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そして捧げる月の夜に――  作者: あわき尊継
第四章(上)

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152


 目が覚めた時、周囲には何の音もしなかった。

 真っ暗で、外から漏れ入る僅かな光が部屋を照らしていた。


 肩まで掛けられた羽毛布団が熱くて早々に押しのける。

 ブランケットはまだ購入していなかったか。

 石造りの壁と、寝台との間にあるサイドテーブルには栞を挟みこんだ本が三冊重ねられていて、しばらく読書をしていなかったことを思い出す。

 書店、そうだ……エリックの家がやっている店に、また顔を出そうか。デュッセンドルフへ戻ってきて一番に訪問した場所だが、泣き崩れるエリックの姉の姿が目に焼きついて、どこかやつれて見えたご両親にも、キチンと責任を果たせたかどうか分からない。

 駄目だな。まだ、顔を出す勇気はない。


 静かに、長く息を吐いていく。


 ようやく生まれた音はすぐ静寂に飲み込まれ、止まった景色の中に自分が居るのだと感じた。

 きっちり閉められたカーテン、木窓は落とされていて、窓枠に飾っていた花が枯れつつあるのに気付く。

 見慣れた天井や部屋の匂いより、花を見てようやく自分の部屋だと理解した。


 思えば俺もフィオーラもマメな世話をしていなかった。

 余裕がなかったというのが正しいか。


 二人の姿はない。

 そもそも今横になっている寝台はメルトを寝かせていて、俺とフィオーラは布団を床へ敷いて眠っていた。

 床面積が足りなくて椅子も卓もキッチンへ押し込んでいたから、朝は煩くならないよう戻すのに苦労した。

 一階には老夫婦が住んでいる。朝は早いだろうけど、世話になっている身で二階から音を立てるのは流石に避けたかったしな。


 今は何時だろう。

 暗さからして夜だが、静けさが深く、人の活動している様子がない。


 起き上がって床を踏めば、少しだけ軋む音がする。

 カーテンを開けて、木窓を押せば外の様子が見えた。

 繁華街に近い場所ならともかく、平民の住宅地には街灯もない地区が多い。

 急な坂道の向こうはすっかり暗闇で、転げ落ちていけばそのまま沼にでも落ちてしまいそうだった。


 そういえば虫の音も聞こえない。

 いや、試合中の豪雨を考えれば仕方ないのか。

 晴れた朝には顔を出すだろうが、まだ隠れているのだろう。


 窓をそのままに寝台を回り込む。


 幾分明るくなった部屋の中、食卓の上に水差しとコップと、虫除けだろう蓋が置かれているのに気付いた。

 水差しは綺麗なガラス製で、広めの器に満たされた水の中で半身を沈めている。器の方へ触れてみると、まだ冷たくて、指先に固い感触を得る。氷だ。これが溶け切らないだけの時間まで、誰かが部屋に居たのだろう。コップに半分だけ水差しから水を流し込み、唇を湿らせるように飲んでいった。

 もう少し飲もうと右手で水差しを掴みながら、蓋を開けてみた。

 サンドウィッチだ。バケットではなく、食パンの白い部分だけを切り出した、こちらでは相当な贅沢品。

 ただ、作り置きだからか野菜の類ではなくて、チーズと切った腸詰め肉が挟みこまれているものだ。病人という訳でもないから、しっかり食べられるものはありがたい。立ったまま一つを掴み、齧る。柔らかいが日本のようなもちもちという食感はない。少し乾いていて硬い、ある意味で小麦らしいバサバサした食べ心地。まあ日本製のパンは米の食感に合わせて改造したものらしいから、あっちが特殊な方なんだろう。


 米が食べたいなぁ、などと思いながらサンドウィッチを齧る。


 子羊亭で定番になりつつある炒飯も、米そのものは日本米とは違うパラパラとしたインド米だ。

 米であるのは違いないのだが、しっとりふわふわほっくほくのご飯を食べたいという気持ちは時々妙に膨れ上がってくる。


 ただ、このパンやチーズの味に馴染んでいるのも確かで、腹が減ってきた時にまず思うのは米よりもパンだ。


 しかし誰が作ったものだろう。

 この夏場で常温保存が可能だという理由から食材を絞っているようだが、同じように見えて燻製チーズが混じっていたり、パン生地に独特な風味のあるバターが塗られていたり、野菜が無いと思えばピクルスのような漬物が挟まっていて、味の強い燻製品や肉類との調和を取っていた。

 とても丁寧で、一つ一つに手抜きがない。

 調達の難しい氷が使われていることもそうだが、無駄になることを踏まえつつも最善を尽くす仕事には感心させられる。

 そもそも最近のデュッセンドルフでは旅行客によるゴミや糞尿の投棄を始めとした問題行動で川の水が汚染され、飲料水はかなり値上がりしている。暑い季節はすぐ水が駄目になる。地域で使っている井戸には寝ずの番が張り付いているくらいだ。最近は俺もワインを口にする方が多かった。アルコールは殺菌能力もあり、水より遥かに日持ちするからな。


 結局水も半分は飲み、サンドウィッチは食べ尽くしてしまった。

 思っていたより腹が減っていたのだろう。

 なまじ腹へ入れたものだから、胃袋がもっと寄越せと訴えてくる。

 キッチンへ向かうも、鍋は綺麗に磨かれていて裏返し、吊るし置かれている香草や干し野菜も単品では味気無く、チーズの買い置きも品切れだ。最近始まった訪問販売にかまけて予備を購入していなかった。朝一に届けられる食材は新鮮で料理し甲斐があるんだよなぁ、結構安かったし、夜は子羊亭で買ってきてたし。


