143
雑木林に囲まれた小規模な会場内で、二つの風がぶつかり合っていた。
既に陽は傾きかけており、場内は影の部分が大半を占めている。灯りを点けるにしても流石に広過ぎて、陽が落ちれば訓練など出来ない。小まめに休息と給水の時間を取りつつ早朝から続けてきた訓練ももうじき終わる。後は精々、会場内の控え室などを使ってストレッチと話し合いだ。
戦っているのはフィリップとジェシカ。
『騎士』と『騎士』の戦いとあって、とにかく派手でぶつかり合った時の煩さは中々腹に響くものだ。
俺やセレーネは観客席にあがり、至近で繰り広げられる二人の勝負を眺めている。
準々決勝突破以来、頻繁に顔を出すようになったアベルやグランツも居る。宣言通りウィルホードらは訓練に加わらないが、時折様子を見ては二人で何処かへ行ってしまう。特に言葉の通じない環境だから、同じフーリア人であるグランツが来てくれると、サイが幾分過ごし易そうなのがありがたい。今年度の主席入学者であるアベルも、流石というべきか片言だが会話が成立しつつある。
また強烈な衝撃が腹を打つ。
全身を水面へ叩き付けたような感覚があり、フィリップが大きく外へ弾き飛ばされていた。対し、ジェシカはしっかりと地面を踏み締めていて、後ろへ煽られたフィリップが地面に手をついて姿勢を整えている。更にジェシカが進む。地に足がついた彼女の突撃は安定感があり揺れが小さい。しかし逃げをうったフィリップの姿勢は整い切らず、加速が甘い。
続く攻撃でもフィリップは後退し、今度は膝を地面についてしまった。
ジェシカは追う。けれど先ほどに比べるとゆったりしている。
そして、互いに間合いへ入り込む瞬間を見極め、僅かな間の違いを置いて、『騎士』から『槍』へ。
次に煽られたのはジェシカだった。
フィリップは地面に膝をつけたまま、得意の守り姿勢で上手くジェシカの重心を振り回したのだ。
「やはり守りではフィリップに分があるな」
素直な感想を口にすると、ナーシャが頷いて同意してくる。
「そして攻めではジェシカさんが。どちらも『騎士』と『槍』の性質差を上手く使い分けてらっしゃいますし、同じものと思って相手をすると手痛い目に合わされてしまうでしょう」
「あぁ」
「あの……」
そこへ、控え目ながら声が差し込まれた。
「どうしました? アベルさん」
くり子の小隊に属する眼鏡の少年は、一度俺に目を流しつつ、応じたナーシャへ向かい合った。
逸れた視線後ろにサイが居て、俺はなんとはなしで彼の様子を伺う。
「お二人は今、何をしているんでしょうか?」
字面通りの質問ではないだろう。同じことを思ったらしいナーシャは言葉を探し、
「……アベルさんは、『騎士』と『槍』の性質差をご存知ですか?」
「はい。『騎士』には『剣』ほどではないものの、人が走るよりもずっと早く移動が出来ますし、『槍』は精々が早歩き程度の速度しか出せません。それも、早く動こうとしても移動の動き全体が鈍ってしまうようなもので、『騎士』にはそれがありません。『槍』の方はその鈍りを嫌って、相手とぶつかる際には動かずに居る場合が多いです」
「では、『騎士』の欠点は分かりますか?」
面倒見が良いからか、素直で優秀な生徒を相手に嬉しそうだ。
「ええと……」
考え込んだアベルと微笑み顔で待つ。
おそらく彼はここまで見てきた『騎士』の動きを思い出しているのだろう。
「『騎士』は打撃の際、足元が浮付いてしまう。だから、威力そのものが変化していなくても、『騎士』の打撃は『槍』のそれより劣って、しま、う?」
それは突撃によって貫通力へ転じられるものだが、真っ向から打ち合わせ続けるには向かない。
「えぇ、今やっているのは、その対策ですよ。発案はジェシカさんで、最近はフィリップさんとあれこれ研究しているそうです」
「対策ですか……。打ち込む姿勢や、踏み込み方や……握りなんかの共通点はないように思いましたけど……」
「わかりますか?」
その場を彼女に任せて、俺は階段状になっている観客席へ腰掛ける。
