122
扉の前で大きく深呼吸する。
何度も何度も、早めに入ろうと思いながらも躊躇してしまう。
フロエに盛られた媚薬とやらだが、基本的に直接性的興奮を促す薬というのは存在しない。薬物は専門じゃなかったが、ああいうのは幾つかのホルモンを過剰分泌させることで通常より大きな反応を呼び起こすか、興奮していると誤認させるものだ。強力なものであるほど分泌量が増え、他の脳機能を圧迫して障害を引き起こす。通常時の数十倍も出ていれば、ささやかな刺激ですら大きなモノとして脳が認識する。薬に慣れるほど脳がホルモン分泌の機能を発達させ、あるいは本来抑制する機能が衰弱し、また条件付けなどにより一層過剰な反応へと至る、とかなんとか。
そう、つまり刺激さえなければ大丈夫なのだ。たぶん。
心を落ち着け、明鏡止水へ至れば半月分の媚薬を盛られても大丈夫。
なんか物凄く情けないけどな。
「はぁ………………」
部屋に灯りは点いている。
俺の家へ出入りする人間は少ない。伝言役のヘレッドは上がり込んだりしないし、下で暮らす老夫婦も同じく、たまにジンやらヨハンやらが暇つぶしと称して現れるくらいで、こんな時間となればやっぱり一人だ。
メルト。
彼女と会うのにこれほど緊張したことが今まであっただろうか。
俺だって男だ。肉体的にも精神的にも枯れているつもりはない。だからこれまで一切意識しなかったかというと、絶対にない。むしろ初対面からああだったから、しばらくはどうしても視線が向いてしまった。そして初対面で感じたように、彼女はとても綺麗で、肉体的には十分女性を感じるものだった。
いつからだっただろうか、ごく普通に接して、そこに居ると、自分の腕が繋がっているのと同じくらい、確信すら必要のない感覚に達したのは。
心根の真摯さや頑張りに力を貰って、別人になっているという感覚と戻れないかつての自分を思って酷く動揺し続けていた俺は、ようやく自分の脚で立てるようなった。
フロエを救いたいという想いに嘘はない。
出会って、言葉を交わしてより強固になっていったとも思う。
けれど今思うと当時メルトへ発した言葉は児戯にも等しいもので、例えば納得のいく物語を求めて二次創作をしようとか、行動にすら移っていないささやかな原動力でしかなかっただろう。
のうのうと自分の身を嘆いて閉じ篭ろうとしている俺の言葉を信じて、死に物狂いでメイドとしての教育を受けている彼女を見れば、もう一時の感情だなんて考えることも出来なかった。
ホント……メイド長の鬼っぷりと言えばもう少し優しくなんていう俺の言葉にすら噛み付いてくる勢いだったからな……。
うむ、落ち着いた。
大丈夫だ。
こんなにも大切な人へ、下劣な煩悩ばかり考えてしまうことはない。
などとフロエが居たら絶対変な突っ込みを貰いそうなことを考えつつ扉を開けた俺は、
「戻ったぞ、メル――……ト……」
「っ――!?」
何故か下着姿で椅子に座っていたメルトを見て固まってしまった。
いつものように髪を結い上げているから、首から肩への線や、豊か過ぎる胸元が、こちらを見上げて晒した喉元や、瞬く間に朱に染まっていく顔やら、ほんといろいろが、体温すら感じられるほどはっきり見て取れる。
「も、申し訳ありません!?」
手にしていたメイド服ごと身を抱いて縮こまるメルトにようやく何をしていたのか把握する。
慌てて抱き込んだせいで隠れていた腰元やら、ちらりと見える白いヤツとか、綺麗な脚が見えたのにまた動揺したが、どうにも繕い物をしていたらしい。
見ればすぐ近くの机に針や糸なんかの裁縫セットが置いてある。
しかし何故……?
