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ジーク=ノートン
二番隊とかって連中は思っていた以上に優秀だった。
馬鹿正直な戦術をしっかりこなし、突出はしないが予想通りの結果を出す。
かと思えばプレインと呼ばれていた男を筆頭に無茶をする一団があって、そいつらが上手い具合に状況を掻き乱し、整えもした。
――――何度も、やり直しはしたんだが。
「君の力は本来このように使うべきだ」
ワイズ=ローエンは改めて後方へ下がり、本当に椅子へ腰掛けて紅茶を飲み始めた。
アリエスの家で見たようなのとはまた違った、質素にも思える服装のメイドたちが恭しく介添えをしている。
俺は俺で、勧められはしたが応じる気にはなれず、立ったまま戦いの状況を一望していた。
「軍勢での戦いに本来待ったは無い。だけど、時間を戻すことでやり直しが可能であれば規格外の状況にも対処出来る」
「分からないでもないが、尻の据わりが悪くて仕方ない」
最前線ではリースも、プレインやらなんやらが戦い続けていた。
甲冑男は変わらず規格外。何度も何度も吹き飛ばされて、やり直して、前線を保っている。
店主だってそうだ。主力を尽く切り捨てていくし、前線の指揮を刈り取られたのは一度や二度じゃない。
ヤバい状態なのがわかっていて、前へ出ないで眺めているのはどうにも性に合わない。
「だけど戻す地点には限度があるんだろう?」
眺めている間、力の性能は打ち明けてある。
俺よりハイリアの方が詳しそうだが、本人はここに居ない。
「確かにな」
印象に残っている時、あるいは意識的に頭へ刷り込んだ時、そうでなければ出鱈目な時に飛ぶしかない。
だけどそいつは、甲冑男がやってみせた街をまるごとひっくり返すような一戟であったり、後一息で死んでいただろうミシェルの奇襲みたいな強烈な印象で簡単に吹き飛んじまう。イメージは出来るけど夢の中みたいな曖昧さじゃ効果は発揮しない。頭の中で明確に、ここだと引っ掛けてきた場所でないと狙いがつかない。
戦いってのは興奮の連続だ。
次々変わる状況へ対処するのだって楽じゃない。
なのに頭の中で別の事を留めているのは相当な苦労があった。
こいつは調子に大きく左右される。ハイリア相手の時は絶好調で、意識もしていなかったのに引くと考えた時にはその地点が頭に浮かんできた。
「驚いたり興奮したりして忘れてしまうのなら、最初からそういう環境に身を置かない方が良い。癪ではあるだろうけどね」
「あぁそうだな。前に出りゃあ、もっと効果的に使えるだろうなって場面はごまんとあったさ」
「必要なのは安定感だよ。君の力が安定して使える限り、この戦いを初手からやり直せる。無茶をするのは、替えの効く者に任せれば良い」
気に入らない考え方だ。
何も言わなかったが態度で察したんだろう、カップをメイドに任せてワイズが手を組んだ。足を組み替える。靴も、裾も、殆ど汚れていないように見えた。
「でもこのままじゃ、耐え忍ぶだけで精一杯だ」
「否定はしない」
二番隊の動きは良い。
ハイリアの部隊が見せるような奥深さは薄く、教科書通りにも見えるものだが、隊長自らが言う通り安定感は高い。替えの効くと言われた『剣』と『弓』の精鋭部隊だって良くやっているけど厚みが足りずに何度も跳ね返されてる。個人技で突出した奴は居ても、総合的には正規の軍隊に届かない。学生小隊、というのは最もしっくりくる言葉だ。
吐息を落とし、吸った頃には一部が戻ってきてほぼ同数が前線へ向かった。
コイツらは総力では当たらない。交代し、順次休息を取りながら戦い続ける。
相手は二人だ。普通ならとっくに押し潰していてもおかしくない。そうでなくとも疲れが出る。あるいはその瞬間を待っているのか、ワイズはじっと前線を見据えたまま指先を遊ばせる。
「……ヨハンが居てくれれば、もう多少は打撃力が増したんだろうけどね」
ヨハン、確かハイリアのとこに居た奴だ。
事情は分からないが、アテにしていた戦力が足りないらしい。
ワイズはくいと片眉を上げて吐息をつく。
「彼ほどにはカリスマがない事は自覚しているさ。実力も、結果も、人並み程度のものしか積み重ねては来ていない。憧れ…………ふふ、失言だね、巻き戻して欲しいが、君にだけ記憶が残るのは一層良くない。あぁ、例え結果を出せないのだとしても、やらない理由にはならないのさ。我々は、私は、貴族なのだから」
