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防ぐ瞬間、ほんの僅かに受け止める。
クッションのように沈みこませ、滑らせてから押す。振り抜くつもりだったのだろう攻撃は抑え込まれ、赤の魔術光が後方への意識に流れた瞬間、あっさりと身を引いた。
解けた手の中の剣を握り直そうとするのを叩き落して矛先を突きつける。
大太鼓が鳴った。
鉄甲杯準々決勝、突破の決まった瞬間だった。
歓声と、それに応えて掲げた拳にフィリップたちが集まってくる。
「腕の調子は良さそうだな」
「あぁ、実戦ではどうなるかと危惧していたが、思っていたより調子がいい」
片手を挙げてくるフィリップに手を合わせ、重たい矛先を地面へつけた。
まだ悔しそうにしていた相手の『剣』の術者も、そっとため息をついて去っていく。
入れ替わりにジェシカとナーシャが来た。
「これで準決勝出場決定、ですね」
「次は厄介だぞ。ヨハンの奴もう立ち上がって観戦しに来ていたから、不戦勝は諦めたほうがいいな」
「あら残念」
「ここまできて不戦勝なんてなってたまるか」
ちょっとだけ不機嫌そうなジェシカにナーシャと揃って苦笑い。
先日の試合を見て以来、彼女はオフィーリアだけでなく、ヨハンも倒すべき相手として認識したようだった。やる気が出たのは良い事だが、ジェシカの場合は多少冷めている方がいい場合もあるからどうしたものか。不思議とヨハンが認められることに誇らしさがあるから尚厄介だ。
「ハイリア、戻ったら一勝負しよう。今の試合でやったのをもう少し踏み込んで確かめたいんだ」
「これからか? 今回は俺も随分と走り回ったから少し休みたいんだが」
「足りない全てを与えてやると言っただろうっ、意地でも付き合ってもらうぞ」
「わかった、わかったから腕を引っ張るな。まずはデブリーフィングだ」
そして、とこの試合の最序盤でうっかりやらかしたセレーネがとても気まずそうな顔をして寄ってくる。
「ハハ、あーいやー、ごめんなさい……」
「前回は良くやっていたから、今回も期待していたんだがな」
冗談交じりに言うと、フィリップが大きく頷いて俺の言葉を継いだ。
「安定性が足りないというのは、やはり基礎が不十分だからだ。前回も戦果こそ上げたが、最後の最後で些細な失敗をしていた。純粋な基礎の部分で上回って勝てるようになれば、序盤での失敗も減るし終盤でしっかり生存できるだろう」
「はいっ、基礎頑張りますっ!」
「体力的には十分余裕があるだろうから、ジェシカの相手はまずセレーネにやってもらおうか」
「うむ、いいかもしれん。前回は勝てたといっても辛勝だったしな」
とりあえずジェシカの相手を押し付けることに成功したので俺の休息時間は稼げたという訳だ。
前回セレーネに一歩及ばなかったことを心底気にしていたジェシカは、既に対『旗剣』へ向けて情熱を燃やしている。
フィリップの言へジェシカは熱心に頷く。小隊長だったというのもあるだろうが、やはり彼は面倒見が良くて、戦いへの薀蓄には中々納得させられるものがある。
わいわいやりながら先を歩く三人から少し遅れて、ナーシャと隣り合って草原の会場から出て行く。
歩く速度が落ちたのは、フィリップたちが出入り口へ入って、俺たちがまだ開けた場所に残っている時だった。
「そういえば、最近アリエスとは会っているのか? 今はこちらへ参加しているとはいえ、学園ではアリエスの小隊に属しているんだ、連絡くらい取ったりは?」
数歩先へ進んだナーシャは観客席へ目をやった。
「お会いしていません」
「そうか。学園にも顔を出さないくらいだから、やはり忙しいんだろうな」
「そのようです。一応小隊の人員には私から連絡を取って、組織は維持しているのですが、このまま宙ぶらりんが続くと少々危ないですね……」
実質的な活動もなく、小隊長の不在が続くとなれば、流石に仕方の無いことだ。
ナーシャが俺の部隊に加わったのはアリエスからの指示というし、俺に対しても頼むという手紙があった。せめて具体的な指示の一つでもあれば落ち着くのだろうが、彼女にさえ何もないとなれば難しい。
「小隊を解散させた俺が言うのもなんだが、仲間は大切にするものだ。今度会ったら説教だな」