「あ、あのぉ……」
「……ん、うん、どうした」
拙いくらい動揺していたと思う。
普段であればもう少し落ち着いて対処し、事なきを得たのだろう。
だが今の俺は極めつけにやましい想いで一杯一杯。
だから、下がって扉を閉める選択肢より、目を背けて顔の熱を冷ますことを選択してしまった。
メルトは少し考えて、つまり教育の賜物であるメイドとしての対応として、主や賓客の前で繕い物を続けたり衣服を身に着ける等の私用を避け、自分が出て行こうとした。針山を適当にひっつかみ、メイド服を抱えたまま、扉前で顔を背ける俺の脇を抜けようとする。
だが常識的に考えて下着姿の女性を部屋から出すなんて出来る筈もない。
自分が出る、という選択肢を完全に忘れたまま、とにかく俺は彼女を引き止めることにした。
「いや行かなくていい。止めろ、門前とはいえよくない」
幸いにも、そして不幸にも両手が塞がっているメルトは抵抗も出来ず、俺の出した腕に阻まれて立ち往生してしまう。
つまりこれまでよりずっと至近に彼女が居て、目を逸らしつつも彷徨った視線が肌を見る。
出口を塞がれてしまったメルトもまた混乱したのだろう、どうしたらとあれこれ視線を巡らせ、状態が落ち着く前にとりあえずの言い訳を始めた。
「さ、ささくれで、服を引っ掛けてしまいましてっ、戻れば取り替えるだけなのですがハイリア様の前でそのままではいけませんし、帰り道で裂けた服を着ていてはウィンダーベル家の名に泥を塗ることになってしまいますので応急処置を……足音でいらっしゃるのが分かるつもりだったのですが……!」
「最近は……教わった静歩を練習してるからなっ」
完全に意識してしまっていたやましさからつい足音消してたのもあるけどなっ!
「そうでしたかっ、意識していたのにまるで気付けませんでしたっ、えと……す、すばらしいですね……!」
いかんなんかメルトまで言葉が怪しくなってきた。
そこでようやく思い至る。
「俺が外に出ているから、終わったら教えてくれ。うん」
「いけませんっ」
がしり、と踵を返した所で腕を掴まれる。
近い近いっ!?
「ハイリア様を外で待たせるなど出来ませんっ、どうか中でお待ち下さいっ。灯りの一つもいただけましたらすぐ終わりますのでっ」
胸が当たる!!
そうだったな、なんて思うまでもなく、メルトはアリエスに次いで胸元が豊かなんだ。
しがみ付いてきている訳じゃないけどこう、時折掠る感触にどうしても意識が向いてしまう。落ち着きつつあったのにまた顔が熱くなる。
とりあえずメルトは俺が外に出ることは赦さないだろう。俺も下着姿のメルトを外へ出すくらいなら自分が出る。意識しないことを意識してしまっている今、仮に命令だと言い張っても彼女が言うことを聞くかどうか怪しい。共に出るなんていう馬鹿が無いのなら、残るは一つしかない。
「事情は分かった」
まずは説明に対する返答を置いて、
「なら俺は奥の部屋で休んでいるから、お前はそこの机で繕い物を済ませるんだ。いいな? 落ち着いて考えるんだ。使用人を下着姿で放り出すなんてそれこそウィンダーベル家の恥だ。だからお前も外には出るな。俺も中に居る。いいな?」
「は、はいっ……!」
なんか妙に力の入った返事を貰ったが、これで大丈夫。
大丈夫、だよな?
※ ※ ※
当然大丈夫じゃなかった。
羽毛のたっぷり詰まった布団を被り、部屋の奥側を向いて横になる俺の背後で下着姿のメルトが居る。
彼女の肌とか、いろんな感触はもうしっかりこちらを刺激していて、なんとか落ち着けていた心はすっかり悶々としてしまっていた。
繕い物自体はもう終わりに差し掛かっていたらしく、程なくして服を着込み始めた。
「はぁぁぁぁぁぁ……っ!」
布団の中で、決してメルトには聞かれないよう大きなため息をついて、顔に手をやる。
羽毛布団で良かった。引越しついでにウィルホードから貰ったものだが非常に良かった。あったかいし、なにより分厚い。これが薄い布一枚だったら不自然に身を捻るとか片足を抱え込むとかでしか隠しきれなかっただろう。普段そんなことはしないから絶対不審がられる。
衣擦れの音もいろいろと掻き立ててくるが、羽毛布団だから大丈夫だ。俺はもうここから出ない。そうか、メイド服の下って下着だけだったんだな、とか、ガーターベルトなんですね、とかゲスな事を考えてしまう自分は戒めるけど。
繕い物をしていたことへ言い加えるのも避けた。メルトは下手なことを言えば予想の十倍は気にして対処してしまう。あれは教育の成果というより性分なんだろう。俺が気にしているのも分かっているから極端なことは避けているが、頑固な所もあるから裏で何をしているか。
「終わりました」
言われてもすぐ向き直る気にはなれなかった。
