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15

 コアラという生き物をご存知だろうか。

 オーストラリアにのみ生息する草食動物で、一メートルにも届かない小さな身体で木にしがみついている姿は、その愛らしさから動物園でも大人気だ。

 コアラは意外にも泳ぎが得意であったり、地上を走る時は機敏な動きを見せたりと、木の上で行動しているのんびりとした様子からは想像も付かない姿を見せてくれる。その中でも最も驚かされるのは、鳴き声だ。

 野太い、というより怖い。幼い頃に聞いたその鳴き声があまりにも怖くて、俺は一時期コアラを恐れていた時期がある。その声はまさに猛獣、怪獣の類だ。


 今、まさに俺の腕にしがみついて離れようとしないアリエスがそんな感じだった。


 まず俺に近づく異性への威嚇が凄い。

 普段は鈴を転がすようにやわらかな声で話すアリエスが、あの日動物園で聞いたコアラのような唸り声で接近を許さない。そして外敵を追い払った後は思う存分甘え出すという状態だった。


「アリエス」

「お兄様」

「…………なんだ」

 妙なプレッシャーを感じて言い掛けたことを飲み込む。

 俺が向けた目線に自分のそれを絡ませ、安堵するように微笑むと、堪え切れなくなったのか顔を埋めて頬ずりしてくる。

 可愛い。とても可愛い。天使だ。

 しかし、今の俺はそれにばかり注力していられない事情があった。


「ハイリア様っ」

「ガルルルルルルゥ……!」

「あぁ、クレア嬢。すまんがその距離でいい」

 俺から十メートルほど離れた位置で立つクレア嬢に、近付くと危険だから距離を置いたまま報告してもらう。彼女も、そろそろ慣れてきたらしくあっさりと頷いた。

「天幕の設営が終了しました。お話にあった近くの村には、既にビジット様とリースが代表で挨拶を終わらせています。予め話を通していたのもあって、向こうの反応は良好とのこと」

「分かった。思ったより到着が遅くなったからな、今日は食事の用意をして、ゆっくりと休もう」

 はい、と丁寧に礼をして去っていくまで、アリエスはずっと唸り声をあげていた。


 リースとの一件があって以来、彼女は可能な限り俺と離れようとしなくなった。

 腕に抱きつき、近寄る女を威嚇し、時折俺が驚くほど甘えてくる。最後の一つは何ら問題がなく、むしろさあもっと来いと思えるものなんだが、こうして小隊を動かす状態になってまで続くとなると少々困ったことが出てくる。


 現在、学園は夏季長期休暇を迎え、俺たち一番隊はジークの小隊とアリエスの小隊とで合同訓練を行っている。貴族ともなれば実家に顔を出さざるを得ず、参加者は総員の半分を割っていたが、そのほとんどは結成間もないアリエスの小隊だ。

 ウチからも数名離脱しているが、ビジットやクレア嬢、くり子を始め、主な人員は参加している。ジークの小隊からは『旗剣』の覚醒者であるリース=アトラと『槍』の術者であるポーキー君。ジークとティアは欠席していた。無論、そんな状態でフロエちゃんが顔を出す筈もなく、俺はこの日の為に計画していたあることを実現できず、悔しい思いをさせられた。


 ともあれ合宿である。

 学園から馬車で五日ほど。途中、軽い打ち合わせや暇つぶしの稽古、レクリエーションなんかを交えつつ、今日ようやく現地へ到着した。大所帯というのはどうしても移動に時間が掛かるもので、着いた頃には昼を大きく回っていて、大慌てで寝床を確保した。

 別荘なんかが都合よくあれば良かったんだが、生憎と訓練に使えるだけの広さを専有出来、移動に時間が掛かり過ぎないという条件をクリア出来るのはここくらいだった。

 五日というのも大した日数だが、電車も車も無い世界なら仕方がない。


 何より、ここは海に近い。

 海に近いんだ。


 活動の拠点として二十にもなる天幕が広がる光景は、行き交う人々が学生であることを考えなければ、ちょっとした軍の拠点に見えなくもない。中々に壮観だ。天幕は十五人ほどが寝泊まりできる大型の物で、馬車へ搭乗する班ごとに管理させている。