 空腹感に腹を触って、わき腹から背中へ突き抜ける鈍い痛みを得た。

 そうか、と不意に納得する。


「…………負けた、のか」


 漏らした声が、祭りの終わりを告げる最後の太鼓の音に思えて、続く沈黙の中で顔を伏せた。


「はぁ……」


 傷は塞がっている。

 というより、最初から切れていなかったようで、触れると痛みを得るし、そこに刃が通った感触を強く覚えるけれど、縫い痕も見当たらず、傷口は少しだけ血肉が欠けたようにへこんでいた。そこから背中へ貫かれた筈だ。痛みはあるが、やはり鈍い。意識するまで気付かなかったくらいだが、試合中は出血もしていたし、最後は痛みの酷さに立ち上がるのが遅れた。


 再度息を吸って、頭に触れる。

 記憶はしっかりしている。

 腕を広げて手を握ってみれば、少しつっかえるような感覚を得るも、故障と呼べる状態にはないようだ。


 部屋の中が翳る。


 夜目に慣れてきた所だが、月明かりを雲が隠したのだろう。


 風が入り込んできて涼しさを感じる。

 部屋の中は感じていたより暑いらしい。

 窓も締め切っていたし、昼間の熱がまだ少し残っている。


 寝直すには目がはっきりとし過ぎていて、横になって呆けているのも気分じゃない。


 キッチンの脇を抜けて、扉から外へ出る。

 広さのある踊り場には夜の冷たさが降りていた。

 少し寒く感じて身が縮む。

 けど何度か息を入れ替えるに従って馴染んでいった。


 雲は薄いけど、満点の夜空とは呼べず、月明かりは雲の端に掛かっていてやはり暗い。

 手すりへ寄り掛かって空を仰いだ。


 ぼうっと、何も考えず、流れる雲を眺めている。


 昔、こうしていることが多かったように思う。


 俺自身の記憶か、ハイリアの過去なのか、ちょっと判断が付かない。

 でも、雲を長い時間眺めている時なんて、大抵が何も無い暇な状態だ。


 出かける準備がある朝では足りなくて、仕事の休憩中でもまだ駄目だ。

 何も無い休日にふと公園へ出掛け、昼食の時間も適当でいいやとベンチに腰掛けているような。


 いやそれじゃなんだか老後のお爺さんだ。


 ずっと子どもの頃の記憶だろう。

 何をしなくてもいい、遊ぶだけだった時代か。


 夏の記憶だ。

 そういえば蝉の音を聞いていない。いや、そもそも蝉の居ない地域なのか。

 ともかく湿り気を帯びた熱さの中、木陰で横になって空を眺めていた。

 昼間だったから空は青く、雲の形がはっきり見えた。幾つもの、それぞれの形で流れていく雲が重なったり離れていったり、きっとどこにでもある景色だ。


「いや……」


 違うものもあった気がする。


 そう、桜だ。

 時期はとっくに過ぎていて、葉桜になっていたけど、誰かに春頃は素晴らしい見ごたえだって教えてもらった気がする。

 お爺さんか? まあ、どちらにせよ桜だったなら日本の記憶だ。あぁ、そういえば誰かが枝を折って酷く叱られていた。桜の木は短い枝一本を折ると、太い枝が丸々枯れてしまう。桜折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿、というのは全く別の所で知った言葉だけど。


 満開の桜も好きだけど、俺は葉桜も好きだったな。

 薄桃色の木に緑色が混じりだした時の色合いが一番好きだ。

 単一であるより、入り混じっている方が、きっと見ごたえがあって、様々で、まあ、満開の桜の美しさについては同意するんだけどな。


 どれだけ呆けていたのか、大きな雲の端から端へ、月明かりがようやく顔を出し始めた。



 キィ――と、軋む音を聞く。



 視線を降ろし、一階へ向かう階段を見る。

 あがってきた。

 雲の影が吹き飛ばされたみたいに去っていって、手すりを掴んで上階へ向いた目がぼうっとこちらを見詰めてきた。


 メルト。

 ここしばらく目を覚ますことのなかった人が、そこに居る。


 あ。


 どちらからだったか、口を開いて何かを言おうとした。

 けど揃って間抜けな顔を晒したまま見詰め合っている間に、また月明かりが翳る。


 再び、あ。


 なんだかいい感じの雰囲気を完全に流してしまった気がする。


 けどいいさ。

 久しぶりだ。

 本当に久しぶり過ぎて、自分の中が訳が分からなくなっている。

 どうするつもりだったんだと、手すりを過剰なほど強く握った手を見る。間が外れていなかったら、本当に。


 吐息を落とし、前髪を抑えて後ずさり、手すりへ腰元を預けると、また不思議そうにしながらメルトが階段を上がってくる。


 すぐ近くに立ち、おそらくはこちらを見ている人へ、俺はまた手すりを握りながら、顔を背けている。


 何か言わないと。

 彼女は己の立場を大切にする人だから、このまま俺を放置して部屋へはあがれない。

 断りを入れてくれればいいのに、どうしてか何も言ってこない。


 よし言おう。


 息を吸えばすんなり入ってきた。

 声は震えなかった。

 色んな状況を経験して怯んでいても平静を装うことは出来るようになったのだ。


「昼夜逆転とは、色々大変そうだな」

 ニートっぽいよな、とか。


 ホント、何言ってるんだ俺は。

 そうじゃない。

 そうじゃないだろう、ハイリア。


「そうですね」

 ほら、メルトもちょっと笑みを含んで返してきた。

「お昼ならともかく、夜はやれることが限られていて、困ってしまいます」


「休暇と思えばいい。そうだ、父上……オラントから直々に落ち着くまでは休んでいろと言われたそうだ。夜だからやれることは限られるが、何かでゆっくり、趣味でも始めればいいんじゃないか」