邪なことを考え、身体に出てしまっている気まずさが強い。
「あぁ」
ちょっと間があって、メルトが頭を下げてきた。
「改めて、お詫び申し上げます。お見苦しいものをお見せしてしまっただけでなく、ハイリア様に大変な気苦労を負わせてしまいました」
出てきた声が普段よりずっと重かったからか、咄嗟に出た言葉はやはり不適切で、
「悪いものじゃない…………違う、いや……とにかく見苦しいなんて、思って、いない。綺麗だ」
遅れてその言葉が彼女の肌だとかではなく、服を引っ掛けて破いてしまったことへのものだと気付く。
「は、はい……」
余計なことを言うから落ち着いていたらしいメルトの声に緊張が混じる。
いい加減薬のせいではなく、自分の馬鹿な煩悩のせいに思えてきた。
やっぱり、意識しているんだよな、メルトのことを。
綺麗だと思ったのも本当だ。
息をついて、ずっと背中を見せているのも悪いと思って身体を起こす。
位置を変えて壁に背を預けるようにして、額へ手をやる。手の平が目元や口元を隠すようになって、隙間から漏れ入るメルトの姿を捉えた。
ついさっきフロエとあんなことがあった後だというのに、節操無しにも程がある。
落ち着け、自制し自省しろ。
最近のくり子やセレーネへの甘さも不安感を紛らわすものだったのだろう。
自己分析し、情報として切り分けると冷静にもなれる。そして思う。あんな不誠実が許されるものか。フロエへ偉そうに言った舌の根も乾かない内からコレじゃあただの種馬だ。
身体的にどうにもならない部分は一時置くとして、覆っていた手を降ろし、メルトを見た。
「すまない。少し平静を乱しているが大丈夫だ。服が破けたと言うが、怪我は無かったのか」
まずするべきだった心配を思い出す。
「はい」
「らしくない失敗だ。体調は……よくはないか」
死者に睡眠は取れない。明け方に息を吹き返し、しばらくは眠っているようだが、きっと睡眠時間は俺よりも短い。
こういう思考を察するから、メルトは幾分元気良く、小春のような声で言う。
「大丈夫です」
だから俺も、伝えるべき言葉を告げる。
「ありがとう」
「身に余るお言葉です」
ただ、お互い明言を避けたことに意識が向かう。
ウィンダーベル家の屋敷へ戻って、服を交換して、それで終わりはしない。
嫡男に専属で付く奴隷という扱いではなくなっても、未だ俺の元へ派遣され続ける彼女には淑女としての完璧さが求められる。仕事中に服を破ってしまう、などという失態には厳しい叱責と罰が与えられることだろう。
隠せばいい。誤魔化してしまえと思う。
よほど綺麗に縫い合わせたのか、ほつれや縫い跡は見当たらず、もしかしたら誰も気付かないかもしれないのだ。
だが彼女は言うだろう。体罰を忌避しない今の時代、奴隷という身分無くとも鞭打ちくらいは行われる。
かつて見た傷だらけの背中を思い出す。
肌そのものから血の滲み出していた、あの許し難い理不尽の痕跡。
身の回りで当然のように行われていたことを気付けなかった不覚と、自分の認識の甘さに腹が立った。
ウィンダーベル家として品の無いことは避けていただろう。だが階級差別を肯定する立ち位置にあったことや、父オラントを思えば不満の解消にと表に出なければ黙認していた可能性も高い。
「そういえばだが……」
佇むメルトを見た。
「背中の傷は、もう、いいのか」
「はい」
やわらかい声だった。
「そうか。良かった」
さっきそこまでは見えなかったからな。
あの傷が癒えたのなら、それは本当に良かった。
「あの時頂いた優しさは、今日まで忘れたことなどありません。本当に、心から安堵出来たんです。何もかもが怖ろしくて、色を失って見えていた日々に、あんなにもあたたかな優しさがあるだなんて思ってもいませんでした。御情けはいただけませんでしたが」
と、しんみりし過ぎることを避けようとしたのか、らしくない余計なことを付け加えて笑う。
「さすがに今はアリエス様もいらっしゃらないと思いますよ?」
勘弁してくれ。
メルトは冗談のつもりだろうが、こっちは意味深なことを言われると意識してしまう。
折角落ち着いてきたのに、また少し顔が熱くなってきた。くそ……こんなことなら途中どこかで処してくるべきだったか。いやでも流石にな……。
じっと見詰めてくるメルトをどうしたものか。
「ハイリア様……」
ギ――板張りの床が軋んだ。
寝台の上で座る俺の脇でメルトは膝をつき、なにを考えているのかまたじっと見てくる。
感情の読み取れない黒い瞳がやがてゆっくりと細められ、口元が弓を引く。ゾクリとした。
完全に参ってしまった俺を見て、ようやくメルトは目を伏せた。
「申し訳ありません。肌を見られた仕返しです」
愉しげに笑い、小首を傾げる。
あぁ……。
あー……! 分かってたけどな!