「あら、ハイリア様があの方を叱る所なんて想像できませんね」
「俺だって言う事は言うぞ。愛する妹だからこそ、正す所は正さねばならん」
それも会えなければどうにもならないんだが。
通路へ入って、周囲の暗さに景色がぼやける。
「ハイリア様ーっ」
曲がり角でセレーネがこちらへ手を振っている。
遅くて気を使わせたか。
「今行く」
声を投げて、そのまま進もうとした。
「ハイリア様」
静かな声が歩を繋ぎ留める。
セレーネが見ている。ジェシカが不機嫌そうに、フィリップが気遣わしげに、見ている。
だから留まったのは僅かな時間で、
「貴方は今、ジーク=ノートンが何処にいるかご存知ですか?」
「……いや」
最近フィオーラからそちらの名で呼ばれる事が増えたからか、つい自分の過去が探られたような気がした。
ナーシャは俺の答えを聞いて、一度目を閉じ、ぼやける暗さの中へ馴染むように音も無く進んでいった。
「彼は……新大陸には向かっていない」
質問を送るには離れた背中を、ようやく慣れてきた目で追う。
そうか、アイツが。
「このデュッセンドルフに居る、ということか」
呟きに彼女は答えない。
今の会話の流れを考えればそれ以上さえ見えてくる。
ジーク=ノートンがこの街に居る。
それは、看過できない程の問題だ。
※ ※ ※
訓練用に借りた会場へ向かうと、誰も居ない筈の場所にウィルホードを始めとしたくり子の部隊員らがやってきていた。
街中から大きく外れ、言い方は悪いが集客を見込みにくい下位小隊の総合実技訓練に使われるような場所だから、一般に場所はあまり知られていないし、通り掛かるということはまず無い。詰め所が修理中である為、ここ最近はずっと借りっぱなしにしていたのだが。
「私が呼んでおいた」
どこか自慢げにジェシカが言って寄っていく。
以前は目を合わせるのも怖れていたアベルが、気後れしながらも挨拶に答えている。相変わらずおっすしか言わないグランツも、表情はどこか力が抜けていた。
なるほど、前回の食事で盛り上がってもいたから、かなり打ち解けてきたんだろう。しっかりと腕を掴んで引っ張っていかれたサイは言葉の通じるグランツが居るおかげもあるだろうが、やはり安心した様子だった。
訓練の場へ呼んだということは、付き合ってもらうつもりなのだろうか。
ジェシカは結局対抗意識を向けていたアベルを討ち取ったのでもないし、俺を追い詰めていたグランツへの新たな闘志を燃え上がらせ、具体的な戦い方についてフィリップとあれこれ意見交換をしていた。
気付けば俺たち皆、ジェシカの意欲と行動に振り回されている。
悪い気はしない。あれだけ主体性を持って腕を磨く場を自ら整えてくるのだから、もっと出来る事はないだろうかと考える。
話しつつ中へ入っていく下級生らを追いかけながら、歩を緩めてこちらへ合流したウィルホードが、さわやか全開な笑顔を浮かべた。
「準決勝出場おめでとうございます」
「ありがとう」
短く応える。
殊更険悪にはならないだろうが、悔しさはどうしても残る。
いや、向こうから普通に接してくるのだから堂々としているべきだろうか。
言葉を探していると、先にウィルホードが次の話を切り出してきた。
「私たちはアベル君やグランツ君らを送り届けにきただけです。流石にヨハンたちに悪いですからね」
「本来ならこうして助力してもらうこと自体、避けるべきではあるんだろうが」
ジェシカのすることだから仕方ない。
我が家の末っ子を止められる者も、止めようとする者もウチには居ない。皆我侭言われるのがちょっと嬉しいくらいだからな。
「あれぇ? セイラさん、試合前に見た時とルージュの塗りが変わってませんか? 何があったんですかねぇ????」
「なっ、なにもありませんっ、なんでそんな所にまで気付くんですか!? 会場は暑かったんですからお色直しくらいはしますよっ」
「そういうことにしときますねー」
「……あの、本当に今回は何もありませんから」
「へぇ今回はー?」
「っっ」
なんだか分からないがセレーネは随分セイラと打ち解けたようだし、会話が盛り上がっているのは良いことだ。
普段落ち着いていて声を荒げることのないセイラが随分と興奮しているし、ウィルホードが視線を泳がせて咳払いをするのは何故だろうな?