甲冑男の一戟で守勢を支えていた一団が纏めて吹き飛ばされる。
ミシェルへ斬りかかっていたお団子頭が切り捨てられ、入れ替わったリースは既にぼろぼろだ。
「腹立たしい限りだよ。成さねばならないと分かっているのに届かない。なのにその先を越えていく者が居て、手を伸ばすことを恥としなければならないのだから」
「アイツだってそう変わりないと思うけどな」
「そうだろう。でもね、それを当たり前のこととして処理出来るほど、我々は距離を詰めきれていないし、高潔ではないのだよ」
「ボロ負けだったらしいな」
今更ながらに思い出してきた。
コイツも、さっきのプレインってのも、鉄甲杯へ参加していたが初戦敗退だ。
聞かれりゃ感想くらいは言うが、参加もしてない身で偉そうなことは言えない。
ワイズはじっと前を見据えたまま、
「問いは投げないよ。我々の結果の価値は、我々こそが決めるべきだ」
好きにしろ。
「それでも一つだけ求めてしまうんだよ。この時間に意味よ在れと望める、結果がやってくるのを。君たちが叩き伏せたあの男が悠然と現れ、その背中で以って我々の不足を見せ付ける、苦渋の瞬間をどこかで求め続けている」
仰いだ空は綺麗なもんだった。
この空の下にあの人は居る。
来いよ。
来い。
だけど――――応じる声はいつまでも現れなかった。
※ ※ ※
クリスティーナ=フロウシア
中庭へ再侵入しても動きは見られなかった。
『角笛』による黄金の獣たちは姿を消したきり全く気配を見せない。
綺麗に整えられた花壇と広々とした石畳の道、ドーム状になった花の屋根の下には細やかな細工の施されたテーブルと机がある。きっと、普段はここでのんびりとお茶をしていたんだろうと思う。ただ、ふと視線を流せば血に濡れた草花が目に入り、周囲の美しさとのあまりもの落差に背筋が冷えた。
建物の内部はガラス張りになった所から伺えるけど、どこかが割れていたり、血の跡なんかは見当たらない。使用人向けだろう小さな勝手口が開いていて、そこから引き摺られた血の跡が続いている。内部で戦いが起きたことは間違いがない。
謎の魔術光による舞い散る羽も消えていない。
敷地の外へ広がる様子もまだ無くて、変事の際にはお互い鐘を鳴らして知らせることにしている。
手持ちに出来る程度の大きさだけど、鳴らしてみたらかなり大きな音が出た。
つい無防備に周辺を観察していた私の周りで『剣』の術者たちが素早く陣を組んで警戒を始めていた。
突入すれば屋内での戦闘になる。物量では敵わない以上、『盾』と『槍』は延命措置にしかならないばかりか、行軍の足を酷く遅らせる。『旗剣』の使い手であるセレーネさんも居るなら、相手は『弓』に限定されると決め付けてしまってもいい。動き出す前の話し合いではそういう意見が強かった。
私からすれば思い切り過ぎだとは思いますけど……。
ただ、救助した人からの証言で内部事情は概ね把握出来た。
アリエス様を始めとしたウィンダーベル家のお三方は談話室に居る。
重症を負っていた老紳士に拠れば、アリエス様に異変が起きた、とのこと。具体的なことは分からない。日記帳について知っているかと聞かれたけどさっぱりだった。以降、詳しいことは話せないと口を噤んでしまった。
分からない事はある。だけど、居場所や状況がある程度分かったのなら強行突破も決して間違いじゃない。
悩み続けて、調べつくして、準備をして……そうしている間にも三人が力尽きてしまうかもしれない。
幸いにも戦力は十分。
ヨハン先輩にオフィーリアさん、ウィルホードさんとセイラさんは同じ隊で鉄甲杯を戦ってきたし、『旗剣』を持つセレーネさんは部隊行動に幅を持たせることが出来る。突入部隊からは外されたけど先輩の存在も大きい。デュッセンドルフからの撤退も考えられる今、負傷者の後送は急務だ。
突入し、三人を助け出す。
異変が起きたというアリエス様の属性は『弓』だ。これが予想通り対セイラム戦の始まりであるのなら、基点にされてしまった可能性はある。四柱の出現にセイラム再臨のように器が必要だとは聞いていないけど、大本が同じ方法で出てくるのならとも思う。
