声が出てしまうのはどうしようもない。
「街中に謎の敵がうろついているというのに、車椅子で山道まで……無茶にほ程があるだろう。第一、どうやってここまで登ってきたんだ」
「それは……大回りをすれば馬車が通る道があるからな、整備もされていないから苦労はしたがなんとかなったぞっ」
「つまり相当な無茶をしたんだな」
「逢いたかったんだ」
「っ――とにかく事実として前ほどに無茶は出来ないんだ、頼むから少しは弁えてくれ」
「私に再び地を駆ける脚をくれたお前にだけは言われたくない。お淑やかな方が好みならそう振舞うのもやぶさかではないが」
「君らしく在るのであればどちらでもいい。ただ、無謀な危険を犯すのだけは勘弁してくれ。せめて人を付けることは出来ただろう」
どこも忙しそうにしている中、当初の分担を終わらせたからというだけで飛び出してきたんだ、これ以上迷惑は掛けられない。
我侭で自分勝手なのは自覚しているが、本当に逢いたかったんだ。そこだけは流さないで貰いたい。
「これでもジーク=ノートンとの戦いを見に来るのは避けて仕事をしていたんだ。先に我慢したんだから、ちょっとくらいいいだろう」
つい拗ねるように言ってしまったが、本当は私だってその場に居たかった。
ヨハンとの試合中に感じた彼の苦しみを癒すのが、自分であればとどれほど願ったことだろう。
我慢に我慢を重ねて、ようやく自分の仕事を終えて皆が離れていった後ならとやってきたのに。
なのに彼は首を振った。
「しかし……街中に奴隷狩りの化け物が現れ、四柱があちこちで出現の気配を見せた、か」
ハイリアが私の逢いたいを無視して思考に没頭し始める。
こちらを見て欲しいなと思う一方で、そんな姿を良いなと思うんだから、私は相当に馬鹿なのだろう。
「ティア=ヴィクトールから報告は無いのか」
ぷい。
「クレア、大事なことだ」
「……聞いていない。あったとしても、王都からでは日も掛かる」
私の気持ちだって大事なことなのにな!!
「セイラムの本体、というよりは力の大部分は間違い無くティアが封じている筈だ。大きく成長した神樹と呼ばれるものは、王都南部へ回り込めば存在が確認できるかもしれない。こちらからでは丘陵地帯が邪魔で隠れてしまうだろうが、人をやって確認した方がいいかもな」
「その辺はもう陛下が対処している。脚の早いのを向かわせたから、日没には分かると聞いたが」
「そうか。それにしても……ラ・ヴォールの焔の回収を後回しにした事で今回の一件が発生したのなら、完全に俺の失態だな。周囲の視線になど構わずこの場を見付けていればもっと早く対処出来たかも知れない」
「どういう意味だ」
陛下の近くに居たからある程度は知っているが、そう考える根拠がイマイチ分からない。
安易な慰めなどしても、この男は頷きつつも内心で自罰する。
「まだ仮設の域を出ないが、セイラムの魔術が使える土地と、使えない土地には条件があるかも知れないんだ。正確には使える人間の条件だが」
フーリア人には私たちのような魔術が使えない。
変わりに彼ら独自の魔術があるとは聞いたが、その理由は判然としなかった。
一応、セイラムの封印を長く続けてきたことで彼女から受けた反発であると考えていたが。
「セイラムが個人個人の所業や感情で魔術を振り分けているのなら、こちらの大陸でも魔術が使えない者が居て当然だ」
「先王ルドルフ陛下は魔術を使えない王と言われていた筈だが」
「彼は……自らの望みを封じていた。希う想いが呼び掛けとなってセイラムに届き、魔術の根源へと接続するのなら、僅かな感情すら御して己を封じ切る超人的な自制心の持ち主なら魔術を使えないことになる」
それは、あまりにも不憫な話だ。
私たちの王がそうならないことを願う。
ハイリアは少しだけ視線をこちらへ向け、続けた。
「セイラムは縁を辿って魔術を伝える」
「縁?」
「関係性とでも言えばいいか。彼女が実在していたのは千年近くも前の話だ。世代を十も遡れば、王都のような大都市でも殆どが血縁者ということになる。百年で三世代から四世代……ざっと千年で三十から四十世代。それらがこの大陸西方へ広く拡散し、その血縁者と関係を持つ者もまた縁と見るなら、この地方で無関係と呼べる者はまず居ない」
「フーリア人はどうする」