しかし、と周囲を見回すが、
「くり子ちゃんは来ていませんよ」
「ん、そうか」
「今日は朝からクレアさんの所へ行っているようです」
「そう、か」
歯切れの悪い俺にウィルホードが何かを察したようだが、あえて突っ込んでは来なかった。
あまり手入れのされていない茂みから小鳥が飛び出してくる。体格の大きめな固体が一羽、すぐ近くの木の枝へ留まると、大きく迂回した一羽がその隣へ降り立つ。幾度かの囀りがあり、大きな方が飛び立つと、しばらくして別の小鳥が近くへやってきて、残された方へ身を寄せた。
大きな方を追ってみたが、飛び立ったものの行き場が見付からず、まだ近くをうろうろとしていたが、やがて木々の向こうへ姿を消した。
何が悪かったのだろうか。
何か、何でもない理由でもそれが伝えられたら違っていたのだろうか。
「ハイリア様」
呼びかけに視線を戻す。
セレーネだ。さっきまでウィルホードが近くにいたのだが、彼はこちらへ視線を残しつつもセイラと共に会場内へ向かおうとしていた。
目の前に一輪の花が差し出された。
そこらで摘んできたと思われるなんでもない野花を手に、何を思ったのか前髪をさらりと払い、
「憂い顔も素敵ですね、結婚しましょう」
「――――」
咄嗟に、断りの言葉を入れ損ねた。
この手の絡みはすっかり慣れ切っていて、いつもなら素っ気無く答えた俺にセレーネがまたふざけを重ねて騒ぎ出す所だ。
吐息を呑み込み、目の前の野花を受け取ると、空に透かしてみた。
手のひらを太陽に透かすと血管が浮き出るそうだが、生憎と雲が掛かり始めた空に透かしただけでは、花びらには何も浮かび上がってこなかった。
「そろそろ身を固めようかと思ってな」
「えっ!? 嘘、いいえホントですか!? やったーっ、ハイリア様を口説き落としましたよセイラさーん!」
「セレーネ以外の誰かとな」
「ざっくう!?」
身を捩ってショックぶりを表現する姿につい笑みを溢し、自分の中の感情が整理されていくのが分かった。
なるほど、彼女とのこういう戯れは楽しいし、好意を向けてくれることは嬉しいけれど、俺にとっては恋人であるより、良き友人なのだ。大切な仲間だし、その為ならば命懸けにだってなれるが、伴侶としての姿はちょっと想像出来ない。
「ちょっとちょぉっとそんな期待させるような言い方はひどいですよおおっ」
「ははは、すまんすまん」
彼女もなんとなくそれに気付いているような気がする。
「今夜一晩付き合ってくれたら許してあげます」
「婚前交渉はしない予定だ」
「結婚すれば解決ですね」
「セレーネ以外とな」
「愛人という立場も別に悪くないと思うんです」
「どうだろうな、俺は複数人を娶るようなことは出来ないと思うぞ」
「ハイリア様は勿体無い性格してますよねぇ、私だったら十人くらい囲っちゃいそうです。そこが素敵なんですけどぉ」
「十人も娶るとなれば相当な資金力が必要だな。妻だけでなく、子の養育費も掛かる。大貴族でもなければ難しそうだ」
好色家の中流貴族が調子に乗って大勢娶ったはいいものの、借金まみれで没落したなんて話もあるくらいだ。妻もそうだが生まれた子どもの先がどうなるやら。ハーレムなどは財と権力の象徴で、貴族だから一夫多妻だなんて甘いことを考えていたら身を持ち崩す。心情的な部分を置いても、仮とはいえ騎士候風情には不可能な話だ。
「それじゃあ許してあげませーん。ぶーぶーっ」
「セレーネ」
「はぁいなんですか?」
「……すまない」
「――べっつにーっ、いいですもーん」
ひらひらと手を振ってウィルホードらを追っていくセレーネを見送り、またしばらく空を眺めた後、俺も会場内へ入っていった。
近頃は快晴に恵まれていたが、徐々に天候が崩れつつあるようだ。
※ ※ ※
「あまり……会わない方が……いいのかも……知れんな……ッ!!」
開口一番、下手くそなモノマネでフロエが俺を迎えた。
「ふむ」
顎へ手をやり、