もっと情報を渡して貰えればと思うけど、今やウィンダーベル家とは無関係の、ハイリア様に使われていた平民へ秘密を明かすなんていうのは難しい。
最悪の場合、アリエス様――正しくはその身にとり付いた何かと戦うことになるかも知れない。
可能性としてはこれが一番大きいんですよね。
身の安全を最優先されるはずの当主と婦人が未だに留まっているのだとすれば、理由はアリエス様しか考えられない。
オラント様は怖ろしい人だと言われるけど、ハイリア様は情に弱い人だと言っていた。
ちらりと、ヨハン先輩の背中を確認した。
何も言ってこない。
こういう時に一番遠慮の無い発言をしてくる人なのに、今回は大人しいというか、何か別の事に気が向いているような雰囲気がある。
変わりに強攻策を訴えたのはセレーネさんで、やんわりとだけどフロエさんもそれに同意していた。
フロエさんは突入部隊から外れ、オフィーリアさんを護衛として待機してもらっている。
最初は自分も行く、あるいは単独でも行くと言い張った。だけど以前みたいに飛びまわれるのでもない『機神』の力じゃ『剣』についていけない。攻撃の規模の大きさからも屋内での戦いには向かない力だ。それでも納得しそうに無かった所を、ヨハン先輩が足手まといだの一言で切り捨てて、ようやく彼女も落ち着いてくれたけど……。
「反応が無かった場合、そのまま突入するって話だったよね」
セレーネさんだ。
彼女も疲労した様子が拭えない。
現状で万全と呼べるのはウィルホードさんとセイラさんと私くらいなもので、ヨハン先輩だってハイリア様との戦いで受けた傷が治り切ってない。セイラムの干渉が考えられる現状でフロエさんを無防備には出来ないから、オフィーリアさんを護衛に付けることは必須だった。
「はい」
短く答えて口を噤む。
以前はこんな風に意見が対立することは無かった。
ううん、別意見が出ることはあっても、明確に決定する人が居た。
今の私は宙ぶらりんだ。
くるくると頭が回るだけで決定することが出来ない……多分、決定したことへの価値を決めることが出来ないんだと、今なら思う。
だから反対意見を押さえ込む言葉を作り出せても、代わりに通した自分の意見もどこかで不安を感じてる。結果が出る前はどちらも正解であり、正解じゃないから。
「っ、予定通り、正面玄関から突入します!!」
またくるくると。
空回りするだけの頭なら要らない。
踏み込め。
「行くぞ!!」
ヨハン先輩の掛け声があって、一番に飛び出した彼の後ろからセレーネさん、そしてドンくさい私を見守ってからウィルホードさんとセイラさんが続く。
同時に待機場所から矢が放たれて、勝手口付近から強烈な爆発音が鳴り響く。
回りこんだ私たちは老紳士から受け取っていた鍵で大扉脇にある使用人用の出入り口から内部へ入り込む。
小部屋を抜け、警戒しつつも中央玄関へと飛び込んでいく。
一番近かった勝手口を避けた理由は簡単で、あそこが通り道になっていたからだ。仮に屋内へ引っ込んだだけだったなら、開けっ放しの出入り口は待ち伏せを受けやすい。陽動を仕掛けた上での潜入、という程じゃないけど、二階への階段も近い中央玄関は利便性も高く、突入場所として優秀だった。
先に確認してあった通り、ヨハン先輩が迷い無く階段を駆け上がって二階奥の談話室へ向かう。
未だ黄金の獣は見えない。客間ではなく、身内向けの場所とあってまだ少し奥だ。談話室に窓はなく、古い建物だからか近くの部屋も網状の鉄格子がはめ込まれていて侵入が難しい。壁も分厚くて『弓』では貫通させるのにどれだけ掛かるか。
けど内部からなら。
広い屋敷だけど直線通路が多く、『剣』の術者だけなら走り抜けるのに苦労は無かった。そして最後の角を曲がった途端、
「構えろ!!」
先行していたヨハン先輩の身が深く沈み込んで、飛び上がったと思った時にはさっきまで居た場所を矢が奔り抜けていった。
続いて硬く弾く剣戟の音。
「くり子ちゃん伏せて!!」
間抜けにもそのまま飛び込んだ私の前でセレーネさんがソードブレイカーを振るって矢を叩き落す。
重なる『旗剣』による連続破砕の向こう側、一人で突出したヨハン先輩が奥で大弓を構える人影へ向けて駆けて行く。
姿を確認しようと目を凝らした途端、耳元を矢が掠めて首を引っ込めた。
どうして!?