観客席とは言うものの、実際に席などない。大小十を越える会場を有するデュッセンドルフ魔術学園だが、二階部分の屋内に作られた二等席一等席や貴賓席を除けば、露天部分は大きめな階段になっているだけだ。皆して眼下の様子を見ようとどの道立ち上がるから、こうして腰掛けていると試合中などは何も見えなくなる。
楽しげなナーシャと、答えが見えてきて目に無邪気な好奇心を湛えたアベルを眺めながら、俺はすぐ後ろに居るサイへ目をやった。
「おっす!」
グランツも居る。相変わらず元気の良いことだ。
「うむ、おっすおっす」
「おーっ、おっす!」
応じると実に嬉しそうな「おっす」が来る。これはこれで可愛がりたくなる後輩だ。
「こちらでの生活はどうだ? フィラント王の用意した宿で暮らしているんだろう?」
頭の中ごと言語を切り替えて、彼らの言葉で話す。
サイは少し目線を彷徨わせてそっと頷いてみせる。
「はい。陛下からご恩情を賜り、不自由無く暮らせています。ただ――」
言いかけた言葉に応じようかどうかで少し悩んだ。
彼が武器を打ちたがっていないことはシャスティも把握していたようで、報告の仕方に悩むまでも無く向こうから難儀じゃろうと言ってきた。ただ俺も、彼が打ちたがらないのでと納得して終わりでは済まない。元々がシャスティから頼むと言われた相手だ。背を押すことが出来れば上々、せめてやることはやったが無理だったと言えればいいのだが、そんな事務的に処理するというのも嫌だった。
「表立っては言えないが、そちらの王に仕えていくのは楽しそうだが、大変そうだな」
「おっす」
「は、はい……」
ジェシカとの絡みが増えたことで、顔を出す機会も増え、前ほど居心地が悪そうにしてはいない。
ただ、武器の製作を断ったのが彼の中で蟠っているようで、俺に対しては余所余所しいままだ。
では作らない方向で纏めてしまい、そんなことを気にするなとしてしまえばいい。
それを躊躇っているから、いつまでも関係がぎくしゃくするのだろう。
エリックが、あの日俺に背を押されたことを後悔しているなどとは考えたくない。望んでくれていた。嬉しいと言って、彼なりの手段を模索して頑張ってくれていた。そこに疑いを挟み込んだりは絶対にしないが、では俺は……俺の手で押し出した先に命果てると知っていたら、同じことが出来ただろうか。
何度繰り返しても同じ選択をすると言い切れてしまえばどれだけ楽か。
馬鹿な感傷。
サイ=コルシアスが、このフーリア人の少年が、エリック=ジェイフリーと瓜二つであるからといって、俺が勝手に重ね合わせて考えているだけだ。
「突っ込んだことを聞くが、鎚を置いてどのくらいになるんだ?」
サイは少し悩んで、けれど思っていたよりずっとあっさり答えた。
「半年ほど、です」
思っていたより短い。
いや、彼の年齢を考えれば、十分に長いと言える時間だろう。
鍛冶師の修行がどれほどの時間を必要とするのかも分からないが、幼くして弟子入りしたとして、精々が十年そこらの経験だ。決して短くもないが、生涯勉強の職人世界では若すぎる。オスロに認めさせたというシャスティの言を信じるのであれば天才と呼ばれる人材だろう。
「そうか」
理由を聞いてみようかとも思った。
けれどあまりにも踏み込んだ話だ。
躊躇う以上に、ヨハンとの試合を目前とした今の状況で心を乱すべきじゃない。
「はい……」
サイもまた、俺に自分の胸の内を話そうとは思わないようだ。
聞いてすんなり出る程度のことであれば、生涯を懸けた一事を放り出したりはしないだろう。
「なにかが見付かればいいな。ここで、新しく始められるものでも」
「まだ、そこまでは考えていませんでした」
「そうか……」
愛想笑いもなく、何かの素振りもなく、小さな瞬き一つを置き去りに立ち上がった。
「ハイリア様ーっ」
セレーネがこちらへ手を振ってくる。
「ジェシカが相手しろって言ってますよー」
「またか……? さっきやったばかりだろ」