メルトは元々ウィンダーベル家のメイドとして完璧な振る舞いを自ら求めながら、俺がそうではない気安さとか素の彼女と話したがるのを知って、時折びっくりするくらい大胆に関係を乗り越えてくる。開き直り、とは違うか、礼を尊びつつも俺と同じ視点に自然と立っているのかもしれない。生真面目だし、役割に頑固だから分かりにくいけど、一度攻め始めるとぐいぐい来る。悪戯大好きサディストだ。絶対そうだと俺は思っている。
実際奴隷なんてものにならなければもっと奔放で無邪気だったんじゃないだろうか。
そういう姿も見てみたい、と、まあ今はおっかないけど、と付け加えよう。
してやられた俺は、未だ動悸が激しいのを誤魔化すよう不機嫌な声で負け惜しみを言う。
「その内本気で押し倒すぞ」
「はい。あの日に覚悟は出来ております」
もうやだこのメイドさん!!
俺が布団を被ってそっぽを向いたのを見て、愉しそうに笑う声がする。
ただ、やっぱりメルトはメルトなので、コホンと可愛らしく咳払いをして、
「お食事はどうなさいますか?」
「…………いや、今日はいい。すまない」
「分かりました」
多分、明日食べられるようにしておいてくれているだろう。
出来立て以外は処分するなんて事を俺が嫌うのはメルトも分かっているし、今日は帰りが遅かったからな。
もう隠しもせずため息をついて、仰向けになったまま布団を半分剥がす。
「あまり眠れていないのなら、横なるといい」
「…………お誘いですか?」
「怒るぞ」
「はい」
怒るぞと言っただろうに。
メルトは萎縮するでもなく、けれど少し考えた。
「こちらで、よろしいのでしょうか」
「……まあ俺も疲れているしな。特別やるべきことがないのなら、別にその時が来てからなんて拘る必要もない。近くに居るから……安心して眠れ」
別の事情もあるのだが、素直に言う訳にも行かない。
男はあからさまに出るから不利だ。
今まで寝台を避けていたのも、やっぱり二人並んで横になるというのはそういう関係を連想してしまうからで、本当は固い床の上が良くないとは思っていた。
メルトが失敗するほどに疲労しているのなら、変に拘るのはやめた方がいい。
ただ、緊急時ならともかく今は意識してしまうのも確かで、さっきは遊んでいたメルトも急にそわそわし始めた。
「いいからこい」
「……はい」
普通に応じただけの筈だ。
だが、今の俺には彼女の声が妙に色っぽく聞こえた。
「あの……」
「往生際が悪いな」
こっちも辛いんだ。
「実は、今回のようなことがなくとも、最近はよく叱責を受けておりまして」
初耳だ。
「そんなに調子を崩していたのなら尚更だ」
「いえ、服が皺になっていると。整えてはいたのですが、不十分とのことで……体罰の類はなかったのですが、やはり不適切だと私も思います。ですが、あぁ……いえなんでもありません」
服を脱いでていいですかと言われたら本気でどうにかなっていたかもしれない。
というか、俺が待ち受ける必要もないな。いや、安堵をと思うのなら、彼女が望んでいたようにするのがいいのか。
「失礼します」
悩んでいる間にメルトが寄ってきた。
遠慮がちに寝台へ膝を乗せ、空いたスペースへ手をつき、少し悩んで手を伸ばし、俺の上に掛かる羽毛布団をつまむ。
そこから更に悩んで、だから俺が手を取り、引き寄せた。
「わっ、ぁ……」
顔から胸元へ突っ込んできて、メルトが珍しくみっともない声をあげた。
厚みのある羽毛布団で口元を隠したまま、俺を見上げてくる。照れはお互い様だ。もう何度もこうしているのに、ちょっと照れてしまうのはどうしようもない。
「ほら、半端に乗り出してきてると休まるものも休まらない。それとも抱えあげて欲しいのか?」
さっきの礼だと言ってやると、隠れた口元がすぼめられたのが分かる。
「髪……」
「はい」
「解いた方がラクか?」
「起きた時に乱れていると困ります。長いので寝返りを打った時などに身体で潰したまま引っ張ってしまったり、擦れたりというのも痛む原因になりますので」
「なるほど、長い髪は女性らしさの象徴とも言われるが、中々に維持するのが大変なんだな」
仕方ないのでお団子より上の部分をポンとやり、ゆっくり撫でる。
メルトが顔を伏せた。
「あ、あの……そこまでしていただかなくとも」
「そうなのか? いつもしていたんだが」
「そう、です、か……」
「あぁ。安心出来るならそれが一番だ。ラクな姿勢でいろ。もっと寄りかかれ、俺もその方が安心する」
こうなってからやっと気付いたが、この寝台はそこまで大きくない。
大きくないのだ。
だから…………んん?