ついセレーネさんへ目を向けた。
彼女の連続破砕による壁は続いてる。
なのに敵の矢が通るなんてこと……。
「ハイリア様にもやられたんだけどさ……!! この攻撃って大味過ぎて、慣れると隙間が見えてくるんだってさ!!」
それは当然人一人が抜けてこれるような大きさじゃないだろうけど、僅か一点、矢が抜けてくるには十分だと言えるのかも知れない。
また一つ、二つと矢が抜けてきて、ウィルホードさんがかろうじて弾いてくれた。
「私も突破します。彼一人ではこの閉所を超えられません」
セイラさんが姿勢を低く取り、飛び出す構えを決めた。
彼女が言った通り、ヨハン先輩も近付くほどに密度を増す『弓』の攻撃に勢いを弱め、時折下がる動きまで見せ始めている。
「十秒後!!」
セレーネさんが叫ぶ。
間を抜かれるとは言っても次々放たれる矢を防いでいるのは彼女だ。
破砕による攻撃を受けて装飾のある壁がひび割れ、床を揺らし、灯りを一つ叩いて消した。その景色の向こう、詰めたヨハン先輩のずっと手前に目的の談話室はあった。扉は開いてない。距離は、そう長く無かった。
「前へ出ます! セレーネさんッ、ウィルホードさん!!」
「二、一……ゼロ!! 行くよ!!」
一番に駆け抜けていったのはセイラさん。
クレアさんとも試行錯誤していた短い時間で最大速度へ達する為の構えは、私やセレーネさんの倍する速度で廊下を抜けていって、幾つもの矢をエストックで弾きながら『弓』の術者へ食らい付いていった。
私もぼんやり眺めては居られない。
セレーネさんへ続いて地面を蹴り、ウィルホードさんに守られながら私たちは前進した。
「ここです!!」
急制動を掛け、扉前へ滑り込む。
連続破砕の壁が再び張られて、飛びついたウィルホードさんが扉を乱暴に蹴り開ける。ワイルド!?
そして、当初の予定より大きく正面戦力を削られた上で私たちは辿り着いた。
※ ※ ※
オラント=フィン=ウィンダーベル
ウィンダーベル家の日記帳と呼ばれるものがある。
時に陰謀論を交えて語られ、時に今の発展の礎ともされるその正体は、預言書だ。
どれほど優れた諜報を持っていても、確定した未来の情報を得ることは敵わない。
けれどウィンダーベル家はそれを手に入れた。
手に入れたと、ごく一部の者は考えている。
何のことは無い、我が妻シルティアがあの古都へ放り込まれた理由がそうだという話だ。
未来を知れば先回りが出来る。未来を知れば敗北は無い。未来を知れば繁栄が約束される。そんな勘違いをした輩が壮絶な殺し合いを演じ、争いの種にならないよう世情から切り離された場所へ封じた。
情報は万能ではない。
時に刃一つより遥かに大きな影響を及ぼすからこそ、使いこなせる者の手に無ければ諸刃となって血を吸い取っていく。
元よりウィンダーベル家の得られる情報を正しく運用すれば未来を極めて正確に予測することも、思い描く未来を作り出すことさえ可能だ。
私にとってすれば未来を知ることなどさしたる価値ではなかった。
時折思い出したように狙う者が現れるものの、始末をつければそれで終わる程度。
下らない謂れを真に受けるのも、危機感を抱くのも、我が家系が持つ力を見定められない愚か者の所業だった。
しかし、ここ数ヶ月で評価は変わりつつある。
シルティアの力は娘であるアリエスへ受け継がれていた。
正しくは長男、ハイリアの事故死によって錯乱した二人を静めた後に、力の芽生えを確認した。
不安定だったシルティアからはいつしか力が失せ、歳を負うごとにアリエスは症状を強めていった。
シルティア同様、本人の自覚は薄いまま、習慣のように日記を書く。
内容は数日後であったり、数年後である場合もあった。
それだけであったなら良かったのだろう。
けれどアリエスは力の存在を知り、引き出そうとした。
未来を知れば、未来を変えられる。
ここにこの情報の価値がある。
途方も無い重荷を背負った者の未来を切り開くのに、アリエスは出来うる限りの力を尽くそうとして、徐々に力へ呑み込まれていった。
「――誰が、譲るものですか!!」
吹き上がった黄色の魔術光と共にアリエスではない何かが口を開こうとした。
それが何者であったのか、予想は出来ても確信は取れない。
駆け寄った私と妻の手を取り、ここ最近ですっかり血の気が引いてしまった顔でアリエスはしがみ付いてくる。
「たとえ、っ……私の愚かさが原因であったとしても、それを罰するのは貴女なんかじゃないッ」
纏う魔術光に銀の色が混じる。それはフロエ=ノル=アイラの持つ『機神』と同じく、そしてセイラムのものとも言われる色だ。