「今フィリップさんをのした感覚でハイリア様とやりたいんだそうですよー」
「わかった。明るさからも出来て後一戦か二戦て所だな。もう一回が来たらセレーネ、君がやるんだぞ」
えーっ、といういつもの泣き言を放って置いて階下へ向かう。
会場内へ直接降りていける道だ。ハルバードもそこに置いてある。
「おー……」
階段をあがってきたフィリップと鉢合わせする。
「どうだ、ジェシカの調子は」
「そろそろ俺じゃ手が付けられなくなってきたよ……情け無いがな」
途中から目を離していたが、やはり彼女の成長は著しい。
下地は十分にあって、『槍』から『騎士』への変化は守りを得手とするフィリップより、攻撃を好むジェシカの方が利点も大きいのだろう。
「状況それぞれに対する効力は大きな開きがない。ま、色々試しているからこその隙は今後徐々に生めていけるものだ」
「先達に言われると自信がついて仕方ないな」
軽い当てこすりに俺も笑い、すれ違いながら肩を叩く。
『騎士』の年季というならば、この中で俺が一番長い。覚醒当時から内乱まで、様々な試行錯誤を続けてきたし、実際の戦闘経験もそれなりだ。だから二人の躓く所には俺も覚えがある。そうでない部分が出始めているのは喜ばしいことだが、少し悔しくもあるのだ。
「よしやるぞっ、少し離れてた方がいいだろう? 私はあっちから始めるっ」
ジェシカが慌てるように言って、さっさと駆けて行ってしまう。
あまり時間がないんだったな。残り風に背を押されるようにして置いた机に寝かせていたハルバードを取る。
手入れはしてきたつもりだが、さすがに刃も欠け、研ぎも不均一になってきた。
改めて思うのは、オスロって本当に凄かったんだなの一言だ。素人が真似してみた所で、あの時の出来栄えには遠く及ばない。刃の鈍さは試合や訓練用としてはいいのだが、いざ敵を切り伏せるとなった時には心許無い。ナーシャもさすがに研ぎの出来る人物を擁していなかったし、サイにも頼みにくい。
「はやくしろーっ」
おっといけない、ウチのお姫様がお呼びだ。
ハルバードをぐっと握り、持ち上げた。
※ ※ ※
フィリップ=ポートマン
階下で得物と向き合うハイリアを見た。
少し考え事でもしていたのか、いつもの所作とは違っているようだったが、いざハルバードを手に歩み出た瞬間、周辺の雰囲気が変わった。
「…………ふぅ」
あれとまた向き合うことにならなくてほっとする。
この数日の内に彼はまた何かを掴んだのか、一度武器を手にすれば息苦しいほどの威圧感を放つようになった。
訓練であってもその視線を浴びると首元に刃でも触れているような怖ろしさを感じることもある。
実家の港町へ流れ着いた異国の表現を借りるなら、鬼気迫る、とでもいうような。
元々俺はハイリアに敵わなかったが、最近は好機と感じても打ち込みきれず逃す時がある。ジェシカ辺りは散々に批難してきたが、あれと好んで戦い続けようとする彼女が一番おかしいんじゃないかと言い訳したい。戦場に立った時の存在感は元々大きかったのに、いよいよ手が付けられなくなってきたのだろうか。
「おかえりなさーい」
セレーネだ。
「あぁ、ありがとう」
手拭いを渡され、心底嬉しく思って汗を拭く。
暑くなってきたとはいえ、陽が沈みかかっている今、しばらく前に感じていた寒さが混じり始めている。
「――ですから、問題なのは間、タイミングです。ジェシカさんはそこの見極めが非常に優れているんです。元々魔術の発動から移動制限の掛かり始めなんかを見極めて踏み込むのを得意としていた方ですし、上手く生きたということでしょう」
「では、フィリップさんが上手く噛みあっていないと感じる場面があるのは何故でしょう?」
ナーシャがアベル=ハイドと雑談というか、結構真面目な話で盛り上がっていた。
自分の名前が出てつい耳が寄る。
しかしその耳はセレーネに摘まれた。
「あいたたたたっ!? いきなりなんだ!?」
痛いのにじゃれ合いみたいで嬉しくなる自分が情け無いっ!
