162
アリエス=フィン=ウィンダーベル
歓談室へ顔を出すと、お父様とお母様が揃って驚いた顔をして腰を浮かせた。
ふらつかないよう歩を進めて、二人が座りなおしたのを待って引かれた椅子へ腰掛ける。
「体調はいいのか」
「えぇ、今日はとても良い状態です」
「でも無理はしないでね。呼んでくれれば私たちの方から顔を出すから」
はい、と答えると気遣わしそうにしていたお母様がそっと息をついた。
まだ心配そうなのは、失うということに強い怖れを抱えているから。
「大丈夫ですから」
笑ってみせると、お父様がお母様の肩へ手をやり、メイドの一人へ目をやった。
私がこちらへ向かうと決めた時点で準備を進めていたのでしょう、お気に入りのカップに紅茶が注がれて運ばれてくる。三段重ねのコースターにはトーストの他、茶菓子や果物が乗っていた。
香りを愉しみ、口をつける。
それだけで身体に温かさが染み渡っていくようで、ついた吐息にようやく熱が篭る。
「何か食べるかい?」
お父様からの申し出に目を向けるけど、少しだけ視線を下げて首を振った。
「これだけで十分です」
お茶と一緒に出されていた、薄くスライスした林檎をフォークで刺し、食べる。
ほのかな甘みが口に広がって、しゃくりとした噛み応えに頬を緩める。
あまりお腹が減らないのはこのところずっとだ。
紅茶も飲み切るのは辛くて残す。一緒に薄い林檎なら食べられるから、最近はこればっかりだった。
「前に風邪で寝込んだ時、お兄様が手ずから切って食べさせてくれたんですよ」
林檎の赤い皮を残して、うざぎみたいだろと言って差し出されたのを思い出す。
辛かった時にほっとさせてくれる遊び心に、何も食べたくないと言っていた私は脇に用意された薄切りの林檎をついつい口にしてしまった。
以来、疲れた時には林檎を食べる。食が細くなった今でも薄く切っていれば食べきれるから、紅茶と一緒に出してもらうよう言ってあった。
お母様は少しだけ眉を寄せたけれど、すぐに笑顔を取り戻す。
きっとお兄様と呼んだことを注意しようとしたんでしょう。
心情的な部分は置いておいて、お兄様はもうウィンダーベル家の人間ではない。
現ホルノス国王が内乱終結時に内偵の沙汰があったと公表したことで一度は戻ってくる話も出たけれど、お兄様自らが辞退し、今も扱いが宙ぶらりんのまま留め置かれている。だから例え家族だけの場であってもお兄様と呼ぶことは、内々に戻すと宣言しているようなもので、次のウィンダーベル家当主となる私は発言を自粛しなければならない。
でも、いやだった。
お兄様はお兄様だ。
たとえウィンダーベル家の名を持たなくなったとしても、この魂は彼の妹なのだと、もう何度も二人には言ってきた。
だから敢えては言ってこない。せめてけじめを付けなさいと言いたいのだろうけど知らんぷりだ。
なんとか食事を終えて一息つくと、同じく紅茶を飲み終えたらしいお父様がカップを置いた。
「概ね、アリエスの言った通りに事は推移しているよ」
「アナタ、今のアリエスにそんな話……」
いや、と、いえ、が重なった。
こちらを見たお父様が頷く。
「今日ここに留まってくれただけでも十分だ。それに、聞かせずに居たら自分で確認しようとしてしまう。今のアリエスにそんな無茶はさせられんよ」
本当なら私もあの場所へ行くつもりだった。
お兄様の決断と、それを思い留まらせる為と称したジークとの戦い。
けれど今の私が行けば余計な干渉が起きてしまう可能性もあったから、身が千切れる様な想いを振り切って自分を押し留めた。
私ではない。
それはもう、あの内乱で確認してしまったから。
それでも私はお兄様を心から慕い、大切に想っている。
為にならこんな苦しみ、小春に感じる風と同じよ。
「結局フィラントはホルノスを完全に切ることは出来ない。ガルタゴからの海路は未だ不安定だし、あの半島が抱える他のフーリア人領土との戦線をホルノスは共有しているからね。外の敵より内の敵をと動かれればフィラントの収入源は圧迫される。現状単独では立ち行かん国だ。それは早期に賠償金と称した支援物資を送り届けると同時に、内情偵察を行ったホルノス側が最も承知していることだね」
一度乱れた国土を立て直すには膨大な手間が掛かる。
金鉱山を始めとした稀少物資は多く抱えているけど、それを自力で加工して価値を高める土台をフィラントは失っている。職人だけが居てもままならないのは世の常で、動ける人間が動き易い環境を整えてやること、横抜きのような不正へ目を光らせられる位は低くとも使える者を確保すること、そうするのが当然だという慣れを広めていくこと、どれも勢いを安定して操作するには必要なもの。
だからフィラントがガルタゴへ寄せるような動きを見せたのは、ホルノスに上手を取られ過ぎない為の牽制と、ガルタゴの政治力の賜物と、あとはフィラント王の気紛れでしょうね。
若者ばかりが実権を握る組織というのは無茶をする、とお父様は言っていたけれど、振り回される方としてはたまったものじゃないわよね。
だから今回、ホルノスは明確に手綱を締めた。
「北方の島国エルヴィスと通商協定を結ぶ話は滞っているようですけど、代わりに次の鉄甲杯はエルヴィスにて行われることが決まったとのことですよね」
「元よりあのお祭り騒ぎはエルヴィスが古代より受け継いできた祭典を模したもの、ということになっている。開催に際して意見を頂戴し、共同開催という形は取らなかったものの、最初から大会運営としての協力は得ているからな。上手い手だ」