 天幕は、モンゴルの遊牧民が使うゲルを参考とした。

 格子状につなぎ合わせた外周骨格は、蛇腹式に折りたたむことが可能で、組み立てる時は素早く広げて外枠を作り出せる。円形に場を確保した後は中央に二本の支柱を立て、その上部に取り付けられた円形の枠から放射状に梁を伸ばす。それぞれをしっかり繋ぎあわせたら、羊毛で作ったフェルトなんかを被せて概ね出来上がりだ。他にも床面の作成や幾つかの補強なんかもあるから、実際にやってみると結構時間が掛かる。

 が、居住環境は柱二本に布を被せて広げただけの天幕なんかとは比べ物にならない。被せたフェルトを一部外せば通気性も良くなるし、広々としていてちゃんとした家の体を成すから、中にいてほっとする。

 天幕の設営、というよりは建築に近いのかもしれない。実際ゲルは馬に引かせてそのまま移動できるタイプなんかもあって、動く家なんて呼ばれ方もしているらしいからな。


 ここまで来る間、どうしても野宿が必要な場合は馬車で寝る者も居たが、大多数がこの天幕を利用していた。

 好評で何よりだ。俺自身、遊牧民のゲルには一度寝泊まりしてみたいという夢があったからな。

 後は海だ。うん。


 海道から大きく外れた平地に拠点を築いた俺たちの背後には、見通しの良い森がある。そこを数分も進めば砂浜が広がっているという状況だ。

 わかるかね。


 俺は、刺し身が食べたい。


 醤油が無いのが悔やまれる……!

 なぜ西洋には醤油が無いのか! 全く以て愚かしい! それにわさびだ! わさび醤油で活きの良い魚を刺し身にして食べたい!

 なんだ? ギャルゲー世界だろ? ちょっとくらい矛盾しててもいいじゃないか!? 中途半端に服装や食文化だけ近代化するくらいなら醤油くらい用意しろ!


 あぁ……なぜこの世界には醤油が無いんだ。

 せめて大豆が見つかれば開発も出来ようものが……今の所それらしいものは見つかっていない!


 俺の嘆きを余所に、アリエスは幸せそうに喉を鳴らして擦り寄ってくる。

 可愛い。天使だ。


 ともあれ公然とサボっている姿を晒し続けるのも良くないだろうと、用意してもらった天幕へ入る。重ねて申し訳ないが、この天幕は俺とアリエス二人用だ。他にも色んな事情を持った者たちも居るから、どれも満員まで詰め込んでいるとは言えないんだが。


「アリエス」

「はいっ、お兄様」

 二人っきりになったこともあって、ようやくコアラから人間に戻ったアリエスと向かい合う。

 嬉しそうな笑顔で俺の言葉を待つアリエスにどう言えばいいだろうか。

 彼女も今や立派な小隊長だ。先だっての総合実技訓練では十番隊を見事下し、その名を学園へ轟かせた。まだ連携が有機的に繋がっていない印象はあるものの、優れた『弓』の術者であるアリエスがしっかりと隊員を掌握し、制御していた。

 隊員として腕を磨き合う、というよりは縁を持ちたいという者が大多数であった為に、今回は大半の小隊員が不参加となっている。そういうことを考える貴族は、同じような縁を幾つも持っているだけに社交の場へ参加せざるをえんからな。


 が、事情は事情として、やはり集まった小隊員らともアリエスはもっと交流するべきだ。初勝利を収め、合宿で浮ついた今だからこそ、彼女の器量が試される。

 俺はアリエスの、その華奢な両肩に手を起き、朝焼けの中の湖水を思わせる瞳と見つめ合う。風で乱れた金色の髪をそっと払い、くすぐったそうに吐息を漏らす我が妹へ向けて、兄としての言葉を作った。


「うむ、今日も可愛らしい」

「まあっ」


 食事の用意が出来るまで、俺たちはひたすらべたべたしながら過ごした。


   ※  ※  ※


 夜。すっかり陽の落ちた空の下へ、俺は眠るアリエスを置いて出て行った。

 空を仰げば満天の星空だ。天の川と呼んでいいのかは分からないが、数えきれない星が川のように寄り集まっていて、見ていて飽きが来ない美しさだった。

 昼間のじんわりとくる暑さは大分薄れていて、今はもう風が涼しくて気持ち良い。

 草木の擦れる音を聞いた。土の香りがする。それと、これは……潮か?