「やー、特に理由はないんですけど」
「理由もなく耳を引っ張るなんてあるのか」
「敢えて言うとちょっと耳を貸してほしかったんです」
「言えば聞くから引き千切ろうとせんでくれ」
結構強く引かれたぞ。
「まあまあそう仰らずに」
両手で少し外れた位置を示され、すんなり従ってしまう自分の扱いやすさを嘆きつつ、頼られている嬉しさを思って足取り軽く付いて行く。
石造りの手すりへ手のひらを這わせ、眼下で始まった勝負を眺める。
果敢に攻めるジェシカに、器用に間をズラしたり、加護の逆利用によって彼女の動きを乱れさせるハイリアの技量と目には感服するしかない。同じようなことは俺もしている筈なのに、あそこまでの取捨選択は出来ていない。
やれる事以上に、やれないものを見極めるのが難しい。先の勝負でも無理な防御のツケが最終的な敗北に繋がってしまった。
「ハイリア様、どうです?」
「ん? 強いぞ。考え方や見方を教えられたり、考え込んでいくほどに具体的な強さの理由が分かっていく」
「あー、それはなんとなく分かります。セイラさんて強いんだなぁって最近思いますよ」
一際強い打撃音がして、攻撃を繰り出したジェシカの方が膝を屈しかけていた。
彼女なら即座に次をと狙っただろうが、ハイリアの構えを見て硬直する。姿勢を崩したジェシカはソードランスを振り抜く構えを取れていない。今は『槍』でふんばりを得ているようだが、『騎士』に切り替えて移動しようとすれば、しっかり強打も可能な構えを取れているハイリア相手だと叩き飛ばされかねない。
防御すればアイツも打撃の加護によって吹き飛ばされるだろう。しかし打つ場所や角度を選べば影響も最小限に抑えてしまえる。かといって『槍』では鍔迫り合いに持ち込まれるとジェシカでは押し負けてしまう。
何より初撃で姿勢を崩したというのが大きかった。
さっきのを試したのだろうが、事を分かっている者相手に安定して使うのはまだまだジェシカでも難しい。
変化するというのは揺らぎだ。
上位能力を得た俺たちにハイリアがまず教え込んできたのはそれだった。
基本的な四属性から発展したと言える上位能力は、確かに状況を作る力としては上位だろう。しかし実際には一長一短があり、このような一対一となれば今まで以上の欠点を晒すことにもなってしまう。
規模の違いが出る『弓』や『盾』はまだいい。
近接戦闘をする『剣』や『槍』は、時として上位能力でない方が優れている場面は思っていたよりずっと多い。
上位能力が純然たる力を発揮するのは複数対複数の状況なんだろう。
だからといって切り替えを行おうとすれば、状態の変化が瞬間的ではない為に中途半端な空白時間が発生してしまう。
ハイリアが狙ったのはそこだ。間合いを見極め、上手く踏み込んだのだろうが、上手を取られてしまった。
「さっきは上手くいっていたと思ったんですけど、まだダメだってことなんでしょうか」
セレーネの質問に少し悩む。
「う~む」
けれど、思い切って言ってみることにした。
ダメなら馬鹿にしてもらえばいい。彼女や、小隊の者たちであれば、構わない。
「正直な所を言うとな、俺はともかくジェシカは十分に通用すると思ってる。並の相手なら変化の間を狙おうとすら思わない。思っても、そんなものをいつ練習する? 上位能力というのは本来気軽に訓練相手が見付かるものじゃないんだ。あぁ……これからは増えていくんだろうが、それでもジェシカの踏み込みは見事なものだと思う」