つまりホルノス王は最初からフィラントが何らかの反抗を見せてくることを読んでいた。
そしてそっぽを向いたフィラントに対して、こちらも他が居るから良いですよと、今回の動きで見せた訳ね。
エルヴィスは国際連合への加盟も拒否したけれど、本音では旨みを感じて手を取りたかった一派も居た筈。ホルノスが教えを請う形で次の共同開催を提案するのは、あの国の自尊心を満たした上で、国連加盟が軍事同盟と思い込んでいる周囲への宣伝と、加盟国以外ともホルノスが率先して関係を持つことで閉塞感を失くす働きをしてくれる筈。
「国連加盟を渋っていた大半は、エルヴィスに近い北方の国だ。旨みはあるが、あちらで影響力の強いエルヴィスと敵対するようなことは出来ない、と。おそらくこれから加盟国は増えていくだろう。そうなればガルタゴも静観は出来なくなる。いくら内海を挟んで他所事と決め込んでいたとしても、国連内での発言力は惜しい。北方の国々が増え、またホルノスがエルヴィスに近寄ったことで、北方の小国家群がかの島国の代弁者としての地位を得てくればガルタゴは端へ追いやられることになるかもしれない。ましてや彼らは東方へ領地を広げていて、セイラムの魔術圏外の国々と今後衝突していく可能性が高い」
すらすらと状況を解きほぐすようなことをお父様は言うけれど、これだって表面的な部分に過ぎないのでしょう。
読み解かなければならないのは、これより更に深い部分。それが出来なければ、多様な国に親族を持つウィンダーベル家の当主は務まらない。
「……エルヴィスはフィラント以外のフーリア人と、独自の友誼を結んだことをホルノス王へ伝えていますね」
そう、と頷いて間をくれるお父様に、私もまた少し遅れて頷く。
「誇示ではなく、それが表向きホルノスと対立するように見せ掛けた条件と見返りの提示であったなら、ここからエルヴィスの動きは早まるでしょうか」
言って、まだ足りないのだと思う。
今の推測は国と国を単品で見た場合のもの。
国というのは複数の思惑が絡み合って運用される。
今ホルノスが大きく舵を切っていられるのは、内乱という対立を終えたばかりの、周囲の様子見という背景もある。お兄様を殊更に英雄と祀り上げ、発言や行動を根拠に方策を打ち出していくことで裏の動きが酷く捉え難くなっている。なのに思惑や大方針だけはこれでもかと宣伝されるのだから、各国はやりにくいでしょうね。
揺さぶりを仕掛けたいと考える者の気持ちも分からないでもない。お兄様に傷を付けていたら容赦はしなかったけど。
「エルヴィスは女王を頂に置きつつ纏まった連合王国。度重なる侵略を受け、入植者が増えるほどに発展しつつ勢力図を多様化させてきた国ですね……女王といえど指先一つで国の方針は動かせない筈。なら提示されたものは約束の類ではなく、説得材料を寄越せと、そういうものなのでしょうか」
「国が違えば尺度は変わる。推測というのは己の常識で読み解くのではなく、相手の常識を知る所から始めなければならない。とまあ、現場の逸った若者がつい情報を漏らしたということもあるのが世の中だよ」
正解、とも、違う、とも言わず、曖昧な言葉を返されて、迷ってしまう自分を戒める。
この場合見るべきは事の易い難しいではなく、エルヴィスがどの程度方針を固めてくるか。内々の問題はあちらが解決するもの。解決の過程で生まれたほころびは利用させてもらうとしても、ホルノス側の動きに同調してくる上限を見定めることが寛容。お父様の言うように不確定要素もあるから、最初からここと決めて掛かるのは不要なほころびを生みかねない。
「フィラントは今焦っているだろうねぇ。自分たちだけが窓口だと思いこみ、得た情報を甘く見てふんぞり返っていたらそっぽを向かれた訳だ。ガルタゴも状況の変化を受けてホルノスは迂回しつつも小国家群への働きかけを始めている。あそこの老人が孫に嫌われてあたふたしている姿は、実に愉快だったよ」
お父様はとても上機嫌そうに笑う。
何せ国の動きとはいえ、フィラントとガルタゴの工作に利用されたのはお兄様なのだ。
ウィンダーベル家からの追撃によって提督は立場を弱めたし、フィラントは金の輸出に地味な遅延が重なるなどの嫌がらせを受けている。前者はさることながら、後者は来年の予算やそれに伴う計画に支障が出るなど早期に国を立て直したいフィラントへかなり効く。物があっても売れる速度が遅くなれば資金力に悪影響が出る。輸出品目に一次産業しかないフィラントにとっては相当な痛手ね。
やりすぎて戦争が起きないか心配な所もあるけれど、私としても全く構わないのでもっとやればいいのですよ、お父様。
現当主、そして次期当主の承認があるので戦争万歳、報復は全力で。
「ウフ、フフフフフフフ」
「ハハ、ハハハハハハハ」
「まあ。アリエスまで悪巧みが好きになってしまったの? 喧嘩は駄目よ」
この場合仕掛けてきたのは向こうで、表向きホルノスは被害者なので問題ない。
「フィラントとの国交が始まったばかりで視野が狭まりそうな時に……ホルノス王の思慮深さは侮れませんね」
決して単独の力だけではないでしょうけど、王の力とは国の力、影響を与えてくれる全てが彼女を作っていると言える。
宰相の時代を終え、ようやく表舞台で出たばかりの幼子と、もう誰も侮ってはいない。
私はまだお父様の威光無しには親族を従わせられていないのに。
重ねた指先を少しだけ握り、息を吸う。
身体は重く、疲労からくる虚脱感は拭えないけれど。
「お兄様は渡さない……!!」
この嫉妬心だけは燃え尽きない自信がある!!