「もう少し貫禄は出ないのか? 仮にも奴は大貴族の嫡男として生きてきたからな、もう少し頑張って貰えないと雰囲気が出ないぞ」
「うわぁ殴りたい」
実は三本角の子羊亭は、学園側からの帰り道を迂回することで顔を出せる。
最終的に心臓破りの急斜面を登ることにはなるのだが、こちらからなら途中まで階段で行ける。どちらが辛いかは人次第だ。
因みにフロエも台詞の時に前髪を払っていた。
なんだろう、貴族男ってそんな前髪ふぁさーってやるイメージなんだろうか、庶民的に。
「今日は一人なんだ」
後ろを覗きつつ溢す。
「いつも大勢引き連れてくるから期待したのに、一人かぁ……」
「しかも今は金が無いから、一番安いのを二つ分包んでくれ。持って返って食べる」
「アリエスが聞いたら気絶しそうな言葉だなぁ」
不意に名前が出てきて、話を振るのが遅れた。
ちょうどやってきた別の客を迎えたフロエは、軽く手を振って離れてしまったので、仕方なく入り口近くの席へ腰掛ける。
なんとなく羊の剥製を確認した。
いつもなら奴が何かを書かれた紙を咥えているのだが、今日は額に括りつけられる形で『食い逃げ死罪』との事だった。
なるほど多用な人種がデュッセンドルフを訪れ、一時よりは少し落ち着いたものの、鉄甲杯決勝が近付いているとあってまた人口が増えていると聞いた。そうなれば軽犯罪も増えるものだ。フロエの今の悩みは食い逃げ撲滅と、そういうことだろう。
大きなイベントには窃盗置き引きスリなどを生業とする者たちも集まってくるという。警備も会場付近に集中しがちだから、こういった貧民街やその付近などの除外されやすい場所は治安が悪くなるのかもしれない。
「自警団? 自分の身は自分で守るものだよ。そういうのはそっちの仕事じゃん」
包みを持ってきたフロエに金を渡し、ついでに話を聞いてみるが、ある意味で予想通りの返事がきた。
確かにその通りだ。国がするべき行為を、しかも無償での奉仕を求めるなど、体制側から提案すべきではない。ただ俺が言いたいのは、やれという話ではなく、それらしいものがないかというものだ。
「あーでも、ここら一帯の顔役の人が何か言ってたかな。こないだ大通りの方でボヤ騒ぎもあったらしいし、若いのを集めて何かやろうかとか。ウチは人が足りてないから断ったけど、具体的に何するかも決まってなかったようなものだよ?」
「それだけでもありがたい話だ。実の所、警備の数が足りていない。そのボヤ騒ぎも偶然市場の代表者が近くに居たから素早く対処出来たものの、下手をしたら大勢の死傷者が出ていたかもしれないからな」
今や本来陛下の護衛をするべき近衛兵団ですら一般警備に駆り出されているくらいだ。
表だって減らすとは言えないものの、陛下がより質の高い近衛のみを身辺に置くと宣言し、腕っ節はともかく学力検査をクリアできない者たちは皆別の場所へ放り出された。代わりに都市警備や学生らを建物外部ではあるが警備として採用し、補充としている。
この狙いは数を減らすというより、円滑な配置換えの為だ。
王の周辺は近衛が、というその他数えればキリがない貴族社会のしがらみによって住み分けされている警備分布や指揮系統に手足となる近衛を配置し、別系統の連絡網を組み直した。王の周辺警護という大役から蹴りだされてやってきたとなれば、殆どの組織からは嘲笑か憐れみで迎え入れられる。軋轢は少なく、兵団は元々その手の扱いに慣れているし、即応部隊としての本質を考えればそれなりに上手くやるだろう。
更には質で劣るデュッセンドルフの警備や学生らを、王の周辺という名目で迎え入れるのなら、それは名誉であることだし、意欲の向上に加えて彼らを鍛え上げることが出来る。いかに王の後ろ盾があるとはいえ、兵団がそのまま他組織へ首を突っ込んであれこれ指導などすれば反発は免れない。
後は一番の大事と言える陛下自身の身の安全が確保されるのであれば、この策は上手くいったと言えはするだろう。
頼むから何事も無く終わって欲しい、本気で、下手なことでもあったら近衛兵団全員の首が飛びかねない。