「そうですね。ただ、お部屋の掃除や道具類の手入れなどは終わってしまいましたし、今も飾っていた花の代わりは無いかとちょっと町外れまで行って来たんですが、どうにも取り尽くされてしまっていたようです」


 そういえば今、デュッセンドルフで花は連日品切れだったな。

 百万本の花宣言への賛同者が家や胸元へ飾り、賛同を示すとかいう話をいつだった聞かされた。


「そんなに遠出をして……いや、危険はなかったのか」

 唐突にあの停止が来たらどうするんだと言い掛けたが、止めた。

 できるだけ、思うままに動いて貰いたかったし、今こうして無事に戻ってきているんだ。

「はい。見回りの方に何度か声を掛けられたくらいです。ちょうど内乱の折に顔を見たことのある方でしたから、護衛を申し出ていただきましたが、お断りしました」

「得物も持たずに居る時は油断するなよ」


 つい、要らぬ苦言を送ってしまうが、メルトは素直にハイと頷いた。


 しかし意識の無い時ならともかく、彼女は内乱の折、『騎士』二人を撃破している。ラインコット男爵の『旗剣』を含めた上位能力四人を向こうに回し、見事時間を稼ぎきったというのだから、そこらの暴漢では相手にならないだろう。

 あれ、この人俺より強くないですか、と思わないでもないが、そんなことは知らないふりだ。

 どの道メルトとは強さを競い合う仲ではなく、目的の為に協力し合う関係だ。


 目的。


 いや、今は止そう。


 ようやく落ち着いてきて、いい加減顔を逸らしているのは止めようと思った時だ。


「ハイリア様」


 鼓動が少し、熱を持って跳ねる。


 機先を制された。

 完全に動きを読まれている。

 ますます濃厚になるメルトさん強者説はさておき、なんとか向き合った俺の顔は絶対少し拗ねている。


「なんだ」


「いいえ」


「なにがいいえだ」


「なんでもありません」


「そうか」


 もう少し意地を張っていたかったが、メルトが楽しそうにしているからどうでもよくなった。

 なんてのは言い訳か。勝ち目の薄そうな戦いから撤退しただけだ。

 というか、何故俺はこんなにもいいようにされているんだ。


「このまま涼んでいますか?」


 まだ少し砕けた口調で、メルトはようやく俺の正面から離れ、一歩部屋の扉へ近寄った。


「そうだな……」


 身体が熱いし、まだ冷ましていたい。


「わかりました」


 言って扉を開け、部屋へ入っていくのを目の端に捉えながら、扉が閉じると同時に大きく息を吐いた。

 音が出ないよう気をつけよう、なんて考えている自分が特大の阿呆に思えて仕方ない。


 というかアイツ、趣味を探せと言った傍から仕事の話をしてなかったか。

 俺も料理はそこそこ楽しんでやるが、掃除に洗濯に炊事に諸々と、そればっかりが趣味というのも首を傾げたくなる。


 いや、この手の話は以前もしたか。


 彼女の欲を求めて、強引過ぎるくらいに誘いをして、そしてあの結果、か。


 フーリア人贔屓という評価を避け、自分から誘っておきながら、その行為を隠そうとした。


 今度は小さなため息が出て、ぼんやりと足元を眺めた。


 意識を切り替えて、すべき行動へ移すのは、向き合う勇気とは別物だ。

 悩む以上に動くことが大切な時はいい。

 だが今、俺に何がある。

 鉄甲杯を敗退し、決勝への出場が考えられていたことから解説も別の人間が組まれている。

 広告塔としての役割はなく、外交を始めとして政治的決着は既に陛下らが始めている。

 フィリップらと改めて場を設けて、トーナメントの総評をするのもいいが、こんな夜中ではな。


 強さを求めてはいない。


 かつて、ジェシカへ送った言葉だ。

 そして今、俺はヨハンとの勝負に敗れ、元一番隊で最大戦力としての地位すら失った。

 悔しくはあるが、絶望はない。むしろ彼がこれからも伸び続け、大きくなっていくことはプラスにもなるし、心強い。


 元々事の分析なんかはくり子や分析班にずっと優れた人材が居るし、部隊指揮はジンや、あるいは近衛の誰かでもいい。

 爆薬を始めとした兵器開発、戦術の組み立てや検証、確かに元は俺の曖昧な知識から派生したものだが、とっくにこの手を離れて発達していっている。


 俺にしか出来ない、特別なことなんて、もう何処にもない。


 今やホルノスで内々に目的とされている聖女セイラムの打倒。

 俺だけの目的ではなくなっている今、やらなければならないこと、なんて……本当は殆ど無かったのかもしれない。


「……駄目だな、気が抜けすぎだろう」


 自覚出来ていないだけで、もしかすると負けたことを相当に引き摺っているのかもしれないな。

 分かった所ですぐにどうにかなるものでもなし、時間があるなら少し気を抜いてみるかとも考える。


 この一時だけ。


 夜が明ける、その時には。


「ハイリア様」


 呼び掛けがあって、メルトが椅子を抱えたまま扉を開けてきた。

 急ぎ足で寄るが、

「大丈夫です。重くはありませんから」

「後ろの物も運び出すなら、二人でやった方が早いだろ」

 メルトが遠慮してくるなんて先刻承知だ。

 どうにももう一つ椅子を外へ出すつもりらしい。

 無理をして音を立てては一階で寝ている老夫婦に迷惑だ、などと言うまでも無く、メルトは素直に応じてくれた。


「掃除でもするつもりか?」


 こんな時間に、なんて考えはまだまだ俺の気が抜けているからか。


「少し、外で涼んでいる間のお時間を頂ければと思いまして」


 お時間を、とメルトにしては珍しい表現だ。

 というか今、夜会に誘われているのか?