元々が魔術を使わない状態で、『槍』による移動制限の掛かり具合へ合わせた発動と踏み込みを得意としていた子だ。
『騎士』によって突っ込み、相手を見極め、『槍』への変化で実質的な打撃力を向上させるという手法も感覚自体は同じもの。これにも一長一短はあるが、攻撃という分野で判断するならジェシカは強い。
「……ハイリアがおかしいんだ」
こう言ってしまうのは無責任で、強引で、あまり好きになれない。
それでも思う。
「この数日は特に凄い。『騎士』は破城槌なんかの大物で相手を狙う以外じゃ打ち合わせるしか相手を倒す方法がない。大物は取り出すのにも時間が掛かるし、アイツは初動で反応してくるからな。俺は直接見ていないが、例の虐殺神父っていうのもこんなんじゃないのかと思うほどだ。まさしく鬼気迫る、という奴だな」
「危機?」
「どこだったか、異邦の表現だな。鬼……悪魔か、神話に語られる化け物じみた凄みがある、みたいな感じか」
「悪魔……」
「あー……ああ、あくまで例えだ。悪魔とはいっても大昔の教会が言っていたようなものじゃない。なんというか、褒め言葉だな。そっちじゃ悪魔とも仲良くやってる連中も居るらしいからな」
上手い言い回しが出来なくて声が萎みがちになってしまった。
さすがに好きな相手が悪魔呼ばわりっていうのは悪い例えだ。
怒らせたか……、横目で様子を伺うも、セレーネは悲しむような悔しがるような、遠くを望むような眼で戦うハイリアを見つめていた。
ドキリとする俺の耳に、更に予想外の言葉が転がり込んでくる。
「なんとなく分かります。今のハイリア様って、ちょっと悪魔じみてきてますよ」
「セレーネ……」
言われ、今まさにジェシカを下した男の姿を見る。
話せば普段通り、むしろ当初俺や本人を知らないでいた者たちの印象よりずっと柔らかく、距離が近い。向けられる信頼や誠意は、彼の功績や実力を思えば時折震えが来るものであるし、俺なんかを上位能力の覚醒者に導いた手腕は見事としか言う他ない。
けれど訓練で打ち合うと時折思うようになった。
お前はどこまで遠くへ行ってしまうんだろうか、なんて。
弱い俺の泣き言だと思った。
大きな前進を感じた後、それまで以上に力の差が開くのを感じて、手の届かない後ろ姿に声を掛けるのさえ躊躇ってしまう。
それじゃあいかん。
それじゃあいかんだろ。
俺は、もう一度、今度こそ、本当に信頼し合える仲間が欲しかったんだ。
迎えてくれたことへの感謝はしても、一歩引いてしまうなんてありえない。
思って、声を掛けて、待ってくれよと言ってみると、驚くほど呆気無く振り返って、係わり始めた当初のように気安く接してくるから…………なんと言えばいいんだろう、俺が後ろ姿と思っていたものからまず違っていたような、掴んだと思った背中を空振りしてしまったような、不確かさのような感覚が残っている。
ずっと自信が無くて言い出せなかったが、セレーネも同じようなことを感じているのであれば間違いない。
「なんで、だろうな……?」
「私、ハイリア様に振られちゃったんですよね」
全く別方向からの言葉に頭の中が真っ白になった。
「そ、それ、は……ん、んん? どういうことだ?」
冗談の類かとも思った。セレーネは常からハイリアに明け透けな好意を伝えていたし、反応はおふざけも含みながらはっきりとした否定をいつも並べていた。それを言っているのか、などと考えた自分の愚かさを呪った。