「ハハハ、見てごらんシルティア。お兄ちゃんを取られたアリエスが頬を膨らませてぷんぷんしているよ、可愛いねぇ」
「アナタ。そういうことを年頃の娘の前で言ってはいけませんよ。可愛いのは認めますけど」
「お兄様はウィンダーベル家で囲います!! 兄として戻るのが難しいのなら私の夫となればいいのです!! それだけの価値があると、お兄様はもう示しているのですからね!!」
リースがごちゃごちゃ考えるようになって、周囲へ無理難題を吹っかけて回っているのは知っているけれど、最終的に勝つのはこの私。
そう、アリエス=フィン=ウィンダーベルこそが最後の切り札。フロエは私の親友で、メルトはウィンダーベル家のメイドだから、万が一があったとしても最後は私の所へ戻ってくるの。面倒くさいのが一人残っているのは気掛かりだけど、といいますかあの方少し苦手なんですけど、そうなったら虐め倒して自分から逃げ出させればいいのよ簡単じゃない。
「ウィンホールド家は今の体制になってからより周囲との関係を密としている。力が強まっただけならどうとでも出来るんだがね、あそこは昔から権力より関係性の強化を重んじるから、切り崩すのは難しいよ」
「お父様ッ、思考を読まないでください!!」
「アリエス、それ以上興奮すると身体に障るわ。アナタは……随分と無茶をしているのですからね」
それとて私が望んでしていることだもの。
けれども淑女としての慎みは大切。いつの間にか立ち上がって握りこぶしを作っていたので腰を下ろし、紅茶を口にする。淹れ替えてくれていたので温かい。けど、お腹の奥が詰まるような感じがしてすぐカップを下ろした。
興奮が去ると虚脱感が一層強く感じられる。
気をつけて隠した筈の吐息は重く、手を離れて辛さが滲んだ。
あぁお兄様に逢いたい。ぎゅって抱き締めてほしい。頭を撫でて、私を見て笑いかけて欲しい。何をお願いしても自信に満ちた表情でよかろう、と言って叶えてくれる。かっこいい。大好き。一緒に寝台へ入って朝まで甘えて過ごしたい。一緒にお風呂へ入ってお背中を流したり、髪を洗って貰ったりしたい。お母様やメイド長に聞いたような、男女でするような状態にはどうしてもならないけれど、キスなら親愛の情を込めて出来るのだから問題ないわ。愛し合っていれば子どもはキャベツに宿るという学説もあるから、次の季節には花壇の一角をキャベツ畑にしましょう。あら、私とお兄様の子を宿してくれると思えばキャベツが輝かしく見えてくるわ、どうしましょう全部キャベツにしてみましょうか。
よし、と気を持ち直した時だった。
景色が切り替わる。
薄暗い何処か。大勢の人々が見える。その後ろでお兄様が控え目に立っていて、けれど、唐突に何かに弾かれ倒れていく。手を伸ばしたくても四肢を抑え付けられたようにして動けない。すると視界がぐるりと回り、人々の対面、中央に立つ何者かが見えた。全身を甲冑で覆い尽くした何者か。顔の見えないその人物が何かを呟き、不思議とその息遣いに懐かしいものを感じて――私はウィンダーベル家のお屋敷の歓談室で、お父様とお母様に囲まれて座っていた。
「アリエス、あぁ……良かった」
お母様に抱き締められ、ようやく自分の身体を思い出す。
「自発的でないものは久しぶりの筈だな……何かの予兆か、副作用かもしれんが」
私の手から日記帳を取り上げ、手早くページを捲っていくお父様が、ほんの僅かに眉を寄せた。
何が、と問い掛ける前に閉じ、懐へ仕舞われた。
「わたしの……」
私のものでは、正確にはないけれど。
何かを見た。状況からそう推察は出来るけれど、もう私の記憶には残っていない。日記の内容を知りたくてもお父様は軽く首を振って見せてはくれない。ただ心配するお母様から一歩下がって、人を呼びつけているのが見えて、
「陛下に――伝令―。―――ていた――への突―は―――――方がいいか―知れない、と」
音が遠い。
拙い。
また、来るのかもしれない。
身体が浮かび上がっていくような気がする。
今度は空からの俯瞰かしら。夢見が悪くなるから好きじゃないんだけど。
「――リアは念の為―――部隊に――ない―――いだ――」
「アリエス!?」
お母様の声が聞こえる。
驚いた顔でこちら見たお父様が、珍しく血の気の引いた顔で私を見た。
浮いている。
あれ、でも、景色が切り替わらない。
身体中に薄い膜が張ったように、外の様子がぼんやりとしてくる。
代わりに内側で蠢いていたものの存在をより強く感じ取れた。
そう、と納得した。
お腹の奥に何者かの手が触れる。
軽く掻くように、指先が動いた。
痛みよりも吐き気がする。
何かが私を通って出ようとする。
まるで赤子のように、尾を通じて私からいろんなものを奪っていく。
駄目。
まだ、いやよ。
まだ逢えていない。
気持ちに整理をつけて、もっと立派になって、完璧な私として再会するんだから。
貴女は引っ込んでなさい。
押し込んで、尾を引っつかんで振り払った。
つもりだった。
深い深い穴の奥から手が伸びる。
その指先を見たと思った瞬間、飛び上がるようにして女が現れたかと思えば、私は崖から突き落とされていた。
助けを求めるように伸ばした手を取ってくれる人は、もう居ない。
彼ではなく。
「ぁ…………」
不意に思い出す。
もう居ない、私の、本当のお兄様。
落ちそうになった私の手を取って、引き寄せる為に、入れ替わりで落ちていった。
誰かの手が伸びてくる。
いけない。
思い、振り払おうとしたのに、記憶にあるのとはまるで違う女の細腕が私の手を掴み、軽々と支えてみせる。
目が合った。
「……お前が落ちろ」
「っ……!!」
かつてそうなる筈だったように。
「ぁ…………っ、ァぁああ――ッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!」
※ ※ ※
ジーク=ノートン
子羊亭に到着し、ぶっ倒れたくなるのをなんとか堪えて先の話をしようとした時だった。