「わか、った。あぁ。いいぞ」


 結局サイドテーブルまで持ち出して、いつの間に用意したのか麦茶が出てきた。

 焼き菓子まで添えられていて、俺の家の俺の知らない場所にメルトのヘソクリが存在したことにちょっと驚く。


 当たり前に腰掛けた俺の脇で、盆を抱えたまま控えるメルト。


「あっ」

「忘れてたな今」


 自分から誘っておいて癖が出るとは、ウィンダーベル家の教育が身に沁みすぎている。

 何のために椅子をもう一つ出してきたんだとまでは突っ込まなかったが。

 ようやく椅子へ腰掛け、手にしたままの盆を思い出して立ち上がり、台所へ戻そうか近くに置いてしまおうか足が彷徨った挙句、ポンとサイドテーブルに置いて硬直、少しして慌てて引っつかんで台所へ逃げ込んでいった。

 そういえば昔、まるで失敗しないメルトにもっと醜態を晒してみろなんて考えたことがあったな。

 隙が無さ過ぎて接し方に困った為だが、ここ最近は増えてきたように思う。

 今までは蘇生の副作用かなんて思っていたが、果たしてそれだけなんだろうか、やんちゃ娘メルトーリカさん。


 きぃ、と扉がゆっくり開かれる。


 そこから清純且つ厳粛な表情をしたウィンダーベル家のメイドさんが足音を完璧に殺し切って現れた。


「盆はちゃんと仕舞えたか」

「はい、お見苦しい所を見せてしまい、申し訳ございません」

「さっきのは急に舞いを始めたのかと思ったぞ」

「至らないこの身を恥じるばかりです」

「麦茶なんて何処に用意してあったんだ」

「厨房の石畳を剥がすと保存の出来る場所がありますのでそこに」

 へそくりの居場所が知れた訳だが、流石は仕事モードに入ったメルト、俺の繰り出すからかいや質問は全て予測済みか。

 ならば奥の手を使おう。


「今日は一段とかわ……、か…………いやなんでもない」

「………………はい」


 効果は抜群だったがこっちの間抜けさが際立った。

 ビジットやジンみたいにさらっと言えてしまえば良かったのに。


 お互いこの数分の出来事を無かったことにして椅子へ腰掛け、麦茶の清涼な呑み心地で一息つく。


 多少馬鹿をやったが、まあメルト相手だし良いだろう。

 向こうも同じように思ってくれているのであれば、いっそ清々しい。


 のんびりと夜空を眺める。


「…………負けたよ」


 メルトからの話があっただろうに、不意に落ちた沈黙の中で一番に浮かんできた言葉が漏れ出た。

 強さを求めていない、あーだこーだと言い訳を並べ立てたが、やっぱり俺は、皆の一番で居たかったんだろう。

 負けて、それで居場所を失うようには考えていないけど、悔しさ以上に喪失感が大きいのかもしれない。


 水滴が流れ落ちる。

 指先で触れて、手の甲へ流す。


「強かったなぁ、ヨハン。強くなってた。最後の最後で競り負けて、だけど偶然別の所で勝敗が決まって……決定的にならなかっただけで、俺は個人としても負けていた。いや、皆を率いるなんて考えていながら、自分の勝負に意識を持っていかれ過ぎた時点で、隊長としても俺は負けたんだ。まだまだ不慣れだろうけど、成長すれば良い将になれるんじゃないかな」


 たった一度の負けでと、自分でも思ってしまうけど、ずっと上に立ち続けてきたんだ。

 負ける事は珍しくない。諦めた訳でもない。でも、ちょっと、手持ち無沙汰なだけだ。


「メルト」

「はい」

「いつか聞いた、お前の故郷について聞いてもいいか」


 彼女は少し、迷ったようだった。

 だが俺は続ける。


「聞かせてくれ」


 頼むと、そっと息をついて、メルトは聞かせてくれた。

 海を渡り、奴隷として売られてくる以前、俺たちこちらの大陸の者によって壊される前の、平和な日々を。


「港町でした」


 さざなみのように優しく、彼女の声が耳朶を撫でる。


「といっても、こちらのような大きな波止場も無ければ、海を渡るような大船はありません。殆どが漁船で、たまに小型船で遠方の珍しいものを売りに来る人が居たくらいです。私の故郷は山に囲われていて、地理的にも要衝と呼ぶには及ばず、長年平和な状態が続いていたと聞いています。入り江にはなっていても、大きな船は納まらないので、やはり拠点としては使い物になりません。男が漁に出て、女は篭を編んで売り物にします。主要な鉱物も無く、申し訳程度に豊かな土地だけが自慢のちっぽけな土地です。危険と言えば、時折山を越えてやってくる獣くらいでしょうか」