ともあれそれくらい状況は逼迫している。
既に不足が見込まれる食料物資などは周辺各国へ発注がされており、上手く利益還元が出来つつあるのだが、その情報が行き渡らないまま冬越えがと役場へ嘆願に現れる者が後を絶たない。
「実際に動き出したら教えて欲しい。援助をするというのも違うが、体制側と連絡手段を確保しておけば、何かあった場合にお互い手を回し易くなる筈だ」
「そう。それじゃあ次来た時に伝えとく」
「助かる」
可能なら詰め所となる場所へ顔を出し、手土産でも渡しておきたい。
具体的な手段を指示するのではなく、どういった問題が起きるかなど、実際の案件を提示する形での協力が望ましいだろう。やることはコンサルタントに近いし、こなせそうな人間には幾つかアテがある。一度二度の訪問で得られる恩恵としては十分過ぎるものの筈だ。
後は、そうか、以前民報の記者がデュッセンドルフを拠点とした支社と立ち上げたと言っていたな。
それに合わせて印刷の効率化や販売ルートの確率化が進み、道行く人々が手にする新聞にその名前を見ることが増えてきた。
腰に短剣を下げた『剣』の術者が、大きな新聞入れの鞄を持って街中を駆けていくのを朝の移動時にはよく見るし、権力図のせいで変な所で情報が分断されている貴族社会よりよっぽど効率に情報の拡散が出来る事だろう。
今回のボヤ騒ぎは極めて幸運に恵まれていた。出火元近くに防火用水を備えた店舗が幾つかあり、消化に利用されたという。現場指揮を行える者が居たのと合わせて、混乱も少なく二次被害も避けられた。これらを広く広報することで自発的な行動を引き出せるのが一番良い。官権で箱を指定した所で正しく使われる確率は非常に低い。明日にでも文官に調査と文章を纏めさせて、打診してみよう。
囲み記事を書きたいとも言われていたから、交換条件か、視察という形をとって取材に混ぜるなり……まあその辺も文官の判断に任せるか。
人が動けば物と金が動く。
鉄甲杯は多くの軋轢や問題を起こしながらも、爆発的に物事を発展させている。
新たな印刷機の開発も進んでいるそうだ。今回の儲けで民報が想像以上に力を持つようになった。かつての陛下から言わせればいずれ腐敗するのだとしても、今の官報のみに絞られた環境がまず不健全なのだから、悪いことと言い切ることは出来ない。
色々と考え事を進めながら、包みを荷物袋へ仕舞いこむ。折角の食事が傾いて崩れてしまうのは困る。訓練や試合で使った衣服を底にし、手拭いなんかの比較的マシな方を上にしてあるから大丈夫、だと思う。帰ったら洗濯しておかないと、暑くなってきたからカビてしまいそうだ。
そうだ、水汲みはどうするか、などと考えていたら、まだじっとこちらを見ているフロエに気付いた。
「どうした?」
言うと彼女はむっつりと黙り込み、けれど不意に寄ってきて後ろ手に隠してあったものを俺に被せた。
「ん……?」
帽子だ。
ジークの被っていたのとは少々作りが違い、前に唾があるだけの野球帽にも似た形状。
何だいきなりプレゼントかっ!? と思ったのも束の間、今度はマスクを付けられる。鉱山労働者が使っているのは見るが、それよりも更に雑で、余り布を重ね合わせて耳に引っ掛けられるようにしただけのような品。続けてサングラス。サングラスなんてもうあるのか、分厚いし重いし変な臭いするけど大丈夫なのかコレ。
「んー」
少し離れてじっと何かを考えつつ見てくるフロエに質問というか抗議をしたい。
これじゃあ完全に不審者だ。お金がないをアリエスが聞いて気絶するなら、今の姿を見ればそのまま引き篭もりになっても仕方ない気がするぞ。
「駄目かな……?」
「何が駄目なんだ」
とりあえず三つを外して質問をする。
「ねえアンタって、自分がどれだけ注目されてるか知ってる?」
「ホルノスの英雄だとか言われているな」
ご近所のおばちゃんらとは顔を合わせる度に大歓迎されて食費が浮くこともある。