舞い散る銀の羽、その美しさたるや胸を突くほどで、喘ぐアリエスがどれほどの苦しみに抗っているかを示しているように思えた。
碧色から銀色へ、瞳の色が移ろい私たちを透過して何かを見る。
強く握られた爪先が服の布地を掻いて剥がれそうになるのを見るや、妻が己の手を挟み込む。
長い時間を掛けて癒えた肌に、再び鮮血が滲み出す。私も即座に同じ事をした。
魔術光は銀へ、けれど時折強く黄色へ揺り戻し、瞳の色も戻ってくる。
零れる言葉から何の話をしているかが徐々にわかってきた。
「あの人が私のお兄様よ。これ以上……あの人から失わせてたまるもんですか……ッ」
ハイリアの事だ。
「すまない……私がお前たちを信じず、安易な手段に頼ったばかりに」
「アナタ……」
元々シルティアの嫁入りそのものに反発は大きかった。
新大陸での経験で心を壊していた彼女は頻繁に問題を起こし、大貴族の婦人としての役割を果たせてはいなかったから。それは徐々に回復し、取り繕えるほどにもなったが、ハイリアとアリエスが生まれた後も時折顔を出した。内容については……不要な話だ。失うことを怖れるシルティアと、心から兄を慕っていたアリエスはまるで心が繋がっているように共鳴し、病んでいった。
即効性の高い手段として催眠による忘却を選んだのは、結局の所、私自身が疲れ果てていたからだろう。
度重なる親族の粛清、実父ですらこの手に掛けて、怨嗟の山を築いた挙句王という存在に逃避しようとした。預かると言ったシルティアを見守る内に愛情を抱いてしまったのは愚かとしか言い様がない。仮にも忠誠を捧げようとした王の想い人に手を出すなど。
元々壊れかけていた心へ刷り込みをするのは簡単だった。
後は時間を掛けて回復させていくだけだ。尽力したのは私ではなく、彼だったが。
代役も自ら名乗り出て、その日以来私とハイリアは共犯者となった。
いつか打ち明けよう。
そう語り合い、頭の中で幾度も説明の言葉を作っては修正した。
既に葬儀を行い、周知されていた死を完全に隠す術などなく、対外的にはそれとなく事実を広め、いずれ知れる時が来ればと。
不思議なことに、アリエスもシルティアも違和感を何ら気に留めなかった。
彼の振る舞いがまさしく大貴族の嫡男そのものであったことや、風貌が似ていたことを排除しても、頑なさすら感じさせずその存在を受け入れていた。
言おうとしたことは何度もあった。
けれど言えなかった。
弱さだろう。情に流されすぎると若い頃はよく言われた。父を殺した時に克服したものと思っていたが、家族が出来た途端にコレだ。
「共に手を携えて乗り越えるべきだったのだ。もう遅いのかも知れない。だが、今ここにすら居ない者に奪われてなるものか……!! 負けるなアリエス、俺はここに居るぞ!!」
「お、父……様」
「あぁっ!!」
私を掴んでいた手が離れ、こちらの腰元へ伸びていく。
フィラントから金に任せて買い込んだ一振りがそこにある。
小太刀と呼ばれる、通常より一回りは短いものだが、手に入った中では最も出来が良かった。当然、効果の程も。
「アリエス、何を」
妻が震えた声で言う。
引き抜いた白刃に己の顔が映りこむ。
こんなにも怯えた表情を晒していたのかと首を振る。
その間にもアリエスは切っ先を己へ向けて、しかし、まともに握れていなかった為か取りこぼす。
銀の輝きが増したように思えた。
「お願、い」
呟きは私へ向けてではなかった。
落ちた小太刀を拾い上げたのは妻だ。
「シルティア、止せ……!!」
「この子を奪わせない為よ」
腕へ、突き立てた。
「っ――っっっっ!!!!」
痛みを受けたのが自分であったらどれほど良かっただろうか。
これが今出来る最善と分かっていて、悲鳴をあげる娘の姿に胸の内が鋭い爪でぐちゃぐちゃに切り刻まれたような痛みを感じる。
「すまない、シルティア。お前に背負わせて」
「アナタはもう十分背負ってきたのよ。私はまだまだ足りないくら――」
倒れ伏したシルティアを見た途端、この後に起きる全てを察して急激に心が冷えていった。
今だアリエスは苦しみを訴え、放たれる異常な量の魔術光には銀の色が混じる。
けれど意識を失ったシルティアから同じものが現れた。
凍らせろ。
父で在れるのはここまでだ。
甘えが許される状態ではない。
これまでに幾度も繰り返してきたことだ。
血の川を築いた。川は凍りつき、氷河となった。
心を凍らせる吹雪の中、血の氷河を辿って進むだけ。
白の世界に、赤の道標はよく見える。
「っ!!」