「それなりに名家だったと聞いたが、その土地の実質的な指導者だったとかはないのか?」


 それを言っていたのは確か、フロエだった。

 フロンターク人、それも聖女の器として育てられた彼女が、奴隷商に捕まるまでの幼少期の間に聞き覚えるほどの名前だ。


「どうでしょう。父はとても厳しくて、姉共々良く泣かされていましたが、家の者以外と接する時はいつも丁寧で……遠慮、していたように思います。どちらかと言えば私たちがあの土地に置いてもらっているような印象が、あります。細かい所は、やはり姉さんの方が詳しいでしょうけど」


 トーケンシエルと、オーケンシエル。

 その類似についての解答は実に明快だった。


 フィオーラ曰く、メルトらトーケンシエルは武家、シンシアの名に冠せられるオーケンシエルは鍛冶、つまりは巫女と並ぶもう一つの魔術『錬鉄』の流れを汲むのだとか。


 何故その名を名乗っているのかについては不明点も多いが、今のメルトの言からもトーケンシエル家は元々それなりな名家だったが、地方へ落伍したという予想も立つ。

 少なくとも俺が知っているシンシアの風体はこちらの人間そのものだ。

 代役を立てていた可能性もあるが、そうなると一度はその代役を火刑台へ放り込んだことになる。仮にオフィーリアが匿っているのだとしても、彼女の信頼を受けた上であろうと信用するのは難しい。流石に違うと思うのだが。


「その姉さんとも、実は……それほど仲が良かったとは言えません」


 不意にメルトの声が重くなる。


 あれほどメルトを気遣うフィオーラを思えば、決して仲が悪いとは思えない。


 浮かび上がる思考はそのまま留め置き、メルトの横顔を眺めた。


「私は……姉さんよりも覚えが早く、父からの指導も徐々に私へ集中するようになっていきました。どうして私はこんなに厳しくされて、姉さんは許されているのか、なんて考えたこともあると思います。けど、きっと姉さんも私に追い抜かれて、父の興味が移っていくのを快くは思わなかったでしょう。そうやってズレていった時に、地方を回っていたフロンターク人の方に巫女としての適正を見出されて、私はその為の修行や勉強に集中することになりました。父は……いえ、地方の集落にとって巫女を輩出するというのはとても喜ばしいことなんです。祭事には言葉を伝えられ、こちらから呼びかけることも出来る。閉鎖された土地にとって、数少ない外との接点でもあります。大きな集落には派遣されてきた巫女が居ますが、全てに配置することは難しく、輩出した巫女はそのまま集落の大切な存在として奉られることになりますから、後継者にと育てていた私を手放して、姉さんを再び鍛え始めたんです」


 立場や状況に左右されてきた結果、ちょっとしたすれ違いで終われたかもしれないズレが、どんどんと大きくなっていった訳か。


 フィオーラ本来の性格もまだ分からないが、妹に負け、苦労を背負わせてしまう後ろめたさというのは俺も分かる。そんな中でなんとか自分を整理していたら、今度は空の上に駆け上っていってしまい、おこぼれで諦めた立場が転がり込んできて……そこでの苦労もまた、不要なんだと納得して止めていたものだというのに。


 きっと小さな、当時子どもだっただろう二人にとっては大きな努力もあったことだろう。

 けどじっくり関係を修復する時間は、ホルノスが扇動した大侵攻によって失われてしまった。


 奴隷貿易が生んだ、明確な罪の一つだ。


「そんな生活ばかり送っていたからでしょうか、私にとって故郷とは、家の敷地の中を思い浮かべることが多いのだと思います。家の窓から眺めた景色、あるいは山越えをして通っていた道中から見た、小さな集落。けど、潮の混じった匂いと、たまに漂ってくる魚介独特の匂いはしっかり覚えています。父の厳しい目も、母の優しく呼びかける声も……母は、とても物静かな人でしたが、父も母の言葉には耳を傾けて、時折私や姉さんを甘やかしてくれました」


 完璧ではなかっただろうが、きっと良い家庭だったのだと思う。

 以前メルトから聞いた両親の末路を思えば、笑顔のまま語れる話ではないだろうが、幸福を感じられる場所が確かにあった。


「…………」


 同時に一つ、思い出した。


 本当に俺は馬鹿だと、罵るだけでは足りないほどの後悔が胸を裂く。


 メルトに望みを示せと言った。

 欲を見つけ、我侭を言えなどと、一体どの口が言える。


 いつかメルトと約束をした。


 彼女を故郷へ連れて行くと。


 まだ、こんなに事が大きくもなっていなかった、夏季長期休暇での合宿で、二人夜の浜辺で戯れた。

 あの時の表情は、とても無邪気で純粋なものだったように思う。楚々と振舞うメイドとしてのメルトではなく、一人の少女の顔。


 俺はあんな昔に見ていたんだ。


 それなのに、望みを示せなんておこがましいにも程がある。


 帰りたい。

 そう言った。


 それを叶えると約束をした筈なのに。


「ぁ…………」


 不意にメルトの声が漏れて、腕が伸びてくる。

 動けず、指先が髪へそっと触れるのを呆然と眺め、ただ、彼女の顔を見ることが出来ず俯いた。


「ハイリア様。見てください」


 俯いた先へ差し出された、一枚の花びらを見る。

 最初は暗くて、よく分からなかった。外でぼうっとしていたから、どこかから流れてきたものだろう。特別珍しくもない筈の花弁に、けれど惹き付けられるものがあった。


 その花びらは、少し濃い桃色をしていて、根元は白く、先端へ向けてグラデーションを描いていた。

 小さな花びら。


 それはまるで、記憶に残る春の花のようで、


「私の家の近くにあった木も、こんな花を咲かせるんです。満開になるととても綺麗で、皆で眺めながらいつもより豪勢な食事を摂って、良いお酒が供されます。その時だけは厳しい父も、集落の人々と楽しそうに笑っていました。…………こちらで見ることは無かった木ですが、これはどこから……?」