 夕方までの馬鹿騒ぎが嘘のように、立ち並ぶ天幕は沈黙している。

 俺は息を殺したまま、森を抜けていった。


 広がった景色に息を呑む。

 半分の月が二つ、天と海に浮かんでいた。

 海の月は空へ目掛けて光の梯子を掛けていて、どこまでもどこまでも天の月を追っている。

 踏み込んだ砂浜に足が沈む。何歩か進む内に靴の中へ砂粒が入り込んできた。それさえも楽しむように俺は進んだ。

 さざ波の音に、近くの岸壁にぶつかる音が交じる。虫の音は森の中から。どこかで魚が跳ねたのか、小さな水音がした。

 潮の香りを胸一杯に詰め込み、俺は、海の向こうをじっと見つめる人影に声を掛けた。


「夜遊びとは珍しいな、メルト」

「……ハイリア様?」


 浅黒い肌を持つ少女は、半分の月に照らされて、その表情を浮かび上がらせた。

「邪魔したか」

 彼女が手にしていた靴を見て俺は言う。

 メルトは素足で砂浜を踏みしめている。俺の問いかけにつま先の砂が少しだけ沈んだ。

「いえ。少しだけ、昔を思い出していただけです」


 昔、か。


「生まれは……新大陸の側だったな」

「はい。そこで奴隷となり、こちらへ送られました」

 過程の多くを省いたメルトに、俺が掛けられる言葉は少なかった。


 大航海時代。そして、新大陸の発見。そこから始まる人類史上最も醜悪な行いの数々は、この世界でも変わらず行われている。実際は南アフリカでの奴隷商がキッカケだったと言われているが、古くから存在した奴隷という言葉の意味が変わってしまう程に、人類はおぞましくも傲慢な悪行を重ねた。

 新大陸へ渡った当初、原住民とこちら側とでは大きな技術的隔たりがあった。彼らには羅針盤がなく、活版印刷がなく、大海原を渡っていく船がなかった。

 医療や学問のレベルにおいても大きくこちらが進歩しており、古めかしい生活様式を守る彼らを劣った生き物としてみなした。ましてや魔術も知らず、我らが運命神の導きも知らない蛮族だと、まるで家畜のように言う者も居たという。


 この時代、実際の歴史でもそうであったように、進歩した技術や知識を持った人間が、彼らのような未成熟な文明を神か何かのように導いていく物語が驚くほど存在する。

 ほとんどの場合において、主人公は現地の風習や宗教、文化を知ろうともせず破壊する。合理性という名の強さを背景として。


 その結果として人々は豊かになるだろう。

 救われたと喜び、彼らを賞賛し、崇めるだろう。


 だが人々が数百年、数千年と積み上げてきた文明は踏み潰される。

 合理性だけを求めるなら、人は己を歯車とすればいい。それだけで何もかもが救われるなら、進歩した文明の中でディストピアを形成すればいい。

 その果てが現在の中東だ。


 優れた知識や技術は人を救う。それは間違いない。

 だが、それを扱うに足る倫理観や思想、道徳が育まれないまま発展してしまった国は、息苦しさの中で狂騒を始める。ましてやそれら人の思考に、絶対的な正義も正解もありはしないというのに。

 欧州が爆発的に発展していった大航海時代の果てに、人に種類を付けて売り買いするなんてことを始めたように、間違いはいつでも起こりうる。

 相対的であるというだけじゃない。

 人は、想い合っていて尚、分かり合うのが難しい。


 人に売られた人。奴隷となって俺に従うメルトへ、何が言えるだろうか。


「そうして……貴方と出会えました」

 俺が悩んでしまったからか、メルトはそっと笑ってそう言った。


 ありがとう?

 すまない?


 どうなんだろうか。


「こんな綺麗な星の下で、貴方と共に居られるのなら」

「いつか必ず、お前を故郷へ連れて行く」


 メルトが息を呑むのが分かった。

 衝動的な言葉だった。何かを考えて言ったものじゃない。そうしたいと、心から思えた。


「……ありがとうございます」


 その表情を見て、俺は今の言葉を誓いとした。


   ※  ※  ※


 履いていた靴を放り投げ、上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを外した。

 ズボンの裾を何度も巻き、いまは膝下まで脚を晒している。

 普段は優等生ぶらなければならないから、こんな格好をするのは久しぶりだ。人前ですればまず注意を受ける。だが、それをする筈のメルトが、今は楽しそうに俺と遊んでいた。


 スカートの裾を大胆にふとももまで上げ、脇で縛っているメルトは、普段は見せない無邪気な表情で笑っている。彼女の浅黒い肌が、飛び散る水しぶきが、半分の月に照らされてキラキラと輝いていた。