朝出かける時はいつも窓から手を振る子どもが居るし、ワシも昔はお前のようだったと語るお爺さんと木陰で一休みすることもあるな。訓練も兼ねて水桶を四つ運んでいたら、それまで二つでのらりくらりやっていた同じ歳くらいの男がこの前は六つ棒にぶら下げて勝ち誇っていたし、お嬢ちゃんからは小さな野花をプレゼントされた。花は今、花瓶に入れて我が家の窓に飾ってある。フィオーラが邪推してくるのは困り者だが。
鉄甲杯では何度も記事に載って、最近じゃあ肖像画が多く出回っているというのも確かに聞くが、案外普通に生活していて極端な騒ぎになったことはない。
精々がワイズやプレインら行き着けのお店のようにサインを求められるとか、その程度だ。
「その英雄様がウチへ頻繁にいらっしゃることが皆々様に知れ渡りつつありまして、今日は収まってるけど、それなりに大変なの」
「敬語が上手くなったな」
「あっそ」
「しかし、集客効果か」
そこまでは考えていなかった。
いや、確かにガレットの店でも客寄せになるとか言われてたか。
ただフロエの口ぶりは単純に儲けが出たけど忙しい、だけではない感じだ。
「何か問題があったのか」
もし俺のせいで子羊亭に障害が生まれたのであれば……そこまで考えた時点でフロエは俺の手にしていた変質者三点セットを取り上げた。
「馬鹿が多いのは元からだから別に気にしてないよ。別種の馬鹿も、本当に危なくなったらウィンダーベル家の名前を出せば引っ込んでいくし」
「父上の悪名も使いようだな」
「ただ、今来てる客の殆どって、他所から来てる人でしょ? これから先もずっと使ってくれる人じゃない。だから蹴りだしたいなんて言わないけど、再開してから真っ先に戻ってきてくれた人たちが、お店を見て離れて行っちゃうのは…………うん、なんて言ったらいいんだろう……」
困る、嫌だ、どちらでも間違いではないだろう。
ただ、確かに今の状態はフロエが店を再開する当初に考えていた、女店主ことミシェルの作った空間からは外れてしまうということだろう。
別に観光客向けに店を作ることは間違いではないし、不安定だった当初に比べると資金力も得て軌道に乗りつつあるのかもしれないが、飲食店にとって客層というのは土台だ。その上に積み上げたいものの決まっているフロエは、俺の名を聞いて寄ってくる者よりも、日々店の前をふらりと訪れて入ってきてくれる者の方を大切にしたいのだろう
つい嬉しくなって笑みが出る。
「今の環境に流されずに自分の方針を定める、とても良いことだと思うぞ」
するとフロエもコクリと頷き、三点セットを胸元へ寄せ、帽子の唾で口元が隠れたまま、まるで告白でもするような表情で言った。
「だから、ウチにこないで欲しいんだよね」
荷物袋が床に落ちた。
というか俺も床に落ちていた。
ギリギリ膝をついて、両手をついて、うつぶせに倒れることは耐えていたものの、全身の骨が溶けてしまったのではないかと思うような力の入らなさだった。噴出した冷や汗をなんとか拭い、椅子へ手を掛けて立ち上がろうとしたが上手く掴めずやたらとガタガタ椅子が揺れた。
「え、えー………………」
すぐ前でフロエがドン引きしていて益々ショックだった。
何とか息を入れなおし、立ち上がる。
そう、立ち上がるのは得意だ。どれだけ傷を受けても、死にそうな目に合っても、ただ立ち上がるだけなら出来る。
けれど両脚を踏ん張って立った俺はあっけなく身体がふらついて椅子へ崩れ落ちた。
そこにあったのは偶然だ。無かったらそのまま倒れていた。
なんだ、と我が事ながら思う。
なぜこんなにも力が入らない。
たかがもう店に来るなと、お前の顔なんてみたくないと、さっさと死んでしまえと、なんかそんなことを言われただけだ。
いや……流石に死ねとかは言われないだろ。
内心につっこみを入れられる程度には回復したが、フロエは完全に得体の知れないものを見る目で俺から距離を取っていた。
近頃色々とあったから、前よりずっと親しくなったと思っていたのに、その反応はあんまりじゃないか……?