笛の音が表から聞こえてきて、一度奥へ引っ込んだフロエが戻ってくる。
「呼子笛だ」
「よびこ?」
「火事なんかがあった時に鳴らして周囲へ知らせるものだって、前にハイリアが見回りやってるおじさんたちに渡してた」
「へぇ」
火事なら煙の一つもあがりそうなもんだが、顔を出してみるけどそれらしいものは見当たらない。
同じように顔を出した連中と目が合い、首を傾げる。
「長いね」
見ているとフロエもやってきた。
いつの間にかリースも居て、彼女は『剣』の紋章を浮かび上がらせると身軽に建物の上へ登っていってきょろきょろと周囲を探る。何か分かれば降りてくるだろ、思って戻ると、机に脚を乗せてふんぞり返った男が椅子を揺らしながら言った。
「お茶も出ねえのかこの店は」
「有料でいいなら出すよ」
慣れた様子で言い返したフロエが他の連中を見回して再び奥へ引っ込んでいく。
頭を掻く。
つーか、色々と想定外の面々まで集まってきてて、誰が仕切るんだと思わなくも無い。
近衛は見張りだろう数名を残して途中で別れたし、ハイリアの部隊の連中も大半が散っていった。ところが店に着いた時点で、どこかで見たようなキザったらしい貴族サマが前髪を払いながら席に陣取っていた。準決勝でハイリアと戦ってた奴が声を掛けられてたから、知り合いかなんかだろう。奥で固まってるのはフィラントの連中だ。シャスティも学園までは居たんだが、現れた偉いサンに連れて行かれた。珍しく嫌がってたけどあのちっちゃいのは確かホルノスの玉座で見た王さまの筈だ。
細かい状況と関係性がわからねえ。
誰か分かる奴が居れば説明して欲しいくらいだ。
まあ話をするにしても、ハイリアが来てからでいい。
居座ってる連中からはフロエが金を巻き上げるだろうから、子羊亭の売り上げは今日も安泰だ。
つーか、久しぶりに入ったが、やっぱり来てみれば呆気ないもんだ。
フロエとも道中、普通に話をした。
いつも通り。
それ以上は、どうしても出来なかった。
「火事ではなかった」
戻ってきたリースが言うとキザ男が前髪を払って手をこちらへ指し示してきた。
「ご苦労。大方悪戯だろうが、変わった様子でもあったかな?」
「……いいえ。あぁ、でも、なんだか見回りの人の様子が普段と違ったような」
見回りってのは鉄甲杯が始まってからの治安の悪化に、周辺の連中が始めたものの筈だ。フロエの言い方だとハイリアが一枚噛んでいるようだが、今も鳴り止まない呼子笛とかいうものも、用意したのはあの人だろう。
結局はっきりしたことが分からず、どうしたもんかと思っていたら、戸口に見慣れない男が立った。
「領主命令が下った。今日は営業を終了し、すぐに退避の準備をするように」
「どういうことだ」
反応したのは近衛の男だ。
顔付きは俺たちとそう変わらないのに、頭頂部はかなり危うい印象がある。
「これはっ、失礼しました」
知り合いだったらしく、彼が寄っていくと男は周囲へ視線を巡らせ、外へと導いた。
潜めていて声は聞こえなかったが、唇の動きは大体読める。
『まだ調査中とのことですが、地下坑道に奴隷狩りの化け物が出たとか何とかで……こちらにもはっきりとした情報は入っていないのですが、膨大な数が居るらしいということで、処理をするのに一定区画を人払いしようと……ハイ、領主命令の体を取っていますが、決断されたのは陛下と聞いています』
奴隷狩りの化け物。
その単語を読み取って、つい表情が厳しくなったからだろう、話を聞いていた方の男が片手をあげて口元を隠した。
目線で、下がっていろと言われた気がする。
肩を竦めて背を向ける。
お偉方の作法はややこしい。
必要な情報は自分で探すし、良い様に使われるつもりもないから、首を突っ込みすぎるのは危険だ。
とりあえずあのハゲ気味な兄ちゃんが、ビジットの居場所を聞いてこないだけでも気遣いか、思惑があるんだろうことは推測できる。
「なあそこの」
呼び掛けられて目を向ける。
さっきのふんぞり返ってた奴だ。
「ヨハンくんヨハンくん、あの子の名前はジーク君だよ。覚えようね」
「うるっせえクソアンナ。ちょいと声掛けただけじゃねえか名前くらい覚えてるに決まってるだろなあジェイク?」
「覚えてないねぇ、私の説明が頭に届いてないよ首辺りで止まってるよヨハンくん。それにね、机に足を乗せるのは良くないと思うの。みんながご飯食べる所だよ、あと椅子をそんな乗り方してると転ぶよ」
「細けぇ事言い続けてるんじゃねえよクソアンナ。あれだ、俺が優しくしてると思ってつけあがるんじゃねえぞ、お前くらい一瞬で組み伏せてぶち込むくらいは出来るんだからな。三秒あればイケる」
「早漏だよね。それに優しくされた覚えもないんだけど、私の足がもう椅子の脚の近くにあるのを忘れてるんじゃないかなあ? 流石にこっちの方が早いと思うんだけど」
その時フロエが盆に皆の飲み物を乗せて運んできた。
流石に数の上で無理をしたのか、ふらつきそうになったのを近くに居たくりくり頭が手伝おうとしてカウンターにあった瓶を倒す。
落ちた瓶はころころと転がった。
「っははー!! やれるもんならやってみやがれ調子に乗るんじゃねえぞオラァ!!」
アンナと呼ばれていた女が椅子の脚を躊躇無く蹴り飛ばすが、ヨハンとかいう名の男は器用に身を振って宙返りし、床に足をつける。
「よし決めた! ちょいと裏借りるわ!!」
「わあちょっと待って誰か助けて犯されるぅぅぅっ!!」
興奮した様子で走り出したヨハンに引かれ、アンナが泣き叫びながら連れられていく。
ところが謝りながら瓶を拾い上げていたくりくり頭が上手い具合に死角へ入ったようで、ふと女を振り返った時に乗りかかるようになったのを慌てて避けると、
「やーっここが伝説に聞くあの人の店なんだねー! 入ったの初めてだよー! きゃー興奮しちゃう!!」
何故か天井から降ってきた見覚えの無い女に踏みつけられて動かなくなった。
女は踵の部分が妙に尖った靴を履いていて、一つは額を、もう一つは喉元を貫いている。