「いや……わからない……」


 唐突に現れた花弁への驚きもそうだが、不意に俺の中で固まりつつあった景色が崩れていった。

 幼い頃見た桜の記憶。夏のように暑い空気。そこへ不意に、潮の香りが混じってくる。


「ぁっ」


 呆けていると、メルトの摘んでいた花弁が風に流され飛んでいった。

 彼女は慌てて身を捻って追いかけるも、テラスから飛び出す事も出来ず夜闇に消えた思い出の色を追う。


 しばらく名残惜しそうにしていたメルトだったが、やがて花がしおれるようにして椅子へ腰を落とす。

「はぁぁぁぁぁ~……っ」

 本当に珍しいくらい、感情的なため息だった。


「探してみるか」


 動揺はあった。

 自分の中で噛み合わない何かが軋みつつあるのに、この提案だけは何の迷いも無く言葉に出来た。


「今、風は丘向こう、鉱山寄りの北東から吹いて来ている。見付かるかは分からないが、散歩がてら探してみてもいいかもと思ってな」


 メルトはまるで、歳相応の少女のように俺をぼうっと見て、けれどしっかりと頷いたのだった。


    ※   ※   ※


 弾んだ息が石畳の上を駆けていく。

 上向いた視線はせわしなく周囲を探っていて、月明かりに浮かぶ表情は明るい。

 指先からは消えてしまったけれど、故郷を思い出させてくれる花びらの感触がメルトにこんな表情をさせるなんて、思いもよらなかった。


 もしかすると、と。


 俺はメルトに対して壮絶な裏切りを続けているんじゃないだろうかとも思う。

 故郷へ戻りたい。そう約束した時の彼女の気持ちがどれほど大きなものだったか、真剣に推し量ったことがあっただろうか。


 主人としての立場を振り翳し、例え彼女の同意を得ていたとしても、ここに居ることを強要し続けてきた。


 力を貸してくれることが当たり前のように。

 例え誰が離れていっても、彼女だけは同じ方向を向いていてくれると。

 そこを疑うことはなくとも、もし、俺に目的などなく、彼女に自由を与えることが出来ていたら、どうしていただろうか。


「ハイリア様っ」


 呼び掛けられて口を引き結ぶ。


「見付かったか?」


 感傷を封じ込め、こちらも早足で寄っていく。


「あれを」


 メルトの居た石橋から川面を覗き込むと、流れの淀む所に花びらが溜まっていた。

 月明かりはあれど街灯も落ちていて薄暗い。距離があるせいではっきりと識別出来なかったが、確かに桃色をした花びらが幾つか見て取れる。


 二人して、川上を目で辿った。


「……あるんだな」

「はい。この先に……いきましょうっ」


 あ、と思った時には、メルトに手を掴まれていた。

 興奮しているせいか、普段この程度では息も切れないというのに、妙に胸の奥が締め付けられる。


 やわらかで、でも水仕事や家事などで荒れた働き者の手だ。

 抵抗すればすぐ抜けてしまいそうなほどそっと、なのに躊躇いがちに指先がこちらの手の側面へ添えられていく。

 駆ける彼女の背中を眺めていた。それほど速度を出していないのに彼女もまた息が荒くなっているようだった。激しく動いた為か、いつも通り纏めて上げてある黒髪が解れていく。あるいは、結い方が甘かったかだ。


「――………………」


 言おうとして、止めた。

 そして川沿いの道にある小さな段差を飛び越えた時、一際大きな風が吹いて、煽られるまま髪が完全に解けた。


「っ!?」


 大きく広がる黒髪は長くて、いつか見たよりもこの月明かりの景色に良く映えた。

 髪に手をやって振り返るも、片手は俺と繋がっているから自然とこちらへ向き直るようになる。


 俺を見て、驚いたように視線を背け、開いている手で慌てながら髪を纏めるけれど、流石に片手じゃ結い直したりは出来ない。

 髪を下ろした状態を見られるのが恥ずかしいのか赤くなっているのが分かると、とうとう俺は手を握り返して離さないようにした。きっと彼女にとって髪を結い上げているのはメイドとしての武装の一つなんだ。無くなると、メルトーリカという少女がむき出しになる。