「セイラムの血縁者は全てフロンターク人と呼ばれる特殊な一族に集約されていた。彼らは事実上の支配階級と言えなくもないが、干渉は最低限にしつつ、係わる者の殆どが別個の魔術を覚えこまされた巫女か錬鉄の打ち手だ。他の者とて無関係とは言えないが、縁が薄いのは確かだろう。あるいはその魔術が壁となったか、彼ら独自の思考や信仰が阻んだか」
信仰か。
確かに東方の国々にはセイラムの魔術とは異なるものが存在しているという話だったな。
私たちが永くセイラムを信仰してきたように、あちらにはあちらの神や聖女が居るということか。
「フロエ=ノル=アイラはセイラムの魔術を使える。その時点で、フーリア人だから魔術が使えないというのは間違いだ。フロンターク人らの緩やかな君臨が続いてきたのも、密かに魔術を使って反乱分子を潰していた可能性が考えられる。直系の血筋であり、一族内で近親婚を繰り返した彼らとの縁はさぞ強かったことだろう」
「縁が強ければ魔術が強い、ということか?」
「管が太いだけで、余分に力を流し込まれるかは分からないな。上位能力への覚醒手段と同様に、個人の能力によって力は増減することが証明されている。強くなりやすいということはあっても、それだけでは何とも言えないか。だが、そうなると巫女を統括するフロンターク人、周辺部族へ大きな影響力を持った巫女たち、そして魔術すら断ち切る刃を打ち上げる錬鉄の打ち手たちは上手く三権分立を果たしていたんだろうか。オスロの影響力の強さもそれで……いや、これは今は関係ないな」
確かに、話が脇に逸れ過ぎた。
ラ・ヴォールの焔についてだ。
「その要石とやらはセイラムを始めとした従者四人の血が込められている結晶なんだろう? 内乱で男爵が見せびらかしていたのを私も見たが、白と黒の魔術光を放っていた奇妙な石だ」
あれは欠片という話だったが、彼が『旗剣』に目覚めていたのも、三人もの『騎士』を従えていたのも、セイラムへの強い縁に起因するということだろうか。
個人の意思でも覚醒は可能だが、やはり力の根を握るセイラムによっても覚醒は可能。
結局は自分で引き出すか与えられるかで、力そのものには常から繋がっているんだ。
「なるほど、血縁というだけで力の道筋となるなら、セイラムの血そのものであるアレは確かに特大の縁という奴だ。本体が神樹に封印されて居ながらも、ラ・ヴォールの焔とやらを辿って無理矢理に力を通すことは可能だろう」
「あぁ、だから」
「つまりそれをどうにかすればこの混乱は収まる。けれどメルトの身を置いてはいけない。そういうことだな」
※ ※ ※
ハイリア
下らない自己憐憫に目を向けていた自分が馬鹿だった。
確かにその通りだ。
「……上手くいけば、セイラムの力を大きく削ぎ落とせるかもしれない」
「ほう」
縁によって力を辿らせるとして、何故ラ・ヴォールの焔が封印の要石と呼ばれるのか。
それは、かの石が存在するだけで自動的にセイラムの力が流れ込むからだ。
およそ千年分。この大陸西方だけに限定しても術者はどれほどの数になるだろう。
膨大に膨れ上がった術者の統括は既に限界を迎えている。
だからイルベール教団はセイラムを再臨させ、力の基点を遥か過去から今へと移し、新たに聖女の支配を持続させようとしていた。
そんな状態で流れ出る力を抑え込むのは至難だ。
ラ・ヴォールの焔はセイラムという複雑極まりない巨大な水道管に空いた穴そのもの。
欠片を所持しているだけで上位能力に覚醒するのなら、本体はどれほどの力が流れ出してくるだろう。
かつてヒース=ノートンに託され、ジークの手によってラインコット男爵の手に渡った秘宝、それを封印の力によって断ち切り続ければ、自然と聖女の持つ力そのものを目減りさせられる。当人が慌てて引き戻そうとしても、切り離された力は霧散するだけ。
今やセイラムは意図的にラ・ヴォールの焔へ力を注いでいる。
しかも本体は未だ神樹に封じられている。
もし今ラ・ヴォールの焔を正しく封印の要石として用いることが出来れば、既に失われた三つの石が無くとも十分な弱体化が望める可能性もある。
「この会場には祭壇へ通じる秘密通路がある筈だ。そして、セイラム封印の刃も此処に在る」
まるで何かに導かれているようだ。