「なぁんだヨハン、お姉さんがいくら魅力的だからって着地点に仰向け待機なんて変態度高くない?」
結論として呼び掛けられた理由は不明のまま、また見知らぬ人間が増えて状況が混乱した。
キザ男周辺が慌てて駆け寄り、倒れたヨハンを無視したまま女を奥へ導いていく。俺も最近周辺の女たちから扱いが雑になってきてるんだが、あそこまで酷くは無いよなってちょっとだけ安心する。
「奥で寝かせてくるね。どうせ聞いても覚えてないヨハンくんだから」
というか急所二つを中々な勢いで踏まれていたんだが生きてるんだろうか。
「大丈夫だよ、ヨハンくんだし」
同じようなことを聞いたフロエにアンナがそう返し、結局小さな男の身体を背負って奥へ入っていく。
「あー、まあなんだ。お前ら若いなオイ」
ハゲが戻ってきて呟いた。
というか、本当に纏まりないな。
※ ※ ※
ルリカ=フェルノーブル=クレインハルト
崩落の情報が私の所へ届いたのは、発生から長針が半回転してからだった。
けれど、崩落の原因が届いたのは更に一周と少しが経過してから。
最初に崩落したらしいと伝えたのは、中継地点で見張りをしていた人物だった。彼は坑道を伝ってきた震動と奥からの突風に崩落発生と予測し、一人を外へ、一人を現場の確認へと向かわせた。この時外へ向かった者が伝えた情報を元に地上からの確認部隊も編成され、同時に一帯の封鎖措置の為に守備隊詰め所へと情報を回し、それが私の所へ届いた。
そう間を置かず、地上側から陥没発生を確認した部隊が確定情報としての崩落を伝えたことで、私は未だデュッセンドルフへ留まる各国の貴族らへそれとなく現場から離れるよう話を流した。既に救助部隊も編成されて出発したという情報もあったから、これまででも起きた不幸と同じく座視するだけとなり、通常通りの仕事に戻っていた。
けれども奥へ向かった救助部隊が中々戻らなかった。
坑道への出入り口を統括していた人物は、崩落が比較的規模の大きなものである可能性を考慮し、非番の者を緊急招集した。判断の遅れは、元々が人為的に崩落を引き起こした現場での作業が続いていたことで、小規模な崩落に慣れつつあったことが挙げられる。
ただ、この遅れはさして問題にならなかった。
先発した救助部隊が一報を遅らせていたのは、合流できた者たちが極めて疲弊し、命の危険があるような負傷を抱えていた者が居たからだ。
予断を許さない状況で彼らは総出で応急処置を行った。
救助された人たちも、現場から途中道を見失いつつ走り続けたことで口も聞けない状態だったらしく、また、事態を正確に把握している人は居なかった。
彼らの多くは坑夫だ。喧嘩程度の荒事には慣れていても、薄暗い坑道内で化け物に襲われるという事態には慣れていない。事実を見た人の多くは岩盤の中か、逃げる途中で化け物に狩られたことが後に判明している。逃げられた人の多くはただ崩落を目にし、誰かの叫んだ逃げろの声に従い、そして逃げる最中に背後から響く悲鳴に追われながらそこまでやってきたのだという。結果、第一救助者を収容した統括者は曖昧な証言に繰り返す人々を厚く労い、十分な休息を取らせようとした。閉所、暗所に長時間閉じこもっていると、幻覚を見て暴れる者は昔からよく居た。生き埋めになる所だった彼らが恐怖のあまり不可解なことを口にしても不思議ではないと判断したからだ。
結果論から言えば誤った判断をした統括者は、けれど周到ではあった。
呼集した非番者を含めた救助部隊それぞれに、経験と実績のある熟練者を必ず付けるようにし、逃げ回ったらしい他の人々を捕まえるべく広範囲に部隊を展開させた。
この場合で最も怖ろしいのは、連鎖的な崩落が起きている可能性だった。地上からは大きな変化がないとの報を受けていたけれど、木の板で補強しているだけの坑道というのは本来とても脆い。板は壁の土や岩がくっつき続けているようにぐっと抑えているだけで、上にある分厚い層を支えてはいないのだから。
第二次救助部隊を送り出したことで一先ずの仕事を終えた統括者が漏れを心配して坑道の地図を睨みつけていた時、最初に救助された一人が意識の混濁から目を覚ました。
その人物は確か、目的地への崩落地点を除去していた現場の監督者であり、今日は時折顔を出していた生意気な少年を行きつけの店に誘うんだと強面の顔を緩ませていた男だった。同道していた見習いを庇って背中に大きな傷を負った、最も重症と聞いていた彼の目覚めはまさしく奇跡的で、滞っていた状況をようやく前へ進めるものだった。
彼の齎した化け物の話に、最初は貴方もかと気遣いを考えた統括者だったが、その目に確かな理性が宿っていることを見て取り、彼は今起きている事態が己の手に負えないことを理解した。
すべての情報がそのまま私の元へと運ばれ、優秀な文官たちによって統合、対策が練られ始める中、僅か五秒をハイリアへの謝罪にあてた。
崩落発生、ううん、化け物の出現から既に二時間。
ヘレッド=トゥラジアの生存は、未だ確認されていない。
「彼は今自分の居る場所が、学園の敷地内だと聞いたことで作業の中止を求めたんだよね」
大机に広げられた坑道の地図は、そのヘレッドが見ていたものの原本だ。
書き込みや塗りつぶしなど、持ち出して現場で書き込まれたものまではないけど、今朝の時点で情報は一致している。
彼はじっとこの地図を見ていた。
「……ヘレッド=トゥラジア」
確か、ハイリアの元で伝令のようなことをしていた人だ。
近衛からも家に何度も顔を出していたのを話に聞いている。
属性は『槍』。黙々と動き回り、情報を集め、主にハイリアを中心とした元一番隊員の繋ぎ役のようなものをしていた。ようなもの、とは、彼自身は統括するようなことをせず、ただ情報を行き来させ、必要に応じて収集を請け負っているだけで、相手側へ行動を一切求めていなかったからだ。
既に分かれた枠組みを彼が行き来することでやんわりと維持していた、という印象が私にはある。