「……はい」
返事と一緒に強く顔を押し当てられて、胸の奥が熱くなる。
もぞもぞと、躊躇いがちに身が寄せられ、
「ぁ……」
思ったときには遅かった。
メルトの腿が触れた。
どこになんて言うまでもない。
ゆっくりとだが動き続けていたメルトが完全に固まり、俺も何一つ言えないまま時間が過ぎる。
誤魔化し様も無い。完全に、今尚触れたままのそこで動きを止めたまま、メルトは離れてもいかず、何の反応も示さない。
顔が見えていないのが救いなのか絶望なのか。
気まずいどころの話ではなかった。なんか偉そうに優しげなこと言いながら反応していたとか最低だ。
どうする……?
いや、
ええと、
「んんっ、メルト――」
咳払いをし、ようやく言い訳を口にしようとした時だ。
メルトはまた動き出し、身を寄せて、力を抜いた。
羽毛布団ごしに彼女の身を感じる。柔らかな女性の感触。
何も言わない。完全に触れているが、もしかして気付いていないのか。
例えば俺が衣納に何かを入れっぱなしにしていたとか、その程度に考えて…………流石にないか。
メルトは俺にしがみ付き、顔を伏せたまま静かに呼吸している。
駄目だ、違う、絶対に分かってる。耳が真っ赤になっていた。
誤魔化し切ろうとしている。気付かなかったフリをしている。
さっきあれだけおちょくって来た癖にコイツ……!
乗るべきだろうか。
このまま俺も気付かれなかったフリをして、出来るだけ落ち着くよう努めていけばいいか……?
なんだかそれは酷い裏切りに思えて気が引けた。
刺激が無ければ反応もない。
実際に家までの道はなんとも無かったんだ。
ただこれは薬の効果だとかは関係なく、
彼女の頭に手をやっているから、顔を隠して誤魔化すことは出来なかった。
節操無しの猿め。
自分を罵倒して、それから息を抜く。
「すまん……情けない限りだが、気にしないで……いや、我慢して、く……違うな。不快だろう、離れていい。俺は寝台の脇に居るから、それで」
「不快では、ありま、せん」
ぐっと両手を握り、上体を浮かせたメルトと目が合う。
逸らし、けれど戻ってきた瞳は揺れていて、何かを言おうとしては唇が震えて、結局そのまままた身を寄せた。
「不快ではありません」
力が抜けていく。
支えるのに片手が伸びて、腰元へ触れる。
するとメルトが伏せた顔を更に俯かせた。
「私たちフーリア人は、こちらの方々のように、みだりに肌を見せることや、触れることを避けます。ですから、不快を感じるような方にこのようなことはしません。元々私の方からしがみ付いて、求めたことです。ただ、ハイリア様にいらぬ辛抱を強いていたのであれば、もう……甘え続けるべきではないのかと、考えていました。そして…………そして、離れることが出来ず、誤魔化そうとしました。無かったことにして、強いたまま、嘘をつこうと……しました」
手が震えていた。
吸った息がこぼれるようだった。喉の奥から固い声がする。
「お願いがあります」
「……なんだ」
何をすればいい?