「んー…………まあ、ちょっと待ってて」
一応は断りを入れ離れていく。なんだかそのまま姿を消してしまうように思ってしまうのは俺の気のせいか。キノセイか。
「はい」
木のコップが置かれる。
「薬か」
「盛ってやろうか」
どうやら違うらしい。
怒るな、この前のアレはどう考えてもお前が悪い、俺は被害者だ。
挙句に仲間から不審をもたれるようなことを言われたんだ、ちょっとした当てこすりくらい許して欲しい。
「葡萄酒」
「水はないのか」
「そっちは今高いから駄目」
商売人め。
しかしサービスはありがたく貰うことにした。
一気に煽り、酒が首を伝い、胃袋へ落ちた途端に頭を痺れさせるのが分かった。
立場上酒には慣れているつもりだが、流石に今は良く回る。
「はははっ、それにしても驚いたよっ、いきなり出禁もらうなんてな!!」
「……めんどくさい酔い方したなぁ」
「いいや安心しろ、頭は回ってきたからなっ。うんっ、別に疎まれているのではないだろう? 落ち着くまでは表向きに顔を出すなと言いたいんだ。違うか? それであんな変装道具を渡してきたんだ! どおりで唐突だと思ったよっ! ははは、それにしても変質者そのものじゃないかぁ~、もう少しなんとかならなかったのか???」
「飲料用じゃない水なら結構あるんだけどぶっかけていいかな」
「水浴びか! 暑くなってきたし悪くないなっ、ははは!!」
「どうしよ……見張りの人呼びに行った方がいいかな……?」
どうやらウィンダーベル家の人間の事を言っているらしい。
しかし安心しろ、この通りちゃんと頭は回っているから酔ってはいない。そう、俺は今とても好調だ。
「はいはい、もういいからこっち来て……世間に恥を晒す前にちょっと裏まで来なさいっ」
「なんだいきなり甘えてきて。そういえばアリエスも幼い頃は、俺が誰かと話しているのを見るだけでこうして引っ張ってきたものだな」
「アレと私を一緒にしないで」
「可愛いぞぉ? こう、摘むように服を持ちながら、自分の行動が子どもっぽいことを分かっているから控え目に、けれど一生懸命目で訴えるように全身でそっと引っ張ってくるんだ。段々恥ずかしくなってきて顔を赤くするんだが、止められないからちょっとだけ涙ぐんできたりしてなぁ……あぁ、あの姿を見て訴えを無視出来る人間などこの世にはおるまい」
「私は今、アンタの状態が恥ずかしくて涙出そうだから。大人しくついてくる。それと一度本気で水桶に顔沈めて冷静になりなさい……っ」
本当に水桶へ顔を突っ込まされた。
子羊亭の内部には以前男爵の反乱時に入ったことがあったものの、灯りの量が少なくて何故か雰囲気が異なって見えた。
ゲームでは何度も見た背景も、実際その場に立ってみると感覚が違う。
「ほら顔拭いて。アンタみたいな温室育ちが汚れた水なんて含んだら病気になるよ」
押し付けられた手拭いで大人しく顔を拭き、濡れた髪をざっと絞る。
確かに少し臭う。思っているとまた葡萄酒の入ったコップを渡された。
「飲まずに吐き出す」
「あぁ……」
匂いだけで分かった。
さっき飲まされたものよりずっと度数の高い品だ。
流しに葡萄酒をぶちまけ、ようやく一息入れる。
「……変装の手間が省けたな」
髪はぼさぼさ、服も結構濡れた。
暑くなっているとはいえ、夜にこんな姿で歩いている者などそうそう居ない。
「そんなにもう来るなって言われたの嫌だった……?」
今一度深呼吸した。
なんだろう、前に正面切って色々話したのもあってか、言葉がすんなり出る。
「俺がお前を気にしているのは知ってるだろう」
「それは……まあ、うん」
「……ただ、本当に消えた方がいいならそうする。今後何かあった場合に備えて、ウィンダーベル家とは別口で人をやることはあるかもしれんが、最低限に抑えよう」
ヘレッドなら上手くやってくれるだろう。
資金や権力なら父上がなんとかするだろうし、落ち着いてくればアリエスだって彼女を放っておかない。
教団の残党についても概ね捕獲か殲滅が完了しつつあるし、ヴィレイや神父は本国へ送還されてそちらの牢獄へ繋がれている。
少なくとも聖女打倒についてカラムトラは協力的で、オスロもどんな心境の変化があったのかこちらとの摩擦は少ないそうだ。