ハイリアの名が彼の血肉を以って広まった、イルベール教団との衝突がおよそ一年前。
彼は最初、教団との戦いを決めたハイリアの元から去っている。けれど途中で引き返し、戦いへ加わったという。
以来の行動はやや不鮮明。
というのも、彼が裏方に回ることが増え、表向きに何をしていたかという情報が残り難くなったからだ。
直接会ったことはないけど、人伝に聞いた印象はあまり良くない。
常にへらへらと笑い、それ以外の表情を見せない。仮面であることは分かり易いけど、肉親をフーリア人との戦争で亡くしていて、普段からハイリアやメルトへの反発を隠そうとしていなかったという話もある。
また彼の所属はハイリアの一番隊ではなく、妹のアリエスが結成した部隊だ。
そんな彼が何故、元一番隊の橋渡しをし、彼らの中では最もハイリアに近い位置を確保し続けていたのか。
情報は情報を照らし出す。
複雑に入り組んだ物事を知るには一方向からじゃまるで足りなくて、掴み取った情報へ目を寄せ、周囲を探っていくことが不可欠だ。
位置が変わるだけで簡単に見えてしまう情報というのは思っているよりずっと多い。
そう、彼は言ってしまえばアリエスの部下だ。
アリエス=フィン=ウィンダーベル。
ウィンダーベル家は鉄甲杯への直接的な関与はせず、様子見をしていた。
当主のオラントは私が玉座に着いたあの内乱の終結時、後に続けと言った私を見て愉しげに笑っていた。興味深そうだった、とハイリアは称していた。
ウィンダーベル家、オラントからの情報は七割信用し、三割を疑うくらいでいい。
なら見えてくるものがある。
今回の坑道崩落には化け物が絡んでいる。
話によるとソレは魔術を使う獣であるらしい。
ウィンダーベル家は内々にジーク=ノートンを引き込み、奴隷狩りの化け物を捜索、予防と駆除に努めているという情報は随分と前から得ていた。ハイリアがその可能性を示した時には、あのカウボーイハットの少年に監視をつけていた程度には。
二つの化け物という呼称が同一であると決め付けるのは容易い。
殺しの手段が明らかに人の手に余るという報告。そして、奴隷狩り、だ。
イルベール教団の一人、ジャック=ピエールはかつてセイラムがフーリア人を殺せという啓示があったとして大虐殺を引き起こした。
現場を統括していた騎士が一時的に暴動を食い止めたものの、続く虐殺に状況は決定的となり、侵攻の手を緩めていた彼らの行動を活発化させた。
セイラム。
王都の神樹、そしてティア=ヴィクトール。
『魔郷』。フロエ=ノル=アイラ。『機神』。あのイレギュラーの姿は、まさしく翼持つ獣のようだったと、彼女を確保したウィンダーベル家の監視をしていた王都守備隊から聞いている。
繋がってみれば、随分と遠回りをしたようにも感じる。
ヘレッド=トゥラジアが接してきた情報で、彼が見ていたという坑道の地図と、現在の状況からも推測できる。
「領主命令としてデュッセンドルフ西方から南東部までは立ち入り禁止区域とし、退避勧告を。焦らせなくていい。混乱してしまう方がずっと怖いから、表向きは火事が起きた事にして人払いをする。区画ごとに退避を進めた方がいいよね、割り振りはそっちで決めて。あと山間を北へ抜けた位置に野営の準備をして、周辺都市に受け入れ態勢をするようにと。問題が長期化する可能性もあるから。それと――――」
私の理解を察してか、坑道の地図と同じデュッセンドルフの詳細な地図が持ち込まれる。
別の机にも同じものが置かれ、既に指示を受けた文官が数名掛かりで避難区画と順序を選定していく。目端の効く武官を二人そちらへ回した。場合によっては恫喝してでも追い出さなければいけないから、守備隊との連携は不可欠だ。
ついでに、
「ここと、ここと、ここと……ここ。市場があるよね。荷物を買い上げてでも荷馬車を確保して、優先避難地域に回してあげて。家財を放置出来ずに居残る人は必ず出る。速度を速める為にも各商会へ協力を求めるのもいいと思う。急場の商人は厄介だよ。お金の計算がしっかり出来る人を回して折衝させて。速度は欲しいけど、鉄甲杯での利益はまだ地方のもので私たちの手元には回ってきていないの、無駄金を使う余裕はないよ」
素早く数名が動き出し、残った者が地図を覗き込んで首を傾げる。
「先の三箇所は確かですが、こちらに市場を開くとの届けは覚えがありません」
優秀な文官は付帯する情報を全て記憶している。きっと確かだろう。
「市場の確保で縄張り争いがあって、あぶれた人たちが闇市を開いてるんだよ。ハイリアが知らせてくれて、一応の情報提供はしてあるって」
火災への対処、予防、道具の配布などだ。実際に責任者と会ったのは色町を含んだ貧民街の人間らしい。
あそこは早期に自主的な巡回が成されて極端な治安悪化が防げている。今では緊急時にと作られた呼子笛を真似て子ども向けの木笛が市場で流行っているとも聞いた。裏で楽譜をばら撒いた命知らずが居るらしく、貧民街では定期的な音楽会が開かれるようになったのだとか。
「陛下!!」
叫びをあげて駆け寄ってきた文官が手にしていた地図をこちらのものに被せてきた。
私からの指示に目をやっていたものは抗議しようとしたけど、手を向けて黙らせる。
地図は、デュッセンドルフの全体図に坑道の図面を書き込んだものだった。
まだインクが乾いていない。そこに、彼は手にしていた手帳を元に×印を書き加えていく。
「縮尺に雑な所はありますが、ほぼ一致します」
「これは……」
私の言っていた南側に印が集中する。
状況はほぼ確定する。そして、更に悪化した。
「奴隷狩りの発生地点。というより、ウィンダーベル家の日記帳からの情報によって未然に防がれた場所だね」
そういう資料が届いていたことを今更思い出す。
「はい。そしてそれは崩落によって塞がれ侵入不可能となっている範囲を示すだけではないのです」
人員を確認する。
あまり余裕はない。
私たちだけでは手が足りなくなるのは明らかだった。