お前の不安を和らげる為なら俺はどんなことでもやろう。
メルトは、生と死を背負った少女は、迫り来る足音に怯え、震えながら、
「どうか私に、死ねと……お命じ下さい」
俺に、進めと突きつけてきたのだった。
※ ※ ※
訓練場に剣戟が響く。
大気を打ちつける勢いで駆けていくのはセレーネだ。
長くは無い髪を後ろで纏め、短いおさげを束ねるリボンは先端を内側へ篭めて隠していた。じゃらじゃらと身に付けていたアクセサリーも今は椅子の上。服も腰の部分を括って少しお腹を見せている以外は動き易いものしか身に付けていない。
対するフィリップはひょろりとしながらもやはり鍛えてあるようで、晒した腕は十分に筋肉質で逞しい。
彼は深く握った突撃槍で自分の前面を隠しつつ、後ろ手に回した右手を石突きに構えていた。
『槍』の利点を生かした広い間合いではなく、接近戦で迎えうつ構えだ。
セレーネの武器はトゥーハンデットソードだ。
元々アンナやオフィーリアと仲が良く、三人であれこれと武器を持ち替えてきた。
全長は身の丈ほどもあり、剣身は握りこぶしほどの幅で更に分厚い。
もし同じものを鉄で作れば彼女は持ち上げることも敵わないだろう。
敵を叩き潰す筈の武器には、切断の加護によって使い手次第で大木を軽々切り裂く切れ味があるという。
彼女はいつもそれを全身で振り回す。
決して力任せではなく、走る勢いや身の捻りなんかで重心を操り、器用に剣を振る。
『剣』としての身の軽さもあっただろう。時にアクロバティックな動きも織り交ぜ、不意を打とうと工夫した手を考えてくる。
だから成長し切らない。
真っ向から相手と切り結ぶことを放棄し、純粋な腕での勝利を端から無いモノとして考えてしまう。
独自の感性で繰り出す攻撃は、時に見事と思えるキレを見せるのに、一度彼女のそういう部分を分かってしまえばただ落ち着いて受け、返していけば勝利の方から転がり込んでくる。
奇襲は奇襲でなければ意味が無い。
いかに空振りを取り易い変化球があっても、それしか投げないのであれば誰も討ち取れない。
直球か、せめてそれに類する基本的な組み立てを可能とするモノが必要だ。
セレーネが間合いの寸前で止まり、引き摺るように下段へ構えていた剣を前へ、突き入れる構えを取る。
しっかり刃を倒し、平突きが出来ていた。
フィリップの突撃槍に比べれば短いものの、トゥーハンデットソードは間合いが広い。
突きは決して愚策ではない。
対し、フィリップはひょろりとした身を丸め、円錐状の武器特有の鍔元に上半身をすっぽり隠してしまう。
足元、速度を殺したセレーネの足が戸惑いの間を誤魔化すステップを入れ、途端にフィリップが身を前へ投げ出して突き入れる構えのままのトゥーハンデットソードを打ち上げた。かろうじて、剣は手放さなかった。だが打撃の加護によって激しい慣性を受ける彼女は無防備な身体を晒してしまい、腰が浮き上がっている。
これまでならすぐに自らも飛び上がっただろう。
即座の勝利を狙ってくる相手には効果的だ。しかしフィリップは腰を据え、確実な一打を見極めるべく槍を盾に見立てた構えで様子を伺っていた。
飛び上がれば着地を狙われる。後退としての跳躍ならともかく、真上に打ち上げられた剣に引っ張られて飛び上がるのであれば槍の鈍足でも十分間合いに納まるだろう。
武器を手放し魔術を一時的に解くことを前提として引くことも出来た。
しかしフィリップの腕に固定される小型の石弓がそれを許さない。再び加護を受ける前に彼の放った矢が命中する。訓練用として先は潰してあるものの、当たり所が悪ければ相当な痛みになるだろう。
セレーネはまず、柄尻をしっかり握り直した。
続けて左手を背の側へ添えて、同時に右足を引く。
相手に晒す正面からの面積はそれで大きく減少した。
そうだ。慌てなくて良い。
互いの武器の特性から、まだ間合いには余裕がある。
武器を打ち上げるべく矛先を上げたことでフィリップは刺し貫くのにまず下げる必要がある。鍔元から石突きまで広く構えた持ち方だから、突き入れの間合いは存外に広いだろう。一方で、フィリップからすればセレーネが珍妙な動きを取るイメージがついている。大降りすれば強引な動きで回避されてしまう。しかしもう彼女は安易な行動ばかりではない。