アリエス=フィン=ウィンダーベルの腕に突き立てられていた刀を抜き取り、シルティア=フィン=ウィンダーベルへ。
道具の性能は把握している。
裏で人体実験すら行っていた。
白髪のフロンターク人という情報さえ手に入れば、未だに続く奴隷市場で探し出すのは不可能ではなかった。
何も、あの子ども一人が生き残りという訳ではないのだ。
変り種とあって手放したがらない持ち主を追い詰め、斬首させ、記録を抹消した上で回収した。
当人には出来る限り事情を説明し、莫大な報酬を見返りに性能の把握に努めさせた。女はこの一件が収まればそこらの上流貴族など及びも付かない富を手にいずこへと去るだろう。
騙し、ソレを器に見立てて全てを背負わせる計画も考えたが、所詮は傍系の一人で成功は見込めず、同じく内乱時に回収していた教団の者も調整の手段を詳しくは知らなかった。ハイリアがヴィレイ=クレアラインらを異端審問官へ引き渡していなければ手はあったのかも知れないが。
防衛本能だろうか。
あるいは意志力の違いか、必死に抑えるアリエスとは違ってシルティアは『角笛』の紋章を浮かび上がらせて抗い始めた。
護衛が次々と刈り取られ、けれど理性故か一部の獣を使って外へ運び出していく。干渉はやはりアリエスの側に強く働いているようだったが、最初に自らの力だけで抗ってみせたように、やはりあの内乱やハイリアの喪失を経て成長したのだろう。ようやく過去を認め始めたシルティアより遥かに優れた資質を持っている。
加えて混乱を見て取った密偵が強硬手段に訴え始めていた。
それほどまでに未来を知りたいか。
数名をこの手で射殺し、尚も納まらない混乱の中、ひたすらに状況の調整を続けた。
何度も、何度も、刃を突き立てた。
始めてしまえば、最早作業だった。
※ ※ ※
クリスティーナ=フロウシア
血溜まりの中に彼は立っていた。
他には誰一人自分の足では立てていない。
護衛と思われる人がウィルホードさんの蹴り開けた扉の前で蹲っていて、周囲を警戒しながら素早く駆け寄って助け起こす。
その光景を脇へ追いやり、消えていく魔術光の中を私は息を呑んで硬直していた。
「あぁ…………ハイリアが重用していた娘だな。世話を掛けたようだが、生憎とこちらで終わらせた所だ」
アリエス様と、多分、お母さまだ。顔付きが似ている。
だけど二人とも、直視するのさえ痛々しいほどに幾つもの傷を受け、血を流している。
「治療の用意があるなら頼みたい。急所を避け、血管や組織を傷つけないよう工夫はしたが、流石に限度があってね」
何よりも、オラント様の声が怖ろしかった。
彼の姿を見たのは内乱の終結時に玉座の間で遠巻きにが初めてだ。
後にデュッセンドルフへ戻る時、ハイリア様からの面通しがあっただけで詳しくは知らない人。
だけど、こんなにも冷たい声を出す人だっただろうか。
「クリスティーナ=フロウシア」
名前を呼ばれ、はっとする。
温かみのある声だ。
これまでに聞いたことのある、意図的に出されていた声。
「君が真にハイリアの部下として、その頭脳の一角を担うつもりならば覚えなさい。主に清廉さを求めるならば、己が汚れる覚悟が必要だと言う事を」
顔に熱が広がった。
どうしてかは知らないけれど、この人は内乱の折、私が少年まで手に掛けようとしたハイリア様を止めたことを知っているんだ。
もし、あそこで覚悟を決めてしまえたのであれば……それが受け入れ難いことであったとしても、今のように苦しむことは無かったのかも知れない。止めなければ良かっただなんて、絶対に思ったりしないけど。私の行動が今のハイリア様の脆さを助長したんだと突きつけられた。
今、ここですべきことをしろと叱咤されるより余程堪える言葉だ。
素早く室内へ目を走らせ、これまでの事を統合して状況を推察する。
質問を重ねているほど時間はない。
「外の術者は敵ですね」
「まだ残っていたか。元より動き出しに際して潰し合いを演じるよう勢力ごとの配置を指定してあったのだが、存外に腕利きが居るらしいな」
屋敷の主だった行動範囲に窓が無かったり、鉄格子がハマっていた理由もソレなんだろうと思う。
「この屋敷に篭城出来そうな場所はありますか」
「在るが、現状の把握しきれていない屋内に留まるのは危険だ。外もさして変わらんが、居場所の知れている状態よりはマシだろうな。ここまで通ってきた経路を使って出るのが最も確実だろう。外の様子はどうなっている」
「『機獣』と呼称される異形の化け物が地下坑道から大量に湧き出して、近衛兵団を始めとした戦力が包囲戦を続けています」
「ラ・ヴォールの焔は」
「聞いていません」