デュッセンドルフの街中で混乱が起きる中、ただ打ち棄てられた会場に何の役割も無い俺が居る。
自分が特別であるなどと、据わりが悪いことこの上ないが、事実として強力な打開策がこの手にある事実を見よう。
「……あるいは何かの罠か」
「慎重過ぎるぞ」
「君は大胆過ぎる」
性分みたいなものなんだ。
上手く行かないことの方があまりにも多いから、絶対に出来るだけの条件を揃えて行きたくなる。それが成功体験になり、もっともっとと求めてしまう。
「縁と言うなら俺自身も十分に強力な縁だからな。囚われて焔と同じく基点にされては目も当てられない」
慎重論を取るなら一度陛下と合流し、近衛兵団と共にここから突入するのが一番確実だ。
既に敵で満ちていることが分かっている地下坑道を経由することなく侵入できる。
今ここに『機獣』とやらが溢れ出していないことが、道の安全を示しているとも考えられる。
なら、単独で進む方がより早く解決出来るとも言えるんだが。
「私が行ってやろうか?」
「……それは勘弁してくれ」
ポンと車椅子の後部に取り付けられた杖を叩かれて当初とは別の意味で顔を覆いたくなる。
幾らなんでも両脚義足の少女に任せて陛下と合流なんてすれば袋叩きにされかねない。何より心配で側を離れるなんて出来そうに無かった。
「分かった。まずは通路を探す所からだが、向かってみることにする。だがその前にせめて二人の安全を確保したい」
こちらから『機獣』が湧き出していない理由すら不明なんだ、無事封印に成功し、戻ってきたら二人が……なんて展開は御免だ。
「…………それでしたら、私が受け持ちます」
メルトだ。
いつの間にか目を覚まし、身を起こしていた。
※ ※ ※
しまったと思った。
死の間際、あれほど取り乱していた様子を欠片も見せず、凛とした雰囲気で立ち上がったメルトは俺とクレアを交互に見て一礼して見せた。
「失礼致しました。客人の前で何もしない所か、ハイリア様にはとてつもないご迷惑をお掛けしてしまいました」
下げた頭を見詰め、言葉をひねり出そうとした。
「メルト」
呼び掛けに彼女がこちらを向くには少しだけ間があった。
見えなかったが、呼吸を整えようとしたんじゃないのか。
大丈夫か、などと問うても意味がないのは分かっている。
なら、すまない、なのか?
「…………俺は」
「私を前にいちゃつくのは勘弁して欲しいな」
逡巡を吹き飛ばす一言で、クレアは不機嫌そうに、いやどこか子どもっぽさを感じさせる様子でふんと鼻を鳴らす。
「意味深に見詰め合っているからキスでもするのかと思ったぞ」
「そんなことはしない」
「そのようなことは致しません」
「なら居ない所でするつもりか」
「しない」
「致しません」
「息が合っていることで結構だな」
ぷい、と拗ねて顔を背けるクレアに、二人して固まった表情を僅か緩めた。
少しだけ頬が熱い。
メルトもそうだ。
おかげで言おうとした事も言えなくなってしまったが、それが意図的だと分かりつつも勘弁してくれと思ってしまう。
さっきはまともに顔を合わせなかった癖に、今は二人視線を交わしてどうしたものかと訴え合う。
するとクレアが鼻息荒く追撃してきた。
「御熱い事だな!!」
「待てクレア」
何を興奮しているんだ。
「何を待てというのか聞かせてもらおうか!!」
「っ、いや、俺とメルトは……」
その……なんだかこの場で言うのはとても恥ずかしい。
公表を控えたいとか、彼女の前ではなどと思っている訳じゃない。断じてない。
ただあれだ、クレアの押しが強くて言葉が上手く出ないだけだ。
「ほう!」
更なる押しの一言があり、頭を掻く。
品の良い仕草ではないがどうにもならない。
「なんなのだ!?」
言葉を探していると、無風の筈の室内で風が頬を撫でた。
「恋人です」
「メルト!?」
いきなりズイと前に出てきたメルトが自己主張して、クレアが大きく口を開けたまま硬直する。淑女がはしたない、などと言える筈もなし。
メルトは豊かな胸に手を当て、気持ちを落ち着けつつも大切な思い出を語るように続けた。
「既に婚姻の契りを交わし、せ……せ…………っっ!!」
「セ!? セ!? っっをしたのか!?」
違うソレじゃないメルトはキスを接吻と称する古式ゆかしき少女なだけだ!!