 光を纏ったかのようなメルトの姿に、俺は思わず見惚れてしまう。

 いつもは結い上げている黒髪が一際強い潮風に広がった。煽られて姿勢を崩しかけて、でもまた光の飛沫を上げて彼女は笑う。


 旅先という興奮もあっただろう。

 故郷を思わせる海辺に、感傷的な気持ちが表に出ていたのもあるだろう。

 帰してやる、という俺の言葉に、メルトは堪え切れず声をあげた。


「私っ、帰りたいですっ。故郷に、生まれ育った町にっ」

「ははっ、帰してやるさ! その時は俺に町を案内してくれよ? 見たこともないような異国の地っていうのは楽しみだ!」

「はいっ。とても素敵な場所です! こちらの教会や宮殿も素晴らしいものでしたけど、私たちの故郷にも負けないくらい大きくて立派な建物があるんです!」

「よし! まず見るのはそこだな。決定だ!」


 勢い良く返事をしたメルトが、また波に足を取られかけた。

 バランスを取ろうと振り回した手を思わず掴み、落ち着いたらしいメルトがそれを見て目を見開いた。

「あっ、いけませんっ」

 タイミングが悪かった。

 興奮していたこともあって、やや強引に手を引かれた。身分差を考えれば、彼女にとって俺は、理由もなしに触れていい相手じゃないんだ。

 引かれ姿勢を崩したのと同時、大きな波が俺たちを襲った。


 メルトは耐えた、しかし俺は、煽られるまますっ転んでしまった。

 一瞬でずぶ濡れになる。少しだけ鼻の奥へ海水が入ってしまって物凄く痛む。飲み込んだ海水の味に咳き込みながら、なんとか身体だけは起こした。波が俺の腰元を攫い、手をついた砂地が流されていくのを感じた。

「っ、申し訳ありません! お怪我はありませんか!?」

「けほっ、ぁ……っは……大丈夫だ。少しびっくりした」

 自分が濡れてしまうことも気にせず膝を付き、こちらの身体を確かめるメルトに、悪いとは思いつつ少しだけ悪戯心が湧いた。

「後でどのような罰もお受けします。ですが今はお身体の無事と着替えを――」

「メルト」

「はい!」

「起こしてもらっていいか?」

「っ、まずそうするべきでした!」

 すぐさま立ち上がってこちらの手を引こうとするメルト。


 月明かりに浮かび上がった表情はとても真剣で、でも俺はもうやることを決めていた。

 掴んだ手を、容赦なく引っ張る。

 メルトの悲鳴なんて初めて聞いたかもしれない。


 髪までずぶ濡れになった彼女は、自分が何をされたのかも分かっていない様子で身を起こす。片手は俺と繋がったままだから不安定で、だからまた波に煽られて水浸しになる。

「っ、ハハハハ! これでおあいこだ!」

「……お、おあいこなんですか?」

 混乱が続いているらしく、メルトの返答はやや不確かだった。

「メルト、泳げるか?」

「え? はい……海辺の生まれでしたから……」

「よしっ」


 ここまで来たらとシャツを浜辺へ放り投げ、半裸となってメルトの手を引く。

 少し進めばすぐに足がつかなくなった。けど、上半身の力を抜いて上手く水を蹴ってやれば、その場で立ち泳ぎするのも難しくない。メルトもそのくらいは出来るらしく、むしろ俺の泳ぐ姿に驚いているようだった。

「とても……お上手ですね」

「驚いたか?」

「はい」

 この時代、泳げない人間の方が多いくらいで、ましてや俺は大貴族のボンボンだ。領地は内陸部だし、泳ぐ機会なんて無かった。ハイリアの記憶にだってない。

 だけどな、メルト。俺の居た時代には、水泳なんて夏場の定番授業だ。泳ぐ技術の発展を思えば、俺はこの世界で最速の人間かも知れんぞ?