「甘いな」
言われた内容はすぐに理解出来た。
この人が手にする刀剣、そして血塗れの二人、納まった魔術光。
きっと事態を解決するにあたって最も効率が良い方法を彼は選んだんだ。
「街の被害を顧みず、ラ・ヴォールの焔回収に兵力を割くべきだった、ということですか」
つい、責める色が強くなってしまった。
「町一つだ」
息を吸って、呑み込んだ。
「他には」
「私には届いていません」
「分かった。では動こう。クラン商会の子息、ウィルホード君だったね。先導を任せる」
自ら黄色の魔術光を浮かび上がらせ、刀を放り捨てる。
何度も突き立てたせいか、血塗れの刀身は歪み、幾つもの刃毀れが見て取れた。
開いた腕で意識の無い、おそらくは奥さんを担ぎ上げ、更にアリエス様へ手を伸ばそうとした時だ。
赤い光が目を掠めた。
それは扉前に陣取っているセレーネさんが、ソードブレイカーの刀身に反射させた光で。
魔術によって拡大された感覚が、直感を加えて状況を理解させてくれる。
……もう、夕焼け時なんだ。
日暮れまでに事態を収拾しないと本格的にデュッセンドルフを放棄するしかなくなる。
急ごうと足を踏み出し、
直後、目の前の景色が弾け跳んだ。
※ ※ ※
フロエ=ノル=アイラ
最初は救助した人たちに紛れ込んでいたんだと思う。
オフィーリアさん、という貴族らしい女の人が、突然斬り込んで来た『剣』の術者から私を守ってくれた。
唐突に弾け跳んだお屋敷も気になるけど、あまりの驚きに心臓が大きく跳ねて余裕が無い。
「……惜しかったのに」
「何者ですか!?」
小柄な、私よりもずっと年下の女の子だ。
全く知らない筈なのにどこか見覚えがある。
彼女はむすっとした表情で短剣を持ち替え、背後から斬りかかろうとした男の人の喉元へ投げ付け、弾いた所を駆け抜けて脇を裂いた。
飛び散る血を見ただけで頭から血の気が受けていくのを感じた。何が起きているのか、まるで付いていけない。この子は何? なんでいきなり現れて、私たち相手に襲い掛かってくるの? 相手はあの生物かも分からない獣の集団だった筈だ。人間同士で殺し合うなんて、どうして……?
「下がってください」
オフィーリアさんが武器を手に庇い立つ。
やんわりと押され、一歩二歩と下がる私を女の子は見た。
ガラス玉みたいな、何の感情も移さない瞳。
私だ。
咄嗟に理解した。
私を狙ってる。
そして、倒れ伏した男の人を見た。
すぐに大盾が張られて見えなくなったけど、死んでいるとしか思えなかった。
私のせいで。
ぐっと目を閉じて、またふらふらと下がりながら息を整えた。
いいからと叫びたかった。
私のことは放っておいて。
最初から自分を優先したいなんて思ってない。
ただ、ハイリアみたいな人を作りたくなくて、彼を助ける為ならって覚悟を決めただけなのに。
幸福の糧に死体が積み上がっていく。
踏み止まれ。
誰かの悲鳴があがった。
前を向け。
オフィーリアさんがこちらを向く。
「早く後方へ!!」
「冗談言わないでよ!! 戦うに決まってるでしょ!!!」
手は震えているけど。
戦い方なんて分からないけど。
誰かの為になら前を向ける。
そういう自分を見つけて、覚悟をしたんだから!!
銀の魔術光を浮かび上がらせた。
最近ではすっかり慣れつつある、たった一人でここに立っているという感覚。
聖女の力なんかじゃない。私自身の力で。
『機神』の大爪を作り出す。
全身を作ることは何度試しても無理だった。
私じゃ、もう繋がりが薄いからだ。それでも戦う力があるのなら。
「貴女もまた、選ぶことが出来たのですね」
振り上げた脇を、赤い魔術光が駆け抜けていった。
※ ※ ※
クリスティーナ=フロウシア
本当に、世界が終わってしまったのかとさえ思った。
ほんの数歩先の景色が吹き飛んで、密室に近かった部屋に夕陽が差した。
……良い、天気だ。
馬鹿みたいにそんなことを思う。
だけど抉り取られた地面の上を進む何者かを見つけた途端、現実はとてつもない質量を以って襲い掛かってきた。
吹き飛ばされた建物の一部が目の前に落下してくる。奥さんを背負っていたオラント様が倒れたままのアリエス様を蹴り飛ばす。あまりにも乱暴な行動だ。だけど、直後に彼の右脚の上へ壁が落下した。
「っっっっ――!!!」
潰れた足から崩れ落ち、けれど手をついて奥さんを支える。
「アリエスをォッッ!!」
ウィルホードさんに遅れて私も動いた。
オラント様の足を押し潰した壁を飛び越え、抉り取られた地面へ降り立つ。