 違うのかもしれないけれど、今はそう思おう。


「~~~っ」


 メルトの困り顔というのも滅多に見られるものじゃない。

 手を振りほどくこともせず、何が出来る訳でもないのに髪を掻き集めようとして手を彷徨わせるが、風は無慈悲に美しい黒髪を月夜に晒す。


 綺麗だな、と素直に思う。


 ずっと眺めていても仕方ないので、繋いだままの手を挙げて彼女の眼前に晒す。

 動きが止まる。


「行こう」


 ここからはそう急ぐことは無い。

 歩き始めた俺を追って、引かれることなく少し後ろをメルトも付いてきた。


 カツン、カツン――靴音が深夜の街に響く。


 人の気配を驚くほど感じない。

 誰も彼もが寝静まり、この優しい暗闇の中で朝を待つ、僅かな沈黙の時間。

 夜明けが近い気がした。まだどこにも陽の光が見えないけれど夜が終わろうとしているのはなんとなく分かる。


 でも、慌てない。


 手のひらの感触を頼りに、花びらを追って街中を進んでいく。


 どこに向かっているんだろう。


 どこに辿り着くんだろう。


 行き先は分かっている。

 この先は鉱山がある。

 けど、行き着いた所で何を思うかは分からない。


 分かっていたことなんだ。

 続けていく以上、やがて起きることは分かっていた。


 それでも止まれなかった。


 街中を抜け、黒く聳え立つ鉱山の脇にそれはあった。


 俺は途中で見つけた花びらを握り締め、川の近くでひっそりと佇む木を見る。


 遠くの空が白み始めて、デュッセンドルフに朝が来る。

 不思議と、ここまでの時間を俺たちへ与えてくれていたように、ようやく街が動き始めた。

 人が息づき始める。


 月の夜が終わる。


 風に黒髪を靡かせながら、川向こうの木を、最初は目を輝かせてみていたメルトは……やがてその正体に気付いた。


「…………違う」


 その木は、俺たちの知るものととても似た花びらをしていた。

 少し濃い、桃色の花びら。


 これは、



「アーモンドの木だ」



 花びらを見た時から、違和感があったんだ。


 俺の知る桜の花びらとは、薄桃色をしている。

 でもコレは桜より少しだけ色が濃くて、人々が良く知る食用の実を付ける。

 見目麗しい事実はあっても、食用としての印象が強く、人々の心に強く根差すことはなかった木だ。


 欧州へ旅行に行った人が、よく桜と勘違いすることがあると言われるアーモンドの存在を、今更ながらに思い出す。

 気付いてしまえば違いも分かってくるが、本当に良く似ている。

 川向こうの距離で、薄暗いまま見ていたらメルトも気付かなかったかもしれないのに。

 道中あれだけの花びらが落ちていたんだ、思っていた通り、花びらも随分と落ちてしまっていた。


 眺めていたのはほんの数分だったと思う。


 けれど瞬く間に夜は明けていって、その木を照らし出してしまう。


 もし、ここにあったのが桜であったなら。

 無意味な感傷だ。


 更に目を背けたくなる事実に気が付いて、俺はメルトが気付くより先に手を引いた。

 いつの間にかしゃがみ込んでいた彼女がこちらを向いて、目尻を下げる。


「戻ろう」

「……はい」


 あの木は近い内に切り倒される予定だ。

 ここにはいずれ、大きくなっていく鉱山から伸びる橋が架かると、近くにあった看板に記されていた。


    ※   ※   ※


 メルトが朝食を作ってくれている。

 空腹感はもう何処かへ行ってしまっていたが、俺は手伝う気力も湧かず、寝台の上で本を広げていた。

 ページは一向に進まない。面白そうだと思って買い求めたものの筈なのに、同じ所を何度読んでも頭に入ってこなくて、けれど閉じてしまえば何をすればいいのかと、ずっと紙の表面のインクを眺めている。


 夜が開けてそれなりに時間は経過しているが、メルトがあの停止に襲われることはなかった。

 揺り戻しと考えるなら、止まっていた分だけ動いていられるのかもしれないが、まだまだ法則性は見えてこない。


 また少し、胸の奥が軋む。


 どれだけ穏やかな時間に居ても、アレは不意に襲い掛かってくる。

 彼女の存在を大きく感じれば感じるほど、熱の消えていく感触に怖れが強くなる。


 朝になれば目が覚めるから、という安心がどれほど救いだったか。

 けれどもうその法則性すら乱れつつある。

 いつ起きるとも知れない停止と、そこからいつ目覚めるかも分からないという、恐怖。


 平穏に過ごしていることさえ苦しくなる。


 なのに、遠ざけようとは思わない。


 自分勝手過ぎる。

 ただの主従だとか、協力関係だとか、同志だとか……そんな理由で続けていいものじゃない。


 だからではないと、しっかり己へ刻みつけながら、食事を運んできたメルトを見て、視線を本へ逃がす。


「ハイリア様」


 そよ風が窓から吹き込んだ。

 暑くなって来た中で、心地良さを感じる涼しげな風だった。

 ふわりと広がったカーテンが元の位置で静止するだけの間を置いて、


「すまない。いや……ありがとう」


 本を閉じ、寝台から立ち上がった。

 戻ってから二人して運び入れた食卓へ向かい、引いてくれた椅子へ座る。


 食卓へ置かれているのはパスタだ。

 日本で一般的な細長いものじゃなく、グラタンなどに入っていそうなもの。

 トマトとバジルと、他幾つかの味付けが施されたソースが掛かっていて、単純な俺の胃袋がすぐに空腹感を思い出した。生野菜は無かったが、漬けたオリーブが添えられている。これらもきっと、石床の裏に隠されていたものだろう。