「少し、残念です」

「ん……?」


「海の近くへ行くと聞いて……もし出来るのなら、ハイリア様へ泳ぎを教えられたら、などと思い上がったことを考えていました」

「生憎と俺の方が得意な自信がある」

「申し訳ありません」

「反省しているか?」

「はい」

「よしっ」

 折角だから沈めてやった。


 少し笑って、俺も潜る。海水は目に染みるが、こういうのは慣れだ。ハイリアの肉体というのもあって最初は辛かったが、すぐ海中を見通せるようになった。

 流石に夜中というのもあって真っ暗だ。だがそれだけに、差し込んだ月の光が揺らめく光景には、得も言われぬ感動があった。傍らでそれを見るメルトと目を合わせて一緒に顔を出す。片手で目元を拭い、髪を掻き上げる。


「っは……そろそろ戻るか」

「はいっ。思った以上に長居してしまいました」


 足が付くほどに浅い場所まで戻ってくると、今更ながら冷静になる。

 二人揃ってズブ濡れた。天幕まで戻れば着替えはあるが、中まで濡れてしまうのは間違いない。どうしようかと考えていたら、メルトが先に言った。

「すぐ着替えをお持ちします。どうかこちらでお待ち下さい」

「いやいや、メルトも水浸しだ。お前は同じ使用人同士の天幕だから、それで戻ると大目玉だぞ」

「……皆さん、眠っている筈ですので」

「……ですので?」

「……最悪、脱いでしまえばと」

「そこまでしなくていい」

 てい。

「っ?」

 思わず頭にチョップをかました。メルトは驚いた様子で俺を見て、戯れの一つだと分かるや笑顔を返してくれる。

 しかし困ったな。俺の着替えなんかは全てメルトに預けてある。俺とアリエスの天幕にあるのは、どうしてここまで持ってきたんだと疑う程の調度品や家具の数々。確かにあると便利だが、あれだけで荷馬車二つを使ってたぞ。

 素晴らしき浪費世界だ。金が有り余ると人間ろくな事に使わないらしい。

 とりあえず、いつまでも半裸を晒しているのも何だからと、シャツを放り投げた辺りへ戻る。


 ええと、森側の大きな木の……あぁあそこだ。波打ち際からは離れた場所に落ちたからこの辺だが……あれ?


 シャツが無い。

 いや、正確には俺が脱ぎ捨てたシャツが無かった。

 代わりに折り畳まれた服一式と、そこらへ転がしていた筈の、俺とメルトの靴が綺麗に揃えて置いてあった。


「誰かが……持ってきてくれたのか?」

「いえ、ですが私の分まで? 日用品を始め着替えは私たちお屋敷の使用人で管理していますから、誰か別の使用人か……もしくは」

 となると、ちょっと良くない所を見られたかもしれない。

 学園へ通うに当たって用意された屋敷の使用人は、父上が用意した者たちが中心だ。皆俺には忠実だし、この数ヶ月で良い関係になれたとも思ってる。だが、アリエスに対する甘やかしくらいなら口止めが効くが、奴隷階級のメルト相手ともなれば話が変わってくる。


 迂闊だった……。

 旅気分でメルトが興奮しているだの考えていながら、思慮が足りなかったのは俺の方だ。まだ使用人と決まった訳じゃないし、別の誰かがウチの者に言って服だけ用意してくれた可能性もある。

 だが、探していく必要はあるかもしれない。

 もしこの話を聞いた父上がメルトに対して不審を持ったなら、彼女の処遇についての話にまで発展する。俺に彼女を手放すつもりもないが、そのことで更に不信感を持たれるだろう。下手をすると先手を打って婚約話でも持ってきかねない。


 この合同合宿は十日を予定している。帰りの五日も含めれば十五日。


 犯人、と言ってしまうのは嫌だが、俺たちを見た人物を探し出して、可能であれば口止めをしたい。合宿中は離れられないだろうから、それまでの間に見つけなければ。

 考えすぎかもしれないが、メルトの分までちゃんと用意してあったのが気になった。ああしていたのが俺とメルトであると、見た人物には分かった筈だ。


 とにかく俺たちは服を着替え、森を抜けて天幕へ戻ることにした。

 全ては明日からだ。


 小声で別れを告げて寝床へ戻ると、出た時と変わらぬ姿で眠るアリエスが居た。

 俺が横になると、彼女はもぞもぞと近寄ってきて腕を抱く。


 またコアラか、などと思っていたら、意外にもはっきりと目を開けてこちらを見た。さっきまで月明かりの中に居た俺では、灯りの無い天幕の中でその表情をはっきり見ることは出来なくて、

「お兄様……」

「……起こしてすまんな」

「……いえ」

 ぎゅう、と抱きつく動きには、普段とは違う何かがあった。

「今夜までです」

「今夜まで?」


 俺の問い掛けにアリエスは答えなかった。

 ただただ力一杯俺に抱きつき、ずっと、離れようとしなかった。




 

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[良い点] 面白いです! [一言] 今夜までです...? メルトを嵌めるみたいな...? いや、ないな。ないはず。
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