ヨハン先輩が既に斬り込んでいた。『弓』の術者がどうなったのかは分からない。巻き込まれたか、片付けた後だったのか。少なくとも私たちよりも早くセレーネさんがアリエス様を確保していて、地面に残った跡から蹴り飛ばされたのを跳んで受け取ったんだろうと思う。
「撤退します!! 時間稼ぎを――」
膨れ上がった地面が全ての音を呑み込んだ。
弾け跳び、舞い上がる土砂が何かに打ち付けられ、出鱈目に私たちへ襲い掛かってくる。
「っ、この子お願い!!」
セレーネさんが出た。
『旗剣』による連続破砕。狙いもなにもなく、ただ振り回しただけの攻撃によって辛うじて降りかかる土砂や瓦礫の直撃が避けられた。
開けた景色は、急激に赤の色を増していた。
この攻撃をもろに受けただろうヨハン先輩は尚も身を翻して斬りかかって行く。
だけど、勝負の成立する状況じゃない。
「戦いの規模が違い過ぎます!! 今相手をしてはいけません!!!」
「ちっ、クソヨハンが粋がって!!」
「待って!!」
駆け出したセレーネさんへ手を伸ばすけど、彼女は一度だけ振り返って腕をあげた。先行し掛けていたウィルホードさんが戻ってきて、抱えきれずにいるアリエス様を受け取ってくれる。
だけどその間にセレーネさんの背中はずっと遠くにあって、声だけが苛立ち交じりに投げ渡された。
「連れ戻すだけ!! 先に逃げといてよ!!」
時間はない。もう、
「行きましょう」
「……セイラさんは」
返答の変わりに、力強い腕が私を立たせ、背を叩いて先を促した。
これじゃあただの足手まといだ。
二階にはまだオラント様が居る。だけど、
「御免なさい……ッ」
轟音を背に、私たちは走り出した。
たった二人だけの足音が、薄く廊下を駆け抜けていった。
※ ※ ※
オフィーリア=ルトランス
横合いを駆け抜けていった後ろ姿を見て、つい私は目を見張って硬直してしまいました。
虐殺神父!?
後ろ姿だけでも分かってしまう。
あの内乱で幾度も交戦して、大切な友人を斬られ、去っていく姿を見送るしか出来なかったのですから。
踏み出しそうになる身を何とか留めて、戦いへ踏み出そうとしたフロエさんを留めました。
「状況がはっきりしません。距離を取りましょう」
「え……あ、うん……」
彼女も混乱しているようで、すんなり受け入れて下さいました。
右腕の動きに従って銀色の大きな腕があたふたと動くのはどこか愛らしく、こんな時なのに少しだけ見ていたい気分ですね。
幸いにも『盾』の術者が素早く援護に来てくれたおかげで、『剣』の術者である敵へ有利は取れました。
神父相手では不安が大きいのですから、最悪はまた私が戦いを受け持ってフロエ様を逃がす必要があるでしょう。
最優先は彼女。
くり子ちゃんと予め確認はしっかりしてあります。
ハイリア様にとって大切な人というだけではなく、今の状況で最も敵の手に落ちてはならない人だと。
神父は両腕も無いまま少女へ肉薄し、けれど応じた動きの直後に剣戟の音を響かせました。
赤の魔術光を彼は纏っている。
……腕を失って尚も健在ですか。
怖ろしい、というのはずっとこの内から消えない感覚です。
打ち払う為に彼の戦いを模倣し、乗り越えようとした位には。
「迷い出るとは嘆かわしいですね。ミシェル、私を狗と呼んで蔑んだ貴女が誰かの操り人形になるとは、驚きを越えて少々呆れます」
「…………誰」
お知り合い、なのでしょうか。
確かに凄まじい使い手同士、どこかでめぐり合って居ても不思議ではありませんが。
「誤魔化しは止めましょう。今の手管は私と貴女で編み出したものですよ。そのような成りをしていても、貴女は私との経験を経ている」
「知らない」
「そうですか。まあ私の目的は貴女ではありませんから、質問にだけ答えて頂ければいいのですが」
「知らないって……言ってるッ!!」
少女が斬り込む。
目的地へ向けて引っ張られたような、放たれた矢にも思える動き。
神父は軽く地面を蹴り、低く姿勢を取ったかと思えば後ろへ一歩の距離を下がる。身長差があまりにも大きい。普通に踏み込んでも下段からの攻撃にしかならないのに、少女は更に低く姿勢を取って足首を刈り取るように前へ出てくる。それを神父は正面から蹴り付け、弾き返す。
言ってしまえばそれだけ。
ですけれど……、
蹴り飛ばされ、背中から落ちた少女が信じられないといった顔で神父を見上げていました。
複数の攻防があり、結果だけ見ればただ蹴られたようにしか見えなかった今の一瞬。
「仕方ありません。一度殺した者のケジメとして、再び貴女を送り返して差し上げましょう」
神父。
一体、何が目的なのですか……。