セレーネは手すりへ腕を置き、顔を中に隠してしまう。
いつなのかは分からない。
けれど、彼女がそう確信するやりとりがあったのだ。
自分の鈍さは元からだが、こんなことにさえ気付けないのかと悔しかった。
好機だとか、そんなことじゃない。
彼女が苦しんでいるのに気付けなかった。それは俺が最も改めて行きたかったものの筈だ。
「すまない……っ!」
「なんで、フィリップさんが謝るんですか」
「いや……、そう、か。いや、それでも、すまない……」
「はぁーい」
俺の馬鹿な感傷を呑み込んでセレーネは気安く返事をしてくれた。
逆だろう。俺がするべきことだろう。なのに気を使わせるなんて、全くどうしようもない。
「元々望みなんてなかったんですよ。ハイリア様だって、おふざけではあっても、気を持たせるようなことは言ってきませんでしたし、私がそこに甘えて絡んでいくと、困りながらも強く拒否なんて出来なかったでしょうしねぇ……」
上手い言葉も浮かばず俺が沈黙していると、彼女も敢えては明るく振舞わず、伏せたまま言葉を続けた。
下から覗き込んでみたら、今、どんな顔をしているだろうか。
「私たちは……背負わせ過ぎてるのかなぁ……とか、思うんです」
内乱の折、ハイリアは元一番隊の面々に、お前たちを背負わせてくれ、と言ったという。
具体的な所までは分からずとも、手の届かない強大な敵を倒すべく、彼らの無念や失意を背負って立ち、見事倒して見せたハイリアを、何も知らぬ人々は英雄だと褒め称える。
確かに凄いと思える部分は沢山見てきた。
今の鬼気迫る強さ、凄みもそうだし、上位能力への覚醒などは時代を変えるほどの影響力があることだろう。
それでも俺が身近に接してきたハイリアは、歳相応の青年でもあったと思う。
天ぷらうどんを好み、片思いを向けてくる少女への対処に悩み、妹の話を始めると周囲を呆れさせるまで続けるし、最近は低予算料理に凝っていたり、魔術の扱いについて考え始めるとジェシカ以上に時間を忘れてあれこれ試したがったり、挙句に詳しい経緯は知らないがフーリア人の少女の胸を触ったとかなんとか言われて大慌てだ。
特に、元一番隊の者たちへ向けられる信頼はあまりにも無邪気で悔しささえ覚えるものだった。
序列があるなどとは言わないが、長く苦楽を共にしてきた者たちへの関係には、まだまだ及ばないということだろう。
そんな一人であるセレーネが、彼の望んだ行為に疑問を抱いている。
「重たいものを背負い過ぎて、それでも立ち上がる人だから、擦り切れて、ぼろぼろになって、また擦り切れて、ぼろぼろになって、また立ち上がって、そうやってどんどんと鋭く研がれてきたのが、フィリップさんの言う悪魔じみてるって感じる理由なのかなって」
「……馬鹿を承知で言う。止めることは出来ないのか」
言葉の途中で、もう彼女は弱々しく首を振っていた。
「もう、犠牲が出ているから。いっぱい、死んじゃった……お葬式でもハイリア様は泣かなかったけど、目が赤くなっていたから、私たちを背負うと決めた人だから、私たちには見えない所で泣いてるんだろうな……」
眼下でジェシカが呼んでいる。
どうやらセレーネとやるつもりらしい。
「私、どうしたらいいのかなぁ……」
何も言えず、けれど俺は、俺に出来る事をしにいこうと、階段を降りることにした。
※ ※ ※
むっつり顔のジェシカは俺に視線を向けたが、すぐに観客席のセレーネへ戻した。
「俺がやる」
「んん」