選択肢が増えるから判断の間が出来る。
セレーネはしっかり見ている。フィリップが攻撃と決め、突き入れてくる瞬間を見極め、今の動きをどれだけ続けていけるかを見て、あるいは中止して逃げるべきかを判断しようとしている。
『剣』の術者であれば加護によって動体視力も向上している筈だ。
目は確実に、フィリップを上回っている。
フィリップは攻撃を中止した。
下がり、確実な次を選んだのだ。
即座にセレーネが動く。
剣を振り下ろし、再び突きの構え。応じるフィリップも同じ、槍の鍔元に身を隠して待ち構えた。
風が沈み込む。
セレーネが腕を振った。
フィリップが石弓を補助武器として備えているのと同じように、セレーネは金属フックのついた革紐を左腕につけている。
低い構えから地面を這わせるよう薙いだソレにフィリップは片足を逃がすことには成功したが、重心を動かし、抜く動きの最中では無理もそこまで、片足が絡め取られてしまった。
「っ――!!」
踏み込む。
浮いた足の側へ飛び込んだセレーネが剣を突き出し、
「そこまで!!」
俺の声を聞いて両者が硬直した。
訓練中、全員に残心を義務付けているから、終わりと言われて即時脱力することはない。
セレーネも、フィリップも、じっと互いを見据えたままゆっくり身体の中の息を入れ替え、力を抜いていく。
「はぁ…………勝てるかと思ったのになぁ……」
それでも一番に気が抜けてしまうのはやっぱりセレーネで、彼女は訓練場に座り込んで炎を散らせた。
「危ない所は幾つかあった。特に最後のは、踏み込まず離れるべきだったな」
フィリップは真面目に頷きながら槍を立て、まだ青の魔術光を吹かせつつ彼女を見下ろした。
「……あー、そっか。『剣』は交戦権を握っているから……んー、腕のソレがあるからなんか離れないようにって考え過ぎてました」
「魔術を解いていなければ、君でもこれくらいは避けられる筈だ。死角を利用するか、不意をうつかくらいだな」
しばらくは二人の話し合いに任せて見守った。
随分染み付いてきたと思う。フィリップは元々小隊長の立場から意見を言うのは慣れているが、セレーネは相手から受け取るばかりで自分からはあまり発してこなかった。それがこうして意見を言い合って改善していけるのだから。多分、話し易さもあるのだろう。フィリップもセレーネも良く相手を気に掛ける。優しい言葉選びをしつつも、分かり易くも気安い上下関係があるから積極的な意見交換が可能、なのかもしれない。
この点、俺が出て行くと両方とも意見を重く捉え過ぎて話が終わってしまう。
簡単に今の攻防を纏めてしまえば、守勢を保ち切ったフィリップの勝利、ということだ。
足の差で『剣』は『槍』に対して交戦の有無を強制出来る。
これは絶対的なものだ。
だから『剣』は無理をせず、相手の隙を伺ってかく乱するのがセオリーとなる。
『槍』からすれば追いつけない敵が永遠と纏わりついてくるのだから厄介この上ない。
しかし『剣』から見れば、迂闊な切り込みをすれば打撃の加護によってあっさり武器を飛ばされてしまう。
元より四属性の対角に位置する『剣』と『槍』では状況が拮抗するばかりで決定打には欠けるんだ。
セレーネは勝とうとした。
フィリップは負けまいとした。
どちらも属性に適した構えではあったけど、勝利を追わず自分の構えを全うしたことで、最後の奇襲を重ねた踏み込みにも対処出来た。
革紐に足を取られたとして、敵が向かってくるのであれば紐は緩むのだから。せめて両脚を絡め取れていれば攻撃もアリだっただろう。
しかし二人の表情は明るい。
成長を実感できているのだろう。
日々辛い訓練を重ねる上でこれほどの原動力はない。
セレーネの服装及び装飾品についての是正にはフィリップが大いに貢献してくれたから、訓練中の遠慮も手加減も薄れている。