「はいっ」
頼むから曖昧なまま肯定しないでくれ。
何故接吻をまともに言えない癖に肯定の言葉は自信たっぷりなんだ。
「や……やはり手の噛み痕はそういうことだったんだな!!」
「っっ!?」
え、と思って手を目の前に翳す。
そういえばメルトが死に際に噛んでいたんだったな。
最初はともかく後は甘噛みで痕が残るほどじゃないが、確かに血が出るほど噛まれたか。
ん、いや噛み痕がなんなのだ?
「クリスの蔵書にもあったが、相手の身体に噛み痕を付ける等の行為は独占欲の証明と同時に甘えたがりの気質と言うがそうかそういうことなんだな!?」
「ちっ、ちがいますっ!! そんな、どく……どくせんっ……っっっ!?」
くり子、お前の隠し持ってた官能小説のせいでおかしなことになってるぞ。
前に部屋を見せて貰った時、妙に慌てて隠した本があったがアレは氷山の一角なんだろう。
女性同士でも意外とその手の物品を貸し借りするのか。
男同士だと、俺は兄弟的な意味合いを考えてしまって嫌だったな。確かに貸し借りをしていた者は居たが。
このインターネットの存在しない情報封鎖社会では紙媒体か口伝しか方法がない。貴族モノの小説では女性が乳母や母などからその手の技術を学ぶという話を聞くが、娼館にも行かない男連中ならある意味で凄まじく無垢であることも多いか。そういえばシンシアの作品には時々濡れ場があったりして、地域によっては公演禁止となりながらも一作目や二作目に負けないくらい根強い人気を誇っているとも聞く。
一度春画を部隊内で見せられたこともあったが、困惑していたら不能だの枯れてるだのと言い掛かりを付けられた事もあったな。
幼稚園児が書いたような女体らしき絵を見せられても現代日本の健全な男子は皆困ると思うんだが。
「ハイリア様はクレア様ともせ……せっ…………っっをしたのですか!?」
「違う私はしてない巻き込むな!?」
俺がしばらく現実逃避を続けていると、なにがどう纏まったのか二人して詰め寄ってきていた。
「私はキスをしただけだっ。キスだ、口付けだ!!」
「やはりせ……っっをしたのですね!」
「してないと言ってるだろう!?」
「誤魔化さないで下さいっ」
俺は何を動揺していたんだろう。
そう、この程度はインターネットで経験済みだ。
何を言っているのか自分でもよく分からないが、自分とこの時代の人々が持つ色事への認識が大きくズレていることを再確認した。
今でこそ大貴族の嫡男、あるいは陛下という幼い少女に侍る一臣下としての立場上は控えているが、かつて日本で暮らしていた時の記憶には友だちと猥談するなど朝飯前だったと、そんな気がする。最近あちらに関しては物忘れが激しいので不確かだが、おそらくそうだろう。
俺は自制心が優れているだけで不能でも無いし枯れてもいない。
第一、日常的に接する異性へ性的な興味を持ち続けるなど常人の所業ではないだろう。
ジンやビジットなどは変人の扱いだから気にしない。俺は健全だ。
ふっ、と笑みを溢し、不毛な勘違いを続ける二人を宥める事にした。
ちょっとえっちな単語などネットでは日常的に目にするものだ。
自分で発言した記憶はないが、多分忘れているだけだろう。
「クレア、メルトはセックスではなく接吻と言っているだけだ。接吻とはキス、口付けのことを差す少し古めかしい言葉だな」
「ハ……ハイリア?」
「せ…………っくすとは何なのですか」
「メルト、それは性交のことを差す。主には女性器に男性器を挿入することと言われるが、同姓でもセックスは行われるから具体的な定義は難しいな。二固体以上の動物が互いの肉体や物品などによって性的興奮を伴いつつ交感する行為だろうか。別段性器に触れる必要もなく、会話や状況などでも成立するようなことも言われるが、俺としては身体的接触を伴わないものを性交と呼ぶのは疑問がある。先述した通り、生物として子孫を残すものと定義してしまうと手淫や口淫などの行為が外れてしまうし――」
唖然として顔を染めていく少女二人を相手に少し講釈をしていると、徐々に反応が分かれてきた。
メルトは顔を伏せて縮こまり、クレアは逆に興味津々といった様子で質問なども飛び出した。
うむ、途中で気付いたがこれでは変態の所業だ、なんとか話を切り上げてしまいたいが意外とクレアの食いつきが強い。
ここで俺が一人で素に戻ってしまえば恥を掻かせてしまうだろう。
頑張れ俺、なんか適当に話を纏めて乗り切ってしまえ。