「うまそうだ」


 そっと息をつき、素直に思ったことを口にする。


 人間、食わずには居られない。


 ましてや時間も材料も乏しい中、メルトが用意してくれた食事なんだ、気落ちしたまま頂くなんて罰が当たってしまう。


「その……いっしょに……」


 飲み物にワインを持ってきたメルトへいつも通りの誘いを掛けようとして、どうにも上手い言葉が出ず口ごもってしまった。


「ご一緒していいですか?」


 だから余計に、メルトからの申し出は呆気に取られた。

 今まで了承することはあっても自分からは決して言い出さなかったのに。


 竃から薪の弾ける音がする。


 もう俺は息を整えるのも諦めて降参した。


「あぁ……! そうだな、喜んで」


 食事は本当に美味しかった。

 お互い喋りながら食べることは殆どしなかったから、終始静かなままだったが、もどかしさの中に確かな心地良さを感じていた。

 ワインで喉を潤し、息をつく。中々に食いでがあって、普段より食べてしまったような気がする。

 満腹感に浸っていると、俺が何かを言う間もなく食器が片付けられてしまい、また竃の辺りで物音が続いた。

 あちらの片付けをしているのだろう。流石に手伝おうかと思っていたら、ちょうどメルトが小さな篭を手に戻ってきた。


「まだ少し熱いので、気を付けて下さい」


 差し出された中身を見ると、焼き菓子だった。

 砂糖まで隠してあったとは驚きだが、薄茶色をした菓子には潰した木の実が入っていて、あれ、と疑問が浮かぶ。



「アーモンドを砕いて入れてみました。あの場所に落ちていたので、使えるかなと思いまして」



 呆気に取られた。

 桜の木を求めて歩いた結末で、俺たちは違う景色を見ていたのだろうか。


 使えるから拾っておいた、なんてのは方便だ。


 不意に自分の中からどうしようもない感情が湧き上がって来るのを覚えて、俺は椅子へ腰掛けたまま食卓へ肘をつき、手で目元を隠しながら顔を伏せた。


 あぁ、と。

 もう駄目だ。

 もう、はっきりと分かってしまった。


「…………どうして、こんなことを」


 負け惜しみのように尋ねると、見てもいないのにメルトが困って言い淀んだのを感じた。

 彼女は俺が目を伏せて逃げ出そうとしたあの場所で、どうしてこんなことをしたのだろうか。


「ハイリア様は、あの木ではない……私の知る木の事を知っているのですよね……?」

「あぁ……だが、どうして分かる?」


 そういえば、そんな話をしたことはなかった。

 彼女が桜を知ることの疑問は解かれていないが、偶然故郷に同じ木があっても特別妙とは思わない。


「アーモンドの木を見て、違うものだと気付いた私と同じく、いえ、ハイリア様は私より早く気付いていたようですから。私の語った木を探していただけなら、そうはなりません」


「偶々、昔……な」


 昔。もう昔の話だ。


 そうだな。メルトの語った木がアーモンドであった可能性もあった訳だ。それを最初から桜と思い込み、違うものだったと落胆した。

 だが、彼女にあの花を見せたいという思いの隣で、俺自身も故郷の……そう思える花を見たかった。

 もう二度と見ることは無いと言われたようで、苦しかったんだ。


「私も、落ち込みました。ですが、ハイリア様が私の様子を見ていたように、私だってハイリア様を気にしていたんですから」

「どうして……」

「そんなの――いえ、当然のことです」


 それ以上は頭が上手く回らず、落とした視線に焼き菓子が差し出される。


「食べて見て下さい」


 言われるまま手に取り、本当にまだ熱くて驚きながらも、息を吹きかけて冷ましつつ、齧った。

 アーモンドの持つ食感と風味が口の中へ広がる。

 甘さは控え目に作られていて、一層引き立って感じられるくらいだ。


「……美味い。本当に」


 自然と力が抜けて、口端が広がるのを感じる。


「望むものではありませんでしたが」


 メルトは自分でも一つ手に取り、それを眺めた。


「アーモンドの木も、とても綺麗でしたよ。それに木の実はおいしいです」


 食べてみて、うんうんと頷く。

 気付けば顔をあげている自分が居て、メルトは俺の故郷を思わせる黒い瞳でこちらを見た。


 綺麗だな、と素直に思う。


「確かに違いました。けど、あの花びらが私に故郷を思い出させてくれたことは、花びらを見た時に覚えた感動は、本物です。遠い異国の地で、故郷を想える木に巡り合えるだなんて幸運、そうそう得られるものではありません。ですから――」


 そういえば、彼女はまだ髪を降ろしたままだった。

 服装こそウィンダーベル家のメイドそのものだったが、あくまで一人の少女として、俺の前に立っている気がした。


 メルトーリカ=イル=トーケンシエルは、朝焼けに見たアーモンドの花よりも、故郷で見た満開の桜よりも明るく、とても華やかに微笑んだ。



「元気を出して下さい。大丈夫です。私はその時が来るまで、貴方と共に居ます」



 手を伸ばしていた。

 彼女はそれを見て驚いたようだったけど、逃げたり、払ったりはしなかった。


 この感情に嘘はつけない。


 奈落へ落ちていくものと分かっていても、掴まずにはいられない。


 立ち上がり、手を引いて、縋るように――


「俺と共に居てくれ」


「はい」


「俺の全てをお前に捧げよう」


「はい」


「俺は、お前のことを、愛している」


「はい。私も、お慕いしています」


 だから、流れ落ちる涙を拭う必要なんてない。

 頬に手をやったのは、その為なんかじゃないんだ。

 俺が半歩を踏み出すと、メルトの方からも半歩、身を寄せた。


「メルト」


「はい」


 それは婚約を誓う言葉のように、



「俺たちの目的の為に、お前の命を、捧げてくれ」

「はい。私の全てを、貴方に捧げます」



 口付けは、楔となってその宣誓を奥底へ打ち込んだ。

 メルトは最後まで笑っていた。


 心の底から幸せそうに、笑っていた。


 涙の意味を覆い隠したまま。






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