具体的に言うと髪も服も装飾品も接近戦ではつかみ放題の弱点だから、その手のダーティプレイに慣れていたフィリップに頼んだ。おかげでフィリップはジェシカから物凄く睨まれていたけど、胸にまで手を伸ばしたのは俺の指示じゃないから知らん。まあそういう心理も利用できるということか。
さてもう一方はと振り返る。
ナーシャは常のおっとりした雰囲気を一時仕舞い込み、真剣にジェシカと向き合っていた。
『弓』と『槍』の戦いである以上、ナーシャが有利になるのは仕方が無い。
彼女なりに掴みつつあるのか、真っ向勝負には未だ不慣れな様子もあったが、自身を追い込み、限界の更に一歩先を狙っているように思える。
やはり、問題はジェシカだった。
彼女の遅れは学年の違いに留まらない。
元々戦いには多少慣れがあり、高い意欲から成長も非常に早かった。
俺の助言を真剣に聞いてくれるし、訓練で相手をすれば誰よりも勝利を求めて果敢に攻めてくるから、正直教えていてとても楽しい。
今も『弓』の術者を相手に決して勝利を捨てず、しっかりと防御を重ねて期を伺っていた。
フィリップには遠距離攻撃向けな補助武器を持たせてみたが、ジェシカには敢えて与えていない。
どれも試験的なものだし、ある程度の納得はしてくれても、一番隊の皆ほどには馴染んでいないせいか抵抗もあるようだった。この点、フィリップでさえも使用を差し控える傾向がある。やはり魔術戦は魔術において勝利したい、ということなのだろう。
降り注ぐ矢と時差式で放たれる石弓がジェシカの魔術光を大いに削り取った。
「よし、一時終了だ」
「っ、しかし!!」
「分かっているだろう」
ジェシカは歯を食いしばり、苛立ちを滲ませた表情で大きく腕を払ってソードランスをかき消した。
残ったのは彼女自身を攻め立てる青の風で、吹き荒れた様がそのまま自身の甘えを顕にしていた。
今のは敢えて外された一矢だ。
それが屈辱なのだろう。
訓練であっても限界まで戦い抜こうとする意気は良い。
だが冷静さに欠けてしまってはいけない。
「ナーシャ、順調のようだな」
「――はい。お二方に後れを取るわけには参りませんから」
あがった息をなんとか整え、すらすらと声を出す。
おっとりしているけれど貴族たれという矜持がそうさせるのか、意地の分だけ無理は出るけれど、張った分だけ成長へ繋がる。切り捨てることも出来るが、目指す形が画一的であらなければならないとは俺も思わないし、素直に感心する。大の字になって寝転んでいるフィリップとセレーネに見習って欲しいくらいだ。
しかし相当無理をしたようで、膝が完全に笑っていた。
勝ちはしたが、ジェシカの矢捌きは非常にしっかりしていて、優位に立てる『弓』であっても容易く落とすことは出来ない。
「休んで良い。今は思うまま突き詰めてくれ」
「はい」
言葉を受けてようやく肩の力を抜き、訓練場の隅へと歩いていく。
椅子へ座って休むのは見届けない。彼女なら筋肉を冷やしたりはしないだろう。
「ジェシカ」
本来なら、様と呼ぶべきだろう。しかし小さなものであれ部隊の長として接するのだから、礼は排して接している。
ジェシカからも何かを言われたことはない。
「はい」
声には力がある。
しかしこの場で最も疲労しているのは彼女だろう。
『弓』を相手に耐え続ける勝負は、精神面での苦しさも凄まじく大きい。
その上彼女は勝てない勝負をさせられている、などとは考えていないのだ。
「行き詰っているか」
「はい」
どうすれば、とは問われない。
もう話している。
「もうしばらく待ってくれ。話してあったものの用意が出来れば幾分やり易くなる筈だ」
「はい……」
まあ、一人だけ遅れていて、補助付きというのは納得できないんだろう。
「この後は俺が相手になる。目的は変わるが、同じだけ必要な訓練だ。いいな」
「はいっ!」
本当に、彼女には強くなって欲しい。
そう思わせてくれるんだから、こっちも本気で向き合わないとな。
「ああそれと」
「……?」
「訓練後、皆と一緒に食事へ行こう。高級店とはいかないが、まあ、興味深いとは思うよ」
そんな訳で付き合いの悪い後輩を先輩たちの道草へと誘ったのだった。
行き先はまあ、三本角の子羊亭でいいだろう、うん。