「さまざまな媒体物が成長してきた背景には常に性的好奇心が在ったとも言われている。煩悩は百八つ、体位だけでも四十八、良く分からんがこれだけ一杯あるんだ問題ない」
「世界は広いな……ハイリア」
「子孫を残す為には避け得ないことであると同時にその歴史は人類史と同じだけの深さがある。つまりはそういうことだ」
どういうことだ。
「なるほど……!!」
言っている俺が一番疑問に思っているのにクレアは天恵を得たとばかりに首肯した。
顔を伏せたままの耳を真っ赤にしているメルトをどうしよう、変なテンション入ってるクレアもそうだが明らかに取る舵を間違えた。
煩悩百八つ、体位四十八と来れば三十六計逃げるに如かずか。
「さて、俺はそろそろ地下通路の入り口を探し出し、デュッセンドルフに起きている変事を収めに行こうと思う。二人は以上の事を踏まえた上で早めに山を降り、陛下に事を伝えて欲しい。こちらへ戻ってこれるかは分からないが、援軍や退路の確保が出来ていると分かるだけでも十分に助かるからな」
慣れ親しんだ町の平和を守る為の旅立ちに少女二人へ猥談を吹っかける。
死亡フラグは完全にへし折れたに違いないので大丈夫だ。
問題は俺の平常心がへし折れていることだがこれ以上この場に居るともっと余計なことをしてしまいかねない。
いろんなことの解決を見ないまま、ずるずると引き摺りながら前へ進む。
尤もらしい事を言ってもこの流れなら全部馬鹿な話に収まるだろうが、俺の悩みや苦しみなんてその程度のものだ。
真剣な顔をして話をすればすべてが解決する訳じゃない。
ならせめて、二人と馬鹿な話をしたという記憶を持って先へ進む方がずっといい。
今更ながらにそんなことを学んだ。
あぁ、今夜は本当に――
※ ※ ※
偉そうに恰好付けて出てきたはいいものの、俺は早々に動きを止めて唸っていた。
忘れた。
具体的に言うとすっかり暗くなった周囲を照らすランタンと、封印に用いる刀を背後の小部屋に置いて来た。
今の流れで即戻りするのはとても恥ずかしい。恰好が付かない。だから無駄に時間を浪費する形でうんうん言っている訳だがそろそろ戻っても平気だろうか。敢えてこのまま周囲を探索して、暗くなったから取りに来た体を取るのもいいが、あからさま過ぎる気もしている。
戻った時には暗くなりかけだったのに、気付けば完全に陽が落ちている。
小部屋から漏れる光だけではまるで足りない。
どこへ行けばいいのやらだ。
思い、周囲へ目をやっていると、足元が光で照らされた。
不意に自分の足場を知る。
ここに立っていると、そんなことを思った。
「ハイリア様」
呼び掛けが耳に心地良い風を運んでくれた。
振り返るとあたたかな光の中にメルトが居て、彼女は軽い足取りでこちらへ寄ってくる。
近付くほどに、まるで見えなかった先が少しづつ見通せるようになっていった。
「メルトか。すまない、妙な話をしたな」
「いえ……」
言った顔にはまだ少し朱が差していたけれど、
「灯りは移して来ましたから、こちらをお持ち下さい」
メルトからランタンを受け取った。
少しだけ触れた指先が、名残惜しそうに指の腹を撫でる。
持ち直せば、今度は彼女の側が強く照らされた。
通用口から少し出た位置ではあったけど、クレアが車椅子を押してそこまで出てきていたのに気付く。
膝の上には刀が乗っている。
「忘れ物だ、慌てん坊め」
投げられた刀を追ってランタンを上へ、そして自然と、夜空が目に入る。
手を掲げた。
受け取るためのそれが、まるで空を掴もうとしているようだった。
「どうした」
「ハイリア様?」
刀を掴み取った後もつい眺めていると、二人が声を掛けてくる。
まだ、明るい部屋を出たばかりで暗さに慣れていない。
だから目に映るのは一際大きな光だ。
メルトに想いを告げて、交わした誓いに嘘はない。
クレアの想いには応えられないと言いつつ、ずっと胸の内にわだかまっている想いがあることを知っている。
不誠実だ。
唾棄すべき悪だと本当に思う。
言い訳を重ねて理由を探しているつもりか。
だけど今、目に見える光は限り無く絞られた。
一人部屋を出て、ふらりと歩き出そうとしていた時よりずっと。
無数にある輝きも今は少しだけ遠くて、この一時だけはと、正直な気持ちを打ち明けた。
「月が綺麗だと、そう思ってな」
力を貰った。
だから、また少し、頑張れる。
行こう。
 