地図の上で目が滑り、ある場所へ辿り着く。
このデュッセンドルフに土地勘を持ち、規律と統率を以って事に当たれる別集団が確かに居る。
でもそれは、今ジーク=ノートンによって感情の伝播による影響を避けるべく遠隔地へと誘導されたハイリアに、更なる不義理を重ねることと同義だった。
「奴隷狩り発生の予言が成された場所の近くには、先の内乱で意識不明となった人物が居住、あるいは日頃からの行動範囲としている位置とも重なります」
「三本角の子羊亭へ伝令を。あそこには二番隊の隊長も居る筈だよね。エルヴィスには借りを作ることになるけど、この先彼らの組織力も欲しい」
居並ぶ官に苦渋の表情が広まっていく。
けれど、手を遅らせて被害を増やすことは出来ない。
意識不明者の確保、そして防衛は必須。
復活者も同様とまずは見よう。
集めることで地下坑道へ満ちた化け物――――
「対象を以降、『機獣』と呼称する。セイラムの魔術を扱う獣。その性能を少しでも早く、詳細に知る必要がある。っ……坑道への連絡は」
「既に」
目の前の情報に必死で連絡の指示を忘れてた。
優秀な文官たちに感謝し、更に頭を回転させていく。
そんな中、彼らの一人がぽつりと漏らした。
「また、子どもらに犠牲を強いることになるなんて……」
パチン。両手でその頬を包み持つ。
驚いた目が、きっと彼の頭の中でも最も幼いだろう私を見る。
「皆自分で望んでここに居るよ。大人としての使命感を持つのはいい。だけど出来るなら、後に続く者が居るんだって、誇ってほしいな。そして、その姿を私たちに見せて」
「っっ――はい!!」
彼から離れ、地図を見るふりをして目を伏せる。
周囲からの目は今だって怖い。誰もが私を推し量る。幼い王。新たな時代を語る王。そして、あの英雄ハイリアが傅くに足る人物なのかと、他国の人々は私を見る。重圧から逃げ出したくなって抱き込んだ枕に叫んだりもした。
「陛下。学生らを使うのでしたら、やはり彼を召喚するべきでは」
迷わなかった。
「使い物になるかどうかも分からない人間の為に人を削ることは出来ない。命を賭すんじゃなく、命を捨てようとする人間に未来を描く資格はないよ」
私は王だ。
ホルノスの為に、かつての彼と思い描いた未来を現実のモノにしていかなければならない。
それを思えばこそ、今の彼に拘泥している暇なんてどこにもない。
貴方は私の臣下だよ。けど、この先も臣下で居られるかは、貴方次第なんだから。
私がそうであるように。
かつてこの国の為に戦ったマグナスのように。
その彼にハイリアが言ったのだから。
「緊急事態とはいえ国賓となる貴族もまだデュッセンドルフには多く滞在しているよね。私は彼らと会って、避難してもらうよう伝える。ここの指揮は任せるけど、情報は随時送って欲しい。移動経路の形成と、それに合わせた情報の更新地点を決めておこうか。私の他にはクレアを使者として送る。先の期間に私の名代としても面通しを済ませてあるから門前払いにはならない筈。一応、位の低いほうから回らせるけど、問題が起きたら私が直接行くから一時放置で構わないよ。こちらからの情報提供と避難の求めを拒否した事実があれば後はどうとでもなる」
見落としはないかと回る思考を一時封鎖した。
ここからは残る彼らの戦場だ。
「その前に、お召し替えを」
傍仕えの言葉に頷く。
国賓と会いに行くのに汚い恰好ではいけない。
実際に情報を伝達するのは私やクレアではなく、先触れとなる者たちだ。
何よりこの先、いつ汚れを流せるようになるか分かったものじゃない。
部屋を出て、導かれるまま浴室へ向かう。
のんびり浸かっている暇はないけれど、
「お召し替えの後は食事です」
「食事は馬車で摂る」
「そのように致します」
「ん」
あっという間に服を剥かれ、裸になった私へ女たちが寄ってきて髪を解き、肌を磨き、香油を塗っていく。
華やかであるより、落ち着く香りとお湯の感触にようやく息をつき、出て行こうとした老女へ言付ける。
「はんじゅくたまご、たべたいな」
そのように致します、と返事があり、今一度私は目を瞑った。
※ ※ ※
ジェシカ=ウィンダーベル
去る者は去り、残る者は残った。
他にやるべきことがあるならば去っても良かったが、私の仕えるべき主は静観したまま動かない。
暇だ。
いつもならハイリアにつっかかって、訓練相手になれと言っている所だが、今はどうにもなりそうになかった。
同じくすることの無い者がもう一人居る。
いや、
「サイ」
言葉は相変わらず分からないが、名前くらいは覚えられる。
同じ小隊の仲間であるフーリア人の少年は、まるで自分を抑え込む様にして身を抱いていた。
「何故お前は自分のやりたいことをやらない?」
問いかけは空振って、驚いた表情で首を傾げられる。
言葉というのは不便だ。
裏にある意思は同じなのに、表現する方法が違うというだけでこんなにも不確かになる。
けど、と思う。
根が同じなら通じる筈だ。
なんかもう面倒なので押し通すことにした。
「お前はハイリアに、何もしたくない、というようなことを言ったんだろう? あの男は意思ある者へ手を伸ばすのは得意だが、無いと主張された者には臆病になる。お前の嘘に何一つ気付いていないことはないだろう。けれど言い出せない。理由についてはさっき、それとなく分かったような気がするよ」
同じように否と首を振った者の背を押し、死なせたからだ。
ただの感情の波でしかないものからそこを読み解けたのは、私が同じような失敗をしてきたからだろう。
実力も無い癖に無茶をすれば、望まぬ者まで巻き込み死なせるのは世の常なんだろうか。
後悔はある。
だけど、
「私はハイリアとは違う。私は後ろより前を見たい。横暴だろう、無情でもあるだろう、勝手過ぎるのかもしれない。自分の為に死んでいった者でさえ糧として望みを得ると、私の本音は感じているよ」
お前はどうだ。
私は嘘を吐くお前を見抜いた。
それは、お前が私に近しいからじゃないのか?