我侭お姫様は不満そうで、けど更に怒らせるようなことを言わなければならない。
「ハイリア、相手をしてくれ」
「ん、俺か?」
ジェシカを見て困った顔をする。
「ジェシカ、悪いが俺に譲ってくれ」
「断る」
「駄目だ。俺がやる」
不機嫌さを隠しもせず俺を睨んでくるが、流石に慣れてもきた。
むしろハイリアの方が困惑していて、どう取り持つべきか考えているようだった。
「自分の感覚だけじゃ限界があるのは承知してるだろ。今自分のやって見せたものの何が良くて、何が悪かったのか、俺とハイリアの勝負を見て掴んでくれ」
こう言うと、ジェシカは反応が少し和らぐのだが、今日はどうにも意固地になっているらしい。
「私がやる」
「ジェシカとフィリップでやるというのはどうだ?」
「駄目だ、ハイリアとやる」
「そうだな、ハイリアとやる」
二人からすげなく言われ、苦笑いをする。悪いがそんな朗らかな反応をされる状態じゃない。
「もういい加減暗くなってきた。こう言うと悪いが、夕暮れ時は像がぼやけるから、魔術光を発する二人は俺に対して不利だぞ」
「望む所だ」
「……そうだな」
えっそうなの、なんて思ってちょっと躊躇ったが怖気付くな俺。
しかしどうやって納得させるべきか。
意地を張り始めたジェシカは厄介だ。普段は嬉しくもある我侭も、今だけは控えて貰いたい。
言葉を探している間も陽が傾いていて、それと感じていなければ暗くなっていることにも気付けないのだが、焦る俺の背後に赤い炎が降り立った。
「それじゃあジェシカは私とやろっか。そのつもりだったんでしょ?」
「ん……そうだが」
「あっちいこ、あっち。ちょっと暗いけど、そういう訓練だと思って」
なにか言いたそうなジェシカを強引に引っ張っていくセレーネに、俺は自分の情けなさを感じて頭を抑えた。
何が自分に出来ることだ。初手から躓いて、挙句助けてもらうなんて馬鹿も馬鹿。
「フィリップっ」
遠くへ目をやっていた俺に、ジェシカからの声が掛かる。
「お前に任せるぞっ!」
「………………あぁ」
全く馬鹿だ。
一緒にやってきたのはジェシカも同じなのだから、彼女が何かを感じ取っていたっておかしくない。
やるならば自分と、そう思って意地を張り合っていただけで、きっとどちらがやっても良かったんだろう。
ただ、この理由だけは俺のものだ。
押し付けでも、自分勝手でも、セレーネの苦しみを払うのは俺でありたい。
例え想い届かなかったとしても、今だけは。
「よく分からないが、フィリップが相手でいいんだな。ナーシャはアベルと楽しそうにやってるし」
「ふんっ」
鼻息荒く悪態をつくと、不思議そうな顔をされた。
「私怨だ、許さなくていい。自分勝手な俺の、余計な横槍でしかない」
実に恰好が悪い。
学園でも稀に見ることがあったな、貴族の男が平民の女に言い寄って、振られるとその男を好きな貴族の女が平民の女へ嫌がらせをする、みたいなのが。
そこまでして何になるんだと思っていたが、なるほどこんなちっぽけで下らなくて、大切なものだったのか。
傲慢で、勝手で、迷惑でしかないのは分かっている。
だが一つだけ、俺が我侭を言っていい理由が確かにある。
「喧嘩をしよう」
友人だと思うから、押し付けさせてもらう。
例え届かないのだとしても、損得も好悪も関係なしに、ぶつかってやりたいと思ったんだ。
そして、
そして――
遥か先から届く残響のように、俺は原因すら見定められないまま、敗北したのだった。