彼女の周辺に揃えられるものは概ね揃っている。
ミシェルについては……どうにもならないが、いずれジークをどうにかして指名手配から解除し、その他多くの日常が戻ってくれば、いずれ自然に幸福を感じられる時が来る筈だ。
国が栄え、平穏が手に入れば、いつまでも過去の怨讐を叫んでもいられない。
一緒に故郷へ引っ込んでくれるなら楽だろうが、フロエが子羊亭を継いで行くというのなら全力で支えるだけだ。
ジークが余計な行動さえ起こさなければ、この時代だ、すぐに存在は風化していく。実行を直接命じたビジットはどうにもならないとしても、あの時アイツと俺と、陛下をも救ってくれたのだから、たとえそれがどれほど罪深いことだとしても、恩には報いたい。
フロエの様子からも、店の中の様子からも、ジークがここへ訪れた感じはない。
何を考えているのかは分からないが、とりあえず本来の目的は達成できた。
ジークの名前を出して動揺させたくもなかったから、怪我の功名と言うべきか。
「いいよ…………来ていい。来るななんて言ってごめん」
顔を上げてフロエを見た。
薄暗い部屋の中、彼女は表情に影を落としてこちらを見ている。
目を凝らして、読み取ろうとした。情報収集などではなく、単純に見てみたいという欲求で……気付けば歩を進めて近寄っていた。
けれどその前にフロエは顔を背け、歩み寄る俺の胸に片手を出して留めた。
「でもやっぱり堂々と来られると大変だし、裏から入って。皆には言っとくから。それで、奥のテーブル使って食べてって。賄い出す時、店の皆でそうしてる。アベル君は知り合いなんでしょ、顔覚えてる人も多いし、大体私居るし」
「まるで間男か浮気相手だな」
「好色家と名高い英雄様なら皆してそんなものかって思うかもね」
「言っておくが俺は未経験だ」
多分な。
「いい加減経験くらい積んでおいた方がいいんじゃない? あぁ私は駄目ね、無いから、世界で一番あり得ないから」
「誘ってきた癖に随分な言い方だな」
「あの時はどうかしてたなぁ、でも本当にその気はないから、残念でした、好機を逃したね」
つい俺は鼻で笑って、
「そちらこそ残念だったな。あの時襲っておけばと後悔するがいい」
「なぁにをお」
下手くそな挑発に乗っかってようやくフロエが顔を見せてくれた。
半眼で、下から睨むようにしてくる。
ただ、言葉を発した唇が少しだけ揺れていて、だから……つい手が伸びた。
あの時のように手のひらが彼女の頭に触れる。
なんだろうな、不思議と落ち着く。
初雪のように真っ白な髪へ指を入れ、梳くようにして撫でる。
しばらくそうしていると、フロエはゆっくりと俯いて、目を閉じた。
だから俺も、もうしばらく彼女の頭を撫で続けることにした。
「フロエ」
「…………んん……」
俯いていたからか、目を閉じていたからか、寝息のような返事だった。
傲慢であれ、押し付けであれ。
何故か今、それが当然の事のように口に出来た。
「幸せになれ。俺は、絶対にお前の幸福を守り抜いてやる」
しばらくされるままになっていたフロエは、俺がそろそろ止めようかと思い始めた頃になって、
「……うん」
と、小さく頷いたのだった。
※ ※ ※
ヨハン=クロスハイト
どかりと椅子へ座り込んで脚を組むと、連中が殺気立つのが分かった。
女が寄ってきて、品目も見ずに言う。
「水。それと血になりそうなもん」
はぁい、と気安く請け負って去っていくのを見送ると、もう我慢出来なくなったのか寄ってきた。
囲まれる。折角なので机に脚を乗せてやった。
「脚を降ろしな、礼儀知らずの猿が」
「猿相手に何人がかりだよ、初戦で姿を消した雑魚集団が」
いきり立つ連中を留める声があった。
すぐ近くの席でそいつは、優雅に茶なんぞを飲みながら、夜空の感想でも垂れるみてえに言ってくる。
「ふふっ……ヨハン=クロスハイト。ハイリアから聞いたのか? 我々に何の用だ」
「ぁあ? 別口だよワイズ=ローエン」
二番隊の隊長は、カップを置いてキザったらしく前髪を払った。
「そうか。ならば言っておくが、ここは君が寛ぐには不向きな場所だよ。何をしに来たんだい?」
簡単だ。
「力を寄越せ。俺がハイリアを倒す為にな」