サイ=コルシアス。
「お前は本当は、打ちたいと、思っているんじゃないのか?」
問えば、彼は息を呑んで目を見開いた。
言葉はきっと通じていない。
なのに今、確かに通じた気がする。
「私は同じ事を思ったぞ。私たちは今、ハイリアの絶望を知った。あの凄まじい意思を秘めた男が、膝を折らざるを得なかった程の困難と苦渋と愛情を知って、アイツの仲間たちは自分を嘆いて去っていった。けどどうだ。私とお前は残っている。なぜなら私は、あのハイリアという男がここまでの絶望と孤独を経て再び立ち上がる姿を見てみたいと思っているからだ」
それはどこまでも残酷で、彼への思いやりなど蹴り飛ばすに等しい心への暴力だろう。
共に苦楽を分け合ってきた者たちでは到底出来ない、後から続いてきた私たちにしか抱けない願望だ。
「ハイリアは私たちの長だ。その彼が、私たちの望む長であれと思うのは当然だろう」
躊躇うように挙がってくる両手を途中でひっつかみ、眼前に晒す。
待ってなんかやらない。引き摺りあげる。転んでもまた立ち上がればいいのだから。死ねばそこまでだ、なんて賢しらなことを言う奴なんて私がぶち抜いてやる。
「打て!! 最早全てを失い、戦う理由すら定かで無い男に、再び戦場に立てと武器を握らせろ!! お前にはそれが出来る筈だッ、サイ=コルシアス……!!」
かくして私たちの戦いは始まる。
さあ行くぞッ。
「ちょぉっっと待ったああ!!」
「そうだよそうだよ私たちを忘れちゃあ駄目だかんね!!」
「おっす!!」
「うん、まあいいや、お前らも来い」
「雑ッ!? すっごく雑じゃない!?」
「ジェシカ姉さまはそんなかんじだよー?」
「おっす!!」
「あの……僕は別にそういう感じじゃないので遠慮したいといいますか、仕事行かないと怒られるというか」
「よし、お前も来い。逃げればウィンダーベル家が貴様を追うぞ」
蒼白になってうろたえるアベルの手を捕まえて、もう一つを探したら、既に少しだけ前へ進んでいた。
まだ少し脅えているけど、隠し切れない輝きが目の奥に浮かんでいる。
「行くか、サイ」
「はい」
短く区切られた言葉の意味も、なんとなくは分かるから。
「なんか二人だけあいぼー? まぜてよずるっこー! ねえジェシカ姉さまー!」
「というか何で姉さまとか言ってんだお前。前は普通にジェシカ様だったろ」
「ばーか! ばーか! ばぁあああか!!!」
「痛っ!? おい止めろ殴るな馬鹿!?」
「おっす」
「お前はなんでしたり顔なんだよ!? おいなんでだよ眼鏡!?」
「ぼっ、僕に言われても分からないでしゅ!?」
「おっす……!!」
「お前ら置いていくぞ」
※ ※ ※
シンシア=オーケンシエル
かくて此度の序章は終わり、破へと移り行く。
未だ力は統合されず、それぞれの方向へと散り行くばかり。
私の書き留めた物語は僅かな変化を伴いながらも悲劇への疾走を止めようとはしない。
深く、深く、もっと深く人々を観察しろ。
どこかに希望はないか。
だれかの小さな呟きを聞き落としていないか。
見上げた空の色を、青しかないと思い込んでいないだろうか。
描き続けろ。
私にはそれしかない。
言う事を聞かない腕を無理矢理動かす。
まだ。
私はまだあの日の希望を見ていない。
紙がない。
ならば板でいい。
インクがない。
ならば血を使え。
意識が遠のく……ならばせめて、この意思だけは書き留めろ。
広がっていく血溜まりに指を付け、床へ文字を書いていく。
汚い字だ。上手く動かない。字が綺麗だと、兄さんはいつも褒めてくれていたのに。
私は書くだけだ。
勝利なんて掴めない。
誰か、この言葉を、読んで――――。
※ ※ ※
ヴィレイ=クレアライン
女の手を踏みつけ、指が粉々になるよう念入りに足を捻る。
何を書き残したのかも興味は無い。血文字はとうに消え失せた。
念には念を。
壁に掛かっていたランタンを机に放り投げ、割れたガラスの内から炎が広がっていく。
紙束なんて簡単に燃える。
何かを残した所で感動なんて糞と同じく翌日には流して捨てるだけだ。
ぼろぼろになった扉を蹴り開け通路を進む。
周囲には霧が立ち込めていた。
だからついつい死体を踏みつけてしまっても仕方ない。
「あぁ……。あぁぁっっ!! ああああああああああ……!!!」
最高だ。
「戻ぉってぇ、きたぁ、ぞぉ? はぁいりぃぁぁぁあああああああああああああああああああああああ、あああっっ!!」
天は俺を祝福している。
悲劇は娯楽だ。
なにせ、苦しむ奴等を見ている俺は苦しくない。
善人ぶって共感して涙を流してみてもいい。あるいは嘲笑って無様さに腹を抱えてみても、どっちでもいい……!!
俺は!!
苦しくない!!
有り余った時間を潰すにはちょうどいい娯楽だ。
だから苦しめ。
ハイリア。
お前には一辺の幸福すら残さない